鶴崎工業学校
1 大分県立鶴崎工業学校へ進学決定
(1)鶴崎工業学校・木材工業科へ入学
親に相談した結果、父と母は真剣な顔で、「幸喜の正直な考を聞かせて欲しい」。と、言われたのには一瞬驚いた。何か大人の扱いを受けた感じがして本当に嬉しかった。豫科練に行っていた為だろうか、これから先は、この気持を忘れないで何事にも真剣に取り組み頑張る事を固く心に誓った。この時、両親の前で「鶴崎工業学校の建築科に入りたい」将来「大工の棟梁になりたい」。と言った。その時両親の嬉しそうな笑顔が今も忘れられない。S君が建築科へ入学していた事も影饗していたと思われた。父は、近くに住んでいた鶴崎工業学校のOK先生に相談に行き、自分の入学をお願いしていた。OK先生は、木材工業科を担当されていた。約1週間過ぎた頃、OK先生からの返事が親に届いた。その内容は、「建築科は定員満席で不可能だが、木材工業科は入学可能」。と言う事であった。木材工業は、家貝科とも言える内容である旨判明した。建築科を希望していたが不可能な為、両親とも相談の上、OK先生の立場や意見も尊重して、「木材工業科へ入学させて頂く事を決意した」。
父は、OK先生と同伴で校長先生を訪問して入学のお願いをしていた。T君にもその旨伝えたが、T君の親は、T君の近くに住むMM先生に相談されていた模様であった。MM先生も、木材工業科を担当されていた。昭和20年9月末頃だった、OK先生から、学校長からの連絡として、「明日午前10時に鶴崎工業学校へ来て欲しい」。旨の連絡を受けた。いよいよ入学の通知を受けた感じだった。翌日時間厳守で鶴崎工業学校へ、OK先生を尋ねた。笑顔で迎えて頂いた直ぐに、「校長室」へ案内され校長先生に紹介して頂いた。随分緊張していた自分に校長先生は、にこやかな笑顔で椅子を進めて頂いた。少し気楽さを取り戻した感じで椅子に就いた。校長先生から簡単な質問を受けた。家族関係・豫科練生活の感想・鶴崎工業学校入学を選んだ理由などの質問だった。大体、納得の行く答えが出来た様な気がした。校長先生は、人格識見共に素晴らしく信頼感が強く感じられた。面接が終って事務室で入学手続きを済ませた。教科書・参考書・教材・日課予定・遵守事項・など必要な物が手渡され学生らしい気分が湧いて来た。OK先生の案内で、学校内の説明・挨拶・実習工貝の確認保管など親切で細かい説明をして頂いた。教室・机・椅子などは、相当古い物だった。明日から、この学校の生徒として勉強が出来ると思うと嬉しくなった。手続が終り、再び校長先生に挨拶し、OK先生と笑顔で別れ帰宅した。
(2)鶴崎工業学校・木材工業科一年生
昭和20年10月1日から編入の1年生として、生徒の中に勉強の仲間入りした。初日の朝礼で、全校生徒に「新入生」として紹介して頂いた。恥かしい感じで「号令台に上がって挨拶した」事が思い出される。初日の1時間目の授業は「歴史」だった。SM先生が担当だった。授業に先だって、教室でもクラス全員にSM先生の指示で挨拶した。歴史の勉強内容など分からないまま時間は過ぎた事が思い出される。学校の年間学習予定で午前中は学科で、午後は実習時間となっていた。学科・実習を通じて、他の生徒は、皆4月に入学しているので勉強内容は、随分進んでいた。当然の事とは言え、半年の勉強の遅れは、どうする事も出来ない。我慢と努カの毎日が続いた。何とも言えない「嫌」な気分を「豫科練帰りだ」と言う特別な経験・事情を自分に言い聞かせながら頑張った。国民学校時代の友達と「豫科練」の話をしている内に他の生徒も話に興味を持たれ、話の輪が広がり、除々に皆と親密感が湧いて来た。お互いの気持が解け合って、クラスの皆と日毎とに馴れ合い仲良く過ごせる様になった。良い人間関係が出来れば、勉強にも益々やる気が湧いて来た。
(3)T君の入学
次の週の月曜日にT君が入学しMM先生から紹介された。 初日の朝礼で紹介、教室内での挨拶など自分の場合と同じように進められた。同時に入学出来る事を望んでいたが、戦時特別措置や学校の内部規則などの事情で入学予定日が決められた模様であった。T君と自分は同じ国民学校の出身で「豫科練」の経験者の、立ち場からの編入であった為、お互いに心強く感じ仲良く良い人間関係が続いた。学校生活にも馴れて毎週の日課が過ぎて行くのが早く感じる様になった。
