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(4)建御雷之男神(たけみいかづちのおのかみ)
            
     2004年(平成16)7月 28日          淡 路  宏

国譲り談判を成功させた主役。その豪勇(ごうゆう)ぶりは世界一ならぬ高天原随一(たかまがはらずいいち)と大評判。

国土経営は国譲りから始まった

火の神・火之迦具土神(ほのかぐつちかみ)を生んだために、陰部を火傷し、これがもとで伊弉冉尊(いざなみのみこと)は死んだことは別に述べる。

 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は嘆き悲しみ、十拳剣(とつかつるぎ) を抜いて伊弉冉尊(いざなみのみこと)の死因となった 火之迦具土神(ほのかぐつちかみ)の首を斬り、このとき剣の先についた血が石にしたたり落ち石析神(いしさくのかみ)、根析神(ねさくのかみ)、石筒之男神(いしつつのおのかみ)、さらに甕速日神(みかはやひのかみ)、樋速日神(ひはやひのかみ)、そして本編の主人公の建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)が生まれ、指の間からもれた血から闇淤加美神(くらおかみのかみ)、闇御津羽神(くらみつはのかみ)、という八神が生まれた。

 建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)の建(たけ)は猛(たけ)だけしく勇さまを表し、御雷(みかづち)は文字通り神鳴(かみな)りである。別の書き方を武甕槌神(たけみかづちのかみ)、または建御賀豆智命(たけみかづちのみこと)、建雷命(たけみかづちのみこと)などといろいろ書かれている。またの名を経津主神(ふつぬしのかみ)、建布都神(いたけふつのかみ)、豊布都神(とよふつのかみ)ともいわれる。国譲(くにゆず)りでの一方の立役者でもある。

 さて、国譲りの神話(しんわ)の始まりは、天照大神(あまてらすおおかみ)が長子・
天之忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)に豊葦原中国(とよあしはらなかつくに)を統治させようとしたことによる。このときの中国(なかつくに)は悪神(あくしん)どもがはびこり、なかなか手がつけられない状態であったので、これを服従させようと前後二回にわたり特使を派遣したが、二回とも失敗した。かくして天照大神(あまてらすおおかみ)は建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)正使とし、天鳥船神(あめのとりふねのかみ)を副使として豊葦原中国(とよあしはらなかつくに)へ派遣した。

 出雲国(いずものくに)の伊那佐(いなさ)の小浜についた建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)は、十拳剣(とつかつるぎ) を抜き、波の上に逆さに突き刺し、その剣の先にどかっとあぐらをかき、神々(こうごう)しい 声で、国神である大国主命(おおくにぬしのみこと)に尋ねた。

 ”我は、天照大神(あまてらすおおかみ)と高木神(高御産巣日神)の命令によって参った者である。あなたの領有している葦原中国(あしはらなかつくに)は、天照大神(あまてらすおおかみ)のご子孫が治めるべき国である、と仰せられたのであるがあなたの考えはいかがであるか”と問うと、大国主命(おおくにぬしのみこと)は、”私はご返事することはできません。全権はすでに我が子の事代主命に譲っているので、事代主命がお答えするでしょう。だが、現在は美保の崎(島根半島の突端)へ鳥や魚を取りに行ったまま帰っておりません。”と答えると、建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)は天鳥船神(あめのとりふねのかみ)に命じて事代主命を連れもどさせた。

 事代主命は、父・大国主命(おおくにぬしのみこと)に向かって”誠に恐れ多いことですから、この葦原中国(あしはらなかつくに)は天照大神(あまてらすおおかみ)の御子に献上した方がよいでしょう”と、さすがに物わかりが良いと言われる事代主命の返事。


力くらべも勝った建御雷之男神

 建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)は、さらに大国主命(おおくにぬしのみこと)に”事代主命は、この国土を天神に献上すると申したが、まだこの他に意見のある子はいますか?”と問うと、大国主命は”もう一人、私の子に建御名方神というのがいますが、これ以外には異議をとなえる者はありません。”と言うまでもなく、当の建御名方神が大きな石を両手で差し上げながら来て、”ゴチャゴゴチャ言っている誰だ!話があるなら一つわしと一つ力比べをしようじゃないか? 先ずわしが君の手を握ろうじゃないか。”と
建御雷之男神の手を取った。

