誓願 一

 新しき時代の扉は青年によって開かれる。若き逸材が陸続と育ち、いかんなく力を発揮してこそ、国も、社会も、団体も、永続的な発展がある。ゆえに山本伸一は、常に青年の育成に焦点を当て、全精魂を注いできた。
 青年が、広布の後継者として大成していくうえで大切な要件は、何よりも信心への揺るぎない確信をつかむことである。そして、地涌の深き使命を自覚し、自身を磨き鍛え、人格を陶冶していくことである。ゆえに、挑戦心、忍耐力、責任感等々を身につけ、自身の人間的な成長を図っていくことが極めて重要になる。伸一は、そのための一つの場として、青年たちを中心に、各方面や県で文化祭を開催することを提案してきた。
 文化祭は、信仰によって得た生命の躍動や歓喜を表現する民衆讃歌の舞台である。さらに、信頼と友情がもたらす団結の美と力をもって描き示す、人間共和の縮図である。また、広宣流布、すなわち世界平和への誓いの表明ともなる希望の祭典である。
 二十一世紀に向かって飛翔する創価学会の文化祭の先駆となったのは、関西であった。
 一九八二年(昭和五十七年)三月二十二日、大阪の長居陸上競技場で、第一回関西青年平和文化祭が開催されたのである。
 関西には、全国、全世界に大感動を呼び起こした、六六年(同四十一年)に阪神甲子園球場で行われた「雨の関西文化祭」の歴史があった。この文化祭の記録フィルムを、当時、中国の周恩来総理の指示で、創価学会を研究していた側近の人たちも観賞していた。その一人で、総理と伸一の会見で通訳を務めた林麗は、こう語っている。
 「若人が泥んこになって生き生きと演技している姿を見て、本当にすばらしいと思ったのです」「創価学会が大衆を基盤とした団体であることを実感しました。中日友好への大切な団体であると深く認識したのです」
 関西青年部には、この文化祭を超える、芸術性と学会魂にあふれた感動の舞台にしなければならぬとの、強い挑戦の気概があった。


誓願 二

 第一回関西青年平和文化祭の前年にあたる一九八一年(昭和五十六年)十一月、第三回関西総会に出席するため、大阪を訪れた山本伸一に、関西の青年たちは言った。
 「来年三月の関西青年平和文化祭は、『学会ここにあり、創価の師弟は健在なり!』と、満天下に示す舞台にいたします!」
 「十万人の青年がお待ちしております!」
 燃える太陽のごとき、若き情熱を感じた。
 文化祭は、三月二十一、二十二の両日にわたって行われる予定であったが、二十一日は激しい雨で中止となった。この日、大阪入りした伸一は、落胆しているであろう青年たちを励まそうと、役員会に駆けつけた。
 この文化祭で関西の青年たちは、至難の技である六段円塔に挑もうとしていた。前年四月に、東京下町の同志が集った東京家族友好総会で、江東区男子部が完成させていたが、文化祭では、初の挑戦となる。その報告を受けていた伸一は、こう言って励ました。
 「今日は中止になって、さぞ残念に思っているだろうが、六段円塔という極限の演技を二日も続けることは、あまりにも過酷です。事故も起こりやすい。むしろ雨が降ってよかったんです。明日を楽しみにしています」
 文化祭は、安全、無事故が鉄則である。事故を起こしては、取り返しがつかない――関西の青年たちは、そう深く自覚し、六段円塔への挑戦が決まると、絶対無事故を決意し、事故を起こさぬための工夫、研究を重ね、皆で真剣に唱題に励んだ。
 出演者も体操競技の経験者などを優先して集め、まず、徹底した基礎体力づくりから始めた。走り込みや腕立て伏せ、足腰や体幹強化のための運動などが、来る日も、来る日も繰り返された。
 屋外の練習場では、怪我などさせてはならないと、近くの壮年・婦人部が、自主的にガラスの破片や小石を拾い、清掃に努めた。
 仏法は道理である。御書に「前前の用心」(一一九二ページ)と示されているように、万全な備えがあってこそ、すべての成功がある。


誓願 三

 「常勝関西」に、さわやかな希望の青空が広がっていた。二十二日午後一時半、関西青年平和文化祭は、新入会員一万人の青年による平和の行進で幕を開けた。
 誉れの青春を、真実の生き方を求めて創価の道に進んだ新入会の若人たちが、胸を張って歩みを運ぶ。宗門事件の逆風のなかで、懸命に彼らと仏法対話し、弘教を実らせた同志たちは、その誇らかな姿に胸を熱くした。新しき力こそが、新しい未来を開く原動力だ。
 「国連旗」「創価学会平和旗」が入場したあと、山本伸一が青年たちに贈った詩「青年よ 二十一世紀の広布の山を登れ」に曲をつけた合唱曲を、二千人の混声合唱団が熱唱し、グラウンドいっぱいに純白のドレスが舞う。女子部の創作バレエである。
 平和の天使・鼓笛隊のパレードや高等部のリズム体操、女子部のダンス、袴姿も凜々しい学生部の群舞、音楽と人文字とナレーションで構成する「関西創価学会三十年の歩み」、中等・少年部の体操、女子部のバレエ、音楽隊のパレード、和太鼓演奏「常勝太鼓」と、華麗な、また、勇壮な演技が続いた。
 やがて、男子部の組み体操となった。
 「ワァー」と雄叫びをあげ、男子部四千人がフィールドに躍り出る。
 「紅の歌」「原野に挑む」など、学会歌が流れるなか、次々と隊形変化し、人間の大波がうねり、人間ロケットが飛び交い、八つの五段円塔がつくられた。
 そして、中央で六段円塔が組まれ始めた。
 一段目が六十人、二段目二十人、三段目十人、四段目五人、五段目三人、六段目が一人――一段目は立ったまま、その肩に、あとの三十九人を乗せていく。一段目が揺らげば、上段を支えることはできない。
 二段目が乗り、中腰の体勢で円陣を組む。
 さらに、三段目、四段目……と順に乗り、同じ体勢で、六段目が乗るのを待つ。
 「いくぞーっ!」
 限界への挑戦というドラマが始まった。皆には、鍛錬を通して培われた自信があった。


誓願 四

 六段円塔の二段目のメンバーが、上に十九人を乗せたまま、腰を伸ばす。その足が一段目の友の肩に食い込む。自分たちが腰をしっかり伸ばしきらなければ、上に乗った人たちがバランスを崩して落下することになる。歯を食いしばって立ち上がる。
 続いて、三段目が、四段目が次々と立った。皆、体が小刻みに震えている。
 頭上を撮影用のヘリコプターが飛ぶ。
 バババババババー……。
 ヘリの起こす風が予想以上に激しい。円塔が揺れる。周囲のメンバーは、心で題目を唱える。やがて、ヘリは遠のいていった。
 五段目が立った。音楽隊の奏でるドラムの音が響く。六段目となる最後の一人が立とうとした。が、腰をかがめた。足下の青年の肩に手をかけ、もう一度、体勢を整える。観客も息をのみ、いっせいに円塔の頂上を見る。
 “立て! 俺たちを信じて立て!”
 彼を支える青年たちが、心で叫ぶ。
 「頑張れ!」
 観客席から声が起こる。
 青年は深呼吸し、空を見上げた。
 そして、一気に立った。
 最上段に立った青年は、両手を広げた。
 大歓声と大拍手が、長居陸上競技場の天空に舞った。スタンドには、「関西魂」の人文字が鮮やかに浮かび上がる。
 山本伸一も、大きな拍手を送った。
 円塔のてっぺんで、青年が何かを叫んだ。
 「弘治、やったぞ!」
 大歓声にかき消され、聴き取ることはできないが、魂の絶叫であった。青年は菊田弘幸といい、弘治とは、五日前に他界した親友で男子部員の上野弘治のことである。二人は、同じ水道工事の会社で働いており、上野も、この青年平和文化祭に組み体操のメンバーとして出演する予定であった。しかし、三月十七日、彼は病のために他界した。親友の思いを背負っての菊田の挑戦であった。
 青年たちが打ち立てた六段円塔は、永遠に崩れぬ、美しき友情の金字塔でもあった。


誓願 五

 組み体操の練習に励んでいた上野弘治が、「気分が悪い」と訴え、救急病院へ運ばれたのは、三月六日のことであった。いったん自宅に戻るが、意識障害が始まり、再び入院した。混濁する意識のなかで、「親友が六段円塔の一番上に立つんだ……」と繰り返した。
 やがて意識不明になり、救命救急センターに転院することになった。菊田弘幸も駆けつけ、彼の体を抱え、ストレッチャーに乗せた。その時、上野は、小さな声だが、はっきりした口調で言った。
 「不可能を可能にする!」
 これが、上野の最後の言葉となった。
 彼は、原発性くも膜下出血と診断され、十三日に呼吸停止となったが、人工呼吸で四日間、生き続け、「広宣流布記念の日」の三月十六日を迎えた。そして、翌十七日午後、安らかに息を引き取った。その枕元のハンガーには、彼が文化祭で着る予定であった青いユニホームが掛けられていた。
 菊田は、友の霊前で誓った。
 「弘治! 君の分も頑張るぞ!」
 十八日、菊田は、上野の写真を胸に、練習会場の交野の創価女子学園(同年四月から関西創価学園に)体育館に向かった。これまで六段円塔を立てることはできなかったが、この日、初めて至難の円塔が完成したのだ。
 また、この日、学園にいたメンバーだけでなく、別の場所で練習に励む、組み体操メンバー全員に、上野の死と彼の不屈の心意気、「不可能を可能にする!」との遺言ともいうべき言葉が伝えられた。組み体操四千人の若人の心が、一つになって燃え上がった。
 菊田は、上野の最後の言葉を心に焼き付け、自身の力の限界に挑み、まさに不可能を可能にする見事な演技を成し遂げたのだ。
 上野には、創価学会から、男子部本部長の名誉称号が贈られた。彼の母親は述懐する。
 「あの子は、中学二年の時、紫斑病で生死の境をさまよいました。今、思えば、それ以来、御本尊様に寿命を延ばしていただいたと実感しています」


誓願 六

 上野弘治の妻は、山本伸一への手紙に、こう記した。
 「宿命と闘った主人は、子どものように純粋で美しい顔でした。主人は、私たちを納得させて亡くなりました。信心とはこういうものだ、宿命と戦うとはこういうものなんだ、と必死に生きて生き抜いて教えてくれました」
 さらに、関西青年平和文化祭の出演者らで、決意の署名をすることになった時、皆から弘治の名も残したいとの希望があり、彼女が夫に代わって筆を執った。
 「我が人生は広宣流布のみ!! 上野弘治 名誉本部長」――夫の心をとどめたのだ。
 その報告に伸一は、上野への追善の祈りを捧げるとともに、夫人が亡き夫の分まで広宣流布に生き抜き、幸福な人生を歩んでほしいと祈念し、題目を送った。
  
 文化祭に出演したメンバーの多くは、訓練や団体行動が苦手な世代の若者たちである。しかも、仕事や学業もある。皆、挫けそうになる心との格闘であり、時間との戦いであった。そのなかで唱題に励み、信心を根本に自分への挑戦を続け、互いに“負けるな!”と励まし合ってきた。
 そして、一人ひとりの人間革命のドラマが、無数の友情物語が生まれた。青年たちは文化祭を通して、困難に挑み戦う学会精神を学び、自身の生き方として体現していった。つまり、不可能の壁を打ち破る不撓不屈の“関西魂”が、ここに継承されていったのである。
 “関西魂”は、どこから生まれたのか――。
 “この大阪から、貧乏と病気を追放したい。一人も残らず幸福にしたい”というのが、戸田城聖の思いであった。
 この念願を実現するために、戸田は、弟子の山本伸一を、名代として関西に派遣した。伸一は、師の心を体して広宣流布の指揮を執り、関西の地を走りに走った。そして、一九五六年(昭和三十一年)五月には、大阪支部で一カ月に一万一千百十一世帯という弘教を成し遂げ、民衆凱歌の序曲を轟かせた。


誓願 七

 山本伸一は、一九五六年(昭和三十一年)七月、学会が初めて推薦候補を立てた参議院議員選挙で、大阪地方区の支援活動の最高責任者を務め、見事、当選を勝ち取った。“当選など不可能である”との、大方の予想を覆し、「“まさか”が実現」と新聞で報じられた、劇的な大勝利であった。
 翌五七年(同三十二年)の七月三日、彼は、同年四月に行われた参議院大阪地方区の補欠選挙で、選挙違反をしたという無実の罪を着せられ、逮捕される。大阪事件である。新しい民衆勢力の台頭を恐れる横暴な権力の弾圧であった。同志は怒りに震えた。
 七月十七日、大阪府警並びに大阪地検を糾弾する大阪大会が、中之島の大阪市中央公会堂で開かれた。場外も多くの人で埋まった。途中から激しい豪雨となり、稲妻が天を切り裂いた。外の人たちは、雨に打たれながら、特設されたスピーカーから流れる声に耳をそばだてた。幼子を背負った婦人もいたが、誰も帰ろうとはしなかった。
 “無実の山本室長を、なぜ逮捕したのか! 民衆の幸せを願って走り抜き、私たちに勇気の灯をともしてくれた室長を迫害する、権力の魔性を、私たちは断じて許さない!”
 同志の心に、正義の炎は、赤々と燃え上がった。その胸中深く、“常勝”の誓いが刻まれ、目覚めた民衆の大行進が始まったのだ。
 その時の、背中の子どもたちも、今、凜々しき青年へと育ち、青年平和文化祭の大舞台に乱舞し、全身で民衆の凱歌を、歓喜と平和を表現したのである。
 青年たちは、仕事や学業のあと、息せき切って、練習会場に駆けつけ、必死に、負けじ魂をたぎらせて練習に汗を流した。草創期を戦った壮年や婦人は、毎日のように応援に訪れ、連れて来た孫たちに言うのである。
 「よう見とき、あの懸命に頑張る姿が関西魂や! 学会精神や!」
 草創の同志は、後継の若師子たちが、見事に育ち、魂のバトンが受け継がれていくことに、喜びと誇りを感じたのである。


誓願 八

 大阪の庶民のなかに身を投じ、“この世の悲惨をなくす”“誰一人として幸せにせずにはおくものか!”と誓った戸田城聖の一念――それは即「平和の心」にほかならなかった。
 山本伸一は、この戸田の心を胸に、その実現のために、全精魂を傾けて奔走した。そして、関西の同志は、伸一と共に戦い、権力の弾圧にも屈せず、民衆の幸と蘇生の歴史を綴ってきた。まさに、“関西魂”“学会精神”の継承のなかで、「平和の心」も受け継がれていくのである。
  
 関西青年平和文化祭は、「平和宣言」へと移った。関西青年部長の大石正志は、マイクに向かうと、「全関西の山本門下生十万の同志諸君!」と力強く呼びかけ、平和への誓いを読み上げていった。
 「一、我々は、日蓮大聖人の仏法を広く時代精神、世界精神にまで高め、『生命尊厳・人間平和主義』の理念にのっとり、立正安国の恒久平和運動を展開しゆくことを誓う。
 一、第二代戸田城聖会長の『原水爆禁止宣言』以来二十五年。今や、この不動の精神は第三代山本会長によって継承され、世界的な潮流となって民衆の共鳴を呼んでいる。我々は、この深き仏法者の信念より発した平和行動を、二十一世紀へ更に高めて、この宣言の透徹した理念を訴え続け、核兵器廃絶の実現を期す。
 一、恒久平和建設の生命線は、民衆と民衆との連帯にかかっている。我々は、広汎なる世界の平和を希求する青年の力を糾合し、もって国連憲章の精神を守る新しい時代の国際世論を形成し、二十一世紀を、人類が希求する、生命・平和の世紀にすることを誓う」
 この「平和宣言」は、競技場を埋め尽くした全員の賛同の大拍手をもって採択された。
 平和運動には、運動を支える確固たる哲学が求められる。仏法では、万人が「仏」の生命を具えていると説く。つまり人間は、等しく尊厳無比なる存在であり、誰人も幸福に生きる権利があることを裏づける法理である。


誓願 九

 創価学会の平和運動は、仏法の生命尊厳の思想を人びとの胸中に打ち立て、ユネスコ憲章に謳われているように、「人の心の中に平和のとりで」をつくることを基調としている。
 法華経の精髄たる日蓮仏法には、人間に内在する「仏」の生命を顕現し、悪の心を滅して善の心を生じ、自他共に幸福を確立していく方途が示されている。学会は、日々、その教えを実践し、一人ひとりが人間革命に励み、苦悩の宿命を転換するとともに、社会建設の主体者となって、はつらつと生命尊厳の哲理の連帯を広げてきた。
 平和とは、単に戦争のない状態をいうのではない。地球上のあらゆる人びとが、核の脅威や飢餓、貧困、差別など、人間を脅かすあらゆる恐怖や不安から解放され、生きる喜びと幸せを実感できてこそ、真の平和である。創価学会員には、まさに、その歓喜と幸福の人生の実像がある。
 関西青年平和文化祭では、五千五百人の来賓を代表して、広島市の荒木武市長と長崎市の本島等市長があいさつした。
 荒木市長は、「世界で唯一の戦争被爆国である日本は、核廃絶への世界の先駆となっていく使命がある」との、山本伸一の主張を紹介した。そして、それは、まさに「ヒロシマ・ナガサキ」の世界化を説き、「ヒロシマ・ナガサキの平和の心」を心とした実践の哲理を示していると述べた。
 さらに、「人類の悲願である世界の恒久平和の確立は、互いの人間の奥に光る善性を発見し、民衆と民衆との強い連帯のもとに、人間の心と心のふれあいによってはぐくみ、育てるものである」と力説。その意味から、創価学会青年部の、平和活動と文化の発展のための努力に対し、惜しみない賛辞と拍手を送りたいと語った。
 また、本島市長は、一九五七年(昭和三十二年)、戸田城聖第二代会長の「原水爆禁止宣言」以来、学会が被爆証言集の出版や核廃絶の署名など、長年にわたり、平和の建設に取り組んできたことを高く評価した。


誓願 十

 本島等長崎市長は、山本伸一がこれまで、世界平和と人類の幸福を願って、ソ連のコスイギン首相やアメリカのキッシンジャー博士、中国の周恩来総理など、世界の指導者と対話を重ねてきたことこそ、平和実現のカギになると訴え、こう続けた。
 「三発目の原爆が、地球上のどこにも、永遠に投下されてはならない――長崎こそ世界における原爆の最後の被爆の地であらねばならない、ということを皆さんとともに誓い合いたい」「皆様は、どうか、日本の各地で、平和の運動の先頭に立ってください!」
 また、あいさつに立った関西総合長の十和田光一は、この青年平和文化祭を新たな出発点として、さらに、「核兵器のない世界」「悲惨な戦争のない世界」をめざし、平和に貢献していく決意を披瀝した。そして、デクエヤル国連事務総長から、この文化祭の開催にあたって届けられた、SGI会長の伸一へのメッセージを紹介していった。
 「創価学会のような日本のNGO(非政府機関)が、世界平和と軍縮の推進に寄与されていることを知り、我々は大いに勇気づけられております」「私は軍拡競争の危険性を世界の諸国民と諸政府に、より広く知らしめんとするSGI会長並びに創価学会のご尽力に深く感謝するものであります」
 国連でも、国家レベルの論議は、ともすれば国益の確保などが優先され、軍縮や核兵器廃絶への前向きな交渉が進まない現実がある。その壁を破るために、不戦を願う民衆の連帯を広げ、時代変革の波を力強く起こす機軸となるのが、NGOの存在といってよい。
 創価学会は、前年の一九八一年(昭和五十六年)に国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)と国連広報局のNGOとして登録されている。また、SGI結成から満七年にあたる、この八二年(同五十七年)の一月二十六日、創価学会平和委員会が設置され、いよいよ本格的な平和運動の展開に着手したのである。
 仏法は、人間を守るためのものだ。ゆえに平和を守ることは、仏法者の使命である。


誓願 十一

 関西青年平和文化祭では、会長の秋月英介のあいさつに続いて、山本伸一がマイクを手にした。彼は、出演者や来賓の方々に、深く感謝の意を表し、平和への思いを語った。
 「平和は、人類の願望である。私どもは正法正義を根本とし、ただひたすらに、平和に向かって前進してまいりました。また、これからも、断固、進んでいかねばならない。
 さまざまな中傷、批判があったとしても、それらを乗り越えて、最も重大な、人類願望の平和を実現する大河の一滴として、私どもは前進していかねばならない。どうか諸君、あとはよろしくお願いします!」
 そして、各職場、各地域で大いに貢献していくよう期待を寄せ、「今まで以上に、愛される創価学会になっていただきたい! 信頼される創価学会になっていただきたい!」と呼びかけたのである。
 伸一は、関西の青年たちに和歌を贈った。
 「ああ関西 天晴れ地晴れ 十万の
    平和の勇者は 歴史築けり」
 第一回関西青年平和文化祭は、民衆を基盤とした新たな平和の夜明けを告げる旭日となり、感動のうちに幕を閉じた。
 これには、法主の日顕も来賓として出席していた。文化祭が終わって二日ほどしたころ、宗門から、すぐに登山せよとの連絡があった。伸一は、京都、滋賀を訪問する予定を変更し、秋月と共に総本山へ向かった。三月二十五日のことである。
 待ち受けていたのは、修羅のごとき形相をした日顕であった。居丈高に話しだした。
 ――文化祭の折に、青年部が行った「平和宣言」で、「日蓮大聖人の仏法を広く時代精神、世界精神にまで高め」云々と言っていた。もともと高いものを「高める」とは、なんたる不遜な言葉か、と言うのだ。
 まさに、言葉尻をとらえての言い分であった。誰の耳にも、その真意は、仏法を広く時代、世界の精神にしていくという広布と平和への誓いであることは明らかだ。歪んだ心の鏡には、すべてが歪んで映るものだ。


誓願 十二

 日顕は、山本伸一の関西青年平和文化祭でのあいさつについても、「『日顕上人猊下』と言ったが、なぜ、『御法主上人』と言わなかったか!」と言うのである。
 あの感動の文化祭を見て、青年たちをねぎらうどころか、わざわざ、このことを言うために伸一たちを呼びつけたのだ。嫉妬深いのか、本性をさらけだしたのか、いたずらに自分の権威を誇示するかのように威張り散らす姿に、ただ、あきれ果てるばかりであった。
 しかし、広宣流布のために、僧俗和合していこうという伸一の姿勢は、いささかたりとも変わらなかった。
  
 「今こそ、平和・文化の新しき創造を!」
 四月二十九日、中部広布三十周年を記念して、七万人の青年たちが集い、第一回中部青年平和文化祭が岐阜県営陸上競技場で盛大に開催された。「曇り後雨」の天気予報を覆し、青空が広がっていた。
 国連旗、創価学会平和旗、中部創価学会旗の入場、掲揚で幕を開けた文化祭では、華麗なる青春の舞が、躍動と歓喜の調べが、熱と力の団結の演技が披露され、人間共和の大絵巻が繰り広げられた。
 これには、国連広報センターから、小田信昭副所長も出席し、来賓を代表してあいさつした。
 「本日の文化祭を通じて、平和は遠い世界のどこかでつくるものではなく、この地で、私たちの周りでつくり上げていくものだという実感を強くいたしました。このことは、SGI会長の国連支援の精神に触れるものであり、強い感激を覚えました」
 そして、この年は国連軍縮特別総会が開催される年であり、それと時を合わせての青年平和文化祭の開催に、国連の期待も大きいことを述べた。
 「団結してこそ勝利は至る」(注)とは、ドイツの劇作家にして詩人のブレヒトの言葉である。平和という壮大な理想を実現するには、青年の熱と力の結集がなければならない。

■引用文献
 注 「連帯性の歌」(『ブレヒト詩集』所収)野村修編訳、飯塚書店


誓願 十三

 最後にマイクに向かった山本伸一は、「平和の輝きと響きと力の文化祭」であったと賞讃し、岐阜、愛知の県知事をはじめ、来賓に心から謝辞を述べ、簡潔にあいさつした。
 「有意義に充実の人生を生きていくには、常に、根本に立ち返って、進むべき道を考えることが大切です。『人生、いかに生きていくべきか』『人生の目的とは何か』、また、『平和実現への原理とは何か』などを探究していくことであり、いわば、哲学という根っこをもつことが大事であるといえます。
 日々、多くの友と、それらを語り合い、共に実践しながら、平和という理想に向かって前進しているのが、私ども創価学会であると申し上げたい」
 大拍手が轟き、岐阜城がそびえる金華山にこだました。彼は、言葉をついだ。
 「古来、力ある宗教には、いわれなき、中傷、批判がつきまとうものである。しかし、生命の世紀を、恒久平和をめざす皆さんは、何があろうが、勇敢に乗り越え、二十一世紀へ威風堂々と前進を開始していただきたい。
 そして、各職場、各学校、各家庭、各地域で、信頼される一人ひとりになってください。それが、仏法の偉大さの証明となり、平和の道を開くことにつながるからです」
 中部青年平和文化祭が終わるのを待つかのように、雨が降り始めていた。
 伸一は、躍動する青年たちの姿を目にしながら、中部に、創価の崩れざる“金の城”が築かれたことを確信した。東京、関西の中間に位置する中部に、難攻不落の広宣流布の堅塁を築きあげることは、師・戸田城聖と彼の「師弟の誓い」であった。
 伸一は、若き日、一首の和歌を師に捧げた。
 「いざや起て いざや築けと 金の城
    中部の堅塁 丈夫勇みて」
 戸田は、即座に返歌を認めた。
 「いざや征け 仏の軍は 恐れなく
    中部の堅塁 立つは楽しき」
 この師弟の念願が、見事に成就したのだ。
 大勝利の歴史を刻む文化祭であった。


誓願 十四

 九月十八、十九の両日には、第二回世界平和文化祭が、「平和のルネサンス」をテーマに掲げ、埼玉県所沢市の西武ライオンズ球場で盛大に開かれた。
 前年の六月、アメリカのシカゴ市郊外のローズモント・ホライゾンで第一回世界平和文化祭が行われてから一年三カ月、今回は、世界三十七カ国三地域のSGI代表三千人を含め、四万人の若人が集い、屋外球場を使ってのナイターでの開催である。
 山本伸一は、十九日の文化祭に出席した。
 各界の来賓一万二千人をはじめ、三万人の観客を迎えて、光と音を駆使した、世界平和の讃歌と誓いの祭典となった。
 この日は、朝から雨が、時に強く、時に弱く、断続的に降っていた。
 開会一時間前の午後四時半過ぎ、雨に煙るグラウンドにスーツ姿の伸一が下り立った。人文字の出演者ら青年たちに、心からお礼を言いたかったのである。
 彼は、降りしきる雨のなか、傘も差さずに、グラウンドを回り始めた。スタンドは大歓声に包まれた。皆に向かって手を振り、何度か立ち止まっては、深く頭を下げた。
 役員の青年が差し出したマイクを手にすると、伸一は呼びかけた。
 「皆さん! 本当にご苦労様。風邪をひかないよう、工夫してくださいね。……本当にありがとう!」
 そこには、なんの気負いもなかった。父親が愛するわが子を気遣って、語りかけるような言葉であった。
 世界平和文化祭の成功は、当然、大事である。皆、何カ月も前から、梅雨の日も、炎暑の夏も、この日をめざして練習に励んできたのだ。なんとしても成功してほしいと、真剣に祈りもしてきた。
 しかし、彼にとっては、それよりも、青年たちが風邪をひいたり、決して事故などを起こしたりしないことの方が、はるかに大事であった。世界平和の旗手となる、創価の宝の、大切な後継の青年たちであるからだ。


誓願 十五

 世界平和文化祭では、「きらめく瞳」と題する女子中・高等部員の希望弾むリズムダンスもあった。「羽ばたき」という男子中・高等部員のマスゲームでは、明日に向かう若々しい力が躍動した。男子部のグラウンド人文字は、恒久平和建設への誓いを込めて、「平和乃波」の文字を浮かび上がらせた。
 少年・少女部員は、巨大ボールと戯れるリズムダンスで、果てしない未来へ膨らむ夢を表現。女子部の松明の舞では、点火された松明の炎が一人、三人、五人と燃え広がり、六百人の美しき“平和の光”が踊った。
 海外メンバーのパレードでは、漁業専管水域をめぐって争いが続くアイルランドとイギリスの友が、一緒に笑顔で歌い、行進した。
 「たとえ道は長くとも 希望の光かかげつつ 二十一世紀の勝利めざして」とは、SGIの歌「21世紀のマーチ」の歌詞である。
 この文化祭にも、前月の八月二十四日に山本伸一が会見したデクエヤル国連事務総長から、メッセージが寄せられた。
 「分裂と混乱が国際情勢を支配する現在の困難な時代に、国連憲章に込められた理想に向かう決意を新たにすることは、最も重要であります。人類は平和の維持と軍縮の促進を可能にする国際機構としての国連を保有しております。しかしながら、この国際機構も人類が真剣にこれを役立てようと、その機構の権威強化に全面的に取り組んでこそ、初めてその機能が発揮され得るのであります。
 もし、この取り組みがなければ、人類はなんの手立てもないまま、地球的な破滅へと向かわざるを得ないでありましょう」
 そして、SGIのようなNGOは、国連への世界市民の支持を創出し、平和と軍縮の目的達成を推進するうえで、極めて意義ある役割を果たしていくと強調。今回の文化祭が、その目的へと向かう国際的な勢いを、一段と増すものになるとの確信を述べた。
 伸一は、国境を超えた民衆の平和の連帯をさらに広げ、人類の議会たる国連の支援に、いっそう力を注ぐ決心であった。


誓願 十六

 平和文化祭は、関西や中部などの方面にとどまらず、引き続き、各県ごとに開催され、平和意識啓発の一つの運動として、新しい流れをつくっていくことになる。
 この一九八二年(昭和五十七年)は、創価学会が世界平和の実現のための運動に、これまでにも増して、さらに大きな一歩を踏み出していった年であった。
 青年平和会議や学生平和委員会主催の青年平和講座、婦人平和委員会(後の女性平和委員会)の講演会も盛んに行われた。また、第二回となる「女たちの太平洋戦争展」や、地域に根差した草の根の平和運動として、「沖縄戦と住民展」「徳島県民と戦争展」など、各地の歴史に光を当てた展示会を開催していった。
 四月には、創価学会青年平和会議とUNHCRが主催し、「アジアの難民」救援募金を全国約六百五十カ所で実施したのをはじめ、青年部が国連広報センターと共に、長崎市平和会館で「私たちと国連」展を行っている。
 六月七日、ニューヨークの国連本部で、第二回国連軍縮特別総会が開幕した。この総会に際し創価学会は、NGOとして、広島、長崎の三十人の被爆者を含む、五十人の代表団を派遣し、「被爆証言を聞くNGOの集い」や「反核討論集会」を実施したのである。
 さらに、総会の四日前から会期終了まで、国連広報局及び広島・長崎市と協力し、国連本部総会議場一般ロビーで、「現代世界の核の脅威」展(後の「核兵器――現代世界の脅威」展)を開催した。
 世界の人たちは、核兵器が実際に使用された脅威を知らない。日本は、膨大な数の犠牲者を出し、核の悲惨さを体験した唯一の戦争被爆国である。ならば、その使命は、この地上から核兵器を廃絶することにこそある。
 ノーベル物理学賞を受賞したアインシュタインは、自らの信念を、こう述べている。
 「もしもわれわれが心から平和の側に立つ決心をする勇気をもつならば、われわれは平和を獲得するはずです」(注)
 戦争をなくす力は、人間の意志の力である。

■引用文献
 注 『アインシュタイン選集3』井上健・中村誠太郎編訳、共立出版


誓願 十七

 「現代世界の核の脅威」展は、「広島・長崎原爆被害の概要」「現代の核兵器の実態」「軍縮と開発」の三部構成となっていた。
 このうち「広島・長崎原爆被害の概要」では、被爆後の焦土と化した両市の写真などとともに、広島の原爆ドームの模型、焼けた衣類、溶けた瓦など、三十余点の被爆物品も展示された。また、ニューヨーク市上空で核が爆発したらどうなるかを示すコーナーもあった。
 核兵器の脅威は、実際に被爆し、苦しみのなかで生きてきた人たちの生の声に耳を傾け、映像や物品などを通し、破壊の現実を直視してこそ、初めて、実感として深く認識することができる。反戦・反核の広がりのためには、単に頭で理解するのではなく、皮膚感覚で、さらには生命の実感として、脅威を認識していくことが大切になる。
 会場には、デクエヤル国連事務総長をはじめ国連関係者やNGO関係者、総会に参加した各国大使ら外交官など、二十万人を超える人びとが見学に訪れた。反響は大きかった。
 展示を見て、書店を経営するニュージャージー州の婦人は、叫ぶように言った。
 「人間が、ここまで恐ろしいことができたとは信じられない! 吐き気がしてくる。ニューヨークの上空で一メガトンの核が爆発していたら、私の住むところは破滅だ。核戦争は絶対にいけない!」
 第二回国連軍縮特別総会では、「世界軍縮キャンペーン」が採択された。核の脅威展は、その一環となるもので、翌年の一九八三年(昭和五十八年)には、ジュネーブの国連欧州本部総会議場ロビーで開催されている。
 以来、同展は、インド、カナダ、中国、ソ連と巡回していった。そして、八八年(同六十三年)の第三回国連軍縮特別総会(五月三十一日開幕)までに、日本国内の七都市を含め、世界十六カ国二十五都市で行われ、百二十万の人たちが観賞し、平和意識の啓発に、大きな役割を果たしていったのである。
 この推進力こそ、SGIの青年たちであり、その献身は、仏法者の良心の発露であった。


