入魂 一

 黄金の「時」が来た!
 天王山の「時」だ! 
 決勝点は近い!
 一九七二年(昭和四十七年)の元日を迎えた山本伸一の胸には、天をも焦がさんばかりの闘魂が燃え盛っていた。
 元旦、家族で自宅の御本尊に向かい、唱題しながら、彼は「夫れ仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし」(御書二五六ページ)との「撰時抄」の冒頭の一節をかみしめていた。
 時を逃せば、何事も成就しない。それまでの努力も、苦労も、すべては水泡に帰してしまう。
 日蓮大聖人は仰せである。
 「権実雑乱の時法華経の御敵を責めずして山林に閉じ籠り摂受を修行せんは豈法華経修行の時を失う物怪にあらずや」(同五〇三ページ)
 仮の教えである権経と、真実の教えである法華経とが入り乱れている時に、果敢に折伏を行わないのは、法華経修行の時を失う、とんでもないことであると、厳しく断言されているのだ。
 立つべき時に立たず、戦うべき時に戦わなければ、自身の一生成仏のチャンスも、広宣流布の好機も逃してしまう。
 伸一は、今こそ、全同志が総立ちする「まことの時」が、遂に来たことを、痛感していた。
 トルストイが、「時間は一瞬間の休みもない無限の運動」(注)と述べている通り、時は過酷なまでに素早く、走り去っていくものだ。
 この一九七二年という年は、広宣流布の未来への壮大な流れを決することになる、極めて重要な一年であった。
 いよいよ、この年の十月に、大聖人が後世の弟子たちに建立を託された、本門の戒壇となる正本堂が、総本山大石寺に落成するのだ。
 この正本堂の建立によって、広宣流布の流れは、立正安国の本格的な実現の段階に入るとともに、世界広布の新展開を迎えることになる。
 その新しき大建設のためには、全同志の胸中に永遠に崩れることのない堅固なる信心の柱を打ち立てねばならない。
 伸一は、正本堂の建立までが、日本の広宣流布の流れを決する「勝負の時」であると、固く覚悟していた。
 今こそ、わが生命をなげうつ決意で、命の限り、走り抜くことを、強く心に誓っていたのである。

語句の解説
 ◎立正安国/
 日蓮大聖人の「立正安国論」(一二六〇年に北条時頼に提出)に基づく言葉で、「正を立て国を安んずる」の意味。一人ひとりの心の中に正法を確立し、社会、国家の繁栄と世界の平和を築いていくこと。

引用文献
 注 トルストイ著『戦争と平和』米川正夫訳、岩波書店


入魂 二

 この一九七二年(昭和四十七年)は、創価学会として「地域の年」と名付け、立正安国を実現する基盤づくりに、全力で取り組んでいった。
 社会の繁栄や平和といっても、それを支えるものは地域であるからだ。
 近隣に始まり、わが町に、わが村に、仏法の人間主義への共感を、そして人権と平和の連帯を、どれだけ広げることができたか――すべては、そこに集約されるといってよい。
 地域建設に心躍らせる同志たちの、大きな励ましとなったのが、「聖教新聞」元日付に掲載された山本伸一の「わが友へ」と題する短文指導の贈言であった。
 伸一は、折あるごとに青年部をはじめ、各部のメンバーに、書籍や色紙などに励ましの一文を記して贈ってきた。
 それは、一人ひとりの幸福と、人材へと成長しゆくことを祈りながらの、誠実にして真剣な戦いであった。
 これらの贈言は、聖教新聞社の強い要請で、前年の六月から「若き友へ贈る」と題して、折々に掲載されてきた。
 元日付では、「わが友へ」と題して、一ページを使い、十数編の贈言が掲載されたのである。
 
 「われらが地上に
 新しい 春が来た。
 負けるまい。恐れまい。
 白雪の王者
 富士の如く
 寒風も 烈風も
 思いきり 受けながら
 毅然として動じまい」
 「われらの前途には
 荒野が待つ。
 風が吹き 大地に塵が
 舞い上がるのは当然である。
 しかし 共に久遠の兄弟として
 疾風のなかを
 あの 真如の都を目指して
 まこと溢れる 励ましあいを忘れず
 馬上凛然と 今日も進むことだ」…………
 
 この年の新年勤行会では、学会本部をはじめ、全国各地の会場で、贈言「わが友へ」を読み合い、決意を新たにする光景が見られた。
 伸一が、敬愛するわが同志に、“勇気の火をともしたい。希望の光を注ぎたい”と、生命を振り絞るようにして紡ぎ出した言葉である。
 その強き一念から発する言葉だからこそ、友の心を打つのである。


入魂 三

 山本伸一は、元日の午前十時から、学会本部での新年勤行会に出席し、引き続いて、創価文化会館で行われた元旦祭に参加した。
 皆が新時代到来の歓喜にあふれていた。
 元旦祭では、芸術部員による希望と喜びに躍動する舞や、はつらつとした少年部員の組み体操などが披露され、参加者から盛んな喝采をあびていた。
 翌二日、伸一は四十四歳の誕生日を迎えた。
 この日、彼は、総本山に行き、初代会長牧口常三郎、第二代会長戸田城聖の墓に詣でた。
 伸一は、戸田の墓前で深い祈りを捧げながら、この意義深き一年の決意を報告した。
 “戸田先生! 先生が私に遺言として託された正本堂も、いよいよ今年の十月には落成の運びとなりました。
 その落成の式典には全世界から同志が集まり、盛大にお祝いいたします。すべて先生のご精神を受け継ぐ、先生が蒔かれた種子が広がり、誕生した弟子でございます。
 そして、この正本堂の建立をもちまして、広宣流布の流れは、線から面へ、立正安国の本格的な実現の時代へと移ってまいります……”
 伸一は、戸田をしのぶと勇気がわいた。元気が出た。どんな苦難をも耐えることができた。
 人間は、崇高な理想に生きようと決意しても、ともすれば、自分の心に生ずる、恐れや迷い、怠惰、さらにまた、増上慢によって、敗れ去ってしまうものだ。
 ゆえに大聖人は、「心の師とはなるとも心を師とせざれ」(御書一〇二五ページ)との経文を引かれて、自分の心が中心となることを戒められているのである。
 だが、心に「師匠」という規範をもつ人は、自身の弱さに打ち勝つことができる。
 伸一の胸には、常に戸田の声が響いていた。
 厳しい叱咤の声もあった。呵々大笑しながらの励ましの声もあった。
 伸一にとって、戸田は厳たる灯台であった。
 師は、どんなに激しい嵐の夜でも、進むべき未来の航路を照らし出し、見守り続けてくれているというのが、彼の実感であった。
 戸田という師をもてたことが、いかに幸せであったかと、伸一は、しみじみと思うのである。


