共戦 一
フランスの大歴史家ミシュレは言う。
「歴史とは行動の報告書である」(注)
君が歩いた分だけ、道ができる。あなたが語った分だけ、希望の種が植えられる。
困難に退くまい。流した汗も、涙も、すべては福運の宝玉となる。よき人生とは、人のために尽くした行動の、輝ける年輪である。
われらの太陽は、東天に昇り、新しき朝の到来を告げた。さあ、胸を張り、行動を開始しよう。燦たる未来に向かって、さっそうと走りだすのだ。
皆が燃えていた。広宣流布という地涌の菩薩の使命に生き、創価の誓いを果たさんと、わが同志の歓喜の行進には、一段と力がみなぎっていた。
一九七七年(昭和五十二年)三月十九日、聖教新聞を開いた同志の顔がほころんだ。
その二面トップに、三段ほどの扱いであったが、「創価学会のシンボルマークが誕生」の見出しとともに、八葉蓮華をデザインした図案が掲載されていたのである。
そこには、こう記されていた。
「これは八葉蓮華をデザイン化したもので、本部代表者会議(三月十六日)での投票によって決まったもの。
シンボルマークの八葉の花模様が、幾重にも広がりをみせる姿は『八とは色心を妙法と開くなり』(御書七四五ページ)の意義を踏まえ、一人一人の生命の仏界を開き顕し、また日蓮大聖人の妙法が未来永劫に世界を包んで流布していく様相を表象している。
更に全体として豊かなふくらみをもっている姿は、人間革命の深化と功徳に満ちあふれる学会員一人一人の姿を表現したものである。
この新しいシンボルマークは、広布の新章節を開く学会の“希望の紋章”として、広く愛用されていこう」
それまでの鶴丸の紋章に代わって、“創価の新時代”を象徴する、新しいシンボルマークが誕生したのである。
■引用文献
注 ミシュレ著『世界史入門』大野一道編訳、藤原書店
共戦 二
この一九七七年(昭和五十二年)は、全国各地に、県・区の中心会館となる文化会館などの建設の槌音が響き、また、完成を見ていった年であった。
それらの建物は、学会が二十一世紀という広宣流布の新時代に飛翔していくための、重要な布石であった。
山本伸一は、三月下旬から四月下旬にかけて、東京の目黒平和会館、葛飾文化会館、さらに、中部文化会館の開館記念勤行会などに相次ぎ出席していった。そして、全国各地が新法城建設の喜びに沸くなか、彼の会長就任十七周年となる五月三日を迎えたのである。
伸一は、席の温まる暇もなく、五月十日からは、関西を訪問し、滋賀文化会館の開館記念勤行会や、関西の代表幹部との懇談会等に臨んだ。十四日に東京に戻ると、十七日からは、九州・山口訪問に出発したのである。
彼は、決意していた。
“各県各区に新しい会館が完成し、広宣流布の新段階を迎えようとしている今こそ、全同志の心に、万年にわたる信心の堅固な礎を築かなくてはならない。また、人材を見つけ、育てよう! 全国各地に難攻不落の人材城をつくろう!”
十七日の午後五時前、彼は、福岡市博多区に誕生した九州平和会館に到着した。
福岡は、日蓮大聖人御在世当時の文永十一年(一二七四年)と弘安四年(一二八一年)に起こった、文永・弘安の役、すなわち蒙古襲来の激戦の舞台である。
以来、七百年――その福岡から、東洋、そして世界へ、恒久平和の哲理を発信しようとの誓いを託し、この新法城を九州平和会館と名づけたのである。
伸一が平和会館の前に立つと、会館由来の碑などに白布が掛けられ、除幕式の準備ができていた。それを見ると、彼は言った。
「さあ、九州の出発だ! すぐに除幕をしよう。すべては時間との戦いだもの、一瞬一瞬を有効に使うんだ。時間を制することができる人が、勝利の人なんだよ」
共戦 三
九州平和会館の由来を記した碑をはじめ、初代会長・牧口常三郎の「創価精神」、第二代会長・戸田城聖の「立正安国」などの文字を刻んだ石碑の除幕が行われた。
山本伸一は、それから館内に入ると、地元幹部の代表らと、九州平和会館の開館を記念して勤行を行った。
その後、九州や福岡の十人ほどの幹部と懇談した伸一は、感慨をかみしめて語った。
「いよいよ明日は、この九州平和会館で本部幹部会だ。すごい時代になったね。福岡から、全国、全世界に、広宣流布の潮流を起こしていくんだ。これからは、各県が、一つの創価学会になれるぐらい、総合的に力をつけていかなければならない。今回の本部幹部会は、その前哨戦だよ」
本部幹部会は、東京の日大講堂や日本武道館などで行われてきたが、伸一は、新しい流れを開こうと、三年半前に、こう提案した。
「本部幹部会は、いつも東京の大会場で開催するのではなく、各地で行い、地方から新しい前進の活力を送ってはどうだろうか」
そして、一九七四年(昭和四十九年)の一月度本部幹部会は、福岡県の九電記念体育館、二月度は千葉県総合運動場体育館と、各地の外部会場で開催されてきた。
さらに、全国に次々と学会の新しい会館や研修所が誕生すると、そこで本部幹部会を行うようになった。
この七七年(同五十二年)を見ても、一月度は和歌山県の関西総合研修所、二月度は川崎文化会館、三、四月度は、東京の創価文化会館、目黒平和会館で開催されている。
伸一は、東京という一つの機関車が、全国を牽引する時代は終わったと思っていた。各車両がモーターを備えた新幹線のように、各方面、さらには各県区が自力で走行し、他地域をリードできる力をもってこそ、各地の個性をいかんなく発揮した、広宣流布の新たな大前進が可能になるからだ。
地域があらゆる実力を備えてこそ、「地方の時代」の到来がある。
共戦 四
五月十八日昼、福岡は見事な五月晴れであった。九州の幹部たちは、さわやかな青空のもとで、本部幹部会が開催できるとあって、どの顔も晴れやかであった。
山本伸一は、九州平和会館の窓辺に立ち、彼方を仰ぎながら、側にいた九州担当の副会長に言った。
「雨もあがって、皆、元気に頑張っているとのことだ。本当によかった」
すると、その副会長は、怪訝そうな顔で答えた。
「九州は、この二、三日、ほとんど雨は降っておりません。今日は、ことのほか美しい青空が広がり、九州の船出にふさわしい天気だと、皆、大喜びしておりますが……」
伸一は、少し険しい口調で言った。
「私は、岩手の人たちのことを思っていたんだよ。水害で、今、いちばん、苦しんでいる人たちじゃないか」
十五日から十七日にかけて、宮古市、釜石市、大船渡市などの岩手県沿岸部に大雨が降り、床上浸水などの被害が続出していたのだ。陸前高田市では、土砂崩れによって死者も出ていた。
学会としては、十六日、釜石会館内に水害対策本部を設け、救援に当たってきた。
伸一も、救援のためのさまざまな手を打つ一方、被災地の友に見舞いの電報を送った。そして、寸暇を惜しんで、唱題を重ねてきたのである。
「最高幹部は、常に、日本中、世界中に心を配り、最も苦しんでいる人、大変な思いをしている人のことを考えていくんだ。最も苦しんでいる人と、同苦していこうとする心――それが、大聖人の御心であり、学会の心です。そこに、仏法の人間主義がある。
私は、夕べも、被災地の同志のことを思って、ずっと、お題目を送っていたんです」
伸一は、幹部が人びとの苦悩を凝視する心≠失うことを、最も恐れていた。その心を失えば、いつか組織は、形式化、官僚化していくからだ。
共戦 五
九州平和会館での本部幹部会で、山本伸一は、広宣流布の流れは、草創期の「渓流の時代」から、今や「大河の時代」になり、やがて、二十一世紀に向かって「大海の時代」となっていくことを述べた。
そして、広宣流布の活動は、時代の変化を見極め、その時代に相応した価値的な実践方式を創造していくべきであると訴えた。
仏法という生命の大法も、創価の精神も、決して変わることはない。しかし、時代は、目覚ましい変化を遂げていく。したがって、研修会や会合のもち方、活動の在り方等については、常に工夫を重ね、新しい時代に即した、価値的な方法を考えていかなければならない。英知の輝きをもって、その責任を担い、永遠なる正法の興隆を図っていくことが、後継の人の使命である。
さらに伸一は、会長としての自分の真情を語った。
「私にとっての最大の願望は、皆さん方が信心即生活の正しいリズムを持続し、ますます健康になり、幸福で、大福運につつまれた長寿の人生を送ってほしいということです。そして、人生の総仕上げを立派に成し遂げていただきたいのであります。そのために、私は、生命を削って道を開き、戦い抜く覚悟でおります。
また、皆さん方も、私と同じ心で、後輩の幸せのために、苦労し、汗を流し、戦っていただきたい。後輩から、『本当に幸せになれました。信心できてよかった』と言われる皆さんになってください。
それが、幹部の責務であり、また、そこに、先輩としての幸福があることを、深く心に銘じていただきたい」
伸一は、ここで、人材を育てることの大切さを力説した。
「まず、優れた力ある一人の人材を育てていくことです。すると、その人を中心に、多くの人材、眷属が、必然的に集い、育っていきます。人の育成が遅れれば、結局、組織は弱体化し、一切が行き詰まってしまう」
共戦 六
山本伸一は、このころ、各地で若手の壮年、婦人の県・圏幹部が数多く誕生していることから、年配の功労者への姿勢について語っていった。
「創価学会が、はつらつと躍動する、世界的な大仏教団体として発展してきた陰には、幾十万人もの、無名の民衆である先輩功労者の尽力がありました。
皆、暮らしも貧しいなか、足を棒にして弘教に歩き、それはそれは激しい、いわれなき中傷、批判にさらされてきました。それでも、ただ、ひたすら、広宣流布のために走り抜いてくださった。その方々がいらっしゃったからこそ、今日の、堅固な創価学会ができた。そのことを、若い幹部の皆さんは、絶対に忘れないでいただきたい。
そうした先輩同志の方々のなかには、今は高齢のため、健康上の理由などから、組織の第一線を退いている人もおられるでしょう。しかし、立場はどうあれ、かつては言語に絶する法戦を展開し、仏の使いとして御本尊への御奉公を立派に果たし、広宣流布に献身してこられた尊い方々です。創価の先駆者、開拓者であり、永遠の宝の方々です。
したがって、県長をはじめ、ライン幹部の皆さんは、そうした方々を、陰に陽に大切にし、また、尊敬の念を払って、人生の見事な総仕上げのために、温かい配慮をめぐらしていただきたい。
本日、ご参集の皆さんも、二、三十年もすれば、大半の方々が、今の年配功労者と同じように、ラインの正役職を退き、後輩にバトンタッチしていくことになるんです。
懸命に、創価学会を築いてこられた方々に対しては、たとえ第一線を退いても、広宣流布の最大の功労者として尊敬し、亡くなられたあともまた、その遺徳を後世に顕彰していく――これが、私の思いなんです。この最も尊く麗しい精神の流れを、これから、ますます強めつつ、共々に今世の使命を立派に果たし抜いていこうではありませんか!」
会場は、賛同の大拍手に包まれた。
共戦 七
五月度本部幹部会を終えた翌十九日午後、山本伸一は、福岡の博多駅から、新幹線で山口の小郡駅(現在の新山口駅)に向かった。
彼の山口県訪問は、一九六七年(昭和四十二年)三月に萩市、八月に下松市、防府市を訪れて以来、十年ぶりである。
今回の訪問では、五月十日に落成した山口文化会館での勤行会などに出席する予定であった。
伸一が、山口県入りした十九日は、三年前に開催された第一回県総会を記念して、「山口の日」と制定されていた。その時の県総会には、伸一は出席できず、メッセージを贈ったが、今回の訪問で、「県の日」の意義を、さらに深めることができればと考えていた。
また、この七七年(同五十二年)は、山口開拓指導から二十年の佳節を迎えていた。
山口開拓指導は、五六年(同三十一年)十月、十一月、翌五七年(同三十二年)一月にわたって、伸一の指揮のもとに実施された、広布史上に輝く大闘争である。
全国各地から山口県に縁故のある同志が集い、果敢に弘教を展開していったのだ。当初は、四百数十世帯しかなかった山口県の会員世帯が、この三回の開拓指導で四千世帯を超え、約十倍の大発展を遂げたのである。
以来二十年、開拓魂を打ち込まれた同志が核となって、山口県は大前進を遂げたのだ。
自身の一切を注ぎ込む思いで、必死になって戦い抜いた体験をもつ人は強い。あの開拓指導に参加した同志は、懸命な祈りと執念の行動の力を実感し、広宣流布の新しい道を開く使命感、責任感を培い、信仰への絶対の確信を築き上げてきたのである。
山口県に向かう車中、伸一は思った。
“今回の山口県滞在は、三泊四日である。短期間ではあるが、山口県の同志が、二十一世紀への飛躍の力を培う、第二の山口開拓指導としなければならない。一人ひとりの胸中に、いかなる困難にも負けぬ、信仰の闘魂を、赤々と燃え上がらせるのだ!”
