ま え が き

 最近「IT革命」と言う言葉が盛んに使われる様になりました。

その言葉が流行し始めた頃の、平成9年12月21日、三田市内で自宅の一室を事務室にして、グラフイック・デザイナーとして、必要なIT機器を設置して自営していた娘の家族3人(雅彦・はる美・健太)が、一台の「ワープロ」をわが家へ持ち込んで来た。

 機種の入れ替えで不要になったもので、親の老化予防に役立てて欲しいと言ってきた。メーカーは「東芝Rupo」だった。付属品としてA4版・厚さ2センチメートル・400ページ余りの取り扱い説明書2冊・フロッピー15枚・等が、机の上に備えられて急に賑やかな良い雰囲気となった。

その当時、息子(育男)・嫁(和子)達もパソコン(IBM)・ワープロ(Canon)を自宅で愛用していた。常日頃から子供宅を訪問した際、その機能の素晴らしい威力に感動し、私も近い内に取り組んで見たい気持ちが秘かに湧いていた。

私は、昭和55年春頃、当時の職場にコンピューターが導入され、その準備期間に約6カ月間、毎日2時間「キーボード」の操作・関連機器の取り扱い操作要領等の特別教養を受けて、その後約3年間、その仕事に従事していた。

 これらの経験を生かし、また子供や孫達との話題も増えて、より良いコミュニケ−ションが保てる等のプラス面も多く、また、定年退職後の現在365連休中の私の「生き甲斐」・「心の拠り所」にも成り、更に、現在の「IT革命」の時代の波に乗り遅れない為にも、この際思い切って「ワープロ」の取り扱い操作に取り組んでみる事を決意した。いよいよ自分の新しい人生の門出を意識しながら「ワープロ」に向かった。

 キーボードの「ひらがな文字」の位置を昔の記憶を辿りながら、思い浮かべて新たに記憶して、文字の変換・挿入・削除・移動等から始めた。

 最初の間は、思う様に動かず、取扱説明書を繰り返し読んだり、子供や孫の助言を受けては画面に向かい、夜遅くまで必死の思いで練習し、時間の過ぎるのも忘れて頑張った事も今は懐かしく感じる。この様に練習を重ねるにも、何か一つの目標がなければ成果が上がり難い事に気付いた。

 そこで、自分の人生を振り返り、体験等を「思い出」として文字で記録する事に挑戦した。昔の変色した古い関係書類を調べ、また写真を見たり、薄れた記憶を辿り、兄弟姉妹の記憶力も借りて活字を並べる事に生き甲斐を感じた。

 その後、嫁が「ワープロ」を、更に息子が「パソコン」を持参してくれた事が、益々私の心を激励し情熱を燃やしてくれた事に深く感謝している。

 これを機会に、「パソコン講習」に参加して勉強を重ねて現在に至っている。 最近、「デジタルカメラ講習」も受けて、パソコンに昔の写真の取り込みや印

刷も試みて、この冊子「思い出」の中に編集することにした。    以上。


昭和11年3月頃の家族記念写真
その後2人生まれて子供10人家族となった

1幼年期 (1)

お爺さんが目の病気で寝たきりだった。小学校入学前の頃だった。約1メートルの棒の先にほぼ同じ長さの糸を垂らし、糸の下に重しを付けた遊び道具を作った。その重しをお爺さんの手の先に触れると、それを掴もうと手が重しを追いかけ、お爺さんの気持ちが、最初はその手先に集中していたが、間もなく怒りだし大声を出している表情や振る舞いが面白くて、何回も繰り返し自分はこれを「爺さん釣り」と言って居た。これが親に伝わり、大変叱られたが毎日続ける為、母と姉(長女)2人にひどく叱られ、母に竹の棒で叩かれた事が一番古い思い出となっている。向き合う姉が膝魔づく自分の両手首を強く掴み、母が火熾し棒(60センチメートルの竹で火を熾こす時に火を吹く道具)を持ち自分の尻を強く叩いた。自分は

「歯を食い縛り・声を噛み殺して男泣し・涙を流し」

痛みを我慢していたが、何回も叩くので我慢出来ず、反抗する気持ちが湧き、

「もう少し大きくなったら今度は反対に掩が叩いてやるからなあー」

と大声で叫んだ。すると、母が一層激しく怒り出し大声で怒鳴りながら「何を言うのかまだ解らんのか、謝る気持ちは無いのか」と言うなり更に強く尻を叩いた。自分は追い詰められ切羽詰って咄嵯に「姉の手に必死になって噛み付くと「血」が流れ出した」それを見て自分もびっくりしたが、その瞬間姉の手が離されたので、その途端に無我夢中で走って逃げ出した。近くの川や河原等で一.人で・誰にも見つからない様に、また、隠れる様に遊んで居た。

日が落ちて暗くなると怖くなり、人目を避けて「物置小屋」の中に隠れた。そこで痛みと怖さが入り交じって色々考え時間を過ごした。暫くすると

「隅みの.奥の方で鼠が走り回る・音・チューチューと鳴き声」

が聞こえたが日頃から鼠には馴れて居たので心が少し落ち着いた感じがしていた。夜父が怖いと思うと、一層不安な気持ちが湧き、痛みと怖さが入り交じっていた。少し寒く感じたが我慢して居た。暫くすると父と兄が帰って来た気配がした。

「父の特徴の有る咳払い・兄の自転車の音」

一瞬全身が引き締まる感じ、息を殺して様子を見守って居たが・特に変わった様子は感じなかった。自分では、完全に隠れて居るつもりが・親は“チャン”と居る 揚所を知って居た、暫くすると、物置の扉が開き、

「幸ちゃん出て来い・中に隠れて居るのは解っている」

と、母の声が耳に飛び込んできた瞬間、その言葉遣いで「許して貰える」と直感し

頭から覆いかぶさっていた「筵」を払い除けて出てきた。黙った儘母の後ろに付い

て家の中に入り、皆と一緒に父の「頂きます」の言葉で夜の食事をした。

今日の出来事に就いて、両親や姉を始め誰も一言の言葉も無くその夜が過ぎた。自分も内心本当に悪いと反省の気持が湧いたが言葉に出せず過ぎ去った。

2 幼.児期 (2)

