豫科練入隊・履歴概要

入 隊 者 大分県大分郡高田村大字関門334番地。

野尻 幸喜 (昭和5521日生〕 満14歳。

入隊年月日 昭和19121日(国民学校高等科二年在学中)。

入隊 場所 鹿児島海軍航空隊(兵籍番号・佐志飛第4406号)(鹿児島縣)

身   分 第24期乙種飛行豫科練習生。海軍二等飛行兵を拝命(同日付)。

任   官 海軍一等飛行兵を拝命(昭和2021日付)。

配   属 人吉海航空隊に配属(昭和204月3日付)(熊本県)

任   官 海軍上等飛行兵を拝命(昭和207l日付)

配   属 佐世保海兵団に配属(昭和20年8月1日付)(長崎県)

任   官 海軍飛行兵長を拝命(昭和2091日付)依命予備役に編入)

終   戦 昭和20815(玉音放送に依り終戦となる)

復員・帰宅 昭和20817日復員・帰宅した。

1、 身体検査
   甲の上中下・乙の上中下・丙の上中下の九区分で、「甲の上」に評価され最高の成果で合格出来た。
   当時1
O人中1人位の割り合いであった。

2、合格通知()

  合格通知書()

当時は軍国主義思想が最高潮に達していた。国民学校生とは言え一日も早く軍人となってお国のために役.立ちたいと
誰もが思っていた。豫科練の「七つ釦は櫻に錨
.」に瞳がれて志願する事を決意して受験した。その結果、運良く合格する
事が出来て本当に嬉しかった。 この合格証書を受け取った時の感激は今もはっきり記憶に残っている。      

  家族、先生、友達等、関係者が喜びを共にして祝って頂き感激を新たにしていた。

  次は、入隊に関する通知(入隊命令)を心待ちにしていた。

4 出頭命達書(第二次検査の通知)

第二次検査種目は、身体検査、適性検査の二種目が行われた。検査結果は、全ての面で無事合格した。次は、入隊通知を
受けるまで頑張る事を心に誓った。

5 入隊命令(文書で頂いたが、入隊時に持参提出した為手元には残ってない)。内容は、昭和十九年十二月一日午後一時・鹿児島海軍航空隊へ入隊だった。

6 思い出

(1)送別会 昭和十九年十一月下句のある日・昼食を兼ねて自宅で開かれ、出席者は、先生、親戚、友達代表、近親者等であった。

   特に印象に残る事は父が教えてくれた「校長先生に対する挨拶の仕方・杯の差し出し方・言葉の内容・姿勢・表情」等
   であったが、礼儀作法はこんなにむっかしものかと思ったが、何とか無事に終わった。

   次に印象に残った事は「御手洗先生」が作成された言葉で家族全員の名前の一文字を入れた名文であった。
   一節から三節まであった。その内容は、おおむね次の通り記憶しています。

    * (本人幸喜)多き、野尻家に咲く若桜、この世の春
         (姉ハルヱ)
を心して、喜(本人幸喜)び勇み常々
  (妹ツネ子)
に、敵撃滅の誓いも新たに

      陸海空と順(父順平)々に、戦果上がりて勝(兄勝美)
        見れば、千代(母千代)に八千代に、邦(妹邦子)
(姉久枝)しく

    いにしえの、文(妹・文子)見るたびに思うかな
  、剣(弟・憲一)取り立ちし益荒男の、美(妹・美江
   子)しくもあり、芳(姉・芳子)しくもあり

  御手洗先生が随分苦労されて作文された内容で、今も心の中に
      深く刻み込まれています。
 

      国民学校高等科2年存学中の生徒が、豫科練に入隊する事は前代未聞で、初
     めての事であった。それだけに家族・先生・友達などの関係者全員の祝い事
     でもあったので送別会も非常に盛大であった事が、今でもはっきり記憶して
    いる。その夜、家族皆の入隊の喜びと別れの悲しみ、明日の見送りの時の挨
    拶文など複雑な気持ちで眠れない一夜だった。