彼は、ぎゅっと拳を握りしめた。
共戦 八
小郡駅に降りた山本伸一を、山口県長の梅岡芳実ら、地元の幹部が迎えてくれた。梅岡は、一九七三年(昭和四十八年)九月に県長となり、山口創価学会の建設に奮闘してきた四十歳の壮年である。伸一は言った。
「さあ、広布回天の新しい歴史を開こう! 第二の山口開拓指導の始まりだよ」
伸一の乗った車は、山口文化会館に向かった。同乗した梅岡は、車の順路に合わせて、地域の説明を始めた。
「駅からしばらくは、小郡町を走ります。小郡は山口県の交通の要衝です……」
「懐かしいな。小郡の組織の中心者はどなたですか」
「はい。中田俊秀さんといいまして、青果店を営んでおります」
伸一の質問は、中田の仕事の様子や家族のことにまで及んだ。一人ひとりの状況をよく知り、最も適切な激励をしたかったのである。
「わかりました。中田さんには、『本当にありがとう。地域の信頼の柱になってください。小郡を頼みます』と伝えてください」
続けて伸一は、小郡の婦人部、男子部、女子部の中心者についても、細かく尋ねていった。
梅岡が口ごもると、伸一は言った。
「県長というのは、県内の地図も、全同志のことも、みんな頭に入れておくんです。世帯が何万にもなるので無理かもしれないが、少なくとも、すべてを知ろうと、必死になって努力するんです。全同志を漏れなく幸せにする県長としての責任を思えば、一人ひとりに対して、無関心でいられるわけがない」
梅岡は、伸一の胸に燃え盛る、広布新開拓の闘魂を感じた。
「私たちは、自分自身の心の中にある光りがあかあかと消すことのできない炎をもって燃えるのでなければ、他の人たちの心に永続する光りを投じることは、できないのである」(注)とは、アメリカの人権の母エレノア・ルーズベルトの言葉である。
第二の山口開拓指導は、リーダーである梅岡への、車中での指導から開始されたのだ。
■引用文献
注 『エリノア・ルーズヴェルト自叙伝』坂西志保訳、時事通信社
共戦 九
山本伸一は、山口県長の梅岡芳実に、県内各地の中心幹部や、創価班、牙城会、白蓮グループなどの責任者の、氏名や仕事などについても尋ねていった。そして、一人ひとりに励ましの伝言を託した。
「皆さんに、私の言葉を伝えるのは、時間もかかるし、大変なことは、よくわかります。しかし、決して事務的に処理するのではなく、私の思いを、真心を伝えてください。直接、語り合うことはできなくても、共に新しい出発をしたいんです」
伸一が、山口文化会館に到着したのは、午後三時前であった。彼は、直ちに、歴代会長の記念碑の除幕や記念植樹などを行った。続いて、集っていた代表らを励ましながら、会館の敷地を見て回った。皆から、庭などの命名を請われ、「おとぎ庭園」「かぐや庭園」……と、名前もつけていった。
その間にも、伸一は、幹部らに、会館の在り方について語っていった。
「来館者が休息するベンチを、もっと多く用意した方がいいのではないかと思う。会館には、若い人だけでなく、年配の方も、たくさん来られる。その方たちが、ゆっくり休めるように、工夫することが大事です。
学会は、青年が先頭に立って広宣流布の道を開いていく青年学会≠セが、建物や運営の考え方は、若い人中心ではいけない。お年寄りや体の不自由な方、また、子どもさんのことなどを考慮していくんです。
また、学会の会館は、訪れる人に緊張感を与えるようであってはならない。会館に行くと、なんとなく心が安らぐ≠ニ、皆が思えるようにしていくことです。どこまでも、会員の皆さんのための会館なんですから」
さらに伸一は、館内を視察した。
「昼はカーテンを開けて、余分な電気は、こまめに消していくように。また、扉の開け閉めは取っ手を持って行い、ほかの部分を触って汚さないようにする。
最初が肝心なんです。今、きちんとしていれば、それが、引き継がれていきます」
共戦 十
会館は、同志の浄財によって、つくられたものだ。したがって、どこまでも大切に使用することが鉄則である。山本伸一は、すべての幹部が、その精神に徹し切ってほしかったのである。
午後五時前からは、伸一が出席して、県の日を記念する代表者勤行会が開催され、引き続き、中国方面や山口県の幹部との懇談会がもたれた。懇談会の会場には、あの開拓指導の折に、伸一の激励で立ち上がった人や、話を聞いて入会した人たちの顔もあった。
「皆さん、お楽に! 共に汗を流した、懐かしい広布の戦友とお会いできて嬉しい!」
満面に笑みを浮かべ、目を輝かせて、伸一を見つめる六十代前半の男性がいた。山口開拓指導のころ、リウマチで苦しみ、「信心で本当に克服できるのか」と食い下がってきた増田一三である。
彼は、盗難に遭ったりすると、信心に疑いを起こし、文句を言うために、東京まで伸一を訪ねて来た。そのたびに、伸一は、精魂込めて指導を重ねた。温かく包み込み、諭すように励ますこともあれば、厳しく信心の姿勢を正したこともあった。
また、増田のリウマチが再発した時には、懸命に題目を送り、励ましの手紙を書いた。
伸一は、彼には、何度となく、「大事なことは、疑うことなく、信心をし抜いていくことです」と語ってきた。その増田が、歓喜に満ちあふれた姿で、集って来たのである。
「増田さん、どうぞ前においでください。お元気で何よりです」
増田は、前に来て座り、にこやかに語った。
「ありがとうございます。先生には、いつも愚痴と文句ばかりぶつけまして……」
「いいんです。愚痴や文句は言わない方がいいに決まっていますが、どうしても、心が収まらない時には、先輩幹部にぶつかって、指導を受けていくんです。陰で文句を言ったり、一人で悶々としていてはいけません。増田さんは、文句を求道に変えていったから、ここまで信心を貫くことができたんです」
共戦 十一
懇談会には、下関支部の初代支部長、総支部長を歴任してきた山内光元の、いかにも好々爺といった印象の、温厚な笑顔もあった。
山本伸一は、声をかけた。
「山内さん。お元気になられて本当によかった。心配しました。お会いできて嬉しい」
山内は、一昨年の暮れに、突然、心筋梗塞で倒れたのだ。その夜が峠だと告げられた。
“まだ死ねん。俺には使命がある!”
彼は、心で必死に唱題した。伸一をはじめ、多くの同志が、彼のために題目を送った。
その祈りに支えられたのか、山内は、危機を脱することができたのである。
「お幾つになりましたか」
「はい。今年、七十になります」
「まだまだ、お若い。病気を克服されたからには、これからの人生は、御本尊から授かった生命であり、恩返しの人生であると決めて、人びとの幸せのために生涯を捧げ抜いてください。そうすれば、自身の最高の幸福境涯を築くことができます。
実は、七十になった時に、そう人生をとらえていけるかどうかが、大事なんです。
“私は、これまで頑張ってきたんだから、あとは若手に任せて、ゆっくり休んで、好きなことをして暮らそう”と考える人もいる。また、“さあ、人生の総仕上げの戦いをしよう。これからが勝負だ”と、決意を新たにする人もいる。
私たちは、日蓮大聖人の門下として、いかなる生き方をすべきか。大聖人は、『始より終りまで弥信心をいたすべし・さなくして後悔やあらんずらん』(御書一四四〇ページ)と仰せです。“いよいよこれからだ!”と、ますます信心の炎を燃え上がらせて戦うんです。
わが創価の先師・牧口先生は、七十歳にしてなお、創価教育学会の一切の活動の陣頭指揮を執られている。各地の座談会を担当し、火曜日と金曜日は、午後から夜の九時半、十時まで面接指導をされています。当時よりも、今は平均寿命も延びているんですから、七十代は、まさに、意気盛んな“壮年”です」
共戦 十二
山本伸一の指導に、山内光元は答えた。
「はい! 終生、戦い続けます」
強い決意のこもった声であった。
伸一は、にっこりと頷いた。
山内は、小柄な体に熱い情熱を秘め、下関の人びとの幸せのために奔走し抜いてきた。
彼は、山陰地方の神主の家に生まれ、子どものころから、神札作りを手伝わされて育った。自分が、いやいやながら、投げやりな気持ちで作った神札を、霊験あらたかなものであるかのように尊び、敬う大人たちを見ると、不思議な気がした。滑稽にさえ思えた。
大阪の商業学校を出た山内は、職を転々とした末に、食堂を始めた。懸命に努力して店舗も増やし、いよいよ経営が軌道に乗ってきた時に、先物取引で失敗する。
そのうえ従業員にも金を持ち逃げされ、事業は破綻した。戦時中は、徴兵され、満州(現在の中国東北部)で、生死の境をさまようような経験もした。
悲惨極まりない戦争体験を経るなかで、彼は“神も仏もいない”という思いをいだき、無神論者になっていった。
三十七歳で終戦を迎えた彼は、戦後、下関で一郵便局員から、人生の再スタートを切った。既に結婚し、子どもも四人いた。一家を支えるには、あまりにも薄給であった。
山内は、労働運動に身を投じていった。世の中の不平等、貧富の差をなくしたかった。懸命に運動の先頭に立って闘う山内の名は、組合運動の闘士として知れ渡っていった。
しかし、組合内部の権力闘争に躍起となる上層部の姿に、運動への情熱は、次第に冷めていった。また、妻の照子は、胃弱、心臓病で苦しんでおり、人生への失望感が、日増しに強くなっていくのであった。
彼の酒量は増し、生活もすさんでいった。
“俺の人生は、いったい、どうなっているんだ。頑張って努力し、少し良くなったかと思うと、ストーンと落ちる。貧乏や妻の病気からも、解放されることはない。目に見えない何かに、縛られているようだ……”
しかし、組合内部の権力闘争に躍起となる上層部の姿に、運動への情熱は、次第に冷めていった。また、妻の照子は、胃弱、心臓病で苦しんでおり、人生への失望感が、日増しに強くなっていくのであった。
彼の酒量は増し、生活もすさんでいった。
“俺の人生は、いったい、どうなっているんだ。頑張って努力し、少し良くなったかと思うと、ストーンと落ちる。貧乏や妻の病気からも、解放されることはない。目に見えない何かに、縛られているようだ……”
共戦 十三
労働運動に嫌気が差した山内光元は、半ば、自暴自棄になっていた。
結局、世の中は、もともと不平等にできているんだ!
どこに生まれるか。平和な国か、戦争に明け暮れる国か。先進国か、発展途上国か。大都市か、田舎か――それだけで、運命の大枠は決まってしまう。
さらに、金持ちの家か、貧しい家か。どんな親のもとに生まれたか――それで、ほぼ人生は決定づけられる。
そして、自分が、生まれながらに病弱であったり、障がいがあれば、一生、大きな苦しみがついて回る。
では、その運命を決めるのは何か。偶然の産物なのか……
考えれば考えるほど、わからなくなった。
彼は、五十歳になろうとしていた。その五十年の人生自体が、意味のないもののようにも思えるのだ。
そんな時、病院通いをしていた妻の照子が、近くの学会員から仏法の話を聞き、入会したいと言いだした。
「創価学会? どんな宗教なんだ」
「私も、詳しくはわからないけど、人間のもって生まれた宿命を転換し、みんなが幸せになれる教えだということです」
「人間の運命を転換できるというのか!」
「なんでも、南無妙法蓮華経というのが、宇宙の根本法則なんだそうですよ。日蓮さんが顕した御本尊に、この南無妙法蓮華経という題目を唱えていけば、宇宙の根本法則に合致して生きることができ、宿命も転換ができると言っていましたね。
そして、『あなたも、必ず病気を克服し、健康になることができます』って、確信をもって言われたんです。
ただ、困ったことがありましてね。正しい御本尊を信じて、祈ってこそ、幸せになれるので、神札とか、これまで祈っていた対象物は、自分で処分し、新しい決意で信心を始めるように言われたんですよ」
共戦 十四
山内光元は、妻の照子の話に、口元をほころばせた。
「ほう、神札は駄目だというのか! 面白いことを言う宗教だな。それは、正しいぞ。愉快だ。実に愉快だ。
俺は子どものころ、よく神札を作っていたから知っているが、ああいうものでは救われるわけがない。
神札や、ほかの対象物など、さっさと処分すればよい」
すると、妻は、安堵の表情を浮かべた。
「ああ、よかった。あなたが、そう言うと思って、もう燃やしておきました」
「そうか。一家で信仰がバラバラというのもよくないから、お前が信心をするなら、私もやろう」
山内夫妻が入会したのは、一九五六年(昭和三十一年)三月のことである。
妻の照子は、その日から、一生懸命に信心に励んだ。すると、いつも床に就き、生気のなかった彼女が、日ごとに元気になり、活動にも、はつらつと参加できるようになっていったのである。この体験が、仏法への確信となった。
山内光元は、入会したといっても、真剣に信心に励むつもりはなかった。しかし、妻の姿を見て、少しずつ心は動いていった。
学会の出版物をむさぼるように読み始めた。宗教には、浅深、高低、正邪があることも理解できた。何を信ずるかによって、人間の幸・不幸が決していくということも納得できた。人間の宿命は三世にわたり、過去世からの自身の行動、発言、意思によってつくられてきたことも学んだ。
入会から七カ月後の十月、山口開拓指導で山本伸一が下関を訪れ、座談会に出席した。
「皆、私たちは貧しい庶民かもしれない。しかし、本来の姿は、地涌の菩薩です。末法の人びとを幸福にするという広宣流布の聖業を果たすために、あえて宿業を背負って、この世に出現してきたんです」
その指導に、山内は息をのんだ。
共戦 十五
山本伸一は、仏法の法理のうえから、人間として生を受けた、尊い意味を訴えた。
山内光元は、悲観的にとらえていた宿命という問題の闇が払われる思いがした。
山口開拓指導には、全国の二十六支部から同志が派遣されていた。仙台など、東北から来た人もいる。それぞれの支部が、山口の各地に幸福の種を植えようと、先を争うようにして、勇んで活動を展開していった。
山内も、妻の照子も、派遣メンバーと一緒になって、弘教に奔走した。
派遣メンバーといっても、入会して、一、二年の人が多かった。皆、生活費を切り詰めに切り詰め、交通費、食費、宿泊費を捻出して、参加した人たちである。
それぞれが、家に帰れば、経済苦や家族の病苦、家庭不和などの問題をかかえていた。
しかし、“広宣流布のためには、何も惜しむまい”“この闘争で自身の生命を磨き、宿業を断ち切ろう”と、はやる心で駆けつけた健気な同志たちであった。
ところが、つてを頼りに訪問し、仏法の話をしても、聞く耳をもたぬ人ばかりであった。盛んだった意気は消沈した。
丘の上から街の明かりを眺めながら、“この街には、こんなにたくさんの人が暮らしているのに、一人も折伏することができないのか……”と、悔し涙を流す人もいた。
そんな、同志に、勇気の光を注ぎ、闘魂を燃え上がらせたのが、開拓指導の責任者である伸一であった。
弘教が実らぬと嘆く人には、こう諄々と訴えるのであった。
