郷土の文化や歴史を見直そう!
「寄稿の目次」へ戻る!

加太の歴史について
(奈良・平安時代の加太郷)

                           2004(平成16)年10月10日
                                  淡  路    宏

 「続日本記」(797年)正月十月条には、「始めて紀伊国に賀陀の馬屋を置く」と ある。
  駅制・伝馬は奈良時代・律令制の交通制度で、諸道三十里(16q)毎に馬屋を 置き、
  駅馬を備え、駅鈴を持った急用の官吏の往来に供した。

  駅には駅戸(えきこ)が付属し、駅戸が駅馬の飼育や、その財源となる駅田の耕作に
  当たった。中央政府と地方諸国連絡を密にし、中央集権制を推進した。

  加太は、賀太・可太・賀多・蚊田・賀陀とも書く。

  平城京(奈良の都、710〜784年)から出土した木簡の中に、「神亀五年(72 8年)九月、
  海部郡可太郷黒田里・戸主神奴与止麿(かみやっこよしまろ)が塩三斗を 調する」と見え、
   また、「紀伊国海部郡可太郷・戸主・海部??の御調・塩二斗」と見 える。
                    (県史・古代資料一)(和歌山市史四)


 紀伊国海部郡加太郷から塩が平城京へ上納されていたことを示している。
   租・庸・調 (そ・よう・ちょう)は律令制の基本的物納課税で、祖に田地に課され、
   一反につき稲 二束二把(のち一束五把)で収穫の約三%に当たる。


   租・庸・調 (そ・よう・ちょう)は、課口(かこう):(律令制で課役を負担する者で、
   男子の内の中男・正丁(せいてい)・老丁の者)に課せられ、庸は正丁(青年男 子)
   一人年十日の力役(りきえき):(歳役:さいえき)の代わりに収める麻布二丈六尺、
   調は地方の産物を納めるものをいう。


   稲に換算すると正丁一人の庸は、約十束、調は約十五束に相当した。
   京・畿内(大和・山城・摂津・河内・和泉の五国)は庸を全免、調は半額であった。
   祖は多くの国郡の正倉(せいそう)に納められて地方各国の財源となり、
   調・庸は都へ送り届けて中央の 経費に当てられた。


   平安中期の史書「日本記略」・延喜十五年(796年)二月二十五日条によると

   「勅する、南海道の駅路は廻遠にして使いを難通させる。
    そこで、旧路を廃止し新道を通す」

   とある。(和歌山市史四)


   奈良時代の南海道は、大和国宇智郡から紀伊国に入り、紀ノ川に沿って
   伊都郡真土峠 (現・橋本市)を通り、伊都郡萩原・背山(現・かつらぎ町)を経て、
   名草郡紀ノ川北 岸を通り、海部郡賀陀駅から海を渡って淡路国へ向かうもので
   あったが、平安京へ遷都 (794年)後に、和泉国から雄山(おのやま)峠を越えて
   紀伊国に入る新南海道となった。
     やがて、この新南海道は熊野三所権現への参詣道(小栗街道)となる。

   そして「日本後記」(811年)八月十五日条には、

   「紀伊国の荻原・名草・賀太三駅を廃止する。 不要となったためである」
   とあり、「日本後記」弘仁三年(812年)四月二十日条では、
   「紀伊国名草駅を廃止し、新たに萩原駅(現・岩出町山)を置く」

   としている。            (和歌山市史四)



 類聚国史(るいしゅうこくし)」(892年、菅原道真の著)巻165の天長三年(826年)
  十二月二十七日条には、
   「海部郡賀多村伴嶋」
  とある。伴嶋は「友ヶ島」をさしている。 (和歌山市史四)



 天暦四年(950年)十一月二十日付け東大寺封戸(とうだいじふこ)及び
   寺用雑物(ぞうもつ)目録によると、

「塩山二百町、日本紀伊国海部郡賀田村」

(東大寺文書・大日本古文書十八ノ二) (大日本地名大1辞典)とある。
賀田(加太)村に東大寺が使用する塩山(塩木山)が二百町あったことを示している。
       (和歌山市史四)



 長徳四年(998年)と推定される東大寺領諸国庄家田地目録案によると、

「塩山二百町、紀伊国海部郡賀田村在る」

(東大寺・東南院文書)(平安遺文三七七号)(和歌山市史四)と見え、
東大寺東南院が賀田村の塩山二百町を支配していた。(和歌山市史四)




