ま え が き
昔、徴兵制度が義務づけられていた頃、男子は二十一歳になると強制的に徴兵検査が実施され 、合格者は各地方の師団に現役兵として入営させられ、軍隊の教育訓練がなされた。 それは当時男と生まれたものの宿命であり、またそれが当然な時代でもあった。 小学校の教育勅語の一節に「一旦緩急あれば義勇公に奉し以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」 云々とあるように、子供のころから軍国思想に洗脳されて育った。 私達の時代は現代のような華やかな青春時代はなく何時でも国の為に散る(死ぬ) ことが本望で、名誉なことであると思われていた。 日清日露戦争に続いて昭和の時代に至り昭和六年の満州事変が勃発して以来、 昭和十二年七月支那事変へと軍も国民も戦争の時代に突入した。 当時の日本は世界に誇る五大強国のうちの一国とも自負し、大日本帝国軍人として かって敗戦の憂き目を知らないまま勝ち戦を続けていた。 国民は当時の軍閥に翻弄され、日本軍優勢ともなれば国民挙げての提灯行列等の馬鹿騒ぎに 有頂天になっていた。 このような自惚れと傲慢さが災いを買うところとなり、日本は次第に激動の時代を迎える こととなる。どこの国にもその歴史があるように人にも過去様々な体験があると思うが、 私が九死に一生を得る体験をしたあの年は同時に日本の歴史が塗り替えられた大変な年でも あった。 人類史上初めての試みとして広島に投下された原子爆弾である。二十数万人とも伝えられる 尊い人命が一瞬にして奪われたという事実は永久に忘れ得ないものである。 私は現地広島においてこの歴史的瞬間に遭遇し、かつ被爆死傷者の救護活動に 終始従事した一人であるだけに、毎年夏になり蝉しぐれを聞く度に広島でうめき苦しんでいた 被爆者の姿を思い浮かべずにはいられない。あの悲惨な光景は生涯忘れることが出来ないだろう。 何分にも今を遡ること四十四年前のことであり、細かい記憶が薄れている為、文章としてうまく まとめる自信がないがあの時の記憶をよみがえらせて当時の状況を私なりに述べてみる ことにする。 太平洋戦争 岡山県の湯郷と言えば温泉所で有名である。その前を流れる吉野川に沿って約八キロの所にある 小農家に生まれ育った私は、昭和十四年四月支那事変の戦火が拡大の一途を辿りつつある頃、 地元で徴兵検査を済ませた。屈強な若者がぶらぶらしていては非国民と罵られる時代で あったので、この年に裸一貫で神戸のある知人を訪ねて上神した。 初めての神戸であったので雰囲気に馴れるまでこの知人の商店を手伝っていたが、 間もなく当時の軍需工場であった神戸製鋼所に就職した。その頃から既に世界の情勢も 険悪になりつつあり、各工場では軍需物資の増産に励む傍ら、非常事態に備えて燈火管制下 で空襲爆撃を想定した避難訓練及び消火訓練が連日連夜のように行なわれていた。 ところが昭和十六年十二月八日、日本軍はあの軍事大国である米国、英国に対して勝てる 見込みの無い宣戦布告を発令し、いわゆる大東亜戦争へと発展していったのである。 それからの日本国民は、軍民こぞっていやがうえにも非常事態に突入せざるをえなく なっていった。街角や駅前の広場などでは出征兵士を見送る歓送旗が日増しに多く目立つように なった。たすきをかけた召集兵は予期したように従容として戦地へ赴いて行ったものである。 当時、軍は「欲しがりません勝つまでは」「撃ちてし止まむ」の標語でポスターを配付し、 国民の戦意高揚を図った。あらゆる生活物資は統制され、全て切符制度で制限されたが、 これにもめげず国民は不自由を堪え忍んで増産のみに邁進した。日米戦争は日毎に拡大し、 アメリカ軍はサイパンの基地から日本本土に執拗な戦略爆撃を繰り返すようになった。 昭和十八年四月の東京大空襲からいよいよ日本に危機が切迫したことが感じられるようになった。 昭和十九年十二月兵庫県警察官を志願した私は当時の長田区細田町にある警察学校に入校し、 翌年一月同校を卒業と同時に相生橋警察署に着任した。生田署はその後三宮警察署と統合され、 現在に至っている。昭和二十年六月神戸市内に対してアメリカ軍機の攻撃がはじめてあった。 当日私は神戸山手市電筋にいたが、突然けたたましい空襲警報のサイレンが鳴り、 それと同時に大倉山に備えた高射砲の一斉射撃が地響きをたてた。 既にその時は神戸港沖に飛来したB29爆撃機の編隊はすぐ正面の頭上を通過していた。 「ザー」と異様な音が聞こえた。危ない、と直感した私はとっさに道路の歩道沿いに設けた 防空壕に頭から飛び込んだ。途端に周囲一面に焼夷弾が降り注ぎ、さく裂したのを覚えている。 壕の入口は火と煙に包まれ、外に出ることが出来なかった。どうにか這いだしてみると、 市電が線路上でものすごい勢いで燃え上がっている。この市電筋を挟んだ両側に立ち並ぶ 民家から吹き出した炎がメラメラと道路をなめ撫でるように燃え上がっている。 私はその隙間を縫うように抜けて何とかその場を脱出することが出来た。 