「折伏、すなわち成仏の種子を下ろす下種には、『聞法下種』と『発心下種』とがあります。『聞法下種』とは、仏法を説き聞かすことです。『発心下種』とは、その結果として信心を発し、御本尊を受持することです。
たとえ、相手が、すぐに信心しなくとも、仏法を語れば、心田に仏種を植えたんですから、いつか、必ず信心します。ゆえに、この『聞法下種』こそが折伏の根本なんです」
共戦 十六
山口開拓指導に参加し、懸命に折伏に励みながら、相手を入会させることができずに悩んでいる同志のことを思うと、山本伸一は、胸が痛んでならなかった。彼は力説した。
「私たちは、必死になって仏法を語ったのに、相手が信心しないと、がっかりして、落ち込んでしまいがちです。しかし、『聞法下種』も『発心下種』も功徳は同じなんです。
大事なことは、正法を皆に語り抜いていくことなんです。
皆さんは、不軽菩薩のことを学んだでしょう。私たちの下種活動は、現代において、不軽菩薩の行を実践しているんです。すごいことではないですか!」
法華経の常不軽菩薩品には、次のように説かれている。
過去世の威音王仏の滅後、像法に、不軽菩薩が出現する。
不軽は、会う人ごとに、二十四文字の法華経を説き、礼拝・讃歎して歩いた。
「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」(法華経五五七ページ)
<私は深く、あなた方を敬います。決して軽んじたり、慢ったりしません。なぜなら、あなた方は皆、菩薩道の修行をすれば、必ず仏になることができるからです>
不軽菩薩は、一切衆生に仏性があると確信し、こう訴え、人びとにひざまずき、合掌していったのである。
しかし、彼の言葉を聞くと、むしろ、人びとは、怒り、憎悪の心を燃え上がらせた。不軽の言うことは虚言であるとして、悪口し、罵り、さらに、杖や棒で打ち、瓦のかけらや石を投げつけたのである。
それでも不軽菩薩は、「我れは深く汝等を敬い……」と言って、人びとを礼拝することをやめなかった。
この時、不軽を軽んじ、迫害を加えた者は千劫の間、無間地獄に堕ちる。しかし、最後は、正法を聞いた縁によって救われるのである。
共戦 十七
末法の衆生の機根は、本未有善(本と未だ善有らず)である。釈尊に縁がなく、成仏得道の種子が植えられていない。
そうした衆生をいかにして化導するか。
天台は、『法華文句』に「而強毒之」(而も強いて之を毒す)と述べている。正法を聞くのを好まない者に対しても、あえて、これを説いて、仏縁を結ばせることをいう。不軽菩薩のように、人びとに法を語り説いていくのだ。
妙法を聞いた人たちは、直ちに受け入れようとはせず、反発し、貪(むさぼり)、瞋(いかり)、癡(おろか)の三毒の心を起こし、法を説く人に迫害を加える。しかし、正法を聞いたことによって、仏縁が結ばれ、成仏する種が植えられるのである。
ゆえに、日蓮大聖人は、「而強毒之するは慈悲より起れり」(御書七六九ページ)と述べられている。
山本伸一は、山口開拓指導に参加した、同志たちに訴えた。
「仏法を聞いて、信心するかどうかは相手の問題です。要は、人びとの幸せを願い、何人の方に仏法を説き聞かせることができたかが大事なんです。
もちろん、皆が正法を信じ、幸福になることが目的ですから、断じて信心させようとの強い一念が大切であることは、言うまでもありません。しかし、信心しなくとも、決して落ち込んだりする必要はありません。
一人当たって駄目なら二人。二人当たって駄目なら三人、五人、十人と当たり、十人で駄目なら二十人。二十人で駄目なら三十人、四十人……と、ますます意気軒昂と、弘教していくんです。それが、すべて、功徳、福運となり、宿命転換の力となっていきます。
皆さんは、現代の不軽菩薩であり、また、地涌の菩薩です。そして、日蓮大聖人と同じ仏道修行の大道を歩んでいるんです」
伸一の指導に接した同志は、勇気が湧くのを感じた。皆、元気を取り戻し、蘇生した思いで弘教に飛び出していった。
共戦 十八
山内光元と妻の照子は、山口開拓指導で山本伸一から、広宣流布の使命に生き抜くことの大切さを学んだ。
労働運動の闘士であった光元は、広宣流布運動の闘士となり、下関の創価学会発展の中核となってきたのである。
山本伸一は、山口文化会館での懇談会で、一人ひとりに声をかけていった。
参加者には、開拓指導で入会したり、立ち上がったりした人が少なくなかった。
萩の壮年、婦人の本部長である伊郷忠治と妻の時子も、そうであった。
伸一が開拓指導で、初めて萩の座談会に出席した折、入会して間もない時子が、思い詰めたような顔で尋ねた。
「この信心で、本当に病気がよくなるんでしょうか」
彼女は、一カ月ほど前に入会していたが、この時、肺結核、そして腎臓結核に苦しんでいたのである。
「どこか、お体が悪いんですか」
「はい。結核なもので……」
そのやりとりを、彼女の横で、固唾をのんで見つめている壮年がいた。国鉄(現在のJR)に勤務する、夫の伊郷忠治であった。彼もまた、気管支を病み、咳や痰に苦しんできたのである。忠治は、未入会であったが、一人では自由に歩くこともできぬ時子に頼まれて、会場に連れてきたのだ。
伸一は、彼女を見ながら、宿命と病の関係について語っていった。
「医学の力は大切ですが、病を治せるかどうかは、根本的には、人間自身の生命力の問題になります。また、病に苦しまなければならないという宿命を転換しない限り、一つの病を乗り越えても、また、別の病に苦しむことになる。仏法は、その生命力を涌現し、宿命を転換する道を説いているんです。私自身、かつては肺結核で苦しんできましたが、それを乗り越えることができたんです」
体験に裏打ちされた、確信あふれる話には、人間の生命を揺り動かす力がある。
共戦 十九
山本伸一の話に、伊郷時子は“必ず、仏法で宿業を打開してみせる!”と奮い立った。
夫の忠治も、信心をしてみようと思った。
奮起した時子は、早速、三人の友人に声をかけ、山本伸一らが宿舎にしている旅館での座談会に連れて行った。
三人は、伸一の話を、目を輝かせて聞き、正しい宗教の必要性を痛感し、その場で、入会を決意したのである。
時子は、弘教の喜びを知った。胸に込み上げる歓喜と希望と確信の三重奏が、生命に躍動の調べを奏でていた。
以来、体調の良い時には、積極的に学会活動に参加した。弘教に励んでいると、自分が病気であることさえ忘れていた。
いつの間にか、常に全身を覆っていた気だるさが消え、気力がみなぎるのを感じた。
そして、この年の十二月には、床上げすることができ、翌年の四月には、それまで続いていた血尿も止まった。八年余の闘病生活にピリオドが打たれたのだ。
戸田城聖は、よく語っていた。
「御本尊は、大宇宙の生命を最も強く結集された当体である。その御本尊と感応するから、こちらの生命力も最も強くなるのだ」
広宣流布のため、人びとの幸せのために、生き生きと活動する時、みずみずしい生命力があふれる。
妻の時子の体験を見て、夫の忠治も、意欲的に信心に励むようになり、二人は、萩の広宣流布の推進力となってきたのである。
伸一は、懇談会で伊郷夫妻に声をかけた。
「伊郷さんご夫妻が、お元気なので嬉しい。奥さんは、初めてお会いした時の姿が、まるで嘘のようです」
妻の時子が答えた。
「はい。病気だけでなく、経済的な窮地に立ったこともありましたが、今は本当に幸せです。折伏も夫婦で百世帯近くになります」
「さすがです。今のお二人の姿は、二十年の間、本当に戦い抜いたならば、必ず宿命を転換し、幸せになれるという証拠です」
共戦 二十
メガネをかけた老紳士が、立ち上がって山本伸一にあいさつした。
「防府の美藤実です。昭和三十二年(一九五七年)一月の山口開拓指導で、防府に来られた山本先生を、当時、三田尻駅といっていた防府駅まで、お迎えにまいりました」
「よく覚えています。ところで、お幾つになられましたか」
「六十一歳です。四人の子どもたちも成長し、夫婦で何一つ不自由のない生活をしています」
「今は、お仕事は?」
「はい。以前は下駄の小売店をしていましたが、現在は総菜屋でございます」
美藤が入会したのは、伸一を三田尻駅に迎えた二カ月前であった。前年秋から始まった開拓指導による弘教の広がりのなかで、美藤も信心を始めたのだ。
伸一が宿泊する旅館の二階で行われた、その夜の座談会は、活況を呈した。参加者の半数ほどが、学会員の友人たちであった。経済苦や病苦が転換できるかなど、さまざまな質問が伸一にぶつけられた。
宿命にあえぐ庶民の苦悶がひしめき合うようななかで始まった座談会であったが、伸一が語るにつれて、参加者の疑問は氷解し、会場は、希望と蘇生の光に包まれていった。
質問が一段落したころ、口ヒゲをはやした一人の壮年が発言した。友人として参加していた地域の有力者であった。
「わしは、ここにおる者のように、金には困っとらん。今、思案しとるのは、これから、どんな事業をしようかということじゃ。ひとつ、考えてくれんか!」
参加者を見下したような、傲岸不遜な態度である。伸一の表情が、一瞬、険しくなった。皆が、息をのんだ。
伸一の鋭い声が響いた。
「学会は、不幸な人びとの味方です。あなたのように、人間を表面的な姿や立場、肩書で見て、蔑んでいるような人には、いつまでも、学会のことも、仏法もわかりません!」
共戦 二十一
地域の有力者は、山本伸一の厳しい言葉にたじろぎ、あっけに取られたように、目をぱちくりさせていた。
伸一は、諄々と語り始めた。
「ここにおられる、同志の多くは、経済的に窮地に立ったり、病で苦しまれています。
しかし、その苦悩をいかに乗り越えていこうかと、真剣に悩み、考えておられる。しかも、自ら、そうした悩みを抱えながら、みんなを幸せにしようと、冷笑されたり、悪口を言われながらも、日々、奔走されている。
わずかな財産を鼻にかけ、威張りくさっているような生き方とは対極にある、最も清らかで尊い生き方ではありませんか!
仏法というのは、何が本当の幸福なのか、何が人間にとって最高の善なのか、何が真実の人間の道かを、説いているんです。
社会では、ともすれば、金銭や地位、名誉にばかり目を奪われ、心の財≠ェ見失われてしまっている。しかし、本当に人間が幸福になるには心の財≠積むしかない。心を磨き、輝かせて、何ものにも負けない自分自身をつくっていくのが仏法なんです。
その仏法を弘め、この世から、不幸をなくしていこうというのが、学会なんです」
伸一は、民衆の蘇生と幸福を実現する創価学会の使命と、真実の人間の生き方を訴えていった。話が終わると、大拍手に包まれ、友人のほとんどが入会を希望した。有力者の壮年も感服し、入会を決意した。
民衆を守るために、命がけで戦おうとする情熱と気迫が、参加者の心の扉を開き、共感の調べを奏でたのである。
座談会のあと、参加者の何人かが、旅館の別室で輪になって語り合った。有力者の壮年は、興奮を抑えきれない様子で語った。
「わしは驚いたぞ。こんな話だとは、思わんかった。すごい青年がいるもんじゃ。一言一言、胸をドンと突かれるようで、後ろにひっくり返りそうで、こうやって、手を畳について、体を支えておったんじゃ。こりゃあ、本当にすごい宗教かもしれんぞ!」
共戦 二十二
美藤実は、有力者の壮年に対する、山本伸一の確信にあふれた指導に魅了された。
”ひとたび信心をしたからには、あの確信、あの信念をもちたいものだ”と思った。
美藤は、翌日も、指導を求めて、朝一番で、伸一が宿舎にしていた旅館に行った。
伸一は、集って来たメンバーと記念のカメラに納まったあと、こう美藤を励ました。
「生涯、不退転でいくんですよ。商売も、しっかり成功させてください。それが、防府の広宣流布の基礎をつくることになります」
また、この時、美藤は、十数世帯の会員の中心者である組長になったのである。
美藤は、お人好しな性格であった。商売でも、すぐに人を信じ、いい話がある≠ニ言われると、飛びついてしまうのだ。
妻の喜美子が、よく考えるように忠告しても、「商売のことには、口を出すな」と言って、耳を傾けようとはしなかった。
ある時、「すべてオートメーションで、瞬く間に、饅頭ができる」と、饅頭製造機を勧められた。すぐに購入し、饅頭屋を始めた。
饅頭は量産できたが、買ってくれる人には限りがあった。結局、大量に生産した饅頭は、大量に売れ残り、事業は破綻した。
また、人に勧められ、駅前に、八面が回転する広告の鉄塔を建てた。「毎月、黙っていても、高収入がある」との言葉に心が動いたのだ。多くの人が、もの珍しそうに鉄塔を見に来た。
しかし、肝心の広告主がつかず、これも失敗に終わった。たび重なる事業の失敗で、貧乏のどん底に突き落とされた。
美藤を見る周囲の目は厳しかった。それはそのまま、創価学会への批判となった。
妻に促されて、幹部に指導を受けた。
「美藤さんは、”信心をしているんだから、何をやってもうまくいく。楽をしていても儲かる”と思っているのではないですか。それでは、信心の堕落です。信心の利用です。仏法は、道理なんですよ。努力も、工夫も、挑戦もなくて、うまくいくわけがない」
共戦 二十三
美藤実は、幹部の言葉に、自分の心を見透かされている思いがした。
「うまい儲け話は、どこかに落とし穴があり、必ず失敗するものです。ところが、そこに手を出してしくじり、借金を背負い込んでしまうと、なんとかしようと焦って、また、うまい儲け話にのってしまう。それを繰り返して、ますます借金が膨れ上がり、最後は破産してしまうことになる。
そうならないためには、その安易な一念、“おすがり信心”のような生き方を改めて、仕事も、信心も、新しい決意に立って再出発することです。うまい儲け話を追うような生き方をするのではなく、地道に努力と工夫を重ね、足もとを固めながら、着実に信頼を広げていくんです。
また、何よりも、“自分の人生は、広宣流布のためにあるのだ!”と、心を定めることです。そして、“必ず、防府の広宣流布を成し遂げていきます。そのために、今の危機を脱して、自由に活動できる経済力をつけさせてください”“仏法の偉大さを証明する力をください”と、真剣に祈ることです。
ただ、儲けるために信心をするのか。広宣流布していくために事業を成功させたいのか――そこには、天地水火の違いがあります。
私たちは、地域、社会の人びとに、正しい仏法を教え、一人も漏れなく幸せにしていくという、使命をもって生まれてきたんです。
その使命に生き抜こうと心を定め、信心に励む時、仏、菩薩の生命が涌現し、無限の力が、智慧が、湧いてくるんです。その力と智慧をもって、懸命に仕事に取り組んでこそ、商売の成功もあるんです」
美藤は、自分の信心を、そして、生き方を猛反省せざるを得なかった。
