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われらが町 加太(かだ)について

                       平成16(2004)年7月30日                  淡 路  宏

 加太は和歌山県の最北端にあって大阪湾の南部湾口をしめ、葛城の連峰は東より延びて海に沈み、西に延びて「地の島」・「沖の島」、即ち「友ヶ島」となって遠く「淡路島」に一連となっている。

 高森山(標高285m)は俗に北山ともいい最も高く、巽國山(標高221m)、加太山(標高112m)と順次南に低く、各谷筋は三口に分かれて加太浦は最も大きく、その北にあるのを深山、大川と称し集落をなしている。

 東は山を境として西脇、北西は海に面して淡路島に対し、北東は葛城山脈に連なって大阪府泉南郡多奈川町に接している。

 この地は古の加太郷にして「続日本記」(大宝2年:702年)に「始置紀伊國賀陀駅家」と始めて見え、後記「天長二年啓雲見於紀伊国海部郡賀多村伴島」(825年)とあり、延喜式に「賀太駅馬八疋又賀太潜女十人」などと見え、霊異記には「蚊田」とある。                             (加太:賀多:蚊田)

 鎌倉時代・正安(1299年)頃より加太村を本荘といい、その他を新荘と言っていたが、桃山時代に至り慶長検地の時は加太・磯脇・本脇・三ヶ村となり、近世には加太村より日野・深山・大川の三部落を合わせ加太町となった。

 また古く奈儀佐郡又は名草郡と称していたが、後に海部郡より海草郡と移り変わった。

 加太は駅の名で、昔は現在の部落より五〜六町(5〜6km)も東方の山麓にあって、今の地は元海中で曲汀浦、干潮時に遠干潟となるため、潟見又は潟見の浦とも言い、今は加太浦と呼ばれ、日本三干潟の一つであり、退潮の名所として有名である。

 加太浦は、古来諸国の回船の碇泊に依って商家・旅館が軒を並べて発展し、中国・四国の大名の渡海にもみな加太を利用していた。

 以来、童謡にも「加太は千軒七浦在所」と言われていたが、明治26年(1893年)頃、深山に砲台ができ、重砲兵隊が置かれた。

 当時の人口は、6300人・戸数1000戸で、市街には町役場をはじめ警察署(現在の交流センタ−の隣の中村さん宅が警察署)、加太郵便局(新出の利光さん宅)、小中学校等がある。交通は南海電鉄(できた当時は加太軽便と言われていた)である。加太線の終点は加太駅であり、港からは毎日淡路航路が通じていた。北西の海上には友が島が横たわり、海岸線は湾曲極めて変化が多く、断崖あり、砂浜が有り、淡島神社をはじめ役行者、円光大師の遺跡と共に史跡名勝に富み、商業漁業また盛んで遊覧地としても有名であった。産物として魚類・海草類・貝類等がある。



深山村(加太町の大字であった)

 加太浦の北にあって、口深山と奥深山の二部落に分かれていた。加太浦の出村で、昔奥深山の内古屋谷に傳蔵という樵夫に三人の子どもがあって、長了は奥深山・次男は日野村・三男は口深山の古名・阿振と言い、村中を流れる阿振川は黒谷を源流として深山湾に入り、加太浦へ越す坂を阿振坂とも阿振峠とも呼んだ。



大川村

 口深山から北東にある。昔は加太浦の内であったが、慶長(1596〜1615年)以降に分かれて独立村となっていた。が、近年になり合併した。北は僅か600m程度で(大阪府)小島に至る。大川浦には、波止場がないため船を繋ぐのに苦労していた。大川には円光大師:法然(ほうねん)の勅諡号(ちよくしごう)が開いた報恩講寺が村の中央にあって、海岸の磯馴松越に見える淡路島の島影は、一幅の絵画を見るようである。報恩講寺は法然上人が土佐に流されて、罪を許され京に戻る途中嵐に遭い大川浦に流れ着き、桜谷の桜を切って仏像を彫ったものが残されている。



