村祭り(就職・社会人の第一歩)

1 村祭り(宵祭り)

昭和23年3月26日、大分県立鶴崎工業学校・木材工業科を気分良く卒業して懐かしい校舎や先生・学友と別れを借しみながら開放的な気分で帰宅した。その夜、早遠「青年団の総会」が自宅で開かれ兄と共に自分も出席した。明日から二日間に亘って、村でただ一社奉られた「若宮八幡宮」の年に一度の春祭りの行事等の最終打ち合わせが議題であった。主な結果は記憶に依ると

* 27日・宵祭り 「山車」の組み立てに全員参加する。

* 28日・本祭り 「山車曳き」に全員絶対参加する。

* 29日・慰安会(竹田城杜の見学・小旅行)に全員参加する。

* お祭り関連の各種行事で、負傷等の事故防止に心掛ける。

等が決議され各自で、必ず行事に参加し皆で楽しく祝う事が約束された。この総会の席で、今日各地の中学校・工業学校・女学校等で行なわれた卒業式の話題や、
軍隊生活の思い出、戦前の祭り・山車曳きの思い出話などの雑談が多く、
深夜日付が変るまで賑やかに続き、自分の思い出に残る楽しい総会であった。
この日の総会へ出席し参加した事が自分の「社会人」としての第一歩であり、
人生の意義ある出発点・原点と心に秘めて、自覚を新たにした。
この度の村祭りには終戦後初めて、村の青年団主催で「山車曳き」の行事が
復活し、復員した若者を含め青年団員で大々的に執り行なわれる事になった。
自分は懐かしい小学校の同級生や友人等に久し振りに出会える機会でもあり
この行事を楽しみにして、他の若者と共に喜んで参加する事にしていた。
「山車」は、村全体で六台が、それぞれ創意工夫を凝らして自慢の勝負を競い
楽しんで居た。型・寸法・外観等は、ほぼ同じ規模に作られ、
次の様に皆なで簡単に組み立てられる作りになって居た。
檜材で約
20センチ角の柱を約2メートルの高さと間隔で作った四角い枠を作り
枠の中の空間に、直径
2030センチ・長さ5メートルの磨かれた檜の丸杖を
縦に二本・横に二本入れて棒の中央に枠を位置し、枠の柱と丸材をロ一プで強く縛り付け、
樫材で直径
15センチ・長さ5メートル、上端約1メートルを金色メッキの銅板で
槍型に作った柱を枠の真中に立て、枠内に前向きで座り太鼓が叩ける様に、
柱の前に太鼓を縛り付ける。四方の柱に白紙御幣を吊した榊を取付けて完成。

宵祭りの27日は、朝から自宅近くで総会の約束通り年団員に依って部落の
「山車」の組み立てが始められ、自分も参加した。皆と力を合わせながら分担を
決めて組み立てが進められ大体うまく出来上がり、皆んな満足し明日の本番に備えた。
家では、姉達が里帰りして賑やかく、妹達も一緒になって明日の祭り本番に備えて
母に手伝い祭りに供える料理作りに、忙しく立ち回って居た。この夜、
久し振りに親子水入らずで本当に楽しく賑やかな一夜が過ぎた。 
嫁いで行った人が、宵祭りの日に一人で里帰りし、翌日の本祭りに婿さんが家族と共に、
お客様として訪問する事が習慣になって居た。

2 村祭り(本祭り)

前日の疲れも見せず姉達も早く起きていた。昔の子供心に返って大勢で楽しく食事をすれば、
ひときわ美味しく感じ、相変わらず賑やかに朝の時間が過ぎた。部落の集荷場に
出発準備が出来た「山車」を、一目見ようと大勢の人達が集まり、祭り特有の色とりどりの
晴れやかな服装で、見物しながら賑わって居た。部落の青年団員
30数人が全員上下白色の
服装で集合して、見物人の前で先ず、「山車」に祝杯を上げ、今日一日の無事と安全を
祈願し、一致団結の気勢を上げて出発準備が完了した。出発予定の午前
10時に「山車」を
皆で、精一杯差上げて数回上下に揺すった後、勢い良く皆なで担いで練り歩きながら、
「山車曳き」が始まり、ゆっくり進んで行った。見物人も「山車曳き」の後に続いて歩き、
1500メートルの距離に在る若宮八幡宮の境内に集合予定の正午前に到着する事が出来た。
境内の指定された場所に「山車」を安置し、約
1時間休憩を兼ねて、
祈願祭やお神楽・舞いの奉納などが行われて居た。境内には

u       お御輿 1  村の壮年団・消防団の役員が担がれる。

u       屋台車 1  八幡神社の地元の部落所有・誰でも引く列に入れる。

u       山 車 6  各部落から1台・それぞれの部落の青年団員で担ぐ。

が並べられ、記念写真を撮ったりして、賑やかに過ごした。公道から約100メートルの
参道の両側の桜並木が満開となり、祭り気分を一層高めて居た。桜の下の通路には出店が
並び、子供心をうまく捕らえ繁盛していた。お御輿は、午前中に神社近くの部落を巡行され、
午後は残りの各部落を回られ、終れば河原の「練り場」の決められた場所に「安置」される
習慣になって居た。神社から約
500メートル東の河原が「練り場」になって居た。

大勢の子供達に引かれた「屋台車」を先頭に、籤引きで決められた順番に従って
威勢の良い掛け声の若者達に担がれた「山車」が、次々と派手に練りながら「練り場」に
向かって進んで行った。この練り場で約
2時間休憩し、
その間に前もって家族や親戚の人達が陣取っておいた近くの場所で、
皆で精魂込めて作られた美味しいご馳走を、お客さんや家族達と共に、
酒やビールも手伝って賑やかく昼食を頂いていた。このひとときが、
一番楽しい・良い気分でお祭り気分が最高潮に達し、本当に楽しみな嬉しく有難い
習慣となっていた。このような一連のお祭り行事が立派な日本文化として、
昔から長い伝統として引き継がれ後世に伝える様に祈って居た。
休憩の間みにご馳走を腹一杯食べ満腹感にアルコールも手伝って、
皆が張り切って元気はつらつ、いよいよ本番の「練り合わせ喧嘩」が始まった。
山車の正面に前方に突き出された、丸太の前方先端を「突き合わせて」上に押上げ丸太の
後方の端を地面で固定し、横の丸太を前方に強く押して、山車の前方を斜め上に
徐々に押上げ、横の丸太の右左の力関係を「分団長」の指揮・采配に従って
加減する事に依って、上方で「突き合わせ」た部分の