山手線から見下ろすと、生田神社から元町三宮周辺一帯は火の海で、数時間後には焦土と化して しまっていた。その後、負傷者は救出されて隣接の病院に運ばれ、死者は貨物自動車で 長田区の火葬や北野の寺にそれぞれ収容された。私もまたそれらの作業に従事した。 それから日が経つにつれて、三宮元町周辺の焼け跡地には仮設のバラック建てながらも 人家らしい建物が密集し始め、闇市(ジャン市)が盛んになっていったのである。 召集令状 昭和二十年六月二十三日のことである。ついに私にも召集令状(赤紙)が来た。 普段人事のように思っていたことが、いざ自分の身に降りかかったこの時はさすがに戸惑いを 覚え、気を落ち着けることが出来なかった。 入隊日時 昭和二十年六月二十五日 午前八時三十分 入隊場所 広島師団第百十一部隊 署長からこれを聞いたときはあまりにも切羽詰まった通達で面食らったが、取り敢えず同僚達へ の別れの挨拶もそこそこに急きょ郷里に戻った。翌日は例によって近所の人への挨拶を済ませ、 肉親や親戚に囲まれてのささやかな盃 をあわただしく取り交わした。万歳三唱を受けて 列軍で故郷を後にしたのは夕方近くであった。奉公袋をしっかりと握り締め、 列車に揺られながらやっと一息つくと、いろいろな事が頭に浮かんだものである。 「再び生きて帰ることはないだろう。」と思いながら車内を見渡しても召集兵とおぼしき人間は 見当たらず、話相手になるものもないまま時間が経って行った。線路沿いの民家からはまったく 明かりは見えず、真暗闇の中を走る列車の響きだけがけたたましく聞こえた。 うとうとしている間に何時間が過ぎたのだろうか、気がつくと外はすっかり明るく、 車窓を流れる風景は広島の駅に近づいていることを感じさせた。下車の後、初めてで不案内な 広島の町を尋ね歩いた挙げ句、目指す広島城の前にたどり着き、「広島百十一部隊本部」 と表札の書かれた正門をくぐった。どうやら私が最後の一人らしく、既に先着の召集兵が 整列を済ませていたので、私も慌てて滑り込み、列に加わった。入隊は初めてだったので、 朝から上官の案内でこれからの注意事項なるものを聞きながら部隊内を歩き回った。 庭に立ち並ぶ厩舎(馬小屋)では忙しそうに馬に飼い葉を与える兵の姿が見受けられた。 午後からは部隊内部の編成と各部屋の割り当て、掃除などが行なわれ、軍服一式が各人に 貸与された。それまで着ていた私服はその場で荷造りされ、郷里宛に返送された。 貸与された軍服はいずれも中古品であり、小柄な私には何もかもがL寸であった。 寸足らずの我が身の惨めさをつくづく感じさせられ、一人で苦笑した。 大きな軍服を不細工な手つきで自分の身体の寸法に縫い絡ませ、無体裁ながらも袖を通して みるとはじめて自分も兵隊の一人だなと実感がわいたものである。馴れない雑用に追い回されて 一日の日課は終わった。この晩は夕食後、点呼を終え、皆それぞれ割り当てられた部屋に 落ち着き、他の連中と共に雑魚寝で床についた。その時、現役兵で外地に行ってきたという 野戦帰りの古参兵と枕を並べた。 「軍隊というところはなあ、人間より馬の方が尊いんじゃ。馬の当番が誰になるか知らんが 自分が食べんでも馬のことを忘れたらいかんぞ。人間は一銭五厘のハガキ一枚でどうにでもなる が、馬はそうはいかんからなあ。まあここに来たのも何かの因果じゃ。 人間、諦めと往生際が肝心じやよ。」 冗談とも本気ともつかぬことを誰に告げるともなくつぶやくように喋るその口調が、 私に暗示をかけている感じであった。昼間、厩舎の前で案内役の上官からいやに念入りに 説明注意があったことを思い出した。 一夜明け、起床ラッパと怒鳴り声が鳴り響くと反射的に寝床から飛び起きた。 生死の分岐点 朝の点呼を終え、朝食を済ませると間もなく再度集合の号令がかかり、前日の召集兵全員が 部隊の広場に整列した。 この時私は二列横隊の後列に並んだ。 「前列の十名の者は只今から陣地に派遺、後列の者はこのまま部隊に残る。 陣地に行くものは体力の消費が激しいので身体に自身のないものは手を挙げよ。」と上官が 大声で念を押すと、丁度私の前にいた男が手を挙げた。 「よし、後とかわれ。」 と言われたので私が前列に進み出てその男が後列に下がった。何気なく前後に交代した この瞬間が運命の別れ道になろうとは神ならぬこの身の知るよしもなかった。 上官に大丈夫かときかれ、はっきりと「大丈夫であります。」と答えるとすぐに、 「前列の者は左向け左、目標新庄高射砲陣地、前へ進め。」と号令がかかり、私達は上官の 先導で部隊本部の正門を出た。市内を流れる大田川沿いに歩き、みささ橋という橋を渡り、 市内を通り抜けて更に北へと行進を続けた。民家のとぎれたところから遥か遼くの小山を 背景に田園地帯が続いていた。農繁期で田植え準備の農夫達が働いているあぜ道を通り抜けて 山裾に到着、部隊本部から直線距離にしてニキロ程の郊外であった。農業用水の溝がえんえんと 続き、蛙の鳴き声が響く至って閑散な場所でおった。 