文化の華 一
偉大なる宗教は、偉大なる文化を生む。これは歴史の法則である。
太陽の光が雪をとかし、大地の眠りを覚ませば、そこには芽が吹き、やがて、花々が咲き乱れる。
同じように、仏法の慈光が、凍てついた人間の生命の大地をよみがえらせる時、絢爛たる「人間文化の華」が開くに違いない。
広宣流布とは、社会建設の担い手である一人一人の人間革命を機軸に、世界を平和と文化の花園に変えゆく、まことに尊き偉業なのである。
一九六二年(昭和三十七年)という年は、弘教の広がりのなかで耕された民衆の大地に、山本伸一の手によって、次々と文化の種子が下ろされ、発芽していった年であった。
政治の分野では、一月に公明政治連盟が正式にスタートし、七月には、公明会が発足している。
また、学術研究の分野では、一月に外郭団体として東洋学術研究所(後の東洋哲学研究所)が創設され、十一月には、その機関誌として『東洋学術研究』が創刊されることになる。
更に、八月の一日には、東京の杉並公会堂に、約千人の教育者が集まり、歴史的な教育部の第一回全国大会が開催された。
伸一は、この日を、心躍る思いで迎えた。彼は、壇上から場内を埋め尽くした“先生たち”の顔に視線を注いだ。どの顔も、使命感に燃えて紅潮していた。
教育部が結成されたのは前年の五月三日、伸一の会長就任一周年の本部総会の席上であった。
教育部長には清原かつが就任し、翌月の十日には学会本部に約三百人の教師が集い、結成式が行われた。
伸一は、この年の『大白蓮華』七月号の巻頭言「文化局の使命」のなかで、教育部に対する多大な期待を述べている。
そのなかで彼は、「個人の幸福とあいまって、社会の繁栄を願い、平和な楽土を建設しようとすることこそ、立正安国の精神なのである」としたうえで、次のように訴えていった。
「民族の盛衰、一国の興亡、一にかかって教育のいかんにありということは、古今東西の歴史が如実にこれを示している。
とくに、教育の効果は、二十年、三十年後に現れるともいえよう。教育こそ、次代の民族の消長を決定する、まことに重大な問題である。
しかるに、日本の現状はいかん。敗戦後十有余年の歳月を経た今日、いまだに確固たる理念もなく、迷いつづけているのは、じつに教育界ではないか。まことに嘆かわしいかぎりである」
文化の華 二
更に、山本伸一は、この時に、時代の行く手を見定めて立ち上がったのが教育部であるとして、こう記している。
「暗黒の教育界に、希望の灯台が、いま一閃の輝きを放ったものと叫びたい。
創価学会には、教育界の大先覚者であられた、牧口常三郎初代会長によってつくられた、教育学体系の大理念がある。また、妙法によって人間革命された、多数の教育者がいる。
およそ、教育は理念のいかんと、教育者自体の人格によって決まるものである。透徹した教育学体系と、みがかれた人格とをもった、わが教育部員こそ、まことの教育者であると、私は信じたい。
『無量義とは一法より生ず』との原理にもとづき、妙法を護持したわが教育部員が、偉大なる仏法を実践する決意のもとに、かつてない偉大なる教育者であるとの誇りをもって、今後、堂々と進みゆかれんことを望むものである。
また教育部員は、立派な教壇上の教育者なることはもちろん、同時に、不幸な民衆のなかに入り、民衆を救う大教育者たらんことを、忘れてはならない」
教育部の結成は、恩師戸田城聖の遺言でもあった。
戸田は、戦後、創価教育学会の再建に際し、その根本の目的は宗教革命にあるとして、会の名称から「教育」の二字を外した。
しかし、彼は決して「教育」を忘れたわけではなかった。真の宗教革命は即人間革命であり、信仰によって蘇生した人間は、社会建設の肥沃な大地となり、必ずや教育、経済、政治など、あらゆる分野に、人間主義の豊かな実りをもたらしていくからである。
戸田は、七十五万世帯の布教という創価学会の基礎工事に全力を傾注するなかにも、その心情を、細かに伸一に語っていた。
「牧口先生の残された偉大な教育学説を、弟子として、世界に認めさせたい。
いずれ、学会は教育部をつくり、人間教育をもって、社会に貢献していかなければならない」
戸田が、牧口の十回忌にあたる、一九五三年(昭和二十八年)の十一月十八日に、牧口の『価値論』を発刊し、それを英訳し、世界各国の大学や研究所に寄贈したのも、恩師の学説を広く世界に知らしめようとする、決意の表れであった。
伸一は、戸田の“教育部をつくる”との言葉を生命に刻み、時を待ち、遂に結成に踏み切ったのである。
そして、教育部の結成の後も、彼は、機会を見つけては、メンバーの激励にあたってきた。
文化の華 三
一九六一年(昭和三十六年)の九月には、教育部のバッジができた。
山本伸一は、幾度か、自ら代表にバッジを手渡す機会をもち、メンバーの活躍に期待を寄せて語った。
「皆さんが教育者の核となり、人間教育の輪を社会に広げていってください。
皆さんと同じように、子供の幸福を願い、人間教育を実践する教師が、それぞれの周りに十人できれば、教育界に大きな波動が広がり、日本の国は変わっていきます。
この教育部のバッジは、民衆のため、社会のため、仏法のため、尽くしきっていく者の名誉と責任を表しているのです」
そこには祈るような、深い響きがあった。
また、教育部長の清原かつから、教育部員の数が順調に増えているとの報告を受けると、伸一は言った。
「教育部は一騎当千の勇者です。一人一人が、限りなく大きな使命をもっている。戸田先生は、よくユダヤの人びとに学べと言われていたが、彼らは教師を非常に大事にしている。
たとえば、こんな話を聞いたことがある。
――昔、ある町を訪れたユダヤ教の指導者が、『ここの防備を見たい』と町長に言った。すると、兵士が立てこもっている砦に連れていかれた。
視察を終えると、その人はこう語った。
『私は、まだこの町の防備を見ていません。町を守るのは兵士ではなく、教師です。なぜ、私を学校に真っ先に連れていってくれなかったのですか』
教師こそ国を守っている勇者だというのだ。私も本当にその通りだと思う。教師は、国家どころか、人類の未来を守っているといってもよいくらいだ。
だから、どうか、教育部のメンバーを大事に育ててください。それが、社会のため、日本のため、世界のためになっていく。
私の最後の事業も教育であると考えています」
伸一は、日本の未来を、どうするかを真剣に考え抜き、教育を最重要視し、教育部の育成に最大の力を注いでいたのである。
このころ、日本では、青少年の非行が、社会的に大きな問題となっていた。
戦後の青少年の非行は、一九五一年(昭和二十六年)をピークに、いったんは減少傾向にあったが、五五年(同三十年)からは再び上昇していた。
そして、六一年(同三十六年)には、警察に検挙された少年は、一年間に、実に約九十五万人に上り、深刻な事態を迎えていたのである。
文化の華 四
このころから、青少年の非行が激増し、その特徴として、非行の低年齢層化、中流家庭の子供による犯罪の増加、非行の集団化などが指摘されていた。
それまで、非行の背景には貧困があり、青少年の犯罪の多くは、貧しさによることが多かった。
しかし、日本の社会は、既に高度経済成長時代に入り、人びとの生活は年々豊かになってきているにもかかわらず、子供の非行は急増していたのである。
当時、政府は折あるごとに“人づくり”を唱えていたが、一九六二年(昭和三十七年)の十一月に文部省が発表した教育白書『日本の成長と教育』を見ると、いかなる人間をつくろうとしていたかが、よく表れている。
この白書は、教育を投資という観点からとらえ、教育は「経済の成長に寄与する」有効な投資であることが強調されていた。
白書では、これは一つの試論にすぎず、「将来の社会に生活する人間像を目ざし、広い観点に立って教育の使命を考えることこそ必要」であるとしていたが、その人間像についても、教育の使命についても、何も触れられていなかった。
それは、試論とはいえ、すべてに経済効率を優先させようとする、本末転倒した、悲しき日本の姿が露呈されていたといってよい。
「なんのための教育か」「なんのために学ぶのか」との根本の目的を問わず、ただ国家の経済成長に貢献する人材を輩出すればよい――これが日本の教育の実態であったといえる。
哲人ソクラテスは、ただ生きるのではなく、“善く生きる”ことの大切さを訴えているが、経済至上主義で進む日本社会は、そうした人生の根本問題を遠ざけ、耳を傾けようともしなかったわけである。
ここに、繁栄の陰で見失われてきた、戦後日本の最大の“歪み”があった。
戦前の日本では、“国家の役に立つ”人間をつくることが、教育の至上命令であった。
また、戦後は民主教育が推進されはしたが、結果的には、教育白書が図らずも露呈したごとく、“国家の経済の発展に貢献する”人間をつくることが、主な目的になってしまったのではないか。
つまり、看板は代わっても、本質は“国家の役に立つ”人間の育成である。教育を国家の繁栄の手段としてのみ考えることは、国民を手段化することと同義であるといってよい。
そこには、子供にとって教育とは何かという視点が欠落している。それが非行問題とも、深くかかわっていたといえよう。
文化の華 五
本来、教育の根本の目的は、どこに定められるべきであろうか。
牧口常三郎は「教育は児童に幸福なる生活をなさしめるのを目的とする」と断言している。“国家の利益”ではなく、“児童の幸福”こそ根本だというのである。
牧口は、この信念から、創価教育の眼目は、一人一人が“幸福になる力を開発する”こととした。
そして、この幸福の内容が「価値の追求」であり、人生のうえに創造すべき価値とは、「美・利・善」であると主張した。
価値創造こそ人生の幸福であり、更に、社会に価値を創造し、自他ともの幸福を実現する人材を輩出することが教育の使命であると、牧口は考えていた。
彼は『創価教育学体系』の緒言で、「創価教育学」を世に問う熱烈な真情を、こう記している。
「入学難、試験地獄、就職難等で一千万の児童や生徒が修羅の巷に喘いで居る現代の悩みを、次代に持越させたくないと思ふと、心は狂せんばかりで、区々たる毀誉褒貶の如きは余の眼中にはない」
そこには、子供への、人間への、深い慈愛の心が熱く脈打っている。この心こそ教育の原点といえる。
そして、その教育を実現していくには、教育法や教育学の改革はもとより、教育者自身の人間革命がなければならない。
子供たちにとって、最大の教育環境は教師自身である。それゆえに、教師自身がたゆまず自己を教育していくことが不可欠となるからだ。
教師は「教育技師」であると主張する牧口は、「教育は最優最良の人材にあらざれば成功することの出来ぬ人生最高至難の技術であり芸術である。是は世上の何物にも代へ難き生命といふ無上宝珠を対象とするに基づく」と述べている。
更に、教師たるものの姿を、こう論じる。
「悪人の敵になり得る勇者でなければ善人の友とはなり得ぬ。利害の打算に目が暗んで、善悪の識別の出来ないものに教育者の資格はない。その識別が出来て居ながら、其の実現力のないものは教育者の価値はない」
牧口が提唱した、創価教育の精神を、現実に、縦横無尽に実践したのが、若き戸田城聖であった。
彼の私塾・時習学館からは、人間性豊かな、実に多彩な人材が育っている。
山本伸一は、教育部員にこの先師、恩師の志を受け継いでほしかった。
彼は、混迷の度を深める社会の動向に、鋭い目を注ぎながら、教育部の使命の重大さを痛感していた。
文化の華 六
前年の教育部の誕生から一年有余、学会員の教育者は三千人になんなんとし、その代表一千人が、この八月一日の初の教育部の全国大会に集ったのである。
それは「創価教育」の実現への、教育部の新たな門出の集いとなった。
大会は、午後一時前に開会し、体験発表や清原かつ教育部長のあいさつ、幹部の指導などが続き、会長山本伸一の講演となった。
「大変に本日はおめでとうございました。牧口先生も、そして、恩師戸田先生も、この教育部の姿をご覧になったならば、どれほど喜んでくださるであろうかと、さきほどから思っておりました。
牧口先生は教育界の大先駆者であり、戸田先生も教育者でありました。
ところが、第三代の私は教育者ではないのです。むしろ、学校の先生からは、勉強をしないもので、いつも、叱られてばかりおりました。ですから、皆さん先生方とお会いすることが申し訳なくて……」
会場に爆笑が広がった。
伸一は、更に、教育部として、メンバーの教育体験や、創価教育学の研究、応用などを発表する、教育雑誌を出版していくことを提案した。
会場に、賛同の大拍手が轟いた。
続いて、伸一は、学会の組織のなかでの、教育部員の役割について、言及していった。
「学会が大きくなるにつれて、指導が徹底されないため、布教の際などに、極端なものの言い方をして社会の誤解を招くというケースが見受けられます。
一家のなかであっても、息子や娘を指導しきれないことが多いのに、毎月、何万世帯という会員が新たに誕生しているのですから、やむをえない場合もあるとは思います。
