本陣 一
すべてが新生の輝きに満ちていた。希望は、美しき青空となって広がっていた。
学会が「教学の年」と定めた一九七三年(昭和四十八年)が明けた。
正本堂の建立という大目標を達成し、「広布第二章」に入って、初めて迎える新春であった。
元朝、山本伸一は自宅で家族と共に勤行を終えると、戸田城聖が逝去の年(昭和三十三年)の年頭に発表した歌を思い起こしながら、決意を新たにした。
今年こそ
今年こそとて
七歳を
過して集う
二百万の民
――戸田は、一九五一年(昭和二十六年)五月三日、第二代会長就任式の席で、会員七十五万世帯の達成を宣言した。電撃的な発表であった。
話を聴いた誰もが“不可能だ!”“現実離れした目標だ”と思った。
だが、この時、伸一は深く、強く心に誓った。
“これは、まぎれもなく、戸田先生の出世の本懐だ。ならば、この七十五万世帯の達成は、弟子たる私が、絶対に成し遂げねばならぬ仕事であり、使命だ。わが青春の道は決まった……”
師と弟子の胸には、赤々と闘魂が燃え盛っていた。来る日も来る日も、生命をなげうつ覚悟で、捨て身の大闘争が展開されたのだ。
その情熱の炎は、やがて、全同志に燃え広がり、燎原の火のごとく日本列島を包んだ。
そして、遂に一九五七年(昭和三十二年)の十二月、七年目にして願業を成就したのだ。
七十五万世帯、二百万人の同志が、創価の旗のもとに集ったのである。それは、現代の奇跡ともいうべき快挙であった。
戸田は、年が明けた元旦の和歌に、その大願を成就した戦いの要諦をうたい残したのだ。
それが「今年こそ」の一念である。来年も、再来年もあるから、なんとかなるだろうなどという惰性的な発想は、草創の同志には全くなかった。
“今年しかない”“今年こそ天王山だ”と、「臨終只今」の決意で走り抜いたのである。
日々、真剣勝負であった。阿修羅のごとく戦いに戦った。それゆえに、広宣流布の堅固な礎が完成したのだ。
本陣 二
「広布第二章」とは、仏法を基調とした本格的な社会建設の時代の開幕であり、「新しき開拓」を意味する。
開拓とは、新たなる挑戦であり、死闘によってのみ切り開くことができる茨の道である。
これまでと同じ考えで同じ行動をしていたのでは、開拓など、できようはずがない。
それは既に惰性であり、戦わずして敗れていることになる。
何事も始めが肝心である。今、いかに第一歩を踏み出すかで、十年先、五十年先の勝敗が決定づけられてしまうのだ。
それだけに山本伸一は、まず自分が、あの戸田城聖の和歌に示された、「今年こそ」との決意に立ち返り、再び、勇猛果敢な大闘争を開始しようと誓ったのである。
元日の午前、学会本部での新年勤行会に出席した伸一は訴えた。
「『広布第二章』の本格的なスタートとなった本年を、私どもは『教学の年』としました。
なぜか――。
『広布第二章』とは、生命の尊厳や慈悲など、仏法の哲理を根底とした社会建設の時代です。
言い換えれば、創価学会に脈打つ仏法の叡知を社会に開き、人類の共有財産としていく時代の到来ともいえます。
そのためには、原点に立ち返って、社会を建設し、文化を創造していく源泉である、仏法という理念を、徹底して掘り下げ、再構築していかなくてはならない。
ゆえに、本年を『教学の年』としたんです。
大聖人は『行学の二道をはげみ候べし、行学た(絶)へなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ』(御書一三六一ページ)と仰せです。
行学の『行』とは、広宣流布を推進していく実践です。『学』とは仏法哲理の研鑽であり、理念の深化です。
この二つは車の両輪の関係にある。
新しき発展のためには、教学の研鑽に励み、仏法の理念を究めていくことが不可欠になる。その大生命哲学運動の起点が本年であります。
教学という理念がない実践は、社会の人びとを納得、共感させる説得力をもちえず、自己満足に終わってしまう。
また、実践のともなわない教学は、観念の遊戯であり、現実社会を変革する力とはなりません」
本陣 三
創価学会が広宣流布の世界的な広がりを可能にしたのは、どこまでも御書を根本とし、確固たる理念をもち、正しき軌道を決して違えることがなかったからである。
山本伸一は、その仏法の哲理を時代精神にしていくために、自ら先頭に立って教学の深化を図るとともに、広く社会に展開していく決意を固めていたのだ。
既に伸一は、『大白蓮華』の昨年の十月号から、教学部の首脳と、てい談「生命論」の連載を開始していた。
“生命”を正しくとらえることこそ、公害や人間不在の政治、教育の混迷など、現代社会の闇を破り、人間の尊厳を守る社会を実現する要諦となるからだ。
また、前年十一月の本部総会では、「仏教大学講座」の創設を発表していた。
核兵器の脅威をはじめ、人類の滅亡の危機が叫ばれる今こそ、恒久平和の実現のために、人間精神の復興運動を起こさねばならないと、彼は痛感していたのだ。
伸一は、新年勤行会では、教学研鑽の目的は広宣流布であり、自身の人間革命にあることを述べ、この一年の勝利を呼びかけた。
「勝負の大半は、スタートで決まってしまう。
私は、万代の繁栄のために、新たな心で、もう一度、一から学会の堅固な礎を築いていきます。命をかけて戦います。
どうか、皆さんも、この一年、それぞれがなんらかの形で、進歩したと言える“進歩の一年”にしていただきたい」
深い決意を感じさせる言葉であった。
彼は、会場の前方に座っていた少年少女を見ると、声をかけた。
「お正月だから、君たちが歌を歌ってよ」
拍手が起こった。
二十人ほどの少年少女が前に出て、「春が来た」を歌った。
しかし、緊張したためか、声が小さかった。
「か細い声だね。もう一回、大きな声で!」
伸一が言うと、今度は皆、元気いっぱいの合唱となった。なかには突拍子もなく大きな声を張り上げる子もいた。
「ありがとう。やればできるじゃないか」
すると、一人の男の子が言った。
「さっきは、最初だから上がっちゃったの」
爆笑が起こった。
本陣 四
山本伸一は、後継の子どもたちが、伸び伸びと育っていることが嬉しかった。
伸一は、前列の壮年に声をかけた。子どもたちの合唱に、盛んに拍手を送っていた人である。
「大応援、ご苦労様です。あなたには、私が撮った月の写真を差し上げましょう」
子どもたちの一人から声があがった。
「あっ、いいな。そんなのもらっちゃって!」
それを、聞いた伸一が言った。
「君も、ほしいの?」
「ほしいに決まってるじゃない!」
すると、ほかの子も、「ほしい」「ほしい」と言いだした。また、場内に笑いの渦が広がった。
「わかった。じゃあ、みんなにあげるよ」
伸一の言葉に、無邪気な歓声があがった。楽しく、和気あいあいとした新年勤行会となった。
宗教的権威で粉飾された儀式とは全く異なる、人間の温もりがあふれた集いであった。そこに、創価学会の実像がある。
アメリカの哲人エマソンは叫んでいる。
「権威に立つ信仰は信仰ではない。権威への依存は宗教の堕落、精神の衰退を測る尺度である」(注)
伸一は、このあと、創価文化会館のホールで行われた元旦祭に臨み、夕方からは、学会の各部部長会に出席した。
彼はここでは、男子部など、青年部各部に焦点を合わせ、活動について協議していった。
実は、この一九七三年(昭和四十八年)は、「教学の年」であるとともに、別名「青年の年」とされていたのである。
これは「広布第二章」の担い手は、まぎれもなく青年であることから、青年の新出発の年とすべく、伸一が提案し、決定したものであった。
この部長会の席上、男子部長の野村勇が、伸一に質問した。
彼は、伸一が京大生を対象に行った「百六箇抄」講義の受講生であり、大学卒業後、本部の職員となり、前年十二月に男子部長の任命を受けたのである。
「『広布第二章』を迎えて、学会は社会に開かれた多角的な運動を展開していくことになりますが、その際、心すべきことはなんでしょうか」
伸一は即座に答えた。
「師弟の道を歩めということです」
引用文献
注 「神」(『エマソン選集2』所収)、入江勇起男訳、日本教文社
本陣 五
「師弟の道を歩め」――との山本伸一の答えに、野村勇は、意外な思いがした。
彼は、社会に開かれた運動を展開していくのだから、社会的に優れた多彩な人材を育成していくことではないかと、考えていたのだ。
野村が一瞬、不可解な顔をしたのを、伸一は見逃さなかった。
「君は、なぜ『師弟の道』なのか、疑問に思っているのだろう。
それは、遠心力と求心力の関係だよ」
伸一は、穏やかだが、力のこもった声で語り始めた。
「仏法を社会に大きく開いた運動を展開するというのは、これは円運動でいえば遠心力だ。その遠心力が強くなればなるほど、仏法への強い求心力が必要になる。
この求心力の中心こそが、師弟不二の精神だ。
近年、青年部員には、社会で勝利の実証を示そうとの気概があふれ、社会貢献への意識も次第に高まってきている。
これは、すばらしいことです。しかし、広宣流布という根本目的を忘れれば、社会的な栄誉栄達や立身出世に流され、信心の世界を軽視することにもなりかねない。
また、世間的な地位や立場で人を見て、庶民を蔑視するようになってしまえば本末転倒です。
真実の人間の道、仏法の道を歩み抜いていくために、師弟の道が必要なんです。
ところが現代人は、師弟というと、何か封建的な、古めかしいもののように思う傾向がある」
野村は頷いた。
「実は、そこに現代の不幸があるといえる。
学問でも、武道でも、あるいは芸の道でも、何かを学び、究めようとするならば、必ず師匠、指導者が必要です。
ましてや人生の真実の価値を教え、人間の生き方を説く仏法を学ぶには、師匠の存在は不可欠です。師匠がいないということは、生き方の具体的な規範がないということなんです」
仏法の師弟関係というのは、弟子を教化しようという仏陀である釈尊の慈悲と、法を会得しようとする弟子の求道の心から始まっている。
つまり、弟子の自発的な意志があってこそ成り立つ魂の結合といえる。
それは、大聖人と日興上人の関係を見ても明らかである。
本陣 六
山本伸一は、さらに、仏法の師弟と、かつての主従関係や徒弟制度との違いに言及していった。
「主君と臣下、徒弟制度での師匠や弟子の関係は、身分的な上下関係でした。
そして、臣下や弟子は、主君や師匠に仕えて、忠誠を尽くすことを強いられてきた。
しかし、本来の仏法の師弟は、社会的な身分の上下ではない。出家という言葉からも明らかなように、世間を出て、世俗の身分などを超えたところから始まっている」
また、伸一は、仏法で師への随順を説いている理由を語っていった。
「法の正しい修得がなされなければ、仏道修行の成就はないからです。
たとえば車の運転を習うにも、教官の指導に従い、交通規則やハンドルの操作など、一つ一つ身につけていかなければならない。自分勝手に車を操作したら、待っているのは悲惨な事故です。
ましてや仏法には、自身の一生成仏がかかっている。いや、全世界の人びとの、幸福がかかっている。
その仏法への理解が浅かったり、間違っていれば、自他ともの幸福の道を閉ざしてしまうことになる。
だから、弟子を思うからこそ、師は厳しい。時には厳愛の指導もある。でも、師匠に随順していくことが大事なんです。
もちろん、人間としては対等であり、師は、慈悲をもって弟子を包もうとするものです。
四条金吾へのお手紙には、弟子を思う日蓮大聖人の御心が、いかに深く、温かいものであるかが、明確に表れています」
彼は御書を開くと、朗々と拝読し始めた。
「『返す返す今に忘れぬ事は頸切れんとせし時殿はとも(供)して馬の口に付きて・な(泣)きかな(悲)しみ給いしをば・いかなる世にか忘れなん』(御書一一七三ページ)
当時、四条金吾は、大変な苦難と戦い、勝ち越えようとしていた。
大聖人は、その四条金吾が、六年前の文永八年(一二七一年)九月十二日の夜、竜の口の法難で馬に乗せられて処刑場に向かう御自分の供をし、馬の口に取りすがって泣き悲しんだことを、永遠に忘れませんと言われている。
いざという時の弟子の真心を最大に賞讃され、励まされているんです」
語句の解説
◎四条金吾/
一二三〇年頃〜一三〇〇年。大聖人門下の武士。鎌倉の在家の中心として活躍し、外護に努めた。
引用の御文は「崇峻天皇御書」で、建治三年(一二七七年)の御述作。四条金吾は、主君の江間氏を折伏したことで不興をかい、同僚の讒言もあって、厳しい迫害を受けた。しかし、大聖人の指南通りに戦い抜いた金吾は、当時、ようやく苦境を乗り越え、再び主君の信頼を勝ち取ろうとしていた。
本陣 七
青年たちは、身を乗り出すようにして、山本伸一の講義に耳を澄ましていた。
「大聖人は、続いて四条金吾に、こう断言されている。
『たとえ、殿の罪が深く地獄に堕ちたならば、日蓮はどんなに釈迦仏から“仏になれ”と誘われても、従うことはありません。あなたと同じく私も地獄に入りましょう。
日蓮と殿とが共に地獄に入るならば、釈迦仏も法華経も地獄にこそおられるにちがいない』(御書一一七三ページ、通解)
なんと温かい、大聖人の御心か。
ここには、弟子のために、すべてを捧げ、断じて護り抜こうとされる師匠の大慈大悲がある。この真心と真心の絆が、広宣流布をめざすこの魂と魂の結合が、日蓮仏法の師弟なんです」
語るにつれて、伸一の言葉に、ますます熱がこもっていった。
「大聖人は、『華果成就御書』では、こうも仰せになっている。