☆☆☆ 鎌倉時代の加太庄 ☆☆☆

 承久(じょうきゅう)三年(1221年)六月に「承久の乱」が起こる。
鎌倉幕府の成立によって打撃を受けた公家(こうけ)勢力は、勢力の回復を企て、
後鳥羽上皇を中心に討幕の兵を起こしたが、北条泰時・時房の西上軍に大敗した。
 
 幕府は仲恭(ちゅうぎょう)天皇を廃して後堀河天皇を立て、後鳥羽・土御門・順徳の
三上皇を流罪都市、上皇方の後卿(こうけい)・武士の所領を没収し、沼地に
新補地頭(しんぽじとう)を置き、京都監視のため六波羅探題を設けた。
結果として幕府権力の確立となった。


○承久四年(1222年)の茂木知基所領譲状写によると

「譲り渡す所領などのこと。合わせて五ヶ所。・・・・・・・。
 壱所紀伊国賀太庄にある。副え渡す権大夫(ごんのかみ)殿御奉行の御下文。
  右、この所領などを、御下文及び父・筑後入道の譲状などを副えて、
   息子・藤原一王に譲与する。この旨を存し相伝領掌してよい状この通り。 
        承久四年二月二十一日  藤原 (判)                」

とある。 (茂木家文書・栃木県史)(和歌山市史四)



☆ 賀太庄を下野国(しもつげ)の豪族で鎌倉御家人である茂木(もてぎ)氏が
  地頭として支配して いたと見られる。 *下野国(栃木県)

○建長五年(1253年)十月二十一日付け近衛家(このえけ)所領目録によると、

「一、 庄務、本所なく進退の所々。
    知足院右府(ちそくいんうふ)の女(むすめ)、経嗣の妹
    鷹司院御厘(たかつかさいんこばこ)
    京極殿領内
    紀伊国賀太庄 平信範郷(たいらのぶのりきょう)の
    娘・建礼門院(近衛道経の母)内侍得文譲る。         」

 とある。           (近衛家文書) (和歌山市史四)



○ 賀太庄の本家が近衛家であり、領家が平信範家であった。
  建長八年(1256年)の  茂木知宣(とものぶ)所領譲状案によると、

「譲り渡す、所領などのこと。合わせて三ヶ所。
 一所 紀伊国賀太庄にある。・・・・・・
 右、この所領などを、御下文及び父祖の譲状を副えて
 子息・藤原知盛に譲り渡すことを実証である。
 この旨を存し、相伝領掌してよい状この通り。
  建長八年三月十五日  左衛門尉知宜。    」

 としている。 (和歌山市史四)(茂木家文書・栃木県史)



○ 下野国(しもつげ)の豪族にして鎌倉幕府の御家人の茂木知宣(とものぶ)が
   賀太庄の地頭職を子息・藤原知盛に譲り渡している。
  鎌倉将軍家・宗尊(むねたか)親王政所 の下文によると

 「将軍家政所が藤原(茂木)知盛に下す。
  早く領知してよい・・・・・・紀伊国賀太庄など地頭職のこと。
   右、亡父・左衛門尉・知宜法師(法名・空然)の建長八年(1256年)三月十五日
    の譲状に従い、具(つぶさ)に先例を守り沙汰して良い状、
    仰の所この通り。そこで下す。
     正嘉二年(1258年)十二月二日  案主(あんず)  清原   
                            知家事(ちけじ) 清原
                           令・左衛門尉・藤原
                   別当相模守 平(北条正時) 朝臣 (花押) 
                   武蔵守 平(北条長時)  朝臣  (花押)     」

 とある。  (和歌山市史四)(茂木家文書・栃木県史)
 下野国(しもつげ)御家人・藤原(茂木)知盛に対して、紀伊国賀太の地頭を
 鎌倉幕府から保障されている。


○ 文永七年(1270年)の京都(天台宗)聖護院検校親王の命令によると、

 「紀伊国伽陀寺(今は廃寺、加太駅の上の山にあった)の寺僧が申す、
  当寺回禄(焼失)荷より、知識(寄進)奉加を持って造営をとぐべき由のこと、
  拝状(おがみじょう)この通り。この寺の草創は他と異なり、聖跡は新しい。
  修練の輩は先ず始めに造営の励みを重んじるべきである。どうして怠ってよかろうか。
  そこで拝状の旨に従って、各々が立木合力を致すことの検校法親王(覚助)の
  令旨(りょうじ)により、執達この通り。
                       文永七年四月十八日  法印  (花押) 
                       諸国山臥 御中                    」

 とある。(県史中世資料二) (和歌山市史四) (向井家伽文書)