  (2) 見送り

 普通の場合は近所の人々が見送り、村外れの橋の上で皆に挨拶しそこ
 で別れる習慣になっていた。この日は、国民学校の生徒全員がその橋か
 ら先の道路の両側に並び、日の丸の旗を高く差上げて、力強く打ち振り
 ながらの盛大な見送りであった。例に習って橋の上で近隣の人々にやっ
 との思いで挨拶ができた。涙が止まらず同伴してくれた父の後で皆に挨
 拶しながら進んで行った。この間の感慨無量な気持ちは一生忘れる事が
 できない。

時々後を振り返り手を振りながら鶴崎駅へと向かって歩いた。

鶴崎駅から、父と2人で日豊本線に乗って鹿児島へ向かった。

入隊記念写真(昭和19年12月2日撮影)

(3) 鹿児島海軍航空隊へ入隊

鹿児島駅前では、父兄同伴の入隊兵が大勢集っていた。受付を終ると同時に部隊編成され、ここで別れたはずの父が、
編成された部隊の自分のすぐ横に付き添いながら行進しており、父は、無意識のうちに隊門を通りかけると門兵に制止され、
ここで父との最後の別れとなった。

あれ程、怖かった父の目に涙が光っていたのがはっきり見え、その時の父の涙目が一生涯忘れる事ができない。

軍隊生活の中で、機会ある毎に、この時の「父の涙目」が瞼に浮び、本当につらかった時、自分の唯一の心の支えとなった。
今でもこの事が自分の人生を見守り、力強く支えてくれているような気がしてならない。

(4)海軍飛行豫科練習生の軍隊生活開始。

見知らぬ他人同志の軍隊生活で親元を離れた不安や恐怖感などで、初日の夜は眠れなかったが、海軍飛行豫科練習生
としての自覚を新たに再認識した。
二日目に、被服・装備品が支給され階級章や名前の表示など環境整理をしたが、
                          「七ツ釦は桜に錨」
の軍服を両手で受取り、肌の感じで最高の喜び・感激が頂点に達し、生涯忘れる事が出来ない素晴らしい思い出となっている。

袖口やズボンの裾が長く、体に合わなかったが「体が直ぐ伸びるからそれまで我慢しろ」と言われ軍隊らしさを感じた。
その日の午後「七ツ釦は桜に錨の軍服姿」で、思い出の記念写真を撮って頂いた。
(現在自分で保管している)
三日目からは、日課予定に従って厳しい豫科練生活が始まった。

(5)初の外出許可(正月)

入隊後一箇月目の正月に初の外出許可が出た。分隊毎の集団外出である。

分隊長に引率され、鹿児島市内の民家に4人か5人ずつのグループで立ち寄り民家の方々から、
食事などの接待を受ける事となった。

立ち寄り先の民家に綺麗な娘さんが居たのが気掛かりだった。その娘さんを交えた家族の方が、近所の手伝いも
受けての接待であった。この時の御飯や味噌汁の美味しかった味が何時までも口の中に残った感じがしていた。

御飯にグリーンピース豆が入っていた事が印象的だった。グリーンピースを噛む歯応え・御飯の風味等で母の面影が
浮かび本当に楽しい時間が過ぎた。約
2時間の訪問時間はすごく短い感じがした。家族の味わいを十分楽しんで分隊長
に引率され隊へ帰った。その後は、誰が言い出すとなく、この外出時の楽しい話題が多く、次の機会を楽しみにしていた。

(6)新年度の日課

昭和20年の正月が過ぎた。新しい年を迎かえて気分も新たに気を引き締めて頑張った。
一週間の日課は毎週ほぼ同じ内容の繰り返しだった。

  * 学科授業 地理・主に世界地図の勉強が大半を占めていた。20歳の若い担当教官が黒板に向かって体を揺
     すりながら見事に世界地図を描いていたのには驚いた。
     実に見事な出来映えであった。授業内容・説明の言葉遣い・歯切れの良さなど
     本当に素晴らしい教官であった。その他の授業には、国語・数学・歴史・精神教育なども行なわれて居た。