「バランスが乱れ『突き合わせ』が外れ先に落ちた方が負け」と成って勝負が決し、
同時に落ちた場合は、やり直して決着を付けていた。
大勢の観客もこの瞬間に大拍手で激励や感動の歓声を上げながら応援して居た。
この様に練り合わせの勝負は夜まで続けられ、暗くなれば備え付けの部落名入りの
「提灯」に点灯し、如何にも祭りらしい一層良い雰囲気が盛り上げられて居た。
8時頃、「練り場」で、村の青年団長から総ての行事の終了宣言・謝辞があり、
来年の再会を誓って、最後の「練り」を楽しみながら、出発場所まで観客の先頭を進み、
最後の御祭り気分をたっぷり味わいお祭りが総て終りとなっていた。
家に帰ると、家族・親戚・お客さんなど、皆が待ち詫びて笑顔で賑やかに拍手で迎え、
思い出話を楽しんで居た。この夜も、皆で賑やかに面白い話題が多く遅くまでたっぷり
楽しんで居た。

青年団員の「山車曳き」姿・風景・若宮八幡宮正面広場

3 村祭り(慰安会)

当日の日記帳を開いて見ると昭和23年3月29日(晴れ)起床四時、昨日の山車曳きの
うちあげに竹田城見物に行った。

四時半出発、判田六時の汽車に乗って行った、行き着いて、演藝會や二重の扉などして
面白かった。其の外色々見物して、非常に楽しかった。帰りに汽車の故障のため二時間
延着したので大分から歩いて帰った十二時頃帰りついて夕食後すぐ就寝、三十日記入。

と、旧国語漢字を交えた文字で、昔の青色のインキで書いてあり当時の、
自分の日常生活態度や様子が思い起こされ、本当に懐かしさが、滲み出ている。
連日の祭り関係の行事の疲れも見せずに、若い頃の皆なの元気な姿が瞼に浮かんで来る
感じがしてならない。日記帳で次の三十日の記事を、部分的に見ると、昨日の疲れが出て
十時起床、午前中何をする時間もなく…今日は、姉の三人が帰ったので非常に淋しくなった。
と、その当時の自分の素直な気持ちが書き残されて有り、何気なく習慣として書いた
日記帳の存在価値が高く感じた。日記の記入は現在も二十数年来続けて居る。

4 村祭り(反省・後始末)

この様に、工業学校卒業に引き続き3日間、社会人としての第一歩は、村祭り関連の
各種行事に参加する事から始まった。家族・親戚・友人等皆な集まって、「山車曳き」の
復活など懐かしい村祭りで何年振りか、本当に賑やかで盛大な祭りをたっぷり楽しんだ。
特に自分なりに参加して随所で、久し振りに出会った懐かしい知人・先輩・友人などと
親しく笑顔で挨拶や昔の懐かしい思い出話などが出来た事が、何よりも嬉しく、
大きな収穫であり、本当に有意義なお祭りであった。その後は、ただ何となく祭り関係の
疲れが残って居た為か、何とも言えない空虚な感じが暫く続き、この間は、青年団の祭り
関係の後始末の手伝いや、家の手伝をしたり、家で注文を受けた家具作りなどをして
過ごしていた。

5 会社への就職

工業学校卒業に際してお世語して頂いた会社で働く事が現実と成った。初めて社会に出て
人生最初の就職を体験する事となった。正規に就職するまでは何となく
不安な感じがしていた。昭和
23415日・KT君と二人で、自転車に工具箱を積んで会社に
向かった。会社は、
S先生に案内されて卒業直前に一度訪問して居た。
その時事務所の人達は既に顔見知りとなって居たので、事務所で挨拶して
100メートル離れた、「家具工場」へ着いた。工業学校木材工業科で特別講師をされて
居た
K先生が「工場長」として居られ、笑顔で迎えて頂いた。儀礼的に挨拶を済ませて、
早速仕事に取り組んだ。初仕事は、忘れられない懐かしい思い出となって今もはっきり
記憶して居る。当時、別府市内に進駐軍が随分沢山進駐して居た。
米軍関係の仕事は注文即納品と言った緊急性が求められて居た。
そこで工場長から色々と詳しい説明を受け、納品が急がれていた。
進駐軍兵士の自宅で備え付けの『ボックス』の製作」であった。
形式・寸法・仕様・等詳細に図面に示されて居た。
「ボックス」とは、日本の台所で使って居る「水屋」と「食器棚」を合わせた
機能を持つ様な型式の物で、図面を良く見ながら作成に取り掛かった。
暫くの間は、この作品が次々と注文を受け、忙しい毎日が過ぎて行った。
職場では、常に
KT君と同じ内容の仕事が続けられて居た。ボックスの仕事が終わり、
次の仕事からは、その時の注文の品物に依って、
KT君とは別の作品が指定され仕上がり、
納品期日も一定して居なかった。当時、会社の財政・経営状況はあまり芳しくないと
工場長から話を聞いて居た。自分達の給与は、日給月給で一日
100円、
交通費全額支給となって居たが、あまり細かい事は工場長に一任して居た。
やがて一ケ月が過ぎて給料日(15日)が過ぎても何の説明も無く反応は無かった。
工場長の催促で19日に内払金
1000円が支給され、自分で稼いだ初給与だった。
暫くすると注文が随分減って時々仕事を休む様に会社から話があり、工場長からも
「会社の経営方針でやむを得ない」と言った言葉も聞かれ、この職場の将来性が
心配され強い不安を感じた。
(当時の「日記帳」を読んで見ると、不安定な仕事が続いて
居た事が記されて居る
)工場長も随分気遣いされて居たが、工場長の紹介で建築大工の
手伝いに行く様になり新築家屋の現場手伝いを暫くの間続けて居た。自分は、
鶴崎工業学校編入前から「建築大工・棟梁」に情熱を燃やして居た為、
建築現場での大工さんの手伝いも、気分良く取り組んで居た。大工さんは、
人情味が厚く好感の持てる良い人格の持ち主だと尊敬して居た。
内証話として個人的に「弟子として一緒に働かないか」と、
誘いの声を掛けて頂いた事も有って、随分気持ちが揺れて、
この際思い切って「建築大工」への転身を真剣に考えたが、自分の一存では判断に迷い、
思い切って父に相談した。父は、