天気の良い或る日母の手伝いをする様に言われ母と二.人で稲刈りをして居た。

遊びたい気持ちを自分なりに我慢し本当に嫌な気分で、左手で稲の根元を握り締めその左手の下の稲株元を、右手に持っている「鎌」で刈り取り後ろ側に刈り取った稲を並べて行った。並べ方が悪いなぞと母に叱られながら手伝いしていた。この様にして暫く手伝っていたが、母に向かって何か文旬を言いながら、母と□喧嘩となりひどく叱られながら益々嫌な気分で稲刈りを続けていたが、自分で意識的に動作を徐々に荒っぽく振る舞っていた。間もなく自分の荒っぽさ・不注意で、

「左手小指に強烈な痛みを感じ、真っ赤な『血』が滴り落ち右手

に持って居た『鎌』が、左手小指の外側から食い込んで内側に

突き抜け『鎌』の先端が小指内側に突き出しているのが見えた」

咄嵯の出来事痛みに自分もビックリし強烈な痛みに大声で泣き叫んだ。その声に母がビックリして大声で「どうしたのか.」と怒鳴りながら近寄って来るなり手早く

「左手小指に食い込んだ[]を抜き取り『血』が吹き出す小指

を母の手で握り締めながら首に巻いていた『タオル』を素早く

取り出して『血まみれの小指』に強く巻き付けてくれた」

母はすぐ自分を背負って心配そうな声で、自分に励ましの言葉を掛けながら、医者に向かって走り続けた。医者までは約1キロメートルの距離があったが、母の背中に負われて居た自分はその間

「痛い痛いと大声で泣き叫びながら怪我をした左手小指」

に巻かれた「タオル」を見ると「血」が滲んで真っ赤に染まっており、益々痛みを強く感じていた。医者に行くのが嫌で家で治したいと母の背で自分は思っていた。自分を背負い一生懸命に走りながら、自分の怪我を心配する母の励ましの声を聞ききながら間もなく医者に着いた。待合室で暫く待っていたが、その間、母の荒くて早い息遣いをしながら自分の様子を気遣う母の声が今も耳元に残っている。間もなく白衣を着て眼鏡を掛けた医者が診察室から出て来られ、すぐ診察室の中に案内されたが入るのを嫌がる自分の背中を母の手で強く押され仕方無く診察室の中の椅子に座った。その途端、怖さや痛みが心配になって大声で泣き続けていた。

母が医者に説明し、手術台の上に寝かされた自分の上に母が覆いかぶさる様な格好で押さえ付けられ、怪我をしていた左手を手術台の外に差し延べて自分には見えない様にしながら「治療」していた。この間随分長い時間に感じたが強烈な痛みに耐え我慢するのが精一杯であった事が記憶に残っている。

その後、約一週間毎日通院し後は時々通院して治療を続け約一か月で全快した。

今も自分の左手の小指に、この時の傷跡がはっきり残っており、機会ある毎に思い出され、この時の親不孝を「謝りたい」気持ちで心から亡き母に感謝している。

3 国民学校 (1

国民学校1年生に入学し学校で友達が沢山出来て毎日楽しく過ごしていた。受持ちのRS先生は、独身で色白・面長・背の低い・小柄な優しい女の先生であった。勉強は余り好きでなかったが、遊ぶ時間が何よりも楽しみであった。勉強の時間で一番好きな科目は音楽・図画・体操だった。読み書きする勉強時間が本当に嫌いであったが、我慢して静かに過ごして居たが理解出来ない事が多かった。

上級生の中には兄が一人、姉は三人居たので家族が四人学校に居ると言う気持ちが心強く感じて居た。友達と喧嘩しても誰かが助けてくれると思っていた。この様な思い上がりから学校生活に馴れると、良く友達と喧嘩する様になっていった。友達と一緒に、悪い遊びをするのに興味を持つ様になり、また子供同志で自分の強さを自慢する様になった。

運動場で人の輪が出来て何事かやって居ると思い行って見ると

「人の輪の中で幸ちゃんが喧嘩して居た」

と言う姉達の話が、毎日の様に家で話題となってきた。当然、兄・姉・親等から自分に注意され、その時は自分なりに理解出来て

「喧嘩してはいけない」・「悪い事をしてはいけない」

と思う反面、子供心の甘えが出て「自分だけでない・他にも悪い奴は沢山居るではないか」

といった気持ちが湧き、その為か学校へ行くとその様に注意された事など子供心にすっかり忘れてしまい益々わがままが強くなり

「人には負けたくない」・「勝ちたい」・「強くなりたい」

と言った男らしい気持ちが湧いて、また喧嘩してしまう毎日が続いていた。時々上級生からも注意されていたが、家で受けた注意と同じように聞き入れられなかった為か、時々上級生から自分が殴られる様になってきた。上級生には弱く

「悔しさが込み上げて来たが、自分なりに我慢した」。

やがて梅雨となり・雨降りの日が暫く続いた。国民学校入学以来「雨傘」を使う日が少なかった為、子供用の「蛇の目傘」をさして帰るのが嬉しく、友達5〜6人で帰る途中雨は止んでいた為、親や先生から注意・禁止されていた子供の遊びで

「戦車遊び・タンク遊び」

をしようかと誰からともなく話が出て皆で交替して遊ぶ事となった。その遊びは、

「傘を開いて横にして手で持つ柄の棒の部分を腹の前で

両手で持ち二人並んで傘の丸くなって油紙を張ってある

天井部分を一人は右に、一人は左に出して車の両輸

の様に傘を転がしながら歩いて前に進んで行く遊び」

を何回か繰り返しながら遊び、その遊びが終ってそれぞれ家に帰って行った。

天気が良い日は仕事に出て行き、家に居ないはずの父や兄もこ日は雨の為家に居た。父や兄が家に居ると、日頃から何となく窮屈で嫌な感じがしていた。

学校から帰り直ぐ背負っていた鞄を下ろし、何時もの様に決められた場所に「蛇

の目傘」を乾かす為、開いて干しておいた。

暫くすると父から呼び付けられた。父は干していた傘の側に立ち怖い顔で自分を睨らみ付けて居た。また叱られる、タンク遊びが父に知れたのかも知れないと直感した。父は自分に向かって

「又傘を転がしたなあ一」・「傘の骨の先に泥がついている」。

と、強い言葉で言った。もっと叱られるのが怖くて自分は悪いと思いながら

「転がしたりして居ない.