誓願 十八

 戸田城聖は、かつて山本伸一に語った。
 「人類の平和のためには、“具体的”な提案をし、その実現に向けて自ら先頭に立って“行動”することが大切である」「たとえ、すぐには実現できなくとも、やがてそれが“火種”となり、平和の炎が広がっていく。空理空論はどこまでも虚しいが、具体的な提案は、実現への“柱”となり、人類を守る“屋根”ともなっていく」
 この師の指針を、伸一は実行してきた。一九八二年(昭和五十七年)の第二回国連軍縮特別総会開催の際には、「軍縮および核兵器廃絶への提言」を発表。総会の開会を前にした六月三日、創価学会代表団からデクエヤル国連事務総長に、その提言の文書が手渡された。
 ここでは、トランスナショナリズム(脱国家主義)に立脚したNGOこそ、軍縮を実現する大きな役割を担うものであることを述べ、非核保有国の総意をもって、保有国、とりわけ米ソに核兵器の先制使用をしない旨の誓約をさせるよう求めた。さらに、全地球的な“平和の包囲網”形成をめざし、「非核地域平和保障機構創出のための国連特別委員会」を発足させることなどを提案した。
 伸一は、七八年(同五十三年)五月に開幕した第一回国連軍縮特別総会の折にも、十項目にわたる核軍縮、核廃絶の提言をしている。人類を破滅へと向かわせる核の脅威を、看過するわけにはいかなかったのである。
 また、八三年(同五十八年)には、第八回となる1・26「SGIの日」を記念して、「平和と軍縮への新たな提言」を行った。早急に米ソ最高首脳会談を実現し、核兵器の現状凍結を早期に合意するよう訴えたほか、「核戦争防止センター」の設置や、米ソが「軍事費凍結のための国際会議」の開催を呼び掛けることなどを提案したのである。
 以来、彼は、毎年、「SGIの日」には記念提言を重ねた。新しい平和の波を起こそうと、世界への発信を続けた。声は、人の心を動かし、社会、世界を変えていく。声をあげることから、新しい一歩が始まる。


誓願 十九

 一九八三年(昭和五十八年)五月、SGIは国連経済社会理事会(ECOSOC)の、協議資格をもつNGOとして登録された。
 また、この年の八月八日、SGI会長である山本伸一に「国連平和賞」が贈られ、東京・渋谷区の国際友好会館(後の東京国際友好会館)で、その伝達式が行われた。
 これには、明石康国連事務次長をはじめ、国連広報センターのエクスレイ所長らが出席した。デクエヤル国連事務総長からの感謝状には、授賞の理由が、こう述べられていた。
 「国連憲章の目的及び原則を支持するために、広範な運動を展開し、また、諸国家間の相互理解と友好の促進のために不断の努力を続けてきた」「国際緊張の緩和並びに軍縮、特に今日の最重要課題である核軍縮の推進のために、建設的な提言を行ってきた」「国連の広報活動に対して、あなたの指導のもとに行われた学会並びにSGIの多大な貢献は、国連の目的と理想への一般市民の支持を強化する力強い援助となった」
 道は遠い。しかし、歩み続ける。その粘り強い行動が、世界に確かな平和の波動を広げていく。世界中で、人びとが核兵器廃絶を叫んでいけば、必ず時代は変わっていく。
 八九年(平成元年)には、国連難民高等弁務官事務所から、伸一に、長年の難民救援活動への貢献をたたえ、「人道賞」が贈られた。
 その折、彼は、こう述べている。
 「今回の『人道賞』は、私個人に与えられたものではない。これは、学会の平和委員会の活動と連動し、青年部が仏法者として進めてきた献身的な人道活動の結実であり、私どもの活動に対する一つの世界的な評価と受けとめたい」
 創価学会の平和運動の源流は、初代会長・牧口常三郎の、国家神道を精神の支柱に戦争を遂行する軍部政府の弾圧との戦いにある。思想統制のために、神札を祭れという軍部政府の強要を、牧口は、断固として拒否し、四三年(昭和十八年)七月、弟子の戸田城聖と共に逮捕・投獄されたのである。


誓願 二十

 軍部政府が強要する神札を公然と拒否することは、戦時中の思想統制下にあって、国家権力と対峙し、思想・信教の自由を貫くことである。それは、文字通り、命がけの人権闘争であった。事実、牧口常三郎は、逮捕翌年の一九四四年(昭和十九年)十一月十八日、秋霜の獄舎で生涯を終えている。
 思想・信教の自由は、本来、人間に等しく与えられた権利であり、この人権を守り貫くことこそ、平和の基である。
 万人に「仏」を見る仏法思想は、人権の根幹をなす。ゆえに、その仏法の実践者たる牧口は、人間を手段化する軍部政府との対決を余儀なくされていった。さらに、弟子の戸田城聖が、五七年(同三十二年)九月八日、人間の生存の権利を奪う核兵器を絶対悪とする、「原水爆禁止宣言」を発表したのも、仏法者としての必然的な帰結であった。
 そもそも創価学会の運動の根底をなす日蓮仏法では、人間生命にこそ至高の価値を見いだし、国家を絶対視することはない。大聖人は、幕府の最高権力者を「わづかの小島のぬし(主)」(御書九一一ページ)と言われている。
 また、「王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず」(同二八七ページ)とも仰せである。王の支配する地に生まれたので、身は従えられているようでも、心を従えることはできないと断言されているのだ。この御文は、ユネスコが編纂した『語録 人間の権利』にも収録されている。
 つまり、“人間は、国家や社会体制に隷属した存在ではない。人間の精神を権力の鉄鎖につなぐことなどできない”との御言葉である。まさに、国家を超えた普遍的な価値を、人間生命に置いた人権宣言にほかならない。
 もちろん、国家の役割は大きい。国家への貢献も大切である。国の在り方のいかんが、国民の幸・不幸に、大きな影響を及ぼすからである。大事なことは、国家や一部の支配者のために国民がいるのではなく、国民のために国家があるということだ。


誓願 二十一

 日蓮大聖人がめざされたのは、苦悩にあえいできた民衆の幸せであった。そして、日本一国の広宣流布にとどまらず、「一閻浮提広宣流布」すなわち世界広布という、全人類の幸福と平和を目的とされた。この御精神に立ち返るならば、おのずから人類の共存共栄や、人類益の追求という思想が生まれる。
 世界が米ソによって二分され、東西両陣営の対立が激化していた一九五二年(昭和二十七年)二月、戸田城聖が放った「地球民族主義」の叫びも、仏法思想の発露である。
 仏法を実践する創価の同志には、誰の生命も尊く、平等であり、皆が幸せになる権利があるとの生き方の哲学がある。友の不幸を見れば同苦し、幸せになってほしいと願い、励ます、慈悲の行動がある。この考え方、生き方への共感の広がりこそが、世界を結ぶ、確たる草の根の平和運動となる。
 ――一九八二年(昭和五十七年)四月、南大西洋のフォークランド諸島(マルビナス諸島)の領有をめぐって、イギリスとアルゼンチンの間で戦争が起こった。
 フォークランド諸島を舞台に、戦闘が続いたが、六月半ばアルゼンチン軍が降伏し、戦いは終わった。しかし、両国の国交が回復するのは、九〇年(平成二年)二月である。この戦争では、両軍で九百人を超える戦死者が出ている。
 イギリスとアルゼンチンのSGIの理事長らは、日本での研修会などを通して知り合っていた。国と国とが戦火を交え、両国の人びとも互いに憎悪を募らせていくなかで、SGIメンバーは、平和を願って唱題を開始した。互いに相手の国の同志を思い浮かべ、戦争の終結を懸命に祈った。
 アメリカの社会運動家として知られるエレノア・ルーズベルトは訴えている。
 「この世界で平和を実現するには、まず、個人と個人との間の理解を築かなければなりません。それが萌芽となって、集団と集団とのより良い相互理解も生まれるのです」(注)
 平和の礎は、人間と人間の信頼にある。

■引用文献
 注 Eleanor Roosevelt著『This Troubled World』H. C. Kinsey & Company, Inc.


誓願 二十二

 イギリスの理事長であったレイモンド・ゴードンは、フォークランド(マルビナス)戦争の翌年となる一九八三年(昭和五十八年)の十一月、「聖教新聞」紙上で、その時の様子を、こう語っている。
 「大半のメンバーは、この戦争が一日も早く終わるようにと、心から御本尊に祈りました。私も心配でアルゼンチンのメンバー(大木田和也理事長)と電話で連絡をとったところ、彼らもまた、私たちと同じように、平和を願って、唱題していました。
 私は、それを知って、二国間は遠く離れてはいるが、また不幸にも政治的には交戦状態にあるが、平和への願いは、ともに同じだと痛感しました。そこには、温かい血の通った平和を志向しての団結があると感じました」
 彼は、祖国イギリスの宿命転換を祈った。
 戦闘が続いていた八二年(同五十七年)五月、ゴードンは来日し、山本伸一と共に長崎市の平和公園を訪れ、世界の恒久平和と原爆犠牲者の冥福、そして、フォークランド戦争の終結を祈って、平和祈念像に献花した。
 不幸中の幸いというべきか、翌月には戦いは終結し、戦火が拡大することはなかった。
 イギリスSGIは、戦争から一年を迎えようとする八三年の三月、ロンドンで「チューズ・ライフ」(生への選択)をテーマに「世界平和展」を開催し、平和を訴えた。BBC放送などのテレビやラジオ、新聞が、これを報道し、賞讃を惜しまなかった。
 全世界の人びとの心に、生命の絶対的尊厳という思想が確立されるならば、平和のために、人類は結び合うことができる。平和建設とは、その思想を打ち立て、共感の輪を不断に広げていくことでもある。
 八六年(同六十一年)三月、イギリス、アルゼンチンのメンバーが来日し、学会本部で合同研修会が行われた。共に平和を願い続けてきた同志である。最初の緊張は瞬く間に解けた。「私たちは平和の戦士として、世界から戦争をなくすまで、戦い続けよう!」と、互いに誓いを新たにしたのだ。


誓願 二十三

 山本伸一は、民衆に深く根を張り、仏法の平和思想、人間主義の思想を、世界に伝え弘めていく広宣流布の運動を、着実に展開していくことこそが、恒久平和の揺るがざる基盤を築く要諦であると考えていた。民衆の力、草の根の力こそが、確かな反戦・反核の世論をつくり、世界を結ぶ推進力となるからだ。
 その一方で彼は、各国の指導者との対話を重ね、国連を軸に平和の潮流を創造していくことを深く決意していた。
 また、未来を担う学生たちが、友情と平和の連帯を幾重にも結んでいけるよう、世界の大学等との教育・文化交流にも力を注ぎ続けていこうと決めていた。
 政治の世界は、ともすれば時代の激流に翻弄されがちであるが、大学などの学問の府には普遍性、永続性がある。その国の最高学府に学んだ人たちは、社会建設の次代の担い手となる。さらに、若い世代の交流は、グローバル化する世界を結ぶ新しい力となろう。
 伸一の行動に力がこもった。同志の激励のために、日本国内を以前にも増して、くまなく回り、さらに、世界を駆け巡った。
 一九八三年(昭和五十八年)の五、六月には、アメリカ、ヨーロッパを訪問した。
 翌八四年(同五十九年)二、三月には、アメリカ、南米を訪れた。その折、十八年ぶりにブラジルを訪問し、ジョアン・フィゲイレド大統領と会見した。同大統領からは、八二年(同五十七年)五月、訪問を要請する親書が届いていた。会見は二月二十一日、首都ブラジリアの大統領府執務室で行われた。
 思えば、十八年前の訪問中、彼の周囲には、常に政治警察の監視の目が光っていた。学会への誤解と偏見から、敵意をいだく日系人らが喧伝した「宗教を擬装した政治団体」などという話を、信じてしまった政府関係者もいたのである。
 以来、社会に学会理解と信頼を広げるための、ブラジル同志の奮闘が始まった。誤解を招くのは一瞬だが、それを解き、信頼を築き上げるには、何年、何十年の歳月を要する。


誓願 二十四

 山本伸一は、一九七四年(昭和四十九年)にもブラジル訪問を予定していたが、ビザ(査証)が出ず、実現できずに終わった。ブラジルの同志は、自分たちの力が及ばぬために、学会への誤解を晴らせなかったことを悔やんだ。“さらに、さらに、学会理解のための対話と社会貢献に努め、ブラジル政府の方から山本先生の訪問を強く求める時代をつくるのだ!”と、皆が深く心に誓った。
 不屈の魂は、辛酸の泥土の中で勝因を育む。
 そして、遂に、八四年(同五十九年)二月のブラジル訪問となり、フィゲイレド大統領との会見となったのである。
 席上、大統領から、同年五月末か六月初めの訪日の予定が伝えられたほか、日伯の技術協力や民政移管の推移、核問題と未来展望などが語り合われた。なかでも、各国首脳による話し合いこそ、世界不戦への道であるとの伸一の主張に、大統領は全面的に賛同した。
 ブラジリアでは、外相、教育・文化相らとも会談し、六百人のメンバーと記念撮影をした。また、ブラジリア大学を訪問し、図書贈呈式にも出席している。
 二月二十五日には、第一回ブラジル大文化祭の公開リハーサルが行われていた、サンパウロ州立総合スポーツセンターのイビラプエラ体育館を訪れた。大歓呼のなか、伸一は両手を上げながら、中央の広い円形舞台を一周したあと、万感の思いを込めてマイクを握った。
 「十八年ぶりに、尊い仏の使いであられるわが友と、このように晴れがましくお会いできて、本当に嬉しい。この偉大なる大文化祭が、ブラジルの歴史に、広布の歴史に、燦然と輝き残るであろうことは間違いありません。
 しかし、これまでに、どれほどの労苦と、たくましき前進と、美しい心と心の連携があったことか。私は、お一人お一人を抱擁し、握手する思いで、感謝を込め、涙をもって、皆さんを賞讃したいのであります」
 大歓声があがり、ブラジルの勝ち鬨ともいうべき、意気盛んな掛け声がこだました。
 「エ・ピケ、エ・ピケ、エ・ピケ……」


誓願 二十五

 山本伸一は、二十六日、「二十一世紀の大地に平和の賛歌」をテーマに行われたブラジル大文化祭に出席した。席上、フィゲイレド大統領からのメッセージが紹介された。
 そのなかで大統領は、ブラジル創価学会が文化、教育、体育、さらには世界の平和への活動を繰り広げ、核兵器廃絶など、広範な平和運動に貢献していることを述べ、その「高貴なる理想が、実現されることを切望いたします」と期待を寄せた。
 十年前、学会が政府から警戒の目を向けられ、入国のビザさえ出なかったことを思うと、まさに隔世の感があった。ブラジルの同志が社会で信頼を築くとともに、あらゆる人びとと地道な対話を展開してきた賜物といえよう。厳とした変毒為薬の姿である。
 伸一は、ブラジルに次いで訪問したペルーでは、リマ市の大統領府でフェルナンド・ベラウンデ・テリー大統領と会見した。彼は、国際的に著名な建築家で、一九六三年(昭和三十八年)に大統領に就任するも、クーデターによってアメリカに亡命している。やがて帰国し、軍政から民政に移行後の初の大統領選で当選を果たした。
 その大統領から伸一に、世界の平和、文化、教育への貢献を高く評価して、「ペルー太陽大十字勲章」が贈られたのである。
 また、この日、伸一は、南米最古の学府・国立サンマルコス大学を、同大学の名誉教授として訪問し、図書贈呈式に出席した。伸一に同大学から、名誉教授の称号が贈られたのは、八一年(同五十六年)四月、東京の創価中学・高校の第十四回入学式の席上であった。
 この授与のために、総長ら一行が、わざわざ来日してくれたのである。
 伸一は、この教育交流の道を、さらに堅固なものにするために努力を重ねてきた。
 さらに同大学は、二〇一七年(平成二十九年)には、彼の人間主義に基づく平和と教育の業績に対して、名誉博士号を贈っている。
 切り開かれた交流の道は、何度も歩き、踏み固めることによって、大道となっていく。


誓願 二十六

 山本伸一は、ペルー滞在中、一万人が集っての第一回ペルー世界平和青年文化祭にも出席し、あいさつをした。
 「皆さんは、青春を勝利で飾られた。私は、皆さんの心の奥深く手を差し伸べ、真心と愛情の、固い、固い、握手を交わしたい。
 文化は一国の華である。文化運動は平和運動に通じ、人生の幸福を開花させゆく運動となる。なんの名誉も利益も欲せず、青春の純粋な心をもって、あらゆる困難を乗り越え、ペルーの文化運動の歴史に残る見事な文化祭を成し遂げた皆様は、人生の栄冠を勝ち取る資格を自らのものにしたと申し上げたい」
 さらに、この日、リマの空に虹が懸かったことに触れて、ペルーとペルーSGIの未来が、「美しき虹の輝きゆく時代に入っていく象徴であると確信したい。わが愛するペルーの繁栄と安穏と栄光を、心から祈りたい」と語り、晴れやかな前途を祝福した。
 また、伸一は、ペルー文化会館で三回にわたって行われた勤行会にも出席し、ペルーSGIの前理事長・故ビセンテ・セイケン・キシベの功労を讃えつつ訴えた。
 「妙法こそ、国を救い、繁栄させゆく、幸福の原動力である」「信心ある人は、生涯、永遠にわたる信念の持ち主であるとともに、幸福の持ち主である」――“全員が不退の信心を貫き、幸福の王者に”との願いを込めてのスピーチであった。
  
 山本伸一は、一九八七年(昭和六十二年)二月の北・中米訪問では、カリブ海に浮かぶ美しき真珠の国・ドミニカ共和国を初訪問した。ホアキン・バラゲール大統領と会見し、その後、ドミニカ共和国の最高勲章「クリストバル・コロン大十字勲章」を受章した。
 また、ドミニカ会館を訪問し、ドミニカ広布二十一周年を祝す記念勤行会に臨んだ。
 日本から移住し、石だらけの耕作不能地で絶望と闘い、苦労に苦労を重ねるなかで、ドミニカ広布の基盤を築いた草創の同志を、彼は、心から讃え、励ましたかったのである。


誓願 二十七

 勤行会の参加者のなかに、日に焼けた顔をほころばせる、ドミニカ広布の尊き先駆者たちの姿があった。山本伸一は、笑顔を向けながら、語っていった。
 「広宣流布の道を切り開いてこられた皆様が、御本尊の無量の功力を満身に受けつつ、朗らかに、また強く、よき人生を生き抜いていく――その歩み自体が、ドミニカ広布即社会の繁栄を示すものであり、そこに壮大な希望の未来が開かれていくのであります」
 そして、「一人も漏れなく『多幸の人生』『栄光の人生』『長寿の人生』を享受せられんことを祈っております」と激励。引き続き第一回SGIドミニカ総会にも出席した。
 翌日、伸一は、サントドミンゴ自治大学を訪問した。フェルナンド・サンチェス・マルチーネス総長は、微笑みを浮かべて、「わが大学は、SGI会長の幅広い人道主義的諸活動に対し、法律政治学部名誉教授の称号を授与することを決定しました」と伝え、その授与式が挙行されたのである。
 伸一は、ドミニカ共和国を発つ日にも、独立公園で献花したあと、メンバーの代表二百数十人と記念のカメラに納まった。
 さらに、パナマ訪問では、エリク・アルトゥロ・デルバイエ大統領と会見。そして、同国の最高勲章「バスコ・ヌニェス・デ・バルボア勲章」を受章したのである。
 また、パナマ文化会館での記念勤行会に出席した彼は、唱題の大切さを訴えた。
 同国滞在中、国立パナマ大学も訪問し、アブディエル・ホセ・アダメス・パルマ総長らと懇談した。同大学からは、二〇〇〇年(平成十二年)に名誉博士号が伸一に贈られている。
 これらの栄誉は、学会の平和・文化・教育運動への高い評価であり、各国同志の社会貢献への賞讃と信頼の証にほかならなかった。
 伸一は、自身が代表して受けることによって、創価の先師・牧口常三郎の、恩師・戸田城聖の偉業を顕彰するとともに、メンバーの懸命な奮闘に報いたかった。皆に喜びと誇りをもって、前進してほしかったのである。


誓願 二十八

 山本伸一は、各国の指導者との対話にも力を注いだ。それが、世界平和を実現する道になり、また、学会への理解を促し、その国の同志を守ることにもつながっていくからだ。
 一九八五年(昭和六十年)には、来日したインドのラジブ・ガンジー首相を、東京・港区の迎賓館に表敬訪問し、平和、青年、印中関係などについて語り合った。
 八七年(同六十二年)五月には、モスクワでの「核兵器――現代世界の脅威」展開幕式に出席し、「民衆の心は平和を熱望」とあいさつ。さらに、ソ連のニコライ・ルイシコフ首相と会談。次の訪問国フランスではジャック・シラク首相、アラン・ポエール上院議長とも意見交換した。
 翌年二月のアジア訪問では、タイのプーミポン国王、マレーシアのマハティール・モハマド首相、シンガポールのリー・クアンユー首相と会見した。
 また、八九年(平成元年)のヨーロッパ訪問では、イギリスのマーガレット・サッチャー首相、スウェーデンのイングバル・カールソン首相、フランスのフランソワ・ミッテラン大統領らと語らいの機会を得た。この訪問では、フランス学士院芸術アカデミーの招きを受け、学士院会議場で、「東西における芸術と精神性」と題して記念講演を行っている。
 さらに同年、オーストリアのフランツ・フラニツキ首相、コロンビアのビルヒリオ・バルコ大統領と会見。大統領との語らいでは、同国の「功労大十字勲章」が親授された。
 九〇年(同二年)五月の第七次訪中では、李鵬首相、中国共産党の江沢民総書記と胸襟を開いて対話を交わした。
 そして同年七月、第五次訪ソで、ミハイル・セルゲービッチ・ゴルバチョフ大統領とクレムリンで初の会談が行われたのである。
 伸一は、ユーモアを込めて語りかけた。
 「お会いできて嬉しいです。今日は大統領と“けんか”をしにきました。火花を散らしながら、なんでも率直に語り合いましょう。人類のため、日ソのために!」


誓願 二十九

 SGI会長の山本伸一の言葉に、ゴルバチョフ大統領もユーモアで返した。
 「会長のご活動は、よく存じ上げていますが、こんなに“情熱的”な方だとは知りませんでした。私も率直な対話が好きです。
 会長とは、昔からの友人同士のような気がします。以前から、よく知っている同士が、今日、やっと直接会って、初めての出会いを喜び合っている――そういう気持ちです」
 伸一は、大きく頷きながら応えた。
 「同感です。ただ大統領は世界が注目する指導者です。人類の平和を根本的に考えておられる信念の政治家であり、魅力と誠実、みずみずしい情熱と知性をあわせもったリーダーです。私は、民間人の立場です。そこで今日は、大統領のメッセージを待っている世界の人びとのため、また後世のために、私が“生徒”になって、いろいろお聞かせ願いたい」
 大統領は、あの“ゴルビー・スマイル”を浮かべて語った。
 「お客様への歓迎の言葉を申し上げる前に先を越されてしまいました。“生徒”なんてとんでもないことです。会長は、ヒューマニズムの価値観と理想を高く掲げて、人類に大きな貢献をしておられる。私は深い敬意をいだいております。会長の理念は、私にとって、大変に親密なものです。会長の哲学的側面に深い関心を寄せています。ペレストロイカ(改革)の『新思考』も、会長の哲学の樹の一つの枝のようなものです」
 伸一は、自分の思いを忌憚なく語った。
 「私もペレストロイカと新思考の支持者です。私の考えと多大な共通性があります。また、あるのが当然なんです。私も大統領も、ともに『人間』を見つめているからです。人間は人間です。共通なんです。私は哲人政治家の大統領に大きな期待を寄せています」
 伸一は、二十五年前、「人間性社会主義」の理念を提唱したことがあった。大統領は「人間の顔をした社会主義」をめざして改革の旗を掲げた。人間という普遍の原点に立つ時、すべては融合し、結合することが可能となる。


誓願 三十

 ゴルバチョフ大統領は、山本伸一の社会・平和行動について言及していった。
 「私は会長の知的・社会的活動、平和運動を高く評価していますが、その理由の一つは、あらゆる活動のなかに、必ず精神的な面が含まれているからです。私たちは今、『政治』のなかに、一歩一歩、道徳やモラルという精神的な面を盛り込んでいこうとしています。困難なことですが、それができれば、すばらしい成果をあげられると思っています。現在、人びとは、それを考えられないと思うかもしれないが、私は可能だと信じたい」
 二人は、「政治」と「文化」の同盟・統合の大切さでも、意見の一致をみた。さらに、日ソ関係、ペレストロイカの現状と意義、青年への期待など、幅広く意見交換した。
 大統領との会談にあたって、伸一には、一つの“宿題”があった。というのは、戦後四十五年がたとうとしているのに、ソ連の国家元首が日本を訪れたことはなく、ゴルバチョフ大統領の訪日が実現するか、注目されていたのである。しかし、この二日前に日本の国会代表団との会見が行われたが、大統領が、訪日に言及することはなかった。
 伸一は、大統領に、こう切り出した。
 「新婚旅行は、どこに行かれたのですか。日本には、どうして来られなかったのですか」
 そして、笑みを浮かべて言葉をついだ。
 「日本の女性は、大統領がライサ夫人とお二人で、隣国である日本へ、春の桜の咲くころか、秋の紅葉の美しい季節に、必ずおいでになっていただきたい、と願っています」
 「ありがとうございます。私のスケジュールに入れることにします」
 即答であった。伸一は重ねて要請した。
 「日本を愛し、アジアを愛し、世界平和を愛する一人の哲学者として、大統領の訪日を念願しています」
 大統領は、「絶対に実現させます」「幅広く対話をする用意があります」「できれば春に日本を訪れたい」と明言した。新しい時代の扉が、大きく開かれようとしていた。


誓願 三十一

 ゴルバチョフ大統領は、山本伸一との語らいのなかで、自分の率直な真情を口にした。
 「私は、どのようなテーマでも、取り上げたくないものはありません。すべて、言いたいことを言ってください。私もそうします。
 今まで日本の方とは、あまりにも紋切り型な対話が多かった。ともかく、お互いに協調の歩みを始めれば、問題は、そのなかで解決していくものです。偉大な国民が二つ集まって、いつまでも『前提条件』とか、『最後通告』などと言っているようではダメです」
 伸一は、大統領の対話主義の信念を見た思いがした。
 対話は、権威や立場といった衣を脱ぎ捨てて、率直に、自由に、あらゆる問題に踏み込んで、双方が主張をぶつけ合ってこそ、実りあるものとなる。また、初めに結論ありきという姿勢ではなく、柔軟に、粘り強く、何度でも語り合っていくなかから、新しい道が開かれていくのである。
 語らいは、約一時間十分に及んだ。
 伸一と大統領との会見は、即刻、世界に打電された。ソ連国内では、モスクワ放送や共産党機関紙「プラウダ」、政府機関紙「イズベスチヤ」などで大々的に報じられた。
 大統領が訪日を言明したことは、視界が開けなかった日ソ関係に、新しい交流の光が差したことを意味していた。
 日本では、その晩から、二人の会見と「ゴルバチョフ大統領訪日」のニュースが、NHKをはじめ、テレビ、ラジオで流れた。また、全国紙などがこぞって、一面で報じた。
 大統領は、会談翌年の一九九一年(平成三年)四月、約束通り、日本を訪問した。
 伸一は、東京・迎賓館に大統領を表敬訪問した。再会を喜び、対話が弾んだ。伸一は、大統領が安穏の日々をあえて振り捨てて、ソ連のため、人類のために、ペレストロイカという現実の“戦闘”に飛び込んだ勇気を心から賞讃した。二人は、日ソの「永遠の友好」を、共に強く願い、語り合った。未来を照らす、“友情の太陽”は赫々と昇ったのだ。


誓願 三十二

 「ビバ! マンデラ!」
 一九九〇年(平成二年)十月三十一日、東京・信濃町の聖教新聞社前は、五百人ほどの男女青年の歓呼の声に包まれた。この日、山本伸一は、青年たちと共に、南アフリカ共和国の人種差別撤廃運動の指導者である、アフリカ民族会議(ANC)のネルソン・マンデラ副議長を迎え、会談したのである。
 副議長は、投獄一万日、二十八年に及ぶ鉄窓での「差別との闘争」に勝利した、人権闘争の勇者である。この翌年には、ANCの議長となり、九四年(同六年)には、全人種が参加して行われた南ア初の選挙で、大統領に就任することになる。
 「“民衆の英雄”を満腔の敬意で歓迎いたします!」
 車を降りたマンデラ副議長に、伸一が語りかけると、彼は、穏やかな笑みで応えた。
 「お会いできて光栄です。日本に行ったら、ぜひ、名誉会長にお会いしなければならないと思っていました」
 語らいが始まった。
 伸一は、わざわざ足を運んでくれたことに感謝の意を表したあと、副議長の闘争を心から賞讃した。
 「正義は必ず勝つことを証明されました。世界に勇気を与えられました」
 マンデラは、獄舎にあって、囚われた人たちが、それぞれの専門知識や技術を教え合う学習の組織をつくった。また、あらゆる障害と戦い、政治囚の“学ぶ権利”を拡大していった。そうして、「ロボットのような群衆」をつくり出す、牢獄による「精神の破壊」と「知性の否定」を克服していったのである。
 伸一は、この獄中闘争に言及した。
 「貴殿が牢獄を“マンデラ大学”ともいうべき学習の場に変えた事実に、私は注目したい。どこにいても、そこに『教育』の輪を広げていく。人間としての向上を求めてやまない。その情熱に打たれるんです」
 向上への不屈の信念がある人には、すべてが学びの場となる。


誓願 三十三

 山本伸一がマンデラ副議長の功績を讃えると、副議長は応じた。
 「温かい歓迎に感謝します。名誉会長は、国際的に有名な方で、わが国でもよく知られています。人類の『永遠の価値』を創りながら、その価値で人びとを結ぶ団体のリーダーとしての役割は、世界的に重要です」
 そして、「名誉会長とSGIのことを聞いて以来、私は、ぜひ、お会いしたいと願っていました。日本に来た以上、お会いするまでは帰れません」と述べ、微笑みを浮かべた。
 それから、目を輝かせて言った。
 「名誉会長との会見は、『啓発』と『力』と『希望』の源泉と思っています」
 偉大なるリーダーは、対話を大切にし、そのすべてを、前進の糧としていく。
 伸一は、恐縮しながら、マンデラ副議長が出獄以来、世界を東奔西走して、反アパルトヘイト(人種差別撤廃)運動への支援を訴えていることを賞讃した。副議長は、アフリカや欧米等の約三十カ国を訪問し、各国首脳と会談。さらに、アジア、オセアニアを巡っているのである。
 伸一は、反アパルトヘイトの運動を、末永く支援する意味から、次々と提案した。
 「アフリカ民族会議からの、アフリカの未来を担う留学生を、創価大学が受け入れる」「南アフリカの芸術家などを招き、民音での日本公演を行いたい」「仮称『アパルトヘイトと人権』展という総合的な展示会を開催し、しかるべき国際機関とも連携し、海外での巡回も行う」「仮称『反アパルトヘイト写真展』を日本で開催する」「アパルトヘイトをはじめとする多様なテーマで、『人権講座』を日本各地で開催する」
 それは、教育・文化交流を通して、日本と南アフリカの友好を促進するとともに、人びとの意識を啓発し、日本に、世界に、人権擁護の波を大きく広げていくことが大切であるとの、強い思いからの提案であった。
 人びとの意識の改革がなされてこそ、「人権の世紀」は開かれる。


誓願 三十四

 山本伸一は、マンデラ副議長の行動は、広い意味での人間教育者の役割を担ってきたと述べ、その功労に対して、創価大学から最高栄誉賞を贈りたいと伝えた。そして、同席していた学長から同賞が副議長に手渡された。
 さらに、伸一は、南アフリカ共和国は「花の宝庫」と呼ばれ、喜望峰一帯では七千種を超える植物が育っていることに触れ、仏典の王・法華経には、「人華」という美しい言葉があることを紹介した。
 「人華」の語は、法華経の「薬草喩品」にあり、この品では、さまざまな衆生を多様な草木にたとえながら、仏の教えの慈雨は遍く降り注ぎ、平等に仏性を開花させることを説いている。
 この法華経に代表されるように、仏教は発祥以来、あらゆる差別と戦ってきた。カースト制度をはじめ、人種、民族、国籍、宗教、職業、階層、出自等々による一切の差別を否定している。それゆえに、既成の体制や権力から、無数の迫害を受けた。日蓮大聖人も自らを「旃陀羅が子」と言われ、差別される側である、社会の最底辺に身を置きながら、絶対平等の仏法思想の流布に戦われた。
 伸一は、こうした、いわば仏法の人権闘争の歴史と精神を踏まえ、SGIは、仏法を基調に、あらゆる人びとに開かれた「平和」「文化」「教育」の運動を推進するものであることを訴えた。さらに、未来を展望する時、国家発展の因は、「教育」であり、知性の人が増えることは、「より多くの人びとが社会の本質を見抜き、『善』と『悪』とを明確に判断できるようになる」と語った。
 また、人権闘争の英雄である副議長に、尊敬と賛嘆の思いを込めて一詩を捧げた。
 「私は もろ手をあげて称えたい
  その偉大なる精神の力を
  その不撓なる信念の力を
  そして
  満腔の敬意をもって呼びたい
  誇り高き『アフリカの良心』にして
  人道の道を行く我が魂の同志――と」


誓願 三十五

 マンデラ副議長に贈る詩を、通訳が朗読し終えると、山本伸一は立ち上がって、“人権の闘士”と固い握手を交わした。
 感動の面持ちで、伸一の手を握る副議長に、伸一は言った。
 「『同志』が、日本にもいることを忘れないでください。世界にもいます。後世に、もっと出てくるでしょう」
 そして、最も感銘を覚えた言葉として、副議長が獄舎から解放された直後(一九九〇年二月)の演説で、結びの部分で述べた言葉を読み上げた。それは、二十六年前の裁判で、マンデラ自身が語った言葉の引用であった。
 「『私は、白人支配と、ずっと戦ってきた。黒人支配ともずっと戦ってきた。私は、すべての人びとが、ともに仲良く、平等な機会をもって、ともに暮らすことのできる民主的で自由な社会という理想を心にいだいてきた。それは、私がそのために生き、実現させたいと願っている理想である。しかし、もし必要ならば、その理想のために、命を捧げる覚悟である』(注)
 この言葉には、貴殿の魂が凝縮しています。私も『平和の闘士』『人権の闘士』『正義の闘士』の道を歩いているつもりです。ゆえに、この言葉が、深く私の胸に共鳴してやまないのです」
 副議長は語った。
 「私たちが、今日、ここで得た最大の“収穫”は、名誉会長の英知の言葉です。
 勲章は、いつか壊れてしまうかもしれない。賞状も、いつかは焼けてしまうかもしれない。しかし、英知の言葉は不変です。その意味で私たちは、勲章や賞状以上の贈り物をいただきました。
 名誉会長のお話をうかがい、私たちは、この場所を訪れた時よりも、より良き人間になって、ここを去っていくことができます。名誉会長のことを、私は決して忘れません」
 「私の方こそ、今、言われた以上に、深く感謝しております」
 真実の対話は、互いに啓発を与え合う。