「自分でよく考え家具職人としての現在の自分が有る事を

念頭に置き義理人情に反する事は絶対許されない」

と言った内容の堅苦しい言葉が厳しい表情で聞かされた。父の言葉の意味・内容が
よく理解出来た為、「建築大工」への転身を思い止まり家具職人として働き続ける
決心を固めた。これらの建築請負の大工仕事は長続きする事がなかった。
一か所の現場が終わると次の仕事が入るまでの間は、時々元の家具工場の仕事にも行って
居たが、給与の支払いは随分遅れたり、分割払いと言った状況が相変わらず続いていた。
会社の本来の仕事は「土木・建築請負業」であった。「家具工場の経営」は、
付属的な感じがして居た。いずれの仕事の経営も行き詰まりの感じが強く、
同業者間でもこの様な噂話が流れて益々不安感が高まって行った。

6 会社の閉鎖・退職

この様な状況が二年近く続き、会社の経営が絶望的となり、遂に「家具工場」が閉鎖された。
工場長も生活がかかっており途方に暮れていた。工場長のご尽力に依り、間もなく精算され、
工場長と共に
KT君も一緒に思い出の会社を退職した。
希望に燃えて初めて就職した意義深い会社が、この様な形で閉鎖となり人生の出発点に戻り、
再出発を決意し複雑な気持ちで「家具工場」を去る事となった。工場長は、
自宅の職場で引き続いて仕事をされて居た。その後も時々遊びに立ち寄り、
その都度今まで通りの本当に良い笑顔で歓迎して頂き、
本当に素晴らしい師匠に恵まれて居た自分の人生の幸せをかみしめて居た。
その後、知人の紹介を受け、大分市内の「木工工場」に、就職したが、
職人同志の人間関係が複雑で、殆んど親戚関係者が多く、労働条件・待遇・応接態度や
言葉遣いに至るまで、差別が大き過ぎる等余りにも身内意識が職場を支配し職場の
不公平感が強かった為三箇月我慢の末退職した。自分の気持ちの中で二度の退職は
ショックを受けた。

7 家事手伝い

その後は、自宅で注文を受けた家具を製作する傍ら家事・農業の手助けなどで、
毎日を過ごす生活が続いて居た。この頃、農業学校卒業して、引き続き農業に携わって
居た村の若者達から、農業畜産業の改善・改革気運が随分高まりを見せて居た。
この当時から「農耕作業現場への機械の導入・ハウス栽培の推進・家畜舎の改善」等が
青年団活動の中でも、農業学校出身者が中心と成って良く論議されて居た。
この頃、村では主に「乳牛」や「豚」「鶏」の飼育が盛んであった。農作物の種類は、
季節に依って主に次の作物が主流を占めていた。

白菜・大根・ホウレン草・葉物野菜・人参・午傍・茄子・トマト・南瓜・西瓜・まくわ瓜・
瓜類・サツマ芋・小芋・馬鈴薯・落花生・大豆・小豆。ラッキョウ・ニンニク・玉葱・
葱類・大麦・小麦・粟・陸稲・米穀類・
等これらの、農作物を上手に、
良く育てる為の基本は、先ず、質の良い土壌作り・施肥の種類や時期・消毒・除草・天候に
依り散水・添え木
()等の保護対策・良い種を選び良い時期に蒔く・良い苗選び等、
諸々の要素が考えられて居た。
自然現象相手の農産物作りのむづかしさを研究し改善する為に、先輩達が農業学校へ
通学して勉強し、学んだ事柄を田畑の農業現場で実践を通じて研究改善・改良する事に
皆が力を合わせ真剣に取り組んで頑張って居た。青年団の会合の席で、
この様な事柄が議題に上り良く討論されて居た事が、自分なりに良い勉強となった。
村の行事で年一回開催された農作物の「品評会」で、出来の良い農作物の出品者は、
優良農家として表彰されていた。この席で受賞する事が最高の名誉であり、
生き甲斐とされて居た。この様に農家で生まれ育って、農業の苦労や生き甲斐が良く
自分なりに理解出来て、自分もその一員と成って共に働いて居た。また、この頃から、
農作物の出荷する手段・方法に随分改善が見られた。これまでは各農家が各戸単独で、
リヤカー
(ゴムタイヤの荷車)・自転車を利用して朝早くから汗を流しながら人の力で
市場まで運んで居た。改善内容は、数軒でトラックを一台借り上げて、出荷野菜を
数軒で積み合わせて運搬する方法が採られ、これに依って、「負担労力の軽減」・
「運賃の合理化」・「運搬時間の短縮」・「共同作業に依る積み降ろし作業の迅速化」等
飛躍的に改善され効果的な運搬手段と成って行った。この運搬方法が一般化し、
数人に依る「共同作業」の機会が増え、その事が良い人間関係の醸成に役立ち・親密感も
一層強まるなど、総ての面で本当に素晴らしく、良い思い付きであった事が村全体で
好評を得て、良い習慣となって行った。工業学校を卒業して就職した頃から、
国民学校の同窓会をはじめ、村や部落の「青年団活動」等に積極的に参加・出席し
、野球大会などのスポーツや、清掃奉仕活動等各種の行事に自発的に参加して居た。