と、嘘を言った。父は益々怒りだして強く大きな声で

「又嘘を言う・悪い事をした時は・チャンと認めて・謝れ」

と、叱られたが、今更認めるわけにもいかず、転がして居ないと嘘を言い続け、同じような言葉を5〜6回繰り返しながら、父の怒りは益々高まっていき、遂に

「自分の顔を父は平手で何回か強く殴り、その為

自分はめまいがして、その場に倒れてしまった」

すると父は、倒れた自分を更に、踏んだり蹴ったりしながら

「何時まで嘘を吐くのか」・「何回言えば解るのか」

等と、言いながら暫く続けられた。

それでも自分は嘘を言い続け、謝る事をしなかった。すると父は怒りながら、

「倒れ込んで居た自分の両足首を両手で掴んで、自分の

体を逆様にぶら下げて走りだし、雨で増水して流れの

激しい家の前を流れていた堀の中へ、服を着たまま自

分の体を投げ込んでしまった」。

あっ、と言う間の余りにも激しい出来事に自分は「必死の思い」で泥水に流されながら道と反対側の畑の中へ這い上がると、父は堀を飛び越えてその畑の中に先に居て自分を捕まえ様とするので、父から逃れる為又泥水に流されながら様子を伺っていたところ、堀の幅が広くなって父が飛び越える事が出来なくなった。これ幸い今が逃げられると思って畑によじ登り、畑の中を逃げようとしたが、着ていた服が濡れて重たくて動き難い不自由な事を、初体験した。泥水を少し飲んでいた為か「胸がむかつき・吐き気・咳が激しく出て・空腹」等の為殆んど動けなくなった。

成り行きを見守っていた母と兄が迎えに来てくれた。子供心に放心状態とも言える感じの自分に、母も兄も注意やら慰めの言葉を掛けてくれた事が、本当に暖かく感じたがこれが自分の甘え心かもしれないと、反省らしい感じもしていた。家の中に入り母が濡れた服を脱がせてくれた。濡れている服はこれ程脱ぎ難くい事も初体験したが、母の力でやっと裸になれた。母は兄が準備してくれた熱い湯につけて暖めたタオルで、全身を丁寧に拭いてくれた時の暖かさ・感じの良さ・気持ちの良さ・母の優しさなどが今でも忘れられない思い出となっている。母は体を拭きながら先程の出来事や日頃の色々な出来事を次々と話していた。

* 悪い事をした時は素直に認めて謝れ

* 先生や親・姉・兄の教えを素直に聞いて良い子になれ

* 友達を誘って悪い事をしたりさせたりするな

* 学校や家でも兄や姉を良く見習って仲良くし勉強しろ

* 誰が相手であっても喧嘩は絶対するな

など自分に言い聞かされたが自分には皆解っていたが守られなかった。またこの時、日頃学校で良く喧嘩している事を父が何時も心配している話しも聞かされた。この時ばかりは母の話しを素直に聞く事が出来たと思う。今頃になってよく考えてみると、この様な事が「母性愛」と、言われるものかと気が付いて今は亡き母に限りない懺悔の気持ちが強く湧いてくる。その夜、皆で一緒に食事を済ませた後で、父が今日の出来事に就いて皆に話しをして、家族全員で力を合わせて、他人に笑われたり、後ろ指を指されたりしない様に厳しい注意を受けた事が思い出となっている。

この夜、兄弟姉妹に笑われたり、馬鹿にされたり・褒められたりしながら過ごしたが、自分には余り理解出来ていない様な気がしていた。今考えてみると、自分には「喉元通れば熱さ忘れる」と言う諺が当てはまる性格が強いのではないかと思われる。

4 国民学校(2)

雪が降り積もった真冬の寒い或る日の出来事であった。この日も学校で喧嘩をした。その原因は、久し振りに雪が積ったので皆で「雪合戦」をして遊んだ時に、

「余りにも強く雪の塊を何回も投げ付けられた」

と、文句を何回も繰り返して言われた。自分は「雪合戦」では当たり前の事ではないかと思って、その気持ちを相手に話したが解って貰えないので、暫く我慢していたが、相手はまだ何回も文句を言い続けながら、しまいに殴りかかってきた。

それで自分も我慢しきれずに

「何回言っても解らないのかと言いながら相手を殴り返した」

その為に喧嘩になってしまった。この様ないきさつであった為、自分では悪い事をしたと言う気持ちは持っていなかった。学校から帰ると、雪が降り積もっていたので雨降りの日と同じように、父も兄も家に居た。何時もの様に父や兄が家に居ると何となく嫌で窮窟な感じがしていた。

今日は、日頃とは何となく家の中の雰囲気が少し違うと直感した。何故なら、

「居間の火鉢を囲んで父・兄・母の3人が何か話し合って居た」

3人とも顔の表情が何時もとは違い怖く緊張していた、皆の視線が何となく自分に向けられている様に感じ、何事か解らないが自分の事が心配で話をしている様子が直感で解った。この頃から人の顔色を良く見分ける事が身に付いてきた。皆の顔が今まで何回か叱られた時と同じ顔に見え、自分を見る皆の視線や動きなどの身振りや雰囲気から自分の事だと子供心に直感出来る様になっていった。

最近、自分が言う事を聞かず「嘘」を言ったり、「勉強」もせず・「喧嘩」をし

たり[悪遊び」をするなど、何回も注意されたが、余り効き目が無かったので注意される事が多くなり厳しくなっていた。

今日の雪合戦の事が原因の喧嘩を、そんなに早く親が知る筈がない。それとも誰かに聞いて知っているかもしれないと自分なりに思ったりしていた。

暫くすると父に呼ばれ父と向かい合わせに座らせられた。兄が右・母が左で向か

い合わせに座っていた。自分の直感がやはり、当たったと内心思った。父は、

「今日学校であった出来事を正直に全部話せ」

と、言われ、続いて母も同じ内容の事を優しい言葉遣いで言われた。自分では、今日の学校での喧嘩は相手が悪いと思い込んで居たので、正直に有りのままの話をした。父母兄の3人とも黙って自分の説明を聞いていたが父は、

「始めから正直に全部話せと言ったのに今お前の話しを聞

いていると少し間違っている事があるのではないか.