『よき弟子をもつときんば師弟・仏果にいたり・あしき弟子をたくはひぬれば師弟・地獄にをつといへり、師弟相違せばなに事も成べからず』(同九〇〇ページ)
師匠と弟子の心が違っていれば、何事も成就できない。最後は弟子で決まってしまうんです。
創価学会のこれまでの大発展は、師弟不二の、金剛不壊の団結によって勝ち得たものです。
広宣流布に生きる、師弟の使命を深く自覚するならば、恐れるものなど何もありません」
伸一は、青年部には真正の弟子として立ち上がってほしかった。そこに第二章を迎えた広宣流布の、未来の一切がかかっているからである。
彼は青年たちに、鋭い視線を注いで言った。
「大聖人が『師弟の本迹倶に皆久遠なり』(同六八九ページ)と、法華文句の文を引いて御教示されているように、仏法の師弟の絆は限りなく深く、強い。
それを、教えてくださったのが戸田先生です。
先生は、牧口先生を師と定めて随順し、師弟不二の道を歩まれた。そして、戦時中は軍部政府の弾圧によって、牧口先生と共に逮捕され、投獄された。
ほかにも多くの弟子たちが逮捕されたが、臆病にも退転していった。違背です。裏切りです」
本陣 八
師弟を語る山本伸一の話に、青年たちは襟を正して、緊張した顔で耳を澄ましていた。
「戦時中、弾圧を受けて、逮捕された弟子のなかには、『こんな苦しい思いをしなければならないのは、牧口の野郎のせいだ!』と、大恩ある牧口先生を恨み、憎み、罵る者さえいた。人間の心は怖いものです。
戸田先生は、出獄後、そのことを知った時の情けなさ、悔しさを、それはそれは、激しい怒りに震えながら、幾度となく私に語ってくださった」
戸田は、弟子として、人間として、忘恩の卑怯者を断じて許せなかったのだ。
ゲーテは「忘恩はつねに一種の弱さである。わたしは有能な人たちが恩知らずであった例を知らない」(注)と喝破している。
伸一は未来のために、今こそ、師弟の精神を青年たちの魂に深く刻み込もうと必死であった。
「戸田先生は、終戦の翌年に営まれた牧口先生の三回忌法要で、こう言われて落涙されている。
『あなたの慈悲の広大無辺は、私を牢獄まで連れていってくださいました』
戸田先生の胸には、牧口先生に対する、深い深い感謝があふれていた」
なぜか――戸田は語っている。
「そのおかげで、『在在諸仏土 常与師倶生』(在在諸仏の土に常に師と倶に生ぜん)と、妙法蓮華経の一句を身をもって読み、その功徳で、地涌の菩薩の本事を知り、法華経の意味をかすかながらも身読することができました。
なんたる幸せでございましょうか」
戸田は、この獄中生活のなかで、唱題の末に、「仏」とは「生命」であることを覚知した。それは難解な仏法の法理が、万人に「人間革命」の道を開く生命の哲理として蘇った瞬間であった。
さらに彼は、唱題のなかで、不可思議な境地を会得していく。
日蓮大聖人が地涌の菩薩の上首として、末法弘通の付嘱を受けられた法華経の虚空会の会座に、牧口と共に連なり、金色燦然たる御本尊に向かい、合掌している自分を感得したのだ。
彼は、込み上げる歓喜と法悦のなかで、自分も妙法の末法弘通を託された、地涌の菩薩であることを自覚したのである。
語句の解説
◎地涌の菩薩など/
地涌の菩薩は、法華経のなかで、釈尊滅後の弘教を誓って大地の底から出現し、末法における妙法流布を託された菩薩のこと。
虚空会の会座とは、虚空における釈尊の法華経説法の集会のこと。法華経見宝塔品第十一から嘱累品第二十二までの説法の場をいう。
引用文献
注 「箴言と省察」(『ゲーテ全集13』所収)岩崎英二郎訳、潮出版社
本陣 九
戸田城聖は獄中にあって、「われ地涌の菩薩なり」と感得した時、「御義口伝」の「霊山一会儼然未散」(霊山一会儼然として未だ散らず)の御文を生命の実感として拝することができた。
さらに牧口と自分との師弟の関係もまた、法華経化城喩品の「在在諸仏土 常与師倶生」(在在諸仏の土に常に師と倶に生ぜん)の文のままに、久遠の昔より永遠であることを覚知したのだ。
地涌の菩薩の使命は広宣流布にある。
その使命を、深く深く自覚した戸田は、牢獄の中で感涙にむせびながら叫んでいた。
「これで俺の一生は決まった。今日の日を忘れまい。この尊い大法を流布して、俺は生涯を終わるのだ!」
彼は、自分の来し方を振り返り、はるか未来を望みながら、自分が今、四十五歳であることを思った。
孔子の「四十にして惑わず、五十にして天命を知る」との言葉が、戸田の頭をよぎった。
彼は、その中間の年齢にして、今、この二つを同時に覚知したのだ。
戸田は、何ものかに向かって、誇らかに宣言するように言った。
「彼に遅るること五年にして惑わず、彼に先立つこと五年にして天命を知りたり」
まさに、そのころ、師の牧口常三郎は、秋霜の獄舎で息を引き取ったのだ。一九四四年(昭和十九年)十一月十八日のことである。
翌四五年(同二十年)七月三日、戸田は生きて牢獄を出た。師の遺志を胸に、弟子は、戦火の焼け野原に、敢然と一人立ったのである。
彼は、牧口の復讐を誓った。師の命を奪い、民衆に塗炭の苦しみをなめさせた権力の、魔性の牙をもぎ取ることが、彼の復讐であった。
山本伸一は、この牧口と戸田の師弟の関係を通して、青年部各部の部長に訴えた。
「日蓮大聖人を御本仏と仰ぎ、広布に邁進する創価学会の精神の骨髄は、久遠の縁に結ばれた師弟の絆にある。
それは、いっさいの利害、打算を排した、広宣流布という最も崇高な使命に結ばれた、金剛不壊の人間の連帯です。
この師弟の精神が脈動している限り、学会は、永遠に、常に大発展していきます」
語句の解説
◎孔子/
前五五一年頃〜前四七九年。中国・春秋時代の思想家。儒学の祖。本文中の言葉は、『論語』の「為政」篇にあり、孔子が自らの来し方を語った有名な言葉の一節。
本陣 十
「師弟の道」は峻厳である。そして、そこにこそ「人間革命」と「一生成仏」の大道があるのだ。
山本伸一は、青年たちに強く訴えた。
「私も、徹底して戸田先生に仕え、守り、弟子の道を全うしてきた。
先生の示された目標には、常に勝利の実証をもってお応えしてきた。負ければ先生の構想は崩れ、結果的に師匠を裏切ることになるからです。
戸田先生は、晩年、こう言ってくださった。
『伸一は、私が言ったことは、すべて実現してきたな。冗談さえも本気になって実現してしまった。私は、口先の人間は信じない。実際に何をやるかだ。伸一さえいれば安心だな』
その言葉は、私の最大の誇りです。それが本当の弟子の姿です。
私はいつも、心で戸田先生と対話しています。
先生ならば、どうされるか。今の自分をご覧になったら、なんと言われるか――常に自身にそう問い続けています。
だから師匠は、生き方の規範となるんです。
私は明日で四十五歳になる。戸田先生が『天命を知りたり』と叫ばれ、広宣流布に立ち上がられた年です。弟子ですから、私も立ち上がります。戦います。見ていてください!」
伸一の気迫に、青年たちは圧倒された。
「ともかく弟子が、青年が立つんだ。
過去に『青年の年』の意義を刻んだ年は、二度ありました。
その最初が、昭和二十六年(一九五一年)、戸田先生が第二代会長に就任された年です。
この時、先生は『青年が立つ年だ』と言われ、七月には男子部、女子部を結成された。さらに、九月には青年の永遠の指針として『青年訓』を発表してくださった。
私たちは“先生の言われた会員七十五万世帯の達成は、青年の力で成し遂げよう”と誓い合い、新時代の幕を開いた。
これは、事実上の第一回『青年の年』です。
次に『青年の年』と定めたのが、私が会長に就任した翌年の昭和三十六年(六一年)です。
青年が私と共に立ち上がり、新しい学会建設の先駆を切った。この年の十一月、男子部は戸田先生が念願とされた精鋭十万人の結集を、女子部も八万五千人の結集を成し遂げている」
本陣 十一
山本伸一の胸には、青年への熱い期待がたぎっていた。
「今また、『広布第二章』の本格的な開幕にあたって、今年を『青年の年』と名づけた。これは広宣流布の方程式です。
今こそ青年が広布の前面に躍り出て、戦いに戦い、燦然たる、新しき創価の時代を築かなくてはならない。
それができてこそ、創価の後継者です。
私は、君たちがいかに戦い、何をなすか、じっと見ています」
伸一の言葉に、目をキラキラと輝かせながら、頷く女性がいた。女子部長の吉川美香子である。
伸一は彼女に言った。
「二十一世紀は『女性の世紀』だ。女子部の使命は大きいよ。
女子部は学会の花だ。女子部が明るく、はつらつと活動していれば、みんなが希望を感じる。女子部の勝利が、学会の勝利になる。
聡明で近代的センスにあふれた女子部をつくるんだよ。仏法という幸福の哲学をもつ女子部は、時代の最先端をいく女性たちなんだから」
「はい。頑張ります」
吉川は答えた。
彼女は、芯の強さを内に秘めた理知的な女性であった。
父親が化学薬品の会社を営む、恵まれた家庭の長女として育ったが、高校一年の時、大きな試練が一家を襲った。
真面目で善良であった父親が人に騙され、事業に失敗したのだ。
彼女の下に妹が一人、弟が二人いた。生活を支えるために、母親も呉服の販売をして、懸命に働いた。
美香子も奨学金をもらい、家庭教師のアルバイトをして、高校生活を送った。
そのころ、家族は親戚の人から仏法の話を聞き、宿命の転換を願って次々と入会していった。
だが、ミッションスクールに通い、キリスト教に傾倒していた美香子だけは入会しなかった。家が苦境に陥った悲しさを讃美歌でまぎらし、聖書に心の安らぎを求めた。
しかし、彼女は疑問でならなかった。
“なぜ、自分たち一家が、こんなに苦しまなければならないのだろう。世の中には、あまりにも不公平がありすぎるのではないか……”
教会で尋ねても、彼女の納得のいく答えは得られなかった。
本陣 十二
キリスト教の強い影響を受けていた吉川美香子は、生涯を社会奉仕に捧げたいと、考えるようになっていた。
“将来は、辺地で教育にあたろうか。罪を犯した子どもたちの更生の手助けをしようか。いや、伝道師になるべきかもしれない……”
社会への貢献のためには、自己を犠牲にしてもかまわない――彼女は、そう心に決めていた。
しかし、すべてを犠牲にして生きるのではなく、自己の特性を生かした仕事に就き、自分自身も満足できる人生を生きたいという思いも拭いきれなかった。
葛藤は深かったが、とりあえず教師をめざして東京女子大に入学した。
英語が好きだった彼女は英米文学科に進んだ。
しかし、将来の進路については、悩み続けていたのである。自分の実力の限界も感じていた。
友だちと議論もした。識者の講演も聴きに行った。だが、悩みは深まるばかりであった。それは人間はいかに生きるべきかという、悩みであったといってよい。
一家のなかで、母親と一緒に、懸命に学会活動に励んでいたのが、美香子の三歳年下である妹の美奈子であった。
その妹から、彼女は、時折、学会の会合に誘われた。しかし、冷たく拒絶した。
「私は行かないわよ。地球上で私が最後の一人になっても、創価学会には入らないわ」
でも、妹は入会してから、はつらつとして明るくなり、人間的にも成長していることを、美香子は実感していた。弟たちに接する態度も、深い思いやりにあふれていた。
それに対して私はどうなのかと考えた時、暗澹たる思いにかられた。
“明朗そうに振る舞っていても、内心は悲観的で、ささいな失敗に落ち込み、いつまでも立ち直ることもできない。
また、口では「隣人を愛せよ」と言いながら、弟たちに対してさえ、薄情ではなかったか。
結局、心の底では、自分のことしか考えていないのかもしれない……”
美香子は、観念だけが先行し、実践の伴わない自分の現実を考えると、自己嫌悪さえ覚えるのであった。
「実行しなければ 善はない」(注)とは、ドイツの作家ケストナーの箴言である。
引用文献
注 ケストナー著『人生処方詩集』小松太郎訳、筑摩書房
本陣 十三
吉川美香子が大学三年の新学期を迎えようとしていた夜のことである。
妹の美奈子が、熱心に仏法の話をし始めた。
姉が、将来の進路について悩んでいることを、よく知っていたのだ。だから美奈子は、語らないわけにいかなかった。
布団を並べての、深夜の対話であった。
美奈子は、仏法で説く宿命論や生命論、創価学会の歴史などについて、情熱をこめて、諄々と訴えていった。
語らいは、二時間、三時間と続いた。美香子にとっては、初めて聞く話ばかりであった。なかでも宿命論は、彼女の胸に深く突き刺さった。
長年、疑問に思い続けてきた社会の不公平に対する回答を、そこにみたからである。
また、妹は、自分も幸福になり、人をも幸せにしていける道を説いたのが仏法であることを語った。そして、最後に涙ながらに訴えるのだった。
「お姉ちゃまが求めている人生を実現できるのが、創価学会の信心よ。
ねえ、一緒に信心をしましょう。
もし、やってみて誤っていたら、勧めた私に責任があるから、私も一緒にやめるわ」
妹の真心が、美香子の胸に、熱く染み渡った。思わず、涙が込み上げてきた。
美香子は、キリスト教の教えや歴史に、矛盾や疑問を感じ始めていたことも事実であった。
しかし、それを乗り越えようと、もがくような思いで、懸命に神を求めてきたのである。
それだけに、入会に踏み切るには大きな迷いがあった。
“キリスト教の信仰を捨てれば、私は、この妹と共に、地獄に堕ちるかもしれない……”
そう思うと緊張で体が震えた。恐ろしかった。
彼女を見つめる妹の黒い瞳には、涙が光っていた。美香子には、自分を思う真心の輝きに感じられた。
“この妹となら、きっと、どんな試練も乗り越えられる!”
