前進 一

 創価学会は、まぎれもなく宗教界の王者となった。天にそびえ立つ、堂々たる民衆城となった。
 建物が壮大であればあるほど、一本一本の柱の役割が重要であり、堅牢であらねばならない。
 山本伸一は、学会を永遠ならしめるために、各方面、また、各県、各区を、何があっても微動だにせぬ黄金柱にしなければならないと、深く心に決めていた。
 それゆえに彼は、あの地、この地と、間断なく各地を回り続けた。
 一九七三年(昭和四十八年)十一月十日には、関西から、空路、松山に向かい、四国を訪問したのである。
 四国では、十一日の愛媛県幹部総会、十三日の徳島県幹部総会などへの出席が予定されていた。
 伸一の愛媛訪問は七年七カ月ぶりであり、徳島は一年五カ月ぶりの訪問であった。
 松山空港には、四国青年部長の久米川誠太郎らが迎えに来ていた。
 「とうとう来たよ。さあ、四国の新しい出発だ。全力で大発展のための道を開くからね」
 こう伸一が語りかけると、長身の久米川が体を縮めるようにして、深々と頭を下げた。
 「ありがとうございます。みんな、先生のおいでを、待ちに待っておりました」
 「わかっているよ。四国は頑張っているね。全部、聞いています」
 彼のもとには地元の学会員から、数多くの手紙が寄せられていたのだ。なかでも伸一が心を動かされたのは、愛媛県で聖教新聞の配達員のメンバーが中心となって、地域への新聞購読の推進に全力を注いできたという報告であった。
 
 ――五月初め、山本会長が十一月に愛媛を訪問するという話を聞いた配達員の婦人は、配達員会で販売店主に提案した。
 「今日は、私の率直な思いを話させていただきます。
 私は、山本先生が来てくださるから嬉しいと言って喜んでいるだけでは、師匠を迎える弟子の姿ではないと思います。
 『私たちは、こう戦いました』と言える、勝利の結果を出して、先生をお迎えすべきです。
 そこで、学会理解の輪を地域に広げるために、聖教新聞の購読推進を徹底して行ってはどうでしょうか」


前進 二

 別の配達員の婦人も、勢い込んで語った。
 「私も購読推進を目標として掲げ、山本先生をお迎えすべきだと思いますよ。
 聖教を読めば、仏法のことも、学会の正しさもわかる。これは、折伏につながる活動です。
 広宣流布は言論戦であるということは、聖教新聞が勝負ということになります。私たちは、自分で原稿を書くことはできなくても、友人に新聞を購読してもらうことならできます」
 愛媛県では、この年、聖教新聞社の業務担当者や販売店主の間で話し合い、地域広布を進めるために、聖教新聞の外部購読者の拡大を図ることになっていた。
 そこに、配達員のメンバーから、外部購読を大々的に推進しようとの提案があったのだ。しかも、多くの配達員が同じ思いであり、決意が一致していたのである。
 こうした尊き意見をもとに、業務担当者や販売店主で、さらに話し合いを重ね、外部購読の推進を徹底して行うことが決議されたのである。
 それが、配達員のメンバーに伝えられると、喜びが爆発した。自ら戦いを起こすことほど、楽しく、闘志を燃え上がらせるものはない。
 「地域中の家を回ってみよう!」
 「愛媛を聖教新聞購読日本一にしよう!」
 これまで、聖教新聞は機関紙なのだから、学会員が購読していれば、それでよいとする風潮があった。
 しかし、愛媛の配達員は、聖教新聞を幅広く購読してもらってこそ、本当の学会理解の輪が広がると確信し、新しき挑戦を開始したのだ。
 ドストエフスキーは、小説の登場人物に、鋭く語らせている。
 「よき時代は天から降ってくるものではなくて、わたしたちが自分でつくり出すものです」(注)
 かつて戸田城聖が「日本中、世界中の人に読ませたい」と念願した聖教新聞である。聖教こそ、混迷する社会の羅針盤といってよい。
 そこには、創価学会の真実と正義が、理論と実証のうえから明らかにされている。万人の幸福と世界の平和を実現する、仏法の人間革命の哲理が明確に示されている。


前進 三

 “無冠の友”たる配達員のメンバーは、誇らかに胸を張り、聖教新聞の購読推進に取り組んでいった。
 “地域中、愛媛中の人が、聖教新聞を購読する時代をつくろう!”
 それがメンバーの理想であり、誓いであった。
 ある人は、自分が配達を担当している地域の、全世帯、数百軒の人に購読を呼びかけて歩いた。
 しかし、一生懸命に訴えても、聖教新聞を取ろうという人は、最初は誰もいなかった。
 まるで押し売りを追い払うような対応をする人もいれば、なかには「創価学会は嫌いや!」と怒鳴りだす人もいた。
 また、ある人は、すべての友人に、購読を勧めようと思った。
 だが、購読を頼むと、「宗教の新聞なんかいらんよ」と、取り付く島もなかった。
 “聖教新聞の購読推進は、仏法を教えることにつながるのだから、簡単であるはずがない。粘り強く、真心をもって対話を重ねていこう”
 “無冠の友”は挫けなかった。真剣に唱題し、勇気を奮い起こして厚い壁にぶつかっていった。
 やがて、購読を勧めたことから、悩みを打ち明けられ、仏法対話した結果、喜んで聖教新聞を購読し、入会を決意する友人も出始めた。
 そうした奮闘を見て、ほかの同志も、聖教新聞の購読推進に力を入れ始めた。
 皆の地道な努力が実り、月を経るごとに、購読者は飛躍的に拡大していったのである。
 両隣の家が聖教新聞を購読するようになったところ、真ん中の家の人が配達員に言った。
 「今まで、隣近所の手前、よう取らなんだけど、うちも入れてや」
 購読者は、愛媛のあの地、この地に広がり、購読率が地域世帯の三割を超えた地域もあった。
 聖教新聞を購読した人の学会理解の度は確実に深まり、地域広布の土壌が耕されていった。
 アメリカの人権の母ローザ・パークスは、こう訴えている。
 「私が今までに学んだことは、変化を起こすには、まず最初の一歩を踏み出すことを恐れてはいけないということです。そうでなければ、変化を起こすことはできません。失敗はただ一つ、やってみないことだと、私は思っています」(注)

引用文献
 注 パークス著『ローザ・パークスの青春対話』高橋朋子訳、潮出版社


前進 四

 空港から松山会館に到着した山本伸一は、地元の幹部らと、地域の繁栄を願って勤行した。
 そのあと、会館の横の駐車場に造ったという庭に案内された。
 「やすらぎ園」と名づけられたその庭には、茅葺き屋根の休憩用の建物「やすらぎ亭」が建てられ、ミカンの木なども植えられていた。
 “激闘を続ける山本先生に、少しでもくつろいでいただこう”との思いで、有志が造った庭園であるという。
 「ありがたいね。ここにいると、ほのぼのとした気分になり、心が安らぐね。皆さんの真心が胸に染みます」
 庭の周囲には、美事な菊の鉢植えが、所狭しと並べられていた。
 伸一は、菊の花を見ると、案内してくれていた地元の幹部に尋ねた。
 「これらの菊は、どなたが育てたものですか」
 「聖教新聞の配達員さんたちです。
 菊花の季節に先生をお迎えするのだから、せめて菊の花で、心を和ませていただきたいと、皆が懸命に育てました」
 販売店主らと話し合って、配達員のメンバーが菊作りを始めたのは、新聞の購読推進に本格的に着手した、五月のことであった。
 菊を育てた経験のある人など、ほとんどいなかった。しかし、美事な大輪の菊で山本会長を迎えようと、水をやり、題目を送り、丹精込めて育てていった。
 なかには、途中で虫がつき、また新たに、苗から育て始めなければならない人もいた。しかし、それでも、決してあきらめなかった。
 メンバーの一念に育まれ、菊は日ごとに伸び、花をつけ始めた。
 “無冠の友”は菊の成長を励みにし、また、その成長に負けまいと、新聞の購読推進に走った。
 皆、力の限り戦った。菊の花も美事に咲いた。菊は“無冠の友”の大勝利の象徴となった。
 戦い抜いた人には、歓喜がある。生命の躍動があり、充実がある。
 全員が「私の育てた菊を見てください」とばかりに、喜々として、鉢植えを会館に運んだ。
 菊には、それぞれ名前がつけられていた。
 「開道の花」「仲良しの花」「題目菊」……。
 花の美しさにも増して、その真心は、さらに美しく、まぶしかった。


前進 五

 白、黄、赤、紫……。
 山本伸一は、一つ一つの菊花を、丹念に鑑賞していった。
 彼は、見えにくい二列目、三列目にあった菊花を指差して言った。
 「いい名前をつけているね」
 そこには「共戦の菊」「広布の菊」と書かれていた。その二つの菊は、花の完成度としては高いものではなかった。そのため、担当の幹部が目立たない場所を選んで、並べた菊であった。
 しかし、伸一は、不揃いの花びらのなかに、菊作りに挑戦した同志の、健気な真心を見ていたのである。
 「みんな、苦労して育ててくれたんだね……。
 心の花です。勝利の花です。尊い真心が胸に迫ってきます。
 この菊の花を育ててくださった配達員の方々を、『菊花の友』と命名しようと思うが、どうだろうか」
 県の幹部らが答えた。
 「皆、大喜びすると思います」
 「では、そうしよう」
 そして伸一は、「やすらぎ亭」に入ると、同行の幹部に色紙を持って来るように頼んだ。
 「菊を育ててくださった皆さんに、句を詠んでお贈りします」
 彼は、色紙にさらさらと認めた。
   