目指す陣地に辿り着き、歩哨兵の立っている前を通って山間の道を抜けると広い空き地に食堂 と倉庫が並んで建っていた今その別棟になっていた建物が我々の兵舎であった。 この敷地の他に、南に面した丘には高射砲の陣地があった。陣地には二十米くらいの間隔で 四門の砲が備え付けられており、何時でも敵機を迎撃出来るように空をにらんでいた。 この陣地には既に先輩の古参兵二十名が配属されており、到着した我々十名を含めて 計三十名の兵が当日から任務に着くことになった、この日は周辺一帯の大掃除と簡単な訓練 で終わった。翌日からは午前午後各々四時間くらいにわたって算定射撃訓練が行なわれた。 砲一門につき五名の者が専従し、その他算定班五名および指揮官を含めて合計二十六名の兵 が四門の高射砲砲手として任務に当たっていた。毎日のように広島上空を一、二機の敵爆撃機 が通過したがいずれも最高度を飛行しており、かすかな爆音を響かせて飛行機雲だけを引いて 行くことがほとんどであった。 射撃訓練の目標は専らこれらの飛行機雲や、あるいは空を飛ぷ鳶などであった。これら連日連夜 の訓練は相当の労力を要したが、それほど苦しいとは思わなかった。しかし問題は毎晩 行なわれる点呼であった。夕食から消灯までの三時間ほどの間に行なわれるこの点呼を、 我々は魔の点呼と呼んで恐れていた。先輩や古参兵達は我々新兵の行動や態度を日常絶えず 観察しており、ミスを発見するとその場では何も言わずに書きとめておいて夕食後の点呼で それらを指摘し、それを理由に殴ったり、腕立てふせをさせたりなどの体罰を加えるのである。 まったくもって陰湿なやり方である。これといったミスがない場合は、一人一人に軍人勅諭を 暗唱させ、出来ない者や度忘れした者同士を対立させてお互いの頬を力いっぱいに殴らせる のである。何の怨みもなくやたらに殴れるものではないのだが、お互い手加減でもしよう ものなら「手緩い!奥歯を噛め、見本を示す!」と言うが早いかそのうちの一人の頬を 力いっぱい殴って見せ、その通りに殴り合うよう強制する、双方とも鼻血を出しながら 唇を噛みしめて我慢していた。この有様を他の古参兵達はただ傍観しながら満足げに ニヤニヤと笑っていた。どうやら毎晩このような体罰を加えることを唯一の楽しみにしている 様子であった。時折歩哨勤務を命じられることがあり、この日ばかりは安堵に胸を撫でおろした ものであった。歩哨で山の上に立ち、兵舎を見下ろすと兵舎内の声や物音が手に取る様に 聞こえる。 「一つ、軍人は忠節をつくすを本文とすべし。」 と大声で暗唱する声が聞こえたかと思うと怒鳴り声があがり、続いて頬を殴る音が静かな 山間だけにかん高く響いて自分が殴られるかのように身をこわばらせたものであった。 そんな夜に限って胱々と光る月は無情に淋しく、郷里のことが頭に浮かんでいやに感傷 的になり、歳甲斐もなく泣いたことが幾度もあった。 しかし悪い日ばかりではなく、ある日のこと私達に朗報が知らされた。それは近日中に この陣地に慰問団がやって来るということであった。平素は何の娯楽もなく、楽しみに 餓えていた我々にとっては、地獄に仏とばかりに小躍りして喜んだものだった。 いよいよ慰問団が来ると言う当日は歩哨任務以外の者は朝から天手古舞で、兵舎の中は 舞台準備に大童であった。タ方、時刻が近づくと男女をまじえた十数人の慰問団の連中が やって来た。見たところ一行は地元の俄稽古の素人達の様に思えたが、この際素人でも 玄人でも一刻の慰めになればよいので我々は彼らをおおいに歓迎した。屋外に明かりが 漏れないように舞台の周囲だけろうそくに灯をつけて開演となった。 ところがいざ演技に移るとなかなかどうして連中は芸達者な者ばかり、軍歌に始まって 流行歌謡曲、それに寸劇と賑やかだった。プログラムが終わりに近づくにつれてこの日 だけは無礼講とばかりに古参兵も新兵もなく、予定の時間が超過したのも分からず深夜 に至るまで騒ぎ続けた。我々は雰囲気に酔い、十分満喫したひとときを過ごすことが出来た。 閃 光 昭和二十年八月六日のことである。この日も例によって早朝から警戒警報の連続であり、 山に登って砲門を開き、敵機の来襲に備えて緊張していた。周囲が次第に明るくなるにつれて 空は雲気一点もない快晴であることが分かった。東の空から今日も猛暑を感じさせる日差しの 太陽が顔を覗かせた。周囲の木立の間からは言い交わしたかのように一斉に焼け付くような 蝉しぐれの声が聞こえて来た。午前八時頃であったか、一旦警報が解除されたので我々は この時歩哨兵だけを残して山から降り、兵舎に帰った。「今山から降りて来たものは休め。」 と命令があり、やれやれとばかりに崩れるようにその場に寝ころんだ途端、突然けたたましい サイレンの音が鳴り響いた。次の瞬間、稲妻のような閃光と、熱風と、地響きとそして激震とを まったく同時に感じた。反射的に跳ね起きようとしてもがくと、下半身が上になって丁度逆立ち をしたような恰好になった。