 すると、その手はたちまち氷のように変じたかと思うと、こんどは剣の刃のように鋭くなったので、さすがの力じまんの建御名方神も、大いに恐れて引き退いた。

 今度は建御雷之男神の番である。建御雷之男神は、建御名方神の手を握ると、まるで若芽の葦を握るようにたやすく握りつぶし、投げ飛ばしたので、建御名方神はびっくりして逃げ出してしまいました。

 話は変わるが、相撲の源は力比べに始まると言われている。一般には大和時代に、野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)の力比べが相撲の起源とされているが、さらに神代時代にさかのぼって、この建御雷之男神と建御名方神との「国譲り」をかけての力くらべがすでに行われていたのである。

 それはさておいて、建御雷之男神はこれを追いかけ、信濃国(長野県)諏訪湖のほとりに追いつめ、打ち殺そうとしたとき、建御名方神は「恐れいりました。どうか命だけは助けて下さい。あなたの言うとおりします。そのかわりに、この土地以外にはどこにも行きません。父・大国主命の命令にも服します。兄・事代主命にもそむきません。すべて葦原中国は天照大神の御子に捧げます。」と言った。
 この建御名方神が諏訪神社の祭神である。

 建御雷之男神は、信濃国から出雲へ帰ってきて、大国主命に「あなたの二人の子は、天神(あまつかみ)の御子の仰せのとおり、決してそむかないと言ったが、あなたの意見はどうですか」と尋ねると、大国主命は「私の二人の子の言ったとおり、私も天神の命令に服します。ただし、私の住む所を天神の御子の住む御殿のように造って下さるならば、私はその隅の方に隠居します。事代主命が先頭に立って、天神の御子やその子孫を警護すれば、多くの私の子たちも、みな従うでしょう。」と言って、身を隠したのである。

 このときの約束で造った御殿が、有名な「出雲大社」である。ここにさしも難航をきわめた「国譲り」の儀式も無事に終わり、葦原中国も平定したので、建御雷之男神は天照大神と高木神に報告のため、高天原にもどった。



建御雷之男神の戸籍謄本

○戸籍謄本・・・建御雷之男神   
○本籍地・・・・高天原
○族・・・・・・天神族
○出生地・・・・高天原
○職業・・・・・武人兼外交官
○実父・・・・・伊弉諾尊
○実母・・・・・記録になし
○実子・・・・・記録になし
○寄留地・・・・茨城県 鹿島神宮、宮城県 塩釜神社
        その他の各地の建御雷之男神を祭る神社。


☆伊弉冉尊の死後、伊弉諾尊の剣についた血から生まれた神

 ○泣沢女神
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○石析神(いしさくのかみ)
 ○根析神(ねさくのかみ)
 ○石筒之男神(いしつつのおのかみ)
 ○甕速日神(みかはやひのかみ)
 ○樋速日神(ひはやひのかみ)
 ○建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)
 ○闇淤加美神(くらおかみのかみ)
 ○闇御津羽神(くらみつはのかみ)



☆主なご利益と神社

建御雷之男神の業績からみて、平和外交の神、また弓矢の神として勝運、戦運、武運長久祈願、心願成就などのほか、産業(農・商・工)、大漁、海上安全、災難除け、交通安全、縁結び、安産など多彩なご利益が記されている。


〔建御雷之男神・経津主神を祀る主な神社〕

○宮城県 塩釜市一森山・・・・・・・・・塩釜神社
○茨城県 鹿島郡鹿島町・・・・・・・・・鹿島神宮
○奈良県 奈良市春日野町・・・・・・・・春日大社
○京都府 京都市左京区吉田神楽岡町・・・吉田神社
○大阪府 東大阪市出雲町・・・・・・・・枚岡(ひらおか)神社


〔建御雷之男神を祀る神社〕

○秋田県 秋田市寺内町・・・・・・・・・古四王(こしおう)神社
○秋田県 男鹿市北浦真山・・・・・・・・男鹿真山(おがしんざん)神社

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