と睨み付けていた。今日の喧嘩も自分が先に手を掛けたのに嘘を言っていると誤解していたらしかった。日頃から良く嘘を言っていたが今日は正直に全部話したので信じて欲しかった。自分はどうしたら良いのか解らず暫く黙り込んでいたが、

「今日は正直に全部話し嘘は絶対言っていない」

と自信を持って父に言ったが信用して貰えず父は益々怒りだした。

「お前は何回言い聞かせても解らん、言う事を聞かない

嘘を言ったり、喧嘩をしたり、悪い事ばかりしている

早く良くなる様に身も心も洗い清めてやる裸になれ」

と言いながら自分の側に来て「服を脱いで裸になれ」と大声で怒鳴られた。

「自分は仕方なく服を脱ぎながら今日は嘘は言っていない

正直に話したのに何故裸にならなければならないのか」

と思いながら服を脱いでいる間、母と兄は父に止める様に話していたが、その話を聞きながら父は意地になってか母や兄に向かっても益々怒っていた。

父はこの日、特に機嫌が悪かった様に子供心に感じていた。母と兄も同じ様に感じて居た様に思われ、いつの間にか姿が見えなくなっていたので自分は一層不安になっていた。父は、  「裸になり寒さや不安で震えていた自分を井戸端に連れ

て行き、立ったままの姿で両手を合わせて合掌し目を

閉じて全身に力を入れ頭を少し下げてお祈りする姿」

に寒さと不安や恐怖が強まり、父は何かお説教をしながら手に洗面器を持ち

「嘘を言ったり・喧嘩をしたり・悪遊びをしたり

しない様に、これからは本当に良い子になる様に

今から水を頭から掛け身も心も清めてやる」

と言うと同時に、物凄く冷たい水を頭から浴びせられ5〜6回続けて掛けられた。最初に水の冷たさが全身に「針」を刺された様な痛みを感じ思わず

「うわーっ・痛い一・冷たい一・もう止めて一」

と、泣きながら大声で叫んでしまった。その途端、後ろの方から母の叫び声で

「私の育て方が悪かったから、幸喜をこんな目に遭わせ

て可愛そうだから、私も幸喜と一緒に水を浴びる」

と言う声が近づくと同時に直ぐ横で「ドボ一ン」と水の音と共に、母が裸で水亀の中に飛び込んでしまった。自分はその様子を見た途端に

「冷たく・寒く感じていた自分の全身が急に熱く感じ

裸で濡れている自分の全身が暖かくなり、母も自分と

同じ目にあったと思い、本当にびっくりして後はどう

成ったかあまり記憶していなかった」

兄と父が2人で「水亀」から母に上がって来る様に話していたが、母は自分をかばう様に父に向かって、色々文句を言いながら直ぐには上がらず、父や兄は随分説得に苦労しながら母をやっと引き上げ家の中に母が入った時には、自分はいつの間にか先に家の中に入っており、母は後から入ってきたと記憶している。

この様な出来事で家の中が何となく暗い感じが暫く続いていた。自分でも今日学校での出来事は家に帰って本当に正直に全部話したと言う自信と安心感や自慢しても良い気持ちが子供心にあったのに、何んでこんなにひどい目に遭ったのかと思う気持ちが消える事が無く、この時から父への不信感が強くなった。今になって良く考えてみても父は常日頃の事が積もり積もって一度にそれが爆発した感じ、母は目先のその日の出来事のみを見ていたと同時に、その日は正直に全部話し、嘘は言っていないとわが子を信じた「母性愛」が大事なわが子をかばい・守り・助け・苦楽を共にすると言った母心が強く感じられる。

5 国民学校 (3)

父に対する「不信感」「反抗的態度」「恐怖感」「嘘」等子供の特徴的な悪い方向へと進んで行き、叱られる事に随分と馴れて、意地悪な気持ちが強くなって行った。自分でも意識して父に対する復讐的な気持ちすら湧いていた。強い者には勝つ事が出来ない。小さい者ではなく、大人の弱い者を苛めてやれと思う様になっていった。

夏の暑い日の午後友達78人で遊んで居た。近くの空き地で蛇を見つけた。長さ約1メートルのこの蛇を皆で追いかけながら捧で何回となく叩き、遂に動かなくなった。その蛇を棒の先に吊して持ち歩き遊んで居るうちに直ぐ近くの庭先で

「目の見えないお婆さんが草取りをしていた」

父が一番親しくしていた友人の親戚の「目の見えない」お婆さんだった。大人の弱い者苛めには、一番良い相手だと思って一緒に遊んでいた友達に、相談してお婆さんの側に置いて、ビックリさせてやろうか、と話が纏まった。

次に、誰がやるかと皆で話したが皆嫌がって居た。それでは「ジヤンケン」で決めようと言う事になり、一番負けた者がやる事になった。皆で「ジヤンケン」したが、人数が多すぎてなかなか決まらなかった。そこで半分づつ2組に別れて最後に残った者同志が11の決戦で決める事とした。その結果、自分が最後に負けてしまった。自分は本心最初から自分がやりたいと思って居たが、自分から言い出すと一番悪者に成るのを恐れて居たので、皆と相談して決める事としたが「ジヤンケン」でも自分に決まったので、内心喜んで引き受けた。そして「俺がやったと誰にも言うなよ」と皆に口止めした。

いよいよ実行する事となり、棒の先に「蛇」を吊して、お婆さんに近付けると急

に「首」に掛けて見たくなって、

そのお婆さんが、草取りしながら下を向き頭を

下げて居る時に棒の先に吊して居た「蛇」を、

お婆さんの後ろから「首」に掛けてやった。

お婆さんは、「キヤ一ツ」と大声で奇声を上げ、首に掛けられた「蛇」を刎ね除け泣きながら、更に大声で助けを求めて居た。お婆さんのあまりにも大きな声に、皆んながびっくりして逃げ出した。近くの人が、この出来事の成り行きを総て見て居た。隣近所で大きな問題となり自分が一番の悪者となってしまった。両親も本当に困惑した模様であった。大人同志でどの様に話が纏まったのかよく解らなかったが、その日の夜両親が菓子折りを2個準備して自分と3人で、そのお婆さんの家と、お婆さんの親戚で父の親友の所へ謝りに行

き、行き先の皆にも随分お説教され、何回も頭を下げて謝った。一緒に遊んで居た友達も親と謝りに行ったと聞いた。この時も親から厳しい注意を受け深く反省した。

6  国民学校 (4)