どうやら跳ね起きると、無我夢中で兵舎の裏に飛び出し、 振り返ってみると兵舎は傾いていた。陣地の周辺一帯は土挨が立ちこめ、空が見えなかった。 思わぬ衝撃で兵舎内は全くのパニック状態であった。傾いた兵舎の中は土挨でいっぱいで、 その中から次から次へと我先のように転がり出たり這い出たりする者があった。 その連中の服には飛び散ったような血が付着していた。それを見て私も自分の服を見てみると 同じ様に飛び血が付いており、又顔を撫でると誰か他の者の血が付いているのが分かったが 自分の身体に傷はなかった。ものすごい衝撃の為に耳に栓でもしたように微かな耳鳴りがして いた。あれほど焼け付くように鳴り響いていた蝉の声がピタリと途絶え、水をうった様な静かな 沈黙がしばらくの間続いた。たちこめていた土埃がしだいに収まって来るのにしたがって、 むくむくと茸型の雲(原子雲)がすぐ目の前にそびえ浮き立ちつつあるのが見えた。 誰も声を出す者はなかった。 その場に釘付けになったように立ちすくんでその雲をじっと見ていると、まるで大きな スクリーンでシネラマ映画でも見ているような錯覚を覚えた。この時の不気味な一瞬の光景は 今でも脳裏に焼き付き、離れることはない。黒煙にオレンジ色混じりの火柱が突端に向かって むくむくと盛り上がり、やがて広島市内が燃え上がる煙と一緒になって空一帯に覆い被さった。 煙の為に日光がさえぎられて夕方を思わせた。気を取り直してまず傾いた兵舎の補修からとり かかった。 爆風と熱線を浴びて頂上から吹き飛ばされたのであろう、陣地の上で歩哨に立っていた兵が 兵舎に叩きつけられて窓の下に横たわっており、死体の服は焼け焦げてくすぶっていた。 兵舎内では半裸の身体に硝子の破片を浴びた相当な重傷を負った連中が見受けられた。 硝子窓が散乱してい たところから見て彼らの血が反対側にいた我々に飛び散り付着したものだと分かった。 時間の経過と共に原子雲は何時の間にか消え、昼頃からポツリポツリと雨が降り出した。 雨は次第に大粒となり、やがて本降りとなって夕方になっても一向に止む気配なく降り続いた。 被爆将兵 突如、何の前ぶれもなく、部隊本部で被爆したという将兵達が雨の中を歩いて来て兵舎に 辿り着いた。予期していなかっただけに大慌てで舎内の整理をして寝かせる準備をした。 ろうそくに火をともし、次々と立ち並ぶ連中を見て驚いた。着用した軍服は焼け焦げて ぼろぼろに垂れ下がっている。一瞬の熱線で着ていた服が燃え、その火を消すことも服を 脱ぐことも出来ないまま逃げ惑ったものであろうか、にわか雨が幸いして服の火は消えたものの 、全身濡れ鼠となっていた。彼らは皆皮膚が焼けただれて赤黒く腫れ上がり、血に染まった 被爆兵達だった。口々にウン、ウンと苦悶のうめき声をだしながら焼けただれた両腕を 胸の前に差し出すと、その指先からは血液混じりの水様の液体が滴っていた。ピンク色に 焼け腫れたその形相は、まるで幽鬼を見ているようであった。 被爆兵達は後から後から入って来て立ち並んだ。すぐ毛布を敷きにかかったが待ちきれない ようにその場に崩れ倒れる者、座り込む者達で兵舎内はたちまちのうちに満員になって しまった。この時の被爆兵たちの数は三十名程度だったと思うが、取り敢えず焼け焦げた 服をその場で脱がせ、褌一つにして落ち着かせた。 痛さ苦しさを紛らすための強がりだったのであろう、最初の間は気強く口々に 「畜生」「覚えておれ」 と声を張り上げたり、重傷にもかかわらず大声で軍歌を歌うものがいた。また患者は火ぶくれ と熱とで喉が乾き、 「水、水、水を下さい」 の連発であった。 時間がたち落ち着いて来るにつれて気がゆるんだのであろう、彼らの声はだんだんと苦悶の うめきに変おって来た。誰も彼もが全身に大火傷を負っていたが、常備薬もないために手当する ことすら出来ない。 思い余った挙げ句に火傷にはアンモニアが効くということで、取り敢えず応急措置として尿を つけてやることにした。鉄かぶとに皆からの尿を溜め、それを布に浸して、患者には 気休めであったが 「良く効く薬だから」 と言い聞かせながら顔や背中や腕につけてやると藁をもすがる気持ちからか、 「ありがとうございます」 と口々に礼を言って素直になすがままになっていた。せっかく浸した水分も熱のためにすぐに 乾き、効果はなかった。しきりと水を欲しがる患者の前で手当てをしていたとき、患部に気を 取られるうちにこの患者が水と間違えていきなり鉄かぶとの中の尿を飲みかけたので急いで 取り上げた。すんでの所で尿を飲んでしまうところだった。この時の患者全員の容態から見て とても回復の望みはなく死を待つ者ばかりであったので、最悪のことを考えて意識がしっかり しているうちに患者から肉親の住所と氏名を聞き、別紙に筆記しておいた。 また本人の名前は火傷跡のない内股に墨で書いておいた。 「熱い 水、水」 とせきたてる患者には、最初欲しがるままに水を飲ませた。ところがその患者は容態が急変して 死んでしまった。