加太の子守歌

♪♪♪ 加太はよいとこ、西浦受けて、仲戸嵐が、そよそよと。        ♪♪♪
♪♪♪ 堺住吉、いとまの太鼓、流れ着いたよ、加太浦へ。          ♪♪♪
♪♪♪ 加太の姉さん、かもめの育ち、潮が三合引きゃ、磯せせる。    ♪♪♪
♪♪♪ 加太は千軒、七浦在所、この子見たよな、坊はない。        ♪♪♪
♪♪♪ 深山の姉らは、かんざしいらいらぬ、いつも山いて松葉さす。   ♪♪♪
♪♪♪ 参りましょうよ、淡島さんへ、くしや、こうがい(笄)持ちまして。    ♪♪♪

           (提供:大阪府枚方市 在住   新 島  幸  さま )



友ヶ島 <苫(とま)ヶ島>

 加太町に所属し、加太港より北西海上に横たわり、大阪湾の南喉部を占めて、東は葛城山脈、西は淡路の由良とを結ぶ一直線上にある「地の島」・「沖の島」・「虎島」・「神島」の大小四つの島より成り、「鞆(とも)ヶ島」また「苫(とま)ヶ島」 とも言われ古名「妹ヶ島」とも言われていた。

 古く神仙の窟と傳へ役行者(役小角:えんのこずぬ)修行の地となってから聖護・三宝両院をはじめ高野山等の修験道場となり、徳川時代には毎年聖護院の宮の参拝もあったが、明治時代に至って海防要塞砲台の施設と共に一般人の入島を禁じられ、古来の関係から昭和十五年(1940年)まで聖護院葛城修行の際のみ入島を許されていたが、戦後に解禁された。

 島は無人島であったが一時期は、灯台看守が住んでいたことがあるが、人跡絶え謎と伝説の仙島である。

 加太港より船便で約30分で「沖の島」の北岸・野奈浦に達する。毎日定期航路が開かれ和歌山市も観光に力を入れるようになった。

 島は風光明媚で、確かに天下の景勝として推奨したい。殊に至る所に史跡がある。昭和24年(1949年)「瀬戸内海国立公園」に加えられたのも当然である。



地の島

 陸に一番近いからその名がある。全島青松を主体とした樹木が繁茂し、海風にもまれ各々自然の趣をなし、時々潮気に誘われると婉然蒼気(えんぜんそうき:しとやかで美しいさま)を天外に靉H(あいたい:雲が日をおおって暗いさま)棚引くが如くにみえている。

 東は加太の瀬戸を挟んで僅か1kmたらずで深山に対し東端を藻崎と言い(標高52m)北岸より赤松崎・犬戻り・入道崎を経て土佐泊がある。ここは昔、海賊船の根拠地であったらしい。(「土佐泊」については、小生の「加太の散策」を参照されたし)

 徳川時代の参勤交替に際して、土佐侯の給水所に使用されたので、その名があると伝えられているようですが、全島水溜まりは無いが此所だけはに小さい池があるが海水が入っていて飲めない。

 それよりクチナシ栄・赤松栄が有り、シノ栄はこの島の西端で海中に暗礁多く、それより南岸を東行すると眠岩・白江崎・赤栄・戸の浦・金崎・屋敷浜・保古良・ハイブの浜・ナメラ浦・下崎・中の礁・・・等々の奇勝がある。

 藻崎と赤松崎との中間は細長く低くなっている所を「牛の首」と呼ばれている。保古良の北の山は地の島中最も高い所である。(標高約95m)



沖の島

 「地の島」の西にあって約500mを隔てて南西に細長く、東を「中の瀬」、西を「由良の瀬戸」と呼んでいる。中の瀬戸は距離が狭いので潮勢激しく凄ましい急流が起こり、これがまた岩礁に遮られて大小数多くの渦巻きが出来て勇壮な光景を呈し、阿波の鳴門にも比すべき一大景観である。