入魂 四

 この一月二日の夜は、大客殿で第一回の大学会総会が行われることになっていた。総本山には、全国各地から集った大学会メンバーの、はつらつとした姿があった。
 山本伸一は、一人でも多くの青年たちに、「生涯不退」の決意を固めてほしかった。だから、行き交うメンバーにも、寸暇を惜しんで話しかけ、全力で激励した。
 真剣勝負の人は、一回一回の出会いを無駄にせぬものだ。
 参道でも、語らいながらやって来た、数人の青年たちに声をかけた。
 「やあ、ご苦労様!」
 「こんにちは!」という元気な声が、はね返ってきた。だが、そのうちの一人が、視線をそらしたのを、伸一は見逃さなかった。黒縁のメガネの青年であった。
 「体の具合でも悪いのかい」
 「い、いえ……」
 口ごもり、うつむいてしまった。隣にいた青年が代わりに答えた。
 「彼は山口君と言います。実は、大学を卒業して二年ほど、信心から離れていました。
 しかし、今回の大学会総会には、なんとしても参加させたくて、みんなで激励し、一緒に集うことができたんです」
 伸一は、包み込むように微笑を浮かべた。
 「それはよかったね。
 ともに広宣流布に生きる同志として、生涯にわたる友情を培っていくことが、大学会をつくった意義の一つなんです」
 イギリスの哲学者ベーコンは「真の友人が得られないのは、ほんとうの孤独であり、気の毒な孤独である。それが無ければ世界は荒れ野に過ぎない」(注)と語っている。同志の存在ほど、ありがたいものはない。
 伸一は、うつむいてしまった青年に言った。
 「山口君といったね。君がここに来たということは、勝ったということなんだよ。
 君は生涯、広宣流布の道を歩もうという大学会の誓いを必ず果たすと、私は確信しています。
 就職して、仕事が忙しかったのかい」
 山口は顔を上げた。
 「それもありますが、自分が弱かったんです。大学時代は学生部の仲間といつも一緒でした。しかし、就職すると、職場にも会社の寮にも、学会員はいませんでした。それで、いつの間にか、信心を忘れていたんです」

引用文献
 注 『ベーコン随筆集』神吉三郎訳、岩波書店。現代表記に改めた。


入魂 五

 山口は、山本伸一の温かな眼差しに包まれながら、安心したように語っていった。
 「信心から離れたこの二年間は、決して充実したものではありませんでした。いつも、空しさや後ろめたさに苛まれていました……」
 伸一は、頷きながら言った。
 「すべてのものには使命がある。花は咲くことを使命とし、太陽は輝き、暖かな光を送ることを使命としている。水は流れ、清め、潤すことが、使命といってよい。
 君も、私も、広宣流布という本然の使命をもって、この世に出現した地涌の菩薩なんだ。
 その自己の使命を果たさないということは、開花せぬ花であり、輝かぬ太陽のようなものだ。それでは、真の充実や歓喜などあるはずがない。
 仕事に力を注ぎ、職場の第一人者になることは大切です。しかし、なんのための人生かを忘れてはならない。
 それは、人びとと社会に貢献するためです。この世から不幸を追放し、万人に幸福と平和をもたらす、広宣流布をなしゆくための人生です。
 この広宣流布という根本目的を忘れずに、職場の勝利者となり、立派な家庭を築き、信頼と幸福の実証を示していくことが大事なんです。それが、仏法の力の証明になるからです」
 山口は、盛んに瞬きをし、相づちを打ちながら伸一の話を聞いていた。素直だが、気の弱そうな感じの青年であった。
 「信心を離れて、本当の生命の充実も、歓喜もありません。
 どんなにお金を稼ごうが、社会的に偉くなろうが、それだけでは、最後に残るのは空しさであり、老いや死に対する不安と恐怖です。
 生老病死という人間の根本的な苦悩を解決できるのは、仏法しかありません」
 伸一は、なんのための信心かを、山口にわかってほしかったのである。
 「ところで、君は、優しそうな性格だが、気が弱いところがあるんじゃないかい」
 「はい」と、か細い声が返ってきた。
 「性格や性癖というのは、うまく生かされなければ、不幸の原因になってしまうことが多い。性格は、境涯や幸・不幸を決める、宿業の現れの一つと考えられる」


入魂 六

 性格が宿業の現れの一つと聞いて、青年たちの目が光った。山本伸一は話を続けた。
 「人間には、さまざまな性格や性癖がある。いつも気が弱く、他人の言いなりになってしまう人もいれば、すぐにカッとなってしまう人もいる。
 また、何かあると、すぐに自分を卑下する人もいれば、ふてくされてしまう人もいる。愚痴や文句ばかり言う人もいる。
 一般的に考えて、性格形成の背景には、遺伝など先天的な要因もあれば、家庭環境など後天的な要因もあるでしょう。
 いずれにしても、それは、宿業と深いかかわりがあることは確かです。
 宿業は、過去世の身口意の三業の積み重ねによってつくられる。つまり、常々、どう行動し、何を言い、どう思ったかの積み重ねなんです。
 その結果として、性格が災いし、失敗や破綻を引き起こす場合もある」
 皆、真剣な顔である。
 「たとえば、カッとなる性格の人は、職場でもすぐに喧嘩をしがちだ。すると、周囲から疎んじられ、人間関係もうまくいかなくなる。場合によっては、会社を辞めることにもなりかねない。
 その原因は性格にあるから、どこに行っても同じようなことを繰り返してしまう」
 山口が伸一に尋ねた。
 「性格も、信心で変えられるんですか」
 「信心で自分の性格の悪い面は是正され、良い面が生かされていくんです。御書には『桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見すれば……』(七八四ページ)と仰せです。
 桜は桜、梅は梅、桃は桃、李は李と、それぞれがありのままの姿で、自分の性格を最大限に生かしながら、幸福になる道を説いているのが仏法なんです。
 すぐにカッとなる人というのは、情熱的で、正義感が強いということです。信心に励めば、つまらぬことでカッとなるのではなく、悪や不正を許さぬ正義の人になる。
 また、誰かの言いなりになってしまう人というのは、優しさや人と調和する力がある。それが引き出されていくんです。そうなっていくことが人間革命なんです。
 そのためには、具体的にどうしていけばよいのか――これが大事です」
 青年たちは、固唾をのんで頷いた。