しかし、私としては、みんなが理路整然と、道理に則って、納得のいく、折伏や指導ができるようにしたいと念願しております。
そこで、教育部の皆さんは、その模範を示し、誰もが心から納得のできる、理路整然とした、道理に適った弘教、指導を実践していっていただきたいのです。
仏法は道理です。皆さんが常識豊かな、道理に適った話をし、万人が心から納得していく姿を目の当たりにして、多くの会員がそれを見習うようになれば、広宣流布は、更に進むと思うのであります」
そして彼は、ここに集った、教育者である一人一人が、仏法の偉大な指導者に、広宣流布の達人になってほしいと訴え、講演を締めくくった。
文化の華 七
教育雑誌を出版しようという、教育部の第一回全国大会での山本伸一の提案を受け、教育部では直ちに準備に取りかかった。
伸一が、メンバーの要請に応え、下手ではあるが、真心を込めて書いた、「灯台」の文字が躍る雑誌が創刊されたのは、全国大会から、わずか一カ月余り後のことであった。
彼は、その創刊号(十月号)に、「世界を照らす灯台たれ」と題して、巻頭言を執筆し、新たに船出した教育部に、大いなる期待を寄せたのである。
翌八月二日からは、総本山で、伝統の夏季講習会が開催された。
今回は、一期から四期に分かれ、全国の代表二万人が参加し、それぞれ二泊三日の講習を受けた。
伸一は、その間、総本山にあって、自ら講習会の運営の指揮をとる一方、各期の大講堂での会長講義を担当して、「白米一俵御書」「顕仏未来記」などを、毎回、全力で講義した。
また、二日には、大客殿の主柱の土台に、世界各地から集めた石を打ち込む儀式にも参列した。
そして、四日には、伸一が出席し、大講堂前で「富士吹奏楽団」の結成式が行われたのである。
この吹奏楽団は、新たな人間文化の大運動の、音楽部門の一翼を担うために、伸一が結成を提案したものであった。
団員は、音楽隊のなかから選抜された、技術、人格ともに優れたメンバーであり、音楽隊の隊長である有村武志が団長となった。
更に、この年の九月には婦人部の「白ゆり合唱団」、関西婦人部の「あけぼの合唱団」が、十月には中国婦人部の「白菊合唱団」、女子部の「富士合唱団」などが相次ぎ結成されることになる。
それは、民衆の歓喜と生命の躍動を表現する、新たな音楽運動の興隆のファンファーレであった。
夏季講習会が終わると、青年部の各方面の体育大会が待っていた。
前年の体育大会は、各部が一丸となって座談会運動に取り組むために、やむをえず中止となり、二年ぶりの開催となるだけに、青年たちは燃えていた。
伸一は、この体育大会を楽しみにしていた。何よりも、心身ともにたくましく成長した若人の姿を見ることが嬉しかった。
また、体育大会は、スポーツ競技の大会というだけではなく、信仰の喜びや躍動、更に、仏法思想の表現の場となりつつあったからである。
青年たちは、マスゲームや人文字などに工夫を凝らし、平和建設への決意を演技に託したり、団結と調和の美を追求することを試みていたのだ。
文化の華 八
山本伸一は、青年たちには、可能な限り自由に、その特性を生かした活動をさせたかった。
仏法の法理は、永遠に不変である。しかし、極寒の冬には、人びとはオーバーを欲し、灼熱の夏には涼風を求めるように、仏法に何を求めるかも、時代や世代によって異なってくる。
これまで学会を支えてきた壮年や婦人のなかには、経済苦や病苦の克服の道を仏法に見いだし、信心を始めた人が多かった。
だが、このころには、人びとの生活は次第に豊かになり、貧困は減少していった。国民の所得も増え、数年前まで高嶺の花と思われていたテレビの普及率も、都市世帯の八割を超え、電気洗濯機は六割を上回り、電気冷蔵庫も四割に達しようとしていた。
そして、多くの若者たちにとっては、経済苦は、以前ほど、切実な問題ではなくなりつつあった。少なくとも、飢えることはない社会である。
世は“無責任時代”といわれ、植木等が主演する映画「ニッポン無責任時代」が大ヒットしていた。
個性が強く、調子のよい主人公が、従来、美徳とされてきた努力や勤勉さを嘲笑うかのように、気楽に、要領よく立ち回る様が、人びとに解放感を与え、喝采を集めていたのである。
それは、人間性を封じ込め、画一化していく、管理社会への揶揄でもあり、また、既存の価値観が大きく揺らぎ始めたことを意味していた。
しかし、若者たちは、それに代わる新しい価値観を見つけあぐねていたといってよい。
そして、故郷を離れ、大都市の暮らしのなかでの孤独感や、自分を完全燃焼させる、確かな指標を見いだせぬ空虚感に悩み、精神を満たす糧を求めていた。
仏法は、万人の幸福の道を開く法理であり、そこには、人間のかかえるすべての問題を解決する指導原理が示されている。
現代の若者たちのかかえる問題の根本的な解決も、仏法による以外にないし、それを現実に実証してきたのが創価学会である。
しかし、社会に、その事実を知らしめていくには、新しい運動が、新しい表現の場が必要になる。
そして、それをつくり上げていくのは、同じ世代にあたる青年部である。世代によって異なる悩みや問題を熟知しているのは、同世代の人たちであるからだ。
自分たちの世代の広宣流布は、自分たちが責任をもち、最も有効な運動をつくり上げていってこそ、仏法の永遠の流れが開かれる。
文化の華 九
山本伸一は、青年たちが企画・運営する体育大会のなかに、仏法を根底にした人間の復権への主張や、新しい社会の連帯を創造しようとする息吹を感じ取っていた。
彼は、この体育大会を継続し、発展させていくなかで、青年の新しい、一つの価値のある運動が開かれていくことを予感していたのである。
また、真剣な布教も、剣豪の修行のごとき教学の研鑽も大事であるが、学会は決して、窮屈な世界であってはならない。画一的な団体であってはならない。
学会は、あたかも、皆で競技を楽しむかのように、愉快で、朗らかな、はつらつとした“家族”の集いであることを、伸一は、青年たちに実感させるためにも、体育大会を開催させてやりたかったのである。
体育大会“若人の祭典”の先陣を切ったのは中部の青年たちであった。
中部体育大会は、八月十二日、名古屋市の瑞穂陸上競技場で、代表三万五千人が参加して行われた。
「潮」の人文字をグラウンドいっぱいに描いた男子の体操や、女子のダンスなどには、晴れ晴れとした姿のなかに、躍動と調和が見事に表現されていた。
これには伸一も出席し、バドミントンのラケットにボールをのせて走る“スプーンリレー”に、飛び入りで出場した。伸一の力走もあって、彼の入った赤組が、白組を大きく引き離してゴールイン。会場は大拍手に包まれた。
伸一は、更に二十四日には中国体育大会に出席し、翌二十五日には関西の初の水泳大会を観戦。そして、九月の二日には、関西体育大会に出席した。
この日は、関西のほか、北海道、東北、四国の体育大会も開催され、各地で創価の若人の熱と力がみなぎる一日となった。
その二日後の九月四日には、学会本部の建て替えのための起工式が行われた。
これまでの学会本部の建物は、一九五三年(昭和二十八年)十一月に、西神田の旧本部から、この信濃町に移転して以来、九年間にわたり、本部として使われてきた。
それは戸田城聖が苦労に苦労を重ねて、ようやく購入した本部であったが、洋館を改築した建築面積六百八十三・一平方メートルの建物は、学会の急速な発展にともなって、すぐに狭くなってしまった。
既に戸田の存命中から、本部の建て替えは懸案となっていたが、戸田は、総本山の大講堂の建立や各地の寺院の建立を第一義としてきた。
伸一もまた、大客殿や各地の寺院の建立、そして、地方本部の建設を優先してきたのである。
文化の華 十
これまでの学会本部は、三百万世帯になんなんとする団体の本部としては、あまりにも狭かった。
また、次第に老朽化も進み、大勢の人が集まるには危険でもあった。
そこで、隣接する土地も購入して広げ、新たに本部を建て直すことになったのである。
新本部は、敷地面積千三百六十平方メートル、建築面積九百五十平方メートルで、地上四階、地下一階の鉄筋コンクリートの近代的な建物が計画されていた。
前の本部の建物は八月十日から取り壊しを始め、八月中には終了していた。
新本部の完成は、来年の八月末日の予定であり、それまで、本部の事務は、聖教新聞社に移して行われることになった。
起工式の営まれた九月四日は、朝から小雨がパラついていた。
紅白の幕がめぐらされた式場には、会長山本伸一をはじめ、理事、来賓、工事関係者ら約二百人が集い、午前十一時から、起工式が挙行された。
式場に奉掲された御本尊に向かって、読経・唱題した後、鍬入れ式に移り、施工者の代表や理事長の原山幸一らの話に続いて、伸一があいさつに立った。
彼は、参列者の労をねぎらい、丁重に礼を述べた後、切々と自らの心情を語っていった。
「この本部は、職員並びに同志の方々が、民衆救済のために働く建物であります。
また、私ども創価学会の伝統は、常にリーダーが、会長自身が動き抜いてきたことにあります。広宣流布のために、民衆救済のために、会長が陣頭指揮をとって、そして、死んでいくのが、代々の会長の精神でありました。
したがって、その精神のうえから、学会本部の建物は実質的なものとし、職員、同志の方々が、使いやすく、動きやすいように工夫していただくことを、設計・施工の関係者の皆様にお願い申し上げます。
更に、本部には大勢の会員の方々が来られますので、安全性には最大の配慮をお願いしたいと思います。この新本部は、来年の今ごろには完成する予定でございます。
本日、ご出席いただいた皆様には、その時に、見事にできあがった姿をご覧いただき、ともに喜び合いたいと申し上げて、私のあいさつといたします」
新本部といっても、総本山に建設中の大客殿と比べれば規模も小さく、ささやかなものにすぎなかった。しかし、同志にとっては大きな希望であった。
文化の華 十一
“若人の祭典”として行われた、青年部のスポーツ行事はその後も続けられ、九月十日には、東京体育館で第二回柔剣道大会が行われ、十二日には、明治神宮水泳場で、首都圏の第二回の水泳大会が開催された。
山本伸一は、いずれの大会にも出席し、青年たちの激励に力を注いだ。
更に、十六日には、熊本市の水前寺競技場で行われた九州体育大会を観戦。翌十七日は大分での幹部指導会に出席した。
地方大会の掉尾を飾ったのは東京であった。東京体育大会は、二十二日に、横浜の三ツ沢の競技場で行われた。
この大会では、従来のトラック競技やダンス、マスゲームなどのほか、新たにバレー、テニス、バスケット、サッカーの球技も加えられ、内容も多彩さを増していた。
そして、翌二十三日は、同じ三ツ沢の競技場で、全国大会が開催された。
この全国大会では、全国の各本部対抗の各種競技や、男子部の棒倒しなどの熱戦が繰り広げられた。また、出場選手のなかには、外国人選手の姿も見られ、創価のオリンピックの観を呈していた。
更に、男子部の体操、女子部・婦人部のダンス、音楽隊・鼓笛隊のパレード、合唱、各地に伝わる郷土の踊りなどが披露され、信仰によって結ばれた“団結の美”と“民衆の歓喜”を、いかんなく示した大舞台となった。
このころ、日本では、二年後に控えた東京オリンピックをめざして、各種の競技場や付属施設、道路などの建設が、急ピッチで進められていた。
オリンピックの精神は、スポーツを通しての、平和な世界の建設にあるといえる。しかし、かつてヒトラーが、オリンピックを国威宣揚の場として利用したことは、まことに有名ではある。また、戦後も、国家の威信をかけた大国のメダル獲得競争の場となりがちであったといってよい。
それに対して、学会の体育大会は、平和建設の使命に目覚め、戸田城聖が示した地球民族主義の実現を願って、日夜、民衆の蘇生のために汗を流す若人が、その熱と力を競い合う祭典である。
規模こそ小さいが、平和を願うオリンピックの精神を、最も反映した大会であったといえよう。
思えば、戸田が、五年前の一九五七年(昭和三十二年)九月八日、「原水爆禁止宣言」を発表したのも、この三ツ沢の競技場で行われた第四回東日本体育大会の席上であった。
文化の華 十二
あの日、戸田城聖は、世界の民衆は生存の権利をもっており、その権利を脅かすものは、魔ものであり、サタンであり、怪物であると断言した。
そして、「たとえ、ある国が原子爆弾を用いて世界を征服しようとも、その民族、それを使用したものは悪魔であり、魔ものであるという思想を全世界に広めることこそ、全日本青年男女の使命であると信ずるものであります」と叫んだのである。
これが、戸田の第一の遺訓となった。
山本伸一は、この恩師の遺訓の実現に、生涯を捧げる決意を固めていた。
また、そのために、具体的に何をすべきかを考え続けてきたのである。
青年部第四回全国体育大会は、午後一時十五分には全競技が終了し、表彰式が行われ、伸一のあいさつとなった。
彼は、穏やかだが、力のこもった声で語り始めた。