国民学校6年生のクラスメートの謝恩会



工業学校卒業の翌年
(昭和241)部落の青年団の「総会」で、
新年度の「役員の改選」が行なわれた。選挙の結果、その席で、
自分が役員として選出され「評議員・会計」の担当者として選出され、
他人事の様な感じで自分自身納得出来ない感じがしていた。
生まれて初めての社会の組織の中で、この様な大任を授かり責任の重大さを痛感すると共に、
自分の様な年少者には無理だと強く辞退したが、全員一致の指名を受け結局、
総会の選挙結果が尊重されて、自分の意思・希望は全く認めて貰えず、
強い不安を感じながら受けざるを得なく成ってしまった。
その後も引き続いて各種の行事等には必ず出席し、積極的に取り組み、
与えられた責任を果たす様に努力し、特に会計の担当は不慣れな為、
前任者や先輩達に必ず相談し、その教えを受けて会計事務を処理していた。
その結果、年間の団務成績優秀で、次の表彰状を頂き恐縮した。



会計を担当していた前任者や先輩達と共に進めた事柄が、
この様な形で自分一人の成果として受賞した事が皆に申し訳ないと思った、
自分の受賞を全員が賛成された為、自分も納得出来て、
何より嬉しく受け止めた思い出がある。この様に、青年団の行事への参加や
家事・農業などの手伝いの傍ら、知り合いの人達から家具の作成依頼も比的
多く寄せられ適当に仕事が続いていた。

親戚からも簡単な家具の補修や、家屋の一都修繕・建具の取替えなどの依頼も有り、
気楽に仕事が進められて喜んで頂いた事も思い出となっている。また、暇な時には、
工業学校の友達と出会って色々な話し合いの機会も楽しみにして居た。
この様に親友との付き合いの中で将来の自分達の「身の振り方」を考える様な
話題も良く出て居た。自分も社会に出て職場を二回も替り「家具職人」として
生涯続けられるか、自分に適した職場に巡り合える事が出来るか、
と言った諸々の悩みを持つ様になって行った。友人達の中にも、最初に就職した職場で
色々な事情で退職し、途方に暮れている者も居た。退職の原因は、
大部分が給料の未払いや遅れ、分割払いと言った賃金に関する、「トラブル」が多くを占めていた。

この様な、経済状況や職場環境の中で働く事の不安材料が余りにも多く感じた。
この頃から、友人達の間で、工業学校で学んだ仕事に関係なく「大企業への就職」が、
最も安全ではないか、と言った話題も良く聞かれる様に成っていた。一方では、
身分関係が最も安定して居る「公務員」への就職が、より良いのではないかと言った
意見も多く、自分としても、友人との色々な話し合いの中で、安定した職場・安全な
職場環境・良い人間関係が保たれる様な、理想的な職場で働きたいと思う様に成って行った。
村や部落の青年団の活動の場に於ても、農業や畜産関係の話題が大部分を占めていた。
百姓の家に生まれ育った自分も、この様な話題に興味も湧いていたが、
自分の立場や仕事の違い・仕事の将来性などを比較して考えて見ると、青年団活動への
参加・出席等何となく佗しい感じが徐々に高まり違和感すら覚える様になった。
家庭的には、両親・兄夫婦・妹・弟達の大勢の家族の中で、自分の置かれて居る
立場・位置・価値観と言った人生に於ける一番大切な事柄を強く意識する様になり
家庭に於ても、ただ何となく自分の現在の仕事・生活・青年団活動などの生活環境
に於ける存在価値に疑間や違和感を覚える様になって行った。これらの色々な事情から
一番親密感を強く抱き、気楽に話し合える青年団、工業学校の親友達で、身近な「自分の
人生の在り方」を共に真剣に考え、相談する様になって行った。

8 成人式(成年証書)

終戦後、新たに国民の祝日扱いと成った「成人の日」が近づいて、満20歳を迎えた者が、
成人として認められ一人前の人間として祝福される事とに成って日は浅い。
当時の成人式は名のみで、休みも無く平日と何等変化は無かった。
村の役場から部落の青年団の「支部長」が、「成年証書」を預かり、部落の青年団の常会の
席で皆の前で「支部長」から該当者に手渡され自分も、その一員と成って居た。
最近の成人式は、本当に賑やか・晴れやかさが目立ち、
一月十五日に全国一斉に各地で盛大に行なわれて居るが、この当時の成人式の行事は
手探りの段階と思われた。私が頂いた「成人証書」は、次の通り、
昭和二十六年二月廿日付と成って居る。
この成年証書を手にして、
現在の自分を反省し色々考え、極めて浅い社会経験を振り返り何回となく繰り返し読み
ながら内容の真意を味わって見た。その中で「よき公民としての門出を祝福」と言う
文言が強く印象に残り、心の奥深く刻み込まれた思い出がある。満二十歳を迎え、
選挙権が生じる等、社会的には一人前の人としての取り扱いを受けられるが



現在の自分が果たして「よき公民としての門出」が出来て居るであろうか、と言う疑問が
湧き、自分自身で良き公民に向かって一層努力する決心を固めた。
成人証書を頂いて一人前の気分が強まり、自分で交際範囲を広め親友達と、
女友達に随分興味を持つ様に成り、グループで積極的に行動する様に成っていった。
国民学校時代のグルーブでは、家の農業や家畜関係等村の話題が多く会社勤務の者は、
その職場の話題等で楽しんで居た。また遊びの話題も楽しみにしていた。
春の花見・桜の名所でも女友達との出会いに恵まれなかった思い出もあった。
国民学校の男友達四人で、近くの海水浴場に行き、四人連れの女友達と知り合い、交際出来る
様に成り、文通もする様に成って行った。
この女友達から一度に四通も手紙が届いて、両親や家族に心配を掛けた思い出も懐かしい。
男女各三人の六人で、別府市の観海寺公園や市内観光に行き、進路が急変した台風で、
交通機関が途絶え帰宅出来ず、別府市内の旅館に六人で雑魚寝し、翌日帰宅した為大変な
騒ぎと成った懐かしい思い出が今も心の奥深く刻み込まれている。