入魂 七

 山本伸一は、人間革命の要諦について語っていった。
 「根本的には、唱題に励み、生命を磨き抜いていくことです。自身を見つめ、自分の問題点や生命の傾向性を自覚していくことが大切です。
 たとえば、誰にでも、“不幸は人のせいだと考えてしまう”“堪え性がない”“人の意見を聞かない”等々、それぞれ性格の欠点がある。それは自身の成長や幸福を妨げる一凶となる。
 ところが、人間は、言われなければ、なかなかこの一凶に気づかない。だから、それを厳しく指摘し、切磋琢磨してくれる、先輩や友人をもつことが必要になる。
 この自分の一凶と戦い転換していく、真剣な祈りがなくてはならない。
 さらに、学会活動のなかで、自分を鍛え抜いていくことです。御書には『くろがね(鉄)をよくよくきた(鍛)へばきず(疵)のあらわるるがごとし』(一〇八三ページ)と仰せです。
 学会活動に励むと、宿業が、自分の弱さや臆病さ、わがままなどの欠点として現れ出てくることもある。
 だが、自分に負けず、一つ一つの活動に勝利していくなかに、鍛えがあり、自身の一凶に打ち勝つ人間革命の道がある。
 学会活動の場は、自分の生命を鍛え上げる道場です。広宣流布の使命に生きようと心を定め、自身を鍛え抜くなかに、宿命の転換がある」
 話を聞いているうちに、山口の顔には、生気がみなぎっていった。
 吹き渡る風は、肌を刺すように冷たかったが、伸一は話を続けた。
 「山口君は、いつ入会したの」
 「小学生の時に、家族で入会しました」
 「そうか。以前、こんな話を聞いたんです。
 ――ある若者が最難関といわれる東京の有名大学に合格した。彼の高校で初の合格とあって、町中の話題となった。勇んで上京する彼に、お母さんは言ったそうです。
 『私は、お前がこの大学に入ったことより、生涯、学会とともに広宣流布に生き抜き、信心を全うしてくれることの方が、よほど嬉しい。それが、自分も幸福になり、人をも幸福にする、ただ一つの道だからだよ』
 母が人生をかけてつかんだ真実です。それが創価の母たちの叫びです」


入魂 八

 山口に語りかける山本伸一の言葉に、一段と力がこもった。
 「世の中には、自分の立身出世や、栄誉栄達ばかり考えて生きている青年が、あまりにも多い。しかし、それでは、最後は空しいものだ。
 人間として大事なことは、広宣流布のために生きることだよ。自他ともの幸福をめざして、人びとのため、社会のために何をするかだよ。
 君も、人間としての、本当の栄光と勝利のために、もう一度、勇気をもって、本気になって信心に取り組もうよ」
 「はい!」
 決意のこもった声で、山口は答えた。 
 「心が決まったら、今日から頑張るんだ。いつか頑張ろうなんて考えていたら、時を逃すよ。それでは寒苦鳥になってしまう。寒苦鳥は知っているね」
 「はい。御書に出てきます。巣をつくらないために、毎夜、寒さに苦しんでいる、雪山にすむ鳥です。明日こそ、巣をつくろうと決意するのですが、昼は暖かいので、ついつい眠ってしまうとあります」
 「そうだ。大事なのは今だ。今日、何をするかだ。今、立ち上がらなければ、終生、後悔することになる。
 私は、みんなに悔いなど、残してもらいたくはないんだ。
 戦おうよ。そして、苦労し、苦労し、苦労し抜いて、人生の大ドラマをつくろうよ」
 「頑張ります! もう負けません」
 山口は、頬を紅潮させて答えた。
 伸一は、その手を、強く握り締めた。
 山口の目が潤んだ。
 隣にいた青年の瞳にも、涙が光っていた。何度も彼を訪ねては、大学会総会への参加を訴えてきた青年であった。
 一人の友が立ち上がる時、最も歓喜し、大きな功徳を受けるのは、その人を思い、その人のために祈り、何度も足を運んでは、励まし続けた人である。
 広宣流布のために、友のため、人のためになしたことは、すべて自分の身に返り、福運となる。それが、仏法の因果の理法である。
 ゆえに、御聖訓には、「人のために火をともせば・我がまへあき(明)らかなるがごとし」(御書一五九八ページ)と仰せなのである。


入魂 九

 第一回「全国大学会総会」は、午後六時前から、百十三の大学会メンバー二千三百人が大客殿に集い、盛大に行われた。
 山本伸一の心は躍っていた。彼は、広宣流布の未来を、大学会のメンバーにかけていたのだ。
 この参加者の多くは、二十一世紀を迎えた時、五十代である。社会の指導者として、いかんなく力を発揮していく年代といってよい。
 伸一は思った。
 “二十一世紀の開幕の年は、戸田先生が会長として立たれ、本格的な広宣流布の開拓作業を開始されてから、五十年後にあたる。この二十一世紀初頭は、広宣流布の永遠の基盤をつくる、総仕上げの時代となる。
 その時に、いかなる広宣流布のかたち、すなわち、立正安国の具体的な姿を築き上げるかによって、未来の流れは決定づけられてしまう。
 この決着点の時をめざして、力を蓄えに蓄え、新世紀の本舞台に、さっそうと躍り出るリーダーたちが、今日の参加者をはじめとする大学会メンバーである”
 ゆえに彼は、メンバーに二十一世紀の勝利を託す儀式として、本門の戒壇となる正本堂建立の年の開幕にあたり、あえて大学会総会を開催するように提案したのである。
 大学会は、一九六八年(昭和四十三年)四月の「東大会」結成に始まる。もともと、その目的は、「仏法即社会」の原理のうえから、広宣流布を担うとともに、社会で活躍する人材を育成することにあった。
 そうしたリーダーがどれだけ育つかが、未来の「立正安国」の実現を決するからである。
 だからこそ伸一は、各大学会の結成にあたっては、できうる限り、自らが出席し、一人ひとりと会い、生命を振り絞る思いで激励してきた。
 激しい非難と中傷の猛攻撃を受け、疲労の極みにあった時も、彼は大学会メンバーと会い、励まし続けた。
 大学会は、三十年後の創価学会を、二十一世紀の新しき勝利の流れを開きゆく、大切な後継の大人材群であるからだ。
 タゴールは叫んだ。
 「勝利というのは、何もしなくてはやってこない。戦わなければならない」(注=4面)と。
 未来のために着々と手を打ち、日々、力を尽くしてこそ、勝利はある。