(4)学科・実習授業
学科授業内容も比較的良く理解出来る様になって来た。* 先生の話の要点をなるべく多く「メモ」する。* 必ず復習しその日の内に理解する。(メモ)を利用する。この二点を毎日必ず実行した結果、理解が深まり、面白味も湧いて来た。実習授業は、工貝の手入れ・工貝の調整・名称・刃物の研ぎ方・使用要領・作業の段取り順番・木材の選別名称など、総て自分の手で直接触れ・目で見て・良く考えて・創意工夫する等、体験に依って身に付けて覚える事。その他に、良い方法は無い事に気付いた。当時の作成課題は、「小型角火鉢」・組み手(角の繋ぎ方)は留(三角型の嵌め込み)型となっていた。早速先生の指導を受けながら取り掛かった。
(5)クラブ活動
野球部・マラソン・柔道・剣道・の四部で参加は自由であった。途中編入入学であった為、自分はクラブ活動には参加しなかった。少し馴れて親しい友達に誘われて時々野球のキャッチボールをする程度だった。工業学校の東隣の「鶴崎高等女学校」の女子生徒に関心を持ち、女学生の関心を引きつける為に、また女学生との話題の糸口を作る為に興昧が湧いて野球練習に参加する機会が増えていった事が記憶に残っている。マラソンは、県下で上位の実カ保持者が多く居たが、参加する自信が湧いて来なかった。 柔道・剣道は参加したい希望を持っていたが実現出来なかった。
(6)二学期の学期末試験
入学以来初の学期末試験の日割りが発表されて不安な毎日が続いた。自分なりに頑張ったが全般的に学科で及第点に達しなかったが余り気にしない様に自分で自分を慰めた。特に、英語・歴史・地理が不得手であった。数学のみが得意で満足な結果が得られた嬉しさが記憶に残っている。終了式当日手にした「通告簿」の概評は「下」の評価であったが、自分なりに納得の行く内容であり、引き続き頑張り真剣に勉学に取り組む決心を固めた。 下校前職員室に行き受け持ちの「OK先生」に成績不良を謝った。先生は笑顔で席から立ち上がられ側に来られ肩を叩きながら「良く頑張ったな、3学期には更にしっかり頑張るように」と優しく言われた言葉に全身緊張感を覚えたが、素直に受け入れる事が出来て、更に真剣頑張る決心を固めた。両親に「通告簿」を手渡して先生との会話を話すと両親は笑って居たが、その笑顔が先生と同じ激励の気持ちだと強く感じられ、なお一層努力し頑張らなければならないと心に誓い自分自身に言い聞かせた。
(7)冬休・年末・正月・年始
二学期の学期未休みとなり、家事や農業の手伝い、年未の大掃除・正月準備等、家族と接する機会が増え、正月の話題など楽しい日々が続き間もなく正月を迎える事となったが、看護婦で中支に派遣されて居た姉の安否が心配された。 終戦と言う悲劇的な体験を経て初の正月を自分なりに有意義に過ごせた。長い人生で昨年は、目まぐるしい一年であった。豫科練生活の中での正月を過ごし、その後、終戦・復員・鶴崎工業学校へ入学等々の貴重な体験の中から自分なりの人生の生き方・指針が決定された感じで思い出の多い一年であった。海軍生活の昨年の正月に比べ、今年の正月は別世界の感じを受けていた。この冬休みの間、常に二学期の学期末試験の成績不良が気掛かりで、機会を見ては復習したことが思い出され、復習することに依って、より良く理解出来てその大切な事を強く感じ習慣づけることとした。
(8) 一年生の三学期