激しい葛藤の末に、美香子は、全身の力を振り絞るようにして答えた。
「やってみるわ!」
姉を思う妹の、一念の勝利であった。
妹は「わー」と泣きだした。時刻は午前三時を回っていたが、部屋を飛び出し、母に姉の決意を伝えに行った。
本陣 十四
吉川美香子は、妹より五年遅れて、晴れて創価学会員となった。
“一度決めた以上、どこまでも学会についていこう。体当たりする思いで信心に励もう!”
彼女は、学会活動に全力を注いだ。座談会にも喜々として参加した。仏法対話にも真剣に取り組んだ。先輩もよく面倒をみてくれた。
“自分だけの幸福なんてありえない。どうしたら社会に貢献でき、自分も満足できる人生を送れるだろうか”という、悩み続けてきたテーマの答えは、創価学会のなかで、すぐに見つけることができた。
彼女は、皆が人びとの幸福と世界の平和を実現する、広宣流布という目的に生きるとともに、それぞれが自分の夢に向かい、喜びを満喫しながら人生を謳歌していることを知ったのだ。
それは、かつて彼女が考えていた、悲壮感にあふれた自己犠牲とは、大いに異なっていた。明るく、はつらつとした奉仕の姿であり、献身であると思った。
まさに、自分が探し求めてきた「人間の道」があったのだ。
吉川の成長は、目覚ましかった。彼女は、部員増加や御書の研鑽など、活動の一つ一つに対して、責任をもち、真剣に取り組んでいった。
「人間の成長は責任を果すことなしにはあり得ない」(注)とは、アメリカ大統領の夫人で社会運動家として知られる、エレノア・ルーズベルトの鋭い洞察である。
吉川は、会長である山本伸一の指導や講義などを徹底して学んだ。
また先輩たちから伸一のことを聞かされるなかで、心からこう願った。
“山本先生にお会いしたい。私も弟子にしていただきたい”
大学を卒業すると、吉川は女子高校の英語の教師になった。
しかし、“広宣流布の中枢の職場で、会員の皆さんのために奉仕をしたい”という思いが、日ごとに強くなっていった。また、師と共に戦うことのできる職場で働けることを念願していた。
ほどなく彼女の願いは叶った。
本部職員となり、英語の月刊誌である「セイキョウ・タイムズ」の編集に携わることになったのである。
本陣 十五
本部職員となった吉川美香子は、ある時、山本伸一から個人的に激励を受ける機会に恵まれた。
彼女は“職員となったからには、学会のため、会員のためになんでもしよう。生涯を、師と共に広宣流布に捧げよう”と固く心に決めていた。
伸一は、吉川の晴れやかな表情と言葉から、その覚悟を感じ取った。
この折の語らいで、職場の配属が話題に上った時、吉川は、きっぱりと伸一に言った。
「広宣流布のためですから、先生のおっしゃるところでしたら、どこにでもまいります」
どこに移ろうが、そこが自分の使命の場であると定めて、頑張り抜こうというのである。それが、職員の精神である。
やがて、彼女は、本部の庶務局に異動になった。山本会長の日々の行動を、直接、目にすることができた。
学会の一切を双肩に担って、激闘に激闘を重ねる伸一の姿に、吉川は驚嘆した。
食事の時も、執務の合間も、常に皆をどう元気づけ、勇気を与えるかを考え、励ましを送り続けているのだ。
ある時、信心弱くして幸福の軌道を踏みはずしそうになった女子部員に対して、伸一がこう語っているのを聞いた。
「たとえ、あなたがどこで悲しみに沈んでいようと、私は草の根をかき分けても捜し出して、必ず幸福にしてみせるよ。これが、創価学会の会長の精神です」
その言葉に、限りなく温かい師の慈愛を感じ、胸に熱いものが込み上げてきてならなかった。
伸一と接するなかで、吉川は痛感した。
“先生は瞬時の休みもなく、生命を削るようにして、広宣流布の指揮を執ってくださっている。ただ、ただ、人びとの幸福と世界の平和を願いながら。これが私たちの師匠なのだ……”
彼女は「不自惜身命」という経文の意味を、初めて知った思いがした。
“弟子ならば、私も同じ決意で立ち上がろう”
吉川は誓った。
以前にもまして、活動の第一線に、猛然と躍り出ていった。
そして、女子部のなかで、次第に頭角を現し、一九七〇年(昭和四十五年)の八月に、女子部長に就任したのだ。
本陣 十六
年頭の各部部長会で山本伸一は、女子部の未来像を思い描きつつ、吉川美香子に語った。
「二十年後、三十年後には、今の女子部が、どんどん世界に出ていって活躍する時代になるでしょう。
平和を本当に願っているのは女性です。また、女性には、時代を動かす底力がある。あなたたちが、二十一世紀の世界的な女性運動の、新しい流れを開いていくんだよ」
この部長会には、吉川美香子を入会させた妹の美奈子も、少女部長として出席していた。
伸一は、美奈子に視線を注いで言った。
「現在の女子部の後に続く、二十一世紀の主役が少女部だ。
だから、そのメンバーを育成する人たちの使命は大きいよ」
「頑張ります!」
美奈子が答えた。
それから伸一は、青年たちに呼びかけた。
「舞台は開かれた。学会も、広布の未来も、すべては君たちのものだ。青年の朝が来たよ!」
伸一は、翌二日には総本山に移り、大講堂で行われた全国代表幹部会に出席した。
「仏法は勝負です。悪を倒すか、悪に敗れるか――それが広宣流布の攻防戦です。
負ければ仏法も、学会も途絶える。勝てば正義が立証される。ゆえに、われらには絶対に勝つ責任がある!」
これが、新しき年の、彼の師子吼であった。
翌三日は、大客殿で行われた第一回「五年会総会」に出席した。
五年会は、一九六六年(昭和四十一年)一月、当時、高等部、中等部、少年部の代表として伸一のもとに集ったメンバーで結成された、人材育成グループである。
五年ごとに集うことを約し合い、「五年会」と命名されたのだ。その新出発の総会が行われたのである。
伸一は、二十一世紀の広宣流布を託す思いで、メンバーと共に、記念のカメラにも納まった。
総会では、「学会は師子だ。真の師子の後継者に育て!」と訴え、さらに未来の勝利を誓い、皆で万歳も三唱した。
“今こそ、新時代の歴史の原点を刻むのだ!”
そのために伸一は、年頭から、体当たりで、真剣勝負の戦いを開始したのである。
本陣 十七
「広布第二章」の本格的な開幕を迎え、山本伸一が最大のテーマとしていたのが、創価の本陣である大東京の再構築であった。本陣が堅固でなくしては、広宣流布の勝利はないからだ。
一月七日、伸一は、信濃町の聖教新聞社で行われた、東京・新宿区の「一・一五グループ」「新宿成人会」の集いに出席した。前年の記念撮影の折に、青年部員で結成されたグループである。
彼は、本陣中の本陣ともいうべき新宿の青年たちが、一段と力強く試練を乗り越え、明るく、雄々しく前進してほしいとの思いで、この集いに出席したのである。
実は、昨年の十二月、第三十三回衆院総選挙が行われ、公明党から五十九人が立候補したが、当選は二十九人で、解散時の四十七人を大幅に下回ってしまった。
東京からも十選挙区から十人が立ち六人が当選したが、東京一区(千代田・港・新宿区)、三区(目黒・世田谷区)、五区(豊島・練馬区)、八区(中央・文京・台東区)の公明候補は次点に終わったのである。
学会は候補者を支持はしたが、あくまでも当落は候補者自身の責任であり、党の問題である。
しかし、社会建設の主体者として立正安国をめざし、人間尊重の政治を実現しようと、懸命に支援活動に取り組んだ学会員にとっては、敗北は無念であった。
新宿区の同志が支援した候補も落選してしまっただけに、皆の落胆も大きかったのである。
何事も負ければ惨めである。奮闘も水泡に帰す。活力も奪われてしまう。だが、勝利は痛快である。歓喜と力があふれる。ゆえに、ひとたび戦いを起こす限りは、断じて勝たねばならない。
伸一は、集ってきたメンバーと一時間十分にわたって懇談し、命を振り絞るようにして、「勇気の新出発」を呼びかけたのである。
行動あるところに、波紋は広がる。そこから勝利のうねりが起こる。
伸一は動いた。一月の十三、十四日には、愛知県に飛んで指導にあたり、十五日には、聖教新聞社での教学部大会に出席した。
そして、二十一日には東京・練馬区のブロック幹部らとの記念撮影会に向かったのである。
本陣 十八
練馬区は、面積も、人口も、都内二十三区で屈指の区である。
武蔵野の面影を残す雑木林や畑もある。閑静な住宅街もあれば、団地もあり、下町風情の漂う商店街もある。
いわば東京の縮図ともいうべき区であり、多様な人材が集う、未来性に富んだ地域であった。
伸一が心を痛めていたのは、その練馬の同志がやはり衆院選挙の敗北以来、意気消沈しているということであった。
記念撮影会の会場となった体育館は、木々の生い茂る石神井公園のすぐ近くにあった。
伸一は、正午過ぎ、会場に到着した。外には高さ四メートルほどの漫画タッチの大根畑の絵が、何メートルにもわたって描かれていた。
よく見ると小さな紙を張り合わせたモザイクであった。皆の心意気を、有名な“練馬大根”に託し、有志が制作したものという。
「ありがたいね。楽しい絵だね」
伸一は、その絵を見上げながら、これらの同志たちに、なんとしても勇気を、希望を、喜びを与え、崩れざる幸福のための、新しき決起を促さねばならぬと決意した。
彼は、控室に入ると、練馬の幹部を呼んだ。
皆、どこか元気がなかった。婦人の中心者の目には、うっすらと涙さえ浮かんでいた。
選挙の支援活動での敗北が、残念でならなかったようだ。
伸一は、笑みを浮かべて、力強い声で言った。
「さあ、新しい練馬をつくろう。新しい人材を育てよう。何があっても負けない、東京模範の練馬を築こうよ。
新しい五十年先をめざす、『広布第二章』の東京指導の第一歩は、今、練馬から始まった。練馬は、新時代の常勝の太陽として躍り出るんだ。
これまで東京では、草創の蒲田支部があった大田区をはじめ、かつて大支部があった区の組織が強かった。
しかし、新しい時代が始まったんだ。いよいよ新しい力が台頭しなければならない。今日はその原点をつくるよ」
こう言うと伸一は、寒風のなかに飛び出した。
そして、整理役員を見ると声をかけ、自分が撮った太陽の写真に、激励の一文を書いて贈った。
本陣 十九
やがて、撮影が始まった。全部で十二回、三千七百人の大記念撮影会である。
各グループの撮影ごとに、山本伸一は全力を注いで指導、激励した。
男子部には、「持続の信心」を訴えた。
「長い人生にあって大切なことは、最後の勝利を獲得することです。
そのためには、大聖人が『受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり』(御書一一三六ページ)と仰せのように、どんなことがあっても、信心から、学会から離れないことです。
広宣流布に生きれば、悪口も言われます。迫害にも遭うでしょう。『もうだめだ!』と、絶望的な思いに陥ることもあるかもしれない。
しかし、諸君は若き師子だ。いかなる嵐にも、烈風にも、決して、ひるんではならない。あきらめてはならない。忍耐強く、柔軟に、繰り返し、繰り返し、挑戦し続けていくことです。
その挑戦の人こそが、真の後継の人材であり、最後の勝利者なんです」
学生部との記念撮影では、こう呼びかけた。
「どうか、お父さん、お母さんを大切にしてください。そして、どこまでも庶民の味方になってください。
大学という最高学府に学ぶ意義は、庶民の上に君臨するためではない。民衆に仕え、民衆を守り、民衆を幸福にしていくためです」
さらに、女子部に対しては、教学研鑽の重要性を語った。
「人間の幸・不幸は、いかなる哲学を根幹にするかによって決定づけられてしまう。
そして、究極の智慧、叡知を凝結した御書を依処にしていくなかに、福運の軌道があるんです」
さらに彼は、女子部の代表で構成される、「練馬女子生命哲学研究会」を発足させたのである。
また、婦人部には「親戚、近隣に、友好の輪を広げてください。そこに広布の縮図があります」と、壮年部には「東京模範の練馬を築くために、自らが職場、地域で模範の人に」と語った。
伸一は、途中、深い疲労に襲われたが、マイクを握り続けた。
「血の一滴一滴をたらして、他の人を育てるのは、自分が痩せ衰えるのが自覚されても、楽しいことである」(注)とは魯迅の信念である。
引用文献
注 石一歌著『魯迅の生涯』金子二郎・大原信一訳、東方書店
本陣 二十
この日、山本伸一は、「成長」の要諦についても言及していった。
「自分の殻を破って成長するには、自ら進んで責任を担うことです。大きな責任を担おうとすればするほど、それだけ境涯が広がります。
練馬の皆さんは、自分の区のことだけを考えるのではなく、いかなる活動でも、全東京の、日本の勝利の責任をもつのだと決めてください。
ある地域が苦戦していると聞いたら、すぐに駆けつけよう、応援しようというのが、異体同心の学会精神です。それが私の心でもあります。
その一念こそが、『東京の模範・練馬』を築く原動力になるんです。
また、練馬は、都内二十三区のなかで、学会本部からは遠いかもしれない。しかし、心は私と一緒です。本部直結の信心に立ってください。そして、私と共に、東京模範の常勝の歴史をつづろうではありませんか!」
「はい!」という力強い声が体育館に響いた。
渾身の励ましを続けるうちに、皆が元気になっていくのを、伸一は実感することができた。彼はそれが嬉しかった。
記念撮影会のあとは、近くの石神井会館も訪問した。そこで彼は、同行の幹部に二十一世紀の練馬の展望を語りながら、「楽しみだな。練馬の未来が楽しみだな」と何度も繰り返すのであった。
二月四日には、伸一は中野区に向かった。区内の体育館で行われる「中野・青少年スポーツの集い」に出席するためであった。
「立春」にあたるこの日は、朝から青空が広がり、温暖で、風もさわやかであった。まさに、春の到来を感じさせた。
中野区には、戦時中、軍部政府の弾圧によって投獄された戸田城聖が、最後に捕らえられていた豊多摩刑務所があった。
戸田は、一九四五年(昭和二十年)七月三日、獄死した初代会長牧口常三郎の遺志を受け継ぎ、広宣流布に一人立つ決意を胸に、この牢獄の門を出た。焼け野原に印された一歩一歩の足跡は、新しき闘争への闘魂の刻印であった。
車中、伸一は思った。
“まさに、中野こそ師子の大闘争が開始された、広布誓願の原点の地だ。よし、ここに平和と幸福を築く大人材山脈を断じてつくろう!