9 転職準備

この頃、工業学校の親友の話し合いは、常に仕事関係・職種・職場の話題が多く、
卒業後就職したが、色々な事情で退職した者同志が集まって語り合いの機会が増えて行った。
誰の意見も同じような内容が多く結論として、工業学校で学んだ事柄に囚われずに、
自分に合った仕事を探し、成るべく将来性・安定性の有る公務員・会社員等の大企業に
就職する事が最善な事に気付いた。丁度この時、「警察官募集」のポスターが目に止まった。
親友の
TS君にこの話を持ち掛けた。するとTS君は、「大分警察署で親戚の人が勤務して
居るので二人で相談に行って見よう、うまくいけば二人で一緒に警察官の試験を受けて
見るか」と話が纏まった。翌日二人で大分警察署に行き相談した。その結果大変歓迎されて
「今、丁度募集期間中だから直ぐ申込み手続きしましょう」と言って、直ぐ『申込書類』を
持って来られ、その場で必要事項を記入し印を押して提出し申し込みを終った」
この採用試験は、「人事院」が主催する全国規模の警察官採用試験となっていた。その後
勉強して、大分警察署の会議室で、試験当日
TS君と二人で受験した。試験会場は、
満席であった為、合格の自信を無くしていた。試験が終って
TS君の親戚の方に挨拶に
立ち寄り、受験の感想を聞かれたが、二人共自信を無くしている事を話した。
約一ケ月後、試験結果が発表され二人揃って合格していた。その後、二人で
TS君の
親戚の方を再度訪問し第二次試験の面接の指導を受けた。第二次の面接試験で、
希望する勤務地を
TS君は地元大分縣勤務として居た。

自分は、「大阪市」・「京都市」・「神戸市」を順番に希望地とした。その理由は、
この試験を受ける事を家族を始め誰にも相談せず内密にして居た。
転職相談をすれば家族に反対される事は十分予想出来た。試験に合格して転職する場合は
親元を離れて、単身で大都会へ出て就職する事を密かに望んで居た。
工業学校木材工業科で
3年・実社会で3年間計6年間学んで来た「家具職人」の仕事を
諦める覚悟が動揺して居た、人生の正念場に立つ自分を暫く自分自身で、
しっかりと見つめて居た。警察官採用試験の第一次・第二次は合格・身元調査が残されて
居た。その後、約
2週間が過ぎた天気の良い暑い日のお昼過ぎごろ、村の駐在所の
「お巡りさん」が、制服姿で家に来られた。この日、たまたま父も家に居た。

自分は、その瞬間受験した事が父に知れてしまう不安感が、急に湧いて居た為、
一瞬「ドキッ」として居たが、さすがに父は自分のその顔色を見落とす事はなかった。
父の表情も緊張し怖い顔・視線が瞬間的に自分に向けられた事が強く感じ取れた。
その間、自分には悪の意識は無い為、父の様子を真剣に見つめて居たが、
「この時の父の周章狼狽する表情・姿を始めて自分の目で見た」この頃、自分は成人して
生意気と成り、友人と良く夜遊びをしたり、夜遅くまで飲み歩いたり、女友達から
沢山手紙が来るなど、自分の生活がこの頃随分乱れて居るのを父は随分我慢しながら
見守っていた事が自分には痛いほど感じていた。

父は息子が悪い事をしてお世語に成るのではないかと心配して居たと思われた。
そのお巡りさんは、中年の随分温厚な性格で評判の良い人柄で、家に来られても「今日は・
暑いですな一」と挨拶しながら、帽子を脱いでハンカチで汗を拭って居たが、
その振る舞いや表情が、今も懐かしい思い出として自分の心に刻み込まれている。
この様な状況に、父の不安は一層高まるばかりだと思われたが、父がお巡りさんに向かって
「今日は何かありましたか」と聞いた。お巡りさんは、ニッコリ笑いながら、
「おめでとう、息子さんが試験に通って、身元調査に来ましたんや」と、父に返事をして
自分で頷付きながら、鞄の中から書類を取り出していた。父は何の事やら理解出来ずに、
不審な表情で聞き返して居た為、自分は、咄嵯に「ここで、お巡りさんの前で、
試験を受けた理由を説明すれば、平穏に父にも理解して貰える」と思い、また、
「戸惑って居る父の助けにも成る」と判断して、その場所に姿を見せた」
自分の動きを見た母が心配して、その場所に出て来て父の側に座って居た。すると、
今度は、お巡りさんが、これらの動きに不審な表情を浮かべた為、即座に、
「警察官の採用試験は、自分の独断で受けた。家具職人として随分頑張って来たが、
色々な体験から考え直し将来性に不安が強い。親友達とも相談して最も将来性安定性が有り、

人の為にも役立ち、また身分保障制度が完全な警察官の仕事に自分の人生を掛けてみたい
と決断して友人と受験した両親・家族に無断で勝手な自分を許して欲しい」、
趣旨内容を自分で精一杯説明した。これで自分の心がスッキリし最終決断をした。
自分なりに勝手な事を言って満足した感じで、申し訳が無い思いで暫くの間両親の顔を
見る事が出来なかった。その反面、自分勝手に転職出来る立場に有る喜びも感じた。
お巡りさんの顔を見つめると救いを求める感じが湧き、自分はお巡りさんを相手に説明し、
話して居る事に気付いたがその説明を快く聞いて頂き満足した。この様に、
自分勝手に説明した事が、余りにも両親の立場を無視したのではないかと気に掛かり、
自己反省をしながら更に、申し訳ない気持ちが湧いて居た。自分は説明が終り丁寧に
挨拶して、直ぐ奥の部屋に戻った。その途中、母の表情が目に映り、母は何となく穏やかな
良い表情に感じられ、自分の説明を聞いて驚いたり・喜んだり複雑な気持ちで、
感情が随分動揺している様に強く感じられた。自分は、奥の部屋で話の続きを気にしながら
注意深く聞いていたが、自分の説明内容のほか国民学校高等科・滑空訓練参加・
豫科練入隊復員・工業学校編入卒業・指物大工職人として就職・退職・最近の交遊関係等の
話が続けられて居た。次に、大勢の家族関係の話と成って行った。戦時中の思い出話や、
姉が従軍看護婦として中支の野戦病院に派遣され、終戦の翌年一月無事復員・
兄は衛生兵として長崎県五島列島から終戦直後無事復員・姉達は軍需工場へ動員されていた。
現在大勢の家族全員健康でそれぞれの立場で頑張って居るなど、色々な話の成り行きが
良い方向に進んでいる様子が感じられ、本当に嬉しく有難い思い出が心に残っている。
自分は、皆に内緒で警察官採用試験を受験した事実に対する説明が、予期しない
良い機会に関係の有る皆の前で話す機会に恵まれた安心感・満足感で、
今まで気掛かりだった肩の荷が一度に降りた様な感じがして、
この成り行きに自己満足して居た。