正月も過ぎていよいよ三学期が始まった。学校では、毎日の授業・実習等一週間の日課表に基づいて授業が進められ、心身共に勉学意欲を高めて行った。この頃から下級生に対して三年生の締め付けがひどくなって来た。生徒会活動の一環として昼休み時間の後半や放課後に、三年生の全校委員・学級委員から特定の学級に集合命令が出され、その学級の全員が並んで三年生の委員が服装・持ち物・履物・爪の手入れ状況等を検査され、時には不備な点を注意・指摘を受ける等、校内規律の確立が強調されて居た。毎年三年生が卒業前に、より良い校風・より良い伝統を残し、名誉有る良い伝統校の卒業生として、安心して巣立つ事が出来る様に、下級生に対する思いやりの有る習慣を確立する為、 毎年この時期に行なわれる年中行事と成って居た。自分なりに、この様な事柄は「豫科練生活」の延長の様な感じを受け、豫科練生活が懐かしく思い浮かんで、長い人生の若い時に味わい・身に付けるべき基本的な事柄を、教えて頂いたと心から感謝して居た。夕食の時この話をすると父は満足そうな笑顔を浮かべていた。この頃、中支に派遣され家族皆が心配していた姉が、1月15日に無事復員帰宅した。急な帰宅が夢の様だった事が記憶に残っている。これで家族が全員揃って更に賑やかく成って行った。この頃、沢山の若者達が元気に復員帰宅して、青年団活動も随分活発と成り、夜には、毎晩自宅で父が青年団の人達に「活け花」を教える様に成り、目宅である為、自分もその一員となった。父が師匠で「総目録の免状」を有していた。流派は「宏道流」・雅号(雅名)は「掃雲済冷月」として活躍していた。現代的に表現すると「ボランテイァ」活動であった。時々短期間の中断は有ったものの、随分長い期間家族全員で続けられて居た。約1年が過ぎて春夏秋冬四季折々に咲き乱れる「お花」を、一通り「活け花」にして教えを受けて、その成果としての資格が与えられる事となった。自分には資格は「一の巻き」・雅号(雅名〕は「紫雲済華月」として免状を頂いた。次の段階は「二の巻き」となり、順次数字が増えて行き、最高は「総目録」と呼称されていた。この様に、昼は学校で勉強に、夜には家で、家族全員で手伝いをしたり、また、弟子として「活け花」の稽古を受ける等、忙しさに追われる日が続いていた。学校の勉強の予習や復習は、活け花の稽古で遅くなった日でも必ず行ない、必死の思いで頑張った事が、今も良い思い出となっている。学校生活の中では、二学期の途中に編入入学した事が、何となく引け目を感じていたが、学期末試験の成績は、僅かに上ったものの通信事項欄に赤字で「成績不良に付一層努カサレ度シ」の記載を頂き素直に有難く当然と受け止めていた。
小学校創立100周年記念行事の一環として開催された「展示会」
に出品した父の作品です。材料は総て自宅の庭先で父が丹念に
育てた花・木を使用しています。
(9)生徒会の構成・活動等
各科ともに各学年のクラス毎に「学級委員」を1名・三年生の中から「全校委員」を1名で構成されていた。学年毎に各科・各クラスの委員は
* 木材工業科1クラス・1年〜3年=3クラス学級委員3名
* 建築科1クラス・1年〜3年=3クラス学級委員3名
* 工業化学科2クラス・1年〜3年=6クラス学級委員6名
* 各科を通じて3年生から・全校委員1名 委員合計13名
となっていた。各学期毎に必要に応じて「委員会」が開催されていた。この委員会には、各科毎の生徒指導担当の先生各1名(計3名)が参加されて居た。委員会の活動内容は、現在の生徒自治会の性格・内容等ほぼ同じであったと思われる。当時は、学校制度の改革時期でもあり、生徒会の活動は極めて低調で、その存在価値は殆ど感じられず、形式的な感じであった。
2 木材工業科二年生
自分は一年生の時、途中(10月1日〕入学していた為、学校生活が全般的に何となく馴染みにくい感じであり、馴れる事に随分努力していたが、二年生からは、一学期から始まる為、本気で勉学に取り組む決心を新たにした。
(1)学科
学科授業の中には、どうしても好き嫌いが有った。でも嫌な学科にも積極的に取り組む事に努めた。一年生の時に比較して全般的に勉強に興味が湧いて来た事が、自分なりに嬉しく感じ、一層頑張りの原動力ともなった。この様にして何事にも、気持ちをプラス志向に変化させ、努力したがその成果はあまり芳しくなかった。
(2)実習
実習の授業でも二年生では比較的難しい作品へと進んでいった。例えば、
* 机(平机・片袖机・両袖机)
* 椅子(背付・片肘付・両肘付)
* 水屋(框組み作り)(一段物・二段重ね・三段重ね)
* 下駄箱(框組み作り)
* 箪笥(三尺・四尺)(一段物・二段重ね・三段重ね)(框組み作り)