入魂 十

 大学会総会は、若人の熱気みなぎる出発の集いとなった。
 まず、各大学会が結成された際に、「常に庶民の味方であれ」「広宣流布の使命に生き抜く人生であれ」など、山本伸一が示した指針を支えに、社会で勝利の実証を示したメンバーの体験が披露された。
 また、「総体革命の中核に育つ」などの活動方針も、賛同の大拍手をもって決定をみた。
 さらに、青年部の幹部や副会長らのあいさつが続き、伸一の指導となったのである。
 彼は、第二回、第三回の大学会総会の開催などを提案したあと、「総体革命」について語っていった。
 「私はこれまで、広宣流布とは『総体革命』であると述べてまいりましたが、あらためて、『総体革命』とは何かについて論じておきたい。
 それは、日蓮大聖人が示された『立正安国』と同じ意義であり、その現代的な表現といえます。
 つまり、どこまでも人間を原点とし、仏法によって社会建設の主体である人間を変革する、人間革命が根本となります。
 人間こそ、社会を形成する基盤である。ゆえに、人間の生命が変革されれば、それは、人間社会の営みのすべてに反映されていきます。
 たとえば、一人ひとりの人間が、生命の尊厳を自らの生き方として確立すれば、教育、科学、政治、経済、芸術等々、あらゆる分野で、生命を尊重し、人間を守るための方策や制度が、必然的につくられていくことは間違いありません。
 人間を蘇生させ、さらに、文化と社会を蘇生させていくことが総体革命であり、それが、広宣流布の一つの定義なのであります」
 さらに、伸一は、総体革命は武力や暴力による人間の外からの革命に対して、人間の内側からの自発的、能動的な革命であると強調した。
 そして、外からの革命が、破壊をともなう急進的な革命であるのに対して、総体革命は、どこまでも平和的であり、漸進的な革命であると述べ、こう訴えた。
 「この総体革命は、宗教による精神の革命を機軸にして、初めて可能となるのであり、そこに私ども創価学会の、宗教運動の意義があることを知っていただきたい」


入魂 十一

 ここで山本伸一は、総体革命を推進する個々人の在り方について言及していった。
 「総体革命を成し遂げるといっても、決して、特別なことではありません。広宣流布をわが使命として、仏法対話に励み、人間革命の哲理である日蓮仏法を、人びとに伝えていくことです。
 いわば、諸君の友情の広がりが、そのまま、総体革命につながっていきます。
 そして、各人が信心を根本に、それぞれの分野で最大限に個性を発揮しながら、社会に貢献し、一個の人間として社会で勝利の実証を示していくことが大事になる。
 それによって、仏法という生命変革の哲理に対する、賛同と共感が広がり、人間主義による平和と人道の連帯が築かれていくからです。
 ゆえに、自分のいる場所を、社会を、仏道修行の場と決め、粘り強く、黙々と精進を重ね、『信頼の旗』『勝利の旗』を打ち立てていっていただきたいのであります」
 決意のこもった大拍手がこだました。
 フランスの大思想家ボルテールは、「われわれは社会に生きているのである。だから、社会の善となるものだけがわれわれにとって真実の善である」(注)と述べている。まさに、その通りといえよう。
 伸一は、「最後に皆で御書を研鑽したい」と言って、朗々たる声で、御書を拝読していった。
 それは「佐渡御書」の一節であった。
 「日蓮を信ずるやうなりし者どもが日蓮がか(斯)くなれば疑ををこして法華経をすつるのみならずかへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人等が念仏者よりも久く阿鼻地獄にあらん事不便とも申す計りなし」(九六〇ページ)
 彼は、未来のために、この御聖訓を、皆の生命に刻んでおきたかった。
 「この御書は、日蓮大聖人が佐渡流罪という最大の難に遭われ、門下にも弾圧の手が伸びている最悪の事態のなかで、富木常忍や四条金吾をはじめとする弟子たちに与えられたお手紙です。
 臆病にも退転し、大聖人を誹謗するようになった反逆者たちを糾弾され、その罪がいかに深く、重いかを明らかにされている御文です」

語句の解説
 ◎富木常忍など/
 富木常忍(生年不明〜一二九九年)は、下総国・若宮(現在の千葉県市川市)に在住した、日蓮大聖人門下の武士。「観心本尊抄」など数多くの御書を与えられている。
 四条金吾(一二三〇年頃〜一三〇〇年)は、鎌倉に在住した、大聖人門下の武士。名前は頼基。北条氏の一族・江間家に仕えた。門下を代表して、「開目抄」を賜った。
 富木常忍と四条金吾は、大聖人の佐渡流罪中も、門下の中心となって信心を貫いた。

引用文献
 注 ヴォルテール著『哲学辞典』高橋安光訳、法政大学出版局


入魂 十二

 烈々たる山本伸一の声が、大客殿に響いた。
 「あたかも日蓮大聖人を信じ、どこまでも随順していくかのようでありながら、ひとたび大聖人が大難にあわれると、疑いを起こし、法華経を捨てた臆病な弟子たちがいたんです。
 しかも、彼らは、大聖人を悪口し、教訓して、自分たちの方が賢いと思っている。自分の臆病さを正当化し、大難を逃れ、尊大ぶって師を批判する。臆病と慢心とは表裏一体なんです。
 弟子であった者が、退転し、最終的に広宣流布を破壊していく。釈尊在世の提婆達多も、また、大聖人の時代の三位房らもそうです。
 これこそ、『師子身中の虫』であり、師匠への最も卑劣な裏切りです。
 戸田先生が亡くなる少し前に、ある人物が、これからの学会の敵は何かと質問した。その時、先生は、言下に『敵は内部だよ』と答えられた。
 『師子身中の虫』が仏法を破るのだと、大聖人も結論されている。ゆえに、広宣流布の道は『師子身中の虫』との戦いであるということを、生命に刻んでいただきたい」
 参加者は皆、緊張した顔で、伸一の話に耳を傾けていた。
 しかし、この時、彼の指導を実感をもって受け止めることができた人は皆無であった。
 だが、七、八年後、メンバーは、この折の伸一の指導を、痛感することになる。学生部出身の弁護士や幹部であった人間が退転し、宗門の悪僧と結託して、学会の崩壊を企てたのである。
 伸一は、さらに力をこめて訴えた。
 「大聖人は、弟子でありながら退転・違背していった、心の歪んだ“僻人”たちは、仏法の法理に照らして、念仏者よりも、長く阿鼻地獄に堕ちて、苦しみ抜くのだと、御断言になっている。
 そして、そのことを思うと、不憫で、かわいそうでならないと言われているんです。
 大聖人は、常に弟子たちを厳しく戒められていますが、それは、断じて門下を守り抜こうとする大慈悲からです。
 惰弱でずる賢い姿勢が見られたり、不正がある者がいたら、見て見ぬふりをするのではなく、厳格に指摘し、諫めていくことが慈悲です。それが相手を救うことになるんです」