  * 電信授業 電信には欠がす事が出来ない「モールス」記号を記憶しその記号を利用して電信機に依って
    相手に要件を伝え、又相手から要件を受ける事が目的であった。相手に用件を伝えるため電信機の発信装置
    である「電鍵」を打つ練習が難しかった。指先で打つ電鍵の打ち方・指先・手元の関節の使い方などの技術的な
    要領が繰り返して厳しい練習が統けられた。この記号は、夜間の発光信号にも応用されていた。

  * 手旗信号 右手に赤色・左手に白色の小旗を持って両手の動きに依り、全身を使って文字・数字を表現
     する通信方法で比較的早く覚えた。
     この方法は昔から広く行なわれていたもので、簡単で便利良く誰にでも ・何時でも・何処でも出来た。天気が良く、
     見透しの良い場合は双眼鏡・望遠鏡等を利用する事も学んだ。

      海軍体操 ラジオ体操よりも複雑な動きが多く、繰り返  し練習する事に依って比較的早く覚える事が出来た。

(7) 海軍一等飛行兵に任命

入隊の日から毎日緊張の連続だったが正月も過ぎて海軍生活にも馴れた頃の昭和二十年二月一日付で任命され
本当に嬉しかった。後輩が入隊して来たので何だか偉くなった様な気分になった事も思い出の一つである。

新しい階級章を受け取り手にした時の感動・喜びは一生涯忘れられない思い出となっている。
早速取替えお互いに確認し合った時の姿も思い出される。喜んでいるばかりも居られない。
一等兵として自覚を新たにして一層頑張る事を誓った。毎日の日課は変わりなく進められた。

(8)空襲警報・機銃掃射

戦火は激しくなり、本土決戦が囁かれる様になった二月後半に、鹿児島湾の向いの鹿屋海軍航空隊に
約二週間配属された。ここは特別攻撃隊の発進基地になっていた。零式戦闘機が腹に爆弾を抱いて常に待機していた。
平家建ての三角型兵舎に特攻隊搭乗員が常に待機していた。隣の兵舎で我々が生活して居た。
 ある日の夕暮れ時兵舎に居た。急に「空襲警報」が発令されると同時に米軍グラマン機の機銃掃射を受けた。
急いで近くの防空壕に向かって全員走っていた。弾が地中に打ち込まれる「プシュツ」と言う音が周囲で何回となく
繰り返された。
音が止んで周囲を見ると先輩の特攻隊員が茶色の飛行服姿で我々の上に覆いかぶさって保護してくれていた。
「大丈夫か」と大声で呼び掛けてくれた事がどれ程嬉しかった事か。命に関わる緊急時ですら後輩を守る思いやり
人間愛が軍人精神に強く打ち込まれている事が身に染みて強く感じられ自分の心に染み込んで今も人生に役っている。

この時、幸い怪我人は居なかった事が不思議に思え嬉しかった。この出来事は生まれて初体験でもあった。

 この日深夜特攻隊に「出撃命令」が下された。左右の翼を上下に動かしながら飛び去った。
その機体を見送る時から涙が止めどなく流れ出し、どうする事も出来なかった。
皆で肩を組んで団結心を強めた事が今も瞼に浮かぶ。夕方来襲したグラマンの発進基地の航空母艦を含む
敵軍艦船団に向って出撃されたことが後で聞かされ感概無量であった。間もなく鹿児島へ帰隊した。

(9)海軍生活の楽しい一時

 一等兵になって気持ちに随分余裕が出来た。日曜などの休日には単独で外出許可が下りたが何時でも
何人か複数での外出だった。鹿児島市内の繁華街「天文館通」の映画館に入ったが内容は記憶していない。
その他「城山公園」・「西郷隆盛銅像公園」などへ見物に行った思い出がある。

 豫科錬の七つ釦は桜に錨の軍服姿の外出は随分緊張感もあり当時は憧れの的でもあった。
    何処へ見物に行っても初めての場所で、珍しい物ばかり
で本当に楽しかった。厳しい海軍生活の中の
    本当に心楽しい一時であった。

