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加太の散策
                         2004年(平成16) 6月 1日     淡 路  宏

春日神社

 加太は『続日本記』に「大宝二年(702年)春正月、初めて紀伊賀陀駅(きいかだえき)を置く」とあって、古代南海道駅(こだいなんかいどうえき)家が置かれていた。駅家の位置は不明だが、淡路國へ渡る港津を兼ねたものであった。「平城京出土木簡」にも、可太郷とあり、古くから港・交通の要衝として利用され、江戸時代も紀州第一の港として繁栄した。現在は漁港として栄え、潮干狩や海水浴場としての観光地として知られている。加太駅から坂を下っていくと石標がある。

 右手に向かうと大川峠、まっすぐに突き当たり左折して2〜3分歩くと春日神社に着く。途中左側に見える加太中学校・加太小学校を境に加太の町並みは違ってくる。加太の町並みは、石標から港までの間200m・南北800mの区画に、ぎっしりと民家が建ち並んでおり、昔の漁村の様子を今でも残している。家と家の間隔が迫っており、道が狭く、広いものでも自転車が1台やっと通れる程のもので、人一人が歩くにが精一杯という道が多い。

 加太の氏神と言われる「加太春日神社」(祭神天照大神・天児屋根命(あめのこやねのみこと)・武甕槌神(たけみかづちのかみ)・住吉大神・大山咋大神(おおやまいくのおおかみ))は、『紀伊風土記』によると、神武天皇東征のさい、神鏡・矛の二神宝を託された天道根命(あめのみちねのみこと)が加太に到着したが、その時の頓営(仮の宮)であり、その後に天照大神を祀り、後に氏子の航海安全・大漁を祈願して住吉大神を祀った。その後、加太荘日野の領主であった藤原氏祖神(ふじわらしそしん)の天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祀って神社の総名にしたという。

 社地は「紀伊名所図絵」によると、現社地の東山の中腹にあったが、羽柴秀吉(はしばひでよし)の家臣桑山重治(かしんくわやましげはる)により再建され、伝えられたと言う。1596(慶長元)年11月3日に桑山宗秀(くわやまむねひで)が「紀州海部郡加太浦春日明神(きしゅうあまぐんかだうらかすがみょうじん)」の正殿・鳥居などを作らせたという棟札(14枚残存、国重文)が残っている。その時に作られた社伝(国重文)は一間社流造・千鳥破風(ちどりはふう)及び軒唐破風(のきからはふう)をつけており、檜皮葺構造を初め欄間(らんま)・脇障子(わきしょうじ)などの彫刻は、桃山時代の特色を残している。5月日20の例祭は周辺の住民が、この日にエビ(伊勢エビ)を神前に供えると共に宴に供する事が習わしになっており、俗に「海老祭り」という。



伽陀寺(かだじ)

 加太駅の北側山麓地帯には、「堂の前」という小字が残り、古瓦が出土(現在も出土)したことなどから、葛城修験の宿であった伽陀寺跡(加太寺廃寺跡)があった。



常行寺(じょうぎょうじ)

  春日神社から北へ約500mの所に(浄土宗)の寺としてあり、寺内には昔”雷が駆け上った”という珍しい樹容のビャクシン(天然記念物)があったが、現在は枯れてない。



淡島神社

 淡島神社の祭神は「少彦名命(すくなひこなのみこと)」・「大己貴命(おうなむじのみこと)」・「息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)」である。淡島神社は、古くは粟島大明神(あわしまだいみょうじん)・加太神社などと記されているが、当地では「アワシマサン」で親しまれている祭神の「少彦名命(すくなひこなのみこと)」は医薬の祖神で、色々な病気を治癒してくれる。