入魂 十三

 山本伸一は、さらに御書を拝した。
 「修羅が仏は十八界我は十九界と云ひ外道が云く仏は一究竟道我は九十五究竟道と云いしが如く日蓮御房は師匠にておはせども余にこは(剛)し我等はやは(柔)らかに法華経を弘むべしと云んは螢火が日月をわらひ蟻塚が華山を下し井江が河海をあなづり烏鵲が鸞鳳をわらふなるべしわらふなるべし」(九六一ページ)
 彼は講義を続けた。
 「修羅は『仏は十八界しか説かないが、自分は十九界を説く』と言い、外道は『仏は一究竟道だが、自分たちは九十五究竟道だ』と言う。
 『究竟道』というのは、究極の悟りにいたる道です。
 これは、まともな根拠のない、ただ数を加えたりしただけのまやかしです。それで人を惑わし、退転させようとする。
 同じように、大聖人門下で退転していった者たちは、こう批判した。
 『日蓮御房は自分たちの師匠ではあるけれど、弘教の方法が、あまりにも強すぎる』
 つまり、弘教の方法が間違っていたから、大聖人は難にあうのだと言う。これは、とんでもない言いがかりです。
 末法の弘教は折伏と定められている。当然、強く叫び抜かなければならない。また、難があるのは、経文通りに正しく実践しているからです。
 しかし、退転者たちは『我等は柔らかに法華経を弘めよう』と言う。彼らの本質は臆病であり、保身です。名聞名利なんです。
 ところが、いかにも利口げに、自分が正しいかのように詭弁を弄する。
 しかも、正義の人に濡れ衣を着せたり、巧みに問題をすり替えたりして、大善の人を大悪人にしていく。そして、人びとを誑かし、退転させていくのが、反逆者の常套手段です」
 伸一の言葉が、皆の胸に、鋭く突き刺さっていった。誰もが、神経を研ぎ澄ますように、耳を傾けていた。
 「その退転者の姿や言い分は、はかない螢の光が、太陽や月の明かりを笑い、蟻塚が中国の名山である華山を見下し、井戸や小川が大河や大海を軽蔑し、小さな鵲が、鳳凰などの鳥の王者を笑うように、極めて愚かなことである――。
 大聖人は、そう仰せになっているんです」


入魂 十四

 参加者は皆、山本伸一の講義を全身で受け止めるかのように、身じろぎ一つしなかった。
 「大切なことは、退転し、反逆していく者の嘘を見破り、その悪を暴き出し、徹底して打ち砕いていくことです。
 釈尊の弟子である提婆達多が、阿闍世王という政治権力とつながり、釈尊の命をもつけ狙う大怨敵となったように、現代にあっても、反逆者が学会を、広宣流布を破壊する元凶になります。
 だから、あらゆる力を尽くして、悪の根を断ち切っていくまで、戦って、戦って、戦い抜くことです。
 私どもがいかに正義であっても、中途半端な戦いであったならば、敗れてしまう。断じて追撃の手を緩めてはならない。これは、大学会の諸君に託す私の遺言です。いいですね!」
 「はい!」
 メンバーの目には、邪悪を許さず、断固として戦い、倒しゆかんとする決意が燃えていた。
 最後に、伸一は、こう話を結んだ。
 「創価学会こそ、日蓮大聖人の仰せ通りに、広宣流布という未聞の大思想運動を展開している唯一無二の団体です。それゆえに、仏法の法理に照らして、さまざまな中傷や迫害、困難があるのは当然です。
 しかし、尊き学会と運命を共にしゆく決意で、一生涯、崇高なるわが使命を果たし抜いていただきたい。
 そして、“行動の哲学者”として民衆のなかに入り、民衆に尽くし、民衆のために縦横無尽に戦い抜いていただきたい。
 それが、大学という最高学府に学んだ者の義務であり、使命です。 
 大学会の諸君、二十一世紀を頼むよ。その時こそ、勝負だよ。
 二十一世紀に学会がどうなっているか。広宣流布の永遠の基盤がつくれるかどうか――それは、すべて諸君の責任です。
 勝とうよ。勝って、みんなで肩を叩き合い、喜び、讃え合おう。
 共に立とう! 共に戦おう! 大学会万歳!」
 伸一の烈々たる呼びかけで、初の大学会総会は劇的に幕を閉じた。
 どの目も、誓いに燃え輝いていた。
 「完全を望んで、無限の努力をすることは、人間の権利である」(注)とのガンジーの言葉は、創価の精神と響き合う。


入魂 十五

 この一九七二年(昭和四十七年)「地域の年」を迎えて、山本伸一が最も力を注ごうと決意していたのは、ブロック長、ブロック担当員など、最前線の幹部との記念撮影であった。
 創価学会は大発展し、事実上、日本第一の大教団となった。しかし、大事なことは、最前線の組織であるブロックが、どれほど活気に満ち、躍動しているかである。
 各ブロックで、何人の壮年が、何人の婦人が、そして、何人の男女青年が集い、活動しているのか。また、誰がいかなる功徳を受け、皆に希望と喜びがあふれているのか――そこにこそ、学会の実態があると、伸一は考えていた。
 そのブロックを強化する要の存在こそ、ブロック長、ブロック担当員をはじめとする、最前線の幹部である。
 そこで伸一は、前年の秋から、順次、ブロック幹部を主体にした記念撮影会を、各地で開催してきたのである。
 これらの記念撮影会の折には、喜びや決意を表現するために、合唱や舞踊なども行われた。
 伸一はその出演者や、役員として尽力してくれた人たちとも記念撮影をし、激励するように努めてきた。
 一月八日、彼は、信濃町の創価文化会館での、記念撮影に出席した。
 これは、前年の十二月十八日に行われた、足立区のブロック幹部を中心とした記念撮影会で、役員等を務めてくれたメンバー約千二百人との、写真撮影であった。
 伸一は、御礼と感謝の思いを込めて、共に記念のカメラに納まった。
 皆が人材である。皆が使命の人である。皆が日蓮大聖人の直弟子である。ましてや、陰の力として、黙々と任務に励んでくれた人たちの貢献は、限りなく大きい。
 その人たちに、心から感謝し、ねぎらい、励ましを送ることこそ、自分をはじめ、幹部の責任であり、義務であると、伸一は考えていた。
 その真心からの激励が、友に希望を与え、勇気を与え、新しき前進の活力となっていくのだ。
 伸一は、一人ひとりを、サーチライトで照らし出すように、“励ましの光を送ろう”と自らに言い聞かせ、この一年もまた、同志のなかに飛び込んでいく決意を固めていたのである。