寒い冬も過ぎ去り、春が近づき桜の花見など楽しい話がささやかれるようになったその頃、配属変更の噂が流れた。
    間もなく噂が現実となった。

7 配属変更命令

命令年月日 昭和二十年四月三日

配属変更先 人吉海軍航空隊〔現在の熊本県人吉市〕

変更先入隊 昭和二十年四月九日

(1)    出発・新任地着

 前夜身のまわり品を纏めた。朝食が終り、「ここでの生活も今日限り名残り惜しい」と自分で思いながら隊列を組んで
鹿児島駅に向かった。約
2時間で汽車は「人吉」駅に着いた田舎の寂しい感じの駅だった。歩くこと約1時間山奥の防空壕
の中が兵舎だった。中央に通路があり両側に丸材で作られた寝台は二段になっていた。
湿度が高く独特の嫌な臭いが強かった。ここで生活すると思うと鎌な気分となった。
誰の思いも同じだったが、言葉には出す事が出来ない。

(2)航空隊の概要

山間部の平地に滑走路を作ったという感じの設備で粗未に感じた。林の中に古い二枚翼の飛行機五機が露天に置かれ
葉が沢山付いている木の枝を上に置いて目立ないように隠されていた。
その姿が如何にも哀れに感じた。林の中の一角の平家の建物の中に教室・食堂・炊事場などがあり利用されていた。

 その他の設備は秘密保持の為か、我々には一切何も見せたり説明などもなく記憶にのこっていない。
兵舎から教室への往復は、歩いて約3
O分だった。

(3)任務・日課

 海軍飛行兵としての教育訓練は全く受けなかった。教室から近くの山へ入り、伐採された松の木の根を堀り起こす作業が
毎日続けられた。その根ツ子を小さく割りこれを原科に「松根油」作りに従事した。
松根油作りの要領は「ドラム缶の側面で底の近くに穴をあけ中に割られた松の根ツ子  を入れる。
下から火が焚けるように釜を作りその上にドラム缶  を置き下から火を焚けば燻蒸作用で、ドラム缶の穴から真黒
なドロドロした液体が流れ出す。
 これが「松根油」である」。この油が、飛行機や艦艇等の軍事用に利用され貴重な燃料となっていた。

(4)米軍機の爆撃・分隊長殉職

 日課が終り、兵舎へ帰る途中の出来事だった。その日は、「空襲警報」が発令されていた。
爆撃を受けた場合被害を最小限に止める為、各自が約
10メートルの間隔を置いて歩いていた。
帰りの距離の中間あたりに差しかかった付近で、約
50メートル前方の斜め上空から落ちて来ている爆弾が見えた。

 上空でB29爆撃機らしい音が聞こえていた。まさか自分の目の前に爆弾が落ちる事など予想もしていなかった。
現実に目の前に落ちて来る爆弾をこの目で見た瞬間、日頃訓練した通り「前に伏せて・両手の
4本の指を揃えて両目を押さえ
・親指で両耳を塞いだ」。その途端に、 ドカーンと、

「物凄い爆発音・地響き・体が20センチ程跳ね上げられ・土砂がバラバラと体の上に
         落ちて来るのが背中で強く感じ、全
身緊張し痙攣して生きた心地がしなかった」。

    暫くそのまま様子を見ていたが、付近は一応静けさを取り戻したので、頭を上げて付近を見回しながら起き上がった。
   前方に土の盛り上がった爆弾の破烈した跡が見えた。自分も全身土まみれとなって居た。
   皆集まって無事を確め合い爆弾の跡を見ながらその物凄さに身震いを感じるなど不気味な出来事であった。
   その時誰かが「前を歩いていた金城教官が居ない。姿が見えない、丁度爆弾が落ちた付近を歩いていた」と言い教官の姿が
   見えない事に気付いた。結局教官は「直撃弾を受け爆破され飛散されていた」近くの電柱と民家のコンクリートの塀に、
   土と肉片が付着していたのが後で判明し恐怖を感じながら改めて冥福を祈り、暫く重苦しい雰囲気だった。
   教官の前後を歩いて居た二人も多量の土を被っていたが怪我も無く無事であったが暫く放心状態であった姿が思い出される。