本陣 二十一
山本伸一は、中野駅に近い、会場の体育館に到着すると、ここでも、スポーツの集いに参加したメンバーの励ましになればと、相次ぎ記念のカメラに納まった。
その合間にも、皆に指針を贈るなど、語らいの花が咲いた。
婦人部には「日本一明るい中野を。日本一明るい家庭を」と訴え、壮年部には、よく自分の健康を管理して、長寿の人生を送るよう呼びかけた。
さらに、集っていた男子部、女子部、学生部、高等部、中等部、少年・少女部のメンバーとも一緒に記念撮影し、懇談のひとときをもったのである。
伸一は言った。
「戸田先生の師子の精神を受け継ぐ中野の皆さんは、学会員の誰からも“中野の同志がいれば、大丈夫だ”といわれる人材の山脈を、また、友情の万里の長城を築いていってください。
そして、全員が社会にあって、それぞれの分野で第一人者となり、見事なる信心の実証を示していただきたい。
たとえば、このなかから、将来は、ノーベル賞をもらうような人も出てほしい。
また、会社の社長にもなってもらいたい。大学の学長とか、弁護士とか、偉大なジャーナリストも出てほしいんです。
あと、みんな、何になりたいの?」
すると、次々に声があがった。
「女優になりたいと思います」
少女が言った。
「よし、女優一人。それから?」
「アナウンサーになります」
「いいね。ほかになりたい職業は?」
「はい! 国連事務総長!」
中学生が叫んだ。笑いが起こった。
「わかった。国連事務次長でもいいからね。あとは?」
「作家になります!」
「それならノーベル文学賞だね。まずは、芥川賞をとるんだよ」
皆の将来の抱負は、博士や校長、音楽家、漫画家、実業家、通訳、調理師など、さまざまな分野に及んだ。
目標をもつことは、希望をもつことである。目標が定まれば、一足一足の歩みにも力がこもる。
伸一は、集ったメンバーの胸に、未来を照らす燦々たる希望の陽光を送りたかった。
本陣 二十二
メンバーの抱負を、一通り聞くと、山本伸一は言った。
「今ここで、全員の抱負を聞いているわけにはいかないので、みんなの将来の希望をメモに書いて、提出してください。
そして、それぞれが、自分の掲げた目標に向かって、三十年後をめざして進もうじゃないか!」
皆が大拍手で応えた。
伸一は、一人ひとりの顔を見渡しながら、力を込めて語った。
「青年は、大志をいだいて、社会で力をつけ、リーダーになっていくことが大事です。力なくしては何もできません。
しかし、最も大事なことは、社会的には、どういう立場であれ、学会の組織にあって庶民の哲学者として、民衆を守り、励まし、広宣流布に生き抜くことです。
それを根本に置き、皆さんは、民衆の幸福と勝利のために戦う大社長、大弁護士、大教育者等々であってください。
そして、これから三十年間、二月四日を中心にして、毎年、集いたいと思うがどうだろうか!」
またしても、大拍手が体育館にこだました。
拍手がやむのを待って伸一は言った。
「私は、皆が共に大勝利を飾るために、互いに励まし合っていく意味から、このメンバーを『中野兄弟会』とするよう提案したいが、いかがでしょうか!」
今度は、拍手だけでなく、大歓声が広がった。
「では、今日から皆さんは、未来三十年をめざす、同志の誓いに結ばれた『中野兄弟会』です。
三十年後、諸君がどうなっていくのか、誰が落ちていくのか、誰が誓いを果たすのか、私はじっと見ていきます。
断じて勝とう!」
その場にいた千三百人余のメンバーの顔に、決意の光が差した。
「人類だけが目標を設定し、それを達成しようとする能力を持っている」(注)とは、アメリカのジャーナリストで思想家のノーマン・カズンズの洞察である。
伸一は、それから、バレーボールや卓球の地域別対抗試合を観戦した。さらに、青年たちの要請を受け、自ら卓球のラケットを握って、試合にも“特別参加”したのだ。
青年たちのためなら、なんでもやろう――それが伸一の心であり、また、そこに人材育成の根本の精神がある。
引用文献
注 ノーマン・カズンズ著『人間の選択』松田銑訳、角川書店
本陣 二十三
卓球の試合を終えた山本伸一は、控室で同行の青年部幹部に語った。
「今日は、中野に、未来の大発展の種を植えることができたよ」
「はい。各人の三十年後という目標が明確になり、皆、新たな人生のスタートが切れたと思います。これは、新しい人材育成のモデルではないでしょうか」
「そうだな。私も、人材育成の壮大な実験であると思っている。
これで自分の人生の目標に向かって大前進し、夢を実現する原動力になってくれるといいんだがね……」
語りながら伸一は、これまでに結成してきた、さまざまな人材育成グループを思い出した。
多くは、そのグループの誕生を最大の誇りとし、定期的に集い合い、互いに励まし合って、皆が大成長を遂げている。
しかし、なかには、深い意義を込めて、厳粛な結成式を行っても、その場限りで終わってしまったグループもあると聞いていた。それでは、せっかく植えた種子を腐らせてしまうようなものだ。
結局、結成されたグループが、どう育っていくかは、その中心者の一念であり、また、皆の意志と自覚の問題である。
意義というものは、そこに集った人たちが、どう受け止め、何をなしていったかで、深まりもすれば、薄らいでいってしまいもする。
伸一は言葉をついだ。
「『中野兄弟会』も、みんながそれを誇りとして、必ず誓いを果たそうと、本気になって決意するかどうかだ。
そう決めて、三十年間、毎年集い合い、歴史を積み重ねていけば、学会を代表する模範的な人材育成グループになるよ。
要は、みんなが今日の決意を、どこまで持続できるかどうかだ。私も全力で応援するからね」
「中野兄弟会」の同志は、伸一との、この日の約束を忘れなかった。
“師匠との誓いを絶対に果たして、社会の指導者になろう”と、各人が猛然と自分の目標に向かって、挑戦していったのである。
そして、翌年二月四日に学会本部で、「中野兄弟会総会」を開催したのをはじめ、毎年、総会などを開き、互いの成長を確認し合い、励まし合ってきたのだ。
本陣 二十四
山本伸一は、メンバーの総意として、強い要請を受け、「中野兄弟会」の会長も引き受けた。
彼のもとには、総会のたびに、役員がまとめた一人ひとりの近況報告が寄せられた。
メンバーは、毎年、一歩でも二歩でも、成長した姿を示そうと、懸命に奮闘を重ねていた。
伸一は、その近況報告に丹念に目を通した。それを見るのが、何よりも楽しみであった。
結成から十周年を迎えた一九八三年(昭和五十八年)には、中野文化会館の敷地内に「中野兄弟会館」が完成し、開館式を迎えた。
「兄弟会」は、中野以外にも、各地に結成されていったが、その名を冠した会館の誕生は、全国で初めてであった。
そして、この兄弟会館内には、全員の名前を刻んだ銘板が設置されたのである。
伸一も兄弟会の会長として、胸を弾ませながら、ここに足を運んだ。
そして、生命に焼き付けるように、銘板に刻まれた一人ひとりの名前に視線を注ぐと、祈りを込めて、心で語りかけた。
“君も、また君も、一人も漏れなく自身の目標を果たして、使命の大空に、自在に乱舞してくれたまえ!”
都区内の人口の流動は激しく、中野区にあっても、歳月を経るごとに、転勤や結婚などで、区外に移転するメンバーも多くなっていった。
また、海外に、雄飛していった人もいた。
しかし、皆、毎年の総会には、日本国内はもとより、海外からも喜び勇んで駆けつけて来た。
“先生との、そして、同志との誓いだ。総会には、何があっても馳せ参じよう”
信義に生きるなかに、人間の崇高さがある。
その厚き信義の師弟の絆と、麗しき友情で結ばれた「中野兄弟会」のために、伸一は、時間をさいて、幾たびとなく総会に出席してはスピーチし、激励を重ねてきた。
八四年(同五十九年)の第十二回総会では、出席した伸一のもとに、参加したメンバーの名前が記された寄せ書きが届けられた。
すると、彼は、その中央に、こう記した。
あな嬉し
天下に輝け
兄弟会
本陣 二十五
二〇〇三年(平成十五年)二月四日、「中野兄弟会」は、遂に約束の結成三十周年を迎えた。
その記念の勤行会が東京・信濃町の信濃平和会館で行われた。
山本伸一は、この日は、どうしても時間がとれず、出席することができなかったが、新たな提案を行ったのである。
「次の目標として、二〇一〇年の学会創立八十周年をめざし、継続して毎年、集い合っていくようにしてはどうか」
そして、翌二〇〇四年九月二十六日には、「中野兄弟会」と、新たに中野区の青年部で結成された「二十一世紀中野兄弟会」が、共に八王子の東京牧口記念会館に集い、伸一のもとで「『中野兄弟』栄光の集い」を開催したのである。
その参加者のなかには父親が「中野兄弟会」、子どもが「二十一世紀中野兄弟会」として参加した親子もいた。
親から子へと、信心のバトンは、確かに受け継がれていたのだ。
この三十余年の歩みのなかには、学会が激しい嵐に襲われた時代もあった。また、それぞれの人生に、試練の烈風が吹き荒れた夜もあった。
しかし、師匠という、人生の不動の北極星を胸にもつメンバーは、激動の荒波にもまれても、進むべき方角を決して見失うことはなかった。
そして「中野兄弟会」は、あの記念撮影を原点として、皆がそれぞれの誓いに向かって進み、人生の勝利の金字塔を打ち立てたのだ。
まさに、綺羅星のごとき人材群となったのである。
後に小学校の校長などを歴任し、大学でも教鞭をとることになる田畑健児は、あの記念撮影の時には、教員採用試験をめざして、働きながら、猛勉強に励んでいた。
彼は仙台で育ち、中学を卒業すると、父親のもとで大工の見習いをし、定時制高校に通った。入会は、高校二年の時である。
田畑は信心に励み、勉学に取り組むなかで、教員になりたいとの希望が芽生え始めた。その思いは、卒業後も、さらに強くなっていった。
弟も、一緒に大工をしていたが、長男である自分が、家業をやめたいとは、なかなか言いだせなかった。
悶々としながら歳月は流れていった。
本陣 二十六
田畑健児は、ある時、父親に、意を決して自分の思いを打ち明けた。
じっと聞いていた父親が口を開いた。
「そうか、教師になりたいのか……。
大工は家をつくる。教師は人をつくる仕事だ。やってみたらいい」
嬉しかった。その言葉が胸に染みた。
やがて、田畑は上京した。既に二十三歳になっていた。東京では中野区に住み、新聞販売店などで働きながら、大学の通信教育で学び、学会活動にも懸命に挑戦していった。そして、苦学の末に教員免許を取得した。
しかし、教師への壁は厚かった。教員採用試験に二度、失敗してしまったのである。
落胆した。衝撃は大きかった。
だが、その時、「中野・青少年スポーツの集い」に参加し、山本伸一と記念撮影する機会に恵まれたのである。
この日、田畑は、心で伸一に誓った。
“先生! 私は絶対に教員採用試験に受かり、人間教育の道を開く、大教育者になります。見ていてください!”