  伽陀寺は 現・和歌山市加太にあった寺で、本尊は薬師如来をまつり、
 葛城山系を行場とする葛城修験の葛城二十八宿の第一の宿といわれる。
   (紀伊続風土記)

 開基は役小角(えんのおづぬ)・七〜八世紀(634〜701年)の呪術者、
役行者(えんのぎょうじゃ)ともいい修験道の開祖)で醍醐天皇(885〜930年)の勅願に
よって七堂伽藍が建立(こんりゅう)されたという。      (紀伊国名所図会) 


○ 弘安三年(1280年)の賀太浦肴配分状によると

 「当浦肴のこと。
  一、釣船さはら・さこし・しひこ・はまち網・惣十分の一を取り、半分を政所へ上納
     すること。残る半分は、両沙汰人へ出す。
  一、五月上りえび(伊勢海老か?)、十月はらしろ・北南船一艘別に一献ずつ取る。
     このうち両沙汰人へ一献ずつ、残りは政所へ上納すること。
  一、旅網十分のこと、半分は政所へ上納すること。残り半分を二つに分けた一分は
     刀称公文戸出す。残り半分を二つに分け、両沙汰人へ出す。
  右、このとおり取って取り沙汰すること。そこで状このとおり。
           弘安三年四月 日       預所本券  (花押)
                             公文・沙汰人中             」
  
  とある。        (県史中世資料二) (和歌山市加太・向井家文書) 


○「譲り渡す所領などのこと。
   嫡子・三郎左衛門尉知氏あて、合わせて三ヶ所のこと。一所紀伊国賀太庄。
    右、この所領などは、代々の御下文及び父祖伝来の手継ぎ文などを副えて、
   嫡子三郎左衛門尉知氏に残らず永代にわたり譲与する。
   男女庶子らは嫡子・三郎左衛門尉知氏に頼って生活すること。
   もし、三郎左衛門尉知氏が少しでも趣旨に背き、まして所領の取り合いを致し、
   互いに敵対することになれば、やがて領内を追放させる。・・・・・ (虫食い)
   そこで、後証のため譲り状この通り。
             嘉元元年十一月二十六日   沙称 心仏  (判)       」

  とある。     (和歌山市史四) (向井家文書)


※ 父祖伝来の領地を嫡子三郎左衛門尉知氏一人に譲っているが、領地を分割して譲与
   すれば全員が生活できなくなるため、嫡子一人に譲り、庶子らは嫡子に養われるように
   取り計らっている。時代劇を見ていると”たわけもの”という言葉がよく使われているが、
   以上のような考え方から出ているようである。百姓でも親からもらった田んぼでも一人で
   作っているときは、生活できたが、子ども何人かに分け与えてしまうと、皆が生活できなく
   なる。同じような事例である。    淡路 記                           )
   
※ 家督とは、家長または家長権をいう。家督相続は鎌倉時代の、武家法では嫡子の単独相続、
  財産は分割相続であったが、室町時代には家督も財産も嫡子相続となる。家督相続者を嫡子
  といい、それ以外の子を庶子という。特に惣領制(鎌倉武士団の社会的結合形態で、一族の
  長である惣領を中心に家子(いえのこ)郎等が結集し、惣領が一族と所領を支配し代表する)が
  行われた中世の武士社会では、嫡子・庶子が問題とされた。鎌倉中期ごろまでは、財産・所領は
  分割相続され、嫡子・庶子は分に応じて所領を分割し、嫡子(惣領)が庶子を統制したが、
  鎌倉後期から次第に嫡子の単独相続が行われると、庶子は嫡子に扶養されるようになり、
  庶子の地位が低下した。ただ、嫡子は長子とは限らず、子の中から優れた人物を親が選定した。
  嘉元元年(1303年)の紀伊国海部郡賀太庄の地頭・茂木知盛(法名:心仏、下野国の御家人)
  による賀太庄の譲り状では、嫡子・知氏に単独相続している。


○ 延慶四年(1311年)の預所・津守某・田地寄進状によると

「寄進し奉る。伽陀仏餉田(ぶっしょうでん)のこと。合わせて百歩、うち大寺前にある、 
 延包(のぶかね)名四十歩、恒安(つねやす)名六十歩。
  右の意趣は現世安穏の祈祷、後世善処の指南のため、これにより殊に信心にこり専ら
   墾念をめぐらし、永代にわたり寄進し奉る状この通り。
                        延慶四年卯月一日  預所 津守  (花押)        」

とある。 (和歌山市史四) (和歌山市加太・向井家文書)