   暫くここで時間が過ぎたが後は隊列を組んで兵舎へ帰った。その夜いろいろな事が思い出されて眠れなかった。
   毎日兵舎と教室を往復す  る度にこの事が思い出され話題となった。

    山の頂上の平地が飛行場で、その下が防空壕兼兵舎で付近一帯は山林ばかり新芽の緑が鮮やかな頃だった。 
   昭和二十年五月中頃だったと思われる。

(5)隊内生活

    約一箇月半過ぎた頃の出来事とは言え余りにも精神的打撃は大きかった。暫くは今まで通りの日課が進められていた。
   戦況はあまり良くなかった。本土決戦準傭が進められている噂が益々広まって居た。
   近い内に配属変更があるのではないかと言う噂も広がって居た。何となく落  ち着きの無い雰囲気が隊内全体に感じらてれた。
   休日外出等の時期は場所的に皆無であった。

(6)海軍上等飛行兵に任命

    昭和二十年七月一日付で、海軍上等飛行兵に任命された。感慨無量で嬉しく受け止めたものの最近の不安な雰囲気や、
   本土決戦準備など噂さ話を自分なりに考え、悩む気持ちが強かった時期でもあった。
   毎日の日課は何の変化もなく今まで通り進められていたが、配属変更命令の噂は益々強くなって居た。

8 配属変更命令

命令年月日 昭和二十年七月六日

配属変更先 佐世保海兵団附(身分・乙種飛行豫科練習生ノ儘)(長崎縣)

変更先入隊 昭和二十年七月七日

配属先変更 佐世保鎭守府第十三特陸附(針尾海兵団)

変更年月日 昭和二十年八月一日

(1)配属変更命令の伝達

    この度も、配属変更命令が噂の通りの結果となったが命令即急拠出発と速やかな措置がとられた為、一瞬不安感が強く湧いて
   気分的に動揺した。七月六日朝の点呼の時、「本日付佐世保海兵団へ配属変更命令が発令された。
   明日の朝出発する」。旨の命令伝達を受けた。この日は教室の裏山の松根油作業現場の後片付け、教室内外の掃除・
   整理整頓を終わり、早目に兵舎へ帰り身の回りの整理など出発準備を済ませた。
    最初馴れるまで嫌だったこの防空壕内兵舎での生活も最後の夜ともなると、又名残惜しいような複雑な気持ちで朝を迎えた。
   深夜「金城教官」の夢をみたが詳しい事は覚えていなかった。良く考えると部下への別れの挨拶だったのだろうか
  、などと「霊」の事は善意の解釈が正しいと思われ不思議でならない。

(2)出発・新任地着

    七月七日所持品を担いで教室に向かった。朝の食事を終り待機していた。暫くするとトラックが来て、それに乗り込む様
   命令され荷物を持ち喜んで乗り込んだ事が思い出される。車での移動は入隊後初めての事だった。
   上等兵になったので待遇が良くなったのかな、それとも所持品が重たいからではないか等々車上で囁き合い喜び合った
   事が懐かしい。

    間もなく「人吉駅」に着いた。汽車に乗り込み佐世保に向った。途中離合時間待ちの停車が多く時間が長くかかった。
   夕方駅に着き下車した駅名は「川棚駅」だったと記憶している。約十五分商店街の町並を歩いて佐世保海兵団に着いた。
    比較的明るい感じの兵舎に案内され、ここで佐世保の軍隊生活が始まることになった。今までの「人吉」に比べ非常に
   良い環境で、
   大村湾に面していた。そこの背景は小高い丘といった感じで、風光明媚な地理的条件が満たされていた。

(3)隊内生活

    翌日から海軍飛行兵らしい訓練が始まった。久しぶりに部隊教練を受けたが、不馴れな為随分厳しい訓練となった。
   軍事訓練を受け軍人らしい自覚が強まった事が痛感され爽やかな感じとなった。新しい環境の中で一日が過ぎた。

    夜、何となく疲労感が強く心気一転して頑張ることを心に固く誓った。

(4)防空壕掘り

   軍事訓練は一週間で打ち切られた。二週間目からは防空壕掘りが毎日続けられた。
  裏山の中腹に既に作業途中となっていた防空壕の仕  上げ作業だった。その防空壕の大きさは、