 晴ればれと
  まごころ薫る
    菊の列
  
 さらに、色紙の裏にはこう書いた。
 「愛媛の友の
 幸せと平和無事を
 心より祈念しつつ 
 愛媛幹部総会記念
 菊花の友に宜しく」
 伸一は、その色紙を、聖教新聞の関係者に渡しながら言った。
 「今回、配達員の皆さんは、本当にすごい戦いをしてくださった。
 学会員だけでなく、地域の人たちに聖教新聞を購読してもらおうというのは、未来を開く新しい発想です。
 これは、将来の広宣流布運動の基調になるでしょう。『広布第二章』の偉大な魁です。
 おめでとう! ありがとう!」
 大聖人は「須弥山の始を尋ぬれば一塵なり・大海の初は一露なり」(御書一二三七ページ)と仰せである。
 愛媛の新聞購読の推進は、歴史的な第一歩となったのである。


前進 六

 松山会館でメンバーを励ました山本伸一は、それから車で、新居浜会館に向かった。
 彼は、寒気がして、体がだるかった。
 移動に次ぐ移動の連続で、疲労が蓄積していたのである。少し熱もあった。今日は、早く休みたいと思った。
 しかし、会館に到着すると、館内を点検して歩き、管理者の家族と懇談のひと時をもった。
 陰で人知れず苦労している同志の真心に、応えたかったのである。
 無理に無理を重ねても、苦労している人を見れば、全力で激励してしまう――それは、伸一の性分でもあった。
 伸一との語らいに、管理者の家族は、心から嬉しそうに笑みを浮かべていた。
 そんな伸一の行動を、同行した妻の峯子は、ハラハラしながら見守っていた。
   
 翌十一日は、愛媛県幹部総会の日であった。
 新居浜会館には、「山本先生にお会いしたい」と、朝から、地元の同志が続々と集ってきた。
 午前十一時前には、会館の広間に、百数十人が待機していた。
 伸一の体調はまだ優れなかったが、それを聞くと、広間に顔を出した。
 「こんにちは。昨夜から、会館におじゃましております。新居浜の繁栄を祈念して、みんなで一緒に勤行しましょう」
 予期せぬ勤行会の開催である。皆の喜びが爆発した。
 「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」(御書七八八ページ)との仰せの通りに、同志の生命は躍動し、題目の音律は清々しく響きわたっていった。
 勤行が終わると、伸一は皆のなかに入って、励ましの対話を交わした。
 年配者には、ねぎらいの言葉をかけた。
 中等部員には、「しっかり勉強して、必ず大学に行くんだよ」と語り、少年部員には、「一足早いお年玉を」と言って、自分の原稿料から、小遣いを渡すのであった。
 一瞬の出会いではあるが、各人の飛翔の原点をつくろうと、伸一は必死であった。
 「生きることは、人間のなかに入ることであり、人間のなかに入ることは、戦うことです」(注)とはフィリピン独立の英雄ホセ・リサールの叫びである。

引用文献
 注 『QUOTATIONS FROM RIZAL’S WRITINGS』NATIONAL HISTORICAL INSTITUTE


前進 七

 山本伸一は、午前十一時半、新居浜会館を出発し、愛媛県幹部総会の会場である、松山市内の私立高校の体育館に向かった。
 会場の近くまで来ると、伸一は言った。
 「松山のきれいな空気を吸いながら、少し歩こうよ」
 彼が車を降りて、同行の幹部と歩き始めると、「先生!」という声が響いた。
 一人の婦人を先頭に何人かのメンバーが、駆け寄ってきた。
 「ご苦労様! 皆さんも幹部総会に行かれるんですか」
 伸一が言うと、メンバーの一人が答えた。
 「券がないので入れません。でも、先生にお会いしたくて、ここで待っていたんです」
 「そうですか。ありがとう。では、一緒に歩きましょう」
 歓声があがった。
 メガネをかけた高齢の男性は、涙を浮かべ、しがみつくように伸一の腕を取り、「会いたかった、会いたかった!」と何度もつぶやいた。
 そして、入会以来の来し方を、一生懸命に語るのであった。
 また、「よかった、よかった。やっぱり先生は来てくださった」と、嬉しそうに頷きながら、伸一の顔をのぞき込む老婦人もいた。
 伸一の周りには、いつの間にか、数十人の人が集まっていた。
 伸一は言った。
 「これは、民衆の大行進だね。これこそ、創価学会そのものだよ」
 談笑の花を咲かせ、賑やかに、晴れやかに、一団は進んでいった。
 それは和気あいあいとした、歩きながらの座談会のようでもあった。
 創価学会の強さは、伸一を中心とした民衆の精神のスクラムにある。
 「いかに手強い勢力であろうと、団結した民衆に打ち破れないものはない」(注)とは、ガーナの初代大統領エンクルマの言葉である。
 社会の底辺に追いやられてきた民衆が、人びとを幸福にしゆく仏の使いの使命に目覚め、決然と立ち上がり、固くスクラムを組んだのだ。
 それが創価学会なのである。
 利害に結ばれた共闘ではない。最も崇高な魂と魂の歓喜の結合である。ゆえに、学会は、何ものにも崩れぬ、金剛の強さをもつのである。

引用文献
 注 『Axioms of Kwame Nkrumah』 Thomas Nelson and Sons


前進 八

 愛媛県幹部総会の会場となった高校の体育館に到着した山本伸一は、後方から、一階のフロアに入り、参加者の間を縫うようにして進んだ。
 怒濤のような大歓声と拍手がこだました。
 彼は、手を振り、励ましの声をかけながら、歩いていった。
 途中、伸一は、初老の男性に話しかけた。メガネをかけた、いかにも実直そうな男性であった。
 伸一は、自分の胸につけていた、白い花の形をした胸章を外すと、男性の胸につけた。
 「今日は、あなたが会長です。“一日会長”になってください。さあ、一緒に行きましょう」
 男性はメガネの奥の目を丸くし、「はあ……」と言ったきり、絶句してしまった。
 驚きのあまり、言葉も出なかったのである。
 しかし、伸一に促されて先頭に立ち、壇上に向かって歩き始めた。
 参加者は思った。
 “山本先生の前を歩いている、花の胸章をつけた人は誰じゃろうか。最高幹部にしては、見たことのない顔じゃが”
 壇上に上がった伸一は、皆の疑問にこたえるようにマイクを取った。
 「今日は、愛媛の皆さんのなかから“一日会長”を選びました」
 さわやかな拍手が広がった。
 伸一は、演台のすぐ横に用意された会長席を指差した。
 「会長は、こちらにお座りください。私は隣に座りますから」
 初老の男性は、恭しく場内の参加者に礼をすると、席に着いた。
 やがて、幹部のあいさつに続いて、四国長による表彰が始まった。
 伸一は提案した。
 「表彰というのは、やはり会長がやった方がいいでしょ?」
 笑いがはじけ、拍手が起こった。
 「では、“一日会長”にやってもらいます」
 “一日会長”は立ち上がると、厳かに頭を下げ、記念品を渡した。
 伸一は、側に立って拍手を送りながら言った。
 「堂々たるものです。
 学会は、決意、自覚のうえでは、みんなが会長なんです。
 私と同じ心で、広宣流布の責任者として立ってください。それが御書に仰せの『自他彼此の心なく』(一三三七ページ)ということであり、学会の強さの源泉なんです」


前進 九

 愛媛県幹部総会の式次第は進み、力のこもった司会者の声が響いた。
 「会長講演!」
 その声に“一日会長”となった男性の肩がピクリと動いた。
 彼は、講演もしなければならないのではないかと思い、何を話そうか一生懸命に考えていた。しかし、何も思い浮かばず、壇上で、悩み抜いていたのであった。
 山本伸一は、演台に向かう時、ニッコリと笑いを浮かべ、彼の肩をそっと押さえた。
 “心配しなくてもいいですよ”というサインであった。
 “一日会長”は、ホッとしながら、“会長というのは本当に大変なものだな”と、しみじみと思うのであった。

 伸一は、この日、「太田左衛門尉御返事」を拝して指導を進めた。まず、御書の背景と大意について、わかりやすく述べていった。
 この御書をいただいた太田乗明は、下総国(現在の千葉県北部など)の武士で、富木常忍、曾谷教信と共に、下総方面の門下の中心的な人物であった。
 彼は、当時の「大厄」とされていた数え年五十七歳となり、悩むことも多いと、大聖人に手紙で訴えていた。
 「厄」とは災いのことで、「厄年」は厄に遭うおそれがある、忌み、注意すべき年齢とされる。もともと中国古代に盛んになった陰陽道によって立てられたものである。
 「厄年」の年齢は、数え年で、男は二十五歳、四十二歳、女は十九歳、三十三歳などとされているが、地域や時代によって違いがある。
 太田乗明は、「大厄」とされる年齢になり、このころ、心身の不調に苦しみ、大きな不安に苛まれていたのだ。
 大聖人はこの御書で、その苦しみは、過去世の煩悩・業によるのであると述べ、苦悩を転換する方途について、明らかにされている。
 「法華経と申す御経は身心の諸病の良薬なり」(御書一〇一五ページ)
 「厄の年災難を払はん秘法には法華経に過ぎずたのもしきかな・たのもしきかな」(同一〇一七ページ)
 たとえ「厄年」であっても、法華経(御本尊)への信心があればなんの心配もないとの御指導である。