お巡りさんは、最初に自分が内緒で勝手に警察官採用試験を受けていた事実を両親が
知らなかった事が、予想外であった様子で、自分の説明や両親の話にも、無言で
頷付きながら聞いて居られた姿が強く印象に残り、懐かしい思い出となっている。
色々な世間話など約
1時間話が続けられ、それらの話の過程で、父も当初の悪い予想に反し、
良い話であった安心感が言葉遣いや表情で感じられる様になって居た。お巡りさんも、
随分親切丁寧に警察官の仕事の内容・待遇・身分保障制度などを詳しく両親に
説明されていた。その為、両親も随分理解が深まり納得出来たものの、仕事の危険性が
高い事を随分心配して居た。しかし自分で希望し選んだ職業で意思も固い為、
同意・納得せざるを得なかった模様で結論として、お巡りさんから、

「この調査は、警察官としての適性の有無・本人の意志確認・両親

家族等関係者の希望や意見の有無等を調査確認し、この調査結果を

書面報告します。調査事項の総てが良好で、特に問題点は見受けな

い為、近く採用通知が届けられると思います。最近警察官を増員中

の為、採用通知を受け取ってから、入校が早いと思われる」

と両親に詳しく説明をされて調査を終り、両親は丁重にお礼の言葉を述べて居た。
両親と共に、お巡りさんの帰りを見送った直後に、父の側に寄り添って居た母が、
自分に視線を向けて笑顔の良い表情で何か言葉を掛け様と近寄って来た。
何を言われるかと一瞬戸惑ったが、今更、誰に何を言われ様と構わないと腹を決めて居た。
母は、「お前は、思い切った事をやったなあ一」と一言だけで、後の言葉が続かなかった。
側に居た父は、無言で何かを深く考え込んで居る表情であったが、
何となく嬉しそうな笑顔を浮かべて居た為、自分の話題を納得し、
了承して頂いたものと思い込んで感謝・感激と自己反省の複雑な気分が湧いていた。
その後、機会あるごとに家族の話題と成って居た模様であったが、
不思議な事に直接自分に対して、この話題を両親・家族の誰からも持ち掛ける事が無かった。
強情な自分が勝手に決めた事を、誰が何と言っても聞き入れる事は絶対に無いだろうと、
両親を始め家族皆なが、殊更に無関心を装い諦めて居るものと思って居た。
お巡りさんが来られて、長い時間話し合いの様子を見て居た隣り近所の人達から、
何事であったか聞かれた両親は、止むを得ず、事の成り行きを説明した結果、
自分の話題が村全体に広がり皆なの関心が高まり、大きな評判と成って行った。
国民学校や工業学校の親友たちの間でも話題と成り、賛否両論が聞かれて居た。
「思い切った事をやったなあ一・今までの家具指物技術が無駄になる」と言った意見が
多く聞かれたが、次の「警察官採用試験」にも数人受験していた事が後で知らされた。
また、近くの「住友化学工場」へも多くの友人が就職して行った。自分自身も、
内心転職関係の準備・身辺整理を心掛ける毎日が続き、親友達との出会いの機会も
消極的となり、自分で意識的に避けたい気分が湧いて行った。日常生活に於ては、
別段の変化は無く田畑の仕事や家事手伝い・青年団活動など、極く普通の生活を送りながら、
警察官採用通知を心待ちにして居た。

10 転職決定

その後、約半月過ぎて「書留郵便」で、次の関係書類が届けられその主な内容は、
「警察官採用通知書・警察学校入校案内書・入校者心得等」

* 入校年月日時  昭和26年10月29日 午前1030

* 入校する場所  大阪市東区馬場町大阪城内大阪管区警察学校内

兵庫県警察学校

* 入校者心得 採用通知書・転出証明・印鑑・筆記用具・寝具類(後略)

概ねこの様な内容で、残りの準備期間は15日の余裕が有ったと記憶して居る。
覚悟は出来て居たが、現実に直面すれば心の動揺は隠しきれなかった。
両親を始め家族は皆なが、予期した通りの成り行きに納得して居た様子が伺われた。
TS君と誘い合って二人で大分警察署の親戚の方に挨拶に行き、概要を報告した。
大変感激され本当に喜んで居られ、身に余る激励の言葉を頂き、二人で感激して居た。
この席で、
TS君が希望して居る大分県警察学校の採用・入校予定などの話しになり
大分県警察学校では、来年の春が入校予定に成って居る事が判明し、自分が先に採用され、
TS君に悪い思いが湧いて居たが、この話でTS君も安心した様子であった。
この頃、工業学校の先生には随分ご無沙汰して居た。
新制中学校の新設など新しい学校制度の発足で、工業学校を訪問しても全く違った雰囲気で
先生方も転勤・配置換等で馴染み・親しみが全く感じられない程変貌し、
会いたい先生に会えず時は過ぎた。その後、機会あるごとに親しくして居た
知人・友人に改めて挨拶の代わりに、気楽な気持ちで、警察官に転職し、近く大阪行きの
話をして理解を得て挨拶に代えていた。