    幅約1,5メートル高さは側壁約1,5メートルでその上部が円形状で高くなり最高約2メールの規模だった。
   奥に向かって約
10メール掘り進み、一番奥から約2メートル手前の地点から直角に横に向かって削り進められた。
   この様な形で奥へ奥へと削り進められた。その理由は、戦況が本土決戦となった場合、敵が「火炎放射機」を使って
   攻撃して来た場合、放射された火炎が一番奥に突き当った勢いで跳ね返り、その跳ね返った火炎で放射した者が負傷死亡する
   被害を受ける。手前から横向けに掘られた防空壕の奥は被害が及ばない。

   と言う発想であった。この作業も一週間毎に交代で進められた。
   また施設の全体構想などは極秘とされていたが10箇所ぐらいと噂されていた。

(5) 配属先変更

    昭和20年8月1日附・佐世保鎖守府第十三特陸附の命令を受けたが手続きだけの問題として処理された。
   軍事生活では何の変化も無かった。

(6) 原子爆弾投下目撃

    部隊教練中、大村湾を隔てた遥か彼方で「ドカーン」と、大爆発音と共に稲光を伴って無気味に響き亘った。
   指揮官を始め全員が一斉に    そちらを向いていた。指揮官も、付近の他の部隊も全員でその場で暫く佇んでいた。
   間もなく「木の子雲」が黙々とゆっくり昇り始め、横にも   大きく広がり、傘を大きく開いた様な形となっていった。
   時間が過ぎるに従って益々拡がった。暑さの中で厳しい教練に疲れ昼前の空腹など総て消え去っていた。

   教練は、すぐ終り通常の日課に戻った。この出来事が話題で指揮官から、数日前、広島に投下された「原子爆弾」と同じ爆弾
   であったと聞かされた。その夜、大村湾の彼方は一面火の海で一晩中燃え続いていた。この原子爆弾の物凄く強烈な威力に
   驚くばかりだった。その翌朝付近の空は一面傘の雲が拡がり鉛色の空だった。
   その翌日の夜も引き続き火の海で物凄い広い範囲の夜空に火災の模様が反射されていたことが思い出される。

   この様に、原子爆弾の投下・爆発の瞬間・規模・事後の経過など、自分の目で直接目撃した一人として感慨無量なものが、
  今も心の奥に刻まれている。これら一連の出来事は遠く離れた場所からの目撃であった為、その他詳細は不明であったが、
  引き続き毎日話題となって居たが、噂話に「いよいよ本土決戦が迫って来た」・「これでは戦争に負けるのではないか」・
  「近い内にこの佐世保海兵団も攻撃を受けるのではないか」と言った内容が少年兵など若い軍人の間で極秘の内に、
  囁やかれ気持ちが大きく動揺していた事が思い出される。この日が「原爆記念
]」として現代に伝えられている。

9 玉音放送・終戦

   その後・隊内生活に特に変化は無く日課通り進められて行った・数日後の昭和20年8月15日正午全員体育館集合重要放送有・
  特別重要命令を受け佐世保海兵団全員が集合した。約
30分前から集まり始め、我々少年兵は一番後方に整列していた。
  時間が迫って来るのに従って緊張が除々に高まり「胸がドキドキ」して来た。間もなく「ラジオ」の放送準備が進められ、
  音量調整が行われて居たが、雑音が強く、殆んど聞きとれない状況であった。
   間もなく正午から「天皇陛下の直接放送が始められた」。
  天皇陛下の声を直接聞く事が夢の様に思われ、緊張の為か雑音の為か、後の方では聞き取れなかった。
  放送が終わって上官の説明があったが放送文の内容は記憶していない。
  同時に事後の生活態度などの注意事項があった。
  「これで戦争は終った・特命あるまで待機」「忠実に受け止め・勝手な事は絶対許さん」と厳しい命令が下された。
  その日は兵舎で待機する様  命令が下され待機していた。
   その他特に変化なく夜を迎えた。夜皆でいろいろな話が出たが、その話の中で「家に帰られるらしい」と言う話が
  一番印象に残り嬉しくて眠れない一夜だった。次の
16日も待機命令と同時に「環境整理」する様命令され、午後には、
  履歴書等身分関係書類が渡され内容点検して回収された。