等の製作が授業科目となっていた。また、三年生と共通部分も多かった。これらの作品に当てられる材質によって評価が変わっていた。比較的堅い材質の雑木の使用が先生から指定されると内心優越感を感じていた。作品完成後の最終評価は、全般的仕上がり具合いに、重点が置かれていた。木材工業科の実習教室は、扉等の建具が無く開放され風が吹き曝しであった為、冬は寒くて手先の自由がきかなかった事や、また暑い時には流れる汗で手や足が滑るなど厳しい環境であった事が懐かしく思い出される。また、刃物の研ぎ方・調節の難つかしさ・手入れ・その他いろいろな工具の使い方・手加減と言った技術的な面・要領が実に微妙に難つかしかった事等が忘れられない良い思い出になっている。その他、作品の組み立て順序・力加減・材質に依っては、組み合わせ部分の強さ・弱さの作り加減・湿度による膨張程度・乾燥に依る収縮程度等、物に依っては、作品を組み立てる場合の天候にも、配慮しなければならない事には、本当に感心させられ、「技術の心髄」に触れた感じを受けた。また、場合に依っては、使用する接着剤の種類・性質・濃淡・塗布時期等の
微妙な調整も実に難しかった。組み立てが終り、外形がほぼ完成すると、次に、最後の仕上げ工程に進むことになる。二段重ね・三段重ね等の製品の場合には、それぞれ重ねた状態で最終仕上げが特に念入りに行なわれて完成する事になる。塗装工程に進むに当たって、先ず下地を油性にするか、それとも水性にするかを選び、次に、色や模様・表面仕上げの「ニス」の種類や色などを決めてそれぞれの材料を準備する。これらの事柄を判断するに当っては、そその製品の材質・木目・節の有無・継ぎ目の有無・製品の種別・最終の仕上げ後に取り付ける金具の型式・色・材質・取り付け位置等を勘案して決定する。塗装工程に於いても、その時の天候・直射日光の有無・気温・湿度・風の有無(塵の付着に注意)・風の方向等について考慮する事が大切である。各工程とも大事であるが、この仕上げ工程は特に大切で慎重にも慎重に取り組む様に教えられた。最後に、金貝の取り付け・開き戸の取付け・引き戸・引き違い戸の調整、据え付けの安定調整など仕上げの授業時間には、担任の先生の検査を受け、作品全体の講評と評価・得点を頂いて、自分なりの満足感を味わったり、反省点を復習するなど、楽しかった思い出が懐かしい。この様に作品を通じて、一学期より三学期に向かって除々に難つかしくなり、また複雑で巧妙な技術の奥深さが理解・納得出来て自信を強くした。
(3)学校内の生活等
二年生になってからは、後輩の一年生が入学して来た為、先輩気分が湧いて少し生意気気分になった事が思い出となっている。反面、三年生の先輩との板挟みと言った感じも湧いて何だか複雑な気分で過ごしていた記憶がある。三年生は、名実共にその貫禄を示し二年生・一年生を良く仕切っていた。二年生の間の学校生活は比較的平隠に過ごしていた。自分の気持の中には、一年生の時に、「豫科練帰りの途中編入」であった事が、どうしても頭の中から消えなかった。その分人並み以上に努力をしなければならないと、常に念頭において頑張った。その結果、頭を使う学科は苦手で、その成果は思わしくなかったが、体を使う実習は得意で、その成果は随分体得出来たと感じて自分なりに少しは満足していた。でも、苦手な学科こそ重点を置くべきだと思った。入学以来二年生の終り頃に、色々と反省してみると実習の授業は基礎的・技術的な部分が少しは体得出来た感じがしていた為、三年生になれば、苦手な学科授業に重点を置いて、新たに勉強に取り組む決心をした。
また、学校以外の家庭生活や知人・友人との良い人間関係なども体験しながら、一人前の社会人として恥ずかしくない様に頑張る事も真剣に考えた。
(4)家庭・日常生活等
二年生も終りが近づいた頃から自分も学校生活に溶け込んで比較的に気楽に過ごしていた為、両親を始め家族が一応安心した様な雰囲気が感じられる様になった。一頃は、鶴崎工葉学校へ入学したが長続きするだろうかと随分心配をしていた様に思われた。この頃の家族構成は