前進 十

 日蓮大聖人は、三十三歳の「厄年」を迎えた、四条金吾の妻の日眼女に対しても、次のように励まされている。
 「三十三のやく(厄)は転じて三十三のさいは(幸)ひとならせ給うべし」「年は・わか(若)うなり福はかさなり候べし」(御書一一三五ページ)
 「厄年」というのは、肉体的、精神的に、一つの節目の時期であるという見方もできよう。
 しかし、強盛な信心を奮い起こして広宣流布に生き抜いていくならば、病をはじめ、どんな災いもすべて転換し、必ず幸福への飛躍台にしていくことができるのだ。
 これが「変毒為薬」の妙法である。
 さらに、その挑戦の心は、みずみずしい生命力を涌現させ、ますますわが生命を若返らせていくのである。
 ドイツの詩人シラーは「人の心は、激しい闘争のうちに鍛えられ」(注)と謳った。
 戦う心を失った時に、人は病みやすく、老いやすい。困難と闘い、勝利することによって、人生の幸福は築かれるのだ。
 大聖人は、さらに、太田乗明を包み込むように励まされている。
 「当年の大厄をば日蓮に任せ給へ」(御書一〇一七ページ)――大聖人が教えた通りに信心に励み、悠々と乗り越えていきなさいとの意味である。
 現代でも「厄年」という風習に縛られ、「厄払い」「厄除け」に、寺や神社に出かけ、祈念を頼む人もいる。
 しかし、苦悩、災難の克服の道は、法華経に照らし、御書に照らして、妙法への正しき信心によって、自らの宿命を転換する以外にない。
 自身の宿命の転換は、人頼みではできないのだ。自らが真剣に信心に励み、無明の雲を破って、わが胸中に仏性の太陽を赫々と輝かせてこそ、可能となるのである。
 大聖人は「若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず」(同三八三ページ)と言われ、それは、「成仏の直道にあらず」(同)と結論されている。
 人間を、強く、賢明にし、何があっても負けない人間をつくるのが真の宗教である。
 「厄年」だといって盛んに不安を煽り立て、「厄除け」「厄払い」と称して金儲けを企む宗教のまやかしを、鋭く見抜いていかねばなるまい。

引用文献
 注 『世界名詩集大成6』小栗孝則訳、平凡社


前進 十一

 山本伸一は、「太田左衛門尉御返事」の背景と大意を述べたあと、その一文を拝していった。
 「結句は身命よりも此の経を大事と思食す事・不思議が中の不思議なり、是れは偏に今の事に非ず過去の宿縁開発せるにこそ・かくは思食すらめ有り難し有り難し」(御書一〇一五ページ)
 伸一は講義に入った。
 「大聖人が、太田殿が自分の生命よりも仏法が大事であると確信していることを、讃えられているところです。つまり、太田乗明は仏法に身命を捧げる決意をしていたんです。
 実は、そこに成仏得道があり、三世永遠にわたる絶対的な幸福境涯を確立していく道がある」
 たとえば、一滴の水であっても、大海に合すれば、地球をも包むことができる。
 同様に、妙法に生き、広宣流布に生涯を捧げるならば、宇宙大へと自らの境涯を開くことができる。いかなる苦難にも決して負けることのない、金剛不壊の自分をつくることができるのだ。
 災いを払うのも、艱難を突破するのも、その信心に奮い立つことが、根本的な道といえよう。
 伸一は、強く訴えた。
 「妙法を持つことができた私どもは、何も恐れるものはありません。ただ信力、行力を奮い立たせていけばいいんです。
 お互いに、『何かあったら題目』を合言葉に、朗々たる唱題中心の、勝利、勝利の人生を進んでまいろうではありませんか!」
 大拍手が起こった。
 彼は、拍手が止むのを待って言葉をついだ。
 「さらに大聖人は、太田乗明が、法華経を身命よりも大事に思うようになったのは、今世のことだけが原因ではなく、妙法との過去世の宿縁が開き顕れたためであろうと仰せである。
 では、いかなる宿縁かを明らかにされているのが、この後の御文です。
 『乃往過去に此の寿量品の久遠実成の一念三千を聴聞せし故なり』(同一〇一六ページ)
 ――つまり、過去に寿量品の事の一念三千の法門を聴いたからであると言われている。
 信心に偶然はない。私たちが、こうして信心をし、広宣流布に邁進しているのも、実は深い過去の宿縁によるのです」

語句の解説
 ◎一念三千/
 衆生の一念に三千の諸法が具わること。瞬間瞬間に生起する衆生の心を「一念」といい、宇宙をも包含した現象世界のすべてを「三千」という数で表している。天台大師が法華経に基づき体系づけた法門で、一切衆生の成仏の理論的根拠とされる。
 日蓮大聖人は、この一念三千の生命を「南無妙法蓮華経」と説き明かされ、事実の上で万人が成仏する道を開かれた。


前進 十二

 山本伸一の声に一段と力がこもった。
 「私たちが今、ここに出現し、広宣流布の戦いを起こしているのは、われわれこそが、日蓮大聖人に連なり、末法の広宣流布の付嘱を受けた地涌の菩薩であるからです。
 それが、戸田先生が獄中で得られた結論です。そして、その広宣流布の使命を担った仏意仏勅の団体こそ、創価学会なんです。
 どうか、愛媛の皆さんは、『広布第二章』の出発にあたって、この一点を確信し、いかなる批判があろうが、堂々と“師子の信心”を貫いていっていただきたい。
 どんなに辛かろうが、大変だろうが、歯を食いしばって、頑張り抜いていただきたい。
 そこに『一生成仏』の大道が、必ず開かれるからであります」
 すべての勝利は、勇気ある挑戦によってこそ、打ち立てられるのだ。
 フランスの思想家ルソーは叫んだ。
 「勇気がなければ幸福は得られないし、戦いなしには美徳はありえない」(注)
 七年七カ月ぶりに山本会長を迎えて行われた愛媛県幹部総会は、広宣流布への地涌の使命を確認し合う、新しき出発の集いとなった。
 幹部総会のあと、伸一は松山会館に移動し、地域広布の推進を図るために発足した、松山市協議会、新居浜市協議会の結成式に出席した。新しい前進には、新しい機構が必要である。改革と創造なくして進歩はない。
 この席上、松山長、新居浜長の任命が行われるとともに、新たに愛媛県の婦人部企画会議が結成されたのである。
 社会建設の真の主役は女性であり、その英知と行動こそが、平和と民主の人間主義の時代を開く原動力となる。
 限られた時間のなかで、未来への価値ある布石をするために、伸一は全生命を注ぎ込むかのように、考えに考え、動きに動いた。
 彼は、午後八時半近くに新居浜会館に到着したが、それから車で市内を視察した。
 地域広布の的確なアドバイスをするためには、地域の問題点や街の状況などを、よく知らなければならないからだ。
 そして、夜更けて、彼は地元の同志を励ますために、色紙や書籍に揮毫をするのであった。

引用文献
 注 ルソー著『エミール』今野一雄訳、岩波書店


前進 十三

 翌十一月十二日は、高松の四国文化会館に移動する日であったが、山本伸一は、午前中、原稿の執筆に余念がなかった。婦人雑誌など、数誌から新年号の原稿依頼を受けていたからである。
 伸一が原稿を書いていると、会館の周囲には、続々と会員が集まってきていた。
 彼を見送ろうと集って来たのである。
 伸一は、その報告を受けると、「一緒に勤行をするので、会館の広間にお通ししてください」と伝えた。
 彼が広間に顔を出した時には、既に五百人ほどの人が詰めかけていた。
 皆で勤行を終えると、伸一は言った。
 「あまり来られないものですから、今日は、新居浜を訪問した記念に、一緒に記念撮影したいと思いますが、いかがでしょうか」
 歓声が起こった。
 寿量品には、仏の「毎自作是念」(毎に自ら是の念を作す)は、衆生の成仏にあることが説かれている。
 伸一も、そうあろうと、自らに命じてきた。
 そして、“どうすれば皆が喜び勇んで、広宣流布の使命に奮い立てるのか。幸福の大道を歩めるのか。そのために何をすべきか”と、常に心を砕き続けていたのである。
 記念撮影は、五、六十人のグループに分かれ、九回に及んだ。
 その間に、山本伸一は高齢者や子どもたちに励ましの声をかけ、赤ん坊を見れば抱き上げた。
 さらに、家庭不和に悩む婦人や、子どもの結婚問題についての壮年の訴えにも耳を傾け、指導するのであった。
 同志に送られ、新居浜会館を後にし、新居浜駅から列車に乗った山本伸一は、倒れるようにシートに身を委ねた。
 疲れ果てていたのである。
 同行していた妻の峯子が、心配そうな顔で、伸一を見つめていた。
 彼は、峯子に笑顔を向けた。
 「大丈夫だよ、心配しなくて。戦い抜いた心地よい疲労だもの」
 タイの作家シーブーラパーは、こう述べている。
 「息をしていることが生きている証拠なのではない。知恵を働かせて、社会に功績を残し、尽くす人こそ、生きている人である」(注)
 それは、伸一の信念でもあった。

引用文献
 注 パイロート・ユーモンティエン編『シーブーラパーの格言集』セーンダーオ出版社


前進 十四

 山本伸一の一行が、高松の四国文化会館に到着したのは、午後六時前であった。既に辺りは、夜の帳に包まれていた。
 そのなかで伸一は、玄関前に植えられた二本の桜を眺めながら、語りかけるようにつぶやいた。
 「帰ってきたよ」
 彼は、ここを訪れるたびに、庭に植えられた木々を見ては、心で対話するのである。
 桜の木の一本は、愛媛で学生部のグループ長をしていた岡島喬雄の遺徳を顕彰するために植樹された木であった。
 岡島は、愛媛大学を卒業し、高校の教師となって五カ月後の一九六九年(昭和四十四年)九月、二十三歳で世を去った。
 友人を座談会に案内するために、バイクで友人宅に向かう途中、軽トラックにはねられるという不慮の事故に遭ったのである。
 広宣流布の若き後継の人材を事故で失うことほど、残念なことはない。悔しいことはない。
 しかし「悪象等は唯能く身を壊りて心を破ること能わず」(御書七ページ)と説かれる。
 悪象等、すなわち、さまざまな事故などの災難によって命を落としたとしても、妙法を持ち抜いた人は、生命の絶対的な幸福の軌道が壊されることはないのである。
 必ず成仏して、すぐにまた生まれてくることができる。これが妙法の不可思議な力である。
 岡島は、小学校の高学年ごろから胃腸を患うようになり、病弱な少年であった。
 しかし、彼は、勉強では、誰にも負けるまいと努力に努力を重ね、小・中学校では、最優秀の成績を収めた。
 なかでも国語が得意で、書道では数々のコンクールで入賞していた。その書は、美しい楷書体の文字で、真面目で几帳面な彼の性格を、よく表していた。
 「障害は私を屈せしめない。あらゆる障害は奮励努力によって打破される」(注)とはレオナルド・ダ・ビンチの箴言である。
 まさに、岡島は努力によって、自己の障害を必死に乗り越えようとしていたのである。
 両親は喬雄の体を案じ続けていた。父親は信心深い人であり、学会員から宗教に正邪があることを聞かされ、喬雄が十四歳の時に入会した。その後、母親も信心を始めた。