長い間苦楽を共にして居た部落の青年団の人達との別れも迫り、「評議員・会計」の役を、
後任者が未定の為、支部長に申し送る事となり、関係書類・現金等の整理を終り、
全部揃えて支部長に引き継ぎも終った。日時が不思議に早く過ぎた。周囲の人達から
大阪行きの話題が多く聞かれ、家族皆が気に掛けて居た。タ食を終りまだ家族全員が揃って
居る時、自分から思い切って大阪へ行く話を切り出した。両親も心待ちして居た様子で
笑顔の良い雰囲気を感じた。自分は、感慨無量と成り、今までのわがままや、
この度の警察官への転職など、心配を掛けた事など親不孝な自分の遇去を謝り、
将来の決意を話した。父は、気楽に家族皆んなに話しかける身振りで、次の様な「教訓」
を交えた言葉を淡々と述べて居た。

* 世間では、外観が汚く見える程、中身は綺麗で、楽しいものである。その逆現象が多い社会を十分認識して、人生を正しく・明るく・強く生きて行く事。

* 社会に出て一番大切に、心掛けて居なければならない諺は「三禁」である。

その三禁とは、「酒」・「女」・「金」である。失敗・成功の原点である。

* 工業学校・家具工場勤務等、良い人の出会いで、若い間に身に付けて頂いた「技術・職人気質」は、飛んでしまった。工具類は大切に「保管」して置く。

* この俺が、お前に送る「はなむけの言葉」はそれだけ、体に気をつけて、大都会に出て他人さんに負けない様に、我慢・辛抱を忘れずに真剣に頑張れ。

と極く簡単明瞭な言葉で父の話は終わり、心中随分平静を装って居る事が読み取れた。
父は、言いたい言葉の総てを父の胸の中に納め込んで居る事が、表情・言葉遣い・態度等
から、自分には痛い程理解出来た。自分の自由意志で転職出来る自分の幸せな立場が身に
沁みて自分の目には涙が溢れ、この熱い涙を大切に真剣頑張る覚悟を新たに自覚した。
親元を離れて遠くへ旅立つ男の辛い胸中を初めてたっぷり味わい父の偉大さに新たな感動を
覚え、父の教訓を人生の糧として実践する決意を更に強めた。父の話を家族全員厳粛な
感じで受け止めて居た。母は無言で居たが、父の話が終ると大きな笑い声を交えて、
家族皆なを激励しながら、一瞬緊張した雰囲気を和らげる事に随分気配りをして居た。
この様に、両親を始め家族皆の暖かい思いやり、愛情に包まれ感謝・感激の気持ちで、
自分の新しい人生の第一歩を豊臣秀吉ゆかりの地「大阪城内」に向かって警察官として
旅立つ事が、家族の理解でこの時最終決定した。その日以降、入校日が近付き
慌ただしい雰囲気となり、落ち着きの無い日が続いた。
6年間の魂が沁みた「工具」に
感謝の気持を込めて手入れを終り保存措置を講じた。大阪への携行品・身の回り品等を、
母は随分気遣って取り揃えて準備して頂いた。大きな布団を一生懸命に縫って居た
「母の後ろ姿が何となく小さく見えた」。

何故かその光景が自分の脳裏に強く焼き付いていた。自分の為に精一杯準備して居る母の
姿に頭の下がる思いと同時に、別が近いむなしさが交互に湧いて、感慨無量で暫く母の姿を
見つめて居た。その母にお礼を言いたい気持ちで近寄り声を掛けた。母は手を動かしながら、
母らしく自分の心を見抜いた感じで、一度は自分に顔を向けたものの、手を休める事なく
「自分で出来る事は自分で早い目に準備し、忘れ物が無い様良く調べ、不足したり
欲しい品物が有れば準備するから」と言って、携行品・身の回り品に気配りしながら、
布団作りを進めて居た。その日の午後、村役場へ行き「転出証明書」・「米穀通帳」の
作成交付を受けた。役場の窓口勤務の職員は皆な知り合いの方で、周囲の人達も集まって
来られ、口々にお祝いやら激励の言葉を親しく掛けて頂き、皆なの心温まる思いやりに、
感謝の気持ちでお礼やら別れの挨拶を済ませた。役場の近くの「駐在所」に立ち寄り、
お巡りさんに挨拶し、今役場で必要な手続きを済ませた旨を話し、書類を見て頂いた。
書類に目を通されながら笑顔で応対され、「御入校おめでとうございます。
御成功を心からお祈りします。

休暇などで帰宅された場合には、是非立ち寄って下さい。体を大切に、皆さんの期待に
添える様しっかり頑張って下さい」と、優しく力強い感じで激励の言葉を頂き、
有難い気持で感激しながら帰宅した。その翌日、姉たちの嫁ぎ先や、特に親しくしていた
身近な親戚や友人宅を訪問して、簡単な挨拶に行った。帰途駅に立ち寄り
「大阪行きの切符」を買って帰った。家の中で、自分一人で密かに「切符」を見つめて
居ると、寂しさが込み上げ涙した。この夜、タ食の楽しい団欒の時間が、
何となく心寂しさ・名残惜しい感じが込み上がってどうする事も出来なかった。
出発前夜、家族で自分の大阪への旅立ちの話題が出て、泣き笑いの思い出話で
賑やかに時間が過ぎた。その夜の懐かしい光景が身に沁みて、心に刻み込まれて居る。
自分が出発する時、家族は皆なそれぞれ学校行や仕事があり、最寄りの鶴崎駅まで、
兄が荷物を運び代表で、駅での見送りをして頂く事となっていた。大阪へ持って行く荷物は、
布団袋・柳行李・トランク・手提げ鞄の四個に纏まった。出発当日の朝、
出掛けて行く家族に挨拶して見送り別れを告げた。母・兄の三人で、我が家で最後の昼食を
済ませた。四個の荷物を載せたリヤカーを自転車で引いて居る兄、荷車の後押しする自分の
後姿を見送る母に手を振りながら鶴崎駅に向かった。
駅に向かう途中出会った知人に丁寧に挨拶を交わして別れを借しみ、
また周囲の思い出多く懐かしい遠くの山並みや景色、近くの木立ちや田園風景にも見納めの
気持ちで別れを惜しみながら、約四キロメートルの距離にある鶴崎駅に間もなく到着した。
リヤカーの荷物を兄の手伝いを受け窓口で発送する手続きを済ませた。
上り列車が到着するまで暫くの間、駅前の町並みや商店街の懐かしさを味わいながら兄と
世間話や、これから先両親・妹・弟や嫁いだ姉達の事など話題が続いた。見送る兄・
見送りを受ける自分と相反する立場に有る為か、
旅立つ弟を見送る兄の気持ちが一層強い寂しさを味わっている様に感じられ詫びる気持ちが
湧いていた。間もなく列車が到着した。列車のデッキに立って、
貨物車両に自分の荷物の積み込みが終る事を確認し納得した。