父 順 平 農業の傍ら屋根葺き職
母 千 代 農業・家事
姉(長女) ハルヱ 看護婦・病院勤務
兄(長男) 勝 美 農業の傍ら屋根葺き職
姉(二女) 久 枝 農楽の傍ら親戚の商店手伝い
姉(三女) 芳 子 農業の傍ら会杜動務
私(二男) 幸 喜 鶴崎工業学校
妹(四女) 文 子 鶴崎高等女学校
妹(五女) 邦 子 国民学校
妹(六女) ツネ子 国民学校
妹(七女) 美江子 国民学校
弟(三男) 憲 一 国民学校
の12人家族で、父母を中心に皆元気で苦楽を共にしながら過ごしていた。戦時中子供が多い家庭は「誉れの家」と表彰され、家の入り□にその旨表示され、家族全員の「誇り・自慢」でもあった事が懐かしい思い出となっている。父は、非常に厳格で極めて厳しい躾けを受けていた事が特に懐かしく、そのお陰で現在の自分があるのだと深く感謝している。また、華道の師匠免状を取得し、その他、水引き花輪造り・謡曲・護身術等多くを学び身に付けて、幅広い特技を自発的・積極的に活かして、社会奉仕活動等に励んでいた。この様な父の人柄が多くの人々の信頼を得て、知人・友人も多く、交際や活動の範囲は随分広く、その名前も広く沢山の人々に知られて居た。また、子供の数が多い事でも広く知られ、自分もその一員である事の喜びや、その反面、恥ずかしさ等も体験したり話題の多い有名家族であった。このように女7人・男3人兄弟姉妹の大家族の中で育った為、人間関係での微妙な心遣いや思いやりと言った人情的な事柄や、譲り合い・助け合いと言った行動面のしっ けが厳しく、わがままだった自分の存存が注目の的と成っていた。また、村や部落内の青年団活動の中でも、家族生活の延長の様な気持ちで気楽に他人と接する事が出来た事が、本当に良い思い出となって居る。村祭りの関連行事への参加。また、青年団主催の「定例会議」「野球人会」「親睦登山会」「演芸会」「親睦旅行」等のレクリェーシヨンや、道路・用水路の清掃奉仕等にも積極的に参加した。これらの行事に参加し、多くの人々の触れ合い等で本当に良い社会勉強が出来た。その他、色々な機会に、多い家族の友達も沢山居た為、何事でもすぐ親に知られて叱られたり、また、褒められたりした事も懐かしい思いい出となっている。学校の、登校・下校時の行動に至るまで周囲の人の監視の中に置かれた感じで、多い人目の中で毎日が過ぎていった。通学には何時も誰かと一緒に連れ立っていたが、間もなく最上級生となり、全ての面での義務と責任が生じて来るなど、その立場を自覚しなければならないと思った。
3 木材工業科三年生
二年生の学年末の春休み中の、3月27日・28日の両日村の「若宮八幡宮」の春祭りが行なわれたが、戦争前の賑わいは全く感じられず淋しい祭りであった。村の青年団で来年は「山車曳き」の行事を復活する事が決まり楽しみにしていた。いよいよ学校生活も最後の一年間、三年生の一学期が目の前に迫って来た。
(1)学科
工業学校を卒業して社会に出ても、果たして学科成績が役立つだろうか否か、疑問を持っていた。この様な価値観は別にして、学校で勉強する以上、少しでも良い成果を得る事を目標にして真剣に取り組む決心を強く固めた。不得手な科目(英語・歴史・地理)の授業時間がある前の日の夜や、授業前に「この授業が自分に与えられた一番大切な科目だ」と、神に祈る気持ちで、「繰り返し・繰り返し自分の心に言い聞かせた」嫌な事を好きに転換する為の自分で考え付いた自分の精神修行だと決め付け実行した。同時に、授業時間には先生に好感を持ち、話しを真剣に聞き取り成るべくメモする事を心掛けた。その夜必ず復習して自分の物にした。もしも理解出来なければ次の授業時間に先生に質問する事とした。質問すれば先生は良く説明された。この様に、質問して先生の詳しい説明を直接受けると、物凄く良く理解・納得出来て自分の頭の中でも「ノート」も良く整理が出来て非常に効果的だった。また、質問することに依って、先生の印象が良くなり、授業を受ける時の嫌な気分が少しずつ消えて行き逆に良い気分で授業が受けられる様になった。やる気を出して真剣に勉強と取り組み頑張る事を決心し、それを実行しながら三年生の学校生活は過ぎていった。その結果、各期末試験の成績が上り、予想以上に良い成果が得られた。豫科練生活の体験・工業学校生活の体験等から「何事でも本気で真剣にやれば出来る」と言った決心と実行力が、将来の人生に役立てる自信がついた。