以後はこんな不手際のないよう改め、要求通りに水を沢山与えることの ないように心掛けた。最初の死人が出たところで、私と一緒に陣地に来ていた兵の中に一人、 僧侶がいることが分かった。彼は何かにつけて鈍くさい男で、動作が鈍く要領が悪いために 毎晩のように点呼の時には必ず古参兵達になぶりものにされ、馬鹿扱いされていた。 よくも我慢して耐え忍んでいるものと見るに忍びなかったその男が、死人が出た途端にまるで 別人のように変わった。その死人に対する扱いや措置等のあまりの手際のよさにさすがの 古参兵達もただ手をこまねいて見ているしかなかった、そのうちに立場は逆転し、古参兵達は その男の指示に従うようになった。本職の住職であったその男が死体の枕元にろうそくをともし 読経を唱えてその本領を発揮したときは、いやさすが貫禄十分板についたものであった。 平素いじめ役であった吉参兵達も、この日からはその住職に一目置き、崇めるようになった。 それからは毎日のように死人が続出し、彼が引導を渡す日が続いて彼の独壇場であった。 翌朝夜明けと共に部隊本部へ応援出動するため、睡眠をとることにしたのだが肝心の寝床を 被爆者達に占領されてしまっていたので仕方なくこの晩は山に登って高射砲に被せてある シートカバーの下に潜り込み、降り続く雨を避けて睡眠をとった。蚊の大軍に攻められて 熟睡することが出来ないまま不眠状態で夜を明かした。翌朝寝ぼけ眼で山から降りて昨晩の 被爆将兵達を見ると顔面が火ぶくれとなって腫れあがっており、誰も彼もが同じ人相に見えた。 熱気が部屋中に充満している中で患者の全身には無数の蝿が群がっていたが、両腕が硬直して いるためこれを追い払うことすら出来ずに彼らはうめき苦しんでいた。蝿を追い、やかんの水を 直接口に流し込んで飲ませた。どの患者も食欲がないためにこの水が朝食代わりであった。 既に朝食を終えたほかの班の者と交替して朝食を済ませると、患者のことを残留班の者達に 任せて部隊本部の救護応援のために陣地を後にした。平素通りに慣れた田園のあぜ道を歩いて いると途中で異様な光景に出くわした。周辺の稲の穂先が焼けて黄色く変色し、曲がり、 垂れている。付近一帯を見渡すと、山際まで続く田園の稲や山々の樹木の若葉が全域に一様に 黄色くなっていた。このときあぜ道を横切り稲の根元に隠れた黒いものがあったのでよく 見てみると、それは熱線を浴びて両羽根を焼かれ飛べなくなった鳥であった。このなんとも 異様な光景を眺めつつ我々は市内に入った。市内の民家はことごとく破壊され、くすぶっていた。 家の下敷きになった死体が転がっており、頭髪も衣服も焼けて男女の区別が付かない者、 火ぶくれの顔で泣き叫ぶ子供をつれて逃げ惑うモンペ姿の女、家屋の材木に足を挟まれて 動けないままもがき苦しんでいる者等が我々の行進する行く手の軒並みに見受けられた。 しかし、このように助けを求めている悲惨な現状に直面しても勝手な行動を取る事の出来ない のが軍隊である。列から離れないように、これらの有様を横目で見ながら行進せざるを えなかった。市内を流れる現在の太田川の川辺にやって来てこの川にかかる「みささ橋」 に差しかかると、馬車が橋の欄干を乗り越えて半分位外側にはみ出しており、 その舵棒の先には半焼けの馬が逆さ向きに宙ぶらりんに垂れ下がって死んでいた。 爆心地から距離のないこの橋に差しかかったときに爆風を受け、吹き飛ばされたのであろう。 この車の車夫は橋の欄干と車との間で頭を押し潰されて死んでいた。 途中で見た田園の植物を変色させた熱線の威力といい、ここで見た爆風の凄まじさといい、 全く想像を絶することばかりであった。 うめき声のする橋の下を見ると川の水を求めた 被爆者達が水の中で死んでおり、それに混じってまだ死にきれない者たちがうごめき叫んでいた。 両岸に裸同然の男女の区別の付かない被爆者達が座り込み、ひしめき苦しんで助けを求める様 が見受けられた。 火 葬 橋を渡って部隊本部に足を踏み入れ、 部隊広場に到着したときはまさに地獄絵巻きとでも いうべきものを目の当たりにした。 時間的に考えて原爆が投下されたとき、部隊の将兵は 屋外広場で朝の点呼を取っていたのであろうか炎の中をまるで蜘の子を散らしたように逃げ 惑ったらしく、 将兵達の爆死体が散乱していた。 ほとんどの者達が逃げる暇もないまま重なるような恰好で焼けただれて死んでいる。 その中でも生きている者は腰が抜けたように立ち上がることが出来ないまま、死体に挟まれて ただれた両手を挙げ、虚空を掴んでいる。 背中についた火を仰向きに寝転び、のたうち回って 消したのだろう皮膚が完全に焼けただれていた。 その泥まみれの顔には血がにじんでおり、 言葉では表せないようなもの凄い形相となっていた。 その光景のあまりの凄まじさに私はしばらく放心状態になっていた。それから我に帰ると同時に あることが頭にひらめいた。 入隊した翌朝この広場で隊の編成があったとき、後列であった私は本来ならば部隊に残る ところであったのだ。