語句の解説
 ◎悪象等は……/
 涅槃経の文。悪象とは、性質が狂暴で、人畜を害する凶悪な象のこと。釈尊の訓戒として、悪象等は身を破壊するだけで心までは破壊できないが、仏道修行を妨げ、不幸に陥れる悪徳の者(悪知識)は、身も心も破壊するため、狂暴な象よりも恐れなければならないと説かれている。

引用文献
 注 『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』杉浦明平訳、岩波書店

前進 十五

 岡島喬雄は、創価学会に入会した父から、信心をするように勧められてきた。
 彼は、自分の幸せを願ってくれる親の心をくんで、高校二年生の春に入会した。
 しかし、自ら進んで信心をしようとは思わなかった。人生は自分の努力で切り開くものであり、信仰にすがるのは弱いからであると、彼は考えていたのである。
 本当の信仰は努力の原動力となるものだ。いかなる人生の試練にも屈せぬ自身の力を引き出し、人間を強くするためのものだ。だが、岡島には、まだそれが実感できなかった。
 哲学者ヒルティは「信仰がなければ人生の幸福はあまりにも弱々しい土台しか持ちえない」(注)と指摘している。
 高校を卒業した岡島は、地元の国立大学である愛媛大学に進んだ。
 さっそく、学生部の先輩が訪ねて来て、一緒に学会活動に参加するように訴えたが、その気にはなれなかった。
 彼は入学後、深い疲労を覚え、足がだるく、吐き気と下痢に悩まされるようになっていた。そして、その症状は、日を追って激しさを増していったのである。
 病院に行くと、腎臓の機能障害と診断された。
 やむなく五月初めに、彼は入院した。青空がまばゆい、希望の季節である。だが、彼の心には暗雲が垂れ込めていた。地の底に転落していくような思いにかられた。
 日記をつけることを習慣としていた彼は、入院から六日後の日記に、こう記している。
 「誰か健康を売ってくださる人はいませんか。
 今まで精一杯努力して築いてきた僕の健康は、もろくも、また崩れてしまいました、ちょうど砂山が崩れるように。
 欲張りは言いません。唯一つ、健康だけでいいのです」
 岡島は、これまでの自分の努力では、どうしようもない、運命の壁を感じた。
 何度か聞かされてきた「宿業」という話が、現実味を帯びて胸に迫ってくるのであった。
 そして、「宿命転換」「人間革命」という言葉が、希望の響きをもって蘇ってきた。
 御聖訓には「病によりて道心はをこり候なり」(御書一四八〇ページ)と仰せである。

引用文献
 注 ヒルティ著『幸福論』草間平作・大和邦太郎訳、岩波書店


前進 十六

 入院中の岡島喬雄を訪ねて、学会員が見舞いに来てくれた。
 その温かい励ましに、岡島の心は動き始めた。この日の日記に、彼はつづっている。
 「僕もこの創価学会に対する考えを改めねばなるまい」
 八月になって、岡島は退院したが、今度は胃腸の調子が悪くなり、そのうえ、顔面神経痛も患ってしまった。
 落胆する彼のもとに、学生部員が足繁く激励に訪れてくれた。
 彼らは、誠実で、明るく、粘り強かった――それこそが、魂の触発をもたらす原動力だ。
 学生部員の熱意に打たれて、遂に岡島は、題目を唱えるようになった。
 病を克服できるかどうかは、生命力にかかっている。そして、その源泉こそが唱題である。
 彼の体調は、次第に回復に向かっていった。
 その現証に、岡島は、仏法の偉大さを知り、感嘆したのである。
 彼は、日記に記す。
 「あらゆる努力をして、最後に見つけたのがこの信心なのである。自分の精神力を鍛え、生命力を蘇らせるのはこの信仰によらねばならないことがよくわかった」
 岡島は「業病なりとも法華経の御力たのもし」(御書九七五ページ)との日蓮大聖人の御言葉も、実感することができた。
 体験は確信と歓喜を生んだ。彼は、御本尊への感謝の思いを胸に、真剣に学会活動に励み、友人に仏法のすばらしさを語っていった。
 岡島が、さらに確信を深めたのは、学会の先輩から贈られた、山本伸一の『若き日の日記』を読んだ時であった。
 そこには、日々、病魔と闘いながら、師の戸田城聖のもとで、破綻した事業の再建に取り組む、山本会長の青春の苦闘がつづられていた。
 岡島は思った。
 “あれほど力強く、悠々と広宣流布の指揮を執られている山本先生も、青春時代は病に苦しみ、信心で乗り越えられている。ぼくも必ず宿命を打開しよう。絶対にできないわけがない!”
 彼は、自らの宿命の転換のために、敢然と立ち上がったのである。
 フランスの哲学者アランは記している。
 「困難を、さらなる困難をも乗り越えること、これがおそらく幸福に至る正道である」(注)

引用文献
 注 アラン著『幸福論』神谷幹夫訳、岩波書店


前進 十七

 岡島喬雄は、完全な健康体とはいえなかったが、見違えるほど元気になり、日々、懸命に学会活動に走った。
 彼には、人のために生きたいという強い思いがあった。
 それだけに、各人の人間革命を機軸に社会を変革し、万人の幸福を実現する広宣流布の運動に深く共鳴していった。
 「人類の幸福」といっても、一人ひとりが、何があっても崩れぬ自己をつくり上げることだ。つまり生命の変革の方途を明らかにした仏法こそ、その根幹の力である。
 また、「世界の平和」といっても、皆が尊厳無比なる仏の生命を具えているという仏法の哲理を、人類が共有することから始まる。
 岡島は、広宣流布に自らの使命を見いだし、活動に全力を注いだ。
 学会活動は、最高の人間修行の場である。折伏にせよ、会合の結集にせよ、定めた目標を達成するには、自分自身の弱さや甘え、臆病な心に挑み、それを打ち破っていかなければならない。
 折伏をすれば、時には罵詈雑言を浴びせられることもある。嘲笑されることもある。「悪口罵詈」と説かれる通りだ。
 しかし、勇気と慈悲の心をもって相手を包みながら、忍耐強く、対話を重ね、理解と共感を勝ち取る戦いが学会活動である。
 そのなかにこそ、生命の鍛錬があり、宿命転換の、そして、人間革命の大道があるのだ。
 さらに、御聖訓には、「法華経の功徳はほむれば弥功徳まさる」(御書一二四二ページ)と。折伏も、指導も、仏法の偉大さを語り、讃えることにほかならない。その学会活動の功徳、福運の大きさはいかばかりか。
 岡島は思った。
 “こんなに体の弱い自分でも、不幸な人を幸福の大道へと導くことができる。いや、病弱な自分だからこそ、人の苦しみがよくわかる。わが使命は深いのだ……”
 そう考えると、体中の細胞が、喜びに震える感じさえ覚えるのだ。
 キューバ独立の英雄であるホセ・マルティは訴えている。
 「人間にとって、真実かつ唯一の栄光とは、他者への奉仕である」(注)
 学会活動は、人びとに絶対的幸福へと至る「最高善の道」を教える、最も崇高なる奉仕である。

引用文献
 注 『Jos■<eアクサンテギュ> Mart■<iアクサンテギュ>, EPISTOLARIO TOMO IV 1894』Editorial de Ciencias Sociales


前進 十八

 岡島喬雄は、折伏に、座談会にと、力の限り奔走した。
 活動の足は、専ら自転車である。一時間、二時間と、ペダルを漕ぎ続ける日もあった。
 体調が悪く、足が鉛のように重く感じられることもあった。
 しかし、彼は負けなかった。自らの宿命転換をかけ、広宣流布の理想に燃えて、岡島は走った。
 彼の日記には、そうした心情と決意が、随所に述べられている。
 「題目と学会活動で強い自分、なにものをも恐れぬ自己を築くのみ」
 「勇猛精進、勇猛精進。強くあれ。一人立て、敢然と。
 題目は我が力
 題目は我が智恵
 題目こそ我が生命なり」
 唱題をしては生命力をわき上がらせ、彼は広布の戦いに、恐れなく突き進んでいった。
 「行学た(絶)へなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ」(御書一三六一ページ)の一節を、身をもって拝そうと思った。
 そんな彼を支え続けてくれたのが、学生部の友人たちであった。豪雨の日にも訪ねて来て、温かく励ましてくれた。
 特に彼が、深い信頼と尊敬を寄せたのが、学生部の部長であった。
 この部長から、彼は、広宣流布を担う強い責任感を、信心への確信を、同志を思いやる心の大切さを学んでいった。
 彼は、部長の「Iさん」について、こう日記に記している。
 「Iさんの顔を見るのが楽しい。絶対に安心してついていける人だ。私はこの人を知ったことにより、私の人間革命は大いに駒を進めた」
 人間が精神を磨き鍛えて、成長していくには、触発が不可欠である。それには、良き先輩、良き同志が必要である。ゆえに、学会という善の組織が大切なのである。
 友情を意味するサンスクリットの言葉は、「マイトリー」であるが、これは、漢訳では「慈」と訳されている。
 友の成長、幸福を願う慈悲の精神こそ、友情の真髄といえよう。
 「友情は数限りない大きな美点を持っているが、疑いもなく最大の美点は、良き希望で未来を照らし、魂が力を失い挫けることのないようにする、ということだ」(注)とは、哲人キケロの洞察である。