彼は、信心も仕事も、一から始めるつもりで、挑戦を開始した。紆余曲折はあったが、総菜屋を始め、着実に信頼を築いてきた。弘教も百世帯を超した。そして、二十年の来し方を思い返しながら、深い感謝を込め、山本伸一に現況報告したのである。
共戦 二十四
山本伸一は、懇談会で、山口県婦人部長の直井美子に視線を注いだ。
「確か、直井さんのご一家も、山口開拓指導の時に入会したんでしたね」
「はい。そうです。昭和三十一年(一九五六年)十月の最初の開拓指導で、義母をはじめ、一家で入会しました。夫が本気になって信心をするようになったのは、その翌月、防府に来られた先生とお会いしてからです」
「ご主人との最初の出会いは、よく覚えています」
直井の夫である輝光は、老舗の荒物店の店主であった。三代目の彼は、商売に身が入らず、夜ごと、友だちと連れ立って飲み歩く生活が続いていた。それを悩み抜いていたのが、彼の母・千寿であった。
開拓指導の派遣メンバーから、仏法の話を聞いた千寿は、信心をしようと決め、嫁の美子も、息子の輝光も、一緒に入会したのだ。美子は千寿と共に信心に励んだが、輝光は、真面目に信仰する気などなかった。
翌月、防府に伸一が来た時、輝光は、学会員に迎えに来られ、仕方なく、座談会に出席した。二十人ほどの人が集まっているところに、「やあ、楽しそうだね」と言って、一人の青年が入ってきた。伸一であった。
年齢は、自分より三、四歳ぐらい上にすぎないはずだが、その風格に気圧された。
さらに、語り始めると、その言葉には、日本を、世界をどうするかという、大きな気概と情熱があふれていた。輝光は、同じ青年として、にわかに恥じらいを覚えた。
輝光を連れてきた学会員が、伸一に彼を紹介した。伸一は、親しい友人に話しかけるように、率直に語り始めた。
「直井君は、何も悩みのない顔をしているね。物事に正面から立ち向かい、悩み、もがいて、前に進もうという覇気が感じられないんだよ。それでは、本当の力も発揮できないし、人生の醍醐味も、信心の力も、わからずに終わってしまうよ。せっかく入会したんだから、とことんまで信心してみようよ」
共戦 二十五
山本伸一は、直井輝光に、青年には次代の社会を担い、新しい世紀を創る使命があることを、力を込めて語っていった。
「直井君。青年は、その日その日を、面白おかしく生きていればいいという考えではいけないよ。そんな人生は、結局は、むなしいものだ。
青年ならば、この世から不幸をなくすために、広宣流布という大理想に、共に生きようじゃないか!」
その言葉に、輝光は衝撃を受けた。自分の小さな人生観が打ち破られた気がした。
イギリスの作家ホール・ケインは、名作『永遠の都』のなかで、一人の市民に、こう語らせている。
「われわれは理想のために生きるべきだ。理想というのは、この世でたったひとつの生き甲斐あるものだ」(注)
本来、その理想の実現に、最も生命を燃やすのが青年である。理想は、青年を青年たらしめる魂である。
輝光は、自分も、この人と共に、仏法に人生をかけてみたい≠ニいう思いが、湧き起こってくるのを覚えた。腹は決まった。
「はい。頑張ります。信心をする限り、徹底してやってみます!」
直井輝光も、母の千寿や妻の美子に負けじと、真剣に信心に取り組んでいった。彼らは、自宅を諸会合の会場として提供した。ここを中心に、防府の広宣流布の歯車は、大きく回転していくことになるのである。
妻の直井美子は、学会活動に励むなかで、仏法対話する先輩の、確信の強さに驚嘆した。どんな大変な悩みを聞かされても、「必ず解決します!」「乗り越えられます!」と断言するのである。
そして、信心した人には、事実、その言葉通りの結果が表れるのだ。そうした現証を目の当たりにするなかで、彼女もまた、仏法への確信を強めていった。学会活動に参加し、多くの人の体験を知ることは、確信という信仰の骨格をつくる直道といってよい。
■引用文献
ホール・ケイン著『永遠の都(下)』新庄哲夫訳、潮出版社
共戦 二十六
直井美子は、裏表のない性格で、率直に、言うべきことはズバリと言う女性であった。高校時代にはバレーボールの選手として、全国大会に出場したこともあり、活動的で明るく、面倒みもよかった。
一九七二年(昭和四十七年)、県婦人部長となり、山口全県が彼女の“乱舞のコート”となった。そして、翌年に、梅岡芳実が山口県長に就き、二人は力を合わせて、山口広布を牽引してきたのである。
懇談会の席で山本伸一は、梅岡に語った。
「梅岡県長は、直井婦人部長と組み、支えてもらったから、伸び伸びと力を発揮し、大きな発展の足跡を刻めたんだよ」
「はい。おっしゃる通りだと思います」
梅岡が言うと同時に、直井も答えた。
「県長が一生懸命に戦われたからです」
伸一は、微笑みを浮かべた。
「婦人部長の、その気遣いがすばらしい。
壮年と婦人の仲が悪い組織というのは、互いに、相手を立てることができないんです。
実は、それは、双方共に、境涯が低いということでもある。どちらか一方が、大きな心で相手を包容できれば、意地を張り合うことなどなくなるものです。山口県は、直井さんが大きな境涯で、県長を包んでくれたことで、着実に発展することができたように思うね」
梅岡は、大きく頷いた。彼自身が、それを痛感していたからである。
山口県は、「長州の小提灯」と言われ、各人が独立自尊の意識が強く、地理的にも小都市が分散していることから、一つにまとまりにくい県民性であると言われてきた。
梅岡は、鳥取県の出身で、中国男子部長、中国青年部長等を歴任してきたが、山口県と特に深い縁はなかった。皆には、“突然、県長としてやって来た”との印象があった。
直井は、梅岡より数歳年長であったが、県長として彼を立て、懸命に守り支えてきた。
地元生え抜きの、その県婦人部長の姿を見て、各地の功労者らも快く梅岡を応援し、山口の団結がつくられていったといえよう。
共戦 二十七
山本伸一は、壮年部と婦人部の団結について語っていった。
「学会の活動を、最も推進してくださっているのは婦人部です。機関紙の配達員さんを見ても、圧倒的に婦人が多い。
したがって壮年は、婦人を尊敬し、ねぎらい、その意見を尊重することが大事です。
壮年幹部が、なんの相談もなく、一方的に物事を決めて、結果だけを伝えるようなことは、厳に慎むべきです。それでは、共戦になりません。だいたい、壮年と婦人がギクシャクしている組織というのは、対話がなく、連携がないことが多いんです。
もちろん、協議をしても、意見の一致をみない場合もあるでしょう。しかし、活動を進めるには、どれかに決定しなければならないことが多い。その時には、多少、不本意でも、皆で話し合って決まったことを、快く受け入れ、心を合わせて頑張ることです。
いちばんよくないのは、いざ実行する段階になって、『私は、もともと反対であった』などと言いだすことです。それは、組織の団結を、内側から破壊する行為です。
また、壮年幹部が婦人を下に見て、威張ったり、叱りつけるようなことがあっては、絶対にならない。そんな幹部がいたら、言ってきてください。私が戦います。
さらに、ご婦人の目から見て、細かいことでも、“何か、おかしいな”と思うことがあれば、躊躇せずに、声をあげてください。それが、学会という清浄な世界を蝕む、悪の芽を断つことになる。婦人の清らかな生命のセンサーが、学会を守るんです」
創価学会の広宣流布運動は、これまで時代建設とは最もかけ離れた存在と思われていた女性が、前面に躍り出て推進してきた、未聞の民衆運動である。それは、まさに、「草莽崛起」(民衆の決起)の、新しい歴史の幕開けといってよい。
そのために、伸一は、女性が、張り合いと生き甲斐をもち、楽しく快活に活動が進められるように、心を砕き続けてきたのである。
共戦 二十八
山本伸一は、壮年たちに向かって言った。
「どうか壮年幹部の皆さんは、ご婦人への気遣い、配慮を、常に心がけていただきたい。
顔を合わせた時には、壮年の方から先に、『お世話になります』『いつも、本当にありがとうございます』と、丁重にあいさつするんです。
また、たとえば、会合や打ち合わせを行う場合も、婦人の帰宅が遅くならないように、少し早めに終わるとか、場合によっては、壮年だけの会合にして、婦人には休んでいただくことも必要です。
壮年と婦人で会合を開いたあとも、『清掃は、壮年でしますから、ご婦人は早くお帰りください』と言うぐらいの配慮があっても、いいんじゃないですか。賛成の人?」
皆が手をあげた。
「山口の男性は、皆、ナイト(騎士)であることがよくわかりました。これで山口は、新しい創価学会の模範となるでしょう」
会場は、笑いに包まれた。
それから伸一は、山口開拓指導を共に戦った草創の同志に語りかけた。
「当時、四十代、五十代であった方々が、今は六十代、七十代となり、人生の総仕上げの時代に入った。したがって、“総仕上げ”とは、いかなる生き方を意味するのか、少しお話しさせていただきます。
先ほども申し上げましたが、第一に、報恩感謝の思いで、命ある限り、広宣流布に生き抜き、信仰を完結させることです。正役職から退くことはあっても、信心には引退も、卒業もありません。“去って去らず”です。
そうでなければ、これまでの決意も誓いも、人にも訴えてきたことも、結局は、すべて嘘になってしまう。後退の姿を見れば、多くの後輩が失望し、落胆します。そして、それは、仏法への不信の因にもなっていきます。
『受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり』(御書一一三六ページ)と大聖人が仰せのように、最後まで、いよいよ信心の炎を燃え上がらせていくんです」
共戦 二十九
草創の同志たちは、誓いを新たにしながら、山本伸一の言葉に耳を澄ましていた。
「学会員は皆、長年、信心してきた先輩たちが、どんな生き方をするのか、じっと見ています。ゆえに、学会と仏法の、真実と正義を証明していくために、幹部だった人には、終生、同志の生き方の手本となっていく使命と責任があるんです。
もちろん、年とともに、体力も衰えていくでしょう。足腰も弱くなり、歩くのも大変な方も増えていくでしょう。それは、自然の摂理です。恥じることではありませんし、無理をする必要もありません。ただ、どうなろうとも、自分なりに、同志を励まし、法を説き、広宣流布のために働いていくんです。
また、体は動けなくなったとしても、皆に題目を送ることはできるではありませんか!
先日、草創期から、頑張り抜いてきた高齢の同志が亡くなりました。最後は癌で療養していましたが、見舞いに訪れる学会員に、学会活動ができることの喜びを教え、命を振り絞るようにして、激励し続けたそうです。
やがて、臨終が近づいた時、薄れゆく意識のなかで、盛んに口を動かしている。家族が耳を近づけてみると、『きみ、も、信心、しようじゃ、ないか』と言っている。夢のなかでも、誰かを折伏していたんです。
それから、しばらくして、うっすらと目を開け、また、口を動かす。今度は、題目を唱えていたと言うんです。
息絶える瞬間まで、法を説き、唱題し抜こうとする様子を聞き、私は感動しました。仏を見る思いがしました。まさに、広宣流布に生き抜いた、荘厳な、美しい夕日のような、人生の終幕といえるでしょう。
そこに待っているのは、美しき旭日のごとき、金色に包まれた未来世の幕開けです。生命は永遠なんです」
伸一は、敬愛する草創の同志たちに、真の信仰者として、この世の使命を果たし抜き、人生を全うしてほしかった。仏法者としての勝利の旗を、掲げ抜いてほしかった。
共戦 三十
山本伸一は、決意を促すように、草創の同志を見つめながら、話を続けた。
「日蓮大聖人は、『須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき』(御書四六七ページ)と言われています。つまり、一心に唱題と折伏に励み抜いていくことこそ、人間として生まれてきた、今世の最高の思い出となると、御断言になっているんです。
私たちは、人間として生まれたからこそ、題目を唱え、人に仏法を語ることができる。
一生成仏の千載一遇のチャンスを得たということです。ゆえに、地涌の菩薩として、今世の使命を果たし抜いていくんです」
皆、真剣な眼差しで、伸一を見ていた。彼の声に、ますます力がこもった。
「第二に、人生の総仕上げとは、それぞれが、幸福の実証を示していく時であるということです。“私は最高に幸せだ。こんなに楽しい、すばらしい人生はない”と、胸を張って言える日々を送っていただきたいんです。
しかし、それは、大豪邸に住み、高級料理を食べ、贅沢な暮らしをするということではありません。欲望を満たすことによって得られる『欲楽』の幸福というのは、束の間にすぎない。相対的幸福だからです。
たとえば、念願叶って、百坪の家を手に入れたとします。しかし、『欲楽』ばかりを追い求めていれば、千坪、二千坪の大邸宅を見ると、欲しいと思うようになるでしょう。そして、それが手に入らないと、かえって、不満や不幸を感じることになってしまう」
信心の功徳を実感するうえでも、信仰の一つの実証としても、「蔵の財」「身の財」は大事である。
しかし、財産は使えばなくなるし、災害などで一夜にして失ってしまう場合もある。また、優れた体力も、高齢になれば衰えていかざるを得ない。
本当の幸福は、時代の激変にも、時の流れにも左右されることのない、「心の財」を積んでいくなかにこそあるのだ。
共戦 三十一
日蓮大聖人は、「此の経の信心を致し給い候はば現当の所願満足有る可く候」(御書一二四二ページ)と明言なさっている。
真の所願満足は、金銭や財産などを追い求めるなかにあるのではない。欲望に振り回されることのない、少欲知足の心豊かな境涯が確立されてこそ、至る境地といえる。つまり、「心の財」のなかにこそあるのだ。
イタリア・ルネサンスの知性アルベルティは、「どれをとっても魂の財産よりも好ましいものはない」(注)との警句を残している。
山本伸一は、ユーモアを交えて語った。
「年をとれば、多くの人は、年金生活になり、経済的には質素にならざるを得ないかもしれない。でも、お金があり余るほどあったら、何を買っても、喜びは半減します。食事だって、毎日、高級なステーキばかり食べていたら、すぐに飽きてしまいますよ。それに偏食になって、体にもよくない。
また、大豪邸になんて住まなくても、いいじゃないですか。人間が寝るところは、畳一畳なんですから。間数は少ない方が掃除も楽です。服だって、何百着も持っていたら、選ぶのが大変ですよ。少ないからいいんです」
どっと、笑いが起こった。
「『蔵の財』『身の財』は、所詮は、この世限りです。『心の財』は、未来世にまでもわたる財であり、しかも無限です。
『心の財』は、『欲楽』に対して『法楽』と言い、仏の悟りの法を求めることによって得られる楽です。つまり、信心によってのみ得られる幸せなんです。
