誘 拐

 

「工藤くんはイギリスに行ったことがありますか?」

「勿論あるさ。なんたって、ホームズが生まれた国だからな。
小学生の頃だったからまた行きたいんだけど、ちょっとした事件に巻き込まれちまったもんで母親がいい顔しないんだ」

「事件?いったいどんな?」

 新聞にも載らないつまんねえ事件さ。

 

 その事件に遭遇したのは、ほんの少し重なった偶然によるものだった。

 もし新一が空港であの子供を見ていなかったら。本を買いに行こうと思わなければ。

 そしてホテルを出るのがもう数分遅ければ、新一は事件を目撃することもなく巻き込まれることもなかっただろう。

 

 最初に新一の目に映ったのは薄汚れた天井だった。

 二日前から母親と泊まっているホテルのスィートルームの天井とは全く違うのに、ぼんやりした頭はそのことをすぐには変だと思わない。

 寝すぎで頭がうまく働かない感覚。

 頭痛も少し。気分もよくない。

 新一はもう一度瞳を閉じて、頭の中で思い出せる一番近い記憶を引っ張りだすことを試みた。

 確か今夜は父親の知り合いのパーティに招待されているからと母親の有希子が昼過ぎからホテル内のエステに行っていて、部屋に一人残された新一は退屈しのぎに近くの書店に足を向けた。

 その途中で新一は、空港で見かけたことのある栗色の髪の男の子が一人で立っているのを見つけたのだ。

 印象的な男の子だったので新一はよく覚えていた。

 年は多分新一より二つか三つ下だろう。

 小柄で栗色の癖毛が可愛らしく、セーラーカラーの白いシャツに青い半ズボンをはいていた。

 明るい緑の瞳が綺麗で、ふっくらした薔薇色の頬に小ぶりの赤い唇が女の子みたいに愛らしかった。

 お人形みたいだな、というのが初めて子供を見た時新一が感じた印象だ。

 新一がじっと見ていると、有希子も気づいて、あら可愛いvと歓声を上げたので慌ててそっぽを向いたのだが。

 子供同士でも、ジロジロ見るのはあんまりいいものではないことを新一もわかっていたからだ。

 実際、新一も大人や子供から見られることが多かった。

 世界的な有名人二人の子供ということで関心をもたれるのだと本人は思っていたが、彼らが向ける最初の視線は新一の綺麗な容姿にあることを当人は全く気づいていない。

 日本ではまだ小学六年生で、月が替わればやっと12歳になる新一ではあるが、同級生に比べてもかなり奥手な彼は自分の容姿についても全く関心がなかった。

 だいたい、大人たちはまず有名な両親のことを口にした後で新一の容姿を褒めるのだから、どうしたって社交辞令だと思ってしまう。

 新一は自分が固い床の上に仰向けに寝ていることにようやく気がついた。

 そして顔を横に向けると、すぐそばに栗色の髪の男の子の顔があった。

 ああ、そうか・・・誘拐されたんだ。

 自分がではない。

 今新一の隣で眠っている男の子が・・だ。

 新一は突然走ってきた車に無理やり乗せられそうになっている男の子を目撃し、声を上げて助けを求めるよりも先に彼らの間に割って入ったのだ。

 実際無謀だったと思う。

 まだ子供の自分が大人の力にかなう筈がなかった。

 結局男の子と一緒に車の中に引きずり込まれ、その後、ツンとする何かを嗅がされて意識を失ってしまったのだ。

 やっぱマズイ展開?

 エステから戻った母親は部屋に自分がいないことに気がつくだろう。

 で、すぐに自分の息子の行動パターンを熟知している彼女は、新一が近くの本屋に行ったのだろうという結論を出す。しばらく待って、でもそろそろ出ないとパーティに間に合わないからと彼女は新一を探しにホテルの外に出る。

 で、本屋に新一の姿がなく、そして東洋人の子供を見かけなかったという店員の話を聞いてから次にどういう行動をとるか。

 決まってる。

 最愛の夫、工藤優作に連絡をとるのだ。

 わたしがちょっと(?)部屋を出ている間にいなくなったとかなんとか言って。

 本屋にもいなかったといいえば、あの工藤優作は考えるだろう。

 何かあったに違いない・・と。

 新一が見つめていると、男の子もようやく薬から覚めたのか瞳をパッチリ開けた。

 すぐそばにある新一の顔に、男の子はビックリしたように瞳を見開いた。

 新一はすかさず、シッと口元に指を当てる。

 二人が寝かされているのは奥の壁際だが、すぐ近くに犯人の気配があったのだ。

 彼らの前には木箱が積まれていて互いの姿は見えなかったが、声だけは耳に入ってきた。

 男たちの声はどこか慌てているというか、困惑しているようだった。

「結局、あのガキは偽者だったというわけかよ!」

「本物の孫が確定したってことはそうなんだろうぜ。ったく、誰だよ、あのガキが本物の相続人だなんて言ったのは!」

「情報が間違ってたってこったろうが!けど、三人のガキの中で、あいつが一番母親に似てたんだぜ!おまえもそう言ってたろうが!」

「チッ!確定してからじゃ誘拐しにくいから今のうちだなんて考えなきゃ良かったぜ。結局骨折り損かよ」

 声は二人だ。

 つまり誘拐犯は二人だということか?