 預所は庄官の一で、領家の代理として庄園を管理し、他の庄官(刀称・公文・沙汰人)を指揮した。
 領家の腹心の者が任命され地頭と対立した。仏餉(ぶっしょう)は仏にささげる食物をいう。


○ また、応長元年(1311年)の預所・重清・田地寄進状は

「寄進し奉る伽陀寺仏餉田のこと。
 合わせて百歩、うち六十歩は恒安(つねやす)名・寺前四十歩は延包(のぶかね)名・ 同里。
  右、寄進し奉る所の状この通り。
                       応長元年十月十五日   預所  重清  (花押)     」

とある。葛城山修験の行場である賀太庄伽陀寺(薬師堂)へ預所が田地を寄進している。


○ 正和元年(1312年)預所・盛弘の田地寄進状によると、

「寄進する、葛城八幡宮(法華)八講田のこと。合わせて一反三百四十四歩のこと。
  右、この田地は、八幡宮(法華)八講料田、定斗代は九斗七升七合九勺、不作として
    はならない。この上は、毎年二月・十一月四日に懈怠せず法華八講を勤めること。
    加太寺(伽陀寺)の供僧に、ひとえに、我が家の繁昌に寄付し、延命・安全を基す
    ためである。そこで、執達この通り。
                 正和元年二月五日   預所  右衛門尉盛弘 (花押)     」  
とある。

 賀太庄にある陀田地を賀太庄の賀太寺(伽陀寺)供僧に葛城八幡宮の法華奉読料として
預所寄進している。葛城八幡宮において伽陀寺の供僧(供奉僧)に法華経八講を奉読させ
るという神仏習合をみる。そして、正和元年(1312年)地頭・茂木氏の下知状には   

「紀州海部郡賀太庄内に、始めて八幡宮を勘請(招き迎える)申した御屋敷地のことは、
 伽陀寺の山である。そこで他からの干渉あってはならない。そこで、執達この通り。
                正和元年八月十日    預所  右衛門尉盛弘 (花押)
                                     伽陀寺別当坊         」

とある。 (和歌山市史四) (和歌山市加太・向井家文書)


○「本脇村の百姓ら謹んで言上する。
  且(つぶさ)に憂老(優しい老人)愛少(思いやりのある少年)は牛馬の後について
  稚路(さくろ:早場穀物の路)を往き来して良い由を御免に預かり安堵の御成敗を受
  けたく欲する賀太山の塩木(塩釜で塩を焼く木)のこと。
   右、前々から相論あり、前々に度々御成敗を受けた。事情は色々あるが、つまりは
   賀太一庄を分割して本庄と新庄と名づけた。これより、三分の一の御公事を勤めるこ
   と、今に退転しない新庄方は、田園が狭少であるため、塩釜を焼いて御年貢に備え公
   事を勤め、さらに土民の生計としてきた。夕暮れの煙が、このために立ちのぼる。
   ところで、賀太本庄の百姓が牛馬を追い塩木山のことを停止せよとの御成敗を受け
   たと称(とな)えて、宿意を持って何かと理屈をつけ、今月二十四日に狼藉を致した時、
   さらに所持物まで奪い取った。ただちに報告文二通を提出した。希代の悪行である。
   おおよそ、人にはみな父もあり子もある。或いは老人もいれば或いは幼いものもいる。
   筋力が衰えている老人は荷物を担うのが困難である。年齢の少ない小童は荷物に苦労
   して馬にたよる。急に、牛馬の道路を停止となれば、老弱者の生計が断絶となる。
   厳先と愛少は、孝といい、この五章のその二か。孝道は尊卑ともに道は一つである。
   早くせねばならない。そこで、早く御憐れみを垂れ、前々の御下知に従って御成敗を頂
   きたい。粗し言上こんのとおり。
                  正和三年正月 日       政所    向井殿          」

とある。 (和歌山市史四) (和歌山市加太・向井家文書)

 賀太庄が二分割され、賀太庄と賀太新庄(本脇村を含む)となったが、賀太本庄の百姓が
賀太新庄における塩焼きに狼藉したと訴えている。製塩の燃料である賀太山の木をめぐって、
賀太本庄と賀太新庄の百姓が対立をおこしている。


○ 正和五年(1316年) 預所・大江某の田地寄進状には、

「施入(せにゅう)する、賀太寺(伽陀寺)大般若田一反四十歩のこと。
 小布里、用包(も ちかね)名にある。
  右、名田は、荒廃の地となり歳月を送るところ、力をつくして開墾し、
   大般若経料田 に施入(せにゅう)する。永代にわたって賀太寺の
   料田となし、本家(近衛家)領家(平家)預所の御願である円満・
   息災・延命を祈り奉る状この通り。
          正和五年二月一日   預所  散位大江  (花押)       」