『法楽』は、生命のなかから、泉のごとく湧きいずる幸福であり、環境の変化などによって崩れることのない幸福です。戸田先生は、それを『絶対的幸福』と言われたんです」
戸田城聖は、一九五六年(昭和三十一年)五月三日の春季総会で次のように述べている。
「絶対的幸福というのは、どこにいても、生きがいを感ずる境涯、どこにいても、生きている自体が楽しい、そういう境涯があるんです。腹のたつことがあっても、愉快に腹がたつ」
■引用文献
注 レオン・バッティスタ・アルベルティ著「文学研究の利益と損失」(『原典イタリア・ルネサンス人文主義』所収)池上俊一訳、名古屋大学出版会
共戦 三十二
日蓮大聖人は、極寒に身を責められ、食べる物も、着る物も乏しく、命をも狙われていた流罪の地・佐渡にあって、門下に宛てた御手紙に、こう記されている。
「流人なれども喜悦はかりなし」(御書一三六〇ページ)――それが、仏の大境涯であり、「絶対的幸福」の発露であろう。
初代会長・牧口常三郎もまた、軍部政府の弾圧によって獄に繋がれながら、看守を折伏し、取り調べの場で価値論を説き、家族らに励ましと指導の葉書を送り続けている。
その葉書には、「何の不安もない」(注1)とある。また、検閲によって削除されているが、「心一つで地獄にも楽しみがあります」(注2)とも記されている。
幸福は、最終的には、環境条件によって決定づけられるのではない。
幸福は、どこにあるのか。自身の胸中にあるのだ。心の宮殿のなかにあるのだ。その宮殿の扉を開けるカギこそが、信心なのである。
山本伸一は、話を続けた。
「人生の総仕上げにあたっては、生老病死など、無常の現象をありのままに見つめ、その奥底を貫く常住不変の妙法に則り、一途に絶対的幸福境涯の確立をめざしてください。
豊かな『心の財』を得た幸福境涯というのは、内面的なものですが、それは、表情にも、言動にも、人格にも表れます。
その言動には、感謝と歓喜と確信があふれるものです。そして、思いやりに富み、自分の我を貫くのではなく、皆のために尽くそうという慈愛と気遣いがあります。さらに、人びとの心を包み込むような、柔和で、朗らかな笑顔があるものです。
また、幾つになっても、向上、前進の息吹があり、生命の躍動感があります。ゆえに、大聖人が『年は・わか(若)うなり』(同一一三五ページ)と仰せのように、若々しさを感じさせます。
一方、愚痴、文句、不平、不満、嫉妬、恨みごとばかりの人もいます。それは、自分の不幸を表明しているだけでなく、ますます自分の不幸を増幅させていきます」
■引用文献
注1、2 「獄中書簡」(『牧口常三郎全集10』所収)第三文明社
共戦 三十三
真実の幸福である絶対的幸福境涯を確立できるかどうかは、何によって決まるか。
――経済力や社会的な地位によるのではない。学会における組織の役職のいかんでもない。ひとえに、地道な、信心の積み重ねによって、生命を耕し、人間革命を成し遂げてきたかどうかにかかっている。
フランスの思想家ルソーは断言している。
「ほんとうの幸福の源はわたしたち自身のうちにある」(注)
山本伸一は、人生の総仕上げの意味について、さらに語っていった。
「第三に、家庭にあっても、学会の組織にあっても、立派な広宣流布の後継者、後輩を育て残していくことです。
家庭で、もし、お子さんが、しっかり信心を継承していないなら、お孫さんに、さらには、曾孫さんに伝えていくんです。
お子さんがいなければ、甥や姪でもいいではないですか。一族の未来のために、妙法の火を消すことなく、伝え抜いていってください。そして、学会のなかでも、未来部の子どもたちをわが子のようにかわいがり、信心を、しっかり継承させていってください。
また、組織の後輩を育て、守り、応援し、大事に育てていくようにお願いしたい。
学会の未来が盤石であるためには、各組織にあって、大鳥が陸続と巣立ち、羽ばたくように、若いリーダーが育っていかねばならない。
そのために、婦人部であれば、子育てや人間関係の悩みなど、若い婦人たちのさまざまな相談にのってあげてください。皆が自分の悩みを乗り越える希望がもててこそ、力を発揮することができるからです。
特に、入会間もない人などには、折伏や教学など、一つ一つ丹念に、信心の基本から教えてあげてください。しっかり基本を身につけてこそ、人材として大成することができるからです」
十分に手をかけ、真心を注いだ分だけ、人材は育つ。そして、人を育てることに勝る生きがいはない。
■引用文献
注 ルソー著『孤独な散歩者の夢想』今野一雄訳、岩波書店
共戦 三十四
山本伸一は、未来を見すえるように、楽しそうに話を続けた。
「これから、県長などの幹部にも、草創期を戦い抜かれた皆さんより、十歳も、二十歳も若い人たちが登用されていくでしょう。さらには、三十歳下、四十歳下の人が、各組織の中心者となっていく時代が来るでしょう。それが令法久住の流れです。
若いということは、さまざまな可能性をはらんでいるとともに、当然、未熟な面があります。先輩の皆さんが、そこをつついて、『力がない』とか、『私は、あの年代の時は、もっと頑張ったのに』と言っているようでは駄目です。また、『私に相談がなかった』とか、『聞いていない』などと、へそを曲げるようなことがあってはなりません。
批判するためではなく、応援するために、経験豊富な皆さんがいるんです」
先輩が立派であったかどうかは、後輩の姿に表れる。したがって、先輩が後輩の未熟さを嘆くことは、自らの無力さ、無責任さを嘆いていることに等しい。
伸一は、少し厳しい語調で言葉をついだ。
「先輩は菊作りであり、後輩は菊です。ゆえに、もし、組織の中心者になった後輩が、力を発揮できないとしたら、それは、先輩幹部が悪いんです。先輩が後輩を育てもしなければ、全力で応援もしていないからです。
どうか、皆さんは、後輩のリーダーは、私が守り抜く≠ニの決意に立ってください。
たとえば、県長でも、ブロック長でも、新しい中心者が誕生したら、『今度の県長は、若いがすごい人だ!』『あのブロック長は、大変な人材だ。みんなでもり立てていこう!』と言って、率先して応援していくんです。
そして、その中心者に、『どんなことでもやらせていただきますから、遠慮なく、相談してください』と言ってごらんなさい。
草創の大先輩が、こぞって、そう言って応援してくれたら、若い人は、どんなに活動しやすいか。それが、真実の先輩幹部です。それが、創価家族の世界です」
■語句の解説
◎令法久住 「法をして久しく住せしめん」と読む。法華経見宝塔品第十一の文。未来にわたって、妙法を伝え、弘めていくこと。
共戦 三十五
学会の各県区において、世代交代は、大きな一つのテーマになっていた。山本伸一は、その模範となる伝統を、この山口県につくってほしかったのである。
伸一は、さらに語った。
「草創期に頑張ってこられた皆さんは、先輩たちから、厳しく叱咤激励されてきた経験をおもちの方もいるでしょう。しかし、人材の育成、教育の在り方は、時代とともに異なってきています。自分が受けた訓練を、そのまま後輩に行うべきではありません。
これからは、賞讃、激励の時代です。努力を的確に評価し、褒め、讃えていく。それが、勇気となり、意欲を育んでいきます。
その場合も、一つ一つの事柄を、具体的に讃えていくことが大事です。また、賞讃のタイミングを外さないことです。
ともあれ、皆さんは、人材育成の達人になってください」
民衆詩人ホイットマンは、「自らが偉大な人を育てる。そして、偉大な人を育てられる人を育てていく……すべては、そこから始まる」(注=2面)と述べている。創価学会の未来永劫の流れも、そこから始まるのだ。
山口文化会館での懇談会を終えた山本伸一は、同行してきた妻の峯子や地元の幹部と、車で山口市内を視察した。
黄昏時の街路を行くと、県体育館や市民会館があり、長山城跡地であるという亀山公園に出た。同乗していた地元幹部が言った。
「この公園の、昔、城があった辺りに、サビエル記念聖堂が立っています。サビエルというのは、フランシスコ・ザビエルのことです」
「フランシスコ・ザビエルか。私は、彼の書簡集を、戸田先生が第二代会長に就任された直後に、一生懸命に読んだ思い出がある。
言葉も、文化、習慣も異なる日本で、彼が、どうやって布教していったのかに関心があったんだよ。やがて学会も、世界広布の時代の幕を開かねばならない。その時に、何が大切になるのかを考えておこう≠ニ思ったからなんだよ」
■引用文献
注 「偉大な人を育てる」(『ウォルト・ホイットマン著作集 ノートと散文草稿1』所収)ニューヨーク大学出版局(英語)
共戦 三十六
フランシスコ・ザビエルは、一五〇六年に現在のスペインに生まれ、パリ大学の聖バルバラ学院に学んだ。二十八歳の時、イグナティウス・デ・ロヨラらと、モンマルトルの聖堂で、神に生涯を捧げる誓願を立てる。
ザビエルは、このロヨラらと、修道会「イエズス会」の創立に加わる。正式に教皇の認可を得た「イエズス会」は、ポルトガル王の要請を受け、インドに、ザビエルらを派遣。海を越え、彼の宣教の旅が始まるのだ。
ザビエルは、マレー半島のマラッカで、後に日本人信徒となるアンジロウと知り合い、日本宣教の重要性を痛感する。そして、日本をめざし、一五四九年、薩摩半島に上陸。ここで、懸命に日本語を学んでいる。
ザビエルは薩摩で、仏僧の自堕落な生活に驚きを覚える。書簡には、「坊さんよりも、世間の人の方が、正しい生活をしている。それでいて、相変らず坊さんが尊敬されているのは、驚くべきことだ」(注=2面)とある。
彼は、仏僧の腐敗から、形骸化した仏教の欺瞞と没落を感じ取ったにちがいない。宗教は生き方の土台となる。ゆえに、人間の振る舞いのなかに、教えの真価が表れるのだ。
薩摩でザビエルは、守護大名の島津貴久に会い、宣教の許可を得る。しかし、仏僧の激しい反対に遭い、結局、宣教の道は閉ざされることになる。
彼は、平戸に赴き、ここで宣教の許可を得た。さらに、日本の国王である天皇に謁見し、宣教の許可を得ようと、京の都をめざした。そして、その途次、山口に滞在する。一五五〇年十一月のことである。
山口では、許可を得ぬままに、伝道を開始した。一日二回、街頭に立ち、教えを説いていった。熱心に話を聴き、信仰を志そうとする人もいた。だが、嘲笑され、罵詈されることも多かった。
ザビエルの噂は広がり、守護大名の大内義隆が彼らを引見した。ザビエルは、誇らかに神の教えを語るが、大内義隆の反応は、決して好ましいものとはいえなかった。
■引用文献
注 『聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄(下)』ペトロ・アルーペ、井上郁二訳、岩波書店=現代表記に改めた。
共戦 三十七
フランシスコ・ザビエルは、山口での滞在は一カ月余りで、京の都に出発する。
時は、まさに戦国の世である。彼らの旅は、盗賊の襲撃や、冬の寒苦に苛まれながらの、過酷な道のりであった。
しかも、たどり着いた京の町は、戦乱で激しく破壊されていた。彼らは、献上品を平戸に置いてきたこともあり、天皇との謁見はかなわず、早々に引き返さねばならなかった。
ザビエルは、山口で宣教していくことを考え、一度、平戸に戻る。日本では、地位の高い人と会って話し合いをするには、外見や威儀を整えることが重要であると痛感した彼は、衣服や献上品を取りに帰ったのである。
彼は、再び守護大名の大内義隆に会う。今度は、用意していた、インド総督とインドのゴアの司教から託された親書を携え、総督の使節として謁見した。時計や銃、メガネなどの献上品も用意していた。
大内義隆は、ことのほか感激し、返礼に、金や銀を与えようとする。しかし、ザビエルは、丁重に断り、宣教の許可のみを求めた。
快諾が得られた。また、彼らの活動の拠点となる寺も与えられた。
町のあちこちに、文書が貼り出された。そこには、神の教えを説くことを認め、信者になることも自由であると記されていた。
僧や武士をはじめ、多くの人びとがザビエルのいる寺を訪れ、説教を聴き、さらに、長時間に及ぶ討論が繰り返された。
言語も、考え方も、全く異なる日本での宣教に、ザビエルは苦慮し、奮闘した。日本人に神の教えをわかりやすく伝えるために、日本人信徒の協力を得て、自ら日本語の説明書も作った。
かつて彼は、インドネシアのテルナテ島での宣教で、ポルトガル語で書いた説明書を現地語に訳し、区切って歌えるようにしたこともあった。子どもも、大人も、これを口ずさみ、異教徒までもが歌うようになっていった。
わかりやすく教えを説き、深く民衆に根差すなかに、宗教の流布はある。
共戦 三十八
日本での布教でザビエルは、創造主という神の概念を、いかにして伝えるかに悩んだ。
日本人信徒が、キリスト教で説く神の「デウス」を、真言宗の「大日」(大日如来)と訳したことから、ザビエルも、そう語っていった。しかし、デウスと大日如来とでは、全く意味が異なることがわかり、「大日」と訳すことをやめている。試行錯誤の連続であったのであろう。
ザビエルは、単に教義だけでなく、地球が丸いことや、太陽の軌道、流星、稲妻などについても教えた。日本人は、その豊富な科学的知識に、強い関心を示していった。
ところで、彼の書簡には、「説教にも、討論にも、最も激しい反対者であった者が、一番先に信者になった」(注1=2面)とある。
激しく反対をする人は、それだけ強い信念と関心をもっているということである。したがって、心から納得すれば、決断も潔いのであろう。また、それは、ザビエルが、どんなに激しい反対に遭おうが、微動だにすることなく、愛と確信とをもって、理路整然と、粘り強く語り抜いたことを示している。
ザビエルは、他の宣教師たちに訴えている。
「あなたがたは全力を挙げてこの地の人びとから愛されるように努力しなさい」(注2=2面)
人間的な信頼を勝ち取ってこそ、布教も結実するのである。
ザビエルが山口に滞在して、二カ月が過ぎた時には、約五百人の人びとが洗礼を受けたという。これに、驚き慌てたのが、諸宗の僧たちであった。檀徒が改宗することで、自分たちの生活基盤が危うくなることを恐れたのである。ザビエルは、改宗した檀徒に、僧たちが悪口雑言を浴びせたと記している。
彼は、日本での布教のあと、日本文化に多大な影響を与えた中国での布教の必要性を痛感し、中国をめざした。しかし、中国は鎖国下にあり、広東の上川(シャンチョワン)島で本土上陸を待ちながら、一五五二年、病に倒れ、四十六歳の生涯を閉じたのである。
■引用文献
注1 『聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄(下)』ペトロ・アルーペ、井上郁二訳、岩波書店=現代表記に改めた。 注2 『聖フランシスコ・ザビエル全書簡2』河野純徳訳、平凡社
共戦 三十九