■引用文献
 注 『NELSON MANDELA Conversations with Myself』Farrar, Straus and Giroux


誓願 三十六

 マンデラ副議長と山本伸一の語らいは弾み、予定された五十分の会見時間は、瞬く間に過ぎた。会談を終え、共に歩みを運びながら、伸一は言った。
 「偉大な指導者には迫害はつきものです。これは歴史の常です。迫害を乗り切り、戦い勝ってこそ偉大なんです。これからも陰険な迫害は続くでしょう。しかし、真実の正義は、百年後、二百年後には必ず証明されるものです。お体を大切に!」
 それは、伸一自身が、自らに言い聞かせる言葉でもあった。人間として、人間のために戦う二人の魂は、熱く響き合ったのである。
 伸一の平和をめざしての人間外交は、その後も、ますます精力的に続けられた。それは、魂と魂の真剣勝負の触発であった。
    
 彼は、マンデラ副議長と会談した翌月の一九九〇年(平成二年)十一月には、ナイジェリアの元国家元首のヤクブ・ゴウォン博士、ザンビアのケネス・カウンダ大統領らと相次ぎ会見した。
 さらに、同月には、ブルガリアのジェリュ・ジェレフ大統領、トルコのトルグト・オザル大統領らと、また翌年には、フィリピンのコラソン・アキノ大統領、統一ドイツのリヒャルト・フォン・ワイツゼッカー初代大統領、イギリスのジョン・メージャー首相らと対話を重ねていった。
 人と人とが語り合い、平和への思いを紡ぎ出し、心を結び合っていく――まさに、対話は、内発的で漸進主義的な、問題解決への道である。また、対話は、最後まで貫徹されてこそ対話といえる。ゆえに、それには、忍耐力と強靱な精神の力が求められる。
 一方、「問答無用」といった急進主義的な姿勢は、弱さゆえの居直りであり、人間性の敗北宣言にほかならない。その帰結は、暴力など、外圧的な力への依存へと傾斜していくことになる。
 対話による人間同士の魂の結合こそ、平和のネットワーク創造の力となる。


誓願 三十七

 山本伸一が会談したのは、各国の大統領や首相などの指導者にとどまらず、学術・芸術・教育関係者など多岐にわたり、しかも、ヨーロッパ、アジア、オセアニア、北・中・南米、アフリカと全世界に及んでいる。
 一九九〇年(平成二年)の十二月から、翌年前半にかけて語り合った主な識者だけでも次の方々がいる。
 オスロ国際平和研究所のスベレ・ルードガルド所長、カナダ・モントリオール大学のルネ・シマー副学長、米・ハーバード大学のジョン・モンゴメリー名誉教授、ユネスコのフェデリコ・マヨール事務局長、フィリピン大学のホセ・アブエバ総長、香港中文大学の高学長、アルゼンチン・パレルモ大学のリカルド・ポポスキー学長らである。
 また、世界の指導者、識者と心を結び合っていくために、伸一が友好の対話とともに力を注いだのが、自らの真情や賞讃の思いを詩に詠んで贈ることであった。
 中国では、中国仏教協会の趙樸初会長、故・周恩来の夫人である中国人民政治協商会議の穎超主席、北京大学の丁石孫学長。ソ連では、モスクワ大学の故ホフロフ総長、対文連のテレシコワ議長、そしてゴルバチョフ大統領などである。さらに、インドのラジブ・ガンジー首相、アメリカの元国務長官キッシンジャー博士、アルゼンチンのアルフォンシン大統領、ペルー・サンマルコス大学のファン・デ・ディオス・ゲバラ元総長、イギリスのサッチャー前首相らにも詩を贈ってきた。
 人間の心の奥深く、目には見えない黄金の琴線がある。詩の言葉は、その見えざる琴線に働きかけ、共鳴音を奏でる。やがて、それは、友情と平和の高らかな調べとなる。
 「真に理想を抱く人には理想が味方しよう
  真に正義を貫く人には正義が味方しよう
  真に民衆を守る人には民衆が味方しよう」
 これは、凶弾に倒れた夫の遺志を継ぎ、フィリピンの民衆のために立った、コラソン・アキノ大統領に贈った詩「燦たれ! フィリピンの母の冠」の一節である。


誓願 三十八

 山本伸一は、広宣流布に駆ける全世界の尊き同志を励まし、活動の指針、人生の指針を示すためにも、詩を贈り続けた。
 一九八一年(昭和五十六年)のヨーロッパ、北米訪問の折に、フランス青年部、アメリカ青年部に、また、大分・熊本等の指導では全青年部に「青年よ 二十一世紀の広布の山を登れ」を贈ったが、彼は、ますます力をこめて、長編詩の作詩を重ねた。
 たとえば、八七年(同六十二年)だけを見ても、「世紀の太陽よ昇れ」(アメリカ)、「パナマの国の花」(パナマ)、「悠遠なるアマゾンの流れ」(ブラジル)、「カリブの偉大な太陽」(ドミニカ共和国)、「文化の花 生命の城」(フランス)、「新たなるルネサンスの鐘」(イタリア)、「七つの海へ 人間の世紀へ」(イギリス)、「ライン河に響く平和の交響曲」(ドイツ)、「ナイアガラにかかる虹」(カナダ)が作られている。
 また、この年は、日本の同志に対しても、「幸の風 中部の空」(中部)、「青き天地 四国讃歌」(四国)の詩を贈り、翌年には「平和のドーム 凱旋の歌声」(広島)をはじめ、北陸、沖縄、東北と続き、さらに、全方面、県・区へと広がっていくのである。
 カナダの同志への詩には次のようにある。
 「『法自ら弘まらず
  人・法を弘むる故に
  人法ともに尊し』と
  君たちよ あなたたちよ
  なればこそ
  徹して 人格を磨きゆけ
  信心は 即生活
  信心は 即人格
  信心強き人とは
  すべての人を包み慈しみゆく
  円融にして円満なる人格の人と知ろう
  その輝きありてこそ
  法の輪は幾重にも広がりゆく」
 伸一は、詩を通して、人間の道を、信仰のあるべき姿を、進むべき目標を示し、希望を、勇気を発信し続けていったのである。


誓願 三十九

 山本伸一は、第三代会長辞任から十余年、世界平和の道が開かれることを願い、広宣流布の大潮流をつくらんと、走りに走り、語りに語ってきた。
 そのなかで世界は、一つの大きな転機を迎えようとしていた。東西冷戦の終結である。
 世界を二分することになる、東西両陣営の対立の端緒は、第二次世界大戦末期の一九四五年(昭和二十年)二月、クリミア半島南部のヤルタで行われたヤルタ会談にある。ここで、連合国であるアメリカのルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン首相が、戦後処理、国際連合の創設、ソ連の対日参戦などについて話し合い、協定を結んだのである。
 これによって、戦後の国際秩序の枠組みがつくられ、ヨーロッパは、アメリカを支持する資本主義の西側陣営と、ソ連を支持する社会主義の東側陣営に分かれていった。そして、ソ連は世界の社会主義国化を進めようとし、一方のアメリカは世界の国々を自国の影響下に置こうと、戦後、両者の核軍拡競争が続いていったのである。
 核を保有する両国の、直接の戦争はないことから、「冷戦」と呼ばれたが、そこには、常に「熱戦」になりかねない危険性があった。
 両陣営の対立は激化し、一九六一年(昭和三十六年)には、東西に分割されていたドイツのベルリンに壁がつくられ、市民の自由な行き来が禁じられた。
 また、六二年(同三十七年)のキューバ危機は、米ソの全面核戦争に発展しかねない、一触即発の状況にあることを痛感させた。
 さらに、東西の対立は、ベトナム戦争のように、アジアをはじめ、世界に広がり、悲惨な戦争をもたらしていったのである。
 しかも、同じ社会主義陣営のなかで、ソ連と中国の間に紛争が起こり、対立は、複雑な様相を呈していった。
 分断は分断を促進させる。ゆえに、人間という普遍的な共通項に立ち返ろうとする、統合の哲学の確立が求められるのである。


誓願 四十

 世界は激動している。動かぬ時代もなければ、変わらぬ社会もない。氷結したように見える事態にも、雪解けの時は来る。
 山本伸一は、人類の歴史は、必ずや平和の方向へ、融合の流れへと向かっていくことを強く確信していた。いや、“断じて、そうさせていかねばならない”というのが、彼の決意であった。
 やがて、米ソの間にも、緊張緩和への流れが生じ始めた。一九六九年(昭和四十四年)には、両国の間でSALT(戦略兵器制限交渉)が始まった。そして、七〇年代には、米ソはSALTI、SALTIIの調印にまでこぎ着けたのである。SALTIIは、発効されることはなかったが、互いに敵視し合ってきた両国にとっても、世界にとっても、歴史的な出来事であった。
 そのなかで伸一が、憂慮してきたのが、中ソ紛争であった。それは、日本にとっては隣国同士の争いであり、アジアの平和にとっても、重大要件であった。
 六八年(同四十三年)九月に学生部総会で伸一が、日中国交正常化や中国の国連参加など、中国問題についての提言を行ったのも、万代への日中の友好促進はもとより、世界平和のために、中国を孤立化させてはならないとの信念からであった。
 また彼は、民間人の立場から、中ソ首脳に和睦の道を歩むよう、直接、訴えていった。
 提言から六年後の七四年(同四十九年)五月から六月には、初訪中し、李先念副総理らと会見。九月にはソ連を初訪問し、コスイギン首相と会見した。首相からは、「ソ連は中国を攻撃するつもりはありません」との明確な回答を引き出した。そして、十二月の第二次訪中では、このソ連の考えを中国側に伝え、周恩来総理と会見したのである。
 すべては、平和のため、民衆のために、両国の対立を解決できないものかという、切実な思いからであった。
 あきらめてしまえば事態は何も開けない。平和とは、あきらめの心との闘争である。


誓願 四十一

 戦争を行うのは人間である。ならば、人間の力でなくせぬ戦争はない――山本伸一は、そう強く確信し、第二次訪中を果たした。周恩来総理は、彼との会見を強く希望し、入院中であるにもかかわらず、医師の制止を振り切って、迎えてくれた。
 伸一は、中ソの和平を願う自分の心は、周総理の胸に、確かに届いたと感じた。
 「世界の流れは人民の友好促進」(注)というのが、総理の信念であった。
 一九七〇年代、時代は緊張緩和への様相を見せ始めたが、七九年(昭和五十四年)、親ソ政権支援のためにソ連軍がアフガニスタンに侵攻すると、西側諸国は激しく反発した。八〇年(同五十五年)のモスクワ・オリンピックを西側の多くの国々がボイコットした。
 その報復として東側諸国は、八三年(同五十八年)のアメリカによるグレナダ侵攻を理由に、八四年(同五十九年)のロサンゼルス・オリンピックをボイコットした。時代の流れは逆戻りし、「新冷戦」と呼ばれる状況になっていったのである。
 伸一は、東西対立を乗り越えるために、米ソ首脳らと対話を重ね、「スイスなど、よき地を選んで米ソ首脳らが会談を」など、具体的な提案を行ってきた。
 この冷戦にピリオドを打つ、大きな役割を担ったのが、ソ連のゴルバチョフであった。八五年(同六十年)、党書記長に就任した彼は、グラスノスチ(情報公開)とペレストロイカを推進し、社会主義体制から自由化へと大きく舵を切った。
 さらに、「新思考」を掲げ、西側諸国との関係改善に努め、軍縮を提案、推進していった。そして八五年十一月、六年半の長きにわたった閉塞の扉は開かれ、ジュネーブで米ソ首脳会談が再開されたのである。伸一は、このニュースに、時が来たことを感じた。かねてからの念願が、はからずも実現したのだ。
 お互いが真剣に平和をめざすならば、あらゆる見解の違いを超えて合意は可能となる。大海に注ぐ川が一つに溶け合うように――。

■引用文献
 注 『周恩来選集』森下修一編訳、中国書店


誓願 四十二

 ゴルバチョフは、膠着した状況にあったアフガニスタンからの撤兵を決断した。
 一九八七年(昭和六十二年)十二月、米ソ間で、軍事史上画期的なINF(中距離核戦力)の全廃条約が調印された。
 また、ソ連の改革は東欧の国々にも及び、自由と民主の潮流は一気に広がり、ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキアなどで共産党政権が倒れていった。東欧革命である。
 改革の遅れていた東ドイツでは、国民の西側への脱出が続いたが、八九年(平成元年)十一月九日(現地時間)、即日、自由出国を認めるとの発表があった。これは、翌十日から出国ビザの申請を認めるという内容を、広報担当者が間違えてしまったのだ。
 検問所に市民が殺到した。やむなく検問所が開けられ、人びとは西ベルリンになだれ込んだ。さらに、ベルリンの壁が打ち壊されていったのである。自由と民主への流れは、歴史の必然であったといってよい。
 この八九年の十二月初め、地中海のマルタで、アメリカのブッシュ大統領とソ連のゴルバチョフ共産党書記長(最高会議議長)による米ソ首脳会談が行われた。
 そして、両国の首脳が初めて共同記者会見を行い、東西冷戦が終わり、新しい時代が到来したことを宣言したのである。
 十二月二十二日、分断の象徴であった、ベルリンのブランデンブルク門が開放された。
 山本伸一は、テレビから流れるニュースを見て、六一年(昭和三十六年)十月、ベルリンを訪問し、雨上がりの門の前で、同行のメンバーに語った言葉が思い出された。
 「三十年後には、きっと、このベルリンの壁は取り払われているだろう……」
 それは、平和を希求する人間の、「良心」と「英知」と「勇気」の勝利に対する確信であった。また、仏法者として世界の平和実現に一身を捧げようと決めた、彼の決意の表明でもあった。以来、二十八年――今、遂に、それが現実となったのだ。時代は、大きな一歩を踏み出したのである。


誓願 四十三

 軍縮への流れをつくり、ソ連国内の経済再建、民主化への政治改革を打ち出したゴルバチョフは、一党独裁から複数政党制の容認、大統領制の新設など憲法改正を行い、一九九〇年(平成二年)三月、ソ連の初代大統領に就任した。同年、その平和への偉大な貢献に対し、ノーベル平和賞が贈られた。
 ゴルバチョフは、自身が推進するペレストロイカという人類史的実験がもたらす、試練と混乱をも予測していた。
 彼は、山本伸一との最初の会見の席で、こう語っている。
 「わが国の社会は、特殊な歴史を経てきているのです。言語も約百二十もあり、民族となると、それ以上あります。大変に複雑な社会です。ペレストロイカの第一は『自由』を与えたことです。しかし、その自由をどう使うかは、これからの課題です」
 長い間、闇の中にいた人が、突然、外に出れば、太陽に目がくらむように、「自由」や「民主主義」が根差していない風土に、急に、それがもたらされていけば、人びとが戸惑うことは、当然であった。社会的にも、それぞれの勢力が、それぞれの主張をし始めるにちがいない。
 ゴルバチョフの、この憂慮は的中した。民族問題は各地で火を噴き、経済停滞の濃霧が行く手を塞いだ。特権の座にしがみつく官僚たちは、彼の排斥を企て、時流に乗る急進の改革者たちも、彼に非難を浴びせた。
 そのなかで、ソ連邦内に分離独立の動きが起こり、バルト三国などが、次々と独立へと走り始めた。時代は、彼の予想を超えて、激しく、奔馬のごとく揺れ動いた。
 九一年(同三年)六月、ソ連邦のロシア共和国では、選挙で急進改革派のエリツィンが大統領に就任した。
 一方、八月には、改革に反対していた保守派が軍事クーデターを起こし、ゴルバチョフは滞在先のクリミアで軟禁状態に置かれた。
 伸一は、激動する歴史の大波のなかでゴルバチョフの無事解放を祈った。


誓願 四十四

 保守派指導者によるクーデターは、ロシア大統領のエリツィンが打倒を呼びかけ、民主化を求める民衆がこれに続き、鎮圧された。
 解放されたゴルバチョフが、モスクワに戻ると、既に実権はエリツィンに移り、その流れは、加速していった。
 一九九一年(平成三年)八月、ゴルバチョフは共産党書記長を辞任し、党解散に踏み切る。九月には、バルト三国の独立をソ連国家評議会が承認。十二月、ロシアのエリツィンの主導で、ウクライナ、ベラルーシの三共和国が、ソ連邦に代わる独立国家共同体の創設を宣言する。この創設の協定には、十一の共和国が調印し、ソ連邦消滅が決まり、ゴルバチョフはソ連大統領を辞任する。
 ロシア革命から七十四年、東側陣営を率いてきたソ連は、歴史の大激流にのみ込まれるようにして幕を閉じた。
 ソ連の最初にして最後の大統領となったゴルバチョフは、激しい批判にさらされたが、彼の決断と行動は、ソ連、東欧に、自由と民主の新風を送り、人類史の転換点をつくった。
 ゴルバチョフの親友で、彼のペレストロイカを支援した著名な作家のチンギス・アイトマートフは、ゴルバチョフの大統領辞任直後、山本伸一に一文を送った。「ゴルバチョフに語られた寓話」と題するもので、ペレストロイカに対する、ゴルバチョフの信念を伝えるエピソードを綴ったものであった。
 アイトマートフは、ペレストロイカが実行に移され、未曾有の民主的改革として脚光を浴びていた時、ゴルバチョフに呼ばれ、クレムリンの執務室に出向いた。そこで、こんな寓話を語ったという。
 ――ある時、偉大な為政者のもとに、一人の予言者が訪れ、「民の幸福を願い、完全な自由と平等を与えようとしているというのは、本当なのか」と尋ねる。その通りであると述べる為政者に、予言者は告げる。
 「あなたには二つの道、二つの運命、二つの可能性があります。どちらを選ぶかは、あなたの自由です」


誓願 四十五

 予言者の語った二つの道の一つ目は、「圧政によって王座を固めること」であった。そうすれば、王権の継承者として、強大無比な権力が与えられ、その恩恵に安住できる。
 そして、二つ目は、民に自由を与えることであり、それは「受難の厳しい道」である。
 なぜか――予言者は、そのわけを語る。
 「あなたが贈った『自由』は、それを受け取った者たちのどす黒い、恩知らずの心となって、あなたに返ってくるからです」
 「自由を得た人間は隷属から脱却するや、過去に対する復讐をあなたに向けるでしょう。群衆を前にあなたを非難し、嘲笑の声もかまびすしく、あなたと、あなたの近しい人びとを愚弄することでしょう。
 忠実な同志だった多くの者が公然と暴言を吐き、あなたの命令に反抗することでしょう。人生の最後の日まで、あなたをこき下ろし、その名を踏みにじろうとする、周囲の野望から逃れることはできないでしょう。
 偉大な君主よ、どちらの運命を選ぶかは、あなたの自由です」
 為政者は、熟慮し、七日後に結論を出すので、待っていてほしいと告げる――。
 アイトマートフが寓話を話し終え、帰ろうとすると、ゴルバチョフは口を開いた。
 「七日間も待つ必要はありません。七分でも長すぎるくらいです。私は、もう選択してしまったのです。私は、ひとたび決めた道から外れることはありません。ただ民主主義を、ただ自由を、そして、恐ろしい過去やあらゆる独裁からの脱却を――私がめざしているのは、ただただこれだけです。国民が私をどう評価するかは国民の自由です……。
 今いる人びとの多くが理解しなくとも、私はこの道を行く覚悟です……」
 アイトマートフが山本伸一に送った、この書簡には、ペレストロイカを推進するゴルバチョフの、並々ならぬ決意があふれていた。
 保身、名聞名利を欲する人間に、本当の改革はできない。広宣流布という偉業もまた、「覚悟の人」の手によってこそ成し遂げられる。


誓願 四十六

 ソ連の崩壊にともない、エリツィン率いるロシア共和国は、ロシア連邦となり、旧ソ連の国際的な諸権利等を継承するが、財政危機など、前途は多難であった。
 また、東側陣営であった国々は自由を手に入れたが、ユーゴスラビアをはじめ、アゼルバイジャン、アルメニア、チェチェンなどで、民族・地域紛争が起こっていった。テロも激しさを増した。
 さらに、世界のあちこちで民族、宗教、経済などをめぐって対立の溝は深まり、冷戦後は、局地的戦乱が広がりを見せていった。
 平和への道は、険路である。だからこそ、断じて、その歩みをとどめてはならない。
 山本伸一は、毎年の1・26「SGIの日」に発表する提言において、冷戦終結後の新しい世界秩序の構築へ、国連が中心となって平和的なシステム、ルールをつくり上げていくべきであることなどを、訴えていった。
 とともに、新しき時代の地平を開くには、平和と民主と自由を希求してきた人びとの心を覆う、絶望を、シニシズム(冷笑主義)を、不信を拭い去らねばならない。
 そのためには、開かれた心の対話の回路を、あらゆる次元でめぐらせていくことが必要となる。それは、時代の病理の対症療法ではなく、根本療法の次元の労作業といってよい。
 伸一は、ゴルバチョフが大統領を辞任したあとも、幾度となく会談を重ねていった。
 一九九三年(平成五年)四月にゴルバチョフ夫妻が来日した折、元大統領に創価大学から名誉博士の称号が、また、共に世界を駆けるライサ夫人には、創価女子短期大学から最高栄誉賞が贈られた。元大統領は、この日、大学の講堂で記念講演を行っている。
 そして、九六年(同八年)には、ゴルバチョフと伸一の語らいをまとめた『二十世紀の精神の教訓』が発刊されたのである。
 さらにゴルバチョフ夫妻は、九七年(同九年)十一月、関西創価学園にも訪れている。
 友情は、永続性のなかで、より深く根を張り、より美しく開花する。


誓願 四十七

 山本伸一が、正信会僧らの理不尽な学会攻撃に対して、本格的な反転攻勢に踏みきり、勇躍、創価の同志が前進を開始すると、広宣流布の水かさは次第に増し、月々年々に、滔々たる大河の勢いを取り戻していった。
 しかし、広布の征路は険しく、さまざまな試練や、障害を越えて進まねばならない。
 伸一自身、個人的にも幾多の試練に遭遇した。一九八四年(昭和五十九年)十月三日には、次男の久弘が病のために急逝した。享年二十九歳である。彼は、創価大学法学部の修士課程を修了し、「次代のために創価教育の城を守りたい」と、母校の職員となった。
 九月の二十三日には、創価大学で行事の準備にあたっていたが、その後、胃の不調を訴えて入院した。亡くなる前日も、「創大祭」について、病院から電話で、関係者と打ち合わせをしていたようだ。
 久弘は、よく友人たちに、「創価大学を歴史に残る世界的な大学にしたい。それには、命がけで闘う本気の人が出なければならないと思う。ぼくは、その一人になる」と語っていたという。
 伸一は、関西の地にあって、第五回SGI総会に出席するなど、連日、メンバーの激励に奔走していた。
 訃報が入ったのは、十月三日夜であった。関西文化会館で追善の唱題をした。思えば、あまりにも若い死であった。しかし、精いっぱい、使命を果たし抜いての、決意通りの生涯であったと確信することができた。
 伸一は、久弘の死は、必ず、深い、何かの意味があると思った。
 広宣流布の途上に、さまざまなことがあるのは当然の理である。しかし、何があっても恐れず、惑わず、信心の眼で一切の事態を深く見つめ、乗り越えていくのが本物の信心である。広布の道は、長い長い、一歩も引くことのできぬ闘争の連続である。これを覚悟して「難来るを以て安楽と意得可きなり」(御書七五〇ページ)との原理を体得していくのが、大聖人の事の法門であり、学会精神である。


誓願 四十八

 山本伸一もまた、一九八五年(昭和六十年)十月には、体調を崩し、精密検査のために大学病院に入院しなければならなかった。
 青春時代に胸を患い、医師からは三十歳まで生きられないだろうと言われてきた体であったが、全力疾走の日々を送ってきた。会長辞任後も、世界を回り、以前にも増して多忙を極めた。さらに、会長の秋月英介が、一時期、体調を壊したこともあり、皆を支えるために、伸一は一段と力を注いできた。
 彼は、この時、師の戸田城聖が亡くなった五十八歳に、間もなくなろうとしていることを思った。また、自分のあとに会長となった十条潔も、五十八歳で他界したことを振り返りながら、決意を新たにした。
 “私には、恩師から託された、世界広布の使命がある。そのためには、断じて倒れるわけにはいかない。師の分までも、生きて生きて生き抜いて、世界広宣流布の永遠の基盤をつくらねばならない!”
 伸一は、健康管理に留意することの大切さを改めて感じながら、新しき広布の未来を展望するのであった。
 人生は、宿命との容赦なき闘争といえる。
 愛する人を失うこともあれば、自らが病に倒れることもある。あるいは、家庭の不和、子どもの非行、失業、倒産、生活苦……。これでもか、これでもかというほど、怒濤のごとく、苦難は襲いかかってくる。だからこそ、信心なのだ。自らを強くするのだ。信心で乗り越えられぬ宿命など、断じてない。
 苦難に負けず、労苦を重ねた分だけ、心は鍛えられ、強く、深くなり、どんな試練をも乗り越えていける力が培われていく。さらに、人の苦しみ、悲しみがわかり、悩める人と共感、同苦し、心から励ましていくことができる、大きな境涯の自分になれる。
 また、苦難に挫けることなく、敢然と戦い進む、その生き方自体が、仏法の偉大なる力の証明となっていく。つまり、広宣流布に生き抜く時、宿命は、そのまま自身の尊き使命となり、苦悩は心の財宝となるのだ。


誓願 四十九

 山本伸一は、世界広布へ全力で突き進んでいった。時は待ってはくれない。
 日本国内では、学会への恐喝及び同未遂事件で逮捕された、山脇友政の裁判も続いていた。伸一は一九八二年(昭和五十七年)十月にも、その翌年にも、検察側証人として出廷していた。東京地裁での第一審判決は、八五年(同六十年)三月であった。
 判決は「被告人を懲役三年に処する」というものであった。当然、実刑である。「量刑の事由」では、「被害金額が大きいのみならず、弁護士の守秘義務に背き、背信性がきわめて強い犯罪であるといわなければならない」としていた。さらに、「活動家僧侶と結んでその学会攻撃を支援し、かつ週刊誌等による学会批判を煽るような行動に出ながら」、他方において、僧俗和合を願う学会を脅迫するという、山脇の卑劣で悪質な手口も明らかにした。
 しかも、裁判においても、さまざまな虚偽の工作を行ってきたことを指摘。「被告人は、捜査段階から本件事実を否定するのみならず、公判では幾多の虚構の弁解を作出し、虚偽の、証拠を提出するなど、全く反省の態度が見られない」「本件は犯情が悪く、被告人の罪責は重大」と断罪した。
 また、判決文では、「被告人の供述は、信用できない」といった表現が随所に見られた。法廷で虚言を重ねてきたことも明白になったのである。
 山脇は、「懲役三年」という東京地裁の判決に対して、直ちに控訴する。しかし、東京高裁においても、判決が覆ることはなかった。
 これを不服として上告するが、九一年(平成三年)一月、最高裁は棄却し、「懲役三年」の刑が確定するのである。
 八〇年(昭和五十五年)六月に、学会が警視庁に告訴し、八一年(同五十六年)一月、山脇は逮捕。それから十年がたっていた。
 広布の行く手に立ちはだかる、いかなる謀略も、学会の前進を阻むことはできない。御聖訓には、「悪は多けれども一善にかつ事なし」(御書一四六三ページ)と。


誓願 五十

 山本伸一は、日蓮大聖人の仏法の法理を根幹に、世界に平和の大潮流を起こそうと、あらゆる障害を乗り越えながら、渾身の力を尽くしてきた。
 また、広宣流布のために僧俗和合への最大の努力を払い、宗門の外護に全面的に取り組んでいった。
 宗門では、一九八一年(昭和五十六年)に日蓮大聖人第七百遠忌を終え、九〇年(平成二年)秋に挙行される大石寺開創七百年の式典を、いかに荘厳なものにし、大成功させるかが大きな課題となっていた。
 八四年(昭和五十九年)一月初め、伸一は再び、法華講総講頭に任命された。日顕の強い要請を受けての就任であった。
 三月、開創七百年記念慶祝準備会議の席上、伸一は、十年後を目標に、寺院二百カ寺の建立寄進を発表した。
 「『大願とは法華弘通なり』(御書七三六ページ)との御聖訓のままに、令法久住と広宣流布を願って、新寺院建立の発願を謹んでさせていただくものであります」
 その寄進は、僧俗和合を願う学会の、赤誠の発露であった。
 翌八五年(同六十年)十月、伸一は、日顕から、開創七百年記念慶讃委員会の委員長の辞令を受けた。彼は、最大の盛儀にしようと、全精魂を傾けて準備にあたっていった。
 二百カ寺についても、学会は万難を排して建立寄進を進め、やがて九〇年(平成二年)十二月には、百十一カ寺を数えることになる。
 伸一の念願は、僧たちが、日々、広宣流布のために戦う同志を、心から大切にしてほしいということであった。
 御聖訓には、「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」(同一三六〇ページ)とある。日蓮大聖人の仰せ通りに、苦労し抜いて弘教に励む同志は、地涌の菩薩であり、仏子である。弘教の人を、「当に起ちて遠く迎えて当に仏を敬うが如くすべし」(同一三八三ページ)というのが、大聖人の御精神である。仏子を讃え、守り、励ましてこそ、広布はある。


誓願 五十一

 一九九〇年(平成二年)夏、総本山では、学会の青年たちが、九月二日に行われる大石寺開創七百年慶祝記念文化祭の準備に、連日、汗を流していた。この文化祭は、開創七百年の記念行事の幕開けとなるもので、十月には、慶讃大法要の初会、本会が営まれる。
 九月二日夕刻、慶祝記念文化祭が、「天座に輝け 幸の光彩」をテーマに掲げ、総本山・大客殿前の広場で盛大に開催された。
 宗門からは、日顕をはじめ、総監などの役僧、多数の僧らが、学会からは、名誉会長である山本伸一、会長の秋月英介、理事長の森川一正のほか、副会長らが出席した。
 文化祭では、芸術部、男女青年部による、邦楽演奏や優雅な寿ぎの舞、バレエなど、熱演が繰り広げられた。
 また、色とりどりの民族衣装に身を包んだ、世界六十七カ国・地域のメンバーが誇らかにパレードすると、会場からは大拍手が鳴りやまなかった。
 世界広布への誓いを胸に、満面の笑みで手を振る、メンバーの清らかな思いに応えようと、伸一も力いっぱい拍手を送った。
 隣には、日顕も、笑みを浮かべて演技を観賞していた。
 この年の十二月――宗門による、伸一と会員とを分離させ、学会を破壊しようとする陰謀が実行されることになるとは、誰も想像さえしなかった。
 慶祝記念文化祭を終えた伸一には、第五回日中民間人会議に出席するために来日した中国代表団との交歓会、第十二回SGI総会のほか、ブラジルのサンパウロ美術館の館長や国連事務次長、インドの文化団体ICDO(国際文化開発協会)の創立者らとの会談などが、連日、控えていた。
 日蓮大聖人は「日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり」(御書五八九ページ)と、世界広宣流布即世界平和を展望されている。その実現の流れを開くために、伸一は懸命に奮闘を重ねていた。彼にとっては、毎日が、平和建設への大切な歩みであった。


誓願 五十二

 山本伸一は、九月二十一日、初めて韓国を訪問した。ソウル市の中央日報社ビルの湖巌ギャラリーで開催される、東京富士美術館所蔵「西洋絵画名品展」韓国展の開幕式に、同美術館の創立者として出席するためである。
 伸一は、韓国は「日本の文化の大恩人」であり、東京富士美術館所蔵の西洋絵画を同国で初公開することによって、せめてもの「恩返しの一分」になればと考えていた。
 また、「人類の宝」を共有し合う文化の交流は、奥深い魂の共鳴を奏で、日韓友好を促進する道であるとの信念があった。さらに、それは、仏法の人間主義を基調に、平和・文化・教育の交流を推進している創価学会への理解となり、メンバーへの励ましになるにちがいないと確信していた。
 二十二日、韓国を発った伸一は、福岡、佐賀、熊本、鹿児島と回り、十月二日に東京へ戻った。
 そして、六、七の両日は、大石寺開創七百年慶讃大法要・初会に臨んだ。学会は、この時までに、正本堂の補修整備や、総一坊、総二坊の新築寄進などもしてきた。
 初会第二日の七日には、伸一が発願主となって寄進した大客殿天蓋の点灯式も行われた。八葉蓮華をデザインした大天蓋は、直径五・四メートル、高さ三・四五メートルで、伸一が点灯ボタンを押すと、透かし彫りの幢幡やカットグラスなどが金色の輝きを放った。
 この日、慶讃委員長として祝辞を述べた伸一は、胸中の厳たる思いを披瀝した。
 「宗祖大聖人は、開創の大檀越・南条時光殿に、『大難をもちてこそ・法華経しりたる人』(御書一五三八ページ)――大難にあってこそ法華経を知った人といえる――と仰せであります。いかなる難をも、正法弘通のためには決して恐れない。いな、大難こそ無上の誉れとしていく。この御聖訓の通りの金剛信を、私どもは、一生涯、深く持っていく決意でございます」
 まさに、その大難が競い起ころうとしていたのである。