(2)実習
二年生の終りから引き続きの作品もあった。三年生からは各工程の中でも高度な技術を修得する為の作品が増えていった。主な作品は、
* 和箪笥(五尺物・三段重ね)
* 洋箪笥(比較的高級な二段重ね)
* 和洋折衷箪笥(比較的高級な二段重ね)
* 和室用応接台(一枚天板物・框組天板物)
* 碁盤・将棋盤(比較的分厚い作品)
等の製作が授業科目で、終戦直後で材料不足の為、満足な実習が出来難い事情のもとで実習授業の具体的な研修内容は、二年生の場合とほぼ同じであった。作品に使用する材料・材質の確保・入手困難等の理由で、十分な実習授業が出来なかった事が非常に残念であった。特に、塗装工程で大切な塗料の種類の選択・塗装の模様作成技術の修得が困難であった事が残念だったが、就職後の研究課題にする事とした。設備面の不備・不足も指摘されていた。例えば
* 工作機械の新設・備付
* 工具類の購入・取替え・備付
* 上質の材料・高級材料の確保・適正な管理
* 実習教室の改善充実
* 材料保管場所の安全確保
等の間題点があり、生徒会から担当先生へ改善して頂く様に申し入れたが、当時学校制度の改革の時期で、改善要望は取り上げて貰えなかった。工業学校木材工業科の課程では、原則として最低限度の基礎教育であった。三年生の卒業前に、工具など刃物による負傷・物の倒壊・転倒・落下・盗難・火災等の事件事故防止等安全管理面の授業を受けた事が良い勉強だった。生徒各自の注意が不足していた事が反省され就職後新職場で役立つと思われた。三年生の卒業が近付くに従って実習時間は、放課後に引き続いて行われる事が増えていった。卒業作品の完成予定が近付くと、先生の許可を受けて日曜日に登校して先生と一緒に進めた事もあった。また、作品も生徒に依って異なった物が指示されていた為、先生が他の生徒に教える実習を見学して覚える等、作品に対する勉学意欲が高まっていった。先生の作品は、注文を受けた物ばかりであった為、その作成要領を盗み見して感心しながら覚えていった事も思い出される。自分に与えられた最後の作品は、三段重ね五尺箪笥で欅材の使用が指定され感激と不安の毎日であったが、やっとの思いで完成した。検査・採点結果は、自分なりに満足出来たので、ホッ,と一安心した。クラスの皆からも賞賛の声が聞かされた事が、嬉しくて忘れられない良い思い出となって居る。
(3)学校内の生活等
三年生になると上級生が居ない事が随分気楽に感じた。学校内の生活でも自由時間、自主的な活動が増えていった。学校生活も残り一年間となり、最後の頑張りを改めて決心し実行するチャンスだと自分に言い聞かせた。学校生活の総ての事柄に精一杯頑張った。その結果、一学期の期末試験の成績が随分上り、「通告簿の概評上・中・下」の区分が「上」の評価を得て、何とも言えない喜びと満足感で心から感激した。担任の先生が三年生から「MM」先生に変わっていた。二年生までの担任であった「OK先生」からも褒められ、激励の言葉を頂いき本当に嬉しかった。家でも、両親を始め家族皆んなに喜んで頂いたが、なお一層気持ちを引き締めて頑張る事を心に固く誓った。一学期が終わり、夏休みとなったが、その間も、家の手伝いや学習にも良く取り組んで自分なりに頑張った。