山本伸一は、フランシスコ・ザビエルの書簡集を読んで、世界広布の道が、いかに険路であるかを痛感した。
権勢を誇るローマ教皇庁とポルトガル国家の後ろ盾がある、宣教師のザビエルでも、海外布教の苦闘は、すさまじいものがある。
当時、創価学会は、会員も数千人の時代であり、なんの後ろ盾もない。しかも、布教の担い手は、無名の庶民である会員だ。
しかし、世界広宣流布は、日蓮大聖人の絶対の御確信であり、御遺命である。ゆえに、伸一は、人を育て、時をつくりながら、世界広布の幕開けを待ったのである。
彼は、戸田城聖のもとで共に戦い、日本国内にあって、幾千、幾万、幾十万の仏子の陣列を築き上げていくなかで、次第に、世界広布を現実のものとする、強い確信がもてるようになっていった。殉難を恐れずに弘教に生き抜く同志の、不撓不屈の実践と決意を目の当たりにしてきたからである。
折伏に励むと、殴られたり、鎌を持って追いかけられたり、村八分にされたりすることもあった。それでも同志は、忍耐強く対話を重ね、地域に信頼の根を張り、喜々として広宣流布を推進していったのだ。
その姿に伸一は、地涌の菩薩の出現を、深く、強く、実感してきた。そして、“世界広布の時代を開こう”との決意は、“絶対にできる”という大確信に変わっていった。
また、彼は、一九五四年(昭和二十九年)夏、戸田の故郷・厚田村で、戸田に、こう託された。
「世界は広い。そこには苦悩にあえぐ民衆がいる。いまだ戦火に怯える子どもたちもいる。東洋に、そして、世界に、妙法の灯をともしていくんだ。この私に代わって」
世界広布は、彼の生涯の使命となったのだ。
伸一が、“戸田大学”の卒業生として、ザビエル(スペイン語ではハビエル)の名前を冠した南米ボリビア最古の名門サン・フランシスコ・ハビエル・デ・チュキサカ大学から、名誉博士号を贈られたのは、この厚田の語らいから五十年後であった。
共戦 四十
山本伸一は、亀山公園で車を降りた。
彼は、園内を散策しながら、末法広宣流布のために、門下が死身弘法の信心を確立するよう念願された、日蓮大聖人の御胸中を思った。
法華経の目的は、一切衆生を仏にすることにある。大聖人は、末法において、それを果たすために、建長五年(一二五三年)四月二十八日、南無妙法蓮華経という題目の大師子吼を放ち、宇宙の根源の法を示されたのである。以来、大難と戦いながら、この妙法をもって、衆生を教化されてきた。
高僧や武士だけではなく、すべての民衆が、仏法の法理を確信し、死身弘法の信心に立たなければ、万人の成仏はない。
弘安二年(一二七九年)九月二十一日、迫害の嵐が吹き荒れていた駿河国(現在の静岡県中央部)熱原で、農民信徒二十人が、稲盗人という無実の罪を着せられ、捕らえられるという事件が起こる。熱原の法難である。
しかし、彼らは、微動だにせず、拷問にも屈することはなかった。強盛に信心の炎を燃え上がらせ、信徒の中心であった神四郎、弥五郎、弥六郎は、やがて、堂々たる殉教の生涯を閉じる。
皆、僧ではなく、農民である。しかも、日蓮門下となって一年ほどにすぎない。その彼らが、一生成仏へと至る不惜身命の信心を確立したのだ。大聖人が題目を唱え始めて二十七年、一切衆生の成仏という誓願成就の証が打ち立てられたのである。大聖人は、「一閻浮提に広宣流布せん事も疑うべからざるか」(御書二六五ページ)との御確信を、ますます強められたにちがいない。
「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」(同八五六ページ)である。
伸一は、世界広布の新時代を思い描きながら、死身弘法の信念に立つ真の信仰者を、さらに、育て上げなければならないと思った。
彼は、同行していた幹部に言った。
「さあ、山口文化会館に戻ろう。少しでも多く、学会の宝である青年と会って、全力で励ましたいんだ。創価の心を伝えたいんだ」
共戦 四十一
初日の出
己が心も
初日の出
一九五三年(昭和二十八年)の元朝、山本伸一が詠んだ句である。彼は、燃えていた。
“さあ、戦い抜くぞ! いよいよ広布後継の大闘争の時代を迎えた。戸田先生のお心を体して、慈折広宣流布大願成就への大きな流れを開き、先生にご安心していただくのだ”
翌一月二日、彼は、二十五歳の誕生日を迎える。そして、この日、男子部の第一部隊長の任命を受けたのである。さらに、四月には、文京支部長代理に就任している。
伸一は、前年、蒲田支部幹事として二月闘争の指揮を執り、学会創立以来、一支部としては未聞の弘教を成し遂げ、戸田が掲げた会員七十五万世帯達成の突破口を開いた。
その彼が、さらに重責を担い、広宣流布の最前線に躍り出たのが、この五三年であった。
伸一は今、山口文化会館に戻る車中にあって、二十四年前に詠んだ句を、頭のなかで反復しながら、思いをめぐらしていた。
“私は、日々、「初日の出」とともにあろうと、深く心に誓ってきた。
初日の出――それは、波浪猛る大海原に勇んで飛び出し、暗黒を一変させる、新しき挑戦の情熱である。勇気と歓喜の炎である。
その光が、自他共の苦悩の闇を破り、人生を黄金の希望に染めゆくのだ。青年とは、常に、心に太陽をいだいている人だ”
彼は、車に同乗していた山口県長の梅岡芳実に語った。
「『初日の出』を迎えた思いで、広宣流布の新しい歴史を創っていこう! みんなが、勇んで戦いを起こし、一日一日、誇らかな『自分物語』を、心に綴っていくんだ。
大ドラマには、苦闘と涙がある。でも、ヒーロー、ヒロインは負けない。悲しみや苦しみが深ければ深いほど、勝利の感動は大きい。一人ひとりが主人公であり、偉大な使命の勇者だ。みんなが綴る物語が楽しみだな」
共戦 四十二
山本伸一たちが、山口文化会館に戻ったのは、午後八時過ぎであった。
会館に入ると、中国各県の青年職員らが、荷物整理などの作業にあたっていた。伸一は、中国女子部長の本間三津代に尋ねた。
「山口県以外の人たちが大勢来ているが、どうしてなんだい」
「役員として応援に来てもらっています。女性が十二人、男性は二十五人です」
それを聞くと、伸一は、中国方面の責任者である副会長に言った。
「役員の人数が多すぎるね。ここは、いわば、山口創価学会の本陣だ。本陣というのは、ざわざわしていてはならない。少数精鋭で、てきぱきと仕事を片付けていくことが大事なんだよ。明日から役員は、今日の十分の一でいい。一人が十倍の力を出せばいいんだから。それが“人材革命”だよ。
みんな地元に帰って、同志の激励、指導に回るんだ。その方が価値的じゃないか。
私は、せっかく山口に来たんだから、山口の青年たちを、直接、訓練したいんだよ。
それなのに、ほかの地域から何十人もの人が来て、動き回っていたのでは、山口の人の顔が見えなくなってしまう。
数少ない山口の職員や青年が、一切の責任をもって運営にあたるのは大変にちがいない。緊張もするだろうし、失敗もあるかもしれない。でも、失敗してもいいんだ。それが学習になり、教育になる。何かあったら、私が守ります」
伸一は、一人ひとりの青年たちが、いとおしくて仕方なかった。共に行動し、語り合い、励まし、自分の知っていることは、すべて教えておきたかった。しかし、普段は、その機会はない。だからこそ、その地の青年たちとの出会いを、何よりも大切にしたかった。
彼は上着を脱ぎ、青年たちに呼びかけた。
「さあ、一緒に荷物の山を片付けよう。二十分で終わらせよう。私が陣頭指揮を執るよ。みんなには休んでもらい、青年が黙々と働くんだ。青年の時代だよ。戦闘開始だ!」
共戦 四十三
五月二十日午後、晴天のもと、山口文化会館では開館記念勤行会が行われた。
勤行会で山本伸一は、二十年前の山口開拓指導に触れながら、懇談的に話を進めた。
「山口開拓指導は、戸田先生から、直接、指示を受け、私が指揮を執った戦いでした。
当時、山口県の広宣流布は、他地域と比べて、著しく遅れていた。戸田先生は、昭和三十一年(一九五六年)の九月初め、私を呼ばれ、広宣流布の飛躍の転機をつくるために、『山口県で指導・折伏の旋風を起こしてみないか』と言われました。
私は、即座に、お答えしました。
『はい! やらせていただきます』
その師弟の呼吸から、あの大闘争は始まったんです」
伸一は、山口県に縁故者がいる全国の各支部員に、開拓指導への参加を呼びかけた。
当時の会員には、生活の苦しい人も少なくなかったが、陸続と、勇んで名乗りをあげてくれた。
派遣隊は、まさに、民衆によって組織された広布の奇兵隊≠ナあった。
「室長と一緒に戦いまっせ! どこへでも飛んで行きまっせ!」と、意気軒昂の関西の友もいた。
皆が、広宣流布に生きることを、最高の誉れとしていた。そこに、人生の至高の価値があることを、熟知していたのである。
戸田城聖と伸一の師弟の魂の結合、さらに、伸一を中心とした同志の結合――それが、あの山口開拓指導の大勝利を打ち立てたのだ。
伸一は、懐かしそうに、当時を回顧しながら、語っていった。
「山口は私にとって、大切な広布開拓の故郷です。二十年前、拠点となる会館は一つもなく、各地に点在する会員も、皆、貧しかった。しかし、今や、こうして、立派な文化会館も誕生し、山口創価学会は、盤石な布陣が整いました。二十年前に、皆さんと共に蒔いた種子は、山口の各地で花開き、そして今、見事に実を結んだんです」
共戦 四十四
山本伸一は、話を続けた。
「戸田先生は、よく『二十年間、その道一筋に歩んだ人は信用できるな』と言われた。
二十年といえば、誕生したばかりの子どもが成人になる歳月です。信仰も、二十年間の弛まざる精進があれば、想像もできないほどの境涯になります。
また、地域広布の様相も一変させることができる。しかし、それには、人を頼むのではなく、“自分が立つしかない”と心を決め、日々、真剣に努力し、挑戦し抜いていくということが条件です。
ともかく、『何があっても二十年』――これを一つの合言葉として、勇敢に前進していこうではありませんか!」
さらに彼は、「目ケン連尊者と申せし人は神通第一にてをはしき、四天下と申して日月のめぐり給うところをかみすぢ(髪筋)一すぢき(切)らざるにめぐり給いき、これは・いかなるゆへぞと・たづぬれば・せんじゃう(先生)に千里ありしところを・かよいて仏法を聴聞せしゆへなり……」(御書一二二三ページ)の御文を拝し、仏法で説く、生命の原因と結果の法則について語っていった。
「釈尊の十大弟子で神通第一といわれた目ケン連尊者は、瞬く間に全世界を巡られた。それは、過去世に千里もあるところに通って、仏法を聴聞してきたからである――と、その根本要因を明かされています。
また、大聖人は、『人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる』(同九六〇ページ)など、悪因をつくれば、悪の報いを受けることを説かれている。ましてや、正法誹謗という最大の悪因をつくれば、大苦の報いがある。
現在の自分の境遇は、決して、偶然ではない。経文に、『過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ』(同二三一ページ)とあるように、厳たる生命の因果律があります」
正法のために、尽くし抜いた報いは、必ず、限りない大功徳、大福運となる。この生命の因果を確信することから、仏法は始まる。
共戦 四十五
人間は、三世にわたる生命の因果の理法に立脚して生きるならば、心の内に、おのずからモラルが確立され、善の王道を歩むことができよう。当然、そこからは、人の不幸のうえに、自分の幸福を築こうという発想は出てこない。
今日、モラルの低下が指摘されて久しく、いじめや迷惑行為、不正行為も、後を絶たない。その防止のためには、法律などによる外からの規制の強化が必要な面もあろうが、より根本的な解決のためには、モラルの規範となる確たる法理を、人間の心に打ち立てることである。つまり、人の目は、ごまかすことができたとしても、生命の因果律からは、誰人も、決して逃れることはできないという思想の確立こそが不可欠であり、喫緊の課題といってよい。
人間は、この法理のもとに、よき人生を築こうと努力するなかで、人格も磨かれていくのである。ゆえに、仏法者とは、輝ける人格の人でなければならない。
文豪トルストイは、「真の、真面目な生活とは、ただ、自覚された最高の法によって進むものだけである」(注=2面)と記している。
山本伸一は、仏法の因果の理法を確認したあと、信仰の意味について言及した。
「人それぞれの宿命があり、人生には、事業の失敗や病気など、さまざまな試練があります。その烈風にさらされた時、ともすればもう駄目だ≠ニあきらめ、無気力になったり、自暴自棄になったりしてしまう。そこに不幸の習性≠つくりあげる罠がある。これが怖いんです。
信心というのは、その不幸の習性≠ニいう鎖を断ち切る、不屈の挑戦の力なんです。
試練に直面した時に、こんなことでは負けないぞ! 今こそ宿命を転換するんだ!≠ニ、敢然と挑み立つ勇気を湧かせていくための信仰であることを知ってください」
最後に伸一は、皆が、健康・長寿で、信仰の喜びを満喫した人生を送ってほしいと念願し、話を結んだのである。
共戦 四十六
山本伸一は、山口文化会館の開館記念勤行会のあと、山口大学の大学会メンバーとの懇談会に参加し、夕刻、車で外出した。
山口県の幹部から、地元の誇りでもある菜香亭を、一度、訪問してほしいと言われていたのである。
菜香亭は、明治の創業以来、百年以上の伝統をもつ料理屋である。名づけ親の井上馨をはじめ、木戸孝允や伊藤博文、山県有朋といった明治の元勲も足跡をとどめている。
そして、ここの調理師の一人が、学会員であるというのだ。伸一は、その調理師の壮年を励ましたかった。また、文化会館の管理者など、陰の力となって会館を支えてくれている人たちを慰労するため、菜香亭で一緒に食事をすることにしたのである。
菜香亭の建物は、明治初期の建築で、太い柱と高い天井が威風を放ち、磨き込まれた長い廊下が伝統の輝きを感じさせた。部屋には、元勲らの書を収めた扁額があった。
伸一は、庭の青葉を眺めながら、この五月が、木戸孝允の没後百年であることを思い起こした。木戸は、吉田松陰に師事し、師の志を継いで明治維新を成し遂げた一人である。
伸一の脳裏には、戸田城聖と、松陰について語り合ったことが、懐かしく蘇った。
戸田は、よく、「一人の松陰、死して、多くの松陰をつくったのだ」と語っていた。
松陰は、刑死の数日前、弟子たちへの手紙で、自分の死を悲しむなと訴え、「我れを知るは吾が志を張りて之れを大にするに如かざるなり」(注)と記している。
私の心を知るということは、私と同じ志を掲げて、さらに、それを大きく実現していくことであると述べているのだ。彼の弟子たちは、この師の期待を、裏切らなかった。
学会も、伸一をはじめとする弟子たちが、広宣流布という戸田城聖の志を受け継ぎ、実現してきたからこそ、大いなる発展があった。