誓願 五十三

 日顕は、大石寺開創七百年慶讃大法要で、初会第一日の説法でも、第二日の慶讃文でも、創価学会の功績を讃えた。なかでも、説法では、「特に、近年、信徒団体創価学会の興出により、正法正義は日本ないし世界に弘まり」と絶讃したのである。
 山本伸一は、初会が終わると、その足で愛知指導に赴き、そして、十二、十三日と再び総本山での慶讃大法要・本会に出席した。
 本会第二日には、日顕から伸一に、開創七百年の慶讃委員長として記念事業の推進にあたり、外護の任を尽くした功績は誠に顕著であるとして、感謝状並びに記念品の目録が贈られている。
 日顕らの学会破壊の謀略が実行に移されたのは、それから間もなくのことであった。
 慶讃大法要を終えた伸一は、各国の識者との語らいに余念がなかった。トルコ・アンカラ大学のネジデット・セリーン総長夫妻、平和学者のヨハン・ガルトゥング博士や、ニューヨークの国際写真センターのコーネル・キャパ理事長夫妻、ヨーロッパ最古の大学であるイタリア・ボローニャ大学のファビオ・ロベルシ・モナコ総長らとの会見が続いた。
 東西冷戦が終結の時を迎えた今こそ、二十一世紀へ向かい、新しい平和の橋を架けようと、真剣勝負の日々であった。
 十二月十三日、伸一は、ノルウェーのオスロ国際平和研究所のスベレ・ルードガルド所長と聖教新聞社で会談した。
 語らいでは、所長が提案している「環境安全保障」が大きなテーマとなった。これは、環境問題と軍縮問題をセットにした安全保障の構想である。
 伸一は、仏法の「依正不二」の原理などを紹介し、環境破壊や飢饉、疫病、戦争という社会の混乱は、人間の善性を毒する「生命の濁り」に根本原因があると指摘。「生命自体を変革し、浄化していくなかに、平和への確かな道があり、仏法を基調にした、その“人間革命”の実践が、SGIの平和・教育・文化運動の根幹になっています」と訴えた。


誓願 五十四

 山本伸一が、オスロ国際平和研究所のルードガルド所長と会談した十三日、東京・墨田区の寺では、学会と宗門の連絡会議が行われた。学会からは、会長の秋月英介らが、宗門からは、総監の藤本日潤らが出席した。
 連絡会議が終了しようとした時、総監が封筒を秋月に差し出した。前月の十六日に行われた、学会創立六十周年を祝賀する本部幹部会での伸一のスピーチについて、入手したテープに基づいて質問書を作成したので、文書で回答してもらいたいというのである。
 唐突にして性急な要求であった。学会の首脳たちは、宗門側の意図がわからなかった。
 秋月は、何か疑問があれば、文書の交換などという方法ではなく、連絡会議の場で話し合うよう求めた。総監は、考え直すことを約束し、文書を持ち帰った。
 しかし、三日後の十二月十六日付で、宗門は学会に文書を送付した。「到達の日より七日以内に宗務院へ必着するよう、文書をもって責任ある回答を願います」とあった。
 伸一のスピーチは、世界宗教へと飛躍するための布教の在り方、宗教運動の進め方に論及したものであった。だが、その本義には目を向けぬ、一方的な難詰であった。
 そして、伸一が、ベートーベンの「歓喜の歌」を大合唱していこうと提案したことについて、“ドイツ語で「歓喜の歌」を歌うのは、キリスト教の神を讃歎することになり、大聖人の御聖意に反する”などと、レッテルを貼ったうえでの質問であった。
 十二月十六日、伸一は、第一回壮年部総会を兼ねた本部幹部会に出席。この日が、ベートーベンの誕生の日とされ、生誕二百二十年に当たることから、楽聖の“わが精神の王国は天空にあり”との毅然たる生き方に言及した。
 なぜ、べートーベンが、苦しみのなかで作曲し続けたのか。自身がつかんだ歓喜の境涯を、未来のため、不幸な貧しき人びとのために分け与えたかったからである――それが伸一の洞察であった。まさに、この大音楽家の一念は、学会精神に通じよう。


誓願 五十五

 宗門の「お尋ね」と題する質問文書に対して、学会は、十二月二十三日、「あくまでも話し合いで、理解を深めさせていただきたい」との返書を送った。併せて、僧俗和合していくために、これまで思い悩んでいた事柄や疑問を、率直に、「お伺い」することにした。それは、秋月英介が山本伸一と共に対面した折の法主の話や、僧たちの不謹慎な言動など、九項目に及んだ。
 二十六日付で宗門から書面が届いた。
 「『お伺い』なる文書をもって、事実無根のことがらを含む九項目の詰問状を提出せられるなど、まことにもって無慙無愧という他ありません」「一一・一六のスピーチについては、文書による誠意ある回答を示される意志が全くないものと受けとめました」
 翌二十七日、宗門は臨時宗会を開き、宗規の改正を行った。改正された宗規では、これまで任期のなかった総講頭の任期を五年とし、それ以外の役員(大講頭ら)の任期を三年とした。また、「言論、文書等をもって、管長を批判し、または誹毀、讒謗したとき」は処分できるとなった。
 この変更された宗規は、即日施行され、それにともない、「従前法華講本部役員の職にあった者は、その資格を失なう」とあった。つまり、総講頭の伸一も、大講頭の秋月や森川一正らも、資格を喪失することになる。
 宗門の狙いは、明白であった。宗規改正を理由に、伸一の宗内における立場を剥奪し、やがては学会を壊滅させ、宗門の権威権力のもとに、会員を隷属させることにあった。
 宗門は、総講頭等の資格喪失について、二十八日にはマスコミに伝えていた。本人に通知が届く前である。
 伸一は、暮れも押し詰まったこの日、中国・敦煌研究院の段文傑院長と聖教新聞社で対談を行い、仏法の民衆根本の精神などをめぐって語り合った。周囲は騒然としていた。しかし、平和と文化の創造をめざし、世界の識者との対話を着実に重ねた。人類の未来を思い、信念の軌道を突き進んでいった。


誓願 五十六

 学会員は、新聞の報道などで、宗門の宗規改正によって、山本伸一や学会の首脳幹部らが、法華講総講頭・大講頭の資格を失ったことを知った。
 同志たちは、予期せぬ事態に驚くとともに、宗門への強い怒りを覚えた。
 「なんで宗門は、こんな理不尽なことをしたのか!」「宗門を大発展させたのは、山本先生ではないか! その先生の総講頭資格を、なんの話し合いもなく、一方的に喪失させるとは何事だ!」
 資格喪失の通知が届いたのは、二十九日であった。年末の慌ただしい時期ではあったが、学会では、各県・区で、緊急の幹部会を開くなどして、宗門の問題について状況を説明した。迅速な対応であった。
 「われわれは時すでに遅しとならないうちに今行動しなければならない」(注)とは、アメリカ公民権運動の指導者マーチン・ルーサー・キング博士の叫びである。
    
 学会が「平和と拡大の年」と定めた一九九一年(平成三年)が明けた。
 伸一は、新年の出発にあたって、和歌を詠み、「聖教新聞」をはじめ、各機関紙誌に発表した。このうち、「聖教新聞」に掲載された和歌の一首は――
 「新春を 共に祝さむ 喜ばん
    皆 勇猛の 心 光りて」
 『大白蓮華』に掲載された三首のうちの一首には――
 「恐れなく 妬みの嵐も 烈風も
    楽しく越えゆけ 自在のわれらは」
 創価の同志は、この新春、全国各地の会館で、また、海外七十五カ国・地域で、晴れやかに新年勤行会を開催し、希望あふれる一年のスタートを切った。
 伸一は、学会本部での勤行会に参加した各部の代表と、学会別館で新年のあいさつを交わし、励ました。
 「世界広布の新しい時代の扉を開こうよ。烈風に向かって、飛び立つんだよ」

■引用文献
 注 『私には夢があるM・L・キング説教・講演集』梶原寿監訳、新教出版社


誓願 五十七

 一月二日、会長の秋月英介と理事長の森川一正が登山し、日顕との話し合いを求めたが、拒否された。その後も宗門は、学会に対して、「目通りの儀、適わぬ身」などと対話を拒絶し続けた。
 十二日付で、宗門から文書が送られてきた。
 実は、宗門の「お尋ね」のなかで、山本伸一の発言だとして詰問してきた引用に、幾つかの重要な誤りがあった。また、明らかに意味を取り違えている箇所や、なんの裏づけもない伝聞に基づく質問もあった。
 この文書は、学会が、それを具体的に指摘したことに対する回答であった。宗門は、数カ所の誤りを認めて撤回した。それにより、主張の論拠は根底から崩れたのである。
 しかし、彼らは、学会への理不尽な措置を改めず、僧俗の関係についても、「本質的に皆平等であるとし、対等意識をもって僧俗和合を進めるなどというのは、大きな慢心の表われであると同時に、和合僧団を破壊する五逆罪に相当するもの」とまで言っているのだ。もはや看過しておくわけにはいかなかった。日蓮仏法の根幹を歪め、世界広布を根本から阻む元凶になりかねないからだ。
 学会としては、公式謝罪を強く要求した。また、「お尋ね」文書の引用には、このほかにも重要な誤りがあることを学会は指摘しており、それについても回答するよう求めた。
 宗門は、学会の再三にわたる話し合いの要請を、ことごとく拒否してきたが、大聖人は「立正安国論」で「屡談話を致さん」(御書一七ページ)と仰せのように、対話主義を貫かれている。すべての人と語り合い、道理をもって、理解と共感と賛同を獲得していくことを教えられている。武力や権威、権力など、外圧によって人を屈服させることとは対極にある。
 対話は、仏法の人間主義を象徴するものであり、それを拒否することは、大聖人の御精神を否定することだ。学会が広布の花園を大きく広げてきたのも、家庭訪問、小グループ、座談会など、対話を中心とした草の根の運動を積み重ねてきたからにほかならない。


誓願 五十八

 対話主義の根底には、万人尊重の哲学と人間への信頼がある。そして、それは、すべての人が等しく「仏」の生命を具え、崇高なる使命をもっているという、万人の平等を説く仏法の法理に裏打ちされている。
 しかし、日顕ら宗門は、その法理に反して、日本の檀家制度以来の、僧が「上」、信徒は「下」という考えを踏襲し、それを学会に押しつけ、隷属させようとしたのだ。
 日蓮大聖人が根本とされた法華経は、「二乗作仏」や「女人成仏」が示すように、身分など、あらゆる差別と戦い、超克してきた平等の哲理である。それゆえに、世界の識者たちも、生命の尊厳を説き、人間共和と人類の平和を開く法理として、仏法を高く評価しているのである。
 大聖人は、「僧も俗も尼も女も一句をも人にかたらん人は如来の使と見えたり」(御書一四四八ページ)と、僧俗も、性差も超えた、人間の平等を明確に宣言されている。
 大聖人の仏法は、民衆の幸福のためにこそある。もしも、宗門によってその根幹が歪められることを放置すれば、横暴な宗門僧らの時代錯誤の権威主義がまかり通り、不当な差別を助長させ、混乱と不幸をもたらしてしまうことになる。
 まさに、「悪人は仏法の怨敵には非ず三明六通の羅漢の如き僧侶等が我が正法を滅失せん」(同一八二ページ)と仏典に説かれているごとく、正しき仏法が滅しかねないのだ。
 さらに、学会が、深く憂慮したことの一つは、宗門の文化などに対する認識である。
 彼らの文化に対する教条主義的、排他的な態度は、ベートーベンの第九「歓喜の歌」についてだけではなかった。かつて、『大白蓮華』で、「英国王室のローブ展」の展示品・ガーター勲章を紹介したところ、そこに「十字」の紋章が施されているのを見て、役僧がクレームをつけてきたのである。
 各国、各地、各民族等の、固有の伝統や文化への理解なくしては、人間の相互理解はない。文化への敬意は、人間への敬意となる。

■語句の解説
 ◎二乗作仏など/二乗作仏は、法華経迹門において二乗(声聞・縁覚)の成仏が釈尊から保証されたこと。女人成仏は、同じく法華経において、それまで成仏することはできないとされてきた女性が成仏すること。
 三明は、仏、阿羅漢が具えている三種の超人的な能力のこと。特に仏の場合は三達ともいう。六通は、六神通のこと。仏や菩薩などが具えるとされた六種の超人的な能力。


誓願 五十九

 文化・芸術にせよ、風俗・習慣にせよ、人間社会の営みには、多かれ少なかれ、なんらかの宗教的な影響がある。
 「西暦」にしても、イエス・キリストが誕生したとされる年を紀元元年としているし、日曜日を休日とするのもキリスト教の安息日からきている。また、「ステンドグラス」も、教会の荘厳さを表現するために発達してきた、キリスト教文化の所産である。西欧の多くの建造物や建築様式には、キリスト教が深く関わっている。だからといって、それを拒否するならば、社会生活は成り立たない。
 仏法には「随方毘尼」という教えがある。「随方随時毘尼」ともいい、仏法の根本法理に違わない限り、各国、各地域の風俗や習慣、時代ごとの風習を尊重し、随うべきであるとするものだ。
 法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の御本尊を受持し、信・行・学を実践して、広宣流布の使命に生きる――この日蓮仏法の根本の教えに違わぬ限り、柔軟な判断が必要になる。
 信心即社会である。妙法を受持した一人ひとりが、人間の英知の所産である文化等には敬意を表しつつ、社会に根差して信頼を勝ち得ていってこそ、世界広布も可能となる。
 ましてや、ベートーベンが「交響曲第九番」に取り入れた合唱部分である、シラー原詞の「歓喜の歌」には、「神々」との表現はあるが、それは特定の宗教を賛美したものでは決してない。
 山本伸一は、一九八七年(昭和六十二年)十二月、学生部結成三十周年記念特別演奏会で、メンバー五百人による第九(合唱付)を聴いた。その時の感動が忘れられなかった。
 そして、創価学会創立六十周年を祝賀する本部幹部会の席上、創立六十五周年には五万人で、七十周年には十万人で「歓喜の歌」を大合唱してはどうかと提案した。この時、日本語だけでなく、「そのうちドイツ語でもやりましょう!」と呼びかけたのである。
 偉大な音楽・芸術は、国家・民族の壁を超え、魂の共鳴音を奏で、人間の心をつなぐ。


誓願 六十

 「歓喜の歌」は、人間の讃歌、自由の讃歌として世界で歌われてきた。
 一九八九年(平成元年)、チェコスロバキアで、“ビロード革命”によって、流血の惨事を引き起こすことなく、共産党独裁にピリオドが打たれ、十二月十四日、首都プラハで革命を祝賀する演奏会が行われた。そこで演奏、合唱されたのがベートーベンの第九であり、「歓喜の歌」であった。
 演奏が終わると、場内は爆発的な大拍手に包まれた。鳴りやまぬ拍手のなか、新大統領となるバツラフ・ハベルが舞台に上がると、「ハベル! ハベル!」の大合唱が起こった。第九は、民主の喜びの表現であった。
 また、十二月二十三日と二十五日には、壁が崩壊したベルリンで、東西ドイツの融和を祝ってコンサートが開催された。ここで演奏されたのも第九であった。
 しかも、バイエルン放送交響楽団を中心に東西両ドイツ、さらに、戦後、東西に分割されるまでベルリンを管理していたアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の楽団からなる混成オーケストラを編成しての演奏であった。
 まさに、自由と融和の勝利の象徴が、第九であり、「歓喜の歌」であったのである。
 宗門が、この歌の世界的な普遍性、文化性を無視して、ドイツ語の合唱に、「外道礼讃」とクレームをつけたことに対して、外部の識者らが次々と声をあげた。
 ニーチェ研究などで知られる哲学者の河端春雄・芝浦工業大学教授(当時)は、「人間精神の普遍的な昇華がもたらす芸術を、無理やり宗教のカテゴリーに当てはめ、邪教徒をつくり断罪する、あの魔女狩りにも似た宗教的独断の表れである」(注)と指摘する。
 そして、シラーがいう「神々」の意味は、もとより「一神教であるキリスト教の神を称える」ものではなく、古代ギリシャの神に託して、「人間の内なる精神の極致、理想」を述べたものである。新しい思想も、その時代の既存の“何か”に託して表現する以外にないからだ――と語っている。

■引用文献
 注 「聖教新聞」1991年1月24日付


誓願 六十一

 アメリカでSGIメンバーと交流してきた作家の牛島秀彦・東海女子大学教授(当時)は、文化の本質に立ち返り、訴えている。
 「文化と宗教は不即不離の関係にあり、両者は同義ではない。文化・芸術は宗教宗派を超えて広く社会に根差し、歴史のなかで他の文化を吸収・淘汰・融合しながら、人間の生活様式を形成している。したがって、ベートーヴェンの『第九』の合唱部分を異教徒(私は宗教の枠を超えた人間の賛歌ととらえている)として断罪、排斥することは、世界の文化、ひいては人間の生活様式を否定するという論理になってしまう。
 自らはコップの中に閉じこもり、ドグマを振り回すことはたやすい。だが、それでは日蓮大聖人の遺命とされる世界への布教は決してなされないのみか、自らがそれを阻んでいることを認識する必要がある」(注1)
 宗教が教条主義に陥り、独善的な物差しで、文化や芸術を裁断するならば、それは、人間のための宗教ではなく、宗教のための宗教である。
 “今こそ、人間に還れ”――新しき時代のルネサンスの必要性を、同志は痛感した。
 また、学会の首脳たちは、宗門僧の振る舞いにも、心を痛めてきた。各地の会員からは、傍若無人な言動や、遊興にふけり、華美な生活を追い求める風潮に、困惑、憂慮する声が、数多く寄せられていた。学会としても、そのことを宗門側に伝えた。このままでは、将来、宗内は荒廃し、収拾のつかない事態になりかねないことを危惧したのである。
 大聖人は、折伏もせず、「徒らに遊戯雑談のみして明し暮さん者は法師の皮を著たる畜生なり」(御書一三八六ページ)と仰せである。
 広宣流布への志を失い、衣の権威を振りかざす宗門僧の姿は、学会の草創期から見られた。ゆえに第二代会長・戸田城聖は、「名誉と位置にあこがれ、財力に阿諛するの徒弟が、信者に空威張することなきよう」(注2)等と、たびたび宗門僧に対して、信心の赤誠をもって厳しく諫めてきたのである。

■引用文献
 注1 「聖教新聞」1991年2月10日付
 注2 「日蓮正宗の御僧侶に望む」(『戸田城聖全集1』所収)聖教新聞社


誓願 六十二

 学会は、日蓮大聖人の御遺命たる世界広宣流布を進めていくために、いかなる圧迫があろうとも、言うべきことは言い、正すべきことは、正さぬわけにはいかなかった。
 一九九一年(平成三年)の一月三日、全国県長会議が開かれ、宗門の問題が報告された。
 会長の秋月英介は、日蓮大聖人の御遺命を達成すべく、二十一世紀をリードする世界宗教にふさわしい広布の基盤を整えるために、@民主の時代に即応し、世界に開かれた宗門になってほしいA日蓮大聖人の仏法の本来の精神に則り、権威主義を是正し、信徒蔑視を改めてほしいB僧侶の堕落を戒め、少欲知足の聖僧という宗風を確立してほしい――との宗門への学会の要望を語った。
 山本伸一は、皆と共に勤行し、「使命の人、信念の人としての深い自覚をもって、見事な一年に!」とあいさつした。彼は、“何があろうが、世界広布のために、仏意仏勅の創価学会を守り抜かねばならぬ”と強く決意し、「平和と拡大の年」であるこの年も、年頭から、会員の激励に奮闘した。
 一月二十六日には、第十六回「SGIの日」を記念して提言を行った。
 折しも前年八月のイラクのクウェート侵攻を契機に湾岸戦争が始まり、一月にはアメリカを中心とした多国籍軍とイラクが交戦していた。提言では、湾岸戦争の早期終結を要請するとともに、国連のリーダーシップによる中東和平国際会議の開催などを訴えた。
 翌二十七日、彼は、香港・マカオ訪問に出発し、三十一日には、香港文化会館に、アジアなど十四カ国・地域の代表千五百人が集って行われた、SGIアジア会議総会に出席した。
 この席上、湾岸戦争の早期解決に向けて「緊急アピール」が採択された。アピールでは、国連主導による一日も早い和平の実現を念願し、イラクのクウェートからの撤退表明、戦闘再発防止策の構築、「中東和平国際会議」の開催、「緊急安全保障理事会」の招集を呼びかけた。
 信仰の炎は、平和への闘魂の炎となる。


誓願 六十三

 香港を訪れた山本伸一は、マカオも初訪問し、マカオ東亜大学の名誉教授称号授与式に出席。「新しき人類意識を求めて」と題して記念講演を行った。二月二日には、そのまま沖縄指導に入り、引き続き宮崎を訪問した。
 三月に入ると、関西、中国、中部と、国内の同志の激励行が続いた。
 この三月のことである。学会との話し合いを拒否し続けてきた宗門は、突然、海外組織に対する方針の転換を発表した。
 これまで海外では、SGI以外の信徒組織は認めなかったが、その方針を廃止する旨の通知を送付してきたのである。
 さらに、学会の月例登山会を廃止し、七月からは、所属寺院が発行する添書(登山参詣御開扉願)を所持しての登山しか認めないと通告してきた。学会の組織を切り崩そうとする意図は明らかであった。
 学会員は、その一方的で傲岸不遜なやり方にあきれ返った。信心の誠をもって登山を重ね、また、総本山を荘厳するために、身を削る思いで供養し続けてきたからである。
 総本山の大石寺は、戦後、農地改革によって、それまで所有していた農地の大半を失い、経済的に大きな打撃を受け、疲弊の極みにあった。すると、宗門は、生活手段を確保するために、大石寺の観光地化を計画した。一九五〇年(昭和二十五年)十一月には、総本山で地元の市長や村長、観光協会、新聞記者などが集まり、「富士北部観光懇談会」を開き、具体的な検討を始めたのだ。
 その話を聞いた戸田城聖の驚き、悲しみは大きかった。金のために、総本山を信仰心のない物見遊山の観光客に開放し、大聖人の御精神が踏みにじられてしまうことを憂えた。そして、事態打開の道を考え、定例の登山会を企画し、二年後の五二年(同二十七年)から実施したのだ。これによって、宗門は窮地を脱し、大いなる発展を遂げた。登山会には四十年間で延べ七千万人が参加している。 
 広宣流布を願う創価学会員の信心が、宗門を支え、総本山を大興隆させてきたのだ。


誓願 六十四

 学会は、総本山整備にも、最大の力を注いできた。戸田第二代会長の時代には、奉安殿、大講堂を建立寄進し、山本伸一が第三代会長に就任してからは大坊、大客殿、正本堂をはじめ、総門、宿坊施設など、総本山の建物や施設を寄進した。
 総本山所有の土地も、農地改革直後は、わずか五万一千余坪にすぎなかったが、かつての二十三倍の百十七万余坪になった。その土地も、大半が学会からの寄進であった。こうした長年の外護の赤誠に対しても、学会員の真心の御供養に対しても、登山会の無事故の運営のために、止暇断眠して挺身した青年たちの苦労に対しても、一言のあいさつも感謝もなく、添書登山が始まったのである。
 一九九一年(平成三年)の七月、宗門は学会を辞めさせて寺の檀徒にする「檀徒づくり」を、公式方針として発表した。
 仏法上、最も重罪となる五逆罪の一つに、仏の教団を分裂混乱させる「破和合僧」がある。彼らは、現実に広宣流布を推進してきた仏意仏勅の団体である、創価学会の組織の本格的な切り崩しに踏み切り、この大重罪を犯したのだ。それは、供養を取るだけ取って切り捨てるという、冷酷、卑劣な所行であった。
 また、宗門は、大聖人の教えと異なる「法主信仰」の邪義を立て、法主を頂点とした衣の権威によって、信徒を支配しようと画策していった。
 しかし、その悪らつさと、時代錯誤の体質は、既に学会員から見破られていたのだ。
 九月には、二年前の八九年(同元年)七月、日顕が、先祖代々の墓を福島市にある禅宗寺院の墓地内に建立し、開眼法要を行っていたことが明らかになった。さんざん学会を謗法だなどと言っておきながら、こんなことまでやっていたのかと、皆が呆れ果てたのである。
 また、宗門の数々の腐敗堕落の実態も、次々と知られるようになっていった。
 これでは、もはや、日蓮大聖人の仏法ではない。日興上人の御精神は途絶え、富士の清流は、悲しいかな濁流と化してしまった。


誓願 六十五

 山本伸一は、東西冷戦終結後の新たな平和の構築を展望し、行動した。一九九一年(平成三年)四月には、教育・文化交流のため、フィリピン大学を訪問。経営学部の卒業式に出席し、「平和とビジネス」と題して記念講演した。この日、伸一に、同大学から、名誉法学博士号が贈られている。
 六月初旬からは、ヨーロッパを回り、ドイツに続いて、ルクセンブルクを初訪問し、フランス、イギリスを歴訪。それぞれの国で、文化交流を重ねる一方、国家指導者や識者と会談した。九月下旬から十月初旬にかけては、北米を訪れ、九月二十六日、ハーバード大学で、「ソフト・パワーの時代と哲学――新たな日米関係を開くために」と題して記念講演を行った。
 また、日本国内を東奔西走し、宝友の励ましに心血を注いでいった。
 今回の第二次宗門事件では、同志は陰険にして姑息な宗門の謀略を冷静に見抜き、破邪顕正の情熱をたぎらせて、敢然と戦った。
 伸一は、会長を辞任した、あの第一次宗門事件の折、もう一度、広宣流布の使命に生き抜く師弟の絆で結ばれた、強靱な創価学会を創ろうと、同志一人ひとりに徹して光を当ててきた。個人指導、家庭訪問、小グループでの対話、懇談、さらに、さまざまな会合にも足を運び、激励を続けた。
 食事も、できるだけ皆と共にし、語らいのための時間とした。また、寸暇を惜しんで、句や和歌を詠み、色紙や書籍に揮毫して贈るなど、励ましに励ましを重ねてきた。
 彼は、同志の成長のため、幸せのために、生命を削る覚悟で動き、働いた。“皆が一人立つ勇者になってほしい”と、広宣流布の魂を注ぐことに必死であった。
 そのなかで後継の青年たちも見事に育ち、いかなる烈風にも微動だにしない、金剛不壊の師弟の絆で結ばれた、大創価城が築かれていったのである。しかも、その師弟の精神は、広く世界の同志の心を結んでいった。
 命をかけた行動に、魂は共鳴する。


誓願 六十六

 山本伸一は、毎月の本部幹部会などの会合に出席するたびに、民衆の幸福を願われた日蓮大聖人の御精神や真実の仏法者の在り方などについて語っていった。
 ある時は、喜劇王チャップリンの言葉を紹介し、「自由」のために戦う勇気の大切さを語り、ある時は、文豪ユゴーの『レ・ミゼラブル』を通して、「民衆よ強くなれ! 民衆よ賢くなれ! 民衆よ立て!」と呼びかけた。
 さらに、御聖訓通りに難を受けるのは、学会の広宣流布の戦いが正しいことの証左であると訴えた。また、仏法の本義のうえから、広布に生き、御本尊を信じ、仏道を行じ抜いてきた人は、皆“仏”であることや、民衆のための宗教革命こそ正道であると力説した。あるいは、「『一人の幸福』に尽くしてこそ仏法である」「太陽の仏法は、全人類に平等である」「世界広布の大道は、どこまでも『御本尊根本』『御書根本』である」ことなどを確認してきた。
 創価の同志が心を一つにして、日顕ら宗門による弾圧を、乗り越えていく力になったのが、一九八九年(平成元年)八月二十四日の第一回東京総会から始まった、衛星中継であった。それまで、電話回線を使っての音声中継は行われていたが、この時から、全国の主要会館の大画面に、映像も流れることになったのである。
 伸一は、全同志と対話する思いで、仏法の法理に、日蓮大聖人の御指導に立ち返って、“何が正であり、何が邪なのか”“宗門事件の本質とは何か”“人間として、いかに生きるべきか”など、多次元から、明快に語っていった。共通の認識に立ってこそ、堅固な団結が生まれる。
 衛星中継を通して同志は、深く、正しく、問題の真実と本質を知った。ただただ、広宣流布を願い、使命に生き抜こうとする伸一の思いを感じ取っていった。そして、“何があっても、腐敗した宗門の策略などに負けず、共々に広布に走り抜こう!”と、皆の心は、固く、強く、一つに結ばれたのである。


誓願 六十七

 一九九一年(平成三年)の十一月八日のことであった。宗門から学会本部へ、「創価学会解散勧告書」なる文書が届いた。十一月の七日付となっており、差出人は、管長・阿部日顕、総監・藤本日潤である。宛先は、学会の名誉会長でSGI会長の山本伸一、学会の会長でSGI理事長の秋月英介、学会の理事長の森川一正であった。
 そこには、僧と信徒の間には、師匠と弟子という筋目の上から厳然と差別があり、学会が法主や僧を師と仰がず、平等を主張することは、「僧俗師弟のあり方を破壊する邪見」だなどとして、創価学会並びに、すべてのSGI組織を解散するよう勧告してきたのである。
 しかし、そもそも創価学会は、一九五二年(昭和二十七年)に、既に宗門とは別の宗教法人となっているのだ。広宣流布の使命を果たし抜かんとする第二代会長・戸田城聖の、先見の明によるものである。宗門は、法的にも解散を勧告できる立場ではなく、なんの権限もないのだ。
 戸田は、「宗門は金を持てば、学会を切るぞ! その時のために、万全の備えをしておくから」と、鋭く見抜いていた。この英断によって正義の学会は厳然と守られたのだ。
 学会員は、解散勧告書の内容に失笑した。
 「法主に信徒は信伏随従しろとか、僧が信徒の師だとか、自分たちに都合のいいことばかり言っているが、大事なのは何をしてきたかだ」「だいたい、折伏をしたことも、個人指導に通い詰めて信心を奮い立たせたこともほとんどない、遊びほうけてばかりいる坊主が、どうやって、広布に生き抜いてきた学会員を指導するつもりなんだ!」
 この八日、東京婦人部は、「ルネサンス大会」を開催した。寺の従業員であった婦人らが、僧と寺族の堕落した生活ぶりや、信心のかけらすらない傲慢な実態を告発。皆、“衣の権威の呪縛を断ち、いよいよ人間復興の時が来た!”と、決意を固め合った。
 「人間のため」という、仏法の原点に還ろうとの機運が、一気に高まっていった。


誓願 六十八

 十一月八日、会長の秋月英介らは、宗門から「創価学会解散勧告書」が送付されてきたことにともない、記者会見を行った。
 解散勧告書の内容は全く無意味なものであることを述べるとともに、宗門が、日蓮大聖人の仏法の教義と精神から大きく逸脱している事実を話した。
 また、宗門には、根深い信徒蔑視の体質があり、対話を拒否してきたこと、狭い枠の中でしかものを見ず、ドイツ語での「歓喜の歌」の合唱についても、クレームをつけてきたことなどを述べた。そして、現在、学会が行おうとしているのは、そうした偏狭な権威主義を覚醒させる運動であり、大聖人の仏法が世界宗教として広まっているなかでの宗教改革であると訴えた。
 さらに、全国の会員たちの怒りは激しく、自分たちで、法主の退座を要求する署名を始めている状況にあることを伝えた。
 葬儀や塔婆供養等を利用した貪欲な金儲け主義、腐敗・堕落した遊興等の実態。誠実に尽くす学会員を隷属させ、支配しようと、衣の権威をかざして、「謗法」「地獄へ堕ちる」などと、繰り返された脅し――同志は、“こんなことが許されていいわけがない。大聖人の仏法の正義が踏みにじられていく。その醜態は、中世の悪徳聖職者さながらではないか!”との思いを深くしてきた。
 そして、“なんのための宗教か”“誰のための教えなのか”と声をあげ始めたのである。
 山本伸一は、一貫して「御本尊という根本に還れ!」「日蓮大聖人の御精神に還れ!」「御書という原典に還れ!」と、誤りなき信心の軌道を語り示してきた。
 同志は、宗門の強権主義、権威主義が露骨になるなかで、大聖人の根本精神を復興させ、人間のための宗教革命を断行して、世界広布へ前進していかねばならないとの自覚を深くしていった。その目覚めた民衆の力が、新しき改革の波となり、大聖人の御精神に立ち返って、これまでの葬儀や戒名等への見直しも始まったのである。


誓願 六十九

 学会では、葬儀についても、日蓮大聖人の教えの本義に立ち返って、その形式や歴史的な経緯を探究し、僧を呼ばない同志葬、友人葬が行われていった。
 日蓮大聖人は仰せである。
 「されば過去の慈父尊霊は存生に南無妙法蓮華経と唱へしかば即身成仏の人なり」(御書一四二三ページ)
 「故聖霊は此の経の行者なれば即身成仏疑いなし」(同一五〇六ページ)
 これらの御書は、成仏は、故人の生前の信心、唱題によって決せられることを示されている。僧が出席しない葬儀では、故人は成仏しないなどという考え方は、大聖人の御指導にはない。
 また、戒名(法名)についても、それは、本来、受戒名、出家名で、生前に名乗ったものである。大聖人の時代には、死後戒名などなく、後代につくられた慣習を、宗門が受け入れたに過ぎない。戒名は、成仏とは、全く関係のないものだ。
 大聖人の仏法は、葬式仏教ではなく、一切衆生が三世にわたって、幸福な人生を生きるための宗教である。
 各地の学会の墓地公園は、そうした仏法の生命観、死生観のもと、皆、平等で、明るいつくりになっている。
 学会の同志葬、友人葬が実施されると、その評価は高かった。学会員ではない友人からも、絶讃の声が寄せられた。
 「葬儀は、ともすれば、ただ悲しみに包まれ、陰々滅々としたものになりがちですが、学会の友人葬は、さわやかで、明るく、冥土への旅立ちに、希望さえ感じさせるものでした。創価学会の前向きな死生観の表れといえるかもしれません」
 「今は、なんでも代行業者を使う。葬儀で坊さんに読経してもらうのは、そのはしりでしょう。しかし、自分たちで、故人の冥福を祈ってお経を読み、お題目を唱える。皆さんの深い真心を感じました。これが、故人を送る本来の在り方ではないでしょうか」