「恩師戸田先生が、原水爆禁止の大宣言をなされた、この意義深き競技場において、楽しく、明るく、全国体育大会が開催できましたことを、皆様方とともに、私は心から喜ぶものでございます。大変に、ご苦労様でございました。
戸田先生の、原水爆の禁止の宣言を、今、私ども弟子は、いかにして実現していけばよいのか。本日は、恩師の遺訓を成就していくための要諦を申し上げておきたいと思います。
その第一は、当然のことながら、原水爆を禁止させることのできる思想は、生命の尊厳を説き明かした、日蓮大聖人の、色心不二の大生命哲学であります。
その仏法を、世界に知らしめていく以外には、根本的な原水爆禁止の道は断じてないというのが、私の確信であります。
一人一人の胸中に、生命の尊厳の哲理を打ち立て、平和の砦を築いていってこそ、原水爆の禁止は可能になると、私は宣言をしておきたいと思います。
第二には、そのために、いかなる運動を展開していくのかということです。
先日も、原水爆禁止の世界大会で、原水協)の乱闘騒ぎがありましたが、あのように政争の具となった運動に、もはや、原水爆禁止の実現を期待することはできません。
大切なのは、政治やイデオロギーを超えて、どこまでも一人一人の人間に光を当てた、生命の覚醒の運動です。
つまり、遠回りのようでも、一対一の地道な対話を続け、人間の道を教える、私どもの“弘教”こそ、根源的な原水爆禁止の運動となるのであります」
文化の華 十三
山本伸一は、力を込めて訴えていった。
「第三には、仏法の大生命哲学をもった青年部の諸君が、あらゆる分野で、立派な社会人に、偉大なる指導者に成長し、人びとの救済のために、更に、全世界の平和の実現のために、奮闘努力していただきたいということです。
私どもは、日蓮正宗であるとか、また、創価学会であるといった、一宗や一団体の偏狭な小さな考えにとらわれるのではなく、大聖人のまことの弟子として、全日本民衆を、全世界の人びとを、救い切っていくのだという、堂々たる信念をもって、進んでいこうではありませんか」
伸一のあいさつは簡潔であったが、そこには、民衆に、人間の生命に、深く根差した、最も本源的で漸進的な核廃絶への道が示されていた。
この日、伸一が語った、原水協の乱闘騒ぎというのは、この年の八月六日、第八回原水爆禁止世界大会の最終日に、東京・台東体育館で行われた総会で起こった騒ぎのことである。
原水協、すなわち、原水爆禁止日本協議会が結成されたのは、一九五五年(昭和三十年)九月のことであった。
原水協結成の発端は、五四年(同二十九年)三月、ビキニ環礁でアメリカの水爆実験によって、漁船員が被曝した第五福竜丸事件を機に、東京・杉並の婦人グループなどが始めた原水爆禁止の署名運動にあった。
署名運動は、全国に波及し、この年の八月には原水爆禁止署名運動全国協議会が結成された。
翌五五年(同三十年)五月には、原水爆禁止世界大会日本準備会が発足。そして、八月六日から三日間にわたり、被爆十周年を迎えた広島で、第一回原水爆禁止世界大会が開催された。
この大会の成果を踏まえ、原水爆禁止署名運動全国協議会と原水爆禁止世界大会日本準備会が合流し、原水禁運動の中心を担う組織として誕生したのが、原水協であった。
いわば、原水協は、平和を願う民衆の呼びかけから始まった、党派を超えた、社会のあらゆる人びとからなる国民運動がもたらした結晶であった。
しかし、次第に、共産党をはじめ、急進勢力が原水協の主導権を握るようになっていった。
その主張は、アメリカを戦争勢力とし、ソ連を平和勢力とするものであり、ソ連の核実験は、戦争勢力へのやむをえぬ対抗措置とされ、原水爆禁止運動は、そのまま反米闘争となっていったのである。
文化の華 十四
一九六〇年(昭和三十五年)の日米安保条約の改定を前に、原水協(原水爆禁止日本協議会)が改定阻止を打ち出し、反米的な色彩が強まっていくと、まず、保守系の人びとが離脱していった。
更に、民社党系、全労(全日本労働組合会議)系の団体が原水協と袂を分かち、六一年(同三十六年)十一月には、第二原水協ともいうべき核禁会議(核兵器禁止平和建設国民会議)を結成したのである。
原水協内部では、この分裂後も、主導権をめぐって共産党系と、社会党・総評(日本労働組合総評議会)系との対立が続いていた。
社会党・総評系は、ソ連も含め、すべての核実験に反対の立場をとっていた。
この両者の対立が表面化したのは、六一年の第七回原水爆禁止世界大会であったが、再分裂には至らなかった。
社会党・総評系は、原水協内にとどまり、人事・運営面で主導権を握り、政治的偏向を是正し、体質改善を図るという方向で進んできたのである。
そして迎えた、この六二年(同三十七年)の第八回原水爆禁止世界大会では、社会党・総評系の主張が実り、米ソを含めたすべての核実験に反対することが基調報告に盛り込まれた。
ところが、第八回大会のさなかの八月五日、米政府原子力委員会は、ソ連が五日朝、大気圏内核実験を再開したことを発表した。
それを聞いた社会党・総評系の代表は、原水爆禁止世界大会の総会に先立って行われた大会運営委員会で、大会としてソ連の核実験に抗議する旨の緊急動議を出した。
しかし、緊急動議は、多数を占める共産党系やソ連などの外国代表に反対されて、つぶされてしまった。
そして、午後三時半、総会の開会が宣言された。
開会直後、数十人の若者が、「緊急動議!」と叫びながら、正面の議長団席に突進した。社会党・総評系の青年たちであった。
総会の場で、ソ連の核実験に抗議する緊急動議を成立させようと、直接行動に出たのである。
会場の台東体育館は騒然となった。
議長団席に詰め寄ろうとする社会党・総評系の青年たちと、それを阻止しようとしてスクラムを組む共産党系の青年たちの間で、もみ合いになり、怒号が飛び交った。
「動議を取り上げろ!」
「引っ込め!」
外国代表の婦人たちは、呆気にとられた顔で、半ば怯えながら、事態の推移を見ていた。
文化の華 十五
第八回原水爆禁止世界大会の議長団は、社会党・総評系から出された、ソ連の核実験再開に大会の名で抗議すべきだとの緊急動議をめぐって、別室で協議を始めた。更に、運営委員会も開かれた。
大会は、その後、五時間余にわたって中断されたままであった。
午後九時過ぎになって、大会は再開された。
大会総長である安井郁原水協理事長があいさつに立ち、緊急動議は運営委員会で検討したが、全会一致には至らないため、大会総長の責任において、個人の報告ということで処理したいと語った。
すると、演壇の近くに陣取っていた社会党・総評系の青年が、壇上に駆け上がっていった。
彼らと共産党系の青年たちとの間で、再び、殴り合いが始まった。イスを押し倒し、つかみ合いの乱闘である。舞台の下に転げ落ちる人もいた。また、重傷を負った人もいた。平和への誓いの場は、乱闘の修羅場となったのである。
あちこちで罵声と野次が飛び交い、日本山妙法寺の僧たちの一団が、団扇太鼓を打ち鳴らすといった一幕もあった。
結局、ソ連の核実験への抗議の採択はならず、やがて、社会党・総評系の人たちが引き揚げ始めた。
共産党系の参加者から、「帰れ! 帰れ!」の声が起こり、拍手が高鳴った。
社会党・総評系の参加者が次々と出ていくと、会場は歯の抜けたように、空席が目立った。
一方、同じ六日の午後二時からは、広島市公会堂で原水協の広島大会が行われていたが、ソ連への核実験中止の要請をめぐって、ソ連、中国、北朝鮮などの代表が退場するという騒ぎも起こっている。
また、この日、全学連主流派の約百七十人が、「米ソ核実験反対」を訴え、原水爆禁止世界大会の総会が行われた台東体育館やソ連大使館に激しい抗議デモを行った。学生たちは、警戒中の警官や機動隊ともみ合い、十一人が検挙されたのである。
台東体育館での乱闘騒ぎの後も、社会党・総評系は原水協内部で「体質改善」をめざすとしていたが、共産党系との対立の溝はますます深まっていった。
そして、遂に一九六五年(昭和四十年)二月、社会党・総評などを中心に、原水禁(原水爆禁止日本国民会議)が結成される。
こうして、日本の原水爆禁止運動は、原水協、核禁会議、原水禁と、大きく三つのグループに分裂していくことになる。
文化の華 十六
山本伸一は、第八回原水爆禁止世界大会で乱闘騒ぎが起こったことを知ると、強い怒りを覚えた。
彼は、人びとの素朴な平和への願いから始まった原水爆禁止運動が、政治に蝕まれ、政党やイデオロギーの道具にされていることに、我慢がならなかったのである。
伸一は、原水爆の禁止を実現するには、党派やイデオロギーを超え、一人一人の人間に光をあてた、独自の運動を推進していくしかないことを実感した。
それは、互いに一個の人間であるとの原点に立ち返って対話し、万人の生命の尊厳を説く仏法の哲理を語り、人間の生存の権利を守り抜く共感の輪を、社会に、世界に、広げていくことであった。
彼は、そのことを、三ツ沢の陸上競技場で行われた全国体育大会で、青年たちに訴えたのである。
伸一は、戸田城聖の「原水爆禁止宣言」を聞いて以来、その実現を誓い、深い思索を重ねてきた。
――東西の冷戦といっても、その本質は、両陣営の指導者の相互不信にある。
相手を信じることができなければ、いかに相手をしのぐ核兵器を装備するかが重要な課題となり、際限のない、核兵器の開発競争が繰り返されることになる。
強大な破壊力をもつ核兵器を使って戦争をすれば、共倒れになるので戦争はできなくなるという核抑止論もまた、相互不信と恐怖の均衡のうえに成り立つ、精神の悪魔的な産物といってよいだろう。
したがって、この人間の心に宿る相互不信の根を断ち切り、不信を信頼に、憎悪を友情に変えていかなければ、核兵器の廃絶はない。そして、その直道こそ「対話」であると、伸一は考えていた。
彼は一人の人間として、ソ連の首脳とも、アメリカの首脳とも、また、中国の首脳とも、会って語り合わねばならないと思った。
各国の首脳は、それぞれ自国の権益の拡大を考えているにせよ、本来、平和を望まない人間はいない。また、心の底では、核軍拡競争の愚かさに気づいているに違いない。
いかなる人も、等しく仏性を具えている。人間の心に巣くう魔性を打ち破り、その仏性を呼び覚ますならば、平和への賛同は必ず得られるはずだ。
もちろん、伸一は、それが、決して容易な道ではないことも知っていた。しかし、胸襟を開いた粘り強い対話を重ねていくならば、いかなる国の指導者とも、必ずわかり合えるというのが、彼の確信であった。
文化の華 十七
山本伸一が、世界の指導者との「対話」とともに、民衆と民衆の相互理解のために、必要性を感じていたのが、「文化の交流」であった。
戦争の本質は、暴力、野蛮であり、その対極にあるものが文化である。
戦争が破壊であり、武力による外からの人間の抑圧であるのに対して、文化は創造であり、人間の精神の内なる力によって育まれる“華”である。
そして、文化は、その民族や国家を理解する、最も有効な手掛かりとなる。
また、文化は固有性とともに共感性をもち、民族、国家、イデオロギーの壁を超えて、人間と人間の心を結ぶ“磁石”の働きをもっている。
それゆえに、伸一は、人間文化の華を咲かせることを、彼の使命としてきたのである。
九月二十七日には、東京体育館で、九月度の本部幹部会が行われたが、この席上、文化局に新たに学術部と芸術部が誕生した。
文化局には、前年の十二月に学芸部がつくられていた。この学芸部は、大学教授など学術関係者からなる学芸第一部と、芸術関係者で構成される学芸第二部に分けられていたが、今回、それぞれ独立した部としてスタートしたのである。
学術部長には、かつて、計測工学の研究に携わり、東京都立大学で教鞭をとっていた、理事の山際洋が就任した。また、芸術部長には、仙台支部長、初代学生部長を歴任した、理事の白谷邦男が就いた。
両部とも、それぞれの分野で、高い評価を得ている人材がそろっていた。
特に芸術部には、画家、舞踊家、書道家、作曲家、ピアニスト、歌手、俳優などの多彩なメンバーが集まっており、文化創造の旗手としての、今後の活躍が期待された。
伸一は、芸術部が文化の走者の先駆けとなり、民衆の大地に、鮮やかな文化の大輪を咲かせることを、強く願っていた。
この秋、学会は体育大会に続いて、各方面ごとに音楽祭を開催する一方、初の試みとして、首都圏のメンバーを中心に、文化祭を開催することになっていた。
十月六日には、伸一が出席し、第一回関西音楽祭が行われた。次いで、翌七日には北海道、中部で、十四日には、九州でも、音楽祭が盛大に開催された。
そして、十四、十五の両日には、青年部主催の第一回文化祭が行われることになっていた。
各方面の音楽祭も、この文化祭も、伸一の提案によるものであった。
文化の華 十八
芸術は、人間性のやむにやまれぬ必然の表現といえよう。
そして、その芸術と宗教とは、密接不可分の関係にある。
たとえば、あのフランスのルーヴル美術館に展示された、西洋美術の名品の数々も、その多くは、キリスト教という土壌のうえに開いた大輪である。
それぞれの作品は、表現の形式も異なり、最大の個性の光を放ちつつも、そのなかに、キリスト教的な宇宙像、世界観が、感動をもって表現されている。