田畑は、三度目の挑戦を開始した。翌年、晴れて採用試験に合格し、小学校の教員となった。三十歳であった。
教師としては、遅いスタートであったが、それまでの彼の苦闘は、人間教育をめざすうえで、すべて大きな財産となっていったのである。
彼の誇りは、「教育を人生最後の事業」と定めて進む山本会長と、同じ道を歩めるということであった。
「自分の仕事を見いだした人は幸いである。それ以外の幸福は求めぬがよい」(注=4面)とは、イギリスの思想家カーライルの箴言である。
田畑は、後に校長となり、心身障害教育でも力を発揮していくことになるが、幾つもの失敗やつまずきもあった。
教頭選考試験に二回、校長選考試験に三回失敗した。しかし、挫折するたびに、「中野兄弟会」の誇りが田畑を支えた。彼は、ますます闘志を燃え上がらせていった。
「人格は成功よりも失敗から学び、育まれる。失敗を恥じたり、自分が無力であると悩む必要はない。失敗を薪にして自己を燃え上がらせていくことだ」
それが、田畑の教育哲学であった。
本陣 二十七
「中野兄弟会」のなかには、実業界で活躍するメンバーも多い。
あの日、「広宣流布の役に立つ実業家になる」と決意した市川正道は、本格的に飲食店の経営を始める。
彼は、駅の構内で立ち食いソバなどの店を構えるようになる。しかし、売り上げが飛躍的に伸びたところで、従業員に騙されてしまった。
市川は、自分の生き方を反省する。広宣流布の役に立つ実業家をめざしながら、根本の信心が逃げ腰であったからだ。
彼は決意する。
“俺は、人の十倍働こう。そして、学会活動も一歩も引かずに、すべてやり抜き、一切に勝利するんだ。題目第一で戦おう。願いが叶うまで祈るのが本当の唱題だ”
市川は、学会の組織にあって支部長になると、会場として提供するために、一戸建て住宅を購入した。
懸命に、活動に、仕事に励んだ。支部として、弘教日本一も達成した。
その後、郊外に出した、手打ちソバと会席料理の店が評判となり、人気店として、テレビ、ラジオでも紹介されるようになる。
彼は「天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか」(御書二五四ページ)との御聖訓を、しみじみとかみしめていた。
広宣流布をめざし、どこまでも信心を根本として頑張るならば、自身の仕事も、生活も、盤石になることを確信したのである。
ところが、バブル経済が崩壊すると、彼の店も窮地に立たされた。
だが、“ピンチはチャンスだ”と思った。
実業家として成功し、「中野兄弟会」の誓いを果たすのだと決め、祈りに祈った。そのなかで、市川は、経営者としての自分の姿勢を考え直さざるをえなかった。
“俺は、ただ、儲けたい、儲けたいと思って、商売をしてこなかっただろうか。しかし、商売の根本は、お客様に喜んでもらうことではないか。その原点に立ち返って、一から始めるつもりで、仕事に取り組もう”
そう考えると、食材選びや店のつくりなど、すべてにわたって検討すべきことがあった。
改善すべきだと思ったことは、直ちに実行に移した。すると、店は堅実に顧客を広げていった。
本陣 二十八
顧客が喜んでこそ商いである――この考え方のもとに、市川正道は不況の時代に、堅実かつ積極的に打って出た。
そして一九九五年(平成七年)には、都心の主要駅に店舗を紹介され、ソバと地鶏、海鮮料理などを扱う大型店をオープンした。
以来、ラーメン、ふぐ料理、ゆば料理、会席料理、イタリア料理、フランス料理の店などを、相次ぎ開店させ、「中野兄弟会」結成三十周年には十数店を経営するに至るのである。
浮き沈みの激しい飲食店業界にあって、彼もまた、見事な勝利の実証を打ち立てたのだ。
実業界では、輸入商社の社長を務め、ドイツ製宝飾品の日本市場を開拓し、不況をものともしない躍進を遂げているメンバーもいる。
医学の分野にも、何人ものメンバーが進んだ。
結成当時、東大法学部の学生で、後に精神科医を志した人もいる。桑野正茂である。
彼は、七八年(昭和五十三年)に名古屋市立大学医学部に進学。さらに卒業後、ニューヨークにも留学した。
そして、故郷である福井の病院に医師として勤務。福井総県総合ドクター部長としても活躍することになる。
一方、各分野で博士号を取得したメンバーも少なくない。
当時、東京薬科大学の助教授であった金田丈夫は、博士号の取得を、将来の抱負としてメモに記し、誓いとした。
彼の決意は、どんなに仕事や勉強が多忙であっても、学会活動から決して退かないということであった。
やがて学位論文に着手し、総仕上げの最も忙しい時期に支部長の任命を受けた。
しかし、金田は、“ここが、人生の正念場だ。自身の敢闘の歴史をつづろう”と、挑戦を続け、遂に薬学博士となるのである。
その後、金田は大学教授となったが、彼はこう述懐している。
「学位といっても一つの資格であり、小さな価値にすぎない。しかし、日々の学会活動は、人格を陶冶し、人間博士をめざす作業であり、その価値はあまりにも大きい」
大学教授となっても、学会員であり、伸一の弟子であることが、彼の最大の誇りであった。
本陣 二十九
「中野兄弟会」のメンバーからは、イギリスの法廷弁護士になった人もいれば、聖教新聞に連載漫画を描く漫画家も誕生した。
このほか、ジャーナリスト、音楽家、俳優、国会議員、外交官など、実に多彩な人材が育っていった。
学会の組織にあっても、副会長など全国幹部をはじめ、方面・県区幹部も百人を超えている。そして、何よりもメンバーの大多数が各地域にあって、民衆を守る、庶民のリーダーとして、広布推進の原動力となっているのである。
山本伸一は、二〇〇四年(平成十六年)九月二十六日の「『中野兄弟』栄光の集い」の会場で、メンバー一人ひとりに、じっと視線を注いだ。
どの顔も輝いていた。
それは、各人が自身に挑み、自身に打ち勝ち、師と、そして、同志との誓いを果たした、人間王者の光彩であった。
伸一の目が、三十余年にわたって、兄弟会をまとめてきた、一人のメンバーをとらえた。壇上にいた、兄弟会の「議長」の藤田達実という壮年である。
彼は自らが表舞台に立とうとするのではなく、皆の陰の力に徹する、謙虚な人柄であった。
その責任感は、人一倍強く、深夜までかかって黙々と書類をまとめ、忍耐強く、懸命に、皆と連携をとってきた。
総会に集ってきたメンバーに対しても、「いつもご尽力いただいて、ありがとうございます」と、丁重にあいさつを交わすのが常であった。
物事が存続していくには、必ず、陰の推進力となって、地道に献身している人がいるものだ。
伸一は、それが誰であるかを、鋭く見抜いていたのだ。
彼は、心で藤田に呼びかけた。
“ありがとう!”
伸一が三十年先をめざして結成した「中野兄弟会」という人材育成の壮大な実験は、三十余年を経て、その大成功が実証されたのである。
伸一は、この日、各地から集ってきた「中野兄弟」の勝利の姿を讃えるとともに、新しき共戦の出発に万感の期待を込めて、記念の句を贈った。
立ち上がれ
日本一の
中野会
本陣 三十
「広布第二章」への飛翔のために、本陣・東京に対する山本伸一の入魂の励ましは、毎週のように続いた。
戸田城聖の生誕の日である二月十一日には、創価文化会館で港区青年部の弁論大会と同区の各部メンバーの記念撮影会が行われた。伸一は、この記念撮影会に出席し、全力で激励にあたった。
戸田の自宅があり、伸一も何度となく足を運んだ懐かしい港区である。
ここに人間共和の麗しい正義のスクラムをつくってほしいとの願いを込めて、彼は、この日の参加者で「港兄弟会」の結成を提案した。
また、二十日には、同じく創価文化会館で行われた渋谷区青年部の記念撮影会に臨んだ。
伸一の日程は本部幹部会や九州訪問などでぎっしりと詰まっていたが、時間をこじ開けるようにして、三月四日には世田谷区を訪問した。
区内にある東京農業大学で、同大学に学ぶ学生部員らで構成された研究グループが、「現代農業展」を開催することになり、彼は、その招待を受けていたのだ。また、これには世田谷の学会員も数多く招かれていた。
そこで当日、伸一と世田谷の同志との、記念撮影も行われることになったのである。
学生が、自分たちの研究成果を地域に紹介し、地元の人たちのために、なんらかの貢献をしようとしていることが、伸一は嬉しかった。
世田谷区内には、この東京農大のほかにも多数の大学があり、学会の学生部員数も都内屈指であった。
その学生部員が力を合わせ、研究成果などを生かして、地域に貢献していくならば、社会の新しい創造の道が開かれるにちがいない。
フランスの歴史家であり、教育者であるミシュレは、学生たちに呼びかけている。
「あなた方、若い人々なのです! 未来への責任を担うべきなのは。世界はあなた方を必要としています」(注)
しかし、その若い世代に“しらけムード”が漂い、社会の建設に背を向けている現状に、伸一は心を痛めていた。
青年を触発し、覚醒していく力となるのは同じ青年である。ゆえに青年部への、特にその先駆である学生部への彼の期待は限りなく大きかった。
本陣 三十一
春の暖かな日差しが降り注ぐなか、会場の東京農業大学に到着した山本伸一は、まず学長室を訪問しようと考えていた。
学生部員らが「現代農業展」を開催し、そこに大勢の学会員を招待して記念撮影まで行うことができるのは、平林忠学長をはじめ、大学関係者の深い理解と協力があるからだ。
だから伸一は、創価学会の会長として、真っ先に御礼に伺いたかった。
その意向を、東京農大の教授で、学会の学術部員である杉町敬太郎から学長に伝えてもらった。
すると、平林学長は、杉町に言った。
「それはいけません。山本会長は、大勢の人から慕われ、信頼されている偉大な方です。私の方から、ごあいさつに伺うのが当然です」
そして、学長は、伸一の控室を訪問してくれたのである。
伸一は恐縮した。胸を打たれた。彼は、丁重に御礼を述べた。
学長は、温厚な人柄が光り、その言葉には、教育への強い信念と情熱があふれ出ていた。
既に体育館には、記念撮影のために、メンバーが並んで待機していた。
伸一は、学長と一緒に体育館に入り、参加者に紹介した。
マイクを手にした学長は、満面に笑みをたたえながら語った。
「皆さん。本日は、ようこそいらっしゃいました。なんのもてなしもできないで恐縮に存じますが、どうか、最後までごゆっくりとお過ごしください」
温かい言葉であった。
学長からマイクを受け取ると、伸一は言った。
「心温まるお言葉、ありがとうございます。
それでは、東京農業大学のますますの発展と、世田谷の皆様の、一層の繁栄を祈って、万歳を三唱しましょう」
拍手がわき起こった。
学長は、感無量の面持ちで、伸一の顔を見た。
皆の喜びに満ちあふれた「万歳!」の声が、体育館にこだました。
真心と真心が響き合った光景であった。
人に誠実を尽くすなかで、自身の輝きは増し、信頼と友好の輪は広がるのだ。
仏法は“慈悲”の道を説く。ゆえに仏法者とは、“誠実の人”の異名なのである。
本陣 三十二
山本伸一は、記念撮影の第一回のグループと写真を撮り終えると、平林学長と一緒に、教室を使って行われている「現代農業展」を鑑賞した。
展示内容は、畜産の状況や米栽培の現状、食糧問題、さらには、食生活と成人病の関係と対策など、多岐にわたっていた。
各コーナーでは、写真やグラフなどを使い、難解な問題がわかりやすく理解できるように工夫されていた。牧場の模型もあった。
それぞれの展示の前で担当の学生たちが説明してくれた。
伸一は、学生たちの努力を讃えながら、天然の乳糖と合成の乳糖の違いや、日本とインドネシアの稲作の技術の違いなどを熱心に尋ねていった。
学生が学長の前で、伸一の質問に、汗をかきながら、一生懸命に答える姿が微笑ましかった。
また、地図やパネルを使った、世界の食糧不足の状況や飢餓状態などの展示には、人類の幸福と平和を実現しようとする学生たちの、熱い気概が感じられた。
説明を聴くと、伸一は言った。
「人類のいかに多くが慢性飢餓状態に陥っているか、よくわかります。
この食糧問題を解決できれば、どれほど偉大な人類への貢献となるか。
農業は人類の未来にとって、極めて重要な分野です。最優先して取り組むべきテーマです。