「しかも、どこのガキかはしんねえが余計なのも連れてきちまって」

「騒ぎになる前に始末してズラかろうぜ」

 そうだな、という声に新一は眉をひそめた。

 事態はマズイことになっているようだ。

 今の会話からすると、この誘拐犯は間違った子供を攫ってきてしまったようだ。

 しかも、予想外の自分の存在。

 そりゃマズイだろうが、顔をハッキリ見てない子供だから捨てていけばいいものを、この連中は後腐れなく片づけようと考えているらしい。

 犯人がこちらに来る気配に、新一は男の子に目を閉じているよう小声で言った。

「まだ子供だし、俺たちの顔もハッキリ覚えてないだろうからこのまま放っていけばどうだ?わざわざ殺す必要はないだろう」

 さっきの二人とは違う男の声がそう言った。

 犯人は三人か。

「冗談じゃねえ。もうガキを誘拐したって言っちまってるんだ。ヤバイもんは始末しちまった方がいい」

 誘拐の一人はそう言って、栗色の髪の男の子の腕を掴んで吊り上げた。

 男の子はびっくりして泣き声を上げる。

 新一はすかさず足を出して男の足を払った。

 大人を倒すだけの力はないが、不意打ちだったのと、ポイントが良かったのとで男は見事にひっくり返った。

 新一は男に捕まえられていた男の子が引きずられる前に自分の方へと抱きとめる。

 転倒した犯人の男は、一瞬自分の身に起こったことがわからず茫然となったが、すぐに新一の仕業だと知り激怒した。

「このガキ!」

「よしな。油断したおまえが悪い」

 なんだと!と新一にこかされた男は、殴ろうとした腕を掴んで止めた相手を睨みつけた。

 男の腕を掴んだ男は、黒いシャツに黒いズボン、それに黒いサングラスをかけていた。

 体格はそれほど逞しい感じではないが、捕まれている男より頭一つほど背が高い。

 しかも、格から言えばその男の方がどう見ても上だ。

「わかったよ」

 チッと男は舌打ちすると、黒ずくめの男の手を振り払う。

「こいつらに顔を見られちまったから、やっぱり始末するぜ。反対はしないよな?」

 最初から生かしておくつもりはなかったのだから、その確認に意味は何もない。

 黒ずくめの男は、栗色の髪の男の子を庇うように腕に抱いて自分たちを睨んでいる新一を見た。

「あんたが殺ってくれるだろう?なんたって本業なんだから」

「金は払ってくれるのか?」

「勿論だ。計画はもう一つある。今度こそ間違いなく大金が入る」

 いいだろう、と男は頷き新一の腕を掴んで立たせた。

 新一より幼い男の子は怖がって新一にしがみついている。

「裏手にある崖なら、死体も発見されにくいだろう」

「まかせる」

 新一と男の子は黒ずくめの男にひきずられるようにして建物の外へ出ていった。

 外に出て初めて、新一はここが山の中だと知った。

 イギリスへ来たばかりの新一は当然この場所がどこかはわからない。

 黒ずくめの男は、新一と男の子を崖の上に立たせた。

 外は闇に包まれ星明かりだけで、崖下を見ても真っ黒にしか見えない。

 下から吹いてくる風を感じ、相当高いことはわかるが。

 新一は男の手に握られた銃の銃口が自分たちに向けられるのをじっと見つめた。

 ここで殺されるのか。

 新一は出来るだけ男の子が怖い思いをしないよう自分の胸に顔を向けさせしっかり抱きしめた。

 この子だけでも助けたいなあ、と新一は思う。

 自分より年下だから。

 でも、諦めてあっさり殺されようとは新一は思っていなかった。

 今ここにいるのはあの男一人。

 なんとか銃弾を交わして逃げられないものか。

「おまえはどこの人間だ?」

 英語でそう問われた新一は眉をひそめる。

 なんでそんなことを聞くのかわからなかった。

 日本から、と新一が英語で答えると男はほお?という顔をした。

 すると、驚いたことに男は日本語で新一に話しかけた。

「日本人に会うのは何十年振りかな。そうか、おまえは日本人か」

 男はふふっと笑う。

 銃口はまだ新一たちに向けられたままだ。

「その子供にかかわらなければ、おまえはこんな目にはあわなかった筈だな。後悔してるか?」

「してない。何十回同じ場面に合っても、オレはこうしてる」

 新一がそう答えると、男はさらに面白そうに笑った。

「ガキにしてはいい度胸だ。じゃあ、覚悟しな」

「・・・・・・・・」

 男は自分の顔をまっすぐに見ている新一の瞳に、目を細く眇めた。

 

 

「おい!今のニュース聞いたか!」

 建物の中に残っていた誘拐犯の一人が、ラジオから流れてきたニュースに驚いた顔になった。

 彼らが誘拐した子供のことを伝えるニュースであったが、それがまきぞえで攫われたらしい子供のことを伝えるに至って男は驚愕の声を上げた。

「あの東洋人のガキが、工藤優作の一人息子だったってえ!」

「なんだよ、工藤優作ってのは?」

「知らねえのか!?世界的に有名なベストセラー作家だ!そいつが出すミステリィ小説は世界規模で売れていて、その印税は計り知れねえ!アラブの大富豪までそいつのファンで、その交友関係はもの凄いって話だ!」

「なんだと!それじゃ・・・」

「工藤優作の息子となれば、その身代金は今回の計画以上のもんがとれるってことだよ!」

「お・・おい」

「すぐに奴を止めろ!」

 今死なせては元も子もない。

 誘拐犯たちは慌てて外に飛び出した。

 だが彼らが裏の崖へと向かう前に一発の鈍い銃声があたりに響き渡った。

 男たちが駆け寄ると、そこには黒ずくめの男だけが立っていた。

 表情をゆがめた男たちが姿を見せたので、男は不思議そうに顔を振り向かせた。

「どうした?」

「殺・・っちまったのか」

 くそお〜〜!!

 誘拐犯たちの悔しげな声が大きく闇の中に響いた。

 

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