いわば“芸術の生命”とは、絵画に限らず、音楽であれ、舞踊であれ、感動を源泉として、普遍的な精神の世界を表すことにあるといえよう。つまり“自己”と“宇宙的なるもの”との融合にある。
だからこそ、優れた芸術は、民族や国家を超えて、万人に共感をもたらすのである。
仏法は一念三千を説き、宇宙の森羅万象は自身の一念に収まり、自己の一念は全宇宙に遍満することを教えている。それは、最も普遍的な、人間と大宇宙を貫く、最高の真理といえる。
その仏法を根底とするならば、必ずや、新しい、偉大なる芸術が生まれよう。
また、御書には「迦葉尊者にあらずとも・まい(舞)をも・まいぬべし、舎利弗にあらねども・立ってをど(踊)りぬべし、上行菩薩の大地よりいで給いしには・をど(踊)りてこそい(出)で給いしか」(一三〇〇)と仰せである。
これは、釈尊の高弟である迦葉尊者、知性の代表ともいうべき舎利弗が、法華経という成仏得道の大法を得た時、その大歓喜に、舞い、踊ったと述べられたものである。
更に、法華経の会座で、滅後末法の弘通を託すために、釈尊が大地の底から無数の地涌の菩薩を呼び出した時にも、その上首たる上行菩薩は、大歓喜に踊りながら出現したといわれている。
大宇宙の深奥の真理を知り、その大法を広め、一切衆生の幸福を打ち立てようとする大歓喜は、おのずから舞となり、踊りとなったといえよう。
この生命の発露のなかに芸術の開花がある。
人びとの幸福と平和社会の建設という人間の使命に目覚め、大歓喜に燃えて正法を流布しゆく民衆が集う創価学会は、必ずや、新しき芸術の創造をもたらす揺籃となるに違いない。
山本伸一は、広宣流布の広がりは、やがて、絢爛たる第三文明の芸術の華々を咲かせ、民衆の大地を荘厳することを確信し、音楽祭、文化祭の開催を提案したのである。
文化の華 十九
山本伸一が、音楽祭、文化祭を提案した、もう一つの理由は、芸術を民衆の手に取り戻さなければならないと、考えていたからでもあった。
芸術は、人類の偉大なる精神の宝であるにもかかわらず、当時の日本にあっては、クラシック音楽の演奏会を聴いたり、バレエや古典芸能を鑑賞したり、美術展に行くのは、まだ、ほんの一部の人たちに限られていた。
それは、日本人の文化への関心の低さもあったが、民衆に近づこうとする、芸術関係者の努力の不足もあったといえよう。
伸一は、広宣流布は、民衆の大地に根差した文化運動であるととらえていた。
彼は、ある時、青年たちに、広宣流布とは、いかなる状態をいうのか、と問われて、「文化という面から象徴的にいえば、たとえば日本の庶民のおばあちゃんが、井戸端会議をしながら、ベートーヴェンの音楽を語り、バッハを論ずる姿といえるかもしれない」と答えたことがある。
民衆に親しまれ、愛されてこそ、文化・芸術も意味をもつといえる。民衆のいない文化・芸術は、結局は空虚な抜け殻でしかない。
また、人間が人間らしく生きようとする時、その生活には、音楽や絵画に親しむなど、おのずから文化・芸術の芳香が漂うものだ。
更に人間性の勝利とは、民衆のなかから、真に偉大なる“芸術の華”“文化の華”が開く時でもある。
第一回文化祭は、一部、二部に分かれ、第一部は十四日、東京・神田の共立講堂で、第二部は翌十五日に、横浜文化体育館で行われた。
文化祭は、それまで学生部が行ってきた、展示や演劇、演奏、合唱などからなる学生祭と、青年部の音楽祭の集大成ともいうべきものであった。
これには、青年部幹部のほか、芸術部員なども友情出演し、新たな人間文化の祭典となった。
十四日の夕刻、文化祭第一部の会場となった共立講堂に到着した山本伸一は、まず、会場の二階ロビーに展示された、絵画や書道、写真などの学生部員の作品を鑑賞した。
作品の完成度は、全体的に見れば、決して高いとはいえないが、勢いがあり、新しい創造の息吹にあふれていた。
午後五時五十分、初の文化祭は幕を開いた。
女子部のハーモニカ隊による軽やかな演奏に始まった文化祭は、学生部員によるベートーヴェン作曲「作品二十 七重奏曲・変ホ長調」の演奏、芸術部員の独唱、婦人部「白ゆり合唱団」の合唱と続いた。
文化の華 二十
演奏、合唱の後は、舞台は一転し、女子学生部員の狂言「鬼瓦」となり、そして、芸術部員による日本舞踊と続いた。
更に、男子学生部員の創作劇「今日もどこかで」が上演された。これは、買収選挙で当選したある市議会議員の、金をめぐるさまざまなトラブルを通し、腐敗堕落した地方議員の実態を風刺した劇であった。
そこには、政治に鋭い監視の目を向け、社会悪と戦おうとする学生部員の気概が脈打っていた。
文化祭の最後は、広報局製作の映画「父ちゃん 頑張って!」の上映である。
主人公は中学一年生のアキ子で、彼女の父親が信心に奮い立っていく過程を、ユーモアを交えて描いた作品である。随所に、会員の生活感情があふれ、皆の共感と感動が広がった。
広報局の設置が発表されたのは、前年の五月のことであった。メンバーは、毎月、ニュース映画「聖教ニュース」を作りながら、更に、劇映画の製作にも挑戦してきたのである。
信仰とは、人間革命のドラマである。それは、同時に、家庭に生活革命をもたらし、職場、地域に、共感と友情のドラマを生み、社会建設の大ドラマをつくり出していくものだ。
広報局のスタッフは、その事実を、なんとしても劇映画にし、人びとに伝えたかったのであろう。
山本伸一は、十月十四日の文化祭第一部に引き続いて、翌十五日には、横浜文化体育館で行われた、文化祭第二部にも出席した。
第二部は、音楽を中心とした企画で、音楽隊の初めての管弦楽、ベートーヴェン作曲「交響曲第三番“英雄”」で幕を開けた。
そして、鼓笛隊の演奏、初出場となった女子部の「富士合唱団」の合唱、芸術部員のピアノ演奏、「富士吹奏楽団」の吹奏楽などが相次ぎ披露された。
クラシックあり、日本民謡あり、学会歌ありの、多彩な音楽の夕べとなった。
文化祭のフィナーレは、音楽隊の演奏に合わせての学会歌「革新の歌」の合唱であった。これは、この年の三月に発表された、男子部の愛唱歌である。
おお逞しく 溢れる潮
広布の王者は
凛然と立てり
民衆救う 旗のもと
嵐を呼んで 若人は集う
出演者とともに、客席の人たちも、ともに歌い始めた。躍動と歓喜の一万人の大合唱が、怒濤のように響き、会場を包んだ。
文化の華 二十一
この後、幹部のあいさつがあり、最後に、山本伸一が登壇した。
「さきほどまで、美しい声、美しい顔、美しい調べがあって、皆さんがウットリとしておられたところ、今度は“教学の顔”“折伏の顔”“指導の顔”が登場し、大変に申し訳なく思っております。
今後は、こうした音楽祭や文化祭においては、最後のあいさつや講演は、いっさいなくしていくように、青年部長にも頼んでおきましたので、どうか、ご安心ください」
ユーモアあふれる話に、どっと笑いが起こった。
「私は、東京からこの会場に来る途中、今、聖教新聞に連載中の、山岡荘八さんの小説『高杉晋作』を読んでまいりました。
そのなかで、安政の大獄で牢に入った吉田松陰が、人生最大の重要事を悟るところがあります。
それは『どのように高遠な識見も、それが現実に根をおろして実行されないのでは一椀の汁にも劣る』ということでした。
つまり、どんなに偉大な理想をもっていても、それが民衆のなかに根差し、かつ、その理想を命を賭して実践し、実現していかなければ、一椀の汁にも劣り、全く意味はないということです。
戦後の日本でも、多くの指導者や政治家が、民衆の味方であるかのような顔をして、さ
まざまな理想を語ってきました。しかし、何一つ実現してこなかったではありませんか。
また、今も、政府は“人づくり”“国づくり”と叫んでおりますが、それは政府として、当然の責任であり、義務であります。
今に至って、そんなことを言わざるを得ないこと自体、何もやってこなかったことの裏づけであるといえます。
それに対して、わが創価学会は、日蓮大聖人の最高の生命の哲理をもって、民衆の幸福と平和の実現という高邁な大目的、大理想を掲げ、実際に、三百万世帯になんなんとする民衆を救ってまいりました。
ある時は、医者にも見放され、生きる希望さえ失った人のもとに足を運び、また、ある場合には、人生に行き詰まり、自殺を考える人と粘り強く語り合い、朝な夕な、民衆の幸福のために働き抜いてきました。
したがって、創価学会こそが、高遠な理想をもち、大理念を掲げて、民衆のなかに飛び込み、民衆のなかに生き、民衆の味方となってきた、世界でただ一つの団体であると、私は、声を大にして訴えたいのであります」
文化の華 二十二
雷鳴のような、拍手が起こった。
山本伸一は拍手が止むのを待って、言葉をついだ。
「その民衆の力で、このように、歓喜にあふれ、楽しく、見事な文化祭ができましたことは、まさに、民衆の勝利の姿であると、私は確信しております。
なぜなら、民衆の生命を脅かすものが暴力であり、戦争であるのに対して、生きることの喜びの発露が、芸術であるからです。
真実の仏法の広がりゆくところには、民衆の歓喜の詩があり、歌があり、舞があります。その昇華されたものが芸術です。ゆえに、我らのゆくところ、絢爛たる芸術の華が咲くのであります。
この生命の歓喜の華の輪をもって、人びとの心をつなぎ、平和の花園を世界につくり上げることこそ、私どもの使命であります」
そして、伸一は、こう語って話を結んだ。
「今日は私ども理事室のメンバーは、皆さんが一生懸命に演奏され、歌われるのを、ゆっくり観賞させていただきました。大変にありがとうございました。
そこで、最後に、理事室を代表して、私が学会歌の指揮をとりまして、失礼させていただきます」
歓声と大拍手がわき起こった。
「新世紀の歌」の前奏が響き、皆の打つ手拍子がこだました。
大鷲が大空を舞うかのような、伸一の勇壮な指揮が始まった。
文化祭の、どの演目よりも、最も力強く、最大の歓喜にあふれた大合唱となった。伸一の舞に合わせ、皆の歌声も、心も、完全に一つに溶け合っていた。
この日、創価学会は「平和」と「文化」の新しき海原をめざして、勇躍、船出したのである。
ところで、この文化祭から八日後、太平洋を隔てたアメリカから、人類を震撼させる大ニュースが世界に流れた。
ケネディ大統領が、二十二日午後七時(日本時間二十三日午前八時)、テレビ・ラジオを通じて、ホワイトハウスから全米国民に特別放送を行ったのである。
テレビに映るケネディの顔は、緊張で青ざめているかのようでもあったが、一言一言、力強い声で語っていった。
――これまで、アメリカ政府は、キューバ島内でのソ連の軍事力の増強に対して、厳重な監視を続けてきた。その結果、先週、攻撃型ミサイル基地がキューバに準備されているという事実が、明白な証拠によって判明した……。
文化の華 二十三
キューバとアメリカは、海を隔てて、約九十マイル(約百四十四キロメートル)しか離れていない。目と鼻の先の近さである。
ケネディ大統領の演説は、そのキューバに、ソ連の攻撃用ミサイルの発射基地が建設されているという衝撃的な内容であった。
ケネディは、このミサイル基地の目的は、西半球、つまり、アメリカをはじめとする西側への核攻撃能力を保有することにあると語った。
そして、そこから発射されるミサイルは、首都ワシントンをはじめ、パナマ運河、メキシコ、アメリカの東南部、中米、カリブ海沿岸のどの都市をも攻撃することができるだけでなく、今後は、もっと射程距離の長い、中距離弾道ミサイルが配備されることになるだろうと指摘していた。
そこで、このミサイルの使用を防ぎ、撤去させるための当面の措置として、船で運ばれている攻撃的兵器のキューバ搬入を阻止すると発表した。「海上封鎖」の宣言であった。
これによって、いわゆる“キューバ危機”が公然のものとなったのである。
更に、ケネディは、こう語っていった。
「われわれは、その勝利の果実すらも口に入れる時は灰にすぎなくなる全世界的な核戦争の危険を、早まって、あるいは不必要に冒すことはしないであろう。しかしまたわれわれは、核戦争に直面しなければならぬときには、いつでもその危険から身を引くこともしないであろう」(注1)
広島、長崎に原爆が投下されてから十七年。世界は核兵器の“恐怖の均衡”のもとで、東西の「冷戦」状態を維持し、かろうじて偽りの安定を保ってきた。それが「熱戦」に転じて、全面核戦争につながりかねない事態に至ったのである。
世界に緊張が走った。
このケネディの演説があったのは、日本時間の二十三日午前八時であったが、その二十分前、ライシャワー駐日アメリカ大使が、大統領の親書を手渡すため、東京・信濃町の池田勇人首相の私邸を訪ねている。
親書は、今回のアメリカの措置に対する事前了解を求めたもので、日本が国連において、アメリカを支持するよう要請していた。
ケネディの演説を受けて日本のテレビ、ラジオ、新聞も、早速、この重大ニュースを大々的に報道した。
山本伸一は、このニュースを聞くと愕然とした。
“核戦争など、絶対に起こさせてなるものか!”