伸一は今、自分の志を受け継ぐ真の弟子たちが、この山口の天地から陸続と育ってほしいと、心の底から思い、願うのであった。
■引用文献
注 「諸友に語(つ)ぐる書」(『吉田松陰全集第九巻』所収)山口県教育会編、岩波書店
共戦 四十七
五月二十一日、山本伸一は、朝から、揮毫の筆を執り続けていた。あの人も、この人も励ましておきたいと思うと、作業は、際限なく続いた。妻の峯子は、伸一が揮毫した書籍や色紙を受け取っては、手際よく並べて、墨を乾かしていった。
この日の午後、彼は、四月に落成した徳山文化会館を訪問し、山口広布開拓二十周年を祝う記念勤行会に出席する予定であった。
作業が一段落し、急いで昼食を取り始めた時、地元の幹部が告げた。
「山口開拓指導の折、先生の話を聞いて入会した桃田ミツさんと、ご主人の吉太郎さんという高齢のご夫妻が、訪ねて来ております」
「お会いします。よく存じ上げています」
彼は箸を置くと、夫妻と会い、肩を抱きかかえるようにして会館の庭を歩いた。
「生命を結び合った共戦の同志を、私は、生涯、忘れません。私たちは、広宣流布の三世の旅路を、こうして、いつまでも一緒に歩いていくんです」
創価の師弟、創価の同志とは、広宣流布の久遠の契りに結ばれた仏子の結合である。ゆえに、その絆は、何よりも固く、強い。
伸一は、夫妻と記念のカメラにも納まり、固い握手を交わして見送った。彼らの目には、三世の広布旅を誓う、涙が光っていた。
「さあ、時間だね。出発しよう!」
夫妻を激励した伸一は、そのまま車で小郡駅に行き、新幹線で徳山駅に向かった。二十年ぶりの徳山訪問である。
午後一時半前、徳山文化会館に到着すると、十人ほどのメンバーが出迎えてくれた。皆、見覚えのある人たちであった。
「しばらくぶりだね!」
伸一が言うと、同行していた中国方面の責任者である副会長が、一人の壮年を紹介した。
「こちらが、大山寿郎さんです。山口開拓指導で、先生が徳山で泊まられ、拠点になった『ちとせ旅館』の息子さんです。その時に、お母さんと一緒に入会しております」
「よく覚えています。学生さんだったね」
共戦 四十八
山本伸一が、山口開拓指導で徳山入りし、「ちとせ旅館」を訪れたのは、一九五六年(昭和三十一年)十一月のことであった。
その夜、この旅館で座談会が行われることになっていた。
夕刻、女将の大山ツネが厨房にいると、背広姿の、きちんとした身なりの青年があいさつに来た。伸一である。
「このたびは、大勢で押しかけ、大変にお世話になります。ご迷惑にならぬよう、細心の注意を払ってまいりますが、何かございましたら、遠慮なく、おっしゃってください。よろしくお願いいたします」
実は、女将は、最初、たくさんの客が入ったことを喜んでいたが、出入りが激しいことから、いささか閉口していたのだ。しかし、伸一の礼儀正しさに驚き、”この人たちなら、何も問題はないだろう”と、安堵に胸を撫で下ろしたのである。
誠実さは、礼儀正しい振る舞いとなり、そこから信頼が生まれるのである。
この夜の座談会には、女将も派遣メンバーに誘われて、参加する約束をしていた。といっても、冷やかし半分で、女性の従業員と一緒にのぞいてみることにしたのだ。
夜、仕事が一段落すると、彼女は、座談会に顔を出した。
なんと、中心で話をしているのは、あいさつに来た、あの青年であった。
実に堂々としており、その声には、強い確信があふれていた。
伸一は、宿命転換の直道は、真実の仏法にあることを訴えたあと、女将に声をかけた。
「女将さんも、何か、悩みがおありなのではありませんか」
「息子が、来春、大学を卒業するんですが、まだ、就職が決まっていないんです。今は、それが最大の悩みです」
もともと勝ち気な性格であり、悩みなど、人に語ったことはなかったが、つい相談したくなって、口に出してしまったのである。言ったあとで、”しまった!”と思った。
共戦 四十九
山本伸一は、女将の大山ツネに尋ねた。
「子どもさんは、お一人ですか」
「はい。一人息子です。夫がおりませんもので、私が一人で育ててきました」
「ご苦労されたんですね。そのご苦労が報われ、努力した人が、必ず、幸せになれる道を教えているのが仏法なんです。
仏法は、幸福への航路を示す人生の羅針盤といえます。運命に翻弄されて、道に迷っていては損です。女将さんも、一緒に信心に励んで、幸せになりましょうよ」
女将は、「はい!」と言って頷いた。女性従業員も一緒に信心することになった。
大山ツネは、かつて、満州(現在の中国東北部)で、建築技師の夫と、幸せな家庭生活を送っていた。一九三四年(昭和九年)には息子の寿郎も生まれ、未来は希望にあふれていた。
しかし、その翌年、突然、夫が「馬賊」と呼ばれていた略奪を繰り返す集団に拉致され、戻って来ることはなかった。
やむなく、三六年(同十一年)に息子と二人で彼女の故郷の山口県に引き揚げ、母子で暮らした。身を粉にして働きに働いて、小料理屋を開き、苦労してためた金で旅館を買い取った。その喜びも束の間、旅館は、空襲で灰燼に帰してしまった。
戦後、苦闘の末に、旅館を再興し、女手一つで子どもを育てた。大学にも進ませ、いよいよ卒業という時になって、その息子の就職が決まらないのである。
彼女は、息子の就職もさることながら、苦労を重ねて、幸福をつかみかけると、決まって、砂が崩れるように消えてしまう、自身の運命に強い不安を感じていた。人には、動じぬ素振りを見せてきたが、内心は、人生の変転に怯えていたのだ。それだけに、「幸せになりましょうよ」という伸一の言葉が、心に突き刺さったのである。
人は皆、幸せになる権利をもっている。幸せになるために生まれてきたのだ。そして、それを実現するための信心なのだ。
共戦 五十
入会を決意した大山ツネは、息子の寿郎にも入会を勧め、母子で共に信心を始めた。
寿郎は、それから一週間ほどして、鉄鋼会社に、就職が内定した。これが、大山親子にとって、初信の功徳となったのである。
山本伸一が二度目に「ちとせ旅館」を訪れた時、寿郎は、母親と一緒に伸一の部屋にあいさつに行った。
その時、伸一は、「常に、しっかり勉強していくんだよ」と語り、社会で勝利していくことの大切さを訴えた。
大山ツネは、一九七二年(昭和四十七年)に他界するまで、地域に深く根を張り、徳山広布の推進力となってきた。
伸一と初めて会って以来二十年、息子の寿郎は、既に結婚し、職場の第一人者となっていた。彼は、東京本社に勤務していたが、会長の伸一が故郷の徳山を訪問すると聞いて、感謝の思いから、伸一を迎えようと、妻子と共に駆けつけてきたのである。
伸一は、徳山文化会館で出迎えてくれた人たちに言った。
「山口開拓指導で信心した人たちが、頑張っているのが嬉しいね。これからも、地域広布の先駆けになってください。広宣流布の道は、身近なところから開いていくんです。
地域広布は、いつか誰かが、してくれるものではない。自分が立つ以外にありません。
私は、アパートに住んでいた時には、隣の方から仏法対話をしたし、山口開拓指導の時も、知り合った身近な人たちに、どんどん仏法を語っていきました。常に、一人でも多くの人に仏縁を結ばせたいとの思いで、粘り強く、妙法を語り抜いてきました」
側にいた、県長の梅岡芳実が言った。
「先生の出られた座談会では、参加していた何人もの友人が、一同に入会を希望したとの話を、よく伺います」
「そういうこともあったが、折伏は、そんなに簡単なものじゃないよ。反発して怒鳴りだしたりする人もいた。でも、誠実を尽くして語れば、その言葉は心に残ります」
共戦 五十一
山本伸一が記念勤行会の会場に入ると、皆が大きな拍手で彼を迎えた。
最前列に、メガネの奥の目を潤ませ、盛んに拍手を送る、着物姿の年配の婦人がいた。山口開拓指導で山本伸一から仏法の話を聞き、ほどなくして入会し、草創期の徳山で支部婦人部長として活躍してきた、山村年子であった。
――一九五六年(昭和三十一年)十一月、彼女は、伸一が出席して行われた徳山の座談会に参加した。もともと病弱で、長年、喘息にも苦しみ、さまざまな薬の副作用からか、顔のむくみが引かなかった。こんにゃくの製造・販売業を営む夫の事業も不振で、彼女も金策に駆けずり回る毎日であった。
座談会で伸一は、山村に声をかけた。
「どうぞ、前にいらしてください」
山村は、宗教自体、信じる気にはなれなかった。どうせ、うさんくさい話をするんだろう。徹底して反論してやろう≠ニ思いながら、前に進み出ていった。
「奥さん、何か、悩みをかかえていらっしゃるんじゃありませんか」
日々、悩みだらけである。それを見透かされたような気がして、しゃくに障った。
「べつに、悩みなんかありませんよ!」
伸一は、笑顔を向けると、「なぜ、正しい信仰が必要か」「仏法とは何か」などを、諄々と語っていった。
山村は、内心、その話に納得した。しかし、同時に、負けてなるものか!≠ニいう気持ちが、むくむくと頭をもたげてきた。
理性ではよいとわかっていても、感情的な反発が生じ、行動に移せないことがある。しかし、その感情をコントロールし、勇気をもって、進歩、向上のための第一歩を踏みだすことから、幸福への歩みが始まるのだ。
伸一は、話し終えると、山村に言った。
「ご病気ではありませんか? 病を乗り越えていくには、御本尊に題目を唱え、生命力をつけていくことが最も大事です。信心をなさってみてはいかがですか!」
共戦 五十二
山村年子は、山本伸一を一瞥し、鼻先で笑うようにして尋ねた。
「では、お聞きしますけど、御本尊というのは紙ですよね。紙に字が書いてあるだけのものに、なぜ、そんなに力があるんですか」
伸一は、真心を込めて語っていった。
「紙でも、大きな力をもっているではありませんか。五万円、十万円の小切手を、『これは紙だ』と言って、捨てますか。届いた電報に『ハハキトク』とあったら、紙の文字でも、平気ではいられなくなるでしょう。
地図も紙です。正しい地図を信じて歩みを運べば、目的地に行けるではありませんか。幸福を確立する生命の力を開くための、信仰の根本となる対象が御本尊なんです」
彼は、多くの例を挙げて訴えていった。
「山本室長。時間です。これ以上、遅れると、次の座談会に間に合わなくなります」
同行している幹部に促され、伸一は、やむなく腰をあげた。部屋を出る時にも、もう一度、山村に呼びかけた。
「信心して、幸せになってください」
彼女は、返事をしなかった。心のなかでは、伸一に、なんとも言えぬ温かさを感じ、信心しようという思いは、ほぼ固まっていた。でも、信心すると言えば、負け≠認めるような気がしたのだ。
しばらくして彼女は入会した。伸一をはじめ、学会員の鼻を明かしてやりたいと思い、御本尊の力を試してみることにしたのだ。
一週間は、真剣に唱題し、次の一週間は、やめてみた。結果は、あまりにも明白であった。題目を唱え始めた日から、喘息の発作はピタリと治まった。唱題をやめると、死ぬのではないかと思うほど激しい発作が起こり、顔が別人のようにむくんでしまった。
御本尊様の力は、よくわかりました! 信じますから、病気を治してください
山村は御本尊に、ひたすら詫びた。
御書に「道理証文よりも現証にはすぎず」(一四六八n)と仰せのように、厳たる現証に、山村は、信心に目覚めたのである。
共戦 五十三
信心の現証を痛感した山村年子は、一途に学会活動に励むようになった。ある時、大阪に住む学会員の知人から、山本伸一が関西を訪問することを聞いた。
山村は、ぜひ、室長にお会いして、徳山の座談会での失礼をお詫びしたい。また、入会後、病も乗り越えたことを報告したい≠ニ思い、関西本部に伸一を訪ねた。
「山村さんでしたね。あなたのことは、よく覚えていますよ。信心し、健康になられて本当によかった。立派になりましたね」
彼女は、自分のことを覚えていてくれたことが嬉しかった。
「あの時の座談会では、反発ばかりして、申し訳ございません。もともと、人に負けたくないという心が強い性格なんです」
伸一は、笑いながら語った。
「それを仏法では、修羅の生命と説いているんです。外見は立派そうでも、内心では、常に人よりも勝っていたい≠ニ思い、他人を自分より下に見て軽んずる。その『勝他の念』が修羅の本質です。
そして、虚勢を張ったり、地位や権力を誇示して、自分を偉く見せようとする。また、自分より優れ、名声や尊敬を集めている人がいると、憎み、嫉妬する。
日蓮大聖人は、『諂曲なるは修羅』(御書二四一n)と言われている。『諂曲』というのは、自分の心を曲げて、人に媚びへつらうことです。修羅は、驕り高ぶってはいても、本当の力も、自信もないから、強大な力の前では、不本意でも、ひれ伏し、媚びへつらう。本質は臆病なんです。ずるいんです。
実は、そこに、自分を不幸にしていく要因がある。その生命と戦っていく力が、仏法なんです。
広宣流布の大願に生きるならば、自分に打ち勝つ力が湧きます。その時、修羅の生命は、仏界所具の修羅界、菩薩界所具の修羅界となって、悪を打ち破る大力となり、常勝への執念となります。
ともかく、信心は素直に頑張るんですよ」
共戦 五十四
山村年子は、“信心は素直に”との山本伸一の指導を深く胸に刻み、自分を見つめ、懸命に学会活動に取り組んだ。
そして、一九六四年(昭和三十九年)八月、東徳山支部が結成されると、彼女は支部の婦人部長になった。
“素直な信心”によって、山村の負けん気の強さは見事に生かされ、勝利への執念となって、徳山の広宣流布は、大きく伸展していったのである。
伸一は、徳山文化会館で、山村に微笑を向け、席に着いた。開会を告げる司会者の声が響き、山口広布二十周年を祝う記念勤行会が晴れやかに始まった。
伸一は、勤行、幹部あいさつのあと、マイクに向かい、懇談的に語り始めた。
「二十年前の山口開拓指導の折、この徳山で、なかなか弘教が実らずに苦労したことが、今でも鮮明に思い出されてなりません。
『徳山』の名前には、功徳が山のように積まれる地という意味があると、私は思っております。その徳山に、これまで会館が一つもなく、ご不便をおかけしました。
しかし、開拓指導から二十年たった今日、皆さんの力で、見事な徳山文化会館が完成いたしました。皆さんの法城です。まさしく徳山の名のごとく、偉大なる功徳が積まれた証明といえましょう。このように立派な広宣流布の牙城が完成したということは、それに尽力された皆さん方のご家庭にも、福運がつかないわけがありません。
皆さんのなかには、本家の方も、分家の方もいらっしゃるでしょう。しかし、信心の面から見れば、御本尊を最初に受持した人は、創価学会の“本家”であり、子孫末代までの繁栄の根っこになる方です。
根は目に見えない存在であっても、根が深ければ深いほど、樹木は繁茂する。同様に、皆さんも、一家一族の、五十年、百年、万年先までの繁栄のために、深く、強く、広宣流布の大地に、信心の根っこを張り巡らしていただきたいのであります」