誓願 七十

 同志葬、友人葬について、ある学者は、次のような声を寄せた。
 「日本の葬儀に革命的ともいえる変革をもたらすもの」「時代を先取りしているだけに、一部、旧思考の人びとから反発されるかもしれないが、これが将来の葬儀となり、定着することは明らかである」「三百年かかって日本に定着した檀家制度を、わずか三十年で、もう乗り越えようとしている学会の発展とスピードは奇跡的である」
 各地の学会員は、第一次宗門事件後、再び宗門の権威主義という本性が頭をもたげ始めたなかで、仏法の本義に基づく平成の宗教改革に立ち上がった。
 そして、宗門が学会に出した「解散勧告書」を契機に、改革への同志の思いは奔流となってほとばしった。それは、日蓮大聖人の正法正義に背き、広宣流布の和合僧を破壊しようとする、阿部日顕の法主退座を要求する署名運動となっていった。
 11・18「創価学会創立記念日」を前にして、署名は、わずか十日足らずで、五百万人に至る勢いであった。その広がりは、学会への理不尽極まりない仕打ちに対する、同志の怒りの大きさを物語っていた。
 同時に、創価の宝友には、大聖人の“民衆の仏法”が世界に興隆する時が来たとの強い実感があった。それは「三類の強敵来らん事疑い無し」(御書五〇四ページ)の御金言が、現実となったことによるものであった。
 学会は、三類の強敵のうち、俗衆増上慢、すなわち仏法に無知な在家の人びとによる悪口罵詈等の迫害を、数多く受けてきた。また、道門増上慢である、真実の仏法を究めずに自分の考えに執着する僧らの迫害もあった。
 しかし、聖者のように装った高僧が悪心を抱き、大迫害を加えるという僭聖増上慢は現れなかった。ところが今、法主である日顕による、仏意仏勅の広宣流布の団体たる創価学会への弾圧が起こったのである。まさに、学会が、現代において法華経を行じ、御金言通りの実践に励んできたことの証明であった。


誓願 七十一

 宗門から「解散勧告書」なる文書が送付されてきてから三週間後の十一月二十九日、またしても学会本部に文書が届いた。「創価学会破門通告書」と書かれていた。
 宗門は、解散するよう勧告書を送ったが、学会が、それに従わないから、“破門”するというのだ。さらに、「創価学会の指導を受け入れ、同調している全てのSGI(創価学会インタナショナル)組織、並びにこれに準ずる組織」に対しても、“破門”を通告するとあった。
 初代会長・牧口常三郎の時代に入会し、戦後は第二代会長・戸田城聖のもとで学会の再建期から戦い、宗門の実態を見続けてきた草創の幹部たちは、日顕らの卑劣な策略を糾弾した。最高指導会議議長の泉田弘や参議会議長の関久男、同副議長の清原かつ等である。
 泉田は、あきれ返りながら語った。
 「いったい誰を“破門”にしたのかね。普通、“破門”は、人に対して行うものだが、学会とSGIという組織を“破門”にしたという。そして、個々の会員には、宗門の信徒の資格は残るので、学会を脱会するよう呼びかけている。結局、学会員を奪って、寺につけようという魂胆が丸見えじゃないか。
 宗門の権威主義、保身、臆病、ずるさは、昔から全く変わっていないな。信心がないんだ。だから、戦時中は、神札を受けるし、御書も削除している。また、何かあると、御本尊を下付しないなどと、信仰の対象である御本尊を、信徒支配の道具に使う。
 それと、注意しなければならないのが、創価の師弟を引き裂こうとしてきたことだよ。
 宗旨建立七百年(一九五二年)の慶祝記念登山の折、戦時中、神本仏迹論の邪義を唱えた悪僧・笠原慈行を、学会の青年たちが牧口先生の墓前で謝罪させた。その時も宗門の宗会は、戸田先生に対して、大講頭罷免、登山停止等を決議した。戸田先生一人を処分して、同志との離間、創価の師弟の分断を謀り、学会員を宗門に隷属させようという魂胆だったんだよ」


誓願 七十二

 創価学会は、広宣流布を使命とする地涌の菩薩の集いである。そして、その生命線は、師弟にこそある。ゆえに、広布の破壊をもくろむ第六天の魔王は、さまざまな方法を駆使して、創価の師弟の分断を企てる。
 宗門の腐敗と信徒蔑視の体質をよく知る、泉田弘ら草創の幹部たちは、今こそ戦おうと、宗門に対して率先して抗議してきた。
 若い世代に、学会の精神を伝え抜いていくためには、歴戦の先輩たちが、自らの実践を通して、示していくしかない。後継の同志を育て上げることこそが、先輩の使命であり、責任である。
 泉田は、意気軒昂に断言した。
 「これで宗門が、大聖人の仏法を踏みにじり、謗法の宗となったことがハッキリしたわけだ。宗開両祖のお叱りは免れない!」
 同志の気持ちは晴れやかであった。“これで、あの権威ぶった陰湿な宗門に気を遣わず、さわやかに世界広布に邁進できる!”というのが、皆の心境であった。
    
 破門通告書が届いた二十九日、東京・千駄ケ谷の創価国際友好会館では、SGI会長の山本伸一への、「教育・文化・人道貢献賞」の授賞式が行われた。これは、東京に大使館を置くアフリカ外交団二十六カ国の総意として贈られたもので、授賞式には、十九カ国の大使(臨時代理大使)等とANC(アフリカ民族会議)の駐日代表が出席した。アフリカ諸国の大使、大使館代表が、これだけそろっての訪問は、異例中の異例であった。
 外交団を代表してあいさつした団長のガーナ大使は、伸一並びにSGIの世界平和への実績として、アパルトヘイト撤廃への貢献をはじめ、創価大学や民音などを通してのアフリカと日本の教育・文化交流などをあげた。そして、SGIは人類の理想を共有する“世界市民の集い”であると述べ、力を込めた。
 「私どもは、“共通の理想”を実現しゆくパートナーとして、SGIを選んだことが正しいと確信します」

■語句の解説
 ◎第六天の魔王/第六天の魔王とは、欲望の世界である「欲界」に属する六つの天(六欲天)の最上の天(第六天)に住むとされる魔王。「他化自在天」とも呼ばれ、正法に敵対し、成仏を妨げる「魔」のなかでも最大の働きをなす。


誓願 七十三

 ガーナ大使は、さらに、山本伸一に対して、「貴殿は、実に、どの点から見ても、“真の世界市民”であり、日本にとって“最高の大使”です」と語った。
 長い間、圧迫、差別などに苦しめられ、多くの困難と戦ってきたアフリカ大陸の歴史。そのなかで培われた鋭い眼による評価に対して、伸一は身の引き締まる思いがした。
 続いて伸一に「教育・文化・人道貢献賞」が贈られると、祝福の拍手が広がった。同賞には、次のように授賞の理由が記されていた。
 「教育、文化、人道主義の行動、民族の平等と人権の尊重、貧困の救済と精神的な励まし、人間性のための献身を通して世界平和を推進されている貴殿の功績を評価し、在東京アフリカ外交団は、こうした人類への奉仕のご行動の中に光る、貴殿の卓越した人間的資質をここに証明し、讃えるものである」
 マイクに向かった伸一は、「今日は、感動的な“歴史の日”になりました」と述べたあと、学会は、創立以来、人間の尊厳と平等を守るために戦い、第二代会長・戸田城聖は「地球民族主義」を提唱したことを紹介。“民衆の勝利”へ進む「二十一世紀の大陸・アフリカ」との、一層の交流を誓った。
 また、授賞式に出席したANCの駐日代表は、マンデラ議長から伝言を託されていた。
 「SGI会長にくれぐれもよろしくお伝えください。ご健勝を心よりお祈りします」
 伸一は、外交団の一人ひとりに感謝の言葉を述べ、固い握手を交わして見送った。
 「教育の道」「文化の道」「人道の道」――これらの道が開けてこそ、真実の仏法の精神も広く世界に脈動していく。仏法の精神である人間主義、平和主義は、あらゆる壁を超えて、「人」と「人」を結んでいく。その実現をめざすなかに、仏法者の正しき実践がある。二十一世紀の世界市民運動がある。
 “人権の勝利”へ、新しい時代の幕が、この日、厳然と開いたのである。各国大使の心こもる祝福は、堂々と「魂の独立」を果たした創価の未来に寄せる、喝采と期待でもあった。


誓願 七十四

 授賞式翌日の三十日夜、「創価ルネサンス大勝利記念幹部会」が全国各地で盛大に開催された。山本伸一は、会長の秋月英介らと共に、創価国際友好会館での集いに出席した。
 彼は、創価の新しき出発となるこの日を記念して句を詠み、全国の同志に贈った。
 「天の時 遂に来れり 創価王」
 記念幹部会の席上、この句を紹介した秋月は、「創価王」とは、創価学会員全員が信仰の「王者」の意味であることを伝えたあと、日顕ら宗門の本質を明らかにしていった。
 「数々の謗法行為を犯し、“日顕宗”と化した宗門には、学会を破門する資格など、毛頭ありません。大罪を犯した日顕法主こそ、大聖人から厳しく裁かれなければならない」
 「今回の、広宣流布の前進を妨げる『破和合僧』の行為により、宗門は、日蓮大聖人から間違いなく破門になったと断じたい」
 「宗門による破門の本質は、陰湿な檀徒づくりの策略であり、学会をさらに解体しようと狙っている野心は、少しも変わっていない。その本質を見抜いていかなければならない」
 ここで彼は、声を大にして叫んだ。
 「私どもは、信心のうえからも、黒い悪魔の鉄鎖を切って、自由に伸び伸びと、世界広布に邁進できることになったのであります。本日、私どもが『魂の自由』を勝ち取った、創価ルネサンスの『大勝利宣言』をしたいと思いますが、皆さん、いかがでしょうか!」
 大歓声と大拍手が鳴り響いた。
 さらに秋月は、「相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ」「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」(御書一三三八ページ)の御文を拝した。
 そして、「信心こそが、『血脈の本体』であり、御本尊に具わる功徳は、仏力・法力と、私どもの信力・行力の四力がそろうところに必ず現れ、『強盛の大信力』にこそ無量の功徳がある。そのことを、実証をもって示していきたい」と力説した。


誓願 七十五

 会長の秋月英介は、同志葬、友人葬などを担当していくため、各県・区に儀典部を設置することを発表した。また、全国で、世界で進められてきた日顕法主退座要求署名は、国内、海外合わせ、千二百四十二万に達したことを報告し、全世界から集まった民衆の怒りの声を突きつけていきたいと語った。
 集った同志は、大拍手をもって賛同の意を表した。皆、世界広布の「天の時」を感じていた。大宗教革命の新しき歴史の大舞台に、主人公として立つ喜びに、血湧き、肉躍らせるのであった。
 いよいよ山本伸一のスピーチとなった。
 「本日は、緊急に“祝賀の集い”があるというので、私も出席させていただいた」とユーモアを込めて切り出すと、爆笑が広がり、拍手が起こった。明るく、伸びやかな、喜びと決意がみなぎる集いであった。
 伸一は、宗門が十一月二十八日付で学会に破門通告書を送ってきたことから、こう述べていった。
 「十一月二十八日は、歴史の日となった。
 『十一月』は学会創立の月であり、『二十八日』は、ご承知の通り、法華経二十八品の『二十八』に通じる。期せずして、魂の“独立記念日”にふさわしい日付になったといえようか」
 またしても大拍手が場内に轟いた。
 魂の“独立記念日”――その言葉に、誰もが無限の未来と無限の希望を感じた。
 伸一は、日蓮大聖人の仰せ通りに、不惜身命の精神で妙法広宣流布を実現してきたことを再確認し、力を込めて訴えた。
 「これ以上、折伏・弘教し、これ以上、世界に正法を宣揚してきた団体はありません。
 また、いよいよ、これからが本舞台です。
 戸田先生も言われていたが、未来の経典に『創価学会』の名が厳然と記し残されることは間違いないと確信するものであります」
 まさしく、仏意仏勅の創価学会であり、広宣流布のために懸命に汗を流す、学会員一人ひとりが仏なのである。


誓願 七十六

 「宗教」があって「人間」があるのではない。「人間」があって「宗教」があるのである。「人間」が幸福になるための「宗教」である。この道理をあべこべにとらえ、錯覚してしまうならば、すべてが狂っていく――山本伸一は、ここに宗門の根本的な誤りがあったことを指摘し、未来を展望しつつ訴えた。
 「日蓮大聖人の仏法は『太陽の仏法』であり、全人類を照らす世界宗教です。その大仏法を奉ずる私どもの前進も、あらゆる観点から見て、“世界的”“普遍的”であるべきです。決して、小さな閉鎖的・封建的な枠に閉じ込めるようなことがあってはならない」
 御書に「日輪・東方の空に出でさせ給へば南浮の空・皆明かなり」(八八三ページ)と。「南浮」とは、南閻浮提であり、世界を意味する。太陽の日蓮仏法は、あらゆる不幸の暗雲を打ち破り、全世界に遍く幸の光を送る。
 さらに伸一は、宗門事件に寄せられた識者の声から、世界宗教の条件について語った。
 ――それは、「民主的な“開かれた教団運営”」「『信仰の基本』には厳格、『言論の自由』を保障」「『信徒参画』『信徒尊敬』の平等主義」「『儀式』中心ではなく、『信仰』中心」「血統主義ではなく、オープンな人材主義」「教義の『普遍性』と、布教面の『時代即応性』」である。
 また、彼は、戸田城聖の「われわれ学会は、御書を通して、日蓮大聖人と直結していくのである」との指導を紹介。学会は、どこまでも御書根本に、大聖人の仏意仏勅のままに、「大法弘通慈折広宣流布」の大願を掲げて、行動し続けていることを力説した。
 そして、誰人も大聖人と私どもの間に介在させる必要はないことを述べ、あえて指導者の使命をいえば、大聖人と一人ひとりを直結させるための手助けであると訴えた。
 牧口初代会長、戸田第二代会長は、御本仏の御遺命通りに死身弘法を貫き、大聖人門下の信心を教え示した。創価の師弟も、同志も、組織も、御書を根本に大聖人の御精神、正しい信心を、教え、学び合うためにある。


誓願 七十七

 山本伸一は、未来へ、世界へと、広宣流布の流れを開く、創価学会の使命を確認していった。
 「日蓮大聖人は『御義口伝』に、『今日蓮が唱うる所の南無妙法蓮華経は末法一万年の衆生まで成仏せしむるなり』(御書七二〇ページ)と仰せになっています。大聖人の仰せのままに進む人は、誰でも成仏できることを確信し、いよいよ万年の未来へ、壮大なる希望の出発をしたい。
 また、日興上人は、『本朝の聖語も広宣の日は亦仮字を訳して梵震に通ず可し』(同一六一三ページ)と残されている。かつて、インドの釈尊の言葉が、中国語や日本語に翻訳されたように、大聖人が使われた尊い言葉も、広宣流布の時には、仮名を用いて書かれた御書を訳して、インドへも、中国へも流布していくべきであるとの意味です。
 その教え通りに、御書を正しく翻訳し、世界中に流布しているのは、わが創価学会だけです。学会は、この日興上人の御精神のままに、御書根本に進んでいきます。宗祖・大聖人も、日興上人も、必ずやお喜びくださり、御賞讃くださっているにちがいありません」
 そして彼は、「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」(同一六一八ページ)との「日興遺誡置文」を拝した。時の法主であるといっても、仏法に相違して自分勝手な教義を唱えれば、これを用いてはならないとの厳誡である。
 伸一は、どこまでも、この遺誡のままに大聖人に直結し、勇躍、世界広布へ進んでいきたいと訴え、結びに、こう呼びかけた。
 「どうか、皆様は、『世界一の朗らかさ』と『世界一の勇気』をもって、『世界一の創価学会』の建設へ邁進していただきたい。そして、大勝利の学会創立七十周年の西暦二〇〇〇年を迎えましょう!」
 会場を揺るがさんばかりの、決意の拍手が沸き起こった。新世紀へ、世界宗教へ、人間主義の時代へ、足取りも軽く、創価の新しき前進が始まったのだ。


誓願 七十八

 全国、全世界の同志が、創価ルネサンスの闘士として、勇んで立ち上がった。
 「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながる(流布)べし」(御書三二九ページ)との御聖訓を胸に、世界広宣流布への新たな長征が始まったのだ。
 同志は、「学会によって知った、この正しき信心の軌道を踏み外すまい」「どこまでも学会と共に進み、断じて幸福な人生を切り開いていこう」「悪縁に紛動されて、悔いを三世に残すような友を出すまい」と誓い合った。異体同心のスクラムを固めながら、さっそうと、朗らかに、二十一世紀を、「生命の世紀」をめざしたのである。
 宗門が破門通告なる文書を送付してから約一カ月後の十二月二十七日、学会は、日顕に対し、「退座要求書」と、それに賛同する世界各国を含め、千六百万人を超える人びとの署名簿を送った。この厳たる事実は、永久に広布史に刻まれることになったのである。
 学会では、この年の師走、東京の江戸川・葛飾・足立区をはじめ、神奈川の川崎などの文化音楽祭が開催された。また、富士鼓笛隊、富士学生軽音楽団、富士学生合唱団などが、盛んに演奏会を行った。そのなかには、あの「歓喜の歌」に歌詞をつけた、「創価歓喜の凱歌」を誇らかに披露した催しもあった。
 山本伸一は、可能な限り、出席し、鑑賞するとともに、メンバーを励ました。
 同志の晴れやかな歌声は、明一九九二年(平成四年)「創価ルネサンスの年」の開幕を告げる、希望のファンファーレとなった。
 九一年(同三年)は、まさに激動の一年であったが、学会の「魂の独立」の年となり、新生・創価学会の誕生の年となった。そして世界宗教への飛翔の年となったのである。
 今、人類の平和と幸福を創造しゆく大創価城は、厳としてそそり立ったのだ。世界広宣流布の時代を迎え、「悪鬼入其身」と化した宗門は、魔性の正体を現し、自ら学会から離れていった。不思議なる時の到来であった。すべては御仏意であった。


誓願 七十九

 「創価ルネサンス」の鐘は、高らかに鳴り響いた。一九九二年(平成四年)の元日、山本伸一は、学会別館で各部の代表と勤行・唱題したあと、皆を激励し、一年の戦いを開始した。
 五日の新春幹部会では、「あの人にも温かく、この人にも温かい言葉を。これが指導の第一歩である」と訴え、新出発を呼びかけた。
 この年、宗門を離脱する僧が相次いだ。日顕をはじめ宗門の在り方は、日蓮大聖人の仏法に違背するものであると、「諫暁の書」を送った僧たちもいた。
 宗門は、この年の八月、今度は、伸一を信徒除名処分にした。なんとかして、創価の師弟を分断しようとしたのであろう。しかし、もはや学会員は歯牙にもかけなかった。
 学会から離れた宗門は、信徒数が大幅に激減し、没落していくのである。
 宗門は、学会を破門したあと、学会員への御本尊下付も停止していた。そうしたなか、宗門を離脱した、栃木・淨圓寺の成田宣道住職から、同寺所蔵の日寛上人書写の御本尊を御形木御本尊として学会員に授与していただきたいとの申し出があった。
 九三年(同五年)九月、学会は、この申し出を、日蓮大聖人の御遺命のままに、広宣流布を進める唯一の仏意仏勅の団体として、「信心の血脈」を受け継ぐ和合僧団の資格において受け、今後、全世界の会員に授与していくことを、総務会・参議会・教学部最高会議・県長会議および責任役員会で決議した。
 一方、宗門は、九五年(同七年)、「耐震」を口実に大客殿の解体を発表、着手した。さらに、九八年(同十年)六月には、八百万信徒の真心の結晶ともいうべき正本堂の、破壊を強行したのだ。伸一が発願主となって建立寄進した、先師・日達法主の事績の建物を、日顕は、次々と破壊していったのである。
  
 伸一は、九二年(同四年)「創価ルネサンスの年」の一月末、アジア訪問へと旅立った。“東西冷戦が終結した今こそ、世界に平和の橋を!”と思うと、一瞬の猶予もなかった。


誓願 八十

 アジア訪問でタイを訪れた山本伸一は、チトラダ宮殿にプーミポン・アドゥンヤデート国王を四年ぶりに表敬訪問し、文化、平和、芸術について語り合った。国王は「文化の大王」と謳われ、芸術への造詣が深く、豊かな教養と学識で知られている。
 伸一は、一九八八年(昭和六十三年)に初めて会見した折、国王撮影による写真展の開催を提案した。それが実現し、八九年(平成元年)の東京富士美術館に始まり、アメリカ、イギリスと三カ国で行われ、好評を博した。
 今回の会見では、国王が作曲した作品の特別演奏会を提案。これは、翌九三年(同五年)十一月、創価大学の講堂で、国王・王妃の日本公式訪問三十周年を記念する特別演奏会として開催されている。
 さらに、三回目の九四年(同六年)の会見では、国王制作の絵画を中心とする特別展を提案し、これも、東京、名古屋、大阪の三都市で行われることになる。
 タイでも伸一は、同志の激励に終始した。
 励ましの心、励ましの行為こそが、仏法である。その人の持つ「法」は、振る舞いを通して、燦然と光り輝くのである。
 メンバーは、国王と伸一の友誼を誇りとして、社会貢献に努め、着実に信頼を勝ち取っていった。そして、タイ創価学会は、“微笑みの国”に“幸の花園”を広げながら、大きな発展を遂げていくことになる。
 伸一は、インドではラマスワミ・ベンカタラマン大統領、シャンカル・ダヤル・シャルマ副大統領、ガンジーの直弟子の一人であるガンジー記念館のビシャンバル・ナーツ・パンディ副議長らと相次ぎ会談した。
 また、ガンジー記念館の招請により、「不戦世界を目指して――ガンジー主義と現代」と題して講演している。
 インドのメンバーの文化祭にも出席した。友は大きく成長し、若き人材の森が育とうとしていた。釈尊生誕の地ネパールからも同志が集っており、皆と記念のカメラに納まった。伸一は、新しい夜明けの歌を聴く思いがした。


誓願 八十一

 インドから香港を訪問した山本伸一は、デビッド・ウィルソン総督と会談するなどして、二月二十二日には帰国の途に就き、沖縄へ向かった。
 このアジア訪問は、学会が「魂の独立」を果たして、最初の平和旅であった。仏法発祥の地であるインドでも、タイでも、香港でも、メンバーは、社会に、着実に信頼と友情の根を張り、活発に平和と文化と教育の運動を展開していた。伸一は未来を展望し、世界広布の新しい布石に全力を注いだ。
 沖縄では、アジア各国・地域の代表が参加して、第一回SGIアジア総会が、二十五日から三日間にわたって、恩納村の沖縄研修道場で開催された。伸一は、連日、総会に出席し、メンバーを力の限り励ました。
 総会二日目の勤行会では、インドのニューデリー付近に、創価菩提樹園を開設することを発表した。さらに、民衆の幸せを願う日蓮大聖人の御精神に照らして、信仰は自分自身が生き生きと、楽しく生き抜いていくためにあることを確認し、こう訴えた。
 「信仰のことで、いたずらに“とらわれた心”になって、窮屈に自分を縛る必要は全くありません。また、気持ちを重くさせ、喜びが失せてしまうような指導をしてもならない。
 勤行・唱題も、やった分だけ、自分の得になる。かといって、やらなければ“罰”が出るなどということはありません。それでは、初めから信仰しない人の方がよいことにさえなってしまう。
 妙法への信心の『心』に、一遍の唱題に、無量の功徳があると大聖人は仰せです――そう確信し、自ら勇んで、伸び伸びと、喜びの心をもって仏道修行に励んでいく一念によって、いよいよ境涯は限りなく開け、福運を積んでいくことができるんです。信心は、決して義務ではない。自身の最高の権利です。この微妙な一念の転換に信心の要諦がある」
 彼は、皆が創価家族として、信心の歓喜、醍醐味を満喫しながら、聡明に、楽しく、広布の道を進んでもらいたかったのである。


誓願 八十二

 第一回SGIアジア総会三日目の二十七日には、アジア十五カ国・地域二百五十人と、沖縄をはじめ、日本の同志が参加して、アジア総会並びに平和音楽祭が、本部幹部会、沖縄県総会の意義を込めて盛大に行われた。
 沖縄は、ちょうど、本土復帰二十周年を迎え、同志たちは、“この島々を常寂光土に、永遠の幸福島にしよう!”との決意に燃えていた。また、“アジアの玄関口である沖縄から、立正安国の哲学を発信していこう!”との、誓いを新たにしていたのである。
 アジア各地から集ったメンバーも、“互いに心を合わせ、友好と信頼の絆を結び、平和交流の礎を築いていかなければならない”との思いを強くしていた。
 音楽祭では、インドの男子部長がSGI「アジア宣言」を英語で発表した。
 「われらアジアのSGIメンバーは、次の三点を宣言するものである。
 @自国の文化・伝統を重んじ、社会の繁栄のために『信心即生活』の実証を!
 Aグローバリズムに立脚した国際的な文化交流、教育交流を活発に!
 B国連を中心とした新たな平和秩序確立の努力に協力していく」
 宣言は、全員の賛同の拍手で採択された。
 次いで沖縄音楽隊・鼓笛隊のファンファーレ「アジアの夜明け」に続いて、マレーシア、インドネシア、フィリピン、シンガポール……と、民族衣装に身を包み、喜びの舞や合唱を次々に披露していった。伸び伸びと広布に生きる躍動感と若い活力にあふれていた。
 フィナーレでは、沖縄復帰の年(七二年)に生まれた二十歳のメンバーを中心に構成した二百人の合唱団が登場し、「地涌の行進」「わったーうちなーちゅらさじま」(私たちの沖縄は美しい島)を熱唱。沖縄の即興の踊り「カチャーシー」を舞いだす人もいる。
 山本伸一は、県幹部から、出演者が二十歳の青年たちと聞くと、目を輝かせた。
 「すごいね。青年は皆が宝だ。青年が元気に信心に励んでいる限り、未来は盤石だ」


誓願 八十三

 山本伸一は、さらに沖縄の幹部に言った。
 「若い力を大切にし、一人ひとりを抱きかかえるように、磨き、育てていくんだよ。放っておいては人は育ちません。
 先輩は、後輩と一緒に祈り、共に御書を研鑽し、共に家庭訪問や弘教に歩き、徹底して信・行・学を教えていくんです。粘り強く面倒をみていくことが大事だ。
 そして、この合唱祭のように、青年を表に立て、自主性、主体性を生かしながら、自由に、伸び伸びと力を発揮してもらうんです。
 その姿が、そのまま、未来の沖縄創価学会の縮図になる。
 後輩を、一人、また一人と、自分以上の人材に育て上げていった人こそが大指導者です。今、真剣に青年を育成し、それを伝統にしていくならば、二十一世紀の沖縄は盤石です」
 若者たちの熱と力にあふれた歌声に合わせて、場内の参加者も、次々と踊りだし、「カチャーシー」の輪が広がる。
 歴史や文化は違っても、“アジアの心”“平和の心”は一つに解け合っていった。
 伸一は、マイクに向かうと、語り始めた。
 「『花』がある。『海』が広がる。『光』があふれる。沖縄研修道場は、『春爛漫』である」――すると、大拍手が広がった。
 それは、邪宗門の鉄鎖を断ち切り、晴れやかに創価の大行進を開始した、歓喜にあふれた皆の心と、見事に響き合ったからだ。
 彼は、スピーチのなかで、フィリピンに研修道場を建設することや、香港に次いでシンガポールにも創価幼稚園の設立が決まったことなどを発表した。全てが希望に満ちていた。
 また、かつて沖縄は、「万国の津梁」と呼ばれ、国々を結ぶ懸け橋の役割を担ってきたことを紹介。沖縄での、このアジア総会は、二十一世紀へと向かう、哲学と文化と平和の「大交流時代」の幕開けとなることを述べた。
 語りながら伸一は、“アジアの民衆の幸福と平和を願われた戸田先生が、この総会をご覧になったら、どれほど喜ばれることか”と、心深く思った。


誓願 八十四

 沖縄には、「命どぅ宝」(命こそ宝)という生命尊厳の精神、また、「いちゃりば兄弟」(行き会えば、兄弟)という、開かれた友情の気風がみなぎっている。
 「身命の儀、どの宝物よりも大切に存じ保養いたすべく候」(注)とは、琉球の名指導者・蔡温の言葉である。
 ところが、あの太平洋戦争では、凄惨な地上戦が展開され、多くの県民が犠牲となった。
 山本伸一は、沖縄に思いを馳せるたびに、国土の宿命転換と立正安国の実現の必要性を痛感してきた。
 彼が第三代会長就任から二カ月半後の、一九六〇年(昭和三十五年)七月十六日に沖縄を初訪問したのも、この日は、日蓮大聖人が「立正安国論」を提出された日であったからだ。沖縄の同志が、立正安国の先駆けとなる永遠の平和・繁栄の楽土建設へ、立ち上がってほしかったのである。
 初の沖縄訪問の折、伸一は、南部戦跡も見て回った。同志たちから、悲惨な戦争体験も聞いた。胸が張り裂ける思いであった。そして、“沖縄を幸福島に! 広宣流布の勝利島に! そのために私は、沖縄の同志と共に戦っていこう!”と、深く、固く心に誓った。
 仏法の法理に照らせば、最も不幸に泣いた人こそ、最も幸せになる権利がある。
 六四年(同三十九年)十二月二日、彼が「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない……」との言葉で始まる、小説『人間革命』の筆を沖縄の地で起こしたのも、その決意の証であった。
 「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」――同書のこのテーマこそ、恩師・戸田城聖が示した平和建設の原理である。
 七七年(同五十二年)、沖縄研修道場が誕生する。ここは、かつて米軍のメースB基地であり、発射台のミサイルは、アジアに向けられていた。それならば、そこを、世界への平和の発信地にしていこうと伸一は思った。

■引用文献
 注 高良倉吉著『御教条の世界―古典で考える沖縄歴史―』ひるぎ社


誓願 八十五

 沖縄研修道場の開設にあたって、当初、ミサイルの発射台は、撤去する予定であった。それを聞くと、山本伸一は提案した。
 「人類が愚かな戦争に明け暮れていた歴史の証拠として残してはどうだろうか。そして、この研修道場を世界の平和の象徴にしていこう!」
 研修道場は整備され、発射台の上には、未来をめざす六体の青年像が設置され、恒久平和を決意し合う「世界平和の碑」となった。道場内には、ヒカンザクラやブーゲンビレア、ハイビスカスをはじめ、百種類を超える花や草木が咲き競う。かつてのメースB基地は、今や、多くの友が集い、広宣流布を、世界の平和を誓い合う地へと蘇ったのだ。
 日蓮大聖人は、「浄土と云ひ穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり」(御書三八四ページ)と仰せである。もともと土に隔てがあるわけではなく、そこに住む人間の心、一念のいかんで、自分の住む場所を、最高の環境に変えていくことができるとの御断言である。言い換えれば、一切の主体者である人間自身の生命の変革があってこそ、平和で豊かな社会環境を築いていくことが可能になるのである。
 大聖人の御生涯は、「立正安国」の実践に貫かれている。「立正」(正を立てる)とは、広宣流布することによって、人びとの胸中に仏法という生命尊厳や慈悲の哲理を打ち立てることを意味する。そして、「安国」(国を安んずる)とは、立正の帰結として、社会の繁栄と恒久平和が実現されることをいう。
 ゆえに、立正すなわち広宣流布という仏法者の宗教的使命は、安国という社会的使命の行動へと必然的に連動していくのである。
 立正なくして、真実の安国はない。安国なくして立正の実践の完結もない。
 われらは、誇らかに胸を張り、現実の大地をしっかと踏みしめ、一人、また一人と、対話の渦を起こし、平和をめざして、漸進的に立正安国の前進を続ける。そこに、真実の“民衆勝利”の道がある。


誓願 八十六

 山本伸一は、沖縄研修道場に集ったアジアの同志に、沖縄の同志に、そして、衛星中継で結ばれた日本の全同志に呼びかけた。
 「わが創価家族は、『誠実』と『平等』と『信頼』のスクラムで、どこまでも進む。国境もない。民族の違いもない。なんの隔てもない――人間主義で結ばれた、これほど麗しい“地球家族”は、ほかに絶対にないと確信するものであります! 私どもは、第一級の国際人として、新しいルネサンス、新しい宗教改革の大舞台に出航していきたい」
 ここで彼は、力を込めた。
 「新時代の広宣流布もまた険路でありましょう。『賢明』にして『強気』でなければ、勝利と栄光は勝ち取れません。
 仏法は勝負である。人生も勝負である。一切が勝負である。ゆえに勝たねばならない。勝たねば友を守れない。正義を守れない。
 断じて皆を守り切る。幸福にしていく――そうした『強気』に徹した『勝利のリーダー』になっていただきたい!」
 誓いの大拍手が轟いた。
 伸一は、この沖縄訪問のあと、十年ぶりに大分県を訪れ、県総会で、学会歌の指揮を執った。あの第一次宗門事件で正信会僧による非道な学会攻撃に耐えながら、敢然と創価の正義を叫び抜いた大分の同志たちは、今回の第二次宗門事件では微動だにしなかった。
 皆が、陰険な宗門僧の本質も、学会攻撃の卑劣な手口も、知り尽くしていたからだ。また、御書に照らして、“いよいよ第六天の魔王が競い起こったのだ! 負けてなるものか!”と、強く自覚していたのである。
 同志は、第一次宗門事件を乗り越えたことによって、“断じて、創価学会と共に広宣流布に進むぞ!”との決意も、信心への確信も、一段と増していた。
 御聖訓には、「かたうど(方人)よりも強敵が人をば・よくなしけるなり」(御書九一七ページ)と。難を呼び起こし、難と闘い、難を乗り越えることによって、大飛躍を遂げてきたのが、創価学会の誉れの歴史である。


誓願 八十七

 山本伸一は、広布に走った。
 “権威主義、教条主義の宗門の鉄鎖から解き放たれた今こそ、世界広宣流布の壮大にして盤石な礎を築かねばならない。時が来たのだ! 新時代の希望の朝が訪れたのだ!”
 彼は、西暦二〇〇〇年、つまり二十世紀中に、その布石を終えるため、力の限り、世界を駆け巡ろうと心に決めていた。二十一世紀の開幕の年、伸一は七十三歳となる。そして、八十歳までには、世界広布の基盤を完成させたいと考えていたのである。
 一九九二年(平成四年)六月上旬から七月上旬にかけては、ドイツをはじめ、欧州三カ国とエジプト、トルコを訪問した。ドイツのフランクフルトでは、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ブルガリアなど、中欧、東欧、ロシアの十三カ国の代表メンバーが集い、歴史的な合同会議が行われた。
 伸一は、戸田城聖が東欧・ロシアの民衆のことを深く思い、特に五六年(昭和三十一年)の「ハンガリー動乱」の時には、「実にかわいそうでたまらない。かの民衆は、どれほど苦しんでいるか」と、強く心を痛めていたことなどを紹介し、集った同志を励ました。
 「こうした悲劇を転換しゆくために、戸田先生は、私ども青年に“確固たる生命哲学を打ち立てよ!”“人間主義の行動で世界を結べ!”と呼びかけられた。私は、そうした先生の構想を、一つ、また一つと、実現してきました。今や、先生が憂慮しておられたハンガリーをはじめ、東欧・ロシアの天地に、このように地涌の菩薩が誕生した!」
 どの国も、日蓮仏法を待望していたのだ。
 伸一は、十月には第八次訪中を果たした。この訪問では、中国社会科学院から同院初となる名誉研究教授の称号が贈られた。
 その折、彼は、「二十一世紀と東アジア文明」と題して講演。東アジアに共通する精神性を特徴づけている「共生のエートス(道徳的気風)」について論及し、世界は、人間と人間、また人間と自然が「共生」していく思潮を必要としていると、強く訴えた。