 先述の「地の島」よりも少し大きく、周囲約10km・東西約270m・南北では最も広い所で70m・面積約17ku である。

 「虎ヶ原」は虎島の南東にあって海中より孤立する巨岩を以て構成され、殊屏風を傾けた様な形をし、下部三分の一は海浪によって浸食され、丁度人の片足を容れるぐらいの凹字形のものが多数に出来、これを手がかりに擧じ登ると幅約70m・高さ約53mを額面として削られた有名な「五所之額」がある。即ち

 『 禁 殺 生 穢 悪         ※穢悪(わいあく・えあく:けがわらしいこと)
友 ヶ 島 五 所
観 念 窟
序 品 窟
閼 伽 井
深 蛇 池
I  池  ※J(じつ:にぶい=鈍)
寛 文 巳 酉 彫 』(寛文9年:1669年 )

と彫刻され、文字面の幅は十三尺・高さ十尺五寸、一字の大きなもの方形二尺・小さいもの方形八寸もあって、よくも此の危険な断崖に彫刻したものと驚かされる。尤も信仰の力の偉大さに関心させられる。

 此は紀州徳川南龍公の命によって李梅渓の書いたもので、筆致頸健躍動している。東畦下に南面した穴があり直径僅か二尺位・入り口の幅七尺・高さ四尺、南紀の「鬼ヶ城」を思わせる様な洞窟がある。此が即ち観念窟である。

 まるで猿猴の深渓に水を掬む様な姿でなければ入れない。内部の広さは、南北十八尺・東西十五尺・高さ四尺五寸、窟の中央に「観念窟」と書かれた石碑がある。台石幅一尺九寸二分・高さ七寸五分、石碑幅一尺一寸五分・高さ三尺三寸、何れも花崗岩製で文字は多年の海水怒濤によって侵蝕され、その風勁は実に雅致に富んでいる。

 此は道光親王の筆にして、窟の東方にも幅十尺・高さ三尺五寸の入り口があり、この所から却下を眺めると碧潭渦巻き前方の巨岩に噛まれ凄惨の気溢れて身さながら黄泉にも至る心地がする。上方間近く地の島より加太湾〜紀泉の連峰はパノラマの如く展開され、そのまま蒼空にも登る感ががある。試みに大喝すると山鳴り・木霊が答えて坤軸を堆くが如く、全く人生の漂々たるをいよいよここに於て観念出来るかの如き仙窟である。ここより崖に沿って僅かに広さ二尺に足りない道があって、しかも外に傾斜している。これを辿れば足半分地を踏み、半分は崖に垂れて危険極まりなく脇の下に冷や汗を覚える。

 崖の北畔に亀裂があって、ここは行者の所謂禊と呼ぶ所である。ここより南に下ること二百歩、巨岩が林立をなして海中に屹立するところは船を北に進めて、岸に登ると松稚・灌木・雑草が岩間に生え茂った所から岸へ上がり約十間よじ昇ると巌の中に大きな洞窟がある。その有様は荒神の荒れに荒れ狂って打ち裂いた様である。僅か一人が辛うじて出入できる大きさで、これが「序品窟」である。

 閼伽井の碑はカンザシ松の西側にあり、台石は幅二尺六分・高さ八寸・竿石幅一尺八分・高さ三尺二寸五分、竿石の表面に「閼伽井」と刻まれ、左右には序品窟の碑文と同様の文字が彫刻されている。

 ここから北岸を西へ行くと詭石(きせき:奇怪な形の石)峭々(しょうしょう:そぎとる意)として亀の甲をさらしうるような形の亀崎があり(上り亀・下り亀があったが岩が脆くなり落下してしまった)、ススキメ栄には印幡(いなば)の白兎や熊野の大熊などを思わせる色々な姿の巨岩が無数に崖にあるいわ海中に散在している。「ゴトゴトの穴」は、海面に奥深く通じて波のまにまにゴトゴトと音がして気味の悪い所である。