10 復員

  昭和20年8月17日、所持品を持って集合するよう命令を受けた。午前10時兵舎前集合、点呼と同時に「履歴書(9月1日附
  海軍飛行兵長に任官
)・身分関係書類・復員旅費」等が各自に手渡され分隊長の訓示で「元気で親元へ帰宅せよ」と一言、
  力強く話され隊門に向って行進が開始され一歩一歩と隊門を通り過ぎた。その時が海軍生活最後の瞬間だった。途端に頭の中が
   真白になり  「涙が止らなかった」悲しみ・情なさ・その反面嬉しさ等複雑な心境だった。
  ふと我に帰ると同じ復員兵が次々と駅に向って足速に進んで居た。

  何とも言えない気持で駅に着いた。汽車を待つ復員兵達の姿で身動き出来ない状況だった。
  着いた汽車には超満員の為乗れなかった。暑いホームで次の汽車を待っこと約一時間、着いた汽車には比較的早く乗れたが、
  やがて超満員となった。
  間もなく諌早駅着、長崎本線に乗り換えた。ここでの乗換えが又大変だったが若さに任せて相当無理して乗り込んだ。

   次は、鳥栖駅で鹿児島本線に乗り換え、二つ先の久留米駅で久大本線に乗り換え大分に向かった。
   途中車内で
40歳半ばの全く見知らぬ  人に話しかけられたが、その言葉遣いや態度などで、子供扱いにされた事が何より
   悔しくて嫌な感じだった。でも良く考えてみると
15歳の子供だから仕方ないか、と自分に言い聞かせて思い直した。当時軍隊の最年少が15   歳であった。大きな荷物を担いで居た為、何処の駅でも乗り換えに苦労した。
   鳥栖駅で荷物を窓から投げ入れ乗降口から乗り込む人があり、その人の荷物が無くなり、盗まれて途方に暮れていた姿が
   本当に気の毒だったがどうすることも出来なかった。終戦後はこのような出来事が増えるのではないかと不安になり、今でもこの体験が自    分の生活に生かされ、持ち物には十分気を付け自分の視野の中に置く習慣が身に付いている。その夜遅く大分駅に着いた。
   大分駅で日豊本線に乗り換え最寄りの鶴崎駅で下車した。夜遅かった為人目を避けた帰宅に好都合だった。

11 帰宅 
   鶴崎駅から重たい荷物を担いで約
4粁の夜道をゆっくり約1時間かけて歩いて帰った。進むに従って荷物が重たく感じた。
   暗い夜道の中我が家に辿り着き、心臓の高まりを静めながら「入り□の扉を叩いた」中から、母の懐かしい低い声で「誰な」と言った。
  「わしや・幸喜や」と、返事をした。暫くして・慌てる様に鍵が外されると同時に扉が開かれた。
   目の前に、本当に懐かしい母の顔、その後に父の顔が見えた。「ただ今」と一声出すのが精一杯であった。お互いに安心感が伝わり
  笑顔が見られその後の言葉は良く覚えていない。敗戦と言う現実が頭に浮かび喜びも余り盛り上らなかった様な感じがした。

   深夜、突然の帰宅に両親を始め、その様子を感じて次々姉・妹や弟達家族全員の顔が揃って来た。
   皆の笑顔が本当に懐かしく感じられ嬉しかった。この模様が今も心の奥深く刻み込まれている。 “ホッ“と一息安心感から、
  急に空腹を感じ、母が急いで準備して出してくれた  目の前の食事が本当に美味しく、その時、これが本当の「おふくろの味」
  だと懐かしく感謝の気持ちで頂いた。その間、母は寝具の順備等大忙がしだった。この夜、
  眠りに就いたがいろいろ頭に浮び殆んど眠れなかった。