誓願 八十八

 一九九三年(平成五年)を、学会は「創価ルネサンス・勝利の年」と定めた。
 山本伸一は一月下旬から、約二カ月にわたって、北・南米を訪問した。
 アメリカでは、カリフォルニア州にある名門クレアモント・マッケナ大学で「新しき統合原理を求めて」と題して特別講演した。
 伸一は、世界の新たな統合原理を求めるにあたって、人間の「全人性」の復権がカギを握ると述べ、そのために「寛容と非暴力の『漸進主義』」「開かれた対話」の必要性などをあげ、仏法で説く、仏界、菩薩界に言及した。
 講演の講評を行ったのは、ノーベル化学賞・平和賞受賞者のライナス・ポーリング博士であった。博士は、「講演で示された菩薩の精神こそ、人類を幸福にするもの」と評価し、「私たちには、創価学会があります」と高らかに宣言してくれた。
 さらに、創価大学ロサンゼルス分校では、“人権の母”ローザ・パークスと会談した。
 ――五五年(昭和三十年)、アフリカ系アメリカ人の彼女は、バスの座席まで差別されることに毅然と抗議した。それが、バス・ボイコット運動の起点となり、差別撤廃が勝ち取られていったのである。
 伸一は青年たちと、その人権闘争を讃え、「“人類の宝”“世界の母”ようこそ!」と歓迎した。まもなく迎える彼女の八十歳の誕生日を、峯子が用意したケーキでお祝いもした。
 人間愛の心と心が響き合う語らいのなかで、彼女は、『写真は語る』という本が出版されることに触れた。著名人が、人生に最も影響を与えた写真を一枚ずつ選んで、載せる企画であるという。自分が、その一人に選ばれたことを伝え、こう語った。
 「あのバス・ボイコット運動の際の写真を選ぼうと思っていました。しかし、考えを変えました。会長との出会いこそ、私の人生にいちばん大きい影響を及ぼす出来事になるだろうと。世界平和のために、会長と共に旅立ちたいのです。もし、よろしければ、今日の会長との写真を、本に載せたいのですが」


誓願 八十九

 山本伸一は、“掲載される写真を、自分との語らいの場面にしたい”という、ローザ・パークスの要請に恐縮した。
 後日、出版された写真集が届けられた。彼女の言葉通り、伸一と握手を交わした写真が掲載されていた。「人権運動の母」の、優しく美しい笑顔が光っている。
 冒頭には、こう書かれていた。
 「この写真は未来について語っています。わが人生において、これ以上、重要な瞬間を考えることはできません」。そして、文化の相違があっても、人間は共に進むことができ、この出会いは、「世界平和のための新たな一歩なのです」と――。
   
 伸一は、このアメリカ訪問で、ロサンゼルスにある「寛容の博物館」を訪れている。
 同博物館では、世界各地での人権抑圧や、人類史上最大の残虐行為であるホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の歴史に焦点を当てて、展示が行われていた。館内を見学し、ユダヤの人びとの、受難の過酷さに触れた彼は、同博物館の関係者たちに語った。
 「私は、貴博物館を見学し、『感動』しました! いな、それ以上に『激怒』しました! いな、それ以上に、『このような悲劇を、いかなる国、いかなる時代においても、断じて繰り返してはならない』と、未来への深い『決意』をいたしました」
 民族、思想、宗教等の違いによる差別や抑圧。そして、それをよしとしてしまう人間の心――そこに生命に潜む魔性がある。その魔性と戦っていくことこそ、仏法者の使命にほかならない。
 初代会長・牧口常三郎は、戦時中、戦争遂行のために思想統制を進める軍部政府の弾圧と戦い、獄死した。共に投獄された第二代会長・戸田城聖は、戦後、「地球民族主義」の理念を掲げ立った。この師弟の行動は、人間を分断する、あらゆる「非寛容性」に対する闘争であった。広宣流布とは、人権のための連帯を築き、広げていくことでもある。


誓願 九十

 二月六日、山本伸一は、アメリカのマイアミから、コロンビア共和国へ向かった。セサル・ガビリア・トルヒーヨ大統領並びに文化庁の招聘によるもので、コロンビアは、初めての訪問である。大統領は、一九九〇年(平成二年)八月、同国最年少の四十三歳で就任し、テロ撲滅、麻薬組織の取り締まりに力を注いできた。
 伸一の一行がマイアミを発つ前、コロンビアの首都のサンタフェ・デ・ボゴタ市(後のボゴタ市)の繁華街で、車に仕掛けられた爆弾が爆発し、市民が吹き飛ばされるという事件が起こった。当時、麻薬組織によるテロ事件が相次いでいたのである。国内には非常事態宣言が出されていた。
 コロンビアで伸一は、東京富士美術館所蔵の「日本美術の名宝展」の開幕式などに出席することになっていた。三年前に日本で開催された「コロンビア大黄金展」(東京富士美術館主催)の答礼の意味も込められていた。
 大統領府から伸一に、訪問についての問い合わせがあった。彼は、言下に答えた。
 「私のことなら、心配はいりません。予定通り、貴国を訪問させていただきます。
 私は、最も勇敢なるコロンビア国民の一人として行動してまいります」
 それは、伸一の“誓い”であったのだ。
 四年前、来日したビルヒリオ・バルコ大統領(当時)から、同国の「功労大十字勲章」が贈られた折、伸一は、こう述べている。
 「私どもも“同国民”との思いで、貴国のために貢献していきたいと念願しています」
 彼は、たとえ何があろうとも、信義には、どこまでも信義をもって応えたかった。それが友情の道であり、人間の道であるからだ。
 コロンビア到着の翌七日、支部が結成され、伸一はメンバーと記念撮影し、激励した。
 八日には、大統領府のナリーニョ宮殿にガビリア大統領夫妻を表敬訪問した。この時、彼は、大統領に長編詩を贈り、若き偉大なるリーダーの勇気と行動を讃え、コロンビアの前途に「栄光あれ!」とエールを送った。


誓願 九十一

 ガビリア大統領は、山本伸一の訪問を心から歓迎し、コロンビアの「サン・カルロス大十字勲章」を贈った。
 さらに、この日、伸一は、「日本美術の名宝展」の開幕式に出席し、ここでも文化庁長官から、「文化栄光勲章」を受けている。
 九日、彼は、空路、ブラジルのリオデジャネイロへ向かった。
    
 リオデジャネイロの国際空港では、伸一が到着する二時間前から、一人の老齢の紳士が待ち続けていた。
 豊かな白髪で、顔には、果敢な闘争を経てきた幾筋もの皺が刻まれていた。高齢のためか、歩く姿は、幾分、おぼつかなかったが、齢九十四とは思えぬ毅然たる姿は、獅子を思わせた。今回の伸一の招聘元の一つである、南米最高峰の知性の殿堂ブラジル文学アカデミーのアウストレジェジロ・デ・アタイデ総裁である。
 彼は、当時の首都リオデジャネイロの法科大学を卒業後、新聞記者となり、一九三〇年代、自国の独裁政権と戦った。投獄、三年間の国外追放も経験した。戦後は第三回国連総会にブラジル代表として参加し、エレノア・ルーズベルト米大統領夫人や、ノーベル平和賞を受賞したフランスのルネ・カサン博士らと、「世界人権宣言」の作成に重要な役割を果たしてきた。その後もコラムニストとして差別との戦いに挑み、文学アカデミーの総裁に就任後も、言論戦を展開し続けていた。
 総裁は、ヨーロッパ在住の友人から、伸一のことを聞かされ、著作も読み、また、ブラジルSGIメンバーと交流するなかで、その思想と実践に強い関心と共感をいだき、伸一と会うことを熱望してきたという。
 空港で、今か今かと伸一の到着を待つ総裁の体調を心配し、「まだ休まれていてください」と気遣うSGI関係者に、総裁は言った。
 「私は、九十四年間も会長を待っていた。待ち続けていたんです。それを思えば、一時間や二時間は、なんでもありません」


誓願 九十二

 山本伸一がリオデジャネイロの空港に到着したのは二月九日の午後九時であった。一行を、ブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁らが、包み込むような笑みで迎えてくれた。
 総裁は、一八九八年(明治三十一年)生まれで、一九〇〇年(同三十三年)生まれの恩師・戸田城聖と、ほぼ同じ年代である。伸一は、総裁と戸田の姿が二重映しになり、戸田が、自分を迎えてくれているような思いがした。
 総裁と伸一は、互いに腕に手をかけ、抱き合うようにしてあいさつを交わした。
 「会長は、この世紀を決定づけた人です。力を合わせ、人類の歴史を変えましょう!」
 総裁の過分な讃辞に恐縮した。その言葉には、全人類の人権を守り抜かねばならないという、切実な願いと未来への期待が込められていたにちがいない。伸一は応えた。
 「総裁は同志です! 友人です! 総裁こそ、世界の“宝”の方です」
 世界には、差別の壁が張り巡らされ、人権は、権力に、金力に、暴力に踏みにじられてきた。「世界人権宣言」の精神を現実のものとしていくには、人類は、まだまだ遠い、過酷な道のりを踏破していかなくてはならない――総裁は、そのバトンを引き継ぐ人たちを、真剣に探し求めていたのであろう。
 翌十日、伸一は、リオデジャネイロ市内で行われた、リオの代表者会議に出席した。彼は、明十一日が戸田城聖の生誕九十三年の記念日であることから、恩師の指導を引きながら、仏法と社会生活について言及した。
 「戸田先生は、次のように話されていた。『御本尊を受持しているから、商売の方法などは、考えなくても、努力しなくとも、必ずご利益があるんだという、安易な考え方をする者がいるが、これ大いなる誤りであって、大きな謗法と断ずべきである』(注)」
 戸田は、日蓮仏法は、いわゆる“おすがり信仰”などではなく、御本尊への唱題をもって、わが生命に内在する智慧を、力を引き出し、努力、活用して、価値を創造する教えであると訴えたのである。

■引用文献
 注 「天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか」(『戸田城聖全集1』所収)聖教新聞社


誓願 九十三

 山本伸一は、皆の幸せを願いつつ訴えた。
 「戸田先生は、『法華を識る者は世法を得可きか』(御書二五四ページ)との御文について、努力もせずに、『ご利益があるんだというような読み方は、断じて間違いである』と断言され、こう続けられている。
 『自分の商売の欠点とか、改善とかに気のつかぬ者は、大いに反省すべきであろう。されば、自分の商売に対して、絶えざる研究と、努力とが必要である。吾人の願いとしては、会員諸君は、一日も早く、自分の事業のなかに、“世法を識る”ことができて、安定した生活をしていただきたいということである』(注)
 戸田先生の願いは、そのまま私の願いでもあります。今、世界的に不況の風は厳しい。しかし、私たちは、それを嘆くだけであってはならない。『信心』によって、偉大な智慧と生命力を発揮して、見事に苦境を乗り切ってこそ、『世法を識る者』といえます。
 “信心をしていればなんとかなる”という安易な考え方は誤りです。信心しているからこそ、当面する課題をどう解決していこうかと、真剣に祈り、努力する――その『真剣』『挑戦』の一念から最高の智慧が生まれる。一切の勝利のカギは、この『信心即智慧』の偉大な力を発揮できるかどうかにある」
  
 戸田城聖の生誕記念日である二月十一日――伸一が、戸田の広宣流布への歩みを綴った小説『人間革命』全十二巻の、「聖教新聞」紙上での連載が完結した。
 一九六四年(昭和三十九年)十二月二日に沖縄の地で起稿し、翌六五年(同四十年)の元日付から「聖教新聞」に連載を開始。途中、海外訪問が続いたり、体調を崩したりしたことなどから、長い休載期間もあったが、前年の九二年(平成四年)十一月二十四日に脱稿し、この二月十一日付で、千五百九回にわたる連載を終えたのである。文末に伸一は、「わが恩師 戸田城聖先生に捧ぐ」と記した。
 この書は、弟子・山本伸一の、広布誓願であり、師への報恩の書でもあった。

■引用文献
 注 「天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか」(『戸田城聖全集1』所収)聖教新聞社


誓願 九十四

 十一日、山本伸一は、リオデジャネイロ連邦大学での名誉博士号の授与式に出席した。
 謝辞のなかで彼は、この日が恩師・戸田城聖の生誕記念日であることに触れ、師の哲学について語った。
 「私は恩師から、“誰人であれ、平等に、内なる生命の最極の宝を開いていくことができるという哲学”を学びました。また、“誠実なる対話を積み重ね、民衆の連帯を広げゆく平和の王道”を託されました。そして“『民衆のため』『人間のため』という慈悲の一念に徹しゆく時、智慧は限りなく湧いてくるという人間学”を受け継いだのであります。
 恩師は、戦後間もなく『地球民族主義』という理想を青年に提唱いたしました。当時は、全く評価されませんでしたが、民族紛争の激化に苦しむ現代世界は、この『共生の道』を志向し始めております」
 彼は、わが師の偉大さを世界に宣揚したかった。また、自分を育んでくれた恩師に、この名誉博士号を捧げたかったのである。
  
 翌十二日、伸一は、リオデジャネイロのブラジル文学アカデミーを訪れ、アタイデ総裁と会談した。ここでは、以前から話が出ていた総裁との対談集『二十一世紀の人権を語る』の発刊について合意がなされた。
 対談の進め方としては、まず伸一の方で、いくつかの質問事項を用意して、渡すことになった。
 総裁は語った。
 「嬉しいことです。人権の問題について、ここまで理解してくださっている会長と対話できるとは。確かに『世界人権宣言』は、発表されました。しかし、その精神を、最も明確に、現実の行動の上に翻訳し、流布してくださっているのは会長です。作成した人びと以上の功績です。人間は『行動』です。とともに『思想』が大事です。二人で対談集を完成させましょう」
 伸一は、総裁の、この大きな期待に応えねばならぬと、決意を新たにしたのである。


誓願 九十五

 アタイデ総裁は、静かだが、深い思いのこもった口調で、山本伸一に切々と訴えた。
 「私は、もうすぐ百歳を迎えます。これまで生きてきて、これほど『会いたい』と思った人は初めてです。
 会長は、偉大な使命のある方です。人間学と人間性の人であり、精神の指導者です。
 会長の人生には、すべて意味がある。世界の命運は、会長の行動とともに次第に大きく開かれてきました。人類の歴史を転換している方です。
 自らの行動で構想を現実化し、具体化してこられたことに、私は敬服します」
 伸一は、総裁の自分への期待には、「世界人権宣言」の精神を、なんとしても現実のものにしなければならないという、強い心が込められていることを感じた。
 総裁は、伸一を、見つめながら語った。
 「『新しい世紀』が、まもなく、やってきます。それは、ブラジルと日本、そして世界にとっての『新しい時代』が、やってくることを意味するのではないでしょうか」
 「そうです。『新しい時代』をつくるために総裁は戦ってこられた。私も同じです。目的は、人類が幸福に生きられる『新しい時代』を開くことです」
 伸一が、答えると、総裁は、微笑みを浮かべ、そして、力強い声で言った。
 「『言葉』を意味するラテン語の『ウェルブム(verbum)』とは、また、『神』を意味します。私たちは、この崇高なる『言葉』を最大の武器として戦いましょう」
 二つの魂は、強く、激しく響き合った。
 伸一は、アタイデ総裁との会談に引き続いて、ブラジル文学アカデミー在外会員(外国居住者)の就任式に出席した。
 同アカデミーは、ブラジルが王制から共和制に移行したあとの一八九七年に、祖国ブラジルを「知の光」で導いていこうとの熱願のもとに創立された。四十人の国内会員と二十人の在外会員から構成されており、いずれも終身会員である。


誓願 九十六

 ブラジル文学アカデミーが、“文化・文学の偉大なる保護者”と認める在外会員には、ロシアの文豪レフ・トルストイ、フランスの人道主義作家エミール・ゾラ、イギリスの社会学者のハーバート・スペンサーなど、知の巨人たちが名を連ねてきた。
 山本伸一は、日本人としても、東洋人としても、初めての在外会員となる。
 就任式には、アントニオ・オアイス文化大臣(大統領代理)をはじめ、ブラジル各界の著名な識者、文化人らが出席した。また、イタマル・フランコ大統領からも祝福のメッセージが寄せられた。
 さらに、席上、「マシャード・デ・アシス褒章」が伸一に贈られた。文学アカデミーの初代総裁となったマシャード・デ・アシスの名を冠した、この褒章は、“世界的業績を残した文化人”に対して、特別に授与される同アカデミー最高の栄誉章とのことであった。
 伸一は、在外会員就任を記念し、「人間文明の希望の朝を」と題して講演を行った。
 ――科学技術の発達に伴い、地球一体化が進む現在、宗教は、人間の精神性を陶冶し、善きものへと高めながら、新たなコスモス(調和の世界)形成の基盤となっていかねばならない。そうした開かれた宗教性こそが、二十一世紀の地球文明のバックボーンとなるであろう、と訴えた。
 この式典には、ブラジルの新聞各社が取材に訪れており、伸一の在外会員就任と記念講演を報道した。
 彼は、ブラジル文学アカデミーをはじめ、ブラジルでの顕彰は、SGIメンバーの社会貢献と、学会理解への着実な努力の勝利であると思った。かつては、学会への誤解と偏見から、伸一の入国さえ許可されないことがあったが、今、南米最高の知性の殿堂から最高の評価と深い信頼を得て、在外会員となる時代になったのである。目立たぬ日々の奮闘の積み重ねが、社会を動かしていく。
 伸一は、一人ひとりの同志を心から讃え、「ブラジル万歳!」と叫びたかった。


誓願 九十七

 山本伸一がリオデジャネイロを発ち、初訪問となるアルゼンチンへ向かったのは、二月十四日であった。
 ブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁は、その後、しばらくして体調を崩した。しかし、伸一との対談集発刊への情熱は、いささかも衰えなかった。幾分、健康が回復すると、六月半ばから、伸一が示した質問と意見に対する回答を口頭で述べ、テープに録音した。
 限りある人生の時間と、懸命に戦うかのように、力を振り絞り、言葉を紡ぎ出していった。到来する「新しい時代」のための「人権の闘争」に、最後の最後まで命をかけたのだ。
 対談集の準備は、リオデジャネイロでの二人の語らいをベースに、書簡で続けられた。総裁の最後の口述となったのは八月中旬であった。数日後に入院し、一九九三年(平成五年)九月十三日、人権の巨星は、九十五歳を目前にして、偉大なる生涯の幕を閉じた。
 対談集『二十一世紀の人権を語る』は、月刊誌『潮』に連載されたのち、九五年(同七年)二月十一日に発刊されている。
 伸一は、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスに到着した翌日の十五日、宿舎のホテルで、アルベルト・コーアン大統領府元官房長官と会談したあと、市内で行われたアルゼンチン代表者会議に出席した。
 参加者のなかには、十八日に開催される、第十一回世界青年平和文化祭の準備に励む青年たちの、日焼けした元気な顔もある。
 アルゼンチンでも、青年が立派に成長し、広布の未来が限りなく開かれていた。
 この十五日の夕刻は、日本時間では十六日の朝にあたり、日蓮大聖人の御聖誕の日である。伸一は、集った友に力強く訴えた。
 「ひとたび太陽が東天に昇れば、その大光は遍く全世界を照らす。同様に日本に聖誕された大聖人の『太陽の仏法』は、全地球の全民衆を赫々と照らし、妙法の大慈悲の光を注いでいきます。そして、この大聖人の仏法の世界性、普遍性を見事に証明してくださっているのが、アルゼンチンの皆様の活躍です」


誓願 九十八

 山本伸一は、声を弾ませて語っていった。
 「アルゼンチンと日本は、地球の反対側に位置し、距離的には最も離れています。そのアルゼンチンの皆様と、日蓮大聖人の御聖誕の日をお祝いすることができた。大聖人は、どれほどお喜びであろうか。
 アルゼンチンのことわざに『太陽は皆のために昇る』とあります。大聖人の『太陽の仏法』は『平等の仏法』である。大聖人は『皆のために』――末法万年のすべての民衆のために、大法を説き残された。信仰しているか、信仰していないかによって、人間を偏狭に差別するものでは決してありません。
 どうか皆様は、心広々と、太陽のように明るく、アルゼンチンの全国土、全民衆に希望の光彩を送っていただきたい」
 彼は、「臨終只今にあり」(御書一三三七ページ)との思いで励ましを続け、同国の大詩人アルマフェルテの言葉「時には、『偉大なる運命』が眠っている場合がある。それを呼び覚ますのは『苦悩』である」を紹介した。
 「仏法で『煩悩即菩提』と説かれているように、問題や悩みを抱えていない人など、おりません。また、そんな一家もなければ、そんな地域もありません。
 人生は、悩みとの戦いです。大事なことは、自分にのしかかる、さまざまな苦悩や問題を、いかに解決していくかです。『悩み』を越えた向こう側にある『勝利』に向かって、知恵を絞り、努力を重ねることです。
 もし、こんな悩みがなければ――と現実を離れ、夢を見ているだけの生き方は、敗北です。どうすれば、今の課題を乗り越え、価値と勝利に変えていけるか――常に、その前向きな努力をなす人が『勝つ人』なんです。
 自分の一念が、そのまま人生となる――この真理を、見事なる勝利の劇で証明する『名優』であっていただきたい。また、周囲にも『自信』をもたせる『励ましの人』であっていただきたい」
 伸一は、アルゼンチンの同志が一人も漏れなく「不屈の勝利王」であってほしかった。

■語句の解説
◎煩悩即菩提
 煩悩即菩提の煩悩とは、衆生の心身を煩わし悩ませる因となる、さまざまな精神作用のこと。法華経以前の教えでは、煩悩は苦悩をもたらす因であり、それを断じ尽くして菩提(悟り)に至ると説いたが、法華経では、煩悩を離れて菩提はなく、煩悩をそのまま悟りへと転じていけることを明かした。

■引用文献
 注 ALMAFUERTE著『OBRAS COMPLETAS』EDITORIAL CLARIDAD S.A.(スペイン語)


誓願 九十九

 二月十六日正午、山本伸一は、ブエノスアイレスの大統領公邸に、カルロス・サウル・メネム大統領を表敬訪問した。
 語らいで伸一は、二十一世紀は、「人類一体化の世紀」「地球文明興隆の世紀」にしなければならないとして、民族の融合の大地アルゼンチンに脈打つコスモポリタニズム(世界市民主義)に期待を寄せた。
 今回の南米訪問では、各国で、国家指導者等との会見や記念の式典が、間断なく続くことになる。そのスペイン語の通訳・翻訳を見事に務めたのが、アルゼンチン出身の女子部の友たちであった。
 彼女たちは、日系人の両親のもと、アルゼンチンで育った。少女時代に、鼓笛隊の活動を通して、信心を学び、“人びとの幸せのために、広布のために生きたい”との思いを深めていった。
 そして、アルゼンチンの国立大学や、国費留学生として日本の大学で懸命に勉学に励む一方、語学の習得にも力を注ぎ、SGIの公認通訳となったのである。
 若き生命に植えられた“誓い”の種子は、やがて“使命”の大樹となって空高く伸びる。
 十六日の夜、伸一は、アルゼンチンの上院、並びに下院を表敬訪問した。
 上・下両院のある国会議事堂は、荘厳なグレコローマン様式であり、一九〇六年(明治三十九年)に完成。軍事政権時代は議会活動の禁止によって閉鎖されていたが、八三年(昭和五十八年)、軍政に終止符が打たれると、国会議事堂として復活した。アルゼンチンの“民主の朝”を告げる象徴となった。
 上院では伸一の「平和への不断の活動」に、下院では彼の「『世界の諸民族の平和』への闘争」に対して特別表彰が行われた。地球の反対側にあって、伸一の発言に耳を傾け、その行動を注視してきた人びとがいたのだ。
 これもアルゼンチンの同志が、誠実に対話を重ね、信頼を広げてきたからこそである。
 伸一は、メンバーの奮闘に心から感謝し、その栄誉を、皆と分かち合いたいと思った。


誓願 百

 上院議長は、山本伸一との語らいの折、アルゼンチン議会で、伸一の平和提言などをもとにして、法律を作ったことを伝えた。
 それは、新たに「平和の日」を設け、アルゼンチンの小学・中学・高校等で、平和について学び合い、諸行事を行うという法律である。
 同法制定の理由のなかで、「ある優れた日本の思想家は、われわれが今日、生きている時代の挑戦すべきことを、以下のように要約している」として、一九八三年(昭和五十八年)の「SGIの日」記念提言の次の一節を引用し、伸一の名を明記している。
 「二十一世紀は我々の眼前にあります。その輝かしい舞台で活躍する若い世代の前途を、戦火が焼き尽くすようなことがあっては断じてなりません。真に民衆が主役の時代を築くか否かは、すべて国民の手にかかっております。その賢明な進路の選択が、今ほど要請されている時はありません」
 この法律は、八五年(同六十年)八月に発布されている。
 上院議長は語った。
 「『平和とは、戦争がない状態をいうのではない』とのSGI会長の訴えは、人間が人間らしい尊厳をもって生きられる世界をつくろうとのメッセージだと思います。幸い、冷戦は終わりましたが、世界には多くの戦争があります。私は、会長やSGIの活動のなかにこそ、それらを等しく解決するための『基準』と『価値観』があると信じています」
 SGIへの世界の期待は、余りにも大きかった。生命尊厳の仏法を基調とした平和運動が、時代の要請となっていることを、同行した誰もが実感したのである。
 翌十七日には、アルゼンチンの国立ローマス・デ・サモーラ大学から伸一に、「名誉博士号」「法学部名誉教授」の称号が贈られ、その授与式が行われた。また、席上、伸一の同国訪問をブエノスアイレス州の公式行事にすることを宣言した州議会の議決が発表されるとともに、同州の十の市から、「市の鍵」「市の盾」等が贈られたのである。


誓願 百一

 二月十八日夜には、第十一回世界青年平和文化祭が、「民族融合の大地に 希望の曲」をテーマに、男女青年部ら千五百人が出演して、ブエノスアイレス市のコリセオ劇場で、はつらつと開催された。
 同市の公式認定行事となった、この文化祭には、ガリ国連事務総長も祝福のメッセージを寄せ、フロンディシ元大統領をはじめ、ブエノスアイレス市長、コルドバ大学、ローマス・デ・サモーラ大学、ラ・マタンサ大学の各総長や各界の代表、そして、中・南米十カ国のSGI代表などが出席した。
 来賓の一人は、感慨無量の表情で語った。
 「アルゼンチンは、ヨーロッパ各国から移住してきた人びとが大多数を占める国です。摩擦もありました。出身国への郷愁も強い。同じアルゼンチン人としての意識も薄れがちです。文化祭のテーマ『民族融合の大地』は、私たちの心からの願いなのです」
 その融合の縮図を、この文化祭に見て、共感、感動したというのである。また、「SGIは、世界市民の創出をめざしている。こうした視点が今、必要だ」との声もあった。
 文化祭は、会場を航空機に見立てて、アルゼンチンという大地から、「世界」「人類」の平和の大空へと旅立つ様子を表現していく。
 ステージでは、フラッグ隊、鼓笛隊、コーラスグループなど、未来っ子の演技が続き、青年たちのエネルギッシュなモダンダンスや、世界三大劇場の一つであるコロン劇場の六人のダンサーによる、優美にして軽やかな踊りが披露された。
 文化祭の圧巻は、アルゼンチンタンゴの大巨匠であるオスバルド・プグリエーセとマリアーノ・モーレスの共演であった。
 出席者は、目を見張り、耳を疑った。まさに“世紀のイベント”であり、“夢の共演”であった。なかでもプグリエーセは、一九八九年(平成元年)十一月の引退公演で、七十年間のタンゴ人生を締めくくり、「もう舞台にあがることはない」と噂されていた。
 伸一は、巨匠の厚情に、深く感謝した。


誓願 百二

 世界青年平和文化祭の三日前にあたる十五日のことである。会場のコリセオ劇場に姿を見せたマリアーノ・モーレスは、アルゼンチンのメンバーに語った。
 「文化祭が行われる十八日は、私の誕生日です。でも、お祝いはしません。SGI会長と皆さんのために演奏します」
 モーレスは、最初に文化祭の開催を聞いた時、「それは、すばらしい。私もできる限り応援します」と言って、出演を約束したのだ。
 山本伸一とモーレス夫妻の最初の出会いは、一九八八年(昭和六十三年)四月、民音公演で来日した折であった。モーレスは、将来、曲を作り、SGI会長に贈りたいと語り、伸一は、四年前に亡くなった夫妻の子息を偲び、「富士を望む良き地を選んで、桜を記念植樹させていただきたい」と申し出た。
 その後、モーレスは、伸一に、新曲「アオーラ」(今)を献呈している。
 一方、オスバルド・プグリエーセ夫妻との出会いは、八九年(平成元年)、民音で引退公演を行うために来日した時である。プグリエーセは、伸一のためにタンゴの曲を作りたいと述べ、その約束を果たし、「トーキョー・ルミノーソ」(輝く東京)を作曲して贈った。副題は、伸一の提案によって、「友情の賛歌」となっていた。
 モーレスが劇場に来た翌日、今度は、プグリエーセが楽団を率いて劇場を訪れた。練習のためである。楽器が運び込まれた。彼が愛用してきたグランドピアノもあった。八十七歳の巨匠が、なんと、そのピアノを自分で押そうとしたのだ。南米最高峰のタンゴ王が、わざわざ練習に来るとは思ってもみなかったうえに、自らピアノを動かそうとする姿に、居合わせたメンバーは驚きを隠せなかった。
 二人とも、一人の人間として、伸一との信義に応え、人類の平和を願う青年たちの文化祭に賛同し、惜しみない協力をしてくれたのだ。友情の輪の広がりこそが、人間を結ぶ力となる。
 「平和」とは「友情」の異名といえよう。


誓願 百三

 「タンゴの皇帝・プグリエーセ」と「タンゴの王者・モーレス」の“夢の共演”に、青年平和文化祭は沸き返った。
 山本伸一は、一つ一つの演技に大きな感動を覚えながら、励ましと賞讃の拍手を送り続け、文化祭を記念して和歌を贈った。
 「天も地も 喜び祝さむ 文化祭
    アルゼンチンの 諸天は舞いけり」
  
 翌十九日午後、第一回アルゼンチンSGI総会が、ブエノスアイレス市郊外の会場で開催された。これには全国からメンバー二千五百人が集ったほか、中・南米三カ国、スペインの友も参加した。
 席上、同国最古の大学である国立コルドバ大学から伸一に、「名誉博士号」が贈られた。
 フランシスコ・J・デリッチ総長は、授与の理由に、伸一が、「新たなヒューマニズム(人間主義)」を確立し、広げてきたこと、それによって、「東洋」と「西洋」の融合が可能であると知らしめたことをあげた。
 「私どもは教えていただきました。人類は『文化』『宗教』の違いによる対立を乗り越えられるのだと。そして、異なる地域性や距離・時代の隔たりを超えて、友好を結ぶことができるのだと――この偉大な『平和』と『友愛』の普遍のメッセージは、あらゆる『国境』を越え、人類の無知が人間を制限する『心の国境』をも超えて、人類を一つに結びゆくものであります」
 総会では歓迎のアトラクションもあり、アルゼンチンのフォルクローレ(民謡)などが次々と披露された。ギターをかき鳴らし、足を踏み鳴らし、陽気な歌と舞の輪が広がった。支部結成以来二十九年、待ちに待った伸一との出会いの喜びを皆が全身で表現した。
 伸一は、総会の前後も、役員など、さまざまなグループとカメラに納まり、激励を続けた。この訪問で彼と出会い、励ましを受けた青年たちや少年少女が、二十一世紀の同国のリーダーへと育っていくのである。
 「励まし」は、成長を促す力となる。


誓願 百四

 山本伸一の平和旅は続いた。
 一九九三年(平成五年)二月二十日、伸一の広布開拓の舞台は、アルゼンチンからパラグアイへと移った。このパラグアイも初めての訪問である。そこは、大河パラグアイ川をはじめ、幾多の河川が大地と人間を潤す、美しき「森と水の都」であった。
 空港では、首都アスンシオン市の市長から、歓迎の「市の紋章」の盾が贈られた。
 翌二十一日、伸一は、パラグアイ文化会館に七百人の同志が集って行われた、同国の第一回SGI総会、パラグアイ広布三十二周年を記念する「友好の夕べ」に出席。ここでも真っ先に子どもたちを励ました。
 「みんなに会えて嬉しいよ。大きくなったら日本へもいらっしゃい。待っています」
 総会で彼は、草創期を築いた同志の名をあげて、その功労を讃えた。さらに、アマンバイ地区、そして、サンタローサ、エンカルナシオン、イグアス、アスンシオンの各支部名を読み上げ、奮闘をねぎらっていった。
 移住した日系人から始まった広布であり、計り知れない苦労があったにちがいない。
 パラグアイの同志は、決して多いとはいえないが、メンバーは、日本からの移住者をはじめ、皆が勤勉に努力を重ね、社会に深く信頼の根を張り巡らせてきた。
 九〇年(同二年)にアスンシオン市で「世界の少年少女絵画展」(SGI、パラグアイ文部省共催)を開催した折には、アンドレス・ロドリゲス大統領も出席している。
 また、今回の伸一の訪問を歓迎し、郵政局では、彼の滞在期間中、すべての郵便物に「SGI」の消印を押すことを決定した。その決議文には、「SGIは、世界平和の実現、民衆の相互理解の深化、文化の尊重を根本的な目的として活動し、国連のNGOでもあり、価値を創造するための団体である」とあり、「SGI会長の訪問は、国家諸機関及び関係団体が敬意と共鳴を表すべきものである」としていた。
 同志の地道な社会貢献の結実といえよう。