共戦 五十五
山本伸一の指導は、信心の基本姿勢に及んでいった。
「日蓮大聖人は、人間の不幸の最大の原因は、煎じ詰めるならば、正法誹謗、すなわち宇宙の根本法である南無妙法蓮華経への誹謗であると、明快に結論されている。同時に、幸福への直道は、南無妙法蓮華経への信仰にあることを明らかにされています。
そして、過去の罪障を消滅し、絶対的幸福境涯を確立していくための、究極の当体として、御本尊を顕されました。その御本尊に直結し、広宣流布に生き抜いていくならば、一生成仏は間違いない。その道を教え、正しく実践しているのは、世界中で創価学会しかないことを、私は断言しておきます。
しかし、御本尊がいかに偉大であっても、持つ人の信心が弱ければ、功徳は出ません」
ここで、伸一は、「『必ず心の固きに仮って神の守り則ち強し』云云、神の護ると申すも人の心つよきによるとみえて候、法華経はよきつるぎ(剣)なれども・つかう人によりて物をきり候か」(御書一一八六n)との御文を拝した。
「妙楽大師は『必ず心が堅固であってこそ神の守護も厚い』と述べている。これは、諸天善神の守護といっても、人の心の強さによるということである。法華経は、よい剣であるが、その切れ味は、使う人によるのである――との意味であります。
この御文は、自身の信心の強さが、守護する諸天善神の働きを引き出すことを説かれた重要な御指導です。いくら御本尊を受持していても、何かあったら、すぐに揺らぐような信心では、諸天の加護はありません。
たとえば、病気になったりすると、信心しているのになぜ?≠ニ、現象に惑わされ、御本尊を疑う人がいます。しかし、生身の人間である限り、病気にもなります。
もし病気になったとしても、不退の信心を貫き、強靱な生命力を涌現し、自らを蘇生させていくための信心なんです。目的は、何があっても負けない自分をつくることにある」
共戦 五十六
山本伸一が、心の強さを強調したのは、日蓮仏法は、いわゆる“おすがり信仰”ではなく、“人間革命の宗教”であることを、訴えておきたかったからである。
最後に、彼は、「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」(御書一三三八ページ)との御文を拝した。そして、日蓮大聖人の仰せのままに、広宣流布に邁進する創価学会にこそ、信心の血脈があることを力説し、結びとしたのである。
勤行会終了後、伸一は、中国方面の青年部の代表と、徳山駅前のレストランで食事をしながら懇談した。
彼は、二日前に、広島などから山口文化会館に応援に来ていた青年部の職員を、地元に帰すように指示した。他県のメンバーを交えずに、山口県の職員や青年たちを、直接、訓練したかったからである。
しかし、帰って行った青年たちが、どんなに寂しい思いをしていたか、彼は痛いほどわかっていた。だから、そのメンバーも、徳山での懇談会に招いていたのである。
伸一は、食事のマナーなどを、青年たちに教えながら、共に食卓を囲んだ。
食事のあとも、レストランの和室で、さらに、青年部の代表と語り合った。
彼は、女子部の幹部に言った。
「みんなも、やがて結婚し、婦人部に行くでしょう。子育てに追われ、生活に疲れ果てることもあるでしょう。また、第一線の組織活動で、苦労することもあるでしょう。しかし、自分は、女子部員のリーダーであったという、誇りと気概を忘れないことです。
“私は、大事な学会の組織を託された!”“自分を慕ってくれた人たちがいる!”ということを忘れず、自身の原点として、頑張り抜いていくんです。女子部時代に、中核として信心に励んだ功徳、福運は大きい。だから、途中、いかに辛いこと、大変なことがあっても、信心を貫いていけば、必ず幸せになれます。人生の大勝利者になれます」
魂を注ぐ思いで、伸一は訴えていった。
共戦 五十七
山本伸一は、中国方面の男子部幹部には、こう語った。
「どこまでも師匠に、また、学会本部に呼吸を合わせ、その指導通りに進んでいくことが大事です。学会の正道を歩み、自分を鍛え抜いて、大きく成長していくんです。
それを、自分勝手に、やりやすいように、組織を動かしていこうとすれば、自分も組織も、広宣流布の軌道から離れ、必ず空転してしまうことになる。
我見で組織を動かそうとすると、まず、人事が公正さを欠くようになる。そして、なにかと自分に便宜を図ってくれるような人ばかり取り立てて、周りに集める。
その結果、信心で結ばれているはずの学会の組織が、親分・子分≠フような、歪んだ関係になっていく。それは、組織利用です。仏意仏勅の団体である創価学会を内側から蝕む、師子身中の虫に等しい行為です。学会の世界には、世間の派閥のようなものがあっては、絶対になりません。
ところが、伸び悩んでいる組織や、信心がすっきりしていない感じの組織というのは、つぶさに見ていくと、そういう問題をかかえていることが多いんです。
したがって、人事を検討する人たちは、皆が強い責任感をもって、徹して厳正に行うことです。人事がいい加減であったり、失敗すれば、学会の破壊につながっていくことを忘れないでください」
伸一は、未来のために、力の限り語り続けた。青年の一言の発言、一つの振る舞いを契機に、激励、指導が、堰を切ったように、彼の口からあふれた。
「青年は、苦労して、力をつけていくんだよ。青年の最大の敵は、学歴がない≠ニか、貧しいから≠ニか言って、自己を卑下する心をもつことだ。広宣流布という最高最大の大志に生きる創価の青年は、常に前向きに、無限の挑戦を続けていくんだ!」
激励に次ぐ激励を重ね、伸一が車で徳山を出発したのは、午後八時過ぎであった。
共戦 五十八
山本伸一の乗った車は、徳山から山口文化会館へ向かった。三、四十分したころ、同乗していた妻の峯子が言った。
「防府の人たちが、会館に集まっていらっしゃるそうですよ」
峯子は、中国婦人部長の柴野満枝から、そう聞いていたのである。
車を運転してくれている人の話では、防府会館は、ここから数分であるという。
「行こう! 短時間でも、全力で励まそう。みんな待ってくれているんだもの……」
防府会館にいた人たちは、山本先生に、防府にも来ていただきたい≠ニの思いで、集って来た人たちであった。しかし、午後八時半を回ったことから、帰途に就こうとしていたのである。その時、乗用車が止まった。
「こんばんは!」
玄関に、伸一の笑顔があった。その後ろには、峯子の姿もある。歓声があがった。
小さな木造の会館である。会館に入ると、伸一は尋ねた。
「勤行しても、周囲に声は漏れませんか」
「雨戸を閉めれば大丈夫です」
「雨戸を閉めて、短時間、小声でいいから、勤行をしましょう。皆さんのご健康とご長寿、ご一家の繁栄を祈念したいんです」
勤行を終えると、伸一は、部屋に置かれていた電子オルガンに向かった。
彼は、「私の、せめてもの皆さんへのプレゼントです」と言うと、音量を絞って、「厚田村」や「熱原の三烈士」など、次々と演奏していった。
「皆さんは、ずっと待っていてくださったんでしょ。その真心≠ノ応えたいんです。世間は打算≠ナすが、信心の世界、学会の世界は真心≠ネんです。
広宣流布をめざして、師匠と弟子の、同志と同志の、心と心がつながってできているのが、創価学会です。だから、学会は、組織主義ではなく、人間主義の団体なんです。そこに学会の強さがある。その清らかな精神の世界を守るために、私は戦っているんです」
共戦 五十九
山本伸一は、集った人たちに、視線を巡らしながら語った。
「このたび、山口市と徳山市に文化会館ができましたが、防府は、あくまでも山口創価学会の原点の地です。山口広布の原動力となる地であります」
伸一が第三代会長に就任した一九六〇年(昭和三十五年)五月三日、山口支部が結成され、その支部事務所が置かれたのは防府であった。さらに、六五年(同四十年)、防府会館が誕生すると、同会館は、県の事務機能の中心となってきたのである。
また、歴史的にも防府は、山口県南部、東部を占める周防国の国府として栄えてきた。
伸一は、言葉をついだ。
「どうか防府の皆さんは、“自分たちこそ、山口創価学会の中心である”“ここは山口の人びとを幸福にしていく原点の場所である”との誇りをもって進んでください」
アルメニアの詩人イサアキャンは、「何があろうとも、人間よ、誇り高くあれ」(注)と詠っている。
誇りは、人間の魂を貫く背骨である。誇りある人は強い。誇りある限り、いかなる困難にも、挫けることはない。
伸一は、ひときわ、力強い声で言った。
「本日は、万感の思いを込めて、防府の皆さんに、句をお贈りしたいと思います。
広宣の
原点ここなり
防府城
皆さんは、その意義深き防府に出現した、如来の使いです。地涌の菩薩です。そして、信頼する不二の師弟です。その誇りを胸に、勇んで広布の道を走り抜いてください。
では、また、お会いしましょう!」
短時間であったが、防府の友にとっては、忘れ得ぬ、ひと時となった。
伸一が山口文化会館に着いたのは、午後十時近かった。
■引用文献
注 イサアキャン著『短編・長編詩』ソヴェツキー・ピサーチェリ出版社(ロシア語)
共戦 六十
五月二十二日――山本伸一の山口訪問の最終日である。彼は、この日の午後四時に、北九州へ向かうことになっていた。
この日の午後、山口文化会館で、「山口広布功労者追善法要」が行われた。
伸一は、導師を務め、広宣流布の開拓者の方々に、懇ろに追善回向の題目を送った。
席上、故人の代表に「名誉副理事長」などの名誉称号が贈られ、伸一のあいさつとなった。
「本日、追善申し上げた功労者の方々は、日蓮大聖人の仰せ通りに、仏法にすべてを捧げ、広宣流布の礎となられた、立派な地涌の菩薩であり、まことに尊い仏であります。
ご遺族の方々は、この名誉ある道を歩んだ先覚者の遺志を、必ず継承していってください。その意味から、ご自分を、単なる『遺族』と考えるのではなく、南無妙法蓮華経という宇宙根源の法を持った、広宣流布の『後継者』であると、強く自覚していっていただきたいのであります。
また、ただ今、故人に対して名誉称号を贈らせていただきましたが、これは、世間によく見られるような権威の象徴ではありません。御本仏・日蓮大聖人の御聖訓のままに信・行・学を貫いた、仏法上の厳然たる証拠としての称号であります。
したがって、これを軽視することは、妙法広布に生きた、故人の尊い足跡をないがしろにすることに通じます。ご遺族は、この称号を、最高の誉れとし、後継者として信仰の大道を歩み、故人の遺徳を証明していってください。それがまた、一家、一族に大きな功徳の花を咲かせることは間違いありません」
ここで伸一は、「広宣流布に戦い、殉じた人は、いったい、どうなっていくか。それを大聖人は端的に記されています」と言って、「千日尼御返事」の一節を拝した。
「されば故阿仏房の聖霊は今いづくにか・をはすらんと人は疑うとも法華経の明鏡をもって其の影をう(浮)かべて候へば霊鷲山の山の中に多宝仏の宝塔の内に東む(向)きにをはすと日蓮は見まいらせて候」(御書一三一九ページ)
共戦 六十一
千日尼は、日蓮大聖人が佐渡流罪中に、夫の阿仏房と共に帰依したとされている。
その千日尼に対して、大聖人は、「亡くなった阿仏房の聖霊は、法華経の明鏡に照らして見るならば、霊鷲山にある多宝仏の宝塔の中で、東向きに座っておられると、日蓮は見ている」と述べられている。
山本伸一は、この御文を通して、確信をもって訴えていった。
「霊鷲山とは、インドにある山の名前で、釈尊が法華経を説いた場所です。その霊鷲山の多宝仏の宝塔とは、生命論のうえから結論して言うならば、御本尊のことであります。
妙法広布に活躍するわれら地涌の勇者は、死後は御本尊にいだかれ、未来世は、ずっと、東天に朝日が昇るように、生き生きと生命力豊かに、御本尊と共に生まれてくるのであります。
つまり、広宣流布という未曾有の聖業に、尊い生涯を捧げた人の生命は、この地球上に、または、この地球と同じような国土に生まれ、大歓喜のなか、広宣流布のために活躍していけることは間違いありません。
また、戸田先生は、『亡くなった人には、題目を唱えて祈念する以外に何も通じないのだ』と、よく言われていた。妙法とは、この大宇宙において生命と生命をつなげていく、いわば電波のような働きといえます。
この意味からも、力強い題目を唱えることが肝要です。生命力を満々とたたえた皆さんの題目によって、諸精霊が威光勢力を増し、それによって、追善した自身の威光勢力も、増していくのであります。この生命の交流を先祖無数の方々につなげていくのが、われわれの追善法要の意味といえます。
本日の厳粛な儀式を、先覚の同志も、心から喜んでいるものと確信いたします。
私どもは、単に哀悼の感情にひたり、故人を回向するのではなく、強盛なる信心で、妙法の不可思議なる生命の力を確信し、故人と共に、三世にわたって、勇んで広宣流布の道を歩んでまいろうではありませんか」
共戦 六十二
追善法要に続いて、山本伸一は、「山口未来会」の三十人ほどのメンバーと懇談会をもった。三年前に結成され、年長の人は、既に大学生になっていた。
伸一は、最初に皆と記念撮影したあと、一人ひとりに言葉をかけながら、信心は、持続が大切であることを訴えた。
「高校生ぐらいまで純粋に信心に励んでいても、大学生になって、さまざまな誘惑に負け、自分を磨くことをやめて、遊びほうけてしまう人もいる。
また、大学時代まで一生懸命に頑張って、一流企業に就職する。すると、自分が偉くなったような気になって、貧しいなかで懸命に学会活動に励む同志の偉大さがわからなくなってしまう。そして、庶民を蔑むようになり、学会から離れていった人もいます。
君たちには、そんな生き方をしてほしくないんです。諸君が守るべきは、民衆です。最も苦労し抜いてきた学会員です。その使命を果たすための未来会です。
どうか、年々歳々、広宣流布への情熱を燃え上がらせていってください」
メンバーの瞳が、凛々しく輝いていた。
山口文化会館の庭には、北九州へ出発する伸一を見送ろうと、多くの同志が詰めかけていた。それを聞くと、伸一は、皆を大広間に案内するように指示した。時刻は午後三時半を回っている。四時には、出発しなければならない。しかし、彼は大広間に向かった。
「これから一緒に題目を唱えましょう。特別唱題会です。皆さんの願いが、すべて叶うように、私も、しっかりとご祈念します」
法のため、同志のために、自身の生命を削らずしては、広宣流布の開拓はできない。わが身を燃やして、皆の魂に不退の火をともしていくのだ。伸一は自らの行動を通して、それを伝えたかったのである。また、そこに、「第二の山口開拓指導」の眼目があった。
唱題が終わると、彼は言った。
「さあ、今度はピアノを弾きます!」
(この章終わり)