12 帰宅後の生活

(1)持ち物整理

   入隊中の身の回り品は全部持ち帰り翌日荷物の整理をした。その中に入れて居た「除隊手当」の封筒を父に手渡した。
  開封してみると4
50円余り入っており、その当時は纏まった金額で、父は笑顔で直ぐ神棚にお供えしていた姿が印象的であった。
  この時、神棚に奉納されてあった、高等科の「修了証書」が目に映った。入隊中で不在にも拘らず「修了証書」を頂いていた事は、
  何とも言えない嬉しさで瞼が熱くなり限りない感動を覚えた。
  父の話に依れば「受け持ちの
Y先生に届けて頂いた」と聞いて本当に恐縮し、感謝の気持で一杯であった。

    荷物の整理を進めながら豫科練生活の思い出を自分なりに振り返って居た。除隊旅費は帰りの交通費に使い、
   正確に計算されて居たのには感心した。履歴書など身分関係書類は、現在も記念品として大切に保管している。
   その他の衣服類も、品不足の当時は貴重な品物であった。豫科練の「七ツ釦は桜に錨」の軍服も夏服・冬服共に各
2着持っていた。
   記念品として暫くの間、大切に保管していたが、衣料品不足の為普段着として使用してしまった。この名残り惜しい記念すべき服は
   鶴崎工業学校の記念写真等で着用している。
    復員帰宅して気分が少し落ち着いて、豫科練の勇姿を記念写真に納めて置きたい気持ちが湧いて来た。
   早速「七つ釦は櫻に錨」の軍服を持参し、鶴崎駅前の船木写真館で撮影した。昭和
20年8月20日・正午を写真撮影記念日時
   に選んだ。
(この写真は今も大切に保管している)

昭和20年8月20日撮影(復員記念写真)

(2)挨拶回り

    18日の午後、隣り近所へ復員帰宅の挨拶回りを済ませた。多くの人から国民学校在学中に豫科練に入隊した時の印象や、
   思い出話を聞かされ挨拶を快く受けて頂いた。その嬉しさや喜びで故郷の良さを一層強く感じた。次に、学校へ先生を尋ねて行った。
    入隊当時担当の「
Y」先生に会えた。大きな強い声で「Y先生帰りました。いろいろ有り難うございました」と挨拶が言えた。
   自分でも良い挨拶が出来たと嬉しかった。先生は、相変わらず色黒の怖い顔で驚いた表情で「帰って来たか、
   早く帰れて良かった良かった本当に良かったな」と優しい言葉を繰り返しながら前から両肩に手を掛けてくれ心からの喜びが
   感じられ本当に嬉しかった。父から聞かされたのですが「
Y先生『修了証書』を家まで届けて頂き有難うございました」
   とお礼を申し上げたが、無言でただ「うなづいていた」事が印象的だった。

    この時の先生が「一回り大きく見え・大物先生だなあ一」と感じていた。この時、先生から同級生のT君とS君も豫科練に行ったが、
   まだかなと聞かれ、帰りに立ち寄ってみますと先生に答えて、挨拶も無事済ませた。
   
T君もS君もまだ復員していなかったので、自分の姿を見てご両親は不安になった様子だったので「もう直ぐ帰って来るでしょう」と挨拶し、学   校の先生に挨拶に行った事も伝えて帰宅した。
   その夜、
T君もS君も復員帰宅された。翌日、遊びに来られて賑やかに話題が多かった思い出がある。

(3)家事手伝い・進路相談

    その後は、家で毎日農業の家事手伝いをして過ごして居た。その間、T君やS君とも仲良くしていた。
   「
3人ともこれから先、身の振り方に就いて何か良い話があれば皆で相談しょう」。と約束して居た。時々学校に行って
   
Y先生にも、いろいろ相談し、顔は怖いが、何時もにこにこ笑顔で、話す言葉には心強い信頼感が溢れていた。
    その当時、国民学校の校舎の一部で陸軍兵士が軍隊生活を送っていたが、直ぐに復員され近所でも次々と、
   復員帰宅する人が増えていった。その後、何日か過ぎたある日「
S君が鶴崎工業学校・建築科に入学して通学している」
   ことを誰かに聞いた。 本人に聞いて事実を確認した。その結果、
T君と相談したが、結局親に相談してみる事になった。