引用文献
 注 キケロー著『友情について』中務哲郎訳、岩波書店


前進 十九

 岡島喬雄は一九六八年(昭和四十三年)、大学四年生の時には、学生部のグループ長を務め、聖教新聞の通信員としても活躍している。
 学業、学生部の活動、そして、通信員の活動と多忙であったが、彼はすべてをやりきろうと、果敢に挑戦していった。
 日々、時間との戦いであった。しかも、彼の健康は、完全に回復したわけではなかった。
 しかし、生命の燃焼があった。充実があった。体調の良い状態が長続きするようになっていた。また、病気を苦にしない強靱な精神力も身につけていた。
 ドイツの詩人ノバーリスは訴えている。
 「真の哲学の正しい原理は健康を作り出し自由に朗らかに かつ若々しく――力強く賢く かつ善良にしてくれる原理でなくてはならぬ」(注)
 使命に生きる岡島の心は、日々、躍動し、幸福を実感していた。

 この年の九月八日、岡島は、東京・両国の日大講堂で行われた第十一回学生部総会に、四国から勇んで参加した。そこで、山本伸一の歴史的な「日中国交正常化提言」を聞いたのである。
 人類の未来を憂え、仏法者として世界平和の道を開こうとする画期的な提言に、彼は感動した。
 “自分も、先生の人間主義の哲理を、社会に伝え抜いていこう!”
 岡島は、戦う勇気が、力が、胸に沸々とたぎり立つのを覚えた。
 それから一カ月後の十月十五日、四国の大学会の結成式が山本会長を迎えて行われた。愛媛大学、松山商科大学(当時)、高知大学、徳島大学、香川大学の五大学である。
 岡島も、愛媛大学会の一員に選ばれ、喜びに胸を躍らせて出席した。
 彼は、ここで、初めて山本伸一と身近に接することができたのである。
 この席上、伸一は、メンバーの質問に答えて、教育の重要性について語っていった。
 「日本の未来のためにも、世界の平和のためにも、大切なのは教育なんです。私はこれから、教育に最大の力を注いでいきます。そのために若い力が必要です。
 二十一世紀の本当の人材を育てていける教育者をつくりたい」
 その言葉は、教員をめざしていた岡島の心を、電撃のように貫いた。

引用文献
 注 ノバーリス著『断章』渡辺格司訳、岩波書店=現代表記に改めた。

前進 二十

 山本伸一は、未来を見すえるように、目を細めながら言った。
 「今ほど、人間教育が要請されている時代はない。このなかから、偉大な教師も、たくさん出てほしい」
 伸一がこう語ると、ひときわ大きな声で、「はい!」と答えたメンバーがいた。
 岡島喬雄であった。
 伸一は、岡島にじっと視線を注ぎ、それから、笑みを浮かべて頷いた。
 この日、伸一は、大学会のメンバーと記念撮影もした。
 その写真は、“人間教育の教師”たらんと決意する岡島の、誓いの証となったのである。
  
 教育者をめざす岡島は、後輩たちの面倒みもよかった。
 励ましの手紙も、こまめに書き送った。ある後輩への手紙には、次のように記されている。
 「もっともっと同志を尊敬し、お互いに苦しみ、お互いに励まし合い、一緒に成長していこう。皆が人材だし、皆、使命があるのだ。
 僕だって、誰にもいえないほどの苦しみもある。しかしそんなことで負けてはだめだ。青春時代は一番悩み多き時だ。山をつくり、山を乗り越える信心、難を乗り越える信心をしていこう。安逸と堕落は学生の敵だ」
 「欠点は補いあい、学生部全体で前進していこう」
 彼の胸には、「法華経を持つ者は必ず皆仏なり仏を毀りては罪を得るなり」(御書一三八二ページ)との御金言が深く刻まれていた。
 厳しくも思いやりにあふれた岡島の手紙に、奮い立った後輩は多い。
 「立派な者は仲間を立派にする」(注)とは、古代ギリシャの詩人・エウリピデスの言葉である。
 人間の誇りうる最高の財産とは、どれだけの人に仏法を教え、どれだけの人を広宣流布に奮い立たせたかという事実である。そこに、最高の利他の道があるからだ。
 一九六九年(昭和四十四年)の春、愛媛大学を卒業した岡島喬雄は、地元の県立工業高校の国語教師となった。
 定時制のクラスを受け持ち、十一人の生徒の教育に情熱を注いだ。
 戸惑うことも、失敗することもあったが、格闘するかのように生徒の心に体当たりする日々は、充実感にあふれていた。

引用文献
 注 『ギリシア悲劇全集12』西村賀子訳、岩波書店


前進 二十一

 大学を卒業した岡島喬雄は、学会の組織にあっては、学生部のグループ長のほかに、男子部の大ブロック長(現在の地区リーダー)も兼任するようになっていた。
 病に苦しんできたことが嘘のように、彼は元気に活動に励んだ。
 かつての岡島の様子を知る人は皆、彼が病苦を乗り越えたことを実感していた。見事な“蘇生”の実証であった。
 だが、教師となって五カ月が過ぎた九月、彼は突然の交通事故で、世を去ったのである。
 病院で息を引き取った岡島の顔は、安らかに眠っているようであった。
 大聖人は、妙法に生き抜いた臨終の生命について、「悦ばしい哉一仏二仏に非ず百仏二百仏に非ず千仏まで来迎し手を取り給はん事・歓喜の感涙押え難し」(御書一三三七ページ)と仰せである。
 人には、さまざまな宿業がある。しかし、いかなる罪業も、信心に励むならば、大苦を少苦として受け、今世で宿業を転換し、一生成仏することができる。それが真実の仏法の力である。
 岡島は、強盛なる信心をもって、今世で罪業を滅し切ったのだ。いや、そのための生涯であったといえよう。
 さらに大聖人は「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」(同七八八ページ)と言われている。
 生命は永遠である。
 広宣流布のために戦い抜き、歓喜と躍動のなかに人生の幕を閉じた生涯は、死後も、そして来世も、その生命は大歓喜のなかにある。
 荘厳な夕焼けが翌朝の好天を約束するように、「生も歓喜、死も歓喜」なのである。
 しかも、岡島の生き方は後世に青年の模範を残したのである。
 仏法の眼を開いて見る時、なんと意義深き、尊き生涯であったことか。
 伸一は、学生部長からの報告で、岡島の死を知った。志なかばで他界した青年教師の無念さを思うと、胸が締めつけられる気がした。
 だが、岡島の詳細な話を聞くと、今世の使命を果たし抜いて霊山へ旅立っていったと、強く確信することができた。
 「すばらしい青年だったね。残念だな……。
 しかし、仏法の原理に照らせば、彼はすぐに生まれてきて、共に広宣流布の庭で生きることができるよ」


前進 二十二

 山本伸一は、学生部長に言った。
 「岡島喬雄君の葬儀は学生部葬として、四国の学生部で執り行ってはどうだろうか。
 彼の広宣流布への決意を、みんなで共有し合っていくんだよ。そして、みんなが、彼の分まで生きて、生きて、生き抜いて、頑張っていくんだ」
 この提案を受け、岡島の自宅での葬儀に続いて、九月二十日には学生部葬が執り行われた。多くの友人・知人が参列し、彼の人徳をしのび、冥福を祈った。
 この学生部葬から半月後の十月五日、伸一は、四国を訪問し、香川県高松市内に完成した四国文化会館の開館式に出席したのである。
 その折、四国の学生部の中心となっている副学生部長の下井重直が学生部葬の報告をするとともに、岡島が広宣流布にかける心情を日記につづってきたことを語った。
 「実は、ご家族の承諾を得て、その日記をお借りし、読ませていただきました。こういう思いで頑張っていたのかと、心から感銘いたしました」
 下井は、日記帳を差し出した。
 伸一は、日記に目を通した。青年らしい一途な決意と、行動の軌跡がつづられていた。
 「もし、ご家族の承諾が得られれば、この日記を出版してはどうだろうか。岡島君の敢闘を、永遠に讃え、残してあげたいんだ。
 また、その本を通して後に続く青年たちが、触発を受け、頑張ってくれれば、岡島君もきっと喜ぶにちがいない……」
 また、完成したばかりのこの四国文化会館の庭に、岡島の功績を讃えるために植樹も提案し、自ら庭に出て、その場所も選定したのである。
 伸一は、さらに四国の幹部に、岡島の家族への伝言を託した。
 「お辛い気持ちは痛いほどわかりますが、ご家族の方が幸福になることが、喬雄君の厳然たる成仏の証です」
 伸一は、最愛の息子を亡くした両親の苦しみや悔しさを思うと、身を切られる思いであった。
 しかし、御聖訓には、「亡くなられた御子息が仏になられて、父母を仏道に導くために、御心に入り替わられているのであろうか」(御書一三九七ページ、通解)と、「親子一体」「生死不二」の成仏の法理が明かされている。



前進 二十三

 岡島喬雄の死から一カ月後に、四国文化会館で彼の名を冠した桜の植樹が、四国学生部の代表の手によって行われた。
 また、彼の日記や手紙をまとめた本も、翌一九七〇年(昭和四十五年)秋に出版された。
 本のタイトルは『友よ永遠に』である。
 この本は、まさに、岡島の生命の闘争記録であった。
 最後に採録された日記(一九六九年八月六日)には、次のように記されている。
 「戦うぞ! このか細き五体を大地に投げて。
 頑張るぞ! この身の大地に朽ち果てるまで。
 そして信じよう!
 東天に輝く、金色の太陽が中天に隆々と照る晴朗の日の来ることを」
 この本は、多くの青年たちの魂を揺さぶった。
 山本伸一も、贈られた『友よ永遠に』を涙で読んだ。
 そして、宝前に供え、現代に青年の生き方の模範を示し、尊き使命を果たして逝いた若き広宣流布の英雄の冥福を祈り、唱題するのであった。
 広宣流布に走り抜いた若き同志の死――。
 この死という問題について、第二代会長戸田城聖は述べている。
 「寿量品の自我偈には、『方便現涅槃』とあり、死は一つの方便であると説かれている。
 眠るということは、起きて活動するという人間本来の目的から見れば、単なる方便である。
 しかし、眠らないと疲労は取れないし、はつらつたる働きもできないのである」
 死もまた同様であると、戸田は断言する。
 人は、死を避けることはできない。しかし、生命は永遠であり、死は決して忌み嫌うものではない。死は生命の「眠り」であり、新しき生への出発となるのだ。
 