ところが、日本人は、その農業を軽視する傾向がある。これは、とんでもないことです。
私は、農業問題についても、真剣に取り組む決意でいます。
今後も、いろいろと皆さんにお伺いすることもあると思いますが、よろしくお願いします。一緒に考えていきましょう。
また、皆さんのなかから、食糧問題を解決し、ノーベル賞を受賞するような方が出ることを期待しています。本当にありがとうございました」
教授の杉町敬太郎は、学生に対する伸一の丁重な態度に、大きな驚きを覚えた。彼は、伸一と接し、その行動を間近に見たのは、これが初めてであった。
“山本先生は、若い学生たちを敬い、まるで教えを受けるような口調で話されている。その人格を認め、最大に尊重されている。これが、人間主義ということか……”
本陣 三十三
「現代農業展」を鑑賞した山本伸一は、再び、体育館での記念撮影に戻った。
彼は、撮影のたびごとにマイクを手にし、虚栄の世界には人間の本当の幸福はなく、自身の生命の内にこそ、真実の幸福があることなどを訴えていった。
そして、青年たちに、こう提案したのである。
「万人に普遍の幸福の道を説いているのが仏法なんです。
この仏法を、徹底して研鑽して、自己の生き方の哲学とし、さらに、それを、地域社会の共有財産としていくために、私は、『世田谷仏教大学校』を発足させてはどうかと思いますが、いかがでしょうか!」
賛同の拍手が轟いた。
最後に彼は訴えた。
「世田谷区から新しい仏法哲学運動の波を広げてください!」
帰りがけに、区の壮年の中心者が、頬を紅潮させて伸一に言った。
「先生、ありがとうございました。今日の記念撮影で、皆、見違えるように元気になりました」
「それは、よかった。
皆を元気にするには、何があっても、リーダーがめげずに、燃え続けていることです。
どんなに深い闇でも、太陽が昇れば、すべては光に包まれる。太陽は常に燃えているからです。状況がどうあれ、君が太陽であればいいんだ」
決意のこもった顔で頷くと、壮年は尋ねた。
「これから地域社会の建設に取り組んでいくうえで、どういう努力が必要でしょうか」
伸一は言下に答えた。
「一人ひとりの同志が、なんらかのかたちで、『自分は、こうやって地域のために貢献している』と言えるものをもつことです。
社会と学会の間に垣根をつくるのではなく、信仰を原点として友情の翼を大きく広げ、新しい人間の連帯を地域につくり上げていくことです。
世田谷に、そのモデルをつくり、“東京革命”の先駆を切ろうよ」
東京農業大学を後にした伸一が向かったのは、両国の日大講堂であった。関東男子部総会に出席するためである。
彼は、車中、悪寒に襲われた。発熱していたのだ。風邪のようである。
“こんなことで負けてなるものか。新しき飛翔のために、断じて走り抜くのだ”
本陣 三十四
飛翔には、最大のパワーを必要とする。
「広布第二章」の大空に、学会を上昇させゆくために、山本伸一は、全精魂を注いで、大闘争を展開していたのである。
世田谷区での記念撮影の翌々日にあたる三月六日には、日大講堂で行われた壮年部総会に出席。翌七日には千葉県を訪問し、幹部会に出席している。
そして、十一日には、日大講堂で開催された女子部総会と学生部総会に相次ぎ出席し、指導・激励したのだ。
こうした強行スケジュールのなかでも、伸一は東京の強化のために、次々と手を打ち続けた。
十七日には、前年、千代田区の記念撮影メンバーで結成された「千代田七百五十人会」の集いで指導した。
そして、その翌日の十八日には、杉並区の同志が主催し、区内の私立高校で開催された、「杉並区・青年スポーツの集い」に、招かれて出席したのである。
ここでもスポーツ大会に先立って、メンバーとの記念撮影が行われることになっていた。
会場に向かう伸一の心は弾んでいた。
第二章の「杉並の時代」を、断じて開こうとの思いが、旭日のように、彼の胸に燃えていたのである。
彼は、杉並というと、忘れられぬ戸田城聖の話があった。
戸田は、よく伸一に語った。
「牧口先生亡き後、私が広宣流布に生涯を捧げる決意を宣言したのは、先生の一周忌法要の席だった。
私は叫んだ。
『……地涌の菩薩は、どこにいるのでもない。実に、われわれなのであります。私は、この自覚に立って、今、はっきりと叫ぶものであります。
――広宣流布は、誰がやらなくても、この戸田が必ずいたします。地下に眠る先生、申し訳ございませんでした。
先生! 先生の真の弟子として、立派に妙法流布にこの身を捧げ、先生のもとにまいります。今日よりは、安らかにお休みになってください』
それは、私の生命の叫びだった……」
その法要の会場が、杉並区内の寺院であったのである。
杉並は、恩師が広宣流布の師子吼を放った天地なのだ。
本陣 三十五
山本伸一は、学会草創の杉並支部の様子を思い起こした。
戸田城聖は一九五一年(昭和二十六年)五月三日、第二代会長に就任するが、その一カ月ほど前に、学会の新しい十二支部の布陣を整える。
その時、杉並支部は、最上位のA級支部としてスタートしている。
支部長は、後に婦人部長となる清原かつで、四人の支部幹事の全員が女性であった。さらに、地区は十二あり、その中心者の半数以上が女性であった。
まさに、女性が存分に力を発揮し、「女性の時代」の先駆を切ってきたのである。
杉並支部からは、十条潔や秋月英介、藤矢弓枝など、学会の最高幹部が陸続と育っていった。いわば、東京にそびえ立つ“人材城”が杉並であった。
さらに、杉並には、かつて社会的に大きな影響を与えた、吉川英治、林芙美子、北原白秋、川端康成などの作家も多く住んでいた。
また、全国に広がった原水爆禁止署名運動も、一九五四年(昭和二十九年)五月に、杉並の主婦たちから始まったと言われている。つまり、杉並区民の社会意識は、極めて高いといってよい。
社会意識に目覚め、平和を、地域の繁栄を願うならば、仏法という生命尊厳の哲理に、創価の人間革命運動に、必ず着目し、評価せざるをえないはずである。
したがって杉並は、広宣流布の新展開の重要な舞台であり、未来を決する天地であると、伸一は強く感じていたのだ。
彼は決意した。
“この杉並に、人間主義の凱歌を響かせていくには、新しき人材城をつくらねばならない。
大聖人は「各各師子王の心を取り出して・いかに人をどすともをづる事なかれ」(御書一一九〇ページ)と仰せである。
人材とは「勇気の人」だ。わが同志を、魂を揺さぶるような思いで、徹底して励まし、「勇気の人」をつくろう”
伸一は、満々たる闘志をたたえて車を降りた。
早朝には、雪まじりの雨が降ったが、既に空は晴れ、うららかな春の太陽が輝いていた。
「こんにちは! お世話になります」
その瞬間から、伸一の電光石火の激励の行動が開始されたのである。
本陣 三十六
会場となった高校の控室に向かって歩き始めた山本伸一は、校舎の前で、役員の女性を見かけると足を止めた。
「やあ、ご苦労様。久しぶりだね。お父さん、お母さんは元気かい」
彼女は、柴原洋子といい、四年半前の一九六八年(昭和四十三年)九月に行われた学会の秋季合同慰霊祭で、伸一が激励した女性であった。
柴原は、その二カ月前に、学生部のグループ長をしていた兄を亡くしたのである。
フランス語を学び、世界平和に尽くすことを念願していた、最愛の兄であった。
当時、彼女は、学習院女子短大を卒業し、会社勤めをしながら、学会活動に励んでいたが、この兄から信心の姿勢を学んできたのである。だが、柱と頼む、その兄が突然、病死したのだ。
彼女の衝撃も大きかったが、父と母の苦悩は、さらに深かった。
まだ悲しみが癒えぬなか、柴原の家に、学会として広布途上に逝いた方々の合同慰霊祭を行う旨の、連絡があった。
彼女は、父母と一緒に慰霊祭の会場となった、東京・八王子市内の墓園に出かけた。
慰霊祭の始まる前、伸一は、墓園のテントの中で、何組かの遺族と対面し、励ましの言葉をかけた。柴原の両親には、こう語りかけた。
「死の悲しみを乗り越え、あとに残ったご家族の皆さんが幸せになることこそ、息子さんの願いであると思います。
断じて、悲しみに負けてはいけません。強く、強く、生き抜くことが大事です。
これからは、私を息子だと思って、なんでも言ってきてください」
そして、彼女には、こう言うのであった。
「私は、お兄さんに代わって、あなたのことを見守っていきます。私を兄と思ってください」
伸一の言葉に、家族は皆、深い真心を感じた。
これが創価学会の世界なのか――彼女は、込み上げる涙を抑えることができなかった。
父親は入会はしていたが、学会嫌いであった。しかし、この日を境にガラリと変わった。
閉ざされ、凍てついた人の心をとかすものは、真心の温もりである。
凍てた心がとけ合う時、広宣流布の水かさが増すのだ。
本陣 三十七
山本伸一の励ましを受けた柴原洋子は、決然と心の涙を拭った。
彼女は、兄に誓った。
“お兄ちゃん! 私はお兄ちゃんの分まで、精いっぱい生きるからね”
合同慰霊祭から一カ月後に、学習院大学の大学会結成式が行われた。大学会メンバーに選ばれた柴原が結成式に参加すると、伸一は、その席でも彼女に声をかけた。
伸一自身、戦争で最も慕っていた長兄を失っていた。それだけに、大好きな兄を亡くした柴原の悲しさ、辛さが、痛いほどわかるのである。
さらに伸一は、強く生き抜いてほしいと、懸命に題目を送り続けた。
以来、伸一と柴原は、四年五カ月ぶりの再会であった。
彼女は、その後、兄の分まで勉強し、世界の平和に貢献したいと、学習院大学の英米文学科に編入学し、そして、この四月には大学院に進むことになっていたのである。
会場で役員をしながら、柴原は思っていた。
“山本先生は、毎日、何十人、いや、それ以上の人とお会いになっているにちがいない。私のことなど、覚えていらっしゃらないだろう”
ところが、伸一は、柴原一家のことを忘れてはいなかったのだ。
ただ、形式的に通り一遍の励ましを口にし、漫然と言葉を交わしていたのでは、一人ひとりのことを、生命に刻みつけることなどできない。
伸一は、常に必死であった。自身の一切を注いで、発心を促し、相手が立ち上がる契機をつくろうと、真剣勝負で人に接してきた。それゆえに、一人ひとりを、鮮烈に脳裏に焼き付けることができたのである。
柴原は、驚きと感動を覚えながら答えた。
「はい、おかげさまで、父も、母も、元気でおります!」
伸一は、明るく、はつらつと成長している柴原を見て、安堵した。
彼女は伸一に、四月には大学院に進学し、また、近々、結婚する予定であることを報告した。
「そうか、それはよかったね。何か、お祝いをしてあげたいな。何がいいかな」
「それでしたら、私たちに、生涯にわたる指針となる言葉をいただけないでしょうか」
「わかりました。今日中にお渡ししましょう」
本陣 三十八
山本伸一は、柴原洋子と言葉を交わしたあと、校長室にあいさつに向かった。
やがて、体育館で記念撮影が始まった。
撮影のたびに、伸一の力強い激励が続いた。
男子部、学生部、高等部らとの記念撮影では、「このメンバーで、『杉並兄弟会』を結成してはどうか」と提案した。喜びの拍手が爆発した。
それからほどなく、柴原は伸一に呼ばれた。
彼女が体育館の出入り口に行くと、伸一が色紙を手にして待っていた。そこには、一首の歌が認められていた。
彼は、それを、声を出して読み始めた。
ふたりして
月と花とを
語らいて
確たる道を
はげみ征かなむ
「あなたとご主人が力を合わせて、幸せの道を開くんだよ。人生は戦いだ。だから負けてはいけない。必ず勝つんだ。
その意味で、『はげみ征かなむ』の文字は、あえて『征服』の『征』の字を使っているんだよ」
「はい。ありがとうございます」
こう言って、柴原は色紙を見つめた。その文字が曇った。彼女の目に涙があふれていた。
柴原は唇をかみしめながら、広宣流布をわが使命とし、生涯、学会と共に生き抜くことを、固く心に誓うのであった。
この日、伸一は、記念撮影の合間には、撮影台の裏手まで回って、役員などに励ましを重ねていった。
苦労し頑張っている人がいるなら、一人も漏れなく激励したいとの、執念ともいうべき気迫が漂っていた。
“励ませば勇気を与えることができる。それが人間の強さと成長の原動力となる。だから、魂を注いで励ますのだ。そこにしか未来はない”