誓願 百五

 第一回パラグアイSGI総会の席上、山本伸一は、「諸天は、勇気ある人を守る!」と訴え、一人立つことの大切さを語った。
 「人数ではありません。一人、真剣に立ち上がれば、自分に縁するすべての人びとを、また、環境も栄えさせていくことができる。そのために、真剣に祈り、行動している事実が大事なんです」
 信仰という赫々たる太陽を燃やしながら自分の周囲に、わが地域に、希望と蘇生の大光を送り、友情と励ましの人間共和の連帯を築き上げていく――そこにこそ、広宣流布の確かな軌道があり、世界最先端のSGIの運動の意義もある。
 さらに、一生涯、信心の火を消すことなく信念を貫いていくよう望み、こう強調した。
 「何があろうが一喜一憂するのではなく、『生涯』という視野に立って、悠然と進んでいくことです。また、お子さん方にとっては、今は勉強が仕事です。信心の基本だけは、きちんと学びながら、徹底して『勉学第一』で進むことが、『信心即生活』となります。
 信心の継承といっても、信仰は、子ども自身が選択していく問題です。要は、『大変な時には真剣に唱題すれば、必ず乗り越えられる』ということを、しっかりと示し、教えていくことです。あとは、いたずらに神経質になることなく、伸び伸びと成長させていただきたいのであります」
 「友好の夕べ」では、同志の喜びが爆発した。婦人部の合唱団や少年少女の合唱団が、さわやかな歌声を響かせた。賑やかな調べに乗って、伝統の「ダンサ・デ・ラ・ボテージャ」(ビンの踊り)も披露された。
 さらに、会友である世界的ギタリストのシーラ・ゴドイが、この日のために作曲した「ファンタジア・ハポネス」(日本の夢)の演奏で祝福した。
 また、後継の音楽隊、鼓笛隊は、草創の時代から歌い継がれてきた「パラグアイ本部歌」を誇らかに奏でた。この歌には同志たちの忘れ得ぬ思い出があった――。


誓願 百六

 一九七四年(昭和四十九年)、山本伸一は、ブラジルを訪問する予定であった。しかし、学会に対する誤解などがもとでビザが発給されず、結局、ブラジル行きはなくなった。
 この時、パラグアイ音楽隊は、伸一の前で演奏し、パラグアイの同志の心意気を示したいと、ブラジルをめざした。ところが、彼らも入国は許可されなかった。それでも、観光地であるブラジル国境のイグアスの滝までは、バスで入ることができた。
 「よし、ここで演奏しよう! 自分たちの心は、先生に届くはずだ」
 彼らは、大瀑布の轟音と競うかのように、力いっぱい演奏した。
 その十年後の八四年(同五十九年)、伸一は十八年ぶりにブラジルを訪れた。喜びに胸を躍らせて駆けつけたパラグアイのメンバーが、伸一の前で熱唱したのが、この「パラグアイ本部歌」であった。
  
 梢をわたる 風の音
  コロラドの森 越えゆけば
  流れる汗か 同志の顔
  コロニア(入植地)の道 果てしなし
           (作詞・山本邦男)
  
 歌を聴き終わった伸一は言った。
 「いい歌だ! 決意が伝わってきます。
 今度は、パラグアイにも行くからね」
 以来九年、遂に、念願が叶い、この日を迎えたのだ。
 「友好の夕べ」で伸一は、音楽隊、鼓笛隊の演奏に大きな拍手で応えながら言った。
 「ありがとう! 生命が共鳴しました。
 二十一世紀には、青年の皆さんが、草創の同志の後を継いで、使命の空へ、大きく羽ばたいてください。また、皆が私を超えていってください。その時、広宣流布の流れは、全世界を潤す、滔々たる大河となるでしょう」
 二十二日、伸一は大統領府にロドリゲス大統領を表敬訪問した。その折、長編詩「民衆の大河の流れ」を贈っている。


誓願 百七

 山本伸一は、大統領との会見に続いて、パラグアイの外務省を訪れた。同国の「国家功労大十字勲章」の授章式に出席するためである。授章式であいさつに立った外相は、伸一の平和行動に言及し、こう語った。
 「誠実な『対話』を通してのみ、差別をなくし、地球規模での恒久平和と相互理解が得られるとの信条による、会長の平和への戦いは、人類の規範です」
 さらに、この二十二日には、パラグアイ国立アスンシオン大学から伸一に、哲学部名誉博士号が贈られ、その授与式に出席した。
 そして、二十三日夕、彼は、次の訪問地のチリへと向かったのである。
 「天も地も 川の流れも 仏土かと
    地涌の菩薩の 君たち忘れじ」
 彼がパラグアイの友に贈った和歌である。
  
 パラグアイを発った搭乗機は、アンデス上空を飛行していった。眼下に広がる山々の残雪が、夕映えのなかで、黄金に輝いていた。
 チリは、伸一にとって、ちょうど五十カ国目の訪問国となる。思えば、どの国も、一つ、また一つと、全精魂を注いで歴史の扉を開く、真剣勝負の広布旅であった。
 戸田城聖は、第二代会長に就任した翌一九五二年(昭和二十七年)の正月、「いざ往かん 月氏の果まで 妙法を 拡むる旅に 心勇みて」と詠んだ。また、生涯の幕を閉じる十日ほど前、伸一を枕元に呼び、メキシコに行った夢を見たと語った。
 「待っていた、みんな待っていたよ。日蓮大聖人の仏法を求めてな。行きたいな、世界へ。広宣流布の旅に……」――そして、命を振り絞るようにして言うのであった。
 「君の本当の舞台は世界だよ」「うんと生きるんだぞ。そして、世界に征くんだ」
 戸田の心は、全世界の民衆の幸福にあり、世界広布にあった。しかし、恩師は、一度も海外に出ることはなかった。伸一は、戸田の言葉を遺言として生命に刻み、師に代わって世界を回り、「太陽の仏法」を伝えてきた。


誓願 百八

 山本伸一は、恩師・戸田城聖の逝去から二年余がたった一九六〇年(昭和三十五年)五月三日、第三代会長に就任すると、その五カ月後の十月二日には、世界平和の旅へ出発した。
 第一歩を印したハワイでは、連絡の手違いから、迎えに来るべきメンバーも来ていなかった。旅先で著しく体調を崩し、高熱に苦しんだこともあった。学会への誤解から、政治警察の監視のなかで、同志の激励を続けた国もあった。
 北・中・南米へ、アジアへ、ヨーロッパへ、中東へ、アフリカへ、オセアニアへと、人びとの幸福を願って駆け巡ってきた。
 社会主義の国々へも、何度となく足を運び、友誼と文化の橋を架けた。
 日蓮大聖人の御遺命である「一閻浮提広宣流布」を実現するために、命を懸ける思いで世界を回り、妙法という平和と幸福の種子を蒔き続けてきた。恩師の戸田と心で対話しながらの師弟旅であった。
 その海外訪問も、このチリの地で、いよいよ五十番目となるのだ。
 彼の脳裏に和歌が浮かんだ。
 「荘厳な 金色に包まれ 白雪の
    アンデス越えたり 我は勝ちたり」
 やがて、山並みの上に、三日月が光を放ち、大明星天(金星)が美しく輝き、星々が瞬き始めた。伸一には、それが諸天の祝福であるかのように感じられた。
 チリに到着した翌日の二十四日、彼は、首都サンティアゴ市の市庁舎で、名誉市民称号にあたる「輝ける賓客章」を受けた。
 その授章決議書には、伸一の訪問は、「チリと日本の『人間相互の理解』を一層深め、さらには人間の基本的な価値観を共有する『友情の絆』を確固たるものにしていく『特別な機会』である」と述べられていた。
 その後、伸一は、サンティアゴのチリ文化会館を訪問し、第一回チリSGI総会に出席した。皆の喜びが弾けた。経済の混乱、軍事政権による人権侵害など、長い冬の時代を越え、今、希望の春の到来を感じていたのだ。


誓願 百九

 チリの首都サンティアゴでは、一九七三年(昭和四十八年)、軍事クーデターが勃発した。上空には戦闘機が飛び交い、街には戦車や武装兵があふれた。メンバーの中心者夫妻の家も、戦いに巻き込まれ、機銃掃射を浴びた。二階は銃弾で蜂の巣のようになったが、夫妻は一階の仏間にいて、無事だった。
 二人は、戒厳令下の街へ飛び出し、同志の安否を気遣い、一軒一軒、訪ねて歩く日々が続いた。集会は禁じられていた。訪問した家々で、“家族座談会”を開いて歩いた。
 その後も、会合の開催には、国防省の許可が必要であり、場所も会館一カ所だけに限られた。しかし、同志は皆、意気軒昂であった。会合の内容を視察に来た警察官にも、SGIの平和運動のすばらしさを訴えた。
 チリの同志は、頬を紅潮させて、当時の様子を山本伸一に報告した。
 「牧口先生も、戸田先生も、戦時中、日本にあって、特高警察の監視のなかで、勇んで広布に戦われてきた。また、山本先生は、私たちに、折々に心温まる励ましを送り、勇気をくださった。先生は、すべてご存じなんだと思うと、力が湧きました」
 師を胸に抱いて同志は走った。いつも心に師がいた。ゆえに負けなかった。各支部や地区で自由に会合が開けるようになったのは、民主政権が実現した三年ほど前からである。
 そのなかで、同志たちは、伸一のチリ訪問を願い、祈って、活動に励み、一日千秋の思いで待ち続けたのである。
 政情不安が続くなか、南北約四千二百キロという広大な国土で、知恵を絞り、工夫を重ね、スクラムを組んで前進してきた同志の苦闘に、伸一は、胸が熱くなるのを覚えた。
 地涌の菩薩は、日本から最も遠い国の一つであるチリにも、陸続と出現していたのだ。
 チリ文化会館で伸一は、未来部の子どもたちにも声をかけた。
 「出迎えありがとう。日本から来ました。日本は、海をはさんでチリのお隣の国だよ」
 子らは夢の翼を広げ、目を輝かせた。


誓願 百十

 第一回チリSGI総会のスピーチで山本伸一は、チリの各地で活動に励む同志の労苦を思いながら、「逆境に負けずに頑張り抜いてこられた皆様には、アンデスの山並みのごとく、限りなく功徳が積まれていくことは絶対に間違いない」と賞讃した。
 伸一は、さらに、このチリで、海外訪問は五十カ国・地域となったことを伝えた。
 三十三年前、富士の高嶺を仰ぎつつ、世界平和への旅を開始して以来、五大州を駆け巡ってきた。そして、日本とは地球のほぼ反対側にあり、“南米の富士”(オソルノ山)がそびえるチリを訪れたのである。
 伸一は、烈々たる気迫で呼びかけた。
 「戸田先生は、さぞかし喜んでくださっているにちがいない。しかし、いよいよ、これからが本番です。常に皆様を胸中に描き、日々、共に行動している思いで、全世界を、楽しく朗らかに、駆け巡ってまいりたい!」
 さらに、「賢きを人と云いはかなきを畜といふ」(御書一一七四ページ)の御文を拝し、賢明な振る舞いの大切さを強調。広宣流布を展望し、広く開かれた心で、メンバーではない方々にも、よく気を配り、互いに尊敬し合い、友情を大切にしながら、仲良く交流を深めていくのが、私どもの信仰であると語った。
 
 「信心即生活」であり、「仏法即社会」である。その教えが示すように、仏法は開かれた宗教であり、決して、学会と社会との間に壁などつくってはならないことを、伸一は訴えておきたかったのである。
 そして、結びに、「一人も残らず、大満足、大勝利、大福運の人生を!」と呼びかけた。
 総会に続いて行われた「創価家族の集い」では、子どもたちが、大きな石像遺物モアイのあるイースター島の踊り「サウサウ」を披露すれば、鼓笛隊が「春が来た」を演奏。また、男女青年部は、民族舞踊「クエカ」を力の限り踊った。
 チリにあっても、広布の開拓者である父や母の心を受け継ぎ、若き世代がたくましく育っていた。希望があり、輝く未来があった。


誓願 百十一

 「創価家族の集い」では、「シ・バス・パラ・チレ」(もしもチリへ行くのなら)を大合唱した。山本伸一も一緒に手拍子を打った。
  
 この地の人びとは皆
  旅人よ あなたを迎えてくれます
  チリでは ほかの地から来た人が
  どれほど好きか
  あなたは おわかりになるでしょう
  
 メンバーは、喜びを満面にたたえ、「世界広布模範」の前進を誓い、熱唱した。
 この日、チリの新しき原点が創られた。
 二十五日正午、伸一は、大統領府(モネダ宮殿)に、パトリシオ・エイルウィン・アソカル大統領を表敬訪問した。大統領とは、前年十一月の来日の折に会見していた。
 その時、民衆に奉仕するリーダー像、劇的なチリ民主化、環太平洋時代を開く両国の文化交流などをめぐって語らいが弾み、十五分とされていた会見時間は、約四十五分になった。
 別れ際、大統領は言った。
 「決してこれが、最初で最後の出会いにならないことを望みます。この次は、ぜひ、わが国で、大統領府でお願いしたい」
 その時の約束が実現したのである。
 大統領は、東京での会見のあと、伸一とトインビー博士との対談集『生への選択』(日本語版『二十一世紀への対話』)を、すべて読了したことを告げ、再会を喜んでくれた。
 語らいでは、文化の力、環境問題などが話題となった。また、伸一は、桂冠詩人として、大統領に長編詩「アンデスの民主の偉容」を贈った。そこには、こうあった。
 「武力に勝る『道理』の力!
  剣の力にも勝る『精神』の力!
  心なき悪しき力は
  たとえ猛威を奮おうと
  所詮 それは一時の幻の勝利
  『道理』の力 『精神』の力こそが
  やがては 納得と歓喜のうちに
  民衆の大地を 広く潤す」


誓願 百十二

 エイルウィン大統領は任期を終えて四カ月後の一九九四年(平成六年)七月、夫妻で日本を訪問し、その折には、創価大学で記念講演を行った。山本伸一とは、通算、三回にわたって会談し、これらの語らいなどをもとに、九七年(同九年)十月、対談集『太平洋の旭日』が発刊されたのである。この年は、「日本・チリ修好通商航海条約」が締結されてから、百周年の佳節にあたっていた。
  
 二月二十五日夜、伸一は、チリから、ブラジルのサンパウロに到着した。
 滞在中、ブラジルSGI自然文化センターに、世界三十二カ国・地域の代表が集った、第十六回SGI総会に出席した。
 総会では、学会員こそ「前人未到の一閻浮提広宣流布の開拓者である」「大聖人直結の誇りを永遠に胸中に燃やしてまいりたい」と呼びかけた。そして、一人ひとりが人間として最大に輝き、その人間の光で家庭を、地域を、社会を照らし、人間と人間の友情を幾重にも結び広げていくSGIの人間主義の大道を、にぎやかに愉快に進もうと訴えた。
 さらに、三月八日にはアメリカのマイアミへ移動し、ここでは研修会等に出席。その後、サンフランシスコで、科学者のライナス・ポーリング博士と四度目の会談を行ったほか、メンバーとの懇談・指導を続け、三月二十一日に帰国したのである。
 伸一は、五月には、フィリピン、香港を訪問。九月から十月には、アメリカ、カナダを回り、アメリカではハーバード大学に招かれ、「二十一世紀文明と大乗仏教」と題して、同大学で二度目の講演を行っている。
 翌九四年(同六年)は、一月から二月にかけて、香港、中国の深、タイへ。五月半ばからは、三十数日をかけて、ロシア、ヨーロッパを歴訪した。一日一日が、一瞬一瞬が、世界広布の基盤を創り上げる建設作業であった。
 動くべき時に動かず、やるべき時にやらねば、未来永劫に悔いを残す。伸一にとっては、“今”が“すべて”であった。


誓願 百十三

 「栄光・躍進の年」と定めた一九九五年(平成七年)の元日、山本伸一は、創価学会本部での新年勤行会でスタートを切った。
 一月十五日「成人の日」、伸一は婦人部と新宿区の代表との協議会を開き、二十一世紀を担うリーダー像について語った。
 「これから求められるリーダーの要件とは何か。それは、一言すれば、『誠実』に尽きます。決して威張らず、友に尽くしていくことです。正直さ、優しさ、責任感、信念、庶民性――そうした『人間性』を、皆は求めている。ゆえに、自分を飾る必要はない。自分らしく、信心を根本に、人間として成長していくことが大事なんです」
 伸一は、未来のために、平易な言葉で、リーダーの在り方を語り残しておきたかった。
 「仏法は、人を救うためにある。人を救うのは観念論ではなく、具体的な『知恵』であり、『行動』です。私どもの立場でいえば、以信代慧であり、信心によって仏の智慧が得られる。したがって、何ごとも『まず祈る』ことです。また、結果が出るまで『祈り続ける』ことです。『行動を続ける』ことです。
 釈尊も、日蓮大聖人も『行動の人』であられた。私どもも、そうでありたい」
  
 その二日後の未明、十七日午前五時四十六分ごろ、近畿地方を大地震が襲った。高速道路やビル、家屋の倒壊、火災等の被害は、神戸、淡路島など、兵庫県南部を中心に、大阪、京都にまで広がり、死者約六千四百人、負傷者約四万四千人という大災害となった。阪神・淡路大震災である。
 伸一は、その報に接するや、即座に総力をあげて救援活動を進めるよう手を打った。
 彼は、ハワイにある環太平洋地域を代表する学術機関の「東西センター」を訪問し、講演することになっていたが、出発を延期し、できることはすべてやろうと対応に努めた。
 直ちに、学会本部と関西に災害対策本部が設置された。伸一は、最高幹部と協議を重ね、対策会議にも出席した。


誓願 百十四

 阪神・淡路大震災の被災地では、各会館が一時的な緊急避難所となり、また、生活物資供給のための救援センターとなった。
 高速道路は倒壊し、建物の崩壊などから一般道の寸断も多く、どこも、どの道も、大渋滞していた。直ちにバイク隊が編成され、瓦礫の残る道を走り、救援物資が被災各地に届けられていった。
 山本伸一は、愛する家族や、住み慣れた家、職場を失った人たちのことを思うと、身を切られるように辛かった。自ら、すぐに被災地に飛び、皆を励ましたかったが、「東西センター」での講演の日が迫っていた。彼は、被災地へ向かう、会長の秋月英介や婦人部長、青年部長らに言った。
 「私に代わって、全生命を注ぐ思いで、皆さんを励ましてほしい。信心をしていたご家族を亡くされた人もいるでしょう。そうした方々には、こう伝えてください。
 ――すべては壊れても、生命に積んだ福徳は、永遠に壊されることはありません。一遍でも題目を唱えたならば、成仏できるのが大聖人の仏法です。亡くなられた同志は、今世で宿命を転換し、来世も御本尊のもとに生まれ、幸せになれることは間違いありません。
 また、『変毒為薬』とあるように、信心によって、毒を変じて薬にすることができる。大聖人は『大悪を(起)これば大善きたる』(御書一三〇〇ページ)と仰せです。
 今は、どんなに苦しくとも、必ず幸せになれることを確信してください。いや、必ずなってください。強い心で、強い生命で、見事に再起されるよう祈り待っています」
 秋月らは、二十四日には、被災地を訪れ、激励に回っている。伸一は、その翌日の夜、日本を発ち、ハワイのホノルルへ向かった。
 二十六日に、ハワイ大学マノア校を訪問したあと、同大学に隣接する「東西センター」を訪れた。
 ここで、国連創設五十周年を記念し、「平和と人間のための安全保障」と題して講演したのである。


誓願 百十五

 記念講演で山本伸一は提起した。
 ――これまで安全保障といえば、機構、制度の問題として論じられがちであった。しかし、社会及び国家の外的条件を整えることのみに走り、人間自身の変革という根本の一点を避けてしまえば、平和への努力のはずが、かえって逆効果になってしまう場合さえあるというのが、二十世紀の教訓ではないか――と。
 そして、人間革命から社会の変革を志向すべきであるとし、そのためにも、「知識から智慧へ」「一様性から多様性へ」「国家主権から人間主権へ」、人類的な発想の転換が不可欠であることを訴えたのである。
 この会場で伸一は、ハーバード大学のジョン・モンゴメリー博士、ハワイ大学名誉教授のグレン・ペイジ博士、平和学の創始者ヨハン・ガルトゥング博士らと再会している。
 ハワイで彼は、国連創設五十周年を記念する第十三回世界青年平和文化祭や、SGI環太平洋文化・平和会議などに臨み、二月二日に、その足で関西入りした。
 関西では、阪神・淡路大震災の東京・関西合同対策会議や追善勤行法要等に出席し、激励に全力を尽くした。法要で伸一は訴えた。
 「関西の一日も早い復興を祈っています。全世界が、皆様の行動を見守っています。『世界の模範』の関西として、勇んで立っていただきたい。亡くなられた方々も、すぐに常勝の陣列に戻ってこられる。
 御書には『滞り無く上上品の寂光の往生を遂げ須臾の間に九界生死の夢の中に還り来って』(五七四ページ)と仰せです。最高の寂光世界(仏界)への往生を遂げ、死後も、すぐに九界のこの世界へと生まれてこられる。そして、また広宣流布に活躍されるんです。
 私どもは、亡くなられた方々の分まで、明るく、希望をもって、高らかに妙法を唱えながら進んでまいりたい。それが即、生死不二で、兵庫の国土に、関西の大地に、今再びの大福運の威光勢力を増していくからです。
 被災地のすべての方々に、くれぐれも、またくれぐれも、よろしくお伝えください」


誓願 百十六

 山本伸一は、一九九五年(平成七年)十月末からアジア四カ国・地域を訪れ、この折、「釈尊生誕の国」ネパールを初訪問した。五十一カ国・地域目となる平和旅である。
 ネパールでは、十一月一日、カトマンズ市の王宮に、ビレンドラ国王を表敬訪問した。二日には、国際会議場で行われた、国立トリブバン大学の卒業生への学位授与式に主賓として出席し、「人間主義の最高峰を仰ぎて――現代に生きる釈尊」と題して記念講演した。
 そこでは、“人類の教師”釈尊が残した精神遺産を「智慧の大光」「慈悲の大海」の二つの角度から考察し、自他共の幸福を願う人間主義の連帯こそが、それぞれの国の繁栄を築き、人類全体の栄光を開く光源になると主張。そして、次代を担う使命深き学生たちに、大鵬のごとく、智慧と慈悲の翼を広げ、「平和と生命尊厳の二十一世紀」へ飛翔してほしいと訴えた。
 三日、伸一自身も同大学で、教育大臣(総長代行)から名誉文学博士の称号を受けた。
 ネパールは美しき詩心の大国である。国の豊かさは人びとの「心」の光で決まる――伸一は謝辞で強調した。
 この日、彼は、ネパールの友に案内され、カトマンズ市郊外の丘に車で向かった。「世界に冠たるヒマラヤの姿を、ぜひ、見てほしい」との友の思いに応えたかったのである。
 夕暮れが迫り始め、ヒマラヤは、乳白色の雲に覆われていた。しかし、伸一たちが到着した時、雲が割れ、束の間、ベールを脱いだように、雪を頂いた峨々たる山並みが姿を現した。夕日に映えて、空は淡いバラ色に染まり、山々は雄々しく、そして神々しいまでの気高さにあふれていた。
 伸一は、夢中でシャッターを切った。
 ほどなく、ヒマラヤの連山は、薄墨の暮色に包まれ、空には大きな銀の月が浮かんだ。
 彼を遠巻きにするように、二十人ほどの少年少女が物珍しそうに見ていた。伸一が手招きすると、はにかみながら近付いてきた。子どもたちの瞳は宝石のように輝いていた。


誓願 百十七

 山本伸一は、子どもたちに言った。
 「私たちは仏教徒です。ここは仏陀が生まれた国です。仏陀は、偉大なヒマラヤを見て育ちました。あの山々のような人間になろうと頑張ったんです。堂々とそびえる勝利の人へと、自分をつくり上げました。皆さんも同じです。すごいところに住んでいるんです。必ず偉大な人になれます。
 みんな、利口そうな、いい顔をしているね。大きくなったら、日本へいらっしゃい」
 彼は、この一瞬の出会いを大切にしたかった。心から励まし、小さな胸に、希望の春風を送りたかったのである。
 翌四日、伸一は、カトマンズ市内でのネパールSGIの第一回総会に臨み、集った百数十人の友と記念のカメラに納まった。そして「どこまでも仲良く進んでください。一人ひとりが良き市民、良き国民として、『輝く存在』になってください」と激励した。メンバーの大多数は、青年であった。まさに、ヒマラヤにいだかれるように、未来に伸びる希望の若木が育っていたのだ。
 ネパールに続いてシンガポールを訪れた彼は、第三回アジア文化教育会議に臨み、シンガポール創価幼稚園を初訪問した。さらに、建国三十周年を祝賀する第一回青年友好芸術祭に出席し、十日夕、香港に到着した。
 イギリス領の香港は、一九九七年(平成九年)に中国へ返還されることになっていた。返還は、八二年(昭和五十七年)の中国共産党中央顧問委員会の?眷小平主任とイギリスのサッチャー首相との会談で、現実味を帯び始めていった。
 資本主義の社会で暮らしてきた人びとにとっては、社会主義の中国のもとでの生活は想像しがたいものであり、不安を覚える人たちもいた。一時期、香港ドルが急落し、市場が混乱に陥ったこともあった。
 “こういう時だからこそ、香港へ行こう! 皆と会って激励しよう!”
 伸一は、そう決めて、八三年(同五十八年)十二月に香港を訪れている。


誓願 百十八

 山本伸一は一九八三年(昭和五十八年)の香港訪問で、メンバーに力強く呼びかけた。
 「皆さんのなかには『九七年問題』で、“香港はどうなるのかな”と、心配されている方もおられるかもしれない。しかし、私は、全く心配はないと訴えておきたい。堂々と、この愛する香港の地で、自由にして平和、文化、そして国際的発展に薫るこの香港の大地で、妙法に照らされ、守られながら、尊い一生を送っていただきたい」
 「返還の『九七年』以後も、これまでの何倍も賑やかに、何倍も楽しく交流しよう。未来永遠、一緒に勝利の歴史をつくろう!」
 彼は、これまで多くの香港の有識者、またSGIメンバーと語り合ってきたなかで、香港の大発展をもたらしてきたのは、底知れない「人間の活力」であり、人びとに脈打つ「希望の力」であると実感していたのである。
 これまでの「何倍も楽しく」との言葉に、香港の同志は、勇気を得た。
 八四年(同五十九年)十二月、中国とイギリスは中英共同宣言を発表し、九七年(平成九年)七月に香港は中国に返還され、中国の特別行政区になり、返還後五十年は、社会主義政策は実施しないことが示された。資本主義は維持され、一国二制度となるのである。それでも、不安が拭い切れずに、カナダ、オーストラリアなどに何十万もの人たちが移住していくことになる。
 伸一は、香港の未来を思いつつ、中国の要人たちと会談し、歴代の香港総督などとも交流を重ねてきた。
 そして、今回の九五年(同七年)十一月の香港訪問では、著名な作家で、日刊紙「明報」を創刊し、「良識の灯台」として長年、世論をリードしてきた金庸と会談した。彼は、返還後の香港の社会体制を決める「香港基本法」の起草委員会の委員も務めていた。
 二人は、「香港の明日」「文学と人生」をはじめ、幅広いテーマで五回の語らいを重ね、九八年(同十年)、対談集『旭日の世紀を求めて』(日本語版)が発刊されている。


誓願 百十九

 香港が中国に返還される五カ月前には、山本伸一は金庸に、「返還後も香港は栄え続けるでしょう」と述べ、これからは、経済だけでなく、「心の充足」も焦点になると語った。
 すると、金庸は、強く訴えた。
 「香港SGIをはじめ、SGIの方々には、ぜひ『精神の価値』『正しい価値観』を多くの人たちに示していただきたいのです」
 香港の民衆の幸福と繁栄――二人の心は、この一点にあった。
 伸一が、メンバーに訴え続けたのは、いずこの地であろうが、不屈の信心ある限り、“幸福の宝土”と輝くということであった。
 日蓮大聖人は、「其の人の所住の処は常寂光土なり」(御書五一二ページ)と仰せである。
 ――一九九七年(平成九年)七月一日、イギリスの統治下にあった香港は、中国に返還され、歴史的な式典が行われた。
 その祝賀式典のアトラクションには、香港SGIの「金鷹体操隊」も若さあふれる演技を披露した。また、同日夜の記念音楽会には香港SGIの各部の合唱団が出演した。
 伸一は、旧知の江沢民国家主席と香港特別行政区の董建華行政長官に祝電を送った。香港のメンバーは、返還後の香港を「平和と繁栄の港」にとの決意を固め合い、二十一世紀という「第三の千年」へ飛翔していくのだ。
 伸一は、九五年(同七年)十一月の香港滞在中、マカオを訪れ、マカオ大学で名誉社会科学博士号を受けたほか、マカオ市政庁を表敬訪問した。ポルトガル領であるマカオも、九九年(同十一年)、中国に返還されるが、マカオのメンバーも香港の友に続き、希望のスタートを切っていくことになる。
  
 九五年(同七年)十一月十七日、アジア訪問から帰国した山本伸一は、そのまま中部・関西指導に入った。そして二十三日、関西文化会館で、全国青年部大会、関西総会を兼ねた本部幹部会が開催された。
 その席上、SGI理事長の十和田光一から、「SGI憲章」が発表された。


誓願 百二十

 SGIは、一九七五年(昭和五十年)一月二十六日、太平洋のグアムで行われた第一回世界平和会議で誕生し、以来、仏法の生命尊厳の思想を弘め、「世界の平和」と「人類の幸福」に寄与するための運動を展開してきた。そのなかで各国・地域のSGIは、地域、社会で信頼を広げ、大きな期待を担うまでになっていた。
 そこで結成二十周年の節目にあたり、「SGIは何をめざして進むのか」という理念と行動の規範を明文化しようと、この九五年(平成七年)、SGI常任理事会・理事会で、SGI憲章制定準備委員会が発足した。そして、十月十七日のSGI総会で「SGI決議」が採択され、それに基づいて、準備委員会で検討を重ね、各国の賛同を得て、憲章が制定されたのである。
 「SGI憲章」は、仏法を基調に平和・文化・教育に貢献することをはじめ、基本的人権や信教の自由の尊重、社会の繁栄への貢献、文化交流の推進、自然・環境保護、人格陶冶などが謳われ、十項目からなっていた。
 この七つ目には、「仏法の寛容の精神を根本に、他の宗教を尊重して、人類の基本的問題について対話し、その解決のために協力していく」とある。
 「世界の平和」と「人類の幸福」を実現するために大切なことは、人類は運命共同体であるとの認識に立ち、共に皆が手を携えて進んでいくことである。これを阻む最大の要因となるのが、宗教にせよ、国家、民族にせよ、独善性、排他性に陥ってしまうことだ。人類の共存のためには、“人間”という原点に立ち返り、あらゆる差異を超えて、互いに助け合っていかねばならない。
 創価学会は、阪神・淡路大震災でも、被災者の救援・支援活動に、総力をあげて取り組み、各国のSGIからも、さまざまなかたちで支援があった。それに対して、被災者をはじめ、多くの人びとから感謝の声が寄せられた。また、SGIは他の宗教団体などとも協力し、核廃絶の運動を推進してきた。


誓願 百二十一

 人道的活動のために、宗派や教団の枠を超えて、協力していくことは、人類の幸福を願う宗教者の社会的使命のうえからも、人間としても、必要不可欠な行動といってよい。
 そして、共に力を合わせて、課題に取り組んでいくには、互いの人格に敬意を払い、その人の信条や文化的背景を尊重していくことである。
 本来、各宗教の創始者たちの願いは、人びとの平和と幸福を実現し、苦悩を解決せんとするところにあったといえよう。その心に敬意を表していくのである。
 よく日蓮大聖人に対して、「四箇の格言」などをもって、排他的、独善的であるとする見方がある。しかし、大聖人は、他宗の拠り所とする経典そのものを、否定していたわけではない。御書を拝しても、諸経を引いて、人間の在り方などを説かれている。
 法華経は、「万人成仏」の教えであり、生命の実相を説き明かした、円満具足の「諸経の王」たる経典である。それに対して、他の経典は、一切衆生の成仏の法ではない。生命の全体像を説くにはいたらず、部分観にとどまっている。その諸経を絶対化して法華経を否定し、排斥する本末転倒を明らかにするために、大聖人は、明快な言葉で誤りをえぐり出していったのだ。
 そして、釈尊の本意にかなった教えは何かを明らかにするために、諸宗に、対話、問答を求めたのである。それは、ひとえに民衆救済のためであった。それに対して、幕府と癒着していた諸宗の僧らは、話し合いを拒否し、讒言をもって権力者を動かし、大聖人に迫害を加え、命をも奪おうとしたのである。
 それでも大聖人は、「願くは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん」(御書五〇九ページ)と、自身に大弾圧を加えた国主や僧らを、最初に成仏に導いてあげたいと言われている。そこには、慈悲と寛容にあふれた仏法者の生き方が示されている。
 人びとを救おうとする、この心こそが、私たちの行動の大前提なのである。


誓願 百二十二

 自身の信ずる宗教に確信と誇りをもち、その教えを人びとに語ることは、宗教者として当然の生き方である。しかし、そこには、異なる考え、意見に耳を傾け、学び、より良きものをめざしていこうとする謙虚さと向上心がなければなるまい。また、宗教のために、人間同士が憎悪をつのらせ、争うようなことがあってはならない。
 現代における宗教者の最大の使命と責任は、「悲惨な戦争のない世界」を築く誓いを固め、人類の平和と幸福の実現という共通の根本目的に立ち、人間と人間を結んでいくことである。そして、その目的のために、各宗教は力を合わせるとともに、初代会長・牧口常三郎が語っているように、「人道的競争」をもって切磋琢磨していくべきであろう。
 SGIは、この「SGI憲章」によって、人類の平和実現への使命を明らかにし、人間主義の世界宗教へと、さらに大きく飛躍していったのである。