国民学校で授業が終わり放課後、掃除当番に当たり教室内と、外周の2班に分かれて交替で掃除をする事になっていた。自分は教室の掃除で雑巾の拭き掃除をするのが一番嫌いであった。教室の掃除当番の時には机や椅子を動かして、整理整頓だけをして雑巾掛けは他の者がして居たが、間もなくそれも嫌になり教室当番の日には外周の掃除当番の友達と交替してもらい、何時も外周の掃除のみをする様になっていた。この事について、クラスの一部の者は悪い感じを持っていたが自分には直接言う者は居なかった。

暫くすると、その事が親の耳に入り、両親からひどく叱られたので、次の日から普通に教室内も外周も両方共決められた通りに掃除する事にした。誰が親に告げ口したのか解らなかったが、これまでの例から考えて見ると碓かにそれは兄か、姉だと思って居た。

両親から兄弟姉妹は仲良くする様に小さい時から厳しく躾けられていたので、どの様な事が有っても兄弟姉妹とは、喧嘩をしたり、争い事は絶対にしない事を厳しく守って居た。兄弟姉妹の仲の良さが村全体で大変良い評判となって居た。多い兄弟姉妹の中で自分一人の行いが特に悪るかった為、皆に、嫌な思いをさせたり、迷惑を掛けた事を反省し、自分で良い方向へ努力するように心掛けた。

この頃からは、妹が下級生として入学して居たので、妹の事を深く思う様になっ

て、今まで両親に厳しく叱られたり、又、随分ひどい目に遭ったりしていた事が、

自分にもやっと理解出来て「悪かったな一」と感じる様になって来た。

丁度この頃学校で「桑の木の皮集め」が始まった。

蚕に与える桑の木の葉の摘み取りが終った枝の「桑の木の若い技」が全部剪定し

切り取られていた。その長さは約1メートル前後に切り揃えられていた。

その切り取られた「若い枝の皮」を剥いで乾燥させる作業が続けられた。この桑

の木の「皮」が、戦時中繊維製品の貴重な原料に使われていた。

桑の木の若い枝を剪定し切り取られ、子供達が皮剥きする為にそのまま畑の中に放置されており、学校から帰って友達を誘い合って、それらの桑畑に行って皮を剥く作業が続けられて居た。剥がれた皮を各自が持ち帰って乾燥させて、決められた日に学校へ提出していた。ある日、大勢の友達と皮剥きの作業中に、同級生のMS君と些細な事で□論となり、MS君が、自分に向かって

「掃除当番でお前は外周だけで教室内の掃除をしていない」

と、皆の前で悪□を言った事が原因で又喧嘩になってしまった。

「最近は、自分も反省して今はどちらも掃除をしている」

と、言って説明すると皆その説明を認めていたが、MS君一人だけがこれを認めず執拗に色々な悪□を言い続けていた。

誰かがその時、MSを止めようとしたが、それも聞き入れず逆に大声で、他の者に突っ掛かったりしながら、自分に向かって喧嘩を仕掛けてきた。自分が最近はおとなしくしていたのを機会に、MS君は自分を征服して強くなる事を狙って居た。それまで喧嘩が強かった自分に狙いを定めていたと思われた。

MS君は、自分の様子を見て居たが、勝てると思ったのか大声を上げながら、皮を剥いだ桑の木を振り回しながら自分に殴り掛って来た。自分は今更、喧曄をすれば親に叱られ、兄弟姉妹に迷惑や心配を掛けるので、喧嘩はしたくなかったので、殴られない様に体をかわし逃げて居たが、遂に、左側頭のこめかみを「皮を剥いだ桑の木」で相当強く殴られ、

目から火が出た感じの痛みとふらふらとめまいを感じたので自分は堪忍袋の緒が切れ、反射的に、右手に持って居た「金槌」で、MS君の「頭の真上付近を一撃殴り付けた」すると「血」が流れ出したので、これは又、大変な事になってしまった。家に帰るとまた叱られると思いながら何食わぬ顔で皆と一緒に家に逃げ帰っていた。目分が持って居た「金槌」は、桑の木の皮を剥ぎ取る時、金鎚で叩いて割れ目を入れると皮が剥ぎ取り安かったので、これに使う為に皆な金鎚を持って居た。この日、夕方になって、MS君の父親が頭に包帯を巻いて居るMS君を連れて来た。

自分はどう成るだろうかと、心配しながら隠れて様子を伺って居た。

両親が話を聞いていたが、どちらの親も静かに話し合って居たので、大事には至らないものと子供心に少し安心感が湧いて居た。間もなく父に呼び付けられた。

自分は皆の側に行くと同時に無意識のうちに「どうも済みませんでした」と言って頭を深く下げて居た。この時、自分でも何故こんな態度が出来たのだろうかと不思議に思われた。父は、自分に向かって「お前は怪我をして居ないのか」と聞かれたので、自分もMS君に叩かれた左側頭部をなでると、側に立って居た母が、素早く寄って来て手で触りながらよく見つめて、「お前もここを怪我して居るのではないか」

と言いながら手のひらで撫でて居た。叩かれた部分が「赤く腫れ上がり3本筋が出来て細長い形」の傷跡が残っていた。MS君の父親も自分の傷跡を手で触りながら見届けていた。

暫くすると皆納得して機嫌良く挨拶し、MS君も父親と一緒に帰って行った。

MS君の父親は、今日の喧嘩の一部始終を一緒に居た友達に聞いていた為、MS君が先に手を出した事など、親として負い目を感じていた模様であった。

今日の出来事で両親は、自分の態度や言葉遣いが、大変良かったと褒められ、自分でも最近は良い子供に成れる様に心掛けている事が自然に態度や言葉に現れたものと嬉しく感じた事が今でも忘れられない良い思い出となっている。

こ日の夜、一年中でも正月元旦の朝のみ使用する「処世訓図の掛軸」を出して父の説教が始まった。掛け図の中心部の「学校」を卒業して社会に出て、上に向かって「善の道」・下に向けて「悪の道」を辿る説明を受けて、皆、上の「善の道」を実践する事を心に誓い・父に誓い父と約束して家族全員和やかに夜の食事を美味しく頂いた。


この「掛け軸」は叔父さん(父の弟)が、大分工業学校へ入学記念に
描いて頂いた物を表装して実家に保存している。父が「我が家の家宝」
と口癖に言っていた。中央に描かれた「学校」を卒業して、「上の道」を
辿れば「善」の道・「下の道」を行けば「悪」の道を辿ると言う人生の生き
方を教えたもので、機会あるごとに「父がお説教の材料」にしていたもの
です。絵の中の建物・樹木・地形・乗り物等に「説明する場合の意味」が
面白く込められていますが、細かい説明は、省略させていただきます。