入魂 十六

 一月十五日には、山本伸一は、新宿区のブロック幹部を中心とした記念撮影に臨んだ。
 彼の新宿への期待は、ことのほか大きかった。学会本部を擁する新宿区は、いわば、創価学会の本陣である。
 また、伸一も、家族も、新宿の組織の一員であり、わが地域を盤石にする責任がある。
 ゆえに、新宿を、日本一、世界一の人間共和の組織にしたいと、伸一は強く願い、決意していたのだ。
 しかし、当時、新宿の組織は、決して強いとはいえなかった。
 新宿には、学会本部や聖教新聞社などがあることから、区内に居住する幹部はたくさんいた。だが、ほかの区に幹部として派遣されている人も多く、地元組織への貢献は期待できなかった。
 また、大都会に共通した傾向として、人口の流動が激しく、引っ越してきても、組織に馴染んだころには、転居してしまう人も珍しくなかった。
 しかも、地価や家賃も高く、住居にかかる経済的な負担は、至って大きかった。
 平均的な収入の人なら、結婚して子どもが生まれ、少し広い家に住みたいと思えば、郊外などに引っ越すしかないというのが実情であった。
 学会の組織の強さは、人間の絆の強さで決まるといってよい。それだけに、人の動きが激しく、人間関係が希薄化しがちな都心で、堅固な組織をつくり上げるのは難しいという思いが、皆の心の片隅にあった。
 しかし、伸一は、新宿を、本陣にふさわしい世界一の団結を誇る、最も強力で理想的な組織にしなければならないと、深く心に誓っていた。
 希薄化した人間関係など、新宿のかかえる問題は、都市化が進む現代社会を象徴する課題といえた。それは、やがて、東京中に、さらには、全国の都市に広がる問題にちがいない。
 だからこそ新宿の同志が、その困難をはね返し、見事な広宣流布の黄金城を築き上げることができれば、未来に燦然たる希望の光を送り、堂々たる全国模範の道を切り開くことになる。
 「勝敗がわたしたちいかんにかかわっているならば、困難な勝利ほど気持ちのよいものはない」(注)とは、フランスの哲学者アランの言葉だ。


入魂 十七

 困難や悪条件をかかえているということは、それだけ使命が大きいということである。
 その障害を克服し、勝利した時には、同じ苦悩をもつ人びとに、いや万人に、新しき勝利の大道を示し、希望を与え、活力を与えることになるからだ。
 ゆえに、決して困難にひるむな! 逆境にたじろぐな!
 それは、人間王者となるために、自らに与えられた貴重な試練であり、尊き使命なのである。
 山本伸一は、新宿区の記念撮影会を、東京の歴史の転換点とし、最強の本陣建設へと向かう、同志たちの出陣の日にしようと、固く心に決めていたのである。
 
 一月十五日の正午前、伸一は、新宿区の記念撮影会の会場である、区内の体育館に姿を現した。
 外は、あいにくの雨であったが、場内には菜の花が咲き、手作りの桜があり、そして、参加者の満面の笑みがあった。まさに、「歓喜の春」の到来を思わせた。
 会場に入ると、伸一は、撮影台に待機していた人たちに、元気な声で言った。
 「こんにちは! おめでとう! 寒いけど風邪をひかないようにね。
 さあ、始めよう。みんなで新しい出発をしましょう」
 撮影は、婦人部に始まり、計十三回にわたって行われた。
 伸一は、撮影台の前で婦人たちに語りかけた。
 「皆さんは、“今日は大事な記念撮影会なのに雨になってしまった。残念だ”と思われていることでしょう」
 皆が頷いた。
 「しかし、そんなことで、落胆する必要は、全くありません。
 私は、むしろ、喜んでいるんです。これで空気も湿って、火災も少なくなるでしょう。
 また、風邪で喉をやられていたんですが、この雨のおかげで楽になりました。
 いっさいをよい方向に考え、さらに前へ、前へと、進んでいくことが大事です。
 時には、祈っても、思い通りにならない場合もあるかもしれない。でも、それは、必ず何か意味があるんです。
 最終的には、それでよかったのだと、心の底から、納得できるものなんです」


入魂 十八

 仏法は、価値創造の源泉である。それは、直面するすべての事柄を、喜びに、希望に、感謝に、勝利にと転じていく智慧から始まるといえる。
 山本伸一は、その原理を、婦人部員に教えたかったのである。
 「たとえば、仮に雪が降ったとします。
 “寒いし、滑りやすいので、いやだな”と思ってしまえば、すべてが苦痛になってしまう。
 しかし、“めったに見られない雪景色を見ることができる。子どもたちに雪ダルマをつくってやることができる。楽しい思い出になる”ととらえれば、その瞬間から喜びに変わります。
 要は、どんなことがあっても、そこに、何か意味を、喜びを、見いだして、勇んで挑戦していくことが、価値の創造につながるんです。
 それには、人生の哲学と智慧、そして、生命力が必要になる。実は、そのための信心なんです」
 物事をどうとらえるかが、「哲学」である。
 一つ一つの事柄を悲観的に見るか、楽観的に見るか。否定的に見るか、肯定的に見るか――で、人の生き方は全く異なってくる。
 仏法で説く、「変毒為薬」「煩悩即菩提」「生死即涅槃」等の原理は、マイナスをプラスに転ずる哲学であり、そこに立脚する限り、行き詰まりはない。
 また、一つ一つの物事をどうとらえるかは、人間の生命力と密接に関わってくる。
 弱気になり、活力のない時には、物事を前向きにとらえようとしても、ついつい後ろ向きに考えてしまうものだ。人間の思考は、生命力と不可分なものといえよう。
 そして、満々たる生命力をたたえる源泉こそが、唱題なのだ。
 撮影台に並んだ人たちのなかには、何人かの、顔見知りの婦人部員がいた。
 彼は、会釈しながら、語りかけた。
 「私も、新宿の信濃町の学会員ですので、よろしくお願いします。今まで、ほかの地域にばかり出かけて、あまりお目にかかれずに、申し訳ありません。
 今日から私も、新しい決意で、新宿区の建設に取り組みます。
 新宿区には、世界の同志が注目する、創価学会の本部があります。新宿区は学会の本陣です」

語句の解説
 ◎変毒為薬など/
 変毒為薬は、「毒を変じて薬と為す」と読む。「毒」は、苦悩などをいい、それを信心によって、「薬」すなわち、幸福境涯へと転じていくことの意。
 煩悩即菩提の煩悩とは、衆生の身心を煩わし悩ませるさまざまな精神作用のこと。小乗教では、煩悩は苦悩をもたらす因であり、それを断じ尽くして菩提(悟り)に至ると説いたが、法華経では、煩悩を離れて菩提はなく、煩悩をそのまま悟りへと転じていけることを明かした。
 生死即涅槃の生死は、迷いの境涯であり、涅槃は悟りの境地のこと。