ところが前の男が手を挙げ、私と交替した。その時の男が言わば 生と死の別れ道ともなったこの広場のどこかで死体となって転がっているのである。 まるで私の身代わとになって死んくれたような感じがして本当に胸が痛んだ。 最初この惨状を見たときは何から手を付けて良いものかとうろたえたが、何とか気を落ち着け 一緒に来た十名と手分けして死体の収容作業に取りかかった。立ち並んだ厩舎に居た馬は 無残にも倒壊した建物の下敷きになって逃げる事が出来なく蒸し焼きになって死んでいた。 灼熱の土の上では死体の腐敗がはやく、現場は全域にわたって人馬の死臭が漂っている。 死体の収容など我々には全く馴れない作業であり、散乱している死体を一体ずつ二人がかりで 持ち上げようとしたが焼けただれた両手両足の皮がズルズルとむけて力が入らない。 仕方なく地面を引きずりながら死体を集め、破壊された建物の材木と死体とを交互に積み重ね、 それらに油をまき、火をつけて住職の読経と共に冥福を祈りながら火葬に付した。 死体の油があんなに勢い良く燃えるものとは知らず、驚いた。 その他生きて苦しんでいる者達は別の場所に張った仮テントに収容した。私達は上半身裸になり 、胴に巻いた手拭で流れる汗をぬぐい、絞っては又汗を拭きながら作業を続けた。 作業中は空腹も忘れていたが、丁度その時届けられた握り飯を見た途端腹が鳴り、取り 敢えず腹ごしらえすることにした。まず手を洗うために城の周囲にある池へ行ったのだが、 そこもまた大変な有様だった。熱線を浴び、被爆した将兵達が燃える服の火を消すために この池に飛び込んだまま溺死体となって浮かんでいた。 死体は池の中にひしめき合っており、服が張り裂けんばかりに膨脹していた。 仕方なく死体を押し退けておいて、それが戻って来ないうちに、素速く足元の土を手につけて 石鹸代わりにして洗ったが、この時の池の水は湯のようであった。 洗った手にはまだ死者の脂が染み込んでおり、とても土ぐらいで落ちるものではなかった。 ヌルヌルする手をズボンで拭いながら握り飯を頬張った。 直射日光の差す炎天下で 死臭とうめき声に囲まれて食べたあの握り飯の味はお世辞にも旨いはずはなかった。 昼食後一服した後再び作業に取り掛かったが蒸せかえる死臭の為に折角食べた握り飯を 吐き出してしまい、またもとの空腹に戻って作業を続けなければならなかった。 一緒に来た連中の内、全く感じない奴がいてまだ食い足りない顔をして平気で作業をしていたが 、その時は奴が羨ましかった。今思えば錯乱状態のままあの生き地獄の中で良くあれだけの 重労働に耐え、毎日の隠坊役を引き受けることが出来たものである。これも自分の健康と 精神力の賜物であったと感謝している。毎日の作業が終わり夕方になると敵機の目標にならぬ ようその都度火葬場の火を消して引き上げた。 はじめのうちは帰る途中の太田川の川辺にはおびただしい数の被爆死傷者達がひしめき 合っていたがそれも日毎に減少していった。本部から引き上げて帰って来ても休む暇も 与えられず、我々は引き続き兵舎内の患者の介護に取り掛からねばならなかった。 毎日のように一人、二人と死んで逝く患者の数は増えていった。 被爆から3日目、4日目ともなると患者の容態は全く変化し、別人のようになっていた。 火ぶくれとなっていた皮膚は松ぼっくりのような瘡蓋に変わっていた。 その部分に蝿の 産み付けた蛆虫がうようよと這い回っていた。手の自由のきかない患者はこれを追い払うため に首を左右に振り、 口のまわりの虫は息を吹きかけて追い払うのが精一杯であった 。 被爆以来僅かな水だけを飲んで一食も口にしていないため、患者の容態はもう限界の域に 達していた。何人もの患者が衰弱しきって死臭の中で弱々しいうめき声をあげて死んで逝く。 その都度死者の枕元で住職の読経と共に全員が冥福を祈ったものだった。 歩くことも食べることも出来ない患者ではあったが精神状態は皆正常だった。 たどたどしい口調で自分の郷里の話などをして気を紛らわしていたが時間が経つにつれ て次第に無口になっていく。出来ればこれらの患者の一人一人から真剣に話を聞き、肉親に 伝えてやっていればどんなに供養になったことかと悔やまれるが、場合が場合だけに どうすることも出来なかった。 患者の限界を悟ってからは、どうせ助からないのならば欲しがる水だけでもと求めるまま 口に水を流し与えてやったことがせめてもの供養になったのではないかと思っている。 大勢の患者が毎日のように息を引きとって逝く中で、次のような痛ましい最期を遂げた 被爆兵もあった。 その男にはいつも隣同士で枕を並べてよく話を交わしていた兵がいたのだがこれがある日 突然に死んだ。ところが彼はそのことに気がつかなかったようで、例によって枕元に ろうそくを立てて住職が読経を唱えだして初めて自分の隣の男が死んだことに気がついた様子 だった。 住職の読経が終わるまで黙っていたが、死体を運び出すとき、 「何んでじゃ、何も言わんで先に、何んでじゃ。」 