7 国民学校高学年

学校で六年生や五年生と高学年に進めば、学校に妹や弟が増え、皆さん家では兄や姉・学校では上級生と言う二つの立場となり、それなりに価値の有る勉学や行ないをする様に、始業式で校長先生が話され、この言葉に自分は強い感銘を受けた。この頃から少し勉強する気持ちになり興味が湧いて先生や上級生、家では両親・兄・姉など目上の人々の話や言う事を良く聞く事が出来る様に成って行った。嫌いな勉強にも真面目に取り組む様に随分努力したが、今までの勉強が良く解って居なかった為、嫌や気がしたり、怠け癖が出たりして悩んだり、姉に激励され姉の知恵を借りて自分の勉強のやる気、やり方が姉の力に依って随分助けられた。姉達も、宿題や復習などの勉強は喜んで良く教えてくれ本当に良く理解出来た。学校でも先生の教えを良く聞いて理解する事に努力し、家ではなるべく復習する事を習慣づけて、自分なりに自発的な勉強に励んで行った。

家でも百姓の手伝いを良くする様になっていた。野菜の取り入れや出荷する準備を手伝ったり、荷車(リヤカー)に積み込み荷造りして翌朝早く野菜市場へ持って行く準備も良く手伝っていた。

姉や兄と2人で朝早く起きて野菜を積み込んだリヤカーを自転車に連結し1人は自転車で引き、1人はリヤカーの後押ししながら市場に運んで行き、見やすい様に揃えて並べ名前札を付け「競り」に掛ける為の準傭が終ると直ぐ家に帰り、それから朝食を済ませて学校に行っていた。

百姓の仕事は、季節に依って作物が色々と変わる為、その時に依って手伝う仕事の内容は季節に合わせ、作物に合わせて小さい子供の頃から良く手伝って居た。

作物も色々な準備をして種を蒔き、それが芽を出して少しずつ大きくなって行く自然現象が不思議に感じられたりして、農作物を育てる興昧や面白昧が湧き、この様に百姓の仕事は喜んで良く手伝って居た。

国民学校四年生になって自分で心を入れ替え勉強や家の手伝いも良く出来る様になり、友達など子供同志の遊びも皆なで仲良く過ごす様になって行った。五年生になっても、学業成績が上がらず自分で悩んでいたが姉に、「低学年の時にあまり勉強していなかったから、今急に成績は上がらない、これからも今の様に頑張り続けて居れば必ず成績が上がって来ると思う」と、言って激励されて自分なりに姉の言う通りかも知れないと思い、学校でも家でも出来る限り頑張り続ける事にした。

六年生になって受け持ちの先生が変わり、新しくKA先生が受け持ちとなった。

自分では感じが良い先生だと嬉しく思って、一層頑張る気持ちが湧いて居た。

自分が頑張ったと同様に他の者も頑張る為、追いかけっこの感じがして来た。

二学期の終りに修学旅行で「太宰府」に日帰りで行った。初めて皆と一緒に汽車に乗り本当に嬉しくて楽しい旅行気分で過ごした思い出が残って居る。

六年生の3学期には、進学希望調査があり、中学校・工業学校・女学校・国民学校高等科一年生在籍に区分され、各希望に依って進学準備が進められて行った。

自分は進学を諦めて、高等科一年生に在籍する事になって居た。

高学年に向かって、比較的変化の無い毎日が過ぎ総ての点で頑張り続けて六年生の卒業式が終り、受け取った「通知表」の成績は、各学期毎に僅かずつ上がって居た。自分なりに頑張って得られた成績だと満足し、先生や両親・兄姉達も自分の成績に頑張った跡が少し現れたと、少し喜び納得した様子であった。

六年生は61名のクラスで内39名が進学し、残りの22名が、国民学校高等科一年生に在籍が決っていた。卒業式が終り懐かしい思い出を残し解散して行った。

8 高等科一年生

進学した友達が居なくなり何となく寂しい感じがしていた。新たに22名の少人数で教室内の机・椅子も少なくなり、教室全体が広々とした感じがして、今までとは全く違った良い環境で総ての面で余裕の有る新たな気分で新学期が始まった。 自分は、今までと同様に自分なりに頑張り続ける決心をし、固く心に誓った。クラス担当の先生は、六年生の時と同じKA先生と決まった。生徒の人数が少ない為、先生と直接話をしたり、個人的に質間したり、教えを受ける事が気楽に出来る様になって、勉学意欲が益々高まり先生との親密感も湧いてやり甲斐を強く感じた。高等科の生徒になって何となく大人に近付いた感じがしていた。下級生の面倒を見たり、指導するなど纏め役の立場でも有った。

学校で部落ごとに「少年団」が結成され集団登下校・防空演習・避難訓練・など戦時非常体制に備えた行事が増えて行った。高等科二年生が役員に指名され、高等科一年生が補助し手伝って色々な団体行動が円満に進められて居た。

随分良い雰囲気で学校でも楽しい毎日が続き、家に帰っても気をひき締めてなすべき仕事は手伝い予習・復習も毎日続ける事が習慣付いて来た。

この様に一生懸命頑張った結果、一学期の終了式が終り「通知表」を受け取り開いて見ると、随分良い成績が並んで居た。

この様に良い成果が得られた事は、先生の教えは勿論、姉達の存在・姉達の教えやカを借りて、自分なりに真剣に取り組んで頑張った結果だった。本当に嬉しく皆に対して感謝の気持ちが強く湧いて居た。

また、多い兄弟姉妹・家族の有難さを改めて誇りに感じて居た。

この時の何とも言えない喜びや感激は心の奥深く刻み込まれ、引き続き自分の努力や頑張りの原動力となった。

先生から褒あられ激励され、家では両親を始め皆が喜ぶ様子が印象に残り益々やる気が湧いて来ると同時に、弟や妹達への思いやりの気持ちも湧いて居た。

何事にも本当に良い気分で「夏休み」を迎えた。夏休みには「海洋少年団」の行事で、部落毎に「海水浴場」に出かけて、皆で「海洋訓練・海軍の水泳訓練」などが厳しく行なわれ、その反面、海の面白さや楽しさ・恐ろしさも体験した。