 伝えによると神功皇后(じんぐうこうごう)が三韓(さんかん)(馬韓・辰韓・弁韓)出兵からの帰途に嵐に遭い、<この嵐は、加太で言うニッパチという嵐:旧歴二月・八月に吹く南風で、韓国に出兵するのであるから、春から夏にかけて出兵し、帰途に台風に遭ったのでは?>神功皇后(じんぐうこうごう)が船の苫を海に投げ込んで、天神地祇(てんしんちぎ)に祈ったところ、無事に友ヶ島にたどり着いた。島には「少彦名命(すくなひこなのみこと)」と大己貴命(おうなむじのみこと)を祭った祠(ほこら)があったので、皇后は持ち帰った品々を供えた。その場所は小島出(神島)と呼ばれているのは、二柱を祭った祠があったためそのように呼ばれたものと思われる。その後、仁徳天皇が社殿を友ヶ島から加太に移し、神功皇后もあわせて祀るようになったという。宝物殿には社宝の金銅造丸鞘太刀(こんどうつくりまるさやたち)と大丸山形星兜(おうまるやまがたほしかぶと)
(ともに国重文)14〜16世紀の海上がりの中国青磁を収蔵し展示もしている。

 なお、太刀は南北朝時代のもので刀身は縞造り庵棟で鞘は金銅造丸鞘。兜は鎌倉時代の特色がよく出ており、大塔宮護良親王(だいとうのみやもりよししんのう)の奉納と言われている。淡島神社の裏山には、1974年に開設の和歌山市立「少年自然の家」がある。



友ヶ島(苫ヶ島)

 加太港から友ヶ島汽船で25分、対岸の島に着く。加太と淡路島のほぼ中間に位置する「地の島」・「神島」・「虎島」・「沖の島」を総称して「友ヶ島」と呼ぶ。観光地として行くのは「沖の島」と「虎島」である。神功皇后が三韓征討の帰途嵐に出あったので船の苫を海に投げ、その流れのままに船を進めたところ「友ヶ島」(苫ヶ島)に着いた。

 また、7世紀頃に役小角(えんのおずぬ)が葛城山に行場を開く以前に、この島に霊場を開き、葛城修験道二十八宿の第一宿をこの島に置いたため霊場として考えられていた。行場は観念窟(かんねんくつ)・閼伽井(あかい)・体内潜(くぐ)り等の修験道にかかわる史跡がある。また、島には江戸時代末期の異国船渡来とともに紀伊水道第一として注目され、1854年(嘉永7)に友ヶ島奉行や海坊係を常駐させ砲台を築いた。さらに1882年(明治21)、由良要所の要塞地帯となり、第二次世界大戦終結までは軍の管理下にあり、一般の人は立ち入れなかった。友ヶ島のほぼ中央北東に第二次原生林として亜熱帯植物を含む470種類の植物が茂る深蛇ヶ池湿地帯植物群落(県天然記念物)がある。灯台の東側には、「池尻の池」の湿原がある。その西側の灯台は、1872年(明治5)に建設された8番目の灯台で、そばの日時計は子午線がこの真上を通っている。



田倉崎

 加太の西端に位置する田倉崎は、海食崖の発達した地形である。江戸時代には狼煙場(のろしば)・遠見番所があった。

 現在では、「加太自然の郷」というレジャ−施設が開設され、加太農協の手により「ハナショウブ園」も開園されていた。(但し、2003年に「ハナショウブ園」、「ツバキ園」が閉園となり、寂しくなっている。)



国民休暇村・森林公園

 田倉崎から加太湾の北東の方向に1961年(昭和36)に開設された国民休暇村(城ヶ崎荘)があったが現在は閉館している。又北側の砲台跡の深山湾上側に休暇村深山荘がある。現在では京阪神からの観光客でにぎわっている。休暇村から徒歩20分ぐらいのところに森林公園がある。



大川峠

 報(法)恩講寺(ほうおんこうじ)(西山浄土宗(せいざんじょうどしゅう))本尊は法然(円光大師)自作のものと伝えられている法然上人木像で、寺は「大川の円光さん」と呼ばれている。草設は1207年(承元元)年、法然が罪を許されて土佐からの帰途、海上で遭難し、当地の「柚ノ浜」に流れ着き逗留1ヶ月の間に自像を桜谷仏ヶ辻の桜材で彫刻して村に与えた。