 ――岡島が他界してから、既に四年の歳月が過ぎていた。
 四国文化会館の玄関前に立った山本伸一は、妻の峯子と共に、室内の明かりに照らされた、二本の桜をじっと見つめ続けていた。
 岡島を顕彰する桜の隣にあるのは、四国女子部の中核として活躍し、心臓麻痺のために、六六年(同四十一年)二月、二十七歳で逝いた林山克子を顕彰する桜であった。


前進 二十四

 山本伸一は、広宣流布に走り抜いて亡くなった若き同志を顕彰する、二本の桜の木を眺めながら、最大の敬意をもって心で呼びかけた。
 “世界広布の本舞台である二十一世紀に、若々しい生命で活躍できるよう、早く生まれ変わって来るんだ。みんなが待っているよ。私も待っているからね”

 伸一は、この日、四国文化会館の館内をくまなく点検して回った。
 ――コンセント周りに埃などがたまっていないか。燃えやすい紙などが放置されていないか。電気はちゃんと消してあるか。水道の水が出しっぱなしになっていないか。戸締まりはなされているか……。
 事故をなくし、安全を確保することは、リーダーの義務である。
 火災や事故など、その原因は常に小さなことにある。
 大火といっても、最初は、ほんの小さな火から始まるのだ。
 「一瞬の不注意が、一生の幸福を破滅に陥れる」(注)とは、イギリスの登山家ウィンパーの警告である。
 事務所に運び込まれたばかりの荷物が置かれていた以外は、館内はよく整理整頓され、廊下や壁も、きれいに清掃されていた。
 管理者が、日々、丹念に清掃してくれているのであろう。また、会館の職員も、文化会館を美しく使おうと、奮闘してくれているにちがいない。
 伸一は、その努力を心から賞讃したかった。
 「ありがたいね。よく頑張ってくれている」
 彼は四階の和室に入ると、職員などに贈るために、色紙に励ましの言葉を次々としたためていった。さらに、会館にいた四国の幹部らと勤行し、懇談した。
 束の間の休息もない連続行動であった。伸一は片時も、時間を無駄にはしたくなかったのだ。
 時間は、誰にも等しく与えられている。要は、その時間を、瞬間瞬間、どう使っていくかによって、将来に大きな違いが生じるのである。
 流れなき水は澱み、回転なき車輪は錆びる。
 前進、前進、前進――そこに、希望燦たる未来が生まれる。
 青年よ、力の限り進め! 生命ある限り戦い抜くのだ! 未来は“今”にこそあるからだ。

引用文献
 注 『アルプス登攀記』浦松佐美太郎訳、岩波書店


前進 二十五

 青い海が光っていた。白い砂浜には、波が寄せ返し、松林の緑が、美しかった。
 十一月十三日、山本伸一は、同行していた妻の峯子と共に、四国文化会館から徳島県幹部総会に向かう途中、香川県の津田の松原に寄った。
 婦人雑誌から依頼があり、グラビアの撮影をするためであった。
 津田の松原は、一キロほど続く浜辺に、三千本の松が立ち並ぶ、白砂青松の名勝である。樹齢六百年という松もあった。
 同行の幹部らが車から出て、伸一と峯子の写真撮影が終わるのを待っていると、和服姿の老婦人が近づいてきた。
 「ちょっとお尋ねしますが、皆さんは、創価学会の方ですか」
 「はい、そうです」
 「やっぱり、そうでしたか……」
 こう語った時、彼女の背後から声が響いた。
 「こんにちは!」
 老婦人は振り返った。
 そこには伸一が立っていた。
 彼女は、声を震わせて言った。
 「もしや、もしや山本先生では!」
 「はい。山本でございます」
 「まあ!」
 老婦人は、驚きと喜びの入り交じった表情で、伸一に歩み寄ると、彼の手を両手で包み込んだ。その目に涙が光った。
 「お待ちしておりました。一度でいい、先生にお会いできるようにと、毎日、毎日、祈り続けておりました。
 お目にかかれて、こんなに嬉しいことはありません」
 彼女は大原シズという、七十二歳の婦人であった。
 彼女は、前年まで、この近くに住んでいたのである。
 前年の六月、伸一は、香川県と高知県のメンバーとの記念撮影のため、四国入りした。
 その折、津田の同志は“山本先生に、ぜひ津田の松原で、くつろいでいただきたい”と考えた。
 そして、伸一の来訪を願って懸命に唱題するとともに、松原の清掃作業に励んだのである。大原シズも、地域の同志と一緒に清掃に汗を流した。
 伸一が津田に来る予定はなかったが、来訪を想定して、自発的に清掃作業を行ったのである。
 メンバーは、“山本先生は必ず来られる”と確信していたのだ。


前進 二十六

 津田の同志にとって、山本会長を、津田の松原に迎えることは、かねてからの念願であり、決意であった。
 一九六五年(昭和四十年)に津田地区が結成をみた時、その結成大会で地区部長は、「この地に先生を迎えよう!」と呼びかけたのである。
 “そんな夢のようなことが、実現するわけがない……”
 多くのメンバーはそう思った。しかし、地区部長は真剣に訴え続けた。そして、“先生を津田の松原にお呼びしよう”というのが、皆の合言葉のようになっていった。
 それだけに、山本伸一を迎えて、香川県と高知県で記念撮影会が行われると聞いた津田の同志は、いよいよチャンス到来と思ったのである。
 「お忙しい先生も、この美しい松原をご覧になれば、きっと、心を和ませ、英気を養っていただけるにちがいない」
 同志の思いは一致し、日曜日ごとにゴミを拾うなど、清掃を始めたのである。
 しかし、伸一のもとには、その報告は伝わらなかった。結局、この時は、彼が津田の松原を訪問する機会はなく終わったのである。
 それでも大原シズは、“いつか先生は、きっとお寄りくださる”と思えてならなかった。
 彼女は、自分に信心を教えてくれた創価学会の、その会長である伸一に、心からお礼を言いたかった。
 ――かつてシズの夫は津田で網元として、多くの漁師を雇い、羽振りのよい生活をしていた。
 だが、一九五六年(昭和三十一年)四月、漁に出たサケマス漁船が遭難し、二十一人が死亡するという事故が起こった。そのなかには、シズの二人の息子もいた。
 愛息を二人同時に失った悲しみは、限りなく大きかった。
 また、一家の担い手でもあった二人の息子の死は、経済的にも大きな打撃であった。
 その後、かけていた保険金が横領されるなど、不幸が続き、家業は倒産のやむなきにいたった。
 さらに、蓄膿症の手術を受けた末娘が、その直後に亡くなってしまった。医療ミスとしか考えられない事故であった。
 シズは、手術を受けさせたことを悔い、泣き暮らした。彼女は運命を呪った。



前進 二十七

 大原シズは、九人いた子どものうち、三人を亡くしてしまった。
 しかも、借金返済に追われる毎日だった。彼女は、日ごとにやせ細っていった。
 やがてシズは、夫と共に、大阪にいる三男の豊太の家に住むことになった。
 豊太も、一九五六年(昭和三十一年)四月に遭難したサケマス漁船に乗っていたが、航海の途中でサンマ漁船に乗り換えることになり、九死に一生を得たのだ。
 彼は、実家が倒産したため、結婚を機に大阪に出て、小さな町工場で働いていた。生活は至って貧しかった。
 そのころ、職場の先輩から折伏を受けた。生活が楽になり、家族を幸せにできるものならと、六〇年(同三十五年)四月に入会したのである。
 豊太の妻の久代も、四カ月後に信心を始めた。
 豊太は寡黙な性格であり、自分の意見を言うことさえ、なかなかできなかった。だが、信心に励むようになると、日ごとに快活になっていった。
 彼は、自分でも生命力がわいてくるのを実感していた。
 また、久代は、持病の貧血で苦しんできたが、めまいが治まったことが初信の功徳であった。
 しばらくすると、豊太は父母を引き取った。四畳半と二畳の狭い二間で、自分たち夫婦と娘、両親の、五人での暮らしが始まったのである。
 彼は、母親のシズに言った。
 「母ちゃん、狭くて、ごめんな」
 母は、力なく笑いを浮かべた。
 「でも、借金取りはこんけん、安心して眠れるだけでもありがたいよ」
 これまで、母が、どんな生活をしてきたのかと思うと、豊太は胸が詰まった。
 彼は、両親に仏法の話をし、誤った宗教が不幸の原因であることを、諄々と語っていった。
 じっと耳を傾けていた両親は、素直に入会を決意した。
 シズは、座談会にも参加した。
 ある日、彼女は嫁の久代に聞いた。
 「なんでみんな、悩みがあるのに、あんなに明るいんやろうね」
 「それは、絶対に幸せになれるという確信があるからよ」
 その日から、シズは猛然と題目を唱え始めた。