間もなく夏休みが終り二学期が始まった。始業式で学級の「副長」を命じられた。級長の代わりに、色々と先生の手伝いや全校行事の参加、クラスの整理整頓や各種の行事に参加して用事を済ませる事で、毎日が早く過ぎて行く感じがしていた。この様にして、自分なりに何事にも粘り強く頑張り続けることに依って「何事でもやる気を出してやれば必ず出来るのだ」と自信を強め、なお一層頑張る事を自分に言い聞かせて居た。

二学期も終りが近付き年末の冬休みとなり、家では例に依って正月の準備や野菜の出荷で多忙を極め、手伝いする事も何の抵抗無く良く働いた。

正月も過ぎて三学期も始まり同じ感じで毎日が早く過ぎた。間もなく三学期も終りが近付き、高等科一年生の終業式で「通知表」を受け取り開いて見ると成績は徐々に上がって居たので皆に対する感謝の気持ちで自己満足して居た。

9 高等科二年生

最高学年となりその立場上責任の重さを強く感じていた。始業式で校長先生から、各種の役員が任命された。また担任の先生が「UK先生」に変わって居た。

自分も「高等科二学年の間第三分団長ヲ命ス」の辞令を受け取り、部落の少年団組織の最高責任が背負わされ、不安を感じながら頑張る決心をした。

少年団活動では戦時非常体制関連の活動が多く、やり甲斐を感じた。学校では勉学に励み、少年団活動では部落毎に相撲大会を開いて体力・気力を養い、その他、消防団や婦人会の行事も良く手伝っていた。卒業式(豫科練入隊中不在)で少年団役員成績顕著で、次の「賞状」を頂いた。

この様に、自分は海軍豫科錬に入隊中の卒業式で「賞状・修了証書」が、担任のUK先生から自宅に届けられて、自宅の「神棚」に奉られて居た事が復員帰宅して、先ず自分の目に映り、何とも言えない心からの感激・嬉しさが思い出となっている。

この頃から学校では「食料増産」活動の一環として学校の「運動場の開墾」が始められた。放課後に高学年の生徒が先生と一緒になって通動場を掘り起こし、梅雨時の丁度良い季節の作物として「さつまいも.」の蔓が埴え込まれた。

この様な作業は、皆な馴れたもので見る間に作業が進められて行った。

丁度この頃先生から、「グライダーの『滑空訓練』が行われる事になった」ので、参加希望者の調査が有り、クラスの全員が参加希望をして居た。自分も喜んで是非参加したいと先生に強くお願いした事が記憶に残っている。

この頃から戦争の戦果が上ったニユースが大きく報道され、戦果は益々高まって行き、学でも「儘忠報国」の精神で軍国主義が益々高まり盛んに成って行った。

6月中頃の放課後の時間に学校の裏庭で「銃剣術」の訓練中にUK先生に呼ばれ教員室に行った。すると校長室に案内され校長先生が「滑空訓練参加者が君に決定したしっかり頑張って来い」と言われた。自分は嬉しくて「はい良く解りました」と元気良く感謝の気持ちで返事をした。校長先生も側に居たUK先生も笑顔で頷いておられた。家でも皆に喜ばれ激励されて間もなく滑空訓練参加の為、母と出発した。

10 滑空訓練の概要(高田村国民学校高等科2年生在学中)(全寮制)

日 時 昭和1972日〜昭和197月29日の4週間連続。

場 所 大分県直入郡荻村大日本飛行協会大分県支部第二地方滑空訓練所。

主 催 大分縣航空青少年隊(司令官坂田啓造〕・担当、広瀬教官。

科 目 学科授業・術科訓練・体育訓練(日曜・土曜・休日なし)

日 課 午前5:30起床・掃除・洗面・朝礼・体育訓練など。

年前7:30朝食休憩・午前8:30〜正午学科授業・昼休1時間。

午後1:OO〜年後5OO術科訓練

午後6:OO夕食・自由時間(自己研修・勉強復習・懇談など)

午後8;30点呼・就寝午後9時消灯。

学 科 教育勅語・青少年学徒に賜りたる勅語・の徹底的な教育を受けた。

(勅語は、期間中に全部丸暗記出来たが覚えるのに本当に苦労した)

術 科 グライダーの滑走訓練・地上滑走・空中滑走(高度段階15M)

入所時の思い出

(1)入所

母に連れられて訓錬所の前まで送っていただいたと記憶している。

途中大分駅で、他の入所者と一緒になり母親同志話していたが、子供同志は話しする気分にはなれなかった。名前は「羽田野」だった。

大分駅から豊肥本線に乗換え「荻駅」へ向かった。だんだん山奥へ向かって汽車は進んで行った。こんな山奥で過ごすのかと思うと何だか不安感が湧いていた。この頃から車中で友達と話すようになったと思う。

「羽田野」君は、積極的な性格だった。その為か話は余りおもしろく無かった様に記憶している。羽田野君の母親も随分話好きで自分の母に良く話しかけていた。親子ともよく似ているものだなと子供心に思った。

約一時間で「荻駅」に着いた。凄い田舎だなあと改めて強く感じ益々不安が強まった。羽田野君も同じ事を言っていた。駅から歩いて約十五分で訓練所に着いたと思う。

門の前に受付がありそこで母と別れた。途端に寂しさが込み上げて一瞬泣きそうになったが必死の思いで我慢した。教官の指示に従って教室に入りいよいよ訓練生活が始まった。

(2) 寮の生活

教室で、先ず各自の席が決められた。次に毎日の日課・訓練生活の注

意事項・全員の自己紹介・教科書の配付等が次々行なわれた。終わっ

て寮に案内され各自の寮内生活の場所が指定され持ち物の整理をした。

寮の建物は木造平家建で中央に通路があり、両側に畳が敷かれ壁側に透明ガラスの窓には古い感じの茶色のカーテンが設けられていた。窓の下の壁の部分に布団が置かれていた。窓の上に棚があり、その上に各自の持ち物が置かれる様になっていた。この寮でいよいよ団体生活が始まった。生まれて初