11 大阪へ出発

駅員の発車合図と共に列車が動き始めると、全身緊張し熱いものが込み上げながら
無心に手を振り続け、遠く・小さくなって行く兄の姿が遂に見えなくなった途端に、
涙が溢れて暫くの間放心状態に陥って居た。この心境は生まれて初体験であった。
間もなく大分駅に着いた。約
10分の待ち時間で東京行特急列車へ乗り換えた。
昭和26年10月27日午後
350分発車で、人生の旅立記念目となった。
本格的に男の人生の独り旅が始まった感じを強く意識し複雑な感情が湧いていた。
大分駅を定時に発車した特急列車の窓から外を眺めると、別府湾のさわやかな鏡の様な
海面に浮かぶ大小様々な船の光景が、自分の旅立ちを見送って呉れている様に感じ、
また励まされて居る様にも感じられ、先程の兄との別れで心身共に興奮して居た
自分の気持ちが、随分落ち着きを取り戻して居た。間もなく列車は別府駅で停車し
数人の人達が乗り込んで居た。不思議な事に今乗り込んだ人達も皆んな大阪まで
行かれる様な気がしてならなかった。自分が人の動きを見る目が、
如何に自己本位の解釈をしている事を強く意識し反省したりして居た。
別府駅を出発して間もなく専務車掌の腕章を着けた車掌さんが検札に来られた。
切符の点検をしながら笑顔で応対して居られ、歯切れのよい言葉遣いや態度に非常に
好感が持たれ、検札が終り切符を受け取った。次に車掌さんは、時間表をめぐり、
「大阪着は、明日の午前
930分の予定です」

と、自分に向かって車掌さんの親切な言葉が笑顔で続けられ、乗客に対して本当に
思いやりの有る、行き届いた職務に徹して居る姿に頭の下がる思いで、本当にさわやかな
良い気分で大阪までの旅を楽しく過すことが出来た。警察官の仕事もこの様に
親切・丁寧・行き届いた好感の持てる職務執行を心掛け、実行しなければならないと固く
心に誓い、入校前の本当に良い勉強と成った。この様に、一人の車掌さんに依って
随分よい気分で、乗客の一人としての自分を乗せた特急列車は、大阪に向かって
進んで行った。列車が進むに従って、車窓から眼に映る沿線の風景の変化が、
一人旅の自分が慰められて居る様な、また激励や祝福を受けて居る様にも感じられて居た。
乗客は比較的少なく、二人掛けの椅子の内、約三分の一の席は一人で使用して居た。
自分もその内の一人で、このまま大阪駅まで同席者の居ない事を願って居た。
タ暮れが迫り沿線の風景は徐々に暗くなって、寂しさを呼び起こし、
急に家族の様子が思い出され懐かしさを強く感じた。自分で手持ちにして居た持ち物の
再点検や整理をする為、手提げ鞄を開いて見ると先ずお弁当の包みが目に映り、
途端に空腹を感じた。早速食事しようと思い、母が心を込めて作って頂いた弁当を開いた。
何とも言えない美味しそうな香りが一層自分の食欲をそそり、
母の手作りの愛情弁当を美味しく頂いた。小瓶に詰められて居たお茶のほろ苦い風味で、
母の面影が瞼に浮かんだ。弁当の後始末を済ませながら、鞄の中の整理を続け気分転換を
図って居た。列車が進むに従って、トンネルが多くなり、何となく煤煙の臭いが気に掛かり、
また、何処からともなく煤塵が窓の隙間から入って、衣服に付着する様子が見られる等、
不快な気分が暫く続いていたが我慢して居ると、このような不快感も和らいで、
あまり気に成らなくなって居た。

列車の車輪がレールの継ぎ目を通過する時の列車独特の騒音や、トンネル内の雑音等揺れる
感じにも時間の経遇と共に随分馴れて、以前の列車通勤時の思い出や、列車を利用して
彼女達との遊びなど、色々な過去を思い浮かべながら眠気を催してきた。
夢うつつの時間が長くなり、浅い眠りが繰り返されながら夜が更けて行き、
列車は大阪へ向かって揺れながら走り続けて居た。夜明け間近となり、車窓の外の景色は
大都会の印象が強く感じられる様になっていた始めて味わう大都会の生活に旨く馴染む
事が出来るか不安感も同時に湧いて居た。客車内の大部分の人達はまだよく眠って居る
姿が多く見られて居た。二人掛の椅子を一人で使用して居た人達も変化なく、
自分もその内の一人で、乗車直後の自分勝手な願いが、どうやら大阪駅倒着までかなえられ
相な感じがしていた。他の人達に迷惑を掛けない様に気遣いながら、
暫く周囲の様子を伺って居た。やや睡眠不足気味であったが、揺れ動く列車内の洗面室で
洗面を済ませて、何となくスッキリした気分を取り戻して居た。朝の食事も、
母の手造り弁当の包みを、おもむろに開いた。
列車の旅はよく疲れた感じで空腹感が一挙に高まり、これから先、味わう事が出来ない母の
愛情弁当を頂いて、母との最後の味覚の離別を惜しんだ。間もなく列車は大阪駅に到着した。
駅前からタクシーを利用し、生まれて初めて「大阪城」の本当に素晴らしい雄姿が目に映り、
感動を覚えながら大阪城内の兵庫県警察学校へ到着した。その後、兵庫県警察で
313ヵ月間勤務・兵庫県競馬組合で1010ヵ月間勤務の後、定年を迎え円満退職した。
この間、体を張り「命をかけて」頑張った諸々の事柄に就いて、私見を述べたいと現在、日夜熟慮している事を申し添えて、この度の綴りを結びたいと思います。