前進 二十八

 大阪に来たころ、大原シズは、決して上を向いて歩くことはなかった。
 いつも下を向いて歩き、何かに怯えたように暗い目をしていた。
 そのシズが、次第に明るくなり、喜々として頭を上げ、胸を張り、学会活動に励むようになったのだ。
 また、同居している三男の豊太と妻の久代は、班長、班担当員として、活躍するようになっていった。
 そして、会長の山本伸一が関西に来た折の幹部会などには、喜び勇んで出席し、帰宅すると、目を輝かせて、その感動を語るのである。
 シズは、息子夫婦ばかりが、山本会長が出席した会合に参加し、自分が会長と会えぬことが不満であった。ある時、彼女は、息子夫婦に言った。
 「どうして、あんたらだけ、山本先生にお会いできて、私は会えないのかね」
 久代は笑顔で答えた。
 「大丈夫よ、おばあちゃん。題目あげたら、必ず、お会いできるよ」
 そう言われると、返す言葉がなかった。
 “よし、必ず身近で山本先生とお会いし、息子夫婦をうらやましがらせてみせる!”
 以来、シズは、真剣に唱題を重ねた。
 伸一に会いたいという一心で始めた唱題であったが、題目の力は、シズの予想をはるかに超えていた。
 苦にしていた借金が一つ一つ解決し、数年したころには、一切の借金のかたがついた。
 御聖訓には「題目計りを唱うる福計るべからず」(御書九四二ページ)と仰せである。
 大阪で七年間暮らした彼女は、一九六八年(昭和四十三年)に四国に戻り、再び津田の地で暮らし始めた。
 津田の同志は“山本先生を迎えよう”と真剣に願っていた。シズも同じ思いであった。
 そして、七二年(同四十七年)には、津田の松原の清掃をし、皆で伸一を待っていたのである。
 シズは、その後、高松の息子の家に転居し、津田には娘が住んでいた。
 この七三年(同四十八年)の十一月十三日、彼女は娘の家を訪ねた。
 伸一が出席して徳島県幹部総会が行われることを、聖教新聞で知った彼女は、伸一は津田を通るのではないかと思ったのである。


前進 二十九

 大原シズは、“山本先生は、きっと国道を通って、徳島に向かわれるにちがいない”と思った。
 しかし、何時ごろに通るのかは、全く見当がつかなかった。
 地元の幹部なら知っているかもしれないと考え、総ブロック長をはじめ、幹部の家を回った。
 ところが、皆、留守であった。
 “先生は、もう通られてしまったのだろうか”
 彼女は、しばらく国道に出て立っていた。
 時刻は、午後三時を過ぎていた。
 シズは、途方に暮れながら歩き始めた。足は自然に、津田の松原に向かっていた。
 松林に立ったシズは、去年、皆で「先生に、ここに来て休んでいただきたいね」と語り合いながら、楽しく清掃した時のことが思い返されてならなかった。
 潮風に吹かれながら、シズは思った。
 “そうだ、ちょうど、この辺りを、私たちが掃除したのだ。
 先生は来られなかったが、この一年、私は、いつも先生と一緒にいたような気がする……”
 感慨にふけりながら、彼方に視線を向けた。そこに、何台かの車と数人の人影があった。
 皆、スーツ姿であり、学会の幹部のように感じられた。
 彼女は、車に向かって歩いていった。
 ――そして、山本伸一との出会いとなったのである。
 仏法に偶然はない。
 格言にも「一念、岩をも通す」とある。彼女の一念の勝利であり、祈りの勝利であった。
 日蓮大聖人は「あひかまへて御信心を出し此の御本尊に祈念せしめ給へ、何事か成就せざるべき」(御書一一二四ページ)と仰せである。
 シズは、夢ではないかと、わが目、わが耳を疑いながら、伸一の手をギュッと握り締めて、語るのであった。
 「今日は、先生にお会いでき、人生最良の日となりました。
 私は、学会によって仏法を知り、先生の指導通りに信心に励み、借金地獄から抜け出せました。たくさんの功徳もいただきました。
 先生に、お礼が言いたくて……」
 こう語るシズの目から幾筋もの涙があふれた。


前進 三十

 山本伸一は、感涙にむせぶ大原シズに言った。
 「お会いできて、私も嬉しい。お年はお幾つですか」
 「七十二歳です」
 「お子さん、お孫さんはいらっしゃいますか」
 「子どもを三人亡くしましたが、残った子どもたちは元気に頑張っております。それに孫も元気です。
 先生、私は幸せです。すべて学会のおかげです。先生のおかげです」
 伸一は微笑んだ。
 「それなら安心です。勝利の人生ですね」
 「はい。先生ともお会いできましたし、もうこれで、思い残すことはありません」
 その言葉を聞くと、彼は、なだめるような口調で語った。
 「そんなことを言ってはいけません。人生は、まだまだ長い。うんと長生きしてください。もっと、もっと、幸せになるんです。
 お正月には、まだ早いが、今日はめでたい日になりましたので、お年玉を差し上げましょう。
 今世では、あなたは、私よりもお年を召しておられますが、三世の生命のうえからみれば、私の方が年長の時もあったかもしれない。また、仏法では、私が師ですから」
 伸一は、こう言って、大原に、お年玉とお菓子を渡した。
 別れ際、彼はシズの手を握って言った。
 「では、またお会いしましょう。何度も、何度も、お会いしましょう。
 いつまでも、いついつまでもお元気で!」
 伸一も、妻の峯子も、車の中から、シズの姿が見えなくなるまで、手を振り続けた。
 シズは、いつまでも、喜びの涙が止まらなかった。
 それから、三日後、シズのもとに、伸一から特製の経本が届けられた。
 彼女はまた、伸一の真心に涙するのであった。
 その二日後の十八日、教学の昇格試験(中級)が行われた。七十二歳のシズも、喜々として受験した。
 そして、見事に合格するのである。
 彼女は、伸一に手紙を出した。
 そこには、経本の御礼と新たな決意とともに、次の一句がしたためられていた。

 美しや
  仏の道の
   師匠かな


前進 四十一

 坂田益男は、病室にあって、小声で懸命に題目を唱え続けた。
 “絶対に社会復帰をして、みんなに恩返しをするんだ!”
 彼の祈りは、驚異的な回復力をもたらし、二カ月半で退院することができた。医師が「見立て違いをした」と言うほどであった。
 退院してみると、勤めていた自動車部品の製造・販売の会社に、坂田の居場所はなくなっていた。結局、会社を辞めざるをえなかった。
 だが、唱題の力を実感していた坂田は、もはや狼狽することはなかった。かえって、不思議に闘志がわいてくるのだ。
 “それなら、自分で自動車部品を扱う仕事を始めよう”と思った。
 フロアに机と電話が幾つも置かれた「貸し机」の一つが、彼の“事務所”であった。
 朝から夕方まで営業に回り、夜は、どんなに忙しくても学会活動に出るようにした。
 彼には“俺は御本尊によって、同志の題目によって、命を救われた。一度は死んだ人間だ。ならば、自分の人生は広宣流布に捧げよう”との強い思いがあったのである。
 自動車部品の製造は、近所の町工場を借りたり、立体交差する道路の下を使って行った。
 作業にかかれるのは夜中である。納期が近づくと、徹夜になることもあった。
 医師からは、絶対に夜更かしはしないように、強く言われていた。
 また、足を棒のようにして歩いても、注文が取れない日も多かった。泣きたい思いだった。
 しかし、坂田は笑顔を絶やさなかった。
 “不景気な顔をしていては、顧客は元気が出ない。会うと明るくなると言われるような営業をしよう”と、心に決めていたのである。
 彼の祈りの根本は、常に広宣流布であった。
 “仏法の力を証明するために、仕事に勝たせてください!”と祈った。
 また、顧客が繁栄し、幸せになれるようにと、題目を送り、依頼のあった仕事は、難しい注文もすべて引き受けた。
 彼のそうした姿勢は、次第に、顧客から高く評価されていった。
 「坂田さんなら、必ずやってくれる」
 信頼とは、誠実を積み上げてつくる、黄金の城壁である。


前進 四十二

 坂田益男は、自動車の部品だけでなく、建設機械の部品製造など、なんでも引き受けた。毎日が挑戦であった。
 それが新たな分野の開拓につながり、時代に取り残されることなく、業績を伸ばす力となった。
 時代も技術も、変化、変化の連続である。変化を恐れ、新しき挑戦を忘れれば、人も、会社も滅びてしまう。
 後年、山本伸一が対談したアメリカの大経済学者サロー博士は、実業家として最も重要な問題の一つは「自分自身を作り変え続けることができるか、ということである」(注)と述べている。
 また、坂田が最も心していたのは、いかに自分を律するかであった。
 自営業というのは、ともすれば、金銭の管理も杜撰になり、どんぶり勘定になりやすい面がある。また、ついつい自分を甘やかしてしまいがちである。
 実は、事業の行き詰まりの背景には、その甘さが必ずあるものだ。
 坂田には、一つの夢があった。それは、地域の同志が、遠慮なく使える会場をつくりたいということであった。そのために、なんとしても事業を軌道に乗せたかった。
 事業を始めて三年ほどしたころ、彼は古い店舗を購入した。一階を事務所にし、住まいである二階を会場に提供した。
 会場といっても広さは八畳で、二十人も入ればいっぱいであった。
 “仕事で実証を示し、広々とした立派な個人会館をつくりたい”
 彼は、そう念願しながら、仕事に、活動に励んでいったのである。
 坂田の会社の年商は、堅実な経営によって順調に伸びていった。
 また、「オイルショック」にも、ほとんど影響を受けずに乗り切れる基盤がつくられていた。
 日蓮大聖人は、「仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり」(御書九九二ページ)と仰せである。
 事業の成功も、根本はどこまでも信心である。
 坂田は、そのことを実感していた。それだけに「広宣流布の使命を断じて忘れるな」という、伸一の指導が、深く胸に響いたのである。
 後のことになるが、彼は一九八一年(昭和五十六年)に、四階建てのビルを購入し、二階を個人会館としている。三十数畳の立派な会場である。