伸一は、そう確信していた。
彼は、校庭の片隅に立っている役員の青年を見ると、一冊の本を持って、すたすたと歩み寄っていった。その本は、間もなく発刊される伸一と教学部首脳との、てい談『生命を語る』の第一巻であった。
彼は、黒縁のメガネをかけた、その青年に声をかけた。
「ご苦労様! 風邪をひかないようにね」
本陣 三十九
役員の青年は、突然、山本伸一から声をかけられ、緊張した顔で、「はい!」と答えた。
伸一は、にこやかに語りかけた。
「警備をしてくれているんだね。警備は、光の当たらない地味な任務かもしれない。一日中、立っているだけということもあるでしょう。
しかし、魔というのは皆が安心し、『大丈夫だろう』と考え、少しでも油断が生じた時に、その間隙をつくようにして襲ってくるものです。
だから、真剣に、誠実に、任務を果たしてくださる方の存在が大切なんです。
その人がいるから皆が守られる。安全で、楽しい集いがもてる。
信心強き厳護の一念が、魔を寄せつけないのです。
したがって、警備というのは、目立たないが、最も重要な任務なんです。本当に大事なものは表面的には見えないし、その存在に、誰も気づかないことも多い。樹木でも根っこが見えないのと同じです。
だが、黙々とみんなを守った人は、三世永遠にみんなから守られていきます。それが仏法の厳然たる理法です。
ところで、君は男子部員かい?」
「学生部です」
「何年生?」
「この四月から、大学院の一年になります」
「そうか、優秀なんだな。未来が楽しみだな。ぼくは、君がどこにいこうが、君の生涯を、じっと見守っているからね」
伸一は、この青年の名前を聞くと、手にしていた『生命を語る』第一巻を贈呈した。
「君に贈ります。記念に何か書くから、本を開いて、持っていてくれないか」
青年が、本の見返しの部分を開くと、そこに、こう認めていった。
「生命は 大宇宙の外に逃れられない。故に僕は 妙法の世界に 生涯の原点を置き 軌跡をつくるのだ」
そして、その裏には、「君の三十年先を仰ぎみることを たのしみに」と記した。青年の目が決意に光った。
それから伸一は、傍らにいた、杉並の責任者に言った。
「杉並は、青年を育てよう。そして、若い力を前面に押し立てて、新しい創価学会の象徴にしていこうよ」
本陣 四十
「英雄とは自分にできることをする人だ。ところが他の人はそれをしないのだ」(注)
これは、ロマン・ロランの名言である。
自らの使命に生きよ。その人こそが、広布の英雄なのだ。
そして、そのスクラムが、堅固な東京城を築きゆくのだ。
山本伸一は、三月二十九日夜には、信濃町の創価文化会館で行われた、目黒区のメンバーとの記念撮影会に出席した。
この日の午後、伸一が文化会館の執務室に入ると、紫や白の花をつけた十本ほどの美しい菖蒲の花が飾られていた。
「美事だね……。誰が生けてくれたんだい」
側近の幹部が答えた。
「今日、記念撮影を行う目黒区の、婦人部の方だそうです」
「すごいことだね。これは大変な戦いだったはずだ。執念を感じるね」
側近の幹部は、伸一の言葉に不可解な顔をしていた。
その幹部には、“ただ菖蒲の花が生けられているだけのことではないか”と思えたのである。
それを見透かしたかのように、伸一は言った。
「菖蒲というのは初夏の花だ。三月に咲くことなどないよ。その菖蒲が生けられている。苦労して、苦労して、用意してくれたはずだ。
リーダーがそれを感じ取れなければ、会員が不幸だ。幹部は鈍感であってはならない」
伸一が直感したように菖蒲の花を飾るに至った陰には、同志の必死な敢闘のドラマがあった。
――一カ月ほど前のことである。
記念撮影会を迎えるにあたり、目黒の幹部で検討し、「当日、山本先生に菖蒲の花を生けて、お届けしよう」ということになった。
「菖蒲」を「勝負」に掛け、すべての活動に勝利する誓いにしようというのである。
そして、菖蒲の花を調達し、生けることを任されたのが、華道の師範である総ブロック委員の岡辺京子であった。
彼女は、勇んで引き受けたものの、すぐに壁に突き当たった。
生花店に行くと、店の主人はこう言うのだ。
「無理ですよ。三月に菖蒲が咲くことはありません。どこを探してもないでしょうね。あきらめるしかないでしょう」
本陣 四十一
菖蒲は三月に咲かないことは、岡辺京子も承知していたが、生花店に相談すれば、なんとかなるのではないかと思っていた。
しかし、その淡い期待が打ち砕かれてしまったのだ。
“不可能を可能にするのが信心だ。絶対にあきらめるものか!”
彼女は、こう自分に言い聞かせ、必死に唱題しながら、東京中の主な生花店を次々と当たった。アヤメの名所である茨城県の潮来にも問い合わせてみた。だが、どこも答えは同じだった。
時には「季節を考えてよ、奥さん」と、嘲るように答える人もいた。
記念撮影会の一週間前になっても、菖蒲は見つからなかった。
その報告を受けた、区の幹部は言った。
「それなら、仕方がないから、ほかの花にしようよ。菖蒲の花にこだわることはない」
岡辺は、温厚な人柄であった。しかし、その彼女が、厳とした口調で言った。
「いいえ、探します。あきらめることは簡単です。しかし、一度決めたことですもの、やめるわけにはいきません。
これは、ただ花を飾るというだけの問題ではありません。私たち目黒の勝利への誓いを、絶対に勝ち抜くとの心意気を、先生にお届けする戦いであると思っています」
勝利とは、最後の最後まで決してあきらめることなく、祈りに祈り、動きに動いた執念の結実なのだ。
彼女の気迫に触れて、区の幹部は決意を新たにし、自らに言い聞かせるように言った。
「そうだな。あきらめちゃいけないな……」
岡辺の言葉が、皆の心を鼓舞したのだ。
区の幹部も、菖蒲の花が手に入るよう真剣に祈り、探し始めた。
岡辺は、あらゆる手を尽くしていったが、菖蒲は依然として見つからぬまま、一日、また一日と過ぎていった。
記念撮影会の前々日の朝であった。彼女のもとに、区内で聖教新聞の販売店をしている壮年から電話が入った。
「岡辺さん。菖蒲があったよ! 埼玉で早咲きの菖蒲を咲かせた農家があるそうなんだ。早朝のラジオで、放送していたのを聴いたんだ」
本陣 四十二
聖教新聞の販売店の店主から、菖蒲の花が咲いたという電話をもらった岡辺京子は、「諸天が動きだしたんだ!」と確信した。
彼女は、店主の家に行って話を聞き、そこから放送局に電話をして、菖蒲を栽培した農家がどこかなどを尋ねた。
しかし、放送局では、詳しいことは教えられないとの返事であった。商売などに利用されては困るからというのだ。
彼女は、一生懸命に事情を説明した。そして、とうとう、その農家の住所などを教えてもらったのである。
翌日の朝、岡辺たちは車で埼玉県の越谷方面に向かった。既に記念撮影会の前日であった。
途中、道に迷ったりしたが、なんとか、その農家を訪ねあてた。
だが、ここで、またしても、壁が立ちはだかったのである。
応対に出た中年の男性は言った。
「菖蒲の花はあるが、売り物ではない。頼まれて実験的に栽培しているだけだ。だから、売るわけにはいかないね」
“せっかく菖蒲を見つけたのに、あきらめるなんて絶対にできない!”
岡辺は懸命であった。
「そこをなんとか、お願いします。
実は、お世話になった恩師のお部屋に、弟子としての誓いの証として、菖蒲を生けたいのです。どうしても、菖蒲でなければならないのです。
私たちは、これまで、菖蒲を探して、東京中を駆け回りました。そのほかにも、ありそうなところは、すべて当たりましたが、どこにもありませんでした。
ここしかないのです。ぜひ、譲ってください。お願いします」
彼女は懇請し、深々と頭を下げた。
分けてもらうまでは、いつまでも、頭を下げ続けるつもりであった。
農家の男性は、腕を組み、岡辺をじっと見ていた。そして、つぶやくように言った。
「わかった……」
「ありがとうございます!」
彼女の目には涙が光っていた。
必死の一念が壁を砕いたのだ。
ガンジーは断言する。
「心からの祈りによって、成し遂げられないものは、この世界にない」
本陣 四十三
岡辺京子は、翌日の記念撮影会に最も美しく花開くと思われるものや、形のよい蕾をつけたものなど、十数本の菖蒲を選んで譲ってもらった。
そして、記念撮影会当日の午後、創価文化会館で生けたのである。
執務室でその菖蒲を鑑賞した山本伸一は、側近の幹部に言った。
「『菖蒲』の花を『勝負』に掛けたんだね。ここには、どんな困難も乗り越えて、断じて勝つという、目黒の全同志の決意が凝縮している。
戦いというのは、勝つと決めた人が勝つ。その勝利への執念が無限の力になるんだ。
目黒は私の新しき旅立ちの天地なんだ。私の結婚生活のスタートは、目黒区の三田だったからね。だから、目黒と聞くと、胸が躍るんだ。
勝ってほしいな。目黒の同志には、すべての面で、勝って、勝って、勝ちまくってほしいな」
そして伸一は、句を詠んで、『生命を語る』の本に認め、岡辺に贈ったのである。
颯爽と
二章の船出の
菖蒲かな
夜、記念撮影会の会場に姿を現した伸一は、開口一番、こう語った。
「目黒の皆さん、本日は、ようこそいらっしゃいました。
学会本部は皆さん方の実家であり、本家です。楽しく、思う存分にくつろいでください」
記念撮影が始まった。
伸一は、青年部には、「このメンバーで『目黒兄弟会』を結成し、定期的に本部に集い、成長を刻む節にしてはどうでしょうか」と提案した。
さらに参加者に、こう訴えたのである。
「人間は、受け身であれば、本当の力は出ません。人に言われて動いていたのでは、生命の躍動もありません。
自分が地域広布の責任を担うのだと決めて、自ら進んで行動を起こすことです。主体者として立つことです。それが地涌の菩薩の生き方です。
そうすれば、歓喜がわきます。力が出ます。
いかなる立場であれ全員が目黒の責任者です。いや、私と同じ、会長の自覚をもってください。
目黒の皆さんの勝利を、私も妻も、毎日、真剣に祈っております」
本陣 四十四
山本伸一は「本陣・東京」の堅固な建設のためには、二十三区内だけでなく、「第二東京本部」と呼ばれていた、多摩地区を強化していくことが、極めて重要になると考えていた。
多摩地区は大東京のベッドタウンとして開発が進み、人口も急増し、大きく発展しつつあった。しかし、古くからの住民と新しく移転してきた人との交流は乏しく、新しい住民同士も、人間関係は至って希薄であった。
その人間の絆の欠如はさまざまな面で、地域社会の繁栄の障害となっていたのである。
多摩地区の発展を考える時、分断された人間の心と心に橋を架け、地域に根差した新たな人間の連帯を築くことが不可欠であった。
伸一は、そこに、創価学会の大事な使命があると深く自覚していた。
第二東京本部では、三月三十一日に、創価大学の体育館で幹部会を開催した。
伸一は、この幹部会に勇んで足を運んだ。
会場の体育館には、大きな桜の木が作られ、爛漫と花を咲かせていた。
そこには、「わが地域に幸福の春を」との皆の誓いが託されていた。
席上、伸一は、幾つかの御書を拝し、“報恩”の大切さについて訴えていった。
「人間は、父母の恩をはじめ、一切衆生の恩、国王すなわち社会の恩、三宝(仏・法・僧)の恩、また、師匠の恩と、さまざまな恩を受けて生きております。
しかし、現代人は、他人は皆、対立と生存競争の相手としか見えなくなってしまい、周囲の人びとの“恩徳”が、心の眼に映らなくなってしまっている。
そして、その結果、人間と人間が分断され、皆が互いに孤独を感じ、疎外感をもっています。
だが、心眼を、また、慧眼、法眼を開いて“恩徳”を見すえていくならば、自分はいかに多くの人に支えられて生きているか再認識することができる。そうなれば疎外感ではなく、感謝の心が、喜びがわきます。
仏法は、その恩に報いていくことを教え、そこに人間の道があり、仏法者の使命があると説いているんです」
“報恩”の欠落は、人間性の崩壊である。
語句の解説
◎慧眼、法眼/
仏法では、物事を見極める眼を、「五眼」(肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼)として、五種類に立て分けている。