と弱々しい声でつぶやいていた。 暫くしてその男が、「シー、シー」と声をだし、小便かと 聞くとかすかにうなずくので大柄な彼を同僚と共に後頭部に手を添えて起こした。 長時間板場に寝ていたので起き上がると火ぶくれとなった背中の皮が床にくっつき、めくれて 赤剥けになった。 とても痛々しかったが、本人は別に苦痛を感じる様子もなくふらふらと立ち上がっ たので後からバンドを握って支えながら便所の方向に歩かせた。 舎内の柱の前に来たとき急に立ち止まったので「もう少し前に歩きなさい。」と促した途端であった。 「お母アー」と衰弱しきった重病人とは思えないほどの大声で叫びながらバンドに添えていた 手を振り切り、目の前の柱の角めがけて自分の脳天を力まかせにぶつけた。思いもよらぬ 一瞬の出来事で制止することも出来ず、西瓜でも叩き割ったような鈍い音と共にその男は その場にうつ伏せに倒れた。慌てて助け起こしたが既にけいれんをおこしており、 そのけいれんが次第に小刻みになり、息を引き取って逝くのを見ている以外どうすることも 出来なかった。 その腐敗しかけた顔には蛆虫だけが元気良く動いていた。自分の余命幾許もないことを悟り、 また唯一のよき戦友を失って思い余って覚悟の自殺を遂げたのだろうと思うと、誠に胸が痛む。 じつに痛ましい最期であった。彼の内股に書いてあった「桑原」という姓は現在でもよく 覚えている。 例によって今日も本部への出動の為に朝から準備を整え、残り少なくなった患者のことは 残留班の者に頼み、我々は出発した。 本部内では目につくような場所の収容作業は一応終わったのだが、瓦礫の下になって隠れた 死体の掘り出し作業や運搬が大変であった。連日の猛暑に疲れが重なり、人手も少な いために思うようにはかどらなかった。死体は腐敗が進み、崩れやすくなるうえに物凄い 死臭を放っていたので我慢できず手拭で鼻を塞いで運搬を続けた。死体の数はあまりにも多く、 一箇所では焼ききれないので二箇所に増して火葬した。城の周囲の池に浮かんだ死体の収容にも 苦労したが、中でも特に厄介だったのは便所の壷の中の死体であった。原爆がさく裂した直後に とっさの機転で防空壕のかわりにと飛び込んだものらしく、その上に焼けた建物が崩れ落ちて 来て三人ぐらいが中で蒸し焼きになっていた。これらを引っ張りだすのには手間がかかった。 この作業を最後として部隊内での収容作業は一応区切りがついた。 日時の経過と共に地方からの増援部隊も到着し、部隊内部は急速に整理されていった。 そして部隊の広場には仮設ながらも英霊の祭壇も出来上がり、空の白木の遺骨箱が横に 山積みされて遺族らしい人達が集まって来ていた。 その後我々は部隊へ出動することはなく通常の任務に復帰した。ところが、正式の命令では なかったがどうやら新庄班の者は近日中に北九州へ派遺されることになるという噂を聞き、 がっかりしたものであった。 敗 戦 昭和二十年八月十五日のことであった。突然に集合の号令がかかり、いよいよ北九州への派遺が 決まったのかもと嫌な予感を覚えながら営庭に整列した。ところがそこには机の上に古ぼけた ラジオが置かれており、 「これから天皇陛下の放送があるから慎んで聞け。」 とのことであった。放送は雑音ばかりではっきりと内容がわからなかったが、どうやら日本は アメリカに無条件降伏した、日本は戦争に負けた、ということであったようだ。日本を神の国と 信じ、あらゆる不自由と苦難を堪え忍んできたにもかかわらず、遂に神風は吹かず敗戦の憂き目 を見ることになったのだった。張り詰めていた気力も一度に失われ、悔しさよりも むしろやれやれ、という安堵の気持ちの方が大きかった。これは当時の国民全員の実感では なかっただろうか。 敗戦を知らされたとき、陣地では日本刀を持った将校達が竹薮に入り、くるったように片端から 竹を切り倒して憂さ晴らしをしていた。その後上層部からの命令や指示は途絶えたままで、 我々は鳥合の衆の如くただ徒らに日を費やしていた。 ところが敗戦のショックで大きく変化があったのは陣地の兵舎内であった。あれほど傲慢な 態度で怒鳴ることしかしなかった古参兵達の言動が急に軟化してきたのである。 命令口調から一転してもみ手のお願い口調にと、よくもまああんなに極端にと呆れるほどに変化 した。それから後移動命令があり、一部の残留兵を残して我々十名の者は即日住み慣れた 新庄陣地に別れを告げ、現地から直線距離にして東南約三キロ位の山頂にある双葉高射砲陣地へ と足を運んだ。家を失い死を逃れた被爆者達がひしめき合う山裾の松林を通って陣地に 到着するとそこには新庄陣地と違って相当な範囲にわたって兵舎が建ち並んでおり、その中では 比較的軽傷の被爆兵達が診察を受けていた。看護兵も相当数見受けられたが、彼らの内でも 先輩の者は我々が到着したことによって逐次除隊になり自宅に帰れることになっていた。 