やがて二学期が始まった。昭和22年9月1日の二学期の始業式の席上「昭和22年度第二学期間全校委員ヲ命ス」の辞令を頂き生徒会の最高責任者である「全校委員」を命じられた。自分には余りにも重たい責任を負わされた感じで一応辞退したが、聞き入れて貰えず、どうする事も出来なかった。先生からは、「誰にでも出来る事ではない名誉な事で全校委員も良い勉強になる」と諭されて受諾せざるを得なかった。生徒会の自治活動の内容が随分多く、先生と生徒の間の連絡事項・クラス同志や生徒間の間題・通学時の風紀間題を先生から指摘を受け生徒会での反省・検討会を開いて処理する事等に苦労した思い出等、本当に忙しい毎日であった。全校委員としてやる以上は、真剣に取り組み一生懸命頑張った。二学期は、生徒会活動が随分忙しく負担に感じたが、馴れるに従がって除々に解消され、勉学・復習・実習も比較的良い気分で続けられる様になってきた。年末・学期末も迫り、二学期の期末試験の成績も僅かに上り自分なりに満足・納得出来て、益々やる気が湧いていた。冬休みの間は例年と同様に、家の手伝いや予習復習にも無我夢中で頑張った。友達や知人とも誘い合って良く遊んだり学校生活最後の正月を楽しんだ。正月が過ぎて三学期を迎えた。昭和23年1月8日の始業式の席上で、「昭和22年度第三学期間全校委員ヲ命ス」の辞令を頂き、全校委員を命じられた。二学期から引き続きの形となったが、頑張る事とした。いよいよ二学期が始まり、この頃から、三年生の卒業後の就職の噂話や、自分達の希望なども機会ある毎に囁かれる様になった。この様な話には興昧が湧いて生徒間の親密感も強まり、生徒会自治会の立場から、また、全校委員の自分の立ち場からも非常に良い傾向と思われた。学校内で勉強の場所でも慌ただしい雰囲気の毎日が過ぎて、早くも三年三学期の、学期未試験の予定が発表された。学期末試験にも髄分馴れて来た感じもしていたが、目前に迫って来ると、どうしても気持ちが動揺し緊張感が強まり、不安感も増していた。学校生活最後の期末試験だと思って無我夢中で全力を尽くして頑張った。卒業後の就職先について、色々思い悩んだ結果、親とも相談して、先生から話があった会社へ入杜する事が決定していた。三学期も終りが近づき学校生活を反省して見ると、一年生の二学期に途中編入入学以来自分なりに良く頑張り、ここまで来られた事は先生・学友・家族など皆様のお陰だと感謝の気持ちが一杯で卒業式を迎える事となった。昭和23年3月26日鶴崎工業学校講堂で卒業式が行われ、その席上で「操行優良学術優等賞」を頂く事が出来た。「通告簿」の「通信事項欄」に赤字でその旨記入され、一年生の時の「成績不良二付一層努カサレ度シ」の文字列が並び対照的で嬉しく感じた。卒業式の式順で表彰される生徒の氏名が順番に読み上げられ、自分の名前が聞こえた瞬間全身が極度に緊張し、両手を固く握り締めて感動し満足していた。一生自分の心に残る本当に嬉しく大きな良い思い出となっている。卒業式が終わり受賞者が、各自で適宜に職員室へお礼の挨拶に行き、担当のMM先生・OK先生・校長先生へお礼の挨拶を済ませた。その時、各先生方から、お祝いの言葉や、激励の言葉を頂いて、一年二学期の編入入学した時、校長先生の面接で話された言葉など懐かしく思い出され、年月が過ぎる早さを痛感していた。クラスでは皆との最後の別れを惜しみ懐かしい思い出話等で賑やかだった。暫くすると担当のMM先生が最後の挨拶に教室に来られた。誰からともなしに、大拍手が起こり暫く続いた。一応静かさを取り戻した瞬間先生は、温情に溢れた信頼出来る本当に良い表情・笑顔で、概ね、次の様に話された。「健康に注意し学校で学んだ事を社会で役立て頑張る様に」と言った趣旨の話から始まり、先生も感無量で声は続かなかった。更に続いて、「ご両親を始め家族の皆様に無事卒業出来た事を話して宜しく伝えて下さい。皆さんもこれから先、何時でも学校に遊びに来て下さい。その他、新しい職場や、進学先の学校などでも、困った事や相談事があれば、遠慮なく尋ねて来て下さい。出来るだけ力になりたいと思います」と言った内容のお話をされた瞬間、大きな柏手が湧いてきた事が思い出される。
鶴崎工業学校木材工業科・卒業記念写真
(4)家庭・日常生活等