この日から、全魂を注いでの、更に懸命な彼の唱題が始まった。
文化の華 二十四
ケネディ大統領の発表を聞いたアメリカ国民の間には、核戦争前夜のような緊迫感が高まった。いや、アメリカのみならず、核戦争の脅威が世界を包んだのである。
ところで、この事件の背景には、一つには、いうまでもなく、米ソ両大国の“冷戦”の問題があった。
米ソ両国は、第二次世界大戦後、熾烈な核軍拡競争を繰り広げてきた。
一九四五年にアメリカが最初に原爆をつくると、後を追うように、ソ連も四年後に原爆を保有し、アメリカが一九五二年に水爆実験に成功すれば、ソ連も翌年には水爆を完成させた。
ところが、一九五七年になると、ソ連は大陸間弾道ミサイル(ICBM)を開発し、更に、世界初の人工衛星スプートニク一号、二号の打ち上げに成功する。
それは、ソ連が、核ミサイルを、直接、アメリカまで飛ばせる技術をもつに至ったことを意味していた。
当初、アメリカが先行してきた核軍拡競争であったが、にわかに、ソ連が軍事的に優位にあることを示したのである。
アメリカの衝撃は大きかった。また、危機感も生じた。
ソ連の方も、ことあるごとに、核ミサイルの威力を宣伝し、誇示した。
するとアメリカは、ソ連の軍事力が宣伝通りのものかどうかを調べるために、U2型機を使って、ソ連領空へ査察飛行を行った。
そうして起こったのが、米ソの“雪解け”を再び凍結させた、一九六〇年のU2型機撃墜事件であった。
だが、その後もアメリカは、偵察衛星を使って査察を続けた。そして、ソ連の宣伝は誇大であり、核ミサイルの実数は予想よりも少なく、実質的な核戦力は、アメリカが優位を保っていると結論したのである。
今度は、ソ連が焦る番であった。再度、アメリカに対する軍事的優位を構築する必要に迫られることになったのである。
これがキューバにミサイルを配備しようと考えた、ソ連側の直接の事情といわれている。
しかし、後に、ソ連のフルシチョフ首相は、アメリカの脅威にさらされているキューバを、強化、支援するためであったと述べている。
つまり、ソ連には戦争を仕掛ける意思はなく、むしろ、アメリカの攻撃から、キューバと社会主義陣営の利益を防衛するためであったというのである。
いずれにせよ、仮想敵の幻影に怯え、際限なき泥沼にはまり込んだ米ソの核軍拡競争が、一触即発の“キューバ危機”を招いていったといえよう。
文化の華 二十五
この危機をもたらした、もう一つの背景には、キューバとアメリカの二国間関係がある。
スペインの植民地であったキューバでは、十九世紀後半に入ると、十年に及ぶ第一次独立戦争が起こるなど、解放運動は活発化していった。
そのたびに、スペインの過酷な弾圧が繰り返されたが、自由を求める民衆の抵抗は勢いを増していった。
「人間の権利は勝ち取るものである。乞うものではない。立ち上がれ! 人を頼るな!」と叫んだキューバの“精神の父”ホセ・マルティの指導で、一八九五年二月、第二次独立戦争が勃発した。
それから間もない五月十九日、マルティは四十二歳の若さで戦死する。だが、彼の遺志を継いだ独立軍は善戦し、独立は時間の問題と思えた。
ところが、ここにアメリカ合衆国が登場する。
このころ、既にアメリカは、キューバ経済に強い影響力をもっていた。
ある統計では、一八九五年のキューバの輸出総額のうち、対アメリカ貿易が占める割合は、約八三パーセントに上ったといわれる(注)。その輸出品の大半が砂糖であった。
一方、アメリカの対キューバ貿易では、スペインが障壁となって、アメリカ製品のキューバ輸出が思うように進まなかった。
一八九八年、キューバの独立戦争の最後の段階で、アメリカは、西欧諸国による南北アメリカへの干渉を排する“モンロー主義”の建前から、スペインに宣戦する。米西戦争である。
そこには、キューバにおける、自国の権益を維持拡大しようとするアメリカの思惑もあったようだ。
米西戦争ではアメリカが勝利し、スペインのキューバからの撤退が決定した。だが、キューバが独立を果たすまでは、アメリカがキューバを軍事占領することになったのである。
そして、一九〇二年、キューバは、ようやく、悲願であった独立を達成する。
ところが、独立に際して制定された憲法には、キューバに対するアメリカの干渉権や海軍基地の用地提供などを明記した「プラット修正」と呼ばれる条項が加えられた。
いわば、アメリカの絶大な干渉下での独立であり、独立後も、アメリカ資本による経済的支配は一段と進んでいった。
キューバの国内産業は砂糖一品目に依存させられ、国民の大半はサトウキビ畑での重労働に従事するしかなかった。しかも、一方で日用品をはじめ、あらゆる製品はアメリカから買うように仕向けられていた。
文化の華 二十六
アメリカが、キューバの独立戦争に介入し、スペインと戦った時には、キューバに自由をもたらそうとの思いもあったであろう。
しかし、その後のキューバは、事実上、不幸にしてアメリカの“半植民地”になってしまったといえる。
そうなれば、貧困を強いられたキューバの民衆のアメリカへの感情は、当然、否定的なものとならざるを得ない。
そうしたなかで、第二次世界大戦後の一九五二年、軍人出身の元大統領バティスタがクーデターで政権を奪取した。彼は、約七年にわたって私腹を肥やし、国民を圧迫。腐敗した独裁者として君臨したのである。
その悪名高き独裁を覆したのが、フィデル・カストロを指導者とした“キューバ革命”であった。
一九五九年の元日、独裁者のバティスタは、国外へ逃亡し、民衆の歓呼に迎えられて、革命軍は首都ハバナに凱旋したのである。
この時、カストロは満三十二歳。新生キューバの若き獅子であった。
反バティスタの革命運動に身を投じて、足掛け七年。武装蜂起、投獄、亡命、そして、山中でのゲリラ戦と、生死の境を超えて民衆の支持を勝ち取り、独裁者を追放した、筋金入りの革命家であった。
キューバの革命政府は、当初、穏健派を主要閣僚に据えるなど、社会主義革命を前面に押し出していたわけではなかった。
当時、アイゼンハワーが大統領の地位にあったアメリカも、ほどなく新政府を承認した。
しかし、二月にカストロが首相になると、労働者や農民を主体とする“人民革命”の色彩を強めていく。国民の間に生じていた、極端な貧富の差を是正するには、そうせざるを得なかったのであろう。
たとえば、五月には、農業改革法を定め、大土地の接収に踏み切っている。
また、一九六〇年、キューバが輸入したソ連産の原油の精製を、アメリカ資本の石油会社(三社)が拒否したため、彼は石油の精製を国有化した。
これらがキューバとアメリカの関係を、決定的に悪化させたのである。
アメリカは、対抗措置として、キューバの砂糖の輸入を大幅に削減。その後、アメリカ製品のほぼ全面的な禁輸を決めるなど、経済封鎖によるキューバの孤立化を推し進めた。
キューバは、砂糖が輸出できなければ食べてはいけない。その時、手を差し伸べたのがソ連であった。当然、キューバはソ連との関係を深めていった。
語句の解説
◎カストロ
一九二六年生まれ。キューバの政治家。“キューバ革命”の指導者で、現・国家評議会議長。
一九五九年一月、ゲリラ戦でフルヘンシオ・バティスタ(一九〇一〜七三年)の独裁政権を打倒し、二月、首相に就任。米国の介入に対抗し、社会主義国建設に挺身した。池田SGI会長とは一九九六年六月に会談している。
◎アイゼンハワー
一八九〇〜一九六九年。米国の政治家、軍人。第二次世界大戦中、連合軍総司令官として欧州戦線で活躍。一九五三年、第三十四代大統領に就任した。「アイク」の愛称がある。ケネディの前任者。
文化の華 二十七
キューバの社会主義化は急速に進み、大企業と土地の国有化が推進された。
一説では、一九六〇年の末までに、キューバでは、約十億ドルのアメリカ資本が国有化されたという。
こうしてキューバとアメリカの関係は、悪化の一途をたどり、翌六一年の一月三日には、アメリカはキューバとの国交を断絶したのである。
一月二十日に、ケネディが第三十五代の大統領に就任した時、既に両国の対立は、抜き差しならぬ状態になっていたといってよい。
それは、早くも、その年の四月十七日に、“キューバ侵攻事件”として表面化することになる。
これは亡命キューバ人の部隊が、キューバに上陸し、攻略しようとした事件であったが、その計画や実行には、アメリカのCIA(中央情報局)が深く関与していたのである。
当時、アメリカの首脳にもたらされていた情報によれば、ひとたび、亡命キューバ人部隊が上陸すれば、国内にいる反カストロ勢力が立ち上がり、政府はあえなく転覆するだろうと伝えられていたという。
ところが、事実は反対であった。亡命キューバ人の部隊は、キューバの民兵に、わずか三日間で撃退され、しかも、反カストロ勢力が蜂起するどころか、ますます、キューバ国民を団結させることになってしまったのである。
この事件により、ケネディは、内外から激しい非難を浴びることになる。
ケネディは、大統領選に出馬する直前、カストロのことを、南米解放の父シモン・ボリバルの「思想的後継者の一人」と位置づけていた。また、キューバをはじめラテン・アメリカ諸国が抱えている重荷や、革命にかける人びとの希望についても、努めて柔軟に理解しようとしていた。
そのケネディが、前政権の“置き土産”とはいえ、キューバ侵攻の計画を認めてしまったのは、歴史の皮肉といえようか。
一方、カストロは、このころ、「キューバ革命は社会主義革命である」と宣言するに至った。
キューバにとって、アメリカは強大な「北の巨人」であった。侵攻事件は、そのアメリカが、いつ攻めて来るかもしれないという、強い危機感を募らせた。それが、キューバのソ連への接近に、一段と拍車をかけることにもなった。
一九六二年に入ると、キューバはソ連と通商条約を締結。すると、米州機構(OAS)は、キューバを除名し、アメリカは対キューバ全面禁輸を決定する。
語句の解説
◎ボリバル
一七八三〜一八三〇年。べネズエラ生まれの軍人、政治家。南米の独立運動の大指導者。
二十二歳で「南米解放」を誓い、南米の北部諸国の解放に身を賭した。今日なお「解放者(リベルタドール)」として敬愛されている。また、ボリビア共和国(一八二五年独立)の国名は彼の名に由来している。
文化の華 二十八
キューバとアメリカの対立に、米ソの冷戦が絡み合い、危機の火種は、大きくなっていったのである。
この一九六二年の四月末から、ソ連貨物船のキューバ往来が頻繁になっていった。七月には、軍需物資の搬入が激増し、多数のソ連青年がキューバ入りしたことが確認された。
こうした事態を重く見たアメリカは、偵察のためにU2型機をキューバ上空に飛ばすなどして、躍起になって、監視と情報収集に努めた。それは、当然、領空侵犯であったが、もはや、やむを得ない対応としたのであろう。
八月の二十七日からは、キューバ調査報告が毎日、米政府の会議に提出されるようになった。
しかし、この時点では、まだ、キューバには、核兵器の存在は確認されていなかった。
九月、米政府は、ソ連のドブルイニン駐米大使に、攻撃用ミサイルをキューバに持ち込むなら重大な事態になると警告する。
このころソ連は、表向きはキューバのミサイルの存在を否定しながら、秘密裏に、ミサイル基地の建設を急いでいたのである。
十月十四日、アメリカのU2型機がキューバ上空を偵察飛行し、地上の写真を撮った。総力をあげて解析された写真には、ソ連製の攻撃用ミサイルと、ミサイル基地が写っていることが判明したのである。
その事実は、十六日の朝一番で、ケネディ大統領に報告され、続く会議に提出された。
ホワイトハウスに衝撃と戦慄が走った。
この瞬間から、米首脳にとって、“危機の十三日間”といわれた試練の日々が始まったのである。
ケネディ以下、十四、五人ほどの首脳が、ホワイトハウスの一室に集まり、極秘の会議が連日行われた。一歩対応を間違えれば核戦争につながりかねない緊迫した協議であった。
後に、この会議はEXCOM(エクスコム=国家安全保障会議執行委員会)と呼ばれるようになるのである。
この会議には、大統領の弟 のロバート・ケネディ司法長官、ラスク国務長官、マクナマラ国防長官、マコーンCIA(中央情報局)長官のほか、大統領顧問、軍最高幹部が常時参加し、折々に、ジョンソン副大統領やスチブンソン国連大使らが加わった。
キューバに、ソ連の中距離ミサイルが設置され、使用可能になれば、首都ワシントンやニューヨークなど米本土の中心都市が攻撃の射程に入ることになる。
米首脳の間では、大激論が交わされた。
文化の華 二十九
キューバへのミサイルの配備に、アメリカとしていかに対処すべきか――それには、決して、模範解答があるわけではなかった。暗闇のなかでの、手探りに等しい協議であった。
ある者は、直ちにキューバを空襲し、ミサイル基地が使用可能になる前に、徹底的に破壊すべきだと主張した。
すると、別の首脳は、それは際限のない報復合戦となり、結局、全面核戦争という最悪の事態になってしまうと反論した。
政治的な交渉であたるべきだとする者や、当面は、静観すべきだという少数意見もあった。
相手のあることであり、容易に結論の出る問題ではなかった。対応策は、固まりかけては、また、再検討された。
しかし、それは次第に、二つの意見に集約されていった。
一つは、海上封鎖のプランであった。一気に攻撃をしかけるのではなく、まずミサイルのキューバ搬入を阻止し、相手の出方を見ながら、次第に圧力を増していくという考えである。
もう一つは、武力攻撃のプランであった。封鎖ではミサイルを撤去できない、既にキューバ国内にミサイルがある以上、武力攻撃しかないというのである。
特に、米軍の最高幹部などが、即時、軍事行動に入ることを盛んに主張していたようだ。
奇襲攻撃を仕掛けるべきだという、こうした軍人たちの声高の主張を聞いて、大統領の弟で、司法長官の任にあったロバート・ケネディは、アメリカは日本の真珠湾攻撃のようなことをすべきではない、と語ったともいわれている。
アメリカの首脳が、極秘裏に激論を交わしているさなかの十八日、ニューヨークでの国連総会に出席していたソ連のグロムイコ外相が、ホワイトハウスを訪ね、ケネディ大統領と会見したのである。
席上、ケネディは、キューバにミサイル基地が建設され、既にミサイルを積んだソ連船がキューバに向かっていることには、あえて触れなかった。
米国が、その事実をつかんでいることを、まだ秘密にしておくためであった。
この時、グロムイコは、ソ連のキューバへの援助は、農業援助と少量の防衛用兵器であると平然と語った。そして、反対に、アメリカはキューバへの圧迫を止めるよう要請したのである。
それに対して、ケネディは、ただ、現在の国際的緊張はソ連側に責任があるとのみ反論したのであった。
語句の解説
◎グロムイコ
一九〇九〜八九年。旧ソ連の政治家、外交官。駐米大使などを経て、五七年から八五年まで三十年近く、東西冷戦下に外相を務める。外交舞台で「ニェット(ロシア語のノー)」を連発したことから、「ミスター・ニェット」と呼ばれた。