入魂 十九

 新宿区に創価学会本部があることは、皆、言われなくともよくわかっていた。しかし、山本伸一の「新宿区は学会の本陣」であるとの言葉に、誰もが、ハッとした。
 伸一は、話を続けた。
 「世界中のメンバーが、“学会本部がある新宿区とは、どんな地域なのか。どのぐらい広宣流布は進んでいるのか”と、大きな関心をもって見ています。
 新宿区が広宣流布の先駆けとなり、人間共和の理想的な組織をつくれば、日本中、世界中が見習っていきます。
 また、学会本部は、創価学会を憎悪するさまざまな勢力から、攻撃の的にされてきました。
 新宿の皆さんは、何かあると、真っ先に本部へ駆けつけ、全力で守ってくださった。心から感謝申し上げます。
 人間の真価は、“いざという時”“ここぞという時”に現れる。大事な時に何をしたかです。どこまで真剣に、懸命に行動し抜いたかです。
 どうか皆さんは、“私は、深き使命があって、この本陣に集っているのだ。自分たちこそ、尊き本陣の守り手なのだ”との誇りをもって、威風堂々と前進していってください」
 「はい!」という、元気な声が響いた。
 伸一は、さらに言葉をついだ。新宿区を最強の組織にしようと思うと、次々とアドバイスや励ましの言葉が、口をついて出てくるのである。
 「また、本陣に集う皆さんは、一家和楽の家庭を築いてください。幸福は遠くにあるのではありません。身近なところにある。彼方に幸福を求めるのではなく、今いる、その場所で、家庭のなかで、幸福の花園をつくっていくのが、日蓮大聖人の仏法の在り方です。
 厳しい現実に立ち向かい、境涯を開き、変毒為薬して、必ず幸福を勝ち取るんです。
 なかには、ご主人が信心していないケースもあるでしょう。しかし、顔を見るたびに、『信心しなさい』と、しつこく、くどくど言ってはいけません。
 私だって、妻に毎日のように、ガミガミ言われたら、いやになります。
 自分が、よい奥さんになればいいんです。そうなれば、すべては変わっていきます。長い目で見ていくことです。では、写真を撮りましょう!」


入魂 二十

 山本伸一は、どのグループの撮影の折にも、マイクを手に、「本陣・新宿」の使命を訴えた。
 四回にわたる婦人部の記念撮影のあと、男子部に移った。
 「新宿区は、全国の要です。その建設を君たちに頼みます。新宿を広宣流布のモデルにしていくのは大変かもしれない。
 しかし、楽なことや、手を抜いてもできることなら、戦いではない。大変だからこそ、やりがいもあり、人生のドラマがつくれる。嘆いたりせずに、勇んで挑戦しようではないですか」
 彼は、新宿に限らず、全学会員に、自分の住んでいる地域に、深い意義を見いだし、誇りをもってほしかった。
 そこから、わが地域への愛着が生まれ、地域建設が始まるからだ。
 仏法は、自らの国土が「常寂光土」であると教えている。
 彼は語った。
 「私が青年時代に決意したことの一つは、“広宣流布に生きようと決めた限りは、何があっても文句など言うまい”ということでした。
 建設的な意見は大事だが、文句や愚痴は、いくら言っても前進はありません。言えば言うだけ、心は荒み、自分の意欲を削いでいきます。
 また、それは、自分の情けなさ、卑屈さ、無力さを吹聴しているようなものであり、自らの価値を、人格を、下落させることになる。
 しかも、文句や愚痴は周囲を暗くさせ、皆のやる気までも奪い、前進の活力を奪ってしまう。だから、福運も、功徳も消すことになる。
 『賢者はよろこび愚者は退く』(御書一〇九一ページ)です。
 私たちは、何事も莞爾として受け止め、さわやかに、勇んで行動していこうではありませんか」
 皆が笑顔で頷いた。
 伸一は、一人ひとりをじっと見つめた。
 体に合わない、ダブダブの背広を着ている青年もいた。生活が苦しく、背広が買えずに、誰かに借りてきたのであろう。
 目の周りに、うっすらとクマができている人もいた。ここに参加するために、徹夜で仕事を追い込んだのかもしれない。
 しかし、どの目も生き生きと輝いていた。誇りと理想をいだいて、信念の炎を燃やして生きる青年には、生命の発する美しき光彩がある。

語句の解説
 ◎常寂光土/
 仏の住む国土のこと。法華経以前の経教では、苦難多き娑婆世界を汚れた穢土として嫌い、仏の住む浄土は遠い別世界にあるとしていた。だが、法華経では、この娑婆世界こそ仏が常住する国であると説き、苦悩の現実を幸福世界へと変えゆく原理が示されている。


入魂 二十一

 学会の宝である青年を目の前にすると、山本伸一は、励まさずにはいられなかった。
 「君たちのなかには、日の当たらないアパートの、小さな部屋に住んでいる人もいるでしょう。私も、青年時代は、同じような暮らしでした。
 戸田先生の事業は行き詰まり、学会は存亡の危機に瀕していた時代でした。へとへとになって部屋に帰っても、寒くて寒くて、しかも、食べる物も何もない。一杯のお茶さえない。
 しかし、私は、毅然として、阿修羅のごとく、戸田先生のもとで戦いました。日々、血を吐くような思いで、また、泣くような思いで、働きに働き、戦いに戦い、自分の限界に挑んだんです。
 “今日も必ず勝つ!”“明日も断じて勝ってみせる!”と、一日一日、確実に勝利を打ち立てていきました。それが私の、生涯にわたる財産となりました」
 「試練の時にこそ人間性の最もよき一面が現われ出るものである」(注)とは、マハトマ・ガンジーの分析だが、これは不変の真理といえよう。
 伸一は、青年こそ、次代を託さねばならない、大事な後継の同志であると思うと、ますます魂が燃え上がってくるのである。
 「青年が、自分を厳しい溶鉱炉のなかに置かずして、どうやって人格を鍛えるんですか!
 大聖人は『鉄は炎打てば剣となる』(御書九五八ページ)と仰せです。鍛えがなければ、いつか人生の試練に敗れてしまう。それでは不幸です。
 青年時代は短い。一瞬です。逃げているうちに終わってしまう。勇気をもって、広宣流布に、学会活動に、自分を投じ切ることです!」
 「はい!」
 凛とした、決意のこもった返事がこだました。
 伸一は、ここで、声を弾ませて語った。
 「今日、一緒に記念撮影をした青年の諸君で、『一・一五グループ』を結成したいと思う」
 唐突とも思える提案であった。一瞬の間をおいてから拍手が起こった。
 「皆さんには、青年のなかの青年に、中核のなかの中核に育っていただきたい。その成長を競い合う節として、毎年、一月の十五日を中心に、学会本部に集い合い、有意義な会合をもっていこうではありませんか」