 翌一九九六年(平成八年)も、山本伸一の平和旅は続いた。三月に香港を訪問し、五月末から七月上旬には、北・中米を訪れた。
 その折、アメリカでは、六月八日にコロラド州のデンバー大学から、名誉教育学博士号を授与されている。
 十三日には、ニューヨークのコロンビア大学ティーチャーズ・カレッジで、「世界市民」教育をテーマに講演し、訴えた。
 ――世界市民とは、生命の平等を知る「智慧の人」、差異を尊重できる「勇気の人」、人びとと同苦できる「慈悲の人」と考えられ、仏法で説かれる「菩薩」が、その一つのモデルを提示している。教育は「自他共に益する」菩薩の営みである。
 翌日は、ニューヨークの国連本部を訪れ、明石康国連事務次長をはじめ、各国の国連大使らとの昼食会に出席して意見交換した。
 伸一は、二十四日からキューバ文化省の招聘で、同国を訪問することになっていた。彼は果敢に行動した。行動こそが時代を開く。


誓願 百二十三

 キューバは、この一九九六年(平成八年)ごろ、経済的にも、政治的にも、厳しい試練の渦中にあった。東西冷戦が終わり、ソ連・東欧の社会主義政権が崩壊したことによって、社会主義国キューバは、ソ連という強力な後ろ盾を失い、孤立を深めていた。さらに、この年の二月、キューバ軍によるアメリカの民間機撃墜事件が起こり、それを契機に、アメリカでは同国への経済制裁強化法(ヘルムズ・バートン法)が成立するなど、緊張した状況が続いていたのである。
 “だからこそ、世界の平和を願う一人として、キューバへ行かねばならない。そこに、人間がいるのだから……。この国とも、教育、文化の次元で、交流の道を開こう!”
 キューバ行きを一週間後に控えた十七日、山本伸一は元米国務長官のヘンリー・A・キッシンジャー博士と、ニューヨーク市内で再会し、旧交を温めた。博士は、アメリカとキューバの関係改善について、自らの思いを語った。伸一は訴えた。
 「一時の風評や利害ではなく、未来のための断固とした信念と先見で行動し、二十一世紀に平和の橋を架設すべきであるというのが私の信条です」
 二人は、率直に話し合った。
 伸一は、キューバへ向かうために、ニューヨークからマイアミへ移動し、フロリダ自然文化センターを初訪問。世界五十二カ国・地域の代表が集っての第二十一回SGI総会に出席した。
 二十四日午後、彼は、カリブ海の七百の島々からなるバハマを初訪問した。このころ、アメリカからキューバへの直行便はなく、第三国を経由しなければ出入国はできなかった。バハマは、伸一にとって、海外訪問五十二カ国・地域目となった。この国でも、男女二人のメンバーが彼を待っていた。
 四時間余りの滞在であったが、この二人を全力で励まし、記念に一文を認め、贈った。
 「ここにも SGI ありにけり
        バハマ創価学会 万才」


誓願 百二十四

 山本伸一たちは、バハマからキューバが差し向けたソ連製の飛行機で首都ハバナのホセ・マルティ国際空港へ向かった。
 二十四日の午後五時半過ぎ、空港に到着すると、文化大臣夫妻をはじめ、多くの政府要人が出迎えてくれた。
 伸一は、心からの謝意を述べ、「民間人であるが、『勇気』と『行動』で、人びとや国と国の“分断”を“結合”に変えていきたい。二十一世紀のために、全力で平和の道を開きたい」と、語った。
 キューバでの滞在は二泊三日であるが、彼は、多くの人びとと友誼を結ぼうと深く心に誓っていた。一つ一つの行事に、一人ひとりとの出会いに、全精魂を注ぐ思いで臨んだ。
 二十五日の午後四時、国立ハバナ大学を訪問した。ここで、伸一の文化交流への貢献を讃えて、ハルト文化大臣から国家勲章「フェリックス・バレラ最高勲章」が贈られた。
 叙勲式で文化大臣は、「会長は『平和の不屈の行動者』であり、叙勲は『平和を願う民衆の連帯』の表れである」と述べた。
 次いで、ハバナ大学からの「名誉文学博士号」の授与式が行われ、引き続き伸一が、「新世紀へ 大いなる精神の架橋を」と題して記念講演をすることになっていた。
 式典の途中から、晴れていた空が、にわかに曇り、沛然たる豪雨となった。会場の講堂の窓に稲妻が走り、雷鳴が轟く。酷暑のキューバで、雨は涼をもたらす恵みである。しかし、あまりにも激しい突然の雷雨であった。
 伸一はマイクに向かい、こう話し始めた。
 「雷鳴――なんとすばらしき天の音楽でありましょう。『平和の勝利』への人類の大行進を、天が祝福してくれている『ドラムの響き』です。『大交響楽』です。
 また、なんとすばらしき雨でありましょう。苦難に負けてはならない、苦難の嵐の中を堂々と進めと、天がわれらに教えてくれているようではありませんか!」
 大拍手が起こり、皆の顔に笑みが浮かぶ。
 深い心の共鳴が場内に広がった。


誓願 百二十五

 講演で、山本伸一は、「二十一世紀に始まる新しい千年には、『人間の尊厳』を基盤とした“希望”と“調和”の文明を、断固として築いてまいりたい」と、思いを披瀝した。
 そして、そのために、三つの「架橋」、すなわち結び合う道を示した。その第一が、人間と社会と宇宙を結ぶ詩心の薫発による「生の全体性」の回復。第二が、他者の苦悩に同苦しつつ、「人間」と「人間」を結ぶこと。第三が、教育に力を注ぎ、未来へ希望の橋を架けることであった。
 この夜、伸一は、フィデル・カストロ国家評議会議長と、革命宮殿で約一時間半にわたって会見した。軍服姿で知られる議長だが、スーツにネクタイを締めて、笑顔で迎えてくれた。平和と友好の意志を感じた。
 話題は、後継者論、人材育成論、政治・人生哲学、世界観など多岐にわたった。だが、一貫して、「対話」と「文化」の力が二十一世紀の平和にとって、極めて大きな要素となることを確認する語らいとなった。
 伸一は、キューバも世界も、未来は「教育」にかかっていると力説した。また、SGIの運動は、どこまでも平和を基調とし、体制を超えた、「人間」を根本とした国際的運動であることを述べ、それは「すべての人間は平等に尊厳である」とする仏教思想の必然の帰結であり、その具体的な表現であると訴えた。
 一方、カストロ議長は、一行を心から歓迎し、相互理解を図るために、キューバと日本の交流を積極的に行いたいと明言した。
 会見のあと、カストロ議長に創価大学から名誉博士号が授与された。謝辞に立った議長は、「今回のSGIの皆さまのキューバ訪問は、平和に貢献する人間主義を主張するうえで、重要なことと思っています」と強調。また、日本は、資源も少なく、土地も狭いうえに、地震や台風などもあるなか、国を発展させてきたと評価し、こう話を結んだ。
 「日本の方々は、『人間に不可能はない』との実証を世界に示された!」
 伸一と議長との友誼の絆は固く結ばれた。


誓願 百二十六

 山本伸一のキューバ訪問以降、日本との文化・教育交流も活発に行われていった。
 また、二〇〇七年(平成十九年)一月六日、キューバ創価学会が正式に宗教法人となり、その登録式が行われている。
 アメリカは、対キューバ経済制裁を次第に緩和し、二〇一五年(同二十七年)に両国は国交を回復することになる。
  
 一九九六年(同八年)六月二十六日、伸一は、キューバに続いて、パナマに隣接し、「中米の楽園」といわれてきたコスタリカを初めて訪れた。これで海外訪問は、世界五十四カ国・地域となった。コスタリカは、憲法で常備軍を廃止し、永世的、積極的、非武装中立を宣言している国である。
 翌二十七日、伸一は、首都サンホセ市の大統領府で、ホセ・マリア・フィゲレス・オルセン大統領と会見したあと、メンバーとの交歓会に駆けつけるとともに、和歌を贈った。
 「コスタリカ ここにも地涌の 友ありき
    常楽我浄の 人生あゆめや」
 二十八日には、中南米で初の開催となる「核兵器――人類への脅威」展の開幕式が行われた。これには大統領夫妻、ノーベル平和賞を受賞したオスカル・アリアス・サンチェス元大統領らが出席した。
 会場のコスタリカ科学文化センターには、「子ども博物館」が併設されており、そこで遊ぶ子どもたちの元気な声が、式典会場にも響き渡っていた。スピーチに立った伸一は、微笑みながら語った。
 「賑やかな、活気に満ちた、この声こそ、姿こそ、『平和』そのものです。ここにこそ、原爆を抑える力があります。希望があります。子どもたちは、伸びゆく『生命』の象徴です。核は『死』と『破壊』の象徴です」
 席上、伸一は、「“核の力”よりも偉大な“生命の力”を、いかに開発させていくか」「“核の拡大”よりも強力な“民衆の連帯”を、どう拡大していくか」――ここに人間教育、民衆教育の重大な課題があると訴えた。


誓願 百二十七

 山本伸一は、北・中米訪問の翌一九九七年(平成九年)の二月に香港を訪れ、五月には第十次の訪中をし、十月にインドを訪問した。日々、限りある時間との闘争であった。
 九八年(同十年)は、二月にフィリピン、香港へ。五月には韓国へも赴き、この時、初めて、韓国SGI本部を訪れたのである。
 また、翌九九年(同十一年)五月、三度目の訪韓となる済州島訪問を果たした。
 二〇〇〇年(同十二年)は二月に香港へ。
 そして、十一、十二月と、シンガポール、マレーシア、香港を歴訪したのである。
 シンガポールでは、十一月二十三日、S・R・ナザン大統領と大統領官邸で会見した。
 大統領は、温厚にして信念の人であった。
 ――一九七四年(昭和四十九年)、日本赤軍のメンバーら四人が、シンガポールの石油精製施設を爆破し、従業員五人を人質に取るという事件が起こった。その時、国防省治安情報局長官として、冷静に、断固たる信念をもって交渉し、陣頭指揮を執ったのがナザン大統領であった。テロリストらはクウェートへの移送を要求し、日本政府関係者と共に、シンガポール政府関係者の同乗を条件とした。
 ナザン長官は、自ら飛行機に乗り込んだ。そして、最終的に、一人の犠牲者も出すことなく終わったのである。何かあれば、自分が命がけで取り組み、一切の責任を取る――その覚悟をもっていることこそが、リーダーの最も大切な資質であり、要件といえよう。
 自分の身を守ることが第一か、民衆、国民を守ることが第一か――その生き方の本質は、いざという時に、また、歳月とともに明らかになる。時代は、ますます真剣と誠実のリーダーを要請している。
 会見でナザン大統領は、「シンガポールは小さな国です。新しい国です」「多民族、多宗教、多言語の国です。さまざまな困難な状況のなかで、共通の目的に向かって前進してきました」とも、率直に語っていた。
 伸一は、大統領の責任感に貫かれた生き方に、発展する同国の魂を見た思いがした。


誓願 百二十八

 山本伸一が、二十一世紀を生きる青年たちへのメッセージを求めると、ナザン大統領は学会の青年部への讃辞を惜しまなかった。
 「独立記念日の式典で、私は何度も、シンガポール創価学会の演技を見てきました。本当にすばらしい。シンガポールだけでなく、マレーシア創価学会の演技も見てきました。見事に調和しています。規律がある。心を引きつける美しさがあります。いったい、どうしたら、こんなすばらしい演技ができるのだろう――いつも、そう驚いていました。
 しかも、青年が主体者として参加している。演技には、仏法の教えが体現されています。シンガポールの社会においても、人間的な質が、一段と大事になってきています。その意味でも、創価学会は、社会と国家に、すばらしい貢献をしてくださっています」
 伸一は嬉しかった。学会への信頼と期待がここまで社会に広がり、後継の青年たちが賞讃されていることが、何よりも嬉しかった。
 次代を担う青年たちの成長こそが、弟子の勝利こそが、自身の喜びであり、楽しみであり、希望である――それが師の心である。それが師弟の絆である。
  
 翌二十四日、オーストラリアのシドニー大学から伸一に名誉文学博士号が贈られた。名誉学位記の授与は、シンガポール及び周辺国からの留学生の卒業式典の席で行われた。
 会場は、シンガポールの中心部にあるホテルであった。
 シドニー大学は、オーストラリア最初の大学であり、世界に開かれ、約三千人の留学生が学んでいる。特に、アジアからの留学生が多く、シンガポールも、その一つであった。
 「留学生と長い間、離れていた家族や友人たちにも、晴れ姿を見せてあげたい」との配慮から、シンガポールと香港で卒業式を行うことになったという。そのこまやかな心遣いにも、学生中心の教育思想が脈打っていた。
 「学生のための大学」という考え方こそ、人間教育の確固たる基盤となる。


誓願 百二十九

 ファンファーレが鳴り響き、総長らと共に山本伸一が入場し、シドニー大学のシンガポールでの卒業式典が始まった。
 同大学のクレーマー総長も、キンニヤ副総長補も女性教育者であり、なかでも総長は、さまざまな社会貢献の活動が高く評価され、オーストラリアの「人間国宝」に選ばれている。
 副総長補が「推挙の辞」を読み上げ、総長から伸一に、名誉学位記が手渡された。
 引き続き、学生たちへの卒業証書の授与となった。名前が呼ばれると、四十五人の卒業生が順番に総長の前に進み出て、証書を受け取る。その時、総長は一人ひとりに、温かい言葉をかけていった。
 「今、どんな課題に挑戦しているの?」
 「社会に、しっかり貢献していくのよ!」
 「楽しみながら進むことが大切よ!」
 母親が、わが子を慈しみ、励ますような、ほのぼのとした光景であった。伸一は、そこに、情愛に満ちた大きな教育の力を感じた。
 謝辞に立った彼は、創価教育の父・牧口常三郎初代会長が、一九〇三年(明治三十六年)に発刊した『人生地理学』で、自らが着用していた毛織りの服の原料がオーストラリア産などであることを例に、誰人の生活も、世界の無数の人びとの苦労と密接に結びついていると論じたことを紹介した。そして、牧口が日本の軍部政府の弾圧で獄死したことを語った。
 「帝国主義の吹き荒れる時代のなかで、牧口会長は、いち早く、『地球的相互依存性』への自覚を促し、そして、他のために貢献し、自他共に栄えていくという『人類共生の哲学』を訴えたのです。
 さらに、人類は、『軍事』や『政治』や『経済』の次元で、他を圧しようとするハード・パワーの段階を終え、『人道』を新たな指標として、文化、精神性、人格というソフト・パワーによって、切磋琢磨していくことを強く提唱したのであります」
 伸一は、二十一世紀は、人道をもとに、思いやりをもって、自他共に栄える人類共生の時代であらねばならないと展望していた。


誓願 百三十

 山本伸一は、二十五日、シンガポール創価幼稚園を訪れた。幼稚園の訪問は二度目だが、タンピネスの新園舎は初めてである。
 伸一と峯子に、園児の代表から花束が贈られた。彼は、「ありがとう!」と言いながら、一人ひとりの手を握っていった。喜びの声をあげる子もいれば、はにかむ子もいる。
 「皆さんとお会いできて嬉しい。皆さんの作品を収めたアルバムを、昨日、見せていただきました。みんな上手でした」
 子どもたちは、日本語で、かわいい合唱を披露してくれた。小さな体を左右に大きく揺らしながらの熱唱である。伸一も、一緒に手拍子を打った。
 「日本語も上手だね」
 皆の顔が、ほころぶ。
 その光景を見ていた園長が感想を語った。
 「子どもたちの表情が、瞬間で変わるのがわかりました。“自分は愛されているんだ”という満足そうな表情でした」
 園内には、英語で書いた、園児のメッセージカードも張り出されていた。
 「先生は世界平和をつくっています。だから、ぼくはパイロットになって、みんなをいろんな国に連れていきたいです」
 「先生は、はたらきすぎです。いつもありがとう。先生の愛情にこたえるために、私もいっしょうけんめいお勉強します」
 伸一は、峯子に言った。
 「ありがたいね。二十一世紀が楽しみだ」
 彼は、未来に懸かる希望の虹を見ていた。
 伸一たちは、幼稚園に続いて、SSA(シンガポール創価学会)の本部を初訪問し、世界広布四十周年記念大会に出席した。
 ここでは、「但南無妙法蓮華経の七字のみこそ仏になる種には候へ」(御書一五五三ページ)との御文を拝して訴えた。
 「何があっても御本尊を信じ、題目を唱え抜くことです。御本尊を、母と思い、父と思い、嬉しいことも、苦しいことも、全部、話していけばよい。心の丈を、ぶつけてゆけばよい。必ず全部、御本尊に通じていきます」


誓願 百三十一

 二十六日、山本伸一は、シンガポールとオーストラリアの合同最高会議に出席した。席上、シンガポールが「獅子の都」を意味することから、仏法で説く「師子」に言及した。
 「仏法では、仏を『師子』と呼び、仏の説法を『師子吼』という。大聖人は、『師子』には『師弟』の意義があると説かれている。仏という師匠と共に生き抜くならば、弟子すなわち衆生もまた、師匠と同じ偉大な境涯になれるのを教えたのが法華経なんです」
 一般的にも、師弟の関係は、高き精神性をもつ、人間だけがつくりえる特権といえる。芸術の世界にも、教育の世界にも、職人の技の世界にも、自らを高めゆかんとするところには、必ず師弟の世界がある。
 伸一は、青年たちに力説した。
 「『人生の師』をもつことは、『生き方の規範』をもつことであり、なかでも、師弟が共に、人類の幸福と平和の大理想に生き抜く姿ほど、すばらしい世界はありません。
 この師弟不二の共戦こそが、広宣流布を永遠ならしめる生命線です。そして、広布の流れを、末法万年を潤す大河にするかどうかは、すべて後継の弟子によって決まります。
 戸田先生は、よく言われていた。
 『伸一がいれば、心配ない!』『君がいれば、安心だ!』と。私も今、師子の道を歩む皆さんがいれば、世界広布は盤石である、安心であると、強く確信しています」
 さらに、彼は、「各各師子王の心を取り出して・いかに人をどすともをづる事なかれ」(御書一一九〇ページ)と仰せのように、師子王の心とは、「勇気」であると訴えた。
 「勇気は、誰でも平等にもっています。勇気は、幸福という無尽蔵の宝の扉を開くカギです。しかし、多くの人が、それを封印し、臆病、弱気、迷いの波間を漂流している。どうか皆さんは、勇気を取り出し、胸中の臆病を打ち破ってください。そこに人生を勝利する要因があります」
 未来は青年のものだ。ゆえに、青年には、民衆を守り抜く師子王に育つ責任がある。


誓願 百三十二

 十一月二十七日夕刻、山本伸一の一行は、シンガポールから、マレーシアの首都クアラルンプール国際空港に到着した。伸一の同国訪問は、十二年ぶり二度目である。
 この十二年間で、マレーシア社会も、SGM(マレーシア創価学会)も大いに発展していた。クアラルンプールには超高層ビルが増え、なかでも一九九八年(平成十年)に完成したペトロナスツインタワーは、ビルとして世界一の高さ(当時)である。
 学会の会館も充実し、クアラルンプールの中心地には、地上十二階建てのSGM総合文化センターが翌二〇〇一年(平成十三年)の完成をめざし、建設が進んでいた。また、マレーシア全十三州のうち十二州に、立派な中心会館が整備されることになっていた。
 二十九日には、マレーシア最大の総合大学である国立プトラ大学から伸一に名誉文学博士号が贈られ、同大学で、名誉学位特別授与式が厳粛に挙行された。
 その式典は、真心と友情にあふれていた。
 「推挙の辞」を朗読したのは、女性教育者のカマリア・ハジ・アブ・バカール教育学部長である。彼女は、思いの丈を表現しようと、随所に自作の詩を挟んだ。さらに、突然、マレー語から、日本語に変わった。
 「先生! あなたは偉大な人です。『世界平和』という、先生の生涯の夢が、達成されますように――」
 “すべてマレー語では、私の本当の思いは伝わらないのでは”と考え、日本語を覚え、最後に、直接、日本語で語ったという。
 ペナン州総督のトゥン・ダト・ハムダン・ビン・シェイキ・タヒール総長から名誉学位記が手渡され、伸一の「謝辞」となった。
 「真実の友情の対話は、民族・国境を超え、利害を超え、あらゆる分断の壁を超えます。
 そして、多様性を尊重し、活かし合いながら、寛容と共生と創造の道を、手を携えて進んでいくことこそ、最も大切な道なのであります。なかんずく、教育が結ぶ友情こそが、平和と幸福を護る最も堅固な盾であります」


誓願 百三十三

 山本伸一は、プトラ大学からの名誉学位記の授与に、深い意義を感じていた。マレーシアはイスラム教が国教であり、その国の国立大学から仏法者の彼が顕彰されたのである。
 それは、平和のため、人類の幸福のためという原点に立ち返るならば、宗教を超え、人間として共感、理解し合えることの証明であり、イスラムの寛容性を示すものであった。
 人間と人間が分断され、いがみ合う時代にピリオドを打つために、二十一世紀は、宗教間対話、そして文明間対話がますます重要となろう。
 なお、彼は、二〇〇九年(平成二十一年)にマレーシア公開大学から、そして、翌一〇年(同二十二年)には国立マラヤ大学から、名誉人文学博士号が贈られている。
 伸一は、十一月三十日、マハティール首相と首相府で、二度目となる会見を行った。
 「青年こそ宝」――二人は、未来に熱い思いを馳せつつ語り合った。
 十二月一日、伸一は、マレーシア創価幼稚園を初訪問し、引き続きマレーシア文化会館での世界広布四十周年を記念するSGM(マレーシア創価学会)の代表者会議に出席した。
 熱気に満ちた大拍手が会場に轟いた。
 SGMは目を見張る発展ぶりであった。伸一の入場前、理事長の柯浩方は叫んだ。
 「皆さん! 私たちは勝ちました!」
 国家行事で誰もが驚嘆した五千人の人文字、独立記念日を荘厳してきた青年部のパレード・組み体操、社会貢献の模範と謳われる慈善文化祭、女性の世紀の先駆けとなった婦人部・女子部の「女性平和会議」……。
 そこには、「仏法即社会」の原理に生きる信仰者の、深い使命感からの行動があった。
 理事長は語っていた。
 「ただただ、真心で、誠心誠意やってきたからです。瞬間、瞬間、『今しかない』と」
 伸一はこの日のスピーチで、「『心の財』こそ三世永遠の宝」「幸福の宮殿は自身の中に」と訴え、また、句を贈った。
 「世界一 勝利の都 マレーシア」


誓願 百三十四

 山本伸一の激励行は香港へ移った。これが二十世紀の世界旅の掉尾となる。
 十二月四日、香港SGI総合文化センターで行われた、香港・マカオの最高協議会に出席した彼は、今回で香港訪問が二十回目となることを記念し、一句を贈った。
 「二十回 香港広布に 万歳を」
 そして、一九六一年(昭和三十六年)一月からの香港訪問の思い出をたどりながら、広布草創の功労者の一人である故・周志剛の奮闘を紹介した。
 「周さんは、シンガポール、マレーシアなどに点在する同志の激励のために、数日に一回の割合で手紙を書き送った。手紙は、何か問題が生じれば、二日に一回となり、時には連日となることもあったといいます。
 貿易会社の社長としての仕事も多忙ななか、香港広布の中心者として活動し、さらに、アジアの友に激励の手紙を書き続けることは、どれほどの労作業であったことか。しかも、その分量は、四百字詰め原稿用紙にして、五枚分、十枚分に相当することも珍しくなかった」
 当時は、電話も普及しておらず、インターネットが発達しているわけでもない。身を削る思いで励ましを重ね続けたのである。
 「ある地域の中心者への手紙には、『メンバーと、心から話し合える機会を多くつくることです。それができるのは家庭訪問以外にありません。これによって、同志と心やすく話し合え、密接なつながりもでき、相互の信頼も増すのです。これは、言うは易いが、実行は大変なことです』とあります」
 人体も血が通わなければ機能しなくなる。組織も同じであろう。学会の組織に信心の血を、人間の真心を通わせるのは、家庭訪問、個人指導である。それがあるからこそ、創価学会は人間主義の組織として発展し続けてきた。一人ひとりを心から大切にし、親身になって、地道な対話と激励を重ねていく――それこそが、未来永遠に、個人も、組織も、新しい飛躍を遂げていく要諦にほかならない。


誓願 百三十五

 香港・マカオの最高協議会で山本伸一は、香港の輝ける歴史に言及していった。
 「大聖人の未来記である仏法西還への歩みは、この香港から始まった。そして、一九七四年(昭和四十九年)五月から六月の、日中友好の『金の橋』を架ける初の中国訪問も、ここ香港から出発し、ここ香港に帰ってきました。
 また、世界七十三大学(当時)と学術教育交流を広げる創価大学の『第一号の交流校』となったのは、香港中文大学です。さらに海外初の創価幼稚園の開園(九二年)も香港でした」
 そして、香港・マカオのメンバーは、「二十一世紀もまた、その尊き大使命に生き抜いていっていただきたい」と、力強く励ました。
 折しも、この年の二月、インドの創価菩提樹園に待望の講堂が完成し、前月の十一月二十六日、創価学会創立七十周年を祝賀する、インド創価学会の総会が創価菩提樹園で盛大に開催されたばかりであった。月氏の国インドで、日蓮大聖人の太陽の仏法がいよいよ赫々と輝き、社会を照らし始めたのだ。伸一は、二十一世紀の壮大な東洋広布、世界広布の道が、洋々と開かれていることを実感していた。
 五日夜、伸一と峯子は、香港の陳方安生政務長官官邸での晩餐会に招かれた。
 長官は、一九九三年(平成五年)、総督に次ぐ立場である香港行政長官に、女性として初めて就任し、九七年(同九年)の中国返還以降は、行政長官に次ぐ政務長官として活躍していた。
 また、長官の母は現代中国画の巨匠・方召画伯であり、ちょうど、この時、東京富士美術館では、創立者の伸一の提案による「方召の世界」展が開催中で、好評を博していた。伸一は、九六年(同八年)に香港大学で、この母娘二人と共に名誉学位を受け、その後、交流を重ねてきたのである。
 伸一たちは、方家の家族らの歓迎を受け、香港、そして中国の未来の繁栄を念願して意見交換した。眼下に広がる“百万ドルの夜景”が美しかった。


誓願 百三十六

 十二月七日、山本伸一は、香港中文大学からの学位授与式に臨み、同大学で日本人初となる名誉社会科学博士号を受けた。彼は、一九九二年(平成四年)には同校の「最高客員教授」となっており、その時、「中国的人間主義の伝統」と題して講演も行っている。
 八日、伸一は帰国の途に就いた。香港から向かったのは、常勝の都・関西であった。彼が会長に就任して、真っ先に訪れたのが大阪である。二十世紀の地方指導の最後も大阪で締めくくり、一緒に二十一世紀への新しい扉を開きたかったのだ。皆、伸一と苦楽を共にし、不屈の魂を分かち合う同志である。
 常勝の友の顔は、生き生きと輝いていた。
 十日、伸一は関西代表者会議に出席した。
 いよいよ「女性の世紀」であり、「関西が、その模範に!」と期待を寄せ、「壮年部は男子部と一体になり、婦人部は女子部と一体になって、青年を守り、愛し、励まし、育てていっていただきたい」と呼びかけた。
 十四日には、二十一世紀への旅立ちとなる本部幹部会が、関西代表幹部会、関西女性総会の意義を込めて、大阪・豊中市の関西戸田記念講堂で開催された。
 「明二〇〇一年(同十三年)から、二〇五〇年へ、いよいよ『第二の七つの鐘』がスタートします!」
 伸一は、新しい「七つの鐘」の構想に言及し、民衆のスクラムで、二十一世紀を断じて「人道と平和の世紀」にと呼びかけた。
 また、世界で、女性リーダーの活躍が目覚ましいことを紹介した。
 「今、時代は、音をたてて変わっている。社会でも、団体でも、これからは女性を尊重し、女性を大切にしたところが栄えていく。
 大聖人は『女子は門をひら(開)く』(御書一五六六ページ)と仰せです。広宣流布の永遠の前進にあって、『福徳の門』を開き、『希望の門』を開き、『常勝の門』を開くのは、女性です。なかんずく女子部です」
 麗しき婦女一体の対話の拡大、励ましの拡大は、二十一世紀の新たな力となった。


誓願 百三十七

 二〇〇一年(平成十三年)「新世紀 完勝の年」が晴れやかに明けた。「希望の二十一世紀」の、そして、「第三の千年」の門出である。山本伸一は「聖教新聞」の新年号に和歌を寄せた。
 「新世紀 新たな舞台は 世界かな
    胸の炎の 決意も新たに」
 一月二日、彼は、七十三歳の誕生日を迎えた。伸一が七十代のテーマとしていたのは、「世界広布の基盤完成」であった。
 五月三日、アメリカ創価大学オレンジ郡キャンパスが、待望の開学式を迎えた。人類の平和を担う、新しき世界市民を育む学舎が誕生したのだ。学長に就任したのは、創価高校・創価大学一期生の矢吹好成であった。
 伸一は、万感の思いをメッセージに託し、「『文化主義』の地域の指導者育成」「『人間主義』の社会の指導者育成」「『平和主義』の世界の指導者育成」「自然と人間の共生の指導者育成」を「指針」として示した。
 九月十一日のことであった。アメリカで、四機の旅客機がハイジャックされ、そのうちの二機はニューヨークの世界貿易センタービルに、別の一機は国防総省に突っ込むという事件が起こった。「アメリカ同時多発テロ事件」である。
 死亡者は約三千人、負傷者も六千人を超える悲惨な事態となった。アメリカ政府は、イスラム過激派の犯行と断定し、「テロとの戦い」を宣言。首謀者らが潜伏していると見られるアフガニスタンへの軍事攻撃を開始した。また、その後、ヨーロッパなどで、自爆テロが頻発していくことになる。
 どのような大義を掲げようと人びとの命を奪うテロは、絶対に許されるものではない。
 このテロ事件では、アメリカSGIも直ちに緊急対策本部を設置し、救援活動の応援、義援金の寄託など、できうる限りのことを行った。また、宗教間対話にも積極的に取り組んでいった。平和、戦争反対、暴力をなくす――これは教義を超えた人間の共通の道であり、宗教は、本来、そのためにこそあるのだ。


誓願 百三十八

 山本伸一は、同時多発テロ事件後、各国の識者との会見でも、また日本の新聞各社のインタビューなどでも、今こそ、平和と対話への大世論を起こすべきであると強調した。
 翌年の1・26「SGIの日」記念提言でも、「文明間対話」が二十一世紀の人類の要石となると述べるとともに、国連を中心としたテロ対策の体制づくりをと訴えた。また、テロをなくす方策として、「人間の安全保障」の観点から、人権、貧困、軍縮の問題解決へ、世界が一致して取り組む必要性を提起した。
 彼は、世界の同志が草の根のスクラムを組み、新しい平和の大潮流を起こす時がきていることを感じていた。もとより、平和の道は“険路”である。恒久平和は、人類の悲願にして、未だ果たし得ていない至難のテーマである。なればこそ、創価学会が出現したのだ! なればこそ、人間革命を可能にする仏法があるのだ! 対話をもって、友情と信義の民衆の大連帯を築くのだ!
 また、人類の平和を創造しゆく道は、長期的、抜本的な対策としては正しい価値観、正しい生命観を教える教育以外にない。めざすべきは「生命尊厳の世紀」であり、「人間教育の世紀」である。
 二〇〇一年(平成十三年)十一月十二日、11・18「創価学会創立記念日」を祝賀する本部幹部会が、東京戸田記念講堂で晴れやかに開催された。新世紀第一回の関西総会・北海道栄光総会、男子部・女子部結成五十周年記念幹部会の意義を込めての集いであった。
 伸一は、スピーチのなかで、皆の労を心からねぎらい、「『断じて負けまいと一念を定め、雄々しく進め!』『人生、何があろうと“信心”で進め!』――これが仏法者の魂です」と力説した。そして、青年たちに、後継のバトンを託す思いで語った。
 「広宣流布の前進にあっても、“本物の弟子”がいるかどうかが問題なんです!」
 広宣流布という大偉業は、一代で成し遂げることはできない。師から弟子へ、そのまた弟子へと続く継承があってこそ成就される。


誓願 百三十九

 山本伸一の厳とした声が響いた。
 「私は、戸田先生が『水滸会』の会合の折、こう言われたことが忘れられない。
 『中核の青年がいれば、いな、一人の本物の弟子がいれば、広宣流布は断じてできる』
 その『一人』とは誰であったか。誰が戸田先生の教えのごとく、命がけで世界にこの仏法を弘めてきたか――私は“その一人こそ、自分であった”との誇りと自負をもっています。
 どうか、青年部の諸君は、峻厳なる『創価の三代の師弟の魂』を、断じて受け継いでいってもらいたい。その人こそ、『最終の勝利者』です。また、それこそが、創価学会が二十一世紀を勝ち抜いていく『根本の道』であり、広宣流布の大誓願を果たす道であり、世界平和創造の大道なんです。
 頼んだよ! 男子部、女子部、学生部! そして、世界中の青年の皆さん!」
 「はい!」という、若々しい声が講堂にこだました。
 会場の後方には、初代会長・牧口常三郎と第二代会長・戸田城聖の肖像画が掲げられていた。二人が、微笑み、頷き、慈眼の光で包みながら、青年たちを、そして、同志を見守ってくれているように、伸一には思えた。
 彼は、胸の中で、青年たちに語りかけた。
 “さあ、共に出発しよう! 命ある限り戦おう! 第二の「七つの鐘」を高らかに打ち鳴らしながら、威風堂々と進むのだ”
 彼の眼に、「第三の千年」の旭日を浴びて、澎湃と、世界の大空へ飛翔しゆく、創価の凜々しき若鷲たちの勇姿が広がった。
 それは、広宣流布の大誓願に生き抜く、地涌の菩薩の大陣列であった。
  (小説『新・人間革命』全三十巻完結)
    二〇一八年(平成三十年)八月六日
          長野研修道場にて脱稿