文化の華 三十
緊迫した状況のなかでのアメリカ首脳の協議は、激しく意見が対立し、紛糾していた。
怒りが爆発し、感情的なぶつかり合いも起こった。
恐怖と緊張が極限に達した時、しばしば人間は、自制力を失い、安易な道を選択したり、戦争という誘惑に負けてしまうものだ。
それは“恐怖の均衡”が戦争を抑止するという、いわゆる核抑止論が、いかに根拠薄弱なものかを示して余りある。
大統領の弟のロバート・ケネディは、この時の模様を、こう回想している。
「われわれ一人一人が、全人類の将来に影響する勧告を作成するよう要求されていたのである。その勧告は、もし間違っていて、もし受諾されたら、人類の破滅を意味するほどのものであった」(注)
全面核戦争にエスカレートしかねない危機下で、その最終的な決断は、たった一人の人間――ケネディの胸一つにかかっていた。
会議が五日目に入った十月二十日の午後、ケネディ大統領は、遂に、最終的な対応を決断した。
それは「海上封鎖」案であった。
ケネディは、この決断を下すまでの間、スタッフにあらゆる可能性を忌憚なく協議させたが、全面核戦争に発展する危険性の高い、即時の軍事侵攻には、一貫して与しなかったといわれている。
彼は、この危機的状況においても、自らの内面を見事に統治する“管理能力”をもっていたといえよう。
第二次大戦中、ケネディは、日本軍の攻撃で、乗っていた魚雷艇を大破されるが、自身も体を痛めながら、部下を助けて危機を脱出している。こうした彼の冷静さは、この「人類の危機」においても発揮されたのである。
いかに文明が進歩しようとも、いかに時代が変わろうとも、最後に、問われるのは「人間」自身である。人間の決断が、自らの運命を、そして、世界の運命を決定づけていく。
“キューバ危機”は、改めて、この当たり前のことを実感させたといえまいか。
ともあれ、十六日の朝にミサイル基地の存在を知って以来、一週間近くに及んだ重大会議は、「海上封鎖」という方針を決定し、二十二日夜、ケネディ大統領による、あの有名な全米放送となったのである。
ケネディは、この演説では、攻撃的な言辞によってソ連を刺激しないように、「封鎖」ではなく「隔離停船」という言葉を使うなど、細心の注意を払っていた。
引用文献
注 毎日新聞社外信部訳『ロバート・ケネディ13日間』毎日新聞社
文化の華 三十一
十月二十二日のケネディの演説は、内外にさまざまな反響を引き起こした。
アメリカの国民の間には、“ソ連との衝突もやむなし”という空気も広がり、核戦争に備えて、待避壕(シェルター)に食糧を備蓄する市民も出始めた。
ちょうどこの一年前、アメリカのジャーナリストで思想家のノーマン・カズンズは、自ら編集長を務める雑誌で、実際に核戦争が起きてしまえば、いかなる待避壕も無意味であることを説き、次のように訴えている。
「核戦争に対する答は、真の平和である。無軌道に対する答は、方向である。狂気に対する答は、正気である。(中略)もし真剣に待避壕のことを考えているのならば、国連をこそ、法に基づいた平和を維持するに耐えるほど広くて、深い待避壕に作り変えようではないか」(注1)
しかし、その警告もむなしく、今や核戦争という“狂気の嵐”は、現実の危険となって、市民の眼前に迫ったのである。
この時、核戦争に断固反対の立場から、平和的解決を求め、良心の叫びをあげた民間人もいた。
アメリカの科学者ライナス・ポーリングは、ケネディに対して、政府の決定を撤回するよう求める電報を打った。「海上封鎖」も、その後の経緯のいかんでは、全面核戦争にエスカレートする危険性をはらんでいるからである。
それは「世界には軍事力や核爆弾という悪の力よりも更に偉大な力がある。善の力、道徳や、ヒューマニズムの力である」(注2)との、彼の信念から発した行動といえた。
また、イギリスの哲学者バートランド・ラッセルも、米ソ首脳に打電し、海上での接触を避け、自重するように求めたのである。
演説の翌二十三日の午前、ケネディは、キューバの隔離、すなわち「海上封鎖」の宣言に署名した。
この日、ケネディは側近にこう語った。
「なによりも大きな危険は誤算――判断を誤ることだ」(注3)と。
翌二十四日の午前十時、キューバに対するアメリカの海上封鎖が発効した。
海軍、空軍などで編成された米軍特別部隊が、カリブ海全域に封鎖線をしき、キューバに向かう船舶、潜水艦の臨検を行うことになった。
万一、攻撃兵器を積んだ船舶が、米軍の制止を振り切ってキューバに向かおうとした場合、これを砲撃、撃沈するというのである。
緊張は、いやがうえにも高まっていった。
語句の解説
◎カズンズなど
ノーマン・カズンズ(一九一五〜九〇年)は、米国のジャーナリスト、医学者、平和思想家。長年、『サタデー・レビュー』の編集長として活躍する一方、「世界連邦協会」会長として国連強化運動にあたった。幾多の平和活動への献身に“アメリカの良心”と謳われた。
ライナス・ポーリング(一九〇一〜九四年)は“現代化学の父”と称される米国の科学者。反核・平和運動にも挺身した。ノーベル賞を二度(化学賞、平和賞)受賞。
バートランド・ラッセル(一八七二〜一九七〇年)は英国の数学者、哲学者。一九五〇年、ノーベル文学賞。「ラッセル・アインシュタイン宣言」(一九五五年)をはじめ、原水爆禁止運動の先頭にも立った。
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引用文献
注1 カズンズ著、松田銑訳『ある編集者のオデッセイ』、早川書房
注2 ポーリング著、丹羽小弥太訳『ノー・モア・ウォー』、講談社
注3 毎日新聞社外信部訳『ロバート・ケネディ13日間』、毎日新聞社
文化の華 三十二
ケネディ大統領への報告では、ソ連の船が、刻一刻と、アメリカの封鎖海域に接近してきていることを伝えていた。
米軍の臨検に対して、ソ連船が停船するかどうかはなんの保証もなかった。
もしも、封鎖が破られ、米軍が攻撃すれば、ソ連も報復してくるに違いない。それは、どんどんエスカレートしていき、恐れていた全面核戦争になってしまう可能性をはらんでいる。
米軍機が飛来するなか、ソ連船は封鎖海域に迫っていった。運命の“瞬間”は近づきつつあった。
次々と、もたらされる報告を聞きながら、大統領は、どんな気持ちで、この瞬間を迎えようとしていたのだろうか。
決断した以上、もう後には引けない。賽は投げられてしまったのである。
それは数分間だったかもしれない。あるいは数秒間だったかもしれない。ケネディは息を潜めて、地球を背負うような責任の重みを感じながら、この限りなく長い瞬間に耐えていたのであろう。
その時、連絡が入った。
「ソ連船の一部が、急に、洋上に停船した」
ほどなく、次の報告が続いた。
「一部の船は、Uターンした……」
張り詰めた空気が、ほんの少し和らいだ。ホワイトハウスの部屋そのものが、深いため息をついたように思えた。
最初の危機は、ひとまず回避されたのである。
当時、ソ連のフルシチョフ首相もまた、米ソの一触即発の事態に、戦慄を覚えていたのかもしれない。後に公表された回想のなかで、彼は「われわれは戦争を欲していなかった」(注1)と述べているが、それは決して偽りではなかったと思われる。
しかし、一方で彼は、米ソの冷戦という「一種の戦争状態」にあって、キューバにミサイルを配備したのは、「アメリカとその指導者を揺さぶって、彼らが戦争の瀬戸際にいることをわからせようとしたのだ」(注2)とも語っている。
――そこには、戦争は欲しないが、さりとて、戦争をなくすつもりもないという、冷戦下の超大国の指導者の、矛盾した思考がうかがえる。
この世界戦争の危機に、国連も決して手をこまぬいてはいなかった。
この日、ウ・タント国連事務総長代行は、ケネディとフルシチョフにメッセージを送り、調停に乗り出すとともに、国連安全保障理事会あてに声明を発表したのである。
語句の解説
◎ウ・タント
一九〇九〜七四年。ビルマ(現ミャンマー)の政治家、外交官。“キューバ危機”直後の六二年十一月、第三代国連事務総長に就任(〜七一年)。ベトナム停戦など東西緊張緩和にも貢献。中華人民共和国の国連加盟を見届けて勇退した。
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引用文献
注1、2 シェクター&ルチコフ編、福島正光訳『フルシチョフ 封印されていた証言』、草思社
文化の華 三十三
国連事務総長代行のウ・タントは、ビルマ(現在のミャンマー)出身で、前年に事故死したハマーショルド国連事務総長の後を受けて、代理の重責を懸命に果たしてきた。
ウ・タントは、声明で次のように述べている。
「今日国連は、重大なる責任を果たさねばならぬ時に直面しております。問題になっているのは、ただ直接当事国の利害や全国連加盟国の利害だけでなく、人類の運命そのものでもあります。もし国連が、今日みずからを無能だと証明するならば、これからもずっと無能だと証明してしまうことになりましょう。
こうした状況下で、もし私が穏健、自制、分別は、すべての他の考えに勝るものだという深い希望と確信とを表明しなかったら、私は国連事務総長代行としてばかりか、一人の人間としても義務を果たさないことになりましょう」(注)
声明には、人類の一人として、核戦争を絶対に回避しようとする責任感があふれていた。
彼を米ソの調停に動かしたのは、アジア・アフリカの中立諸国の後押しであった。新しい時代の風が国連に吹き始めていたのだ。
翌二十五日、フルシチョフは、ウ・タントの調停案を受諾する意向を示した。また、ケネディは、調停を評価しつつも、キューバの攻撃兵器の撤去が先決であると言明した。
この日の国連安全保障理事会の席上、キューバのミサイル問題で、アメリカのスチブンソン国連大使と、ソ連のゾーリン国連大使が激しい応酬を展開した。
ゾーリンが「ミサイルの存在は証明されていない」とアメリカを非難すれば、スチブンソンは「ミサイル基地が設置されていることを否定するのかどうか」とゾーリンに迫った。
ゾーリンが答える必要はないと応じると、スチブンソンはミサイル基地の拡大写真を出して詰め寄るという一幕もあった。
しかし、ウ・タントの新たな提案が示されるなど、国連を中心に調停工作が続けられ、米ソ両首脳の間で、戦争回避への動きが具体化し始めたのである。
二十六日夜、フルシチョフの書簡がケネディのもとに着信した。それはアメリカがキューバに侵攻しないと明言すれば、キューバのミサイル基地を撤去するというもので、米首脳も明るい期待をいだいた。
ところが、翌二十七日の朝に公表されたフルシチョフの第二の書簡は、一転、キューバのミサイル基地を撤去する条件として、アメリカもトルコのミサイル基地を同時撤去せよと要求していたのである。
語句の解説
◎ハマーショルド
一九〇五〜六一年。スウェーデンの政治家。五三年、第二代国連事務総長に就任。スエズ戦争の調停をはじめ、国際平和に尽力した。
コンゴ紛争解決のため奔走中、航空機事故で死去。死後、ノーベル平和賞が贈られた。
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引用文献
注 毎日新聞社外信部訳『ロバート・ケネディ13日間』所収の資料から。毎日新聞社
文化の華 三十四
アメリカとしては、ソ連がキューバのミサイル基地を撤去することが先決であるとの、既定の方針を変えるつもりはなかった。
しかし、フルシチョフの新たな提案は、アメリカの首脳に波紋を投げかけた。彼の最初の書簡と、あまりにも内容が異なっていたからである。
――これは交渉を進めるための駆け引きなのか。トルコのミサイル基地の撤去を承諾しなければ、いっさい話し合いには応じないつもりなのか。あるいは、ソ連の指導部内に混乱があるのか。
ケネディは、フルシチョフの真意を探りながら、対応に苦慮した。
その最中、またも緊張が高まった。アメリカのU2型機が、キューバ上空で撃墜されたのである。
大統領の弟のロバートは、この日を「最悪の一日」と回想している。
アメリカ政府は、直ちに報復攻撃を加えるべきか、否かの協議に入った。
わずかな“誤算”が最悪の戦争の引き金になる――息詰まる緊張のなかで、報復攻撃すべきだという主張を押し切って、ケネディは“もう一日待とう”と、静観する方針を決断した。
そして、フルシチョフに対しては、最初の書簡に答える形で、「キューバ不侵攻」の意思を伝えて、ミサイル撤去を求める書簡を送ったのである。一縷の希望を込めて――。
だが、米首脳の間では、たとえ一日待ったとしても、二十九日、つまり月曜日には、ソ連と戦闘することになるだろうという空気が濃厚であったようだ。
二十八日の日曜日の朝が明けた。
その時、思いがけず、フルシチョフから、ケネディへの新たな書簡が伝えられた。モスクワのラジオ放送も、同じ内容を報じた。
それは、前日送られたケネディの書簡に対する回答であった。
そのなかでフルシチョフは、ケネディの「キューバを侵攻しない」という言葉を信用し、キューバから「攻撃的兵器」を撤去することを明言したのである。
ケネディも、すぐに、このフルシチョフの回答を歓迎すると表明した。
急転直下、事態は解決に向かった。
悪夢のような日々から、ようやくケネディは解放されたのである。いや、フルシチョフもまた、胸を撫で下ろしていたに違いない。
全面核戦争の“一歩前”という危機一髪の事態を、曲がりなりにも回避し得たのである。
そして、この経験は、その後の米ソ間の関係を緩和する流れを、開くことにもなる。
文化の華 三十五
ケネディとフルシチョフは、“キューバ危機”の回避のために、直接対話の場こそもち得なかったものの、互いに意見を交換し、最後は相手を信じる方向へと踏み出した。
それは、人類にとって幸いであったといってよい。
お互いが“友人”となるには、まだ道のりは遠かったが、平和と共存の道を模索し始めたと見ることができる。
また、戦争回避へ、国連が果たした重要な役割も見逃すことはできない。
一九六三年の六月には、偶発的核戦争を防ぐため、米ソ首脳が、直接、意思の疎通を図る“対話の回路”、いわゆる「ホットライン」の設置が決まった。
また、この核戦争の危機の経験は、同年八月、米英ソの三国の間で締結された部分的核実験停止条約にもつながっていくのである。
しかし、米ソが頭越しにミサイル撤去を決めてしまったことに、キューバのカストロ首相は激怒したと伝えられている。
彼の怒りは、ミサイルの撤去ということよりも、むしろ、米ソという超大国の思惑で、その影響下にある小国の運命を、いともたやすく左右していくことにあったに違いない。
山本伸一は、この間、テレビ、ラジオ、あるいは、新聞の報じるニュースに、全神経を注いでいた。
また、断じて核戦争を回避しなければならないとの、決定した一念を込めた真剣な唱題を続けていた。
「一身一念法界に遍し」(御書四一二)である。強き祈り、真剣なる一念は大宇宙に遍満していく。ゆえに、伸一は、直面している危機の回避を、ひたぶるに祈った。題目で全地球を包み込む思いで。