 雁岐鼻(がんぎのはな)を過ぎると神島(小島出)である。周囲僅か二町余、北部は断崖となり鬱蒼としているが、南側は低く平坦で中に剱池がある。即ち修験道の人々は昔より行者の神剱を得た所と伝え、現在加太町に鎮座の加太神社(淡島神社)の御祭神・少彦名命・大巳貴命は天津時代に此所に渡来したとも言われ、神島の名もここから出ていると言われている。

 剱池には水がなく、蒲(がま)が密生していて直径二十間余りの小さい池であるが、中央に剱池の碑がある。二間角ぐらいの所に和泉砂岩石の亀の形をした台石(高さ二尺・幅四尺三寸・長さ六尺二寸)があり、その中央に石碑(幅一尺四寸二分・高さ十尺)の花崗岩があり、中央上部に「剱池」、その下方に序品窟・閼伽井等の碑と同一の文字が彫られている。剱池の南は砂浜となり、約一丁半にて沖の島に対して干潮の時には徒歩で渡れる。

 北垂水より野奈浦一帯は砂浜で(但し、波打ち際は石が多く、胸くらいの深さから砂地となっている)、海岸には青松が生え須磨・明石を思わせる景色で渡航者は船着き場としている。馬場浦を得て熊崎に至ると断崖となり、池尻浜は人工的護岸ができ、この南に蛇潭(じゃたん)がある。雑木が繁茂して渓を埋め深山幽谷のごとく如何にも蛇の棲家のようである。蛇潭の西は円山と言い、山頂に灯台がある。友ヶ島の最西端の海中には、立石・三ツ石の暗礁があり、この鼻を海獺瀬(かいだつせ)と言い海獺(かわうそ)の集まる所と言われていた。

 これより南海岸の東道鳳崎と言い、山の端は海になだれ込んで海底に這い、また突々として海面に抜き出ては柱・剱・臼・等々種々の姿を現し、龍の潮を起こす様な形のもの、冠を着て立つ男の姿等々、友ヶ島の中で最も奇観に満ちている。

 昔、道鳳という法師が、この景色に魅惑され、光風斎月の生活に余生を送ったとのことである。

 コツ巣山(隼・熊鷹等の巣があった山)は、沖の島中最高の峰(標高約130m)である。断崖の中腹にコツが巣を作り、外敵に備えていた。頂上よりは下りることも出来ず、また下よりよじ登ることも出来ず、実に賢明な考えであって鳥類の智恵もまた険阻に害を避けて自ら安閑として楽しんでいたのには実に感心である。

 女浜は道鳳崎に比し稍(ようやく)なだらかで鋭い所はない極めて女性的な感じの所で女浜の名に相応しい。

 五斗崖は岩上に松を生じ冬夏共に色を変えず、大きい岩が瀬で風浪にさらされてあやなしたのが、海の中に屏風を立てた様である。

 これより北は、いよいよなだらかで奇石がない。牧の馬場・野奈浦の谷続きで平地となっている。かつて紀州侯の牧場として馬を養い、将軍家へも献上した事さえあった。ここで養った馬は、常に浪の音を耳にしているから物音にも驚かず優秀と言われていたが、何分周囲が険岨(けんそ:けわしい意)で峡溢(きょういつ)のため頻々(ひんぴん)と怪我をするので廃されたとのことである。

 蒲浦は、南海岸に於ける最も平坦な広い砂浜で、着船ができる。すぐ傍らに深蛇池がある。周囲約七町位、水はなく蒲草が密生していて中の様子は不明である。行者は古来大霊蛇の幽宅と伝え、この所は笛の音を忌み嫌う伝説があり、もし犯す時には忽ち命を落とすと言い伝えられてから、此の島に遊ぶ者は笛を携えないようになったとのことである。

                                  以  上

(参考資料) 洛東聖護院 修験宗総務  宮 城 信 雅 先生(昭和24年7月)
  「加太の子守歌」      枚方在住  新 島  幸 さん 


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