慧眼は、真理を洞察する智慧の眼で、二乗(声聞・縁覚)が具えているとされる。
法眼は、衆生を救済するために、社会の諸事象に通達し、正しく判断する眼で、菩薩が具えているとされる。
日蓮大聖人は、「法華経を持つ者は、この五眼が自然に具わる」(御書一一四四ページ、通解)と仰せになっている。
本陣 四十五
山本伸一は、報恩こそが、仏法者の生き方であり、社会貢献の活動も、本来、その一念の発露であることを述べた。
なかんずく、折伏をもって、絶対的幸福の道を開く仏法を教えていくことは、それが、最高の報恩感謝であり、孝養となることを語った。
この日、伸一が、最も力を込めて訴えたのは、「自身の心を折伏せよ」ということであった。
広宣流布の前進を阻むものは、外にあるのではなく、自身の内にこそあるからだ。
臆病や弱さは、あきらめを生み、「もう、だめだ!」「これ以上はできない」と、自分の壁をつくり出してしまう。
また、慢心は、油断と安逸を生み、敗北の墓穴を掘る。
その心を打ち破り、自らを折伏するのだ。
壁を破るには、腹を決めることだ。
断じて成し遂げてみせると、一念を定め、御本尊に誓願の題目を唱え抜くのだ。
そして、勇猛果敢に行動せよ。走りだせば加速度がつく。勢いを増す。
伸一の第二東京本部への期待は、あまりにも大きかった。
人口の流動状況などからみても、将来、第二東京本部は、八王子や立川などを中心に、東京の新拠点となっていかなければならない。
いや、都区内とともに、日本の中心、世界の教育と文化の中心となっていく地域であると伸一は考えていた。
だから彼は、大発展の要諦として、「自身の心を折伏せよ」との言葉を贈ったのである。
渾身の指導を終えて、伸一が体育館を出ると、外にいた十数人のメンバーが彼を見つけて、「先生!」と叫びながら駆け寄ってきた。
「ご苦労様! みんなどこからいらしたの?」
「八王子です!」
一人の壮年が答えた。
「地元だね。八王子はやがて創価の本陣になるよ。大発展するよ。ここに世界模範の広宣流布の理想郷をつくろうよ」
「はい!」
「ほかの方は?」
伸一が尋ねると、最前列の四十代半ばの女性が大きな声で言った。
「私は町田です。町田も大発展しています。必ず『町田の時代』を築きます」
本陣 四十六
山本伸一は、町田から来たという婦人の決意を聞くと、微笑み、頷きながら語った。
「嬉しいね。頼もしいね。その意気だよ。
ご家族は信心していらっしゃるの?」
「はい。主人も、子どもも、また、実家の父母も、一生懸命に信心しております。
私が入会したのは、結婚前でしたが、その時は父母も、姉たちも大反対でした。家から閉め出されてしまったこともありました。
“なぜ、学会のすばらしさがわからないのだろう”と思うと、悔しくって、何度泣いたかわかりません」
「そう。大変だったんですね」
彼女は、満面に笑みを浮かべて言った。
「でも、今はそうしたことが、一番誇らかで、愉快な思い出になっています」
「そうなんだ。そうなんだよ。
厳しい試練の冬も、勝利の春が来れば、すべては喜びに変わる。涙あっての笑いです。労苦あっての歓喜です。
苦闘している時には、“なんで自分だけ、こんなに大変な思いをしなければならないのか”と思うこともあるでしょう。
しかし、それは、自ら願い求めた使命の舞台なんです。苦悩が深ければ深いほど、それだけ偉大な使命を担っているということなんです。
つまり、あなたは、どんなに厳しい家庭の状況であっても、家族の一人が立ち上がれば家庭革命はできる、一家和楽は実現できるということを証明してみせたんです。
同じような状況で、悩み、苦しんでいる人が、その事実を知れば、皆が『私にもできるんだ』と希望をもつでしょう。勇気をもつでしょう。
ご家族の学会への無理解というのは、あなたがその使命を果たすための舞台だったんです」
婦人は、何度も頷きながら、伸一の話を聞いていた。
「人生の充実感や痛快さは、幾つ苦難を乗り越えてきたかによって決まります。いかに年齢を重ねようが、苦闘がなければ精神は空疎です。
自分の幸福のため、充実のために、自ら戦いを起こすことです。そして、自身の挑戦のドラマをつくるんです」
本陣 四十七
町田の婦人は、頬を紅潮させて答えた。
「先生、私も戦いを起こします。新しい挑戦のドラマをつくります」
山本伸一は、笑顔で言った。
「頑張ろうね。苦闘するということは、自身の人間革命の大舞台に立ったということなんです。
それを乗り越え、勝利した時の喜び、爽快感は、何よりも、誰よりも大きい。人は苦労して戦い抜いた分だけ、幸福になる権利がある。
では、また、お会いしましょう。地元の皆さんに、『町田、頑張れ! 町田、勝ちまくれ!』と、お伝えください」
メンバーと別れた伸一は、自らにこう言い聞かせていた。
“これで、東京革命の狼煙は上がった。『広布第二章』の潮流は東京から起こす以外にない”
思えば日蓮大聖人が戦いの舞台とされたのは、政治、経済の中心地である鎌倉の都であった。
鎌倉には、多くの苦悩する民衆がいたからだ。そして、諸宗派と幕府の権力とが癒着し、権勢をほしいままにする、宗教界の堕落の現実があったからだ。
そこに、広宣流布の狼煙を上げずしては、立正安国という改革の実現はないからだ。
また、その鎌倉に勝利の旗を打ち立ててこそ、広宣流布の波は、日本中に広がっていくのだ。
しかし、それだけに、諸宗派と権力とが結託し、大きな迫害が起こることも、当然、覚悟しなければならなかった。
だが、大聖人は、その鎌倉の都で、敢然と戦いを起こされた。
創価学会もまた、首都東京で旗揚げされ、東京に本部を設け、広宣流布の戦いを起こした。
軍部政府の時代から、政治権力は弾圧の牙をむき、戦後は、さらにひしめく諸宗教が憎悪の礫を浴びせ、学会に襲いかかった。
だが、そこに本陣を置いてこそ、広宣流布はなるのだ。いな、難攻不落の広布の大東京城を築き上げてこそ、立正安国の永遠なる基盤が築かれるのだ。
“私は、世界の希望となる、広布の模範・東京を断じて築く。東京に、人間共和の圧倒的な大勝利の旗を、永遠になびかせるのだ!”
伸一の決意は、固く、強かった。
本陣 四十八
「広布第二章」の本格的な旅立ちにあたって、さっそうと、その先駆を切ったのは、青年たちであった。
男子部は、二月十八日に、新章節開拓の意義を込めて、第二十一回総会を両国の日大講堂で開催した。この席上、活動方針の柱として、社会に開いた青年運動を打ち出したのである。
そして、反戦平和、反公害、文化保護の原則の確立や、戦争否定の持続的な意識の啓発、核兵器と戦争の廃絶のための署名運動、ベトナム救援募金の実施を、具体的な活動として示した。
また、「生存の権利を守る青年部アピール」が、男子部長の野村勇から発表された。
「われわれ創価学会青年部は、『生存の権利』という至上の権利を守り抜き、この地球上に恒久平和と人類の幸福をもたらすために、次の三つの主張を粘り強く訴え続けていく。
一、核兵器および一切の軍備を地球上から消滅させ、一切の戦争を廃絶する。
二、環境を破壊し、生命の生存の基盤を日に日に奪っていく公害を絶滅し、生き抜く権利を守り抜く。
三、生命軽視の社会的風潮、暴力、人間性への不当なる抑圧と戦い、真の人間解放をめざす」
アピールでは、さらに、この運動は万人の生存の権利を守り抜く「生命的ヒューマニズム運動」であり、生命、人格、個人の幸福は、いかなる場合も手段化しないという「生命尊厳」の立場からの展開であることを訴えていた。
また、思想、信条の違いを乗り越えて、世界平和を願い、生命の尊厳を守り抜こうとする多くの人びとと友好の絆を強め、連帯して、その実現に向かって進むことをうたっていた。
このアピールの採決では、皆が一斉に起立し、総意をもって決定をみたのである。
青年たちは、深く心に誓っていた。
“この世から不幸と悲惨をなくそう”
“人類最高の叡知である仏法を社会に開こう”
御聖訓には、「智者とは世間の法より外に仏法を行ず」(御書一四六六ページ)と仰せである。
立正安国の使命を自覚した青年たちの胸には、社会建設への闘魂が、赤々と燃え盛っていた。
本陣 四十九
山本伸一は、難解な人類の諸問題に真っ向から取り組み、本格的に立ち上がった青年たちの若々しい気概が頼もしくもあり、嬉しくもあった。
この男子部総会で伸一は、人生の勝利を飾りゆく要諦として、「信心」「見識」「努力」「人情」「目標」の五項目を示したのである。
彼は、さらに方面ごとの青年の集いにも出席して、共に「広布第二章」へ船出しようと、心に決めていた。
そして三月四日には、埼玉、千葉、茨城、群馬、栃木の青年の代表が、東京・日大講堂に集って行われた、関東男子部総会に出席したのである。
あいさつに立った伸一は、厳とした口調で語り始めた。
「第二章の新しい出発にあたり、まず最初に諸君の敢闘を期待したい。これは、決して私がお願いするという意味のものではない。
私も戸田先生の松明を受け継いで、自ら走れる限り走り抜いた。
広宣流布は人に頼まれてするのではなく、地涌の菩薩としての自身の自覚から、また、この世に生まれてきた自分の使命として、やむにやまれぬ久遠の生命の発動として遂行するものだからです。
その自発の決意と能動の実践なき人は、もはや第二章の戦いを担う勇士ではない。真実の学会健児ではない。
この第二章は、広宣流布の本格的な実践段階であり、本格的な信心の人こそが、それを担いうる実践者なのであります。
御金言には『日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず』(御書一二八二ページ)と仰せのように、臆病者では戦い抜けない時代なのであります。
諸君の歌っている男子部の愛唱歌の一節に『友も半ばに倒るとも 誓い忘るか 誓い忘るか 革命の……』とある。
この歌を決して忘れないで、高らかに歌いながら、力ある法戦の勇士になってほしい」
この歌は、二月の男子部総会で発表されたばかりの、「原野に挑む」という愛唱歌であった。
いかなる試練も、嵐も乗り越えて、敢然と一人立ち、師弟の道を征く師子たらんとする男子部の熱き誓いを歌にしたものである。
伸一は、その青年たちの心意気を讃え、広宣流布の主体者となることを訴えたのである。
本陣 五十
“青年さえ育てば、未来は開かれる。青年のために、命もかけよう。すべてをなげうとう”
それが山本伸一の誓いであり、決断であった。
彼は、寸暇を惜しんで青年と会い、会合に出席しては、遺言の思いで、「広布第二章」の新たな指針を示していった。
三月十一日、日大講堂で行われた女子部総会では、成長の糧として「発心」「進歩」「連帯」「善美」「展望」の五項目の指針を贈った。
このうち、「善美」とは、人びとに希望と勇気と喜びをもたらす、崇高な生き方である。
さらに、引き続いて、同じ会場で行われた学生部総会では、「人間学の権威者に」「教学を根本に幅広く学問に挑戦を」「向上は青年の異名である」と指導している。
そして、十日後の二十一日には、初の九州青年部総会に臨み、「正信」「研鑽」「誠実」「品格」「連持」を行動の規範として提案した。五番目の「連持」は、持続といってもよい。
確かなる指針は、未来をめざす青年の、希望の灯台となる。
それらを胸に、新しき世紀の大海原へ、青年たちは勇躍、旅立っていったのである。
この一九七三年(昭和四十八年)は、言論の本陣・聖教新聞社にとっても新たな船出となった。
二月末から四月初旬にかけ、海外常駐特派員の第一陣として、香港、アメリカのシカゴとロサンゼルス、フランスのパリに、記者が派遣されていったのである。皆、青年であった。
世界広布第二章の開幕を迎え、「世界の聖教」へと飛躍するための新たなる布石であった。
伸一は、その一人ひとりに全精魂を注ぎ、厳しくも温かい励ましを重ねて送り出した。
「ひとたび行くからには、その国の土となる覚悟をもて! その国の人びとに尽くし抜け!」
海外生活は決して容易ではない。遊び半分では自身も行き詰まり、周囲も迷惑する。特派員は、皆、珠玉の人材である。ゆえに伸一は、全員を大成させたかったのだ。
彼の植えた励ましの種子は、やがて見事に花開いていく。このなかから各国の理事長などとして活躍するメンバーが誕生するのである。(この章終わり)