仏法者の平和への戦いは、強盛な祈りから始まる。そして、祈りは決意となり、智慧を湧かせ、勇敢なる信念の行動となる。
緊迫の時が刻々と過ぎていた十月二十七日、東京体育館で十月度の本部幹部会が開催された。
席上、伸一は、“キューバ危機”の問題に言及していった。
「皆さんもご存じのように、今、キューバへのソ連のミサイルの配備が、大きな問題となっております。
こうした核戦争の脅威を絶滅するためには、結論していえば、一刻も早く、世界中に正しい生命の大哲理を、日蓮大聖人の大仏法を、知らせていかなければならないということであります。そうでなければ、根本的な問題の解決はあり得ません」
彼は、多くは語らず、結論だけを明確に、簡潔に述べたのである。
文化の華 三十六
山本伸一は、十月二十八日には、総本山での全国の幹部会に臨み、引き続き各坊で行われた、本部ごとの指導会にも出席した。
そして、ここでも、この“キューバ危機”について語っている。
「今回のキューバの問題について、会員から各幹部に、『いったいどうなるのでしょうか』『学会は米ソのどちらを支持するのでしょうか』との質問が、いくつか、あったようです。当然でしょう。
この重大問題に対する、われわれの在り方の根本は、“絶対に戦争を起こさない、起こさせない”という、強盛な祈りです。
また、世界は、東西両陣営に分かれていますが、学会は、右でも左でもなければ、アメリカ寄りでもソ連寄りでもありません。地球民族主義です。全世界の民衆を、平和の方向へ導こうとする立場です。
今回の問題は、大仏法が時代の絶対の要請であることを実感させた、出来事ともいえます。
アメリカ人も、ソ連の人びとも、キューバ人も、みんなが平和を求め、楽しく一生を送りたいと願っております。
そして、民衆も、心ある指導者も、どうすれば戦争をなくせるのか、何が根本的な解決の道なのか、そのために、いかなる思想が必要かを、深刻に考え始めています。
しかし、平和を望みながらも、相互不信に陥り、反目し、憎悪し合っているのが、世界の現実です。
では、どうすれば、核戦争をなくしていくことができるのか。その本当の解決の道は、仏法による以外にありません。
仏法は、一切衆生が皆、仏であると教えている。万人に仏性があり、自分も相手も、仏の生命を具えていると説く、仏法の生命哲学こそ、人間の尊厳を裏付ける大思想です。その教えが流布されるならば、必ずや、戦争を防ぐ最大の力となります。
また、誰でも信仰に励み、実際に、仏の生命を湧現していくならば、破壊や殺戮に走ろうとする、自身の魔性の生命を打ち破ることができる。
悲惨な核戦争の根本原因は、“元品の無明”という生命の根源的な迷いにある。この無明の闇から、不信や憎悪、嫉妬、あるいは、支配欲、殺戮の衝動など、魔性の心が生じるのです。
この“元品の無明”を断ち切り、“元品の法性”という、真実の智慧の光をもって、生命を照らし、憎悪を慈悲に、破壊を創造に、不信を信頼に転じゆく力こそが、南無妙法蓮華経であります。また、それが人間革命ということです」
文化の華 三十七
なぜ、仏法が核戦争を阻止し、平和を築く力となるのかを、山本伸一は力説していった。
会員たちは、日々の活動を通して、実感としてそれを理解してはいたが、なぜかを明快に語ることはできなかった。
伸一の話を聞きながら、参加者は胸につかえていたものが、すっと消えていくような気がした。
彼は、話を続けた。
「ユネスコ憲章の前文には『戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない』とあります。大事な着眼です。
では、どうすれば、本当に崩れることのない“平和のとりで”が築けるのか。
それを可能にするのが仏法であり、現実に、行ってきたのが創価学会です。
私たちは、対話をもって生命の大哲理を教え、一人ひとりの心に、最も堅固にして、難攻不落の“平和のとりで”を打ち立ててきたではありませんか。
私たちがめざす広宣流布の道は、遠く、はるかな道のように思えるかもしれませんが、その道こそが、世界に永遠の平和を築く直道なのです。
今こそ、仏法という“慈悲”と“平和”の大思想を、友から友へと伝え、私たちの力で、絶対に核戦争を回避していこうではありませんか。それが、われわれの使命です」
“キューバ危機”によって、核戦争が切実な問題であることを実感した同志たちは、自分たちの使命の重大さを自覚していった。
弘教の歩みに、一段と力がこもった。
民衆の心に“平和のとりで”を構築する創価学会の運動は、人類の悲願である恒久平和への大潮流を開くものであったが、当時、それに気づく人は、誰一人いなかったといってよい。
伸一にとって、この“キューバ危機”は、彼がそれまでに構想してきた、世界の指導者との対話が、極めて大事であることを、改めて痛感させた。
ケネディとフルシチョフという米ソ両首脳の、書簡を通しての意見の交換が、全面核戦争という最悪の事態を回避したのだ。
もし、対話によって世界の指導者の心と心が結ばれるならば、そこから平和の大道が開かれることは間違いないと、彼は確信したのである。
また、民衆の相互理解のための文化の交流も、より早く推進していかなければならないと、彼は思った。
そして、まず、その第一段階として、音楽文化団体の創設の準備に、伸一は着手していったのである。
語句の解説
◎ユネスコ憲章
ユネスコ(国連教育科学文化機関)憲章は、ユネスコの目的や加盟国の地位などを定めたもの。その目的として、教育、科学、文化を通じて諸国民間の相互理解、協力を推進し、平和と安全に貢献することを謳っている。一九四五年十一月に国連教育文化会議で起草、採択され、翌年十一月に発効。日本は五一年にユネスコに加盟した。
文化の華 三十八
菊花の十一月になると、学会は、翌一九六三年(昭和三十八年)「教学の年」の助走が始まった。
十一月三日には、講師、助師を対象とした教学部昇格試験の第一次筆記試験が全国百三十六都市、百六十九会場で一斉に行われた。
受験者は、講師が一万一千百三十二人、助師が六万九千百三十三人に達した。
そして、十一日には、東京を含む関東、関西の第一次試験の合格者に対する第二次試験の口頭試問が、十八日には、そのほかの地域の口頭試問が実施された。
更に、二十三日には、全国の助教授を対象とした昇格試験が東京で行われ、千三百六十七人が受験、また二十五日には、教授への試験も行われた。
“キューバ危機”以来、山本伸一の胸には、一時も早く、世界平和の道を開かねばならないという、強い思いが渦巻いていた。
しかし、彼は、はやる心を抑え、一歩一歩、堅実に、民衆の大地に根差した大哲学運動を展開することに最大の力を注いでいた。
伸一には、時流の変化で消え去る、砂上の楼閣のごとき平和運動を踏襲するつもりはなかった。
彼は、戦争の絶滅という人類史の課題に、真っ向から挑むために、五十年、百年後の平和の堅固な礎を築こうとしていたのである。
二十三日の昇格試験の終了後、全国助教授会が行われたが、席上、彼は、自らの心境をこう語っている。
「近代日本を担った指導者の一人に、福沢諭吉がおりますが、彼は、上野の山で官軍と彰義隊が戦闘をしている時も、慶応義塾でイギリスの経済学の講義を続けていたといいます。
徳川幕府の学校もつぶれてしまい、新政府も学校どころではなかった。そのような時に、砲声が轟くなかで、官軍にも、彰義隊にもつかず、悠々と講義をしていたのです。
彼には、次の時代は自分が開くのだという決意があった。そのための、弟子を育てるのだ、人物をつくるのだと、徹底して、青年たちに学問を教えたのです。
事実、彼の弟子のなかから、新しい時代を担う、多くの人材が出ております。
私もまた、次の時代のことを考えています。
今、世界は激動し、東西冷戦のなかで、人びとは核戦争の脅威に怯えている。その根本的な解決のためには、仏法の大生命哲学を確立した“伝持の人”を育て上げる以外にありません。
現在も、戸田先生の時代に薫陶を受けた何人かの教授がおりますが、もっともっと多くの、仏法の大哲理に透徹した先覚者、大指導者を、世界に輩出していかなければならないのです」
語句の解説
◎福沢諭吉など
一八三五〜一九〇一年。明治時代の思想家・教育者。慶応義塾を創立したほか、個人・国家の独立自尊を謳って国民精神の変革をめざし、「文明開化」の推進を担った。著書に『学問のすゝめ』『文明論之概略』など。
彰義隊は、一八六八年(慶応四年)、明治新政府に抵抗する旧幕臣が結成した隊。上野を拠点に政府軍と戦うが、敗退し壊滅した。
文化の華 三十九
天候の変化にともない、海の色は変わり、風が起これば怒濤が逆巻く。だが、潮流は変わることなく、静かに大洋を流れる。
世界の情勢も、国内の動向も、刻々と移り変わっていったが、山本伸一の日々の行動は変わらなかった。
彼は、この十一月も、教学試験があれば、各会場を巡って受験者を励まし、学生部や婦人部の幹部会に出席するなど、全力でメンバーの指導にあたっていた。
更に、草の根をかきわけるようにして、一人ひとりの同志に激励の手を差し伸べ、勇気と希望の光を注ぎ続けた。直接会って、諄々と指導することもあれば、励ましの和歌などを贈ることもあった。
それは水面下での、命を削るかのような労作業であったが、会長就任以来の、この真心の積み重ねが、会員を奮い立たせ、平和社会を建設する、新たな大潮流をつくり出していったのである。
二十七日の十一月度本部幹部会を間近に控えた日の夜のことであった。
伸一が、聖教新聞社で理事らと打ち合わせをしていると、普段はもの静かな統監部長の山際洋が、息を荒げて駆け込んで来た。
「先生!」
皆、山際に、一斉に視線を注いだ。
「遂に達成しました。学会は、三百万世帯を達成したんです!
統監部で十一月度の折伏をまとめましたところ、七万二千三百二十七世帯で、合計は三百五万九千三世帯になりました」
「そうか!」
伸一の目が光った。理事たちの顔もほころび、拍手がわき起こった。
「おめでとうございます」
「やりましたね、とうとう、やりましたね……」
皆、躍り上がらんばかりの喜びようである。ここにいる誰もが伸一と心を一つにし、この日、この時、この瞬間をめざして、力の限り走り抜いてきたのだ。
三百万世帯の達成は、伸一が会長に就任した、一九六〇年(昭和三十五年)五月三日の本部総会で、彼が戸田城聖の七回忌にあたる六四年(同三十九年)四月二日までの目標として発表したものであった。
それを、約一年四カ月以上も早く、達成したのである。まさに、広宣流布の歴史に黄金の光を放つ、電光石火の快進撃であった。
伸一は、皆の顔を見渡した。理事たちの目は、感涙に潤んでいた。
「みんな、ありがとう。広宣流布の新しい扉を開いたよ。戸田先生も、弟子のこの壮挙を、きっとお喜びになり、『よくやった』とお褒めくださっているに違いない……」
文化の華 四十
山本伸一は、それから仏間に向かった。
恩師戸田城聖に、三百万世帯の達成の報告をしたかったのである。
伸一の唱題の声が、朗々と響いた。
彼は、御本尊に向かい、恩師の顔を思い浮かべながら、心で語りかけた。
「先生! 伸一は、先生にお約束申し上げました三百万世帯を、遂に、遂に達成いたしました。
先生にお育ていただいた弟子一同が、力を合わせて成し遂げた、団結の証でございます……」
思えば、恩師が三百万世帯の達成を伸一に託したのは、逝去の約二カ月前にあたる、一九五八年(昭和三十三年)の二月十日のことである。それは、戸田の五十八歳の誕生日の前日であった。
この日の朝、関西の指導から夜行列車で東京に戻った伸一は、その足で戸田の自宅を訪ねた。
戸田は、前年の十一月から肝硬変症で病床に伏し、それをようやく乗り越えはしたが、彼の衰弱は激しかった。
伸一が関西の現況を報告すると、戸田は言った。
「関西は完璧に仕上がったな。これで日本の広布の基盤は整ったといってよいだろう。
さて、問題はこれからだよ。あと七年でどこまでやるかだ」
学会は、前年の十二月には、戸田の生涯の願業であった七十五万世帯を達成していた。
戸田は、伸一の顔を、まじまじと見詰めて、言葉をついだ。
「急がねばならんのだよ。伸一、あと七年で、三百万世帯までやれるか?」
それは、戸田が熟慮の末に練り上げた、壮大な広布の展望であった。しかし、それを成すのは自分自身ではないことを、戸田は悟っていた。病魔を乗り越えたとはいえ、自らの寿命の長からぬことを、戸田は覚知していたのである。
この時、伸一は、きっぱりと答えた。
「はい、成就いたします。ますます勇気がわきます。私は先生の弟子です。先生のご構想は、かならず実現してまいります。ご安心ください」
戸田は「そうか」と笑みを浮かべた――。
戸田の思いは、そのまま伸一の誓いとなった。師から弟子へ、広宣流布の大願は受け継がれたのである。
伸一は、この時の戸田の言葉を、片時も忘れることはなかった。そして今、一身をなげうっての激闘の末に、その誓いを成就したのである。
誓いは果たしてこそ誓いである。現実に勝利を打ち立ててこそ弟子である。
文化の華 四十一
三百万世帯の達成は、決して、単に、時流がもたらしたものではない。
山本伸一という、戸田城聖の真正の弟子の、必死の一念、必死の行動が、波紋となって広がり、広宣流布の渦潮をつくりあげていったのだ。
彼は「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」(御書二三二)との御文を、自らの規範としてきた。
つまり、結論していうならば、天も捨てよ、諸難にあうことも問題ではない、一身一命をなげうって、正法の弘通に邁進するのみであるとの決意で、伸一は戦い抜いてきたのだ。
また、「妻子眷属を憶うこと莫れ権威を恐るること莫れ」(同一七七)との思いで、すべてを広宣流布に捧げてきた。
それは、師の戸田城聖から受け継いだ、弟子としての伸一の覚悟であった。
戸田は、戦時中、牢獄にあって、恩師牧口常三郎の身を案じながら、こう祈り続けてきた。
「どうか、罪は私一人に集まって、先生は一日も早く帰られますように」
更に彼は、心で叫ぶ。
「大御本尊様、私と妻と子との命を納受したまえ。妻や子よ、なんじらは国外の兵の銃剣にたおれるかもしれない。……しかし、妙法の信者戸田城聖の妻として、また子と名のり、縁ある者として、霊鷲山会に詣でて、大聖人にお目通りせよ。かならず厚くおもてなしをうけるであろう」
それは、法華経を身で読み、三世を知り得た戸田の殉教の決意であった。
伸一も、戸田のこの心を、わが心としてきた。伸一の妻の峯子もまた、同じ決意に立っていた。
だから、彼女は、伸一の会長就任の日に、「今日から、わが家には主人はいなくなったと思っています。今日は山本家のお葬式ですから……」と語ったのである。
伸一にも、また、妻の峯子にも、その金剛の決意なくしては、末法濁悪の世にあって、三百万世帯達成という広宣流布の堅固な基盤をつくることなど、できようはずがなかった。