村では終戦後、次々と若い人が復員帰宅し賑やかくなっていた。青年団員も随分増えて多方面での活動が除々に盛んになり、兄も青年団役員として頑張っていた。自分も鶴崎工業学校では三年生・村では青年団の一人として色々な行事に参加するなど、色々な事を体験して自分を磨きたいと心掛けていた。村の「八幡神社の春祭りの行事」で戦争の為中止されていた「山車曳き」を来年から復活させる事となり、村全体が何となく明るく喜びで活気づいていた。我が家では、次々と姉三人が嫁入りする事となり、嫁入り道具の家具は自分が作る事になった。二年生の三学期の頃から、家でも忙しくなった。日曜・休日や下校帰宅後は殆んどこれに従事していた。和服箪笥・洋服箪笥・水屋・下駄箱・鏡台・針箱等の製作で家での実習時間が随分長く続き、本当に良い勉強になった。これらの作品の材料を取り揃える為、何か所も材木店・製材所を尋ねて、より良い材料を探すのに苦労した事が思い出となっている。又、姉に依っては作品が出来なくて嫌な思いや迷惑を掛けたり、不公平な印象を与えた事が本当に申し訳なく、今も心から詫びたい気持ちを消す事が出来ない。姉が一人づつ嫁入りし家に居なくなると、その都度何とも言えない淋しさが込み上げて、妹や弟達と密かに悲しんだ事が懐かしく思い出される。この様な感情は、その立場により内容的に多少の違いがあるとしても、嫁ぐ姉本人は勿論、両親も同じであったと思われた。姉が居なくなった事で何となく自分の責任が重くなった様な感じがして、妹や弟達と一層親密感が湧き仲良く出来た思い出が懐かしい。青年団の会合や行事に出席しても、その席で嫁入りした姉達の事が話題となり 何となく淋しさが皆の表情にも良く現れ、機会ある毎に姉達の在りし日の懐かしい思い出話が聞かされたり、話し合ったりした事が良い思い出となっている。それから後は、機会ある毎に、姉達が遊びに来てくれる事が何よりの楽しみであった。姉達も里帰りを楽しみにして、泊まりに来られた時には、色々な思い出話を夜遅くまで楽しめた事が何よりの喜びであった。この様な時でも、自分で必ず復習・予習を続け、皆から褒められたり激励された事など在学中の自分の行ないが話題になる事が多かった。月日の経つのは早いもので、やがて年末・正月が近づいてきた。冬休みに入って家に居る時間が増えていた。大勢の家族の皆が慌ただしい感じで、それぞれ自分の生活を楽しみながら過ごしていた。我が家ではこの一年が大きな変化の年であった。
今年(昭和23年)の正月は、姉三.人が嫁いで初の正月で、淋しさを心機一転、自分は学校年活最後の正月を感慨無量な気持で迎え正月から何か新しい事への挑戦として毎日「日記帳」を記入する事にした。この「日記帳」は、現在も自分の「宝物」として、大切に保存してあり、時々読んで昔の懐かしい思い出を楽しんでいる。正月1日午前中、大分の「S先生の家へ新年の挨拶に行った」先生は大変喜ばれた事が強く印象に残っている。1月3日先生が「日直」だから学校へ遊びに来る様に言われ約束し、T君を誘い2人で3日午前中、学校へS先生を尋ねた。S先生からも色々な話を聞かされ、学校生活最後の三学期はしっかり頑張る様に激励され一層頑張る事を心に誓った。その後S先生の家に良く招いて頂いき、先生が自宅で作成していた作品の手伝いをしたり、実習の細かい部分の作成要領や手順などの「手ほどき」を教わるなど実のある技術を身に付ける事が出来た。その他、就職先や就職後の心構えや同僚との人間関係の大切さ等本当に良い話をされていた。「暫くして就職の事でS先生の『家庭訪問』を受けた」その日、学校へS先生を迎えに行き、自転車で自宅まで案内した。自宅で両親とS先生は、自分の学科や実習・技能程度等話され、卒業後の就職問題に就いて説明された。両親も納得し最終的に自分の就職先がこの時決定した。次にS先生は、丁君の所へ「家庭訪問」される為、丁君の家まで案内した。丁君の就職先も相談の結果、自分と同じ職場へ二人揃って就職が決定し、共に喜びを分かち合った事も印象に残っている。S先生は、大分市内に住んで居られた。「魚釣り」が趣味で、魚釣り道具を一揃い持参され、家庭訪問が終わってからの帰途、丁君と2人で近くの大野川で魚釣りを楽しまれた模様で、その翌日学校で皆の前で「沢山釣れた」と、笑顔で嬉しそうに自慢話をされていた。間もなく春の暖かい季節を迎え桜の開花と共に、鶴崎工業学校生活も懐かしい色々な思い出を残して、昭和23年3月26日卒業式を済ませた。村では明日からの祭り気分で「山車曳き」準備など賑やかな雰囲気だった。