引用文献
 注 サロー著『経済探検 未来への指針』島津友美子訳、たちばな出版


前進 四十三

 「不況に負けるな! 今こそ信心で勝て!」
 山本伸一は、社会の荒波にもまれ、格闘する同志たちに、こう呼びかけながら、師走に入っても激励に走り抜いた。
 十二月一日は、東京の中央区幹部大会に、十一日は墨田区幹部大会に、十二日には台東区幹部大会に出席している。会場は、いずれも信濃町の創価文化会館である。
 東京証券取引所のある兜町や繁華街の銀座などを擁する中央区は、日本経済の中心地であり、景気の変動に最も敏感な地域でもあった。
 また、東京の下町を代表する墨田、台東は、商店や町工場などで働く人や自営業者が多く、不況の影響を最も受けやすかった。
 台東区の幹部大会に参加した壮年のあるブロック長は、義兄の経営する運送店に勤めていたが、「オイルショック」で、仕事が激減したことから、アルバイトをして生計を立てていた。
 そのなかでも、青年たちを大事にし、住まいを活動の拠点として提供していた。
 そして、生活費を切りつめては、青年たちのために、味噌汁やオニギリなどを用意しておくのであった。
 彼の家は、毎晩、折伏の法戦場となり、青年たちの希望に満ちた語らいが弾んでいたのである。
 “変毒為薬の信心だ。このピンチを飛躍のチャンスに変えよう!”
 それが同志たちの決意でもあった。
 伸一には、そうしたメンバーの健気な努力と活躍について、数多くの報告が入っていた。
 不況は、今後、ますます激しくなり、日本経済は大きな試練にさらされることが予測された。
 それは、人びとの暮らしをさらに圧迫するであろうことは間違いなかった。
 しかし、伸一は、わが同志の、はつらつたる姿から、学会員が元気であるかぎり、社会は、そして民衆は、決して活力を失うことはないと確信していた。
 同志の、何があっても挫けぬ生命力の強さは、信仰から発する智慧は、人を思いやる慈悲の心は、社会にあって燦然と光り輝くにちがいない。
 「逆境にあってこそ、英雄は真価を見せるのだ」(注)とは、ナチスと戦った教育者コルチャックの叫びである。

引用文献
 注 ベティ・ジーン・リフトン著『子どもたちの王様 コルチャック物語』武田尚子訳、サイマル出版会


前進 四十四

 赤レンガづくりの半円形の壁が青空に映え、市中をパレードする音楽隊、鼓笛隊の奏でる調べが、辺りに響き渡っていた。
 一九七三年(昭和四十八年)の掉尾を飾って、第三十六回となる本部総会が、十二月十六日、大阪・中之島の大阪市中央公会堂で、晴れやかに開催されたのである。
 本部総会といえば、会場は日大講堂など、東京と決まっており、東京以外の地で開催されるのは初めてのことであった。
 「広布第二章」とは、それぞれの地方が特色を生かし、広宣流布の責任を果たしていく時代であるというのが、山本伸一の構想であった。
 したがって、必ずしも東京中心である必要はないし、また、本部総会の場所も、東京に限る必要はないと、伸一は柔軟に考えていたのである。また、彼の関西に寄せる思いは、格別に深いものがあった。
 そして、伸一の提案をもとに、学会として検討し、この年の本部総会の開催地を、広宣流布の模範の大伸展を見せる関西としたのである。
 大阪は、商業の街であり、人間の温もりに満ちた庶民性がある。
 伸一は、この本部総会の講演で、未来を展望し、高らかに宣言した。
 「私どもは、明一九七四年(同四十九年)を『社会の年』と決めましたが、現下の社会情勢はまことに激動の様相を呈しております。
 それは、『物質至上主義』『経済至上主義』という信仰にかわって、いやでも私どもが訴えてきた『人間至上主義』『生命至上主義』へと進まざるをえない状況になってきていることを示すものであります。
 すなわち『社会の年』は、人間こそ原点であるという方向性を、社会に打ち立てる年といえるのであります」
 ここで伸一は、石油危機に始まった世界的な経済不況に触れ、世界のなかでも深刻な打撃を受けるのは、資源の大部分を輸入している日本であることを述べた。
 そして、その煽りをもろに受けるのは中小・零細企業であり、庶民が最も苦しまなければならないことを、強い語調で指摘した。
 彼は、庶民を平気で犠牲にする、経済、政治の在り方に、憤りを感じていたのである。


前進 四十五

 山本伸一は、悪徳商社による買い占め、異常な物価上昇、中小企業の倒産、経済苦による一家心中などをあげ、日本社会は完全に行き詰まりの様相を呈していることを語った。
 そして、この混乱は、経済の繁栄にのみ心を向け、他の一切を切り捨ててきたことにあると、その要因に迫り、事態を打開する方途に言及していった。
 「今こそ日本は、“人間とは何か”“人間いかに生きるべきか”“世界の人びとに対して日本は何をなしうるか”といった基本的な問題から問い直して、進むべき道を切り開いていかなければならない」
 さらに、日本をかくも混迷させ、エゴの衝突の坩堝と化した社会をつくり上げてしまった元凶は、生命の一念の狂いにあることを指摘。指導者をはじめ、人間一人ひとりの一念の転換の必要性を、声を大にして訴えたのである。
 フランスの文豪ロマン・ロランは叫んだ。
 「最大の悪は自己更新への怠惰である」(注)
 まさしく人間自身の一念を変革せずしては、時代の建設はない。生命の魔性を断ずる、仏法による人間革命なくしては、社会の繁栄はありえないのだ。
 伸一は言葉をついだ。
 「日蓮大聖人は、かの『立正安国論』で、『国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る』(御書一九ページ)との経文を引かれ、社会の混乱の原因を論じられています。この文は、現代社会の本質を見事に突いております。
 ここでいう『鬼神』とは悪鬼であり、『鬼とは命を奪う者にして奪功徳者と云うなり』(同七四九ページ)とあるように、生命自体を破壊し、福運を奪う、『人間の内なる作用』であります。
 現代的に表現すれば、『生命の魔性』の意味であり、人間が完全にエゴにとらわれ切っていく、その本質を『鬼神』と表現したと思われる。
 この人間のもつ生命の魔性の跳梁が、『鬼神乱る』ということになるのであります」
 社会の混乱の根底に何があるのかを、生命の法理のうえから明らかにする伸一の講演に、参加者は目から鱗の落ちる思いがしてならなかった。

引用文献
 注 「先駆者たち」(『ロマン・ロラン全集18』所収)山口三夫訳、みすず書房


前進 四十六

 山本伸一の声に、さらに力がこもっていった。
 「最初の『国土乱れん時は』(御書一九ページ)の『国土』とは、自然環境的な面とともに、『社会』という意味をもっております。
 自然と人間とを含めた総体としての『国土』であり、その国土が乱れる時には、それ以前に、必ず人間のエゴ、いな、エゴよりもっと本質的な生命のもつ魔性が、底流として激しく揺れ動くのであります。
 その結果、『万民』すなわち、あらゆる人びとが狂乱の巷へと進み、やがて、その国土、社会は、破滅の方向へと走っていく。
 ゆえに、この『鬼神乱る』という生命の本質を解決する法をもたない限り、社会の乱れを解決することはできない。
 ゆえに、仏法という生命の大哲理を流布する、私ども創価学会の使命はあまりにも大きい。
 今こそ、広宣流布の新しき潮流をもって、社会を潤す時代がきたことを、私は宣言しておきたいのであります」
 怒濤を思わせる大拍手が公会堂にこだました。
 この日集った人びとも不況の波を被り、皆、暮らしは逼迫しつつあった。しかし、使命を自覚した同志は燃えていた。
 “だからこそ、私たちがいるのだ。私たちの手で、人間主義の時代を、生命の讃歌の時代を開くのだ。さあ、折伏だ、前進だ!”
 “今こそ、不況に負けない努力を重ね、見事な信心の実証を示そう!”
 皆、こう思うと、勇気がわき、力がみなぎり、境涯が大きく開かれていくのを感じた。
 生きる限り、苦悩はある。しかし、だから不幸なのではない。その苦悩に縛られ、心が閉塞し、希望を、勇気を、前進の心意気を失ってしまうがゆえに不幸なのだ。
 広宣流布の使命に生きるならば、わが心は洋々と開かれ、胸中に歓喜の太陽が昇る。
 太陽に照らされれば、苦悩の闇は瞬時に消え去り、障害さえも新しき明日への飛躍台となるのである。
 ペスタロッチは力強く訴えた。
 「金は熱火に焼け失せることはなく、否、それは燃え上る炎の中にあってこそ精煉されるのである」(注)

引用文献
 注 「学園講演集」(『ペスタロッチ全集第三巻』所収)四本忠俊訳、玉川大学出版部


前進 四十七 

 この本部総会で山本伸一は、世界広布の新たな展開にも言及した。
 彼はまず、各国のメンバーの連携を深め、協力し合っていくために、この五月に「ヨーロッパ会議」が、八月には「パン・アメリカン連盟」が、また、十二月の十三日に「東南アジア仏教者文化会議」が結成されたことを伝えた。
 そして、さらに海外メンバーの交流を図り、世界平和を本格的に推進していくために、「国際センター」の設置を発表したのである。
 この「国際センター」は独自の法人とし、海外のメンバーとの連絡、指導スタッフの派遣、出版活動や各種活動の支援などにあたるもので、既に建物も、東京・千駄ケ谷に建設中であった。
 伸一は、設置の意義について語っていった。
 「世界各地の活動の進展状況は、国、地域によって千差万別であり、仏法を受け入れる機根も、国柄や民族性などによって多様であります。
 したがって、海外の仏法流布は一様に考えるのではなく、あくまでもその国や地域の人びとの自主性と情熱、責任感によって進められるべきものであります。
 ゆえに、『国際センター』の基本的性格も、各国の現地の主体性を尊重し、これを根本としたうえで、全力で支援し、守るということに重点を置くことになります」
 ここで伸一は、参加者に呼びかけた。
 「いよいよ舞台は世界です。私も戦います。
 その意味から明年は、世界各地に出かけていって、同志を激励してさしあげたいと考えておりますが、日本の皆さん、よろしいでしょうか」
 皆、大拍手で応えた。
 「では、留守中はよろしくお願いしますよ。
 日蓮大聖人の仏法は、世界の仏法です。私どもは世界的視野に立ち、同じ創価家族であるという“開かれた心をもつ国際人”であります。
 人類の幸福と、真実の人間共和をめざして、意気揚々と前進していこうではありませんか!」
 またしても拍手の嵐に包まれた。
 伸一の心は、戦争、経済の混乱等々、世界を覆う暗雲を見すえていた。
 彼は英知の翼を広げ、平和の大空に飛翔する瞬間を、満を持して待っていたのである。
 (この章終わり)