とある。


○ また、預所道禅の田地寄進状は、

「寄進し奉る伽陀寺燈油田のこと。合わせて一反のこと、江尻にある尼覚勝の作。
  右の意趣は、現世安穏のため後生の善処を指南祈祷し、これにより殊に信心
   をこらし専ら懇念をめぐらし、永代にわたり寄進し奉る所この通り。
      正和五年(1316年) 閏十月二十日   預所  僧道禅        」

とし、

「浜成りのこと、先に預か所の寄進が明らかである上は、寺官の例として事情あって
 はな らない。恐々謹言。
             正和五年(1316年) 閏十月二十日   道禅 (花押)
                                 伽陀寺 寺僧御中     」

としている。   *三会(さんえ)


○ 文保元年(1317年)預所某の田地寄進状によると、

「寄進する、預所の正作i一反のこと。
 右の一反は正作である。賀太庄住吉の大般若料に寄進し奉る所である。
  早く経衆に耕作させること。毎年、(般若経)転読を欠かさず、安穏を祈り謝し
  相伝知行すること。そこで寄進ところ、この通り。
            文保元年六月二十九日     預所  (花押)            」

とある。

 正作は手作り・佃ともいい、庄園の耕作のうちの領主・庄官・地頭の直営地をいう。
下人(隷属農民)や庄園の百姓の労力をえる夫役(ふやく)として使って経営し、
全収穫をその所有としていた。賀太庄・住吉神社へ大般若経・転読料として
預所(庄官)の正作一反を寄進している。ここにも神仏習合の姿が見られる。
住吉神社(航海の神・表筒男命(うわつつのうのみこと)・中筒男命(なかつつのうのみこと)
・底筒男命(そこつつうのみこと)をまつる)の神前で寺僧が大般若経を
転読(大経文の要旨を奉読)の姿である。


○また、元応元年(1319年)公文・良尊(りょうそん)の田地寄進状は、

「寄進する八幡宮免田のこと。合わせて一反のこと、楠王給内。
  右の田地は、領家の御契状を賜い公文が支配する地である。
   そこで、領家の御方(平 家)の御息災・延命及び
   公文(庄官)良尊(りょうそん)の心中所願決定成就になし奉り、
   永代にわたり八幡宮に寄付し奉る所である。
  そして変わらない松柏を奉じて伝燈(法燈を師から弟子へと伝える)
  三会(さんえ)(仏が三度の大法会を開いて衆生済度の説法を行うこと)を
  続かせ、とくに賀太庄内の泰平と人法繁昌とする。
  寄進し奉る状この通り。
               元応元年八月十五日   公文  良尊   (花押)  」

とある。

 八幡宮へ免田(租税免除の田)一反を寄進した賀太庄の公文(庄官)良尊は、
僧侶とみられるが、田地を八幡宮へ寄進して仏教の法燈を伝える三会(さんえ)を
持続したいと願っている。八幡宮(神功皇后・応神天皇をまつり、武勇の神社と
されている)を仏教の守護神とみている。


○鎌倉末期の平某の田地寄進状によると、

「寄進し奉る賀太庄薬師堂(伽陀寺)浜成り免田のこと。
  右、先の寄進状の旨に従い、知行は相違あってはならない状この通り。
   嘉暦(かりゃく)四年(1329年)     平    (花押)
                      (追筆)  常陸殿の御時          」

とある。 平信範(のぶのり)の子孫と思われる。
                (和歌山市史四) (和歌山市加太・向井家文書)

○また、平某 田地寄進状には

「賀太庄・若王寺田のこと。合わせて一反のこと。
 右、先例に従い、寄進し奉る状この通り。
             元徳元年(1329年)十月三日  (平) (花押)
                             (異筆) 伽陀寺別当     」
とある。

 若王寺は、熊野三所権現(熊野本宮社・熊野速玉神社・熊野那智社)に縁故の
深い神をまつった神社を若王寺と呼び、若王寺を祠ってある土地を王寺という。
権現とは「神は仏が衆生救済のため椎(かり)に化身して現れたもの」とする
神仏一体の思想の現れで、京都から熊野三所権現までの途中に
熊野九十九王子社があり、休憩所・遙拝所・宿所・みそぎ所でもあった。

以上         平成14年(2002年)6月20日      (記)  淡 路   宏


「寄稿の目次」へ戻る!

「表紙」へ戻る!