めて親元を離れたという寂しさ、団体生活の不自由な一面、不馴れな人間関係の何とも言えないぎこちなさ、それにもまして一番つらかったことは「空腹」に耐える事だった。

夜、床に入って頭から布団を被り周囲の人に気付かれないように、母が作ってくれた「ひやき」(メリケン粉を練り合わせて餅の形にして焼いた団子の一種)を毎日一個ずつかじりながら眠りに就いていた事が、特別懐かしく思い出され母恋しい気持ちが高まっていた。鞄の中から、この「ひやき」が毎日一個ずつ減ってきて最後に無くなれば、家に帰る事ができるのだと思いながら頑張った事も懐かしい思い出である。

当時は、この食べ物が「携帯食品」としては、最高の食べ物であった。

(3)術科訓練

グライダーの各部分の名称・部品の名称・組み立てる順番・総合調整・機体の運搬移動方向変換要領・塔乗姿勢方法・着眼点・操縦桿の持ち方・動かし方、繰縦感覚・緊急時の措置要領・等々実体験によって技術を覚える様に指導を受けて身に付けながら毎日厳しい訓練が続けられた。グライダーは2機で1機に10人で各任務を持ち。初滑走の快感は忘れられない。

(4)訓練参加で得られた事

次の事柄が体験によって身につき以後の生活に大変役立った。

* 時々家族団欒で食事している夢を見るなど家族の有難さを体験した。

*  身の回りの整理整頓、洗濯・掃除などが良く出来た。

*  規則正しい生活に馴れ、決められた事が実行出来た。

* 友達の誰とも好き嫌いなく話が出来る様になった。

*  学科時間に、「広瀬教官が『青少年学徒に賜わりたる勅語』が暗 記出来て、目を閉じて言える者は言ってみろ」と言われた時、いち早く立ち上がって暗唱し始め、最後まで3人残って言えたとき、3人とも教官に褒めて頂いた事が、最大の喜びであった。

(5)終了式

四週問の団体生活も終って見れば実に早かった。親元を離れ孤独な生活が長期間続き、初の団体生活でいろいろな事が体験出来て身に付いた事で、自分なりに大人に近付き、将来希望して居る海軍の豫科練に、もし入隊しても

この体験が直ぐに役立つものと思い、次は豫科練志願を決意して四週間の訓練を終り「終了証書」を手に、感動を覚えながら帰途へついた。

(6)帰宅

終了式が終って「終了証書」・「身分関係書類」を頂き、教官から帰宅途中の注意を受けて訓練所に於ける総ての行事が終った。

各自で荷物を持ち、教官の命令で隊列を組んで訓練所の門まで送って頂き、訓練所の門前で解散し近くの「荻駅」に向かった。帰途は、数人の父兄が訓練所の門前まで迎えに来て居た。

自分は勿論のこと大部分の者は誰の出迎えも無く、訓練生は皆な久しぶりに帰宅出来る事が嬉しくて色々思い出話を楽しみながら賑やかな雰囲気で間もなく荻駅に着いた。

大分駅まで皆一緒だったが、大分駅で皆と別れ一人で日豊本線に乗り換え、鶴崎駅で下車した。この間、帰宅出来る安心感や開放感の為か「独り旅気分」も味わった事が思い出される。

四週間ぶりに帰宅し、今まで一番怖く感じて居た父母の顔を始め、家族の皆の表情が物凄く暖かく感じられ、皆な本当に喜んで自分を迎えて頂いた心が、家族の親密感を一層強く感じられた。久し振りに家族団欒の輪(和〕の中で夜の食卓の「母の味」は今も全身に深く沁み込んで居る。

(7)登校

帰宅の翌日、早速学校へ行き「修了証書」を手にして校長先生を始め、担任のUK先生が教員室で全部の先生に報告されて居た。自分は本当に嬉しくて、それから先は、どこの担任の先生も気安く話が出来て先生方の人柄が大きく感じた。

この様に高等科二年1学期の終りの四週間(72日〜729)滑空訓錬に参加し、訓練が終り帰って来ると直ぐ「夏休み」となった。この四週間の勉強の遅れを取り戻す為、夏休みの間、殆んど毎日学校へ行き自主的に勉強して居た。友達も良く学校に遊びに来て、滑空訓練の体験談を良く聞かれたりして勉強が思う様に進まず、その時には自分も遊び半分の気分になって良く話し合って居た。当番日直の先生からも訓練の内容や感想など色々な話を聞かれ話題が多かった。

勉強が予定通り進み、復習もほぼ終った頃、やがて2学期が始まった。

 高等科二年生・第2学期

始業式で校長先生の訓話の中で自分の「滑空訓練への参加と無事終了」の話をして居られた。更に、生徒全員が一致協力して頑張り、必勝の精神を養って、学業・訓練に励む様に話されて居た事が今も心に深く印象付けられて居る。

2学期の役員任命式で自分は「本學期間級長ヲ命ス」の辞令を受け取った。

家に帰って両親や家族にこの辞令を見て貰った。皆な喜び激励を受けた。

学校では勉学・心身の鍛練・軍事訓練などに、また少年団活動でも防空演習・勤労奉仕・他の団体の手伝いなどの総力で戦時非常体制に取り組んで居た。

この頃、兄は陸軍衛生兵として長崎県五島列島の陸軍病院で軍務に就いて居た。長女の姉は中支(現在の中国)の野戦病院で従軍看護婦として派遣されて居た。一番頼りにして居た姉の、二女・三女も軍需工場に動員され通勤して居た。

この頃、若い者は男女を問わず、海軍の「七ツ釦は櫻に錨」の通称「豫科練」に強い憧れを感じて居た。2学期が始まって間もなく先生から、十四歳以上の者は、乙種飛行兵(通称・豫科練)・工作兵・整備兵に志願する事が出来る様になった。希望者は志願兵として試験に合格する為、勉強に励む様に激励を受けた。この当時から、自分の人生の総てを「豫科練」に賭けて必ず試験に合格して、晴れの「七ツ釦は櫻に錨」の勇姿を目指して、お国の為に頑張る決心を固めていた。早速家に婦って両親に相談した。両親を始め家族全員が大賛成して大いに気を良くして居た。その後の経過は記憶に残って居ないが、学校で色々な手続きをされ最終的に同期生三人に合格通知が有り、更に、「精密身体検査の為出頭命令」を受けて三人で「身体検査」を受けた結果三人揃って合格した。三人の中から、自分が一番先に「入隊命達書」を受け取り、現実に直面すると、喜び・不安・別れの寂しさ等複雑な感情が芽生えて動揺したが、夢を抱き希望に燃えて入隊した。