その日から私も一日も早く除隊できることを祈りながら専ら山の頂上から山裾の谷までの 水汲みに専従した。 数日後には被服類が配給され、いよいよ除隊が間近いと内心胸を踊らせた。被爆地での作業に 従事している間はずっと同じ服を着ており、風呂は勿論のこと行水すらする暇もなかったので 新しい服を受け取ると着ている服が急に汚く感じられ、一目散に山を降りて身に付けていた服を 全部脱ぎ捨て、その場で行水と着替えを済ませた。身も心もさっぱりして生き返った心地がした。 九月中旬、突然除隊の知らせを聞かされた時は小躍りせんばかりに喜んだ。 しかし、いよいよ召集解除となって皆と別れるとなると何だか心残りがして、後ろ髪を引かれる 思いで陣地を後にしたものであった。その頃の兵舎内の患者達は脱毛症のように頭髪が抜け 落ちており、頭を撫でただけで髪がぼろぼろと落ちる者もいた。 山から降り、見渡すかぎり瓦礫の山となった広島市内を通り抜けて駅に辿り着いた。 タ方になると駅のホームには他方面から除隊になった軍服姿の者達が溢れかえっていた。 長時間待った挙句やっと到着した貨物列車には遠距離からの復員兵とおぼしき兵達が ぎゅうぎゅう詰めに乗っており、私もその中に無理やり身体をねじこませた。 列車こそ違うが行きも帰りも夜行列車となった。召集を受けて広島に来るときは車窓の向こうの 闇を不安な気持ちで見つめていたものであったが、帰りは気持ちも晴々としていた。 列車内から外を流れ行く民家を見ていると、薄暗い電灯の灯がちらりちらりと見え隠れする様子 がとても懐かしく思えた。 私の乗った列車は特別臨時列車であったらしく、ほとんど停車することなしに深夜を少し過 ぎたころ目的の駅に到着した。 懐かしい我家に辿り着いたのは夜明け前であった。薄暗い表口の戸を叩くと母が顔を覗かせた。 母は暫く無言のまま身を乗り出して私の顔を見つめており、私が笑顔を見せてはじめて私である と気づき大声で泣き崩れて喜んでくれた。 無理もないことであった。既に新聞やラジオで 広島が全滅したことは知られており、連絡を取る暇もなかった為にてっきり死んでいるものと 諦められていたらしかった。 積もる話も際限なく続き、何時の間にか眠っていたらしい。誰かが髪の毛を引っ張るので目が 覚めた。 枕元を見ると母が座ってしきりに私の頭の毛を引っ張っている。 「何しとんや。」とその手を払うと、母は照れ笑いでごまかした。広島で被爆した者は原子病 (原爆症)にかかって頭髪が全部抜け落ちてしまうという話を聞いていたらしく、どうやらそれを 心配して試していたようであった。それからひとつ困ったことがあった。 被爆者の収容作業時に死臭が私の身体に根強く染み込んでいたのである。 私自身には全く感じられないのだが、他の人には新鮮な田舎の空気のせいもあって、ひどく臭う らしく臭い、臭いと当分の間顔をしかめられたのには閉口した。 あとがき 広島に原爆が投下されて四十四年が過ぎたが、あの悪夢のような現実を思い出す度に、 召集令状によって知らぬ土地に駆り立てられた挙句殺りく弾の犠牲となり、苦しみあえいで 死んで逝った人達のことが頭に浮かぶ。 肉親の慰めの言葉を聞くことも苦しみを訴えることも出来ずに、見ず知らずの私の与えた水を 末期の水として「ありがとう」と言いながら私達に看取られて死んで逝った彼らのことを想うと、 当時の人間の生き様が如何にはかなく空しいものであったかとうたた感無量に堪えない。 また、灼熱の中で私と行動を共にした九名の同僚達のことも想い出される。 数ヶ月の間、共に誰も体験したことがないような任務を貫き苦労した仲間であるというのに、 お互いに住所や名前を覚える余裕もないまま呆気なく別れて以来何時となく忘れられようとして いるのは誠に残念なことである。 そもそも昭和六年の満州事変といい、この太平洋戦争といい、原因は国民を全くないがしろに したほんの一握りの軍閥の政治家達にあった。彼らが密室の中で一方的に決定して仕掛けた 戦争なのである旬にも関わらず、思いもよらない一発の「核」の為に、何等罪のない人々に 対しても残虐悲惨な結果がもたらされることとなった。 今日ややもすれば忘れ去られがちであるが、戦争を知らないままに新時代を生きようとする これからの世代の人々に対して私の体験が多少の警鐘となれば幸甚である。 追 記 私が広島から除隊した当時、広島の土地は原爆の放射能におかされて永久に作物は育たないとか 、この土地で被爆した者やこの時降った黒い雨にうたれた者は後遺症が残って頭髪が全部抜け、 子供が出来ないというような噂が流れていた。私は他の人から敬遠されるのを恐れ、 数年前までは広島で披爆したことを誰にも話したことはなかった。後遺症についても不安で あったが、現在に至っても何等身体に異常はないばかりか、子宝にも恵まれている。 これも一重に御先祖の御陰は勿論のこと、被爆兵に対して至らないながらも誠心誠意介護した 功徳の賜物であろうと感謝しながら余生を送るこの頃である。 合掌 平成元年六月作成 (平成十五年一月 改訂)