 現在、本堂・庫裡(くり)・経堂・山門などがあり、法然像のほか阿弥陀如来像・勢至菩薩像(せしぼさつぞう)を安置する。



木ノ本八幡宮

 木ノ本バス停から北に5分ほどで、木ノ本八幡宮(祭神:応神天皇・神功皇后・天照大神)の鳥居の前に出る。かつては芝原八幡宮と呼ばれ1618年(元和4)に木ノ本八幡宮合祠した。その後、欽明天皇の勅命によって造営された八幡宮が当社である。

 本殿(県文化)は、檜皮葺・三間社流造で神殿の各所に「元和五(1619)年」の墨書が残る。10月14/15日の例祭は天武天皇が玉津島行幸の際、魚・鳥を放って祭りを行ったことから放生際と言われ、500年の伝統を持つ勇壮活発な獅子舞(県無形民族文化財)が行われている。

 木ノ本八幡文書は、南北朝時代から戦国時代の貴重な史料である。八幡宮の東1km(粉川加太線)の北側の平地に釜山古墳(かまやまこふん)・車駕之古址(しゃかのこしこふん)・茶臼山古墳(ちゃうすやまこふん)の3基は、県下で平地に築かれた数少ない古墳で木ノ本古墳群と呼ばれている。

 また、天道根命(あめのみちねのみこと)が神武天皇の命により、加太浦に上陸して西ノ庄・木ノ本と進んで三種の神器を託され、八咫鏡(やたのかがみ)を樫のの木の下に埋めたのがこのお宮である。



土佐泊

 地の島のほぼ中央部の北側に土佐泊(とさとま)りの湾(小さな湾)がある。名前の由来は、昔土佐藩士が切腹したため、この名がついているらしい。戊辰戦争(ぼしんせんそう)のとき、土佐藩士が大阪へ攻め上るとき、強い東の風(東風(こち))に遭い、短期間ではあるが小さい湾で生活したらしい。そのうちに、戊辰戦争が終わり、土佐藩士の主だった武士は切腹をして亡くなった。

 私は祖父から聞いた話では、祖父が子どもの時、土佐泊りに小さい池があり(今でもある)そこで泳いだ時には、池の縁に小さい墓石が幾つかあり、朽ちた兜(かぶと)や鎧(よろい)
があったという。

 地の島には、土佐藩士に関する地名が幾つか残っている。地の島の中の瀬戸に面する所に、「矛ら(ほこ)」(私は洞(ほこら)?かと思っていたが、殿様の矛を納めていた所)・「屋敷灘(やしきなだ)」(家臣が宿泊していた所)・「殿浦(とのうら)」(殿様が陣を張っていた所)など、地元の人々により今もそのように呼ばれている。

 また、土佐藩士が生活をするのに水が必要であるため、水を確保する野井戸をたくさん掘っている。その井戸の縁には雑草がたくさん生い茂り、野井戸を隠しているため、落とし穴のようになっていて、非常に危険である。

 ※人によっては、戊辰戦争(1868年(慶応4)1月)ではなく、「大阪夏の陣」だと言う人もいるが、「関ヶ原の合戦」は1600年で「大阪夏の陣」は1615年であり、私の祖父は1889年(明治21)生まれであるから、15才くらいの時に「朽ちた兜や鎧」を見たとしたら、大阪夏の陣の時の「兜・鎧」では、約300年も経ていることになり、塩分の多い(海岸に近い)場所では、約300年も残っているとは考えにくい。戊辰戦争(1868年)の時の「兜・鎧」とすれば、35〜36年位の年数となるので、戊辰戦争の時の「兜・鎧」ではないかと考えている。


(参考)『戊辰戦争』
    1868年(明治元年)1月3〜4日、京都の鳥羽・伏見の戦(戊辰戦争起こる)
    1月6日、徳川慶喜(とくがわけいき)は大阪を脱出、江戸に向かう。
    1月7日、徳川慶    喜の追討令が出される。11月10日、徳川慶喜以下27名の官位を奪う。
    1月15日、土佐藩士が仏軍艦乗組員を殺傷(堺事件)


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