もし、微塵でも、伸一が一身の安泰を考え、殉難を恐れていたならば、太陽のごとく、勇気と希望と活力の光を、全同志の胸中に送り続けることも、できなかったに違いない。
太陽は、自らの身を燃やして宇宙の闇を照らし、月天子を、あまたの惑星を光り輝かせる。同様に、太陽の闘魂をいだいた一人の勇者がいれば、その勇気は波動し、万波を呼ぶ。
そこに、広宣流布という難事中の難事を成し遂げる永遠不変の方程式がある。
文化の華 四十二
山本伸一は、もしも、広宣流布の道に犠牲があるなら、それは、自分一人で引き受ける決心であった。
そして、その分、すべての会員は、安穏に楽しく、家庭を大切にし、功徳の花に包まれた人生を謳歌してほしかった。
創価の同志は、その山本会長の心に触れ、一人立ち、二人立ち、全会員が総立ちとなって、今、この三百万世帯の達成という大偉業を成し遂げたのである。
伸一は、唱題しながら、恩師との誓いを果たすことができた喜びに、胸を熱くしていた。
しかし、彼は、その喜びに酔うことはなかった。広宣流布とは、間断なき闘争であり、人類の幸福と世界の平和の実現を思えば、まだ、緒戦の勝利にすぎないことを、彼は自覚していたのである。
伸一の胸に、次の目標が浮かんだ。それは“第六の鐘”が鳴り終わる一九七二年(昭和四十七年)までの目標として、彼が密かに構想していた六百万世帯の達成であった。
“次は、いよいよ六百万世帯だ。先生! 見ていてください”
彼の胸には、再び新しき決意がみなぎっていった。
十一月度本部幹部会は、十一月二十七日、東京体育館で開催されたが、会場は三百万世帯達成の喜びに、終始、わき返った。
席上、理事の田岡金一が十一月度の弘教の成果を発表し、三百万世帯を達成したことを告げると、嵐のような拍手がわき起こった。
立ち上がって、手を叩く人もいた。感極まって、涙ぐむ人もいた。拍手は、いつまでも、いつまでも鳴り止まなかった。
皆が、それを目標に、祈り、走り、語りに語って、法を弘めてきたのだ。
相手の幸福を願い、懸命に法を説いても、耳さえ傾けぬ人もいた。いや、冷笑されたり、怒鳴られたりすることが常であった。訪問した相手から、水を浴びせられたり、塩をまかれて追い返されることもあった。
その悔しさ、悲しさを突き抜け、勇気をもって、忍耐をもって、真剣に、誠実に、“菩薩の行”を行じ抜いた誉れの同志の、汗と涙の、そして、歓喜の結晶が、この三百万世帯の達成であった。
戦い抜いた人の胸には感動がある。そこには、試練の山を越え、自身に打ち勝った、人生と人間革命の大ドラマがあるからだ。
戦い抜いた人の顔には光彩がある。そこには、友のため、人のために、命を燃やし、献身してきた崇高なる魂の輝きがあるからだ。
勝利の旗を打ち立てた、友の大拍手は、歓喜の潮騒となって会場を包んだ。
語句の解説
◎第六の鐘
創価学会の創立の年である一九三〇年(昭和五年)から、七九年(同五四年)までを七年ごとに区切った「七つの鐘」のうち、六番目にあたる七年間のこと。
この「七つの鐘」の構想は、戸田第二代会長が折々に語っていたもの。戸田会長の逝去直後の総会で、当時、青年部の室長だった池田名誉会長が発表し、全会員に勇気と希望を与えた。
文化の華 四十三
本部幹部会では、副理事長で青年部長の秋月英介のあいさつの後、代表に三百万世帯達成の記念のメダルが贈られた。
このメダルの製作を提案したのも、山本伸一であった。彼は、黙々と弘教に汗を流し、三百万世帯の達成に尽力した同志の代表に、せめてもの御礼として、記念の品を贈ることを考え、この時のために、前々から準備していたのである。
不幸に泣く人びとを励まし、救いゆく行為は、まことに地味な労作業であるが、人間として最も尊い聖業といえる。そして、それを成し遂げてきたわが同志こそ、社会における最高の功労者である。
しかし、国家は、学識者や政治家などには勲章を贈っても、この民衆の大偉業には、目を向けようともしない。
もちろん、誰も称えなくとも、その功労を、御本尊が、日蓮大聖人が、諸仏諸天が、最大に御称賛くださるであろうことは間違いない。また、それは、すべて自身の福運、功徳となって、永遠に、わが身を、わが一家を荘厳する。
だが、伸一は、学会の会長として、健気な同志の功労を、“民衆の英雄”を称えたかった。
日蓮大聖人は、幼子を連れて、わざわざ佐渡まで訪ねて来た、寡婦の日妙尼に対して、その信心を称えられ、「聖人」の尊号を贈られている。
戸田城聖も、弘教に功績をあげ、広宣流布のゆえに法難にあった同志などに、メダルを作って贈り、その功に報いてきた。
伸一も、同じ思いから、三百万世帯達成の原動力となった同志の功績に、少しでも報いたいと、メダルを作ったのである。
また、この席上、南米総支部が結成されたほか、南米のペルー、ボリビアにも支部が誕生したことが紹介された。南米総支部は、ブラジル支部にこの二支部が加わり、三支部でのスタートとなる。
南米総支部長には、山際洋が、男子部の南米部長に斎木安弘という、商社マンの青年が任命になった。
斎木は、三年ほど南米各地の支店勤めを経て、日本に帰国し、この十二月から再び、駐在員としてブラジルのサンパウロに赴任することになっていた。
更に、ペルーの支部長には知名正義が、支部婦人部長には城山京子が就任。ボリビアの支部長、支部婦人部長には川浦太郎・ミキの夫妻が就任した。
いずれも、日本から移住したメンバーで、この人たちが各国の広布のパイオニアとなっていくのである。
語句の解説
◎日妙尼
日蓮大聖人の御在世当時の女性信徒。日妙尼は鎌倉に住んでいたが、大聖人の佐渡流罪中、「一の幼子」(御書一二一七)を連れ、佐渡まで訪ねた。大聖人はその純真な信心を「日本第一の法華経の行者の女人」(同)と称え、「日妙聖人」の名を贈られている。生没年不明。
文化の華 四十四
教学部長の山平忠平らのあいさつの後、理事長の原山幸一が、来年の目標を発表した。
それによると、弘教の目標は四十万世帯で、そのほかに「教学の充実」などが掲げられていた。
また、明年早々から、山本会長がアメリカ、ヨーロッパなどを訪問し、世界各地のメンバーの指導にあたる予定であることも伝えられた。
この本部幹部会には、アメリカからも数多くの同志が参加しており、この話を聞くと、メンバーから、歓声と拍手が起こった。
山本伸一は、この日、三百万世帯の達成に対し、参加者に感謝の言葉を述べた後、こう語っていった。
「皆さんも、よくご存じのように、『法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる』(御書一二五三)との、有名な御金言がございます。
『法華経を信ずる人は冬のごとし』とは、末法今時の悪世の様相であり、悪世ゆえに競い起こる、正法を信受する私どもへの迫害、弾圧であります。また、さまざまな宿業で、不幸に苦しむ姿ともいえます。
そして、『冬は必ず春となる』とは、御本尊の偉大なる力によって、私たちの信力、行力によって、絶対に幸福生活を確立し、一生成仏することができるという、日蓮大聖人の御確信であり、御断言であります。
わが創価学会の歴史は、苦難と迫害の、風雪のなかの前進でありました。現代にあって、これほど非難と中傷にさらされてきた教団は、ほかにはありません。
にもかかわらず、このように学会が大発展を遂げ、日本の柱となったことは、いよいよ冬から、明るい春の時代を迎えようとしているといえましょう。そして、学会の真実の姿を、広く世界に示す段階に入ったと確信いたします。
来年には、立派な本部も建ちますし、再来年には、総本山に世界的な大客殿も建立されます。
それは、わが学会にも、春が到来したことの証明であります。そして、この学会の前進に合わせて、不幸に苦しんできた日本の国にも、ようやく、春の陽光に輝く朝が到来するものと、私は確信しております」
それは、広宣流布の勝利の、大宣言でもあった。
大きな拍手が広がった。
どの顔も、喜びに輝いていた。
伸一は、話を続けた。
「私たちは、勝って兜の緒を締めて、民衆の幸福のために、法のため、社会のために、広宣流布をめざして、再び前進していこうではありませんか」
文化の華 四十五
最後に、山本伸一は、全会員の健闘を称え、話を締めくくった。
「今日、参加できなかった支部員の方々にも、どうか、くれぐれも、よろしくお伝えください。
では、来月の本部幹部会で、また、元気な姿でお目にかかりましょう」
彼は、あえて長い話はしなかった。心を一つにして広宣流布に走り抜き、大勝利を収めた伸一と同志の間には、今は、多くの言葉は必要なかった。
「ツー」と言えば、「カー」と言う、心の呼吸ができあがっていたのである。それが、三百万世帯達成の力であったともいえよう。
翌二十八日、伸一は、三百万世帯達成の報告のために総本山に参詣し、戸田城聖の墓前に立った。
十二月に入ると、二日には第十回女子部総会(日大講堂)、九日には第十一回男子部総会(日大講堂)が控えていた。
この男子部総会では、新男子部長の人事が発表された。谷田昇一に代わって、石川健四郎が男子部長に就任。男子部は、勝鬨の声も高らかに、新しき年へ、勇躍、出陣したのである。
伸一は、男女青年部の総会を終えると、十二月中旬には、中部、関西の指導に走った。
このうち関西では、関西の学術部・芸術部の第一期生の任命式に出席するなど、創価の大文化運動への布石に余念がなかった。
一九六二年(昭和三十七年)「勝利の年」の本部行事は、十二月二十二日に行われた本部幹部会で終了したが、それは、明年「教学の年」への大飛躍を期す集いとなった。
会場も、それまでの台東体育館や東京体育館などと異なり、総会などで使用してきた大会場の日大講堂である。
席上、十一月二十三日に実施された、教学部の助教授を対象とした昇格試験の結果が発表され、四十三人が教授に昇格した。
更に、新たに、教学部に教授を補佐する教授補を新設し、百二十二人がその教授補に昇格したことが発表された。これで教学部は、教授、教授補、助教授、講師、助師という指導体制が整ったことになる。
また、明年の年明けの一月六日には、教学部の任用試験が実施されることになっていたが、その受験申込者が、なんと五十万人を突破したことも発表された。
日蓮大聖人の時代から七百年、今、民衆を主役とした仏法の大生命哲学運動の潮流は、深く、静かに、ひたひたと社会を包み、新しき人間復権の時代の幕を開こうとしていた。
文化の華 四十六
このころ、山本伸一の身辺は、にわかに慌ただしくなっていた。
“キューバ危機”を経て間もなく、アメリカのケネディ大統領から、会見を申し込まれたのである。
ある著名な民間人が伸一を訪ね、ケネディとの会見の意向を打診したのだ。
その人は言った。
「私は、本日はアメリカの国務省の意向を受け、その使者としてまいりました。突然の話で驚かれるかもしれませんが、ケネディ大統領は、あなたと個人的に会見を希望されております。
そして、あなたに、会見する意向があるのか確かめるように依頼されたのです。あなたのお気持ちをお聞かせください」
一瞬、伸一は回答に窮した。会見を希望する意図がどこにあるのか、即座に判断しかねたからだ。
伸一の頭は、瞬時に、目まぐるしく回転した。
――学会は同志を参議院に送り、今や十五議席を確保し、公明会を誕生させるに至った。また、三百万世帯を達成し、事実上、日本最大の宗教団体となった。しかも、民衆のなかから生まれ、民衆を組織した全く新しい勢力といえる。
それだけに、ケネディは、創価学会に対して、大きな関心をいだいているに違いない。
また、学会の存在は、日本の社会にあって大きな比重を占めるだけに、左右両勢力のいずれにつくのか、確認しておこうという意図もあるのかもしれない。
それは、世界の指導者としては、当然の着眼といえよう。しかし、伸一は、その会見が政治的に利用されることを憂慮した。
彼は、東西両陣営のいずれにも与する意思はなかった。社会主義か自由主義かといっても、本来は社会制度上の概念であったはずである。
人間性を最大限に生かしていかなければ、社会主義も人間を抑圧する機構と化していくし、自由主義も退廃を免れない。創価学会がめざしているのは、政治・経済体制を超えた、「人間主義」であり、「地球民族主義」である。
だが、伸一は、東西の冷戦に終止符を打ち、核戦争を回避していくためには、西側陣営の指導者であるケネディと会い、忌憚のない語らいをしていく必要性を痛感していた。
更に、アメリカでの布教を考えるなら、大統領の創価学会への正しい認識が大事になる。誤解に基づく無用な摩擦は避けたかった。
何秒間かの沈黙の後、伸一は、静かに答えた。
「わかりました。ケネディ大統領とお会いすることにいたしましょう」
文化の華 四十七
ケネディ大統領と山本伸一の会見は、その後、具体的に煮詰まっていった。
会見の日は、ケネディのスケジュールに合わせ、年が明けた二月と決まり、伸一がワシントンを訪問することになった。
伸一は、一月八日から二十七日まで、海外メンバーの指導のため、アメリカ、ヨーロッパなどを歴訪することになっていたので、帰国後、またすぐに渡米することになる。
伸一は、その会見には、将来のために、男女青年部や学生部の幹部の代表も、同席させたいと思った。
また、土産の品にも心を砕き、日本の文化の一つの象徴として、一振りの名刀を贈ることにした。一方、伸一の妻の峯子も大統領夫人へのプレゼントに、真珠のネックレスを用意した。
伸一の、幹部や会員への指導、激励は、連日のように続けられていたが、本部の仕事納めも終わった年の瀬の午後、彼は、久しぶりに神宮の外苑を散策した。
葉の散ったイチョウ並木が、澄んだ空を突き刺すように、枝を広げていた。
この道は、かつて、恩師戸田城聖の葬列が通った、忘れ得ぬ場所であった。
落ち葉を踏んで歩きながら、伸一は、今年も力の限り戦い抜いた、大勝利の一年であったと思った。
戸田の七回忌までの目標であった三百万世帯を、一年数カ月も早く達成し、新たな飛躍の基盤をつくり上げたのである。しかし、彼は、本当の戦いはこれからであると感じていた。
伸一の胸には、新しき年の、成すべき課題が次々と浮かんだ。
“来年は、世界の堅固な礎を築くことから着手しよう。また、絢爛たる人間文化の華を咲かせるために、芸術部や学術部、教育部などの育成にも、一段と力を注ぐ必要がある……。
今年の、五倍、十倍の戦いを展開するのだ。連戦連勝こそが、私に課せられた絶対の責任だ!
もし、広宣流布の戦いに敗れれば、会員が悲しむ。皆が不幸になる。
よく人は、負けた悔しさをバネに、次の勝利を期すと言う。しかし、それは、所詮は敗北を容認する甘えではないか。私には、そんな甘えは許されない!
私は、勝つために悩みに悩み、苦しみに苦しむ。そして、必ず勝って、その大勝利の喜びを源泉として、学会は前進するのだ!”
伸一は、ぎゅっと拳を握り締めた。
北風に、路上の落ち葉が舞い、一羽の鳥がイチョウの枝をかすめるように舞い上がり、太陽の光を浴びて空高く飛翔していった。
彼の顔に微笑が光った。
(この章終わり)