引用文献
 注 『ガンジー自伝』■<鑞の金へんを虫に>山芳郎訳、中央公論新社


入魂 二十二

 未来への目標をもつことは、希望の太陽を心にいだくことだ。希望がある限り、人生に挫折や行き詰まりはない。
 メンバーの多くは、各地から、東京に出て来た人たちである。
 青雲の志をもち、あるいは華やかな都会の暮らしに憧れ、上京したにもかかわらず、孤独や現実生活の厳しさに耐えかね、夢を失い、挫折していく若者が、世間では少なくなかった。
 そのなかで、広宣流布という人生の大目標を自覚した学会の青年たちは、未来への大きな希望に燃えていた。
 そして、さらに「一・一五グループ」の結成によって、各人の年ごとの目標が明らかになっていったのである。
 記念撮影は、男子部のあと、壮年部へと移っていった。
 山本伸一は語った。
 「広宣流布のために走り抜いてきた皆さん方の貴重な人生経験は、尊い財産です。さらに豊富な経験を積んで、その精神を、若い世代に語り伝えていただきたいんです。
 なかには、とても、人に語りうるものはないと思っていらっしゃる方もいるかもしれない。それならば、これから戦いを起こし、自身の広布のテーマに、懸命に挑戦していくことです。
 過去を悔やんでも始まらない。仏法は『現当二世』のための教えです。常に今からです。勇んで行動を開始すればよい。信心に遅すぎるということはありません。
 壮年は、ともすれば、自分の小さなプライドに縛られたり、面倒くさがり、“何を今さら”と考えて、一途に行動を起こせない傾向がある。
 それが魂を老いさせるんです。それを打ち破るのが勇気です。勇気は若さにつながります。
 ともあれ、自らが行動し、つかんだ体験こそが人生の真実の財産です。
 ルソーも『もっとも長生きした人とは、もっとも多くの歳月を生きた人ではなく、もっともよく人生を体験した人だ』(注=4面)と述懐しています」
 壮年たちの瞳も燃えていた。
 さらに、女子部や未来部などに続いて、成人式を迎えたメンバーの記念撮影となった。
 この一月十五日が「成人の日」であることから、特別に新成人の記念撮影を行ったのである。


入魂 二十三

" 若さは、かけがえのない、至高の財産である。
 若さにはバイタリティーがある。無限の可能性が秘められている。
 新成人のメンバーの顔は、みずみずしい輝きに満ち満ちていた。
 山本伸一は、マイクを取った。
 「『成人の日』、おめでとう。諸君のご多幸を心からお祈りします。
 今日は、皆さんにプレゼントしたいと思って、私の詩集『青年の譜』を用意してまいりました。
 それから、代表の方になりますが、花束をお贈りいたします」
 歓声があがった。
 伸一は、さらに笑顔で呼びかけた。
 「また、本日、このメンバーで、昭和四十七年の『新宿成人会』を結成してはどうかと思いますが、皆さん、いかがでしょうか!」
 今度は、場内を揺るがさんばかりの大拍手が起こり、いつまでも鳴りやまなかった。
 「今年、成人式を迎えた皆さんを第一期として、来年も、再来年も、二期、三期と、『新宿成人会』を結成し、伝統としていきたい。
 そして、毎年、集い合っては、互いの成長を確認し、また、広宣流布への誓いを新たにしていっていただきたい。
 長い人生です。皆さんの未来には、いろいろなことがあるでしょう。
 学生であれば就職もある。また、恋愛、結婚、女性であれば出産もある。さらに、転勤や倒産、病気、家族の死など、何があるかわからないのが人生です。
 しかし、何があっても学会から、信心から、決して離れないことです。
 そこにしか、本当の幸福の道はないからです」
 伸一は懸命に訴えた。新成人の胸中深く、不滅なる信心の原点を刻んでおきたかったのである。
 「人生は宿命との戦いです。そして、宿命転換の道は学会活動しかありません。広宣流布のために、人びとの幸福のために、何を言われようが、いかに軽んじられようが、語りに語り、走りに走るんです。そこに、不軽菩薩の実践がある。
 広宣流布のために、どれだけ、大変な、辛い思いをしたか、汗を流したか、悔し涙を流したか――それが、宿命の転換の力になり、福運になっていくんです」

語句の解説
 ◎不軽菩薩/法華経常不軽菩薩品第二十に説かれる菩薩のこと。一切衆生に仏性があるとして、会う人ごとに「我深く汝等を敬う……」等の二十四文字の法華経を唱えて衆生を礼拝し、軽んじなかったので不軽菩薩という。無知な衆生から、悪口罵詈され、杖で打たれ、瓦や石を投げられるなどの迫害にあうが、実践を貫いた。


入魂 二十四

 記念撮影のたびごとに全力を尽くして激励にあたり、語り抜いた山本伸一は、全グループの撮影が終わった時には、喉が痛くなっていた。
 彼はそれから、メンバーと一緒に、舞踊などを鑑賞した。
 女子部、女子学生部らの有志による創作舞踊「春の舞」や、かつて伸一が通った大世学院の後身である富士短期大学(当時)の校歌の合唱も披露された。
 ここでも彼は、皆の演技を讃えながら、約二十分ほどスピーチした。
 途中、何度か、咳き込んだ。しかし、マイクを放さなかった。
 この年十月の、正本堂の建立をもって新たなる飛翔を開始するには、全力疾走の助走が不可欠であった。ゆえに伸一は、生命を削る思いで、今の一瞬一瞬に力を注いだ。瞬時の空転も許されなかったのである。
 今の一日が、百年先の未来を決定づける。そう考えると、一日が一カ月分、一年分の重みをもって迫ってくるのである。
 最後に伸一は言った。
 「今日、アトラクションに出演された方、役員として奮闘してくださった方とは、二月十一日、戸田先生の生誕の日に、創価文化会館で一緒に記念撮影をしましょう。陰でみんなのために頑張ってくださった皆さんの心に報いたいんです」
 その言葉に、目頭を潤ませる役員もいた。
 そして、彼は、宣言するように語った。
 「新宿区は、『新宿兄弟』『新宿家族』を合言葉に、仲良く、和気あいあいと、前進していきましょう。
 また、地域を大切にするとともに、互いに同志を大切にし、深く信頼、尊敬し合って、全国模範の本陣・新宿をつくろうではありませんか。
 本陣が堅固であれば、たとえ周囲が崩れたとしても、再び打って出て、全国、全世界に、勝利の大波を広げることができる。ゆえに新宿は、無敵の王者として、私と共に立ってください。
 では、万歳をしよう」
 勝鬨を思わせる、喜びの万歳が轟いた。それは「大勝利王・新宿」への誓いの雄叫びであった。
 まさに、この日は「世界の模範・新宿」への出陣の日となったのである。
 
 新宿は
  師弟不二の
   本陣城"


入魂 二十五

 山本伸一は、一月は東京の会員を中心に、間断なく激励を続け、二十九日には沖縄に向かった。三年ぶりの訪問である。
 沖縄は、終戦から二十七年間の長きにわたって、米国の施政権下に置かれてきたが、この一九七二年(昭和四十七年)の五月十五日に、日本に返還されることになっていたのである。
 日本政府は国民に対して、返還は「核抜き、本土並み」であると説明してきた。
 しかし、基地もほとんどそのまま存続し、「核抜き」といっても、それを明確に裏付けるものはなかった。また、経済面などでも、本土との格差は大きかった。
 沖縄の人びとの胸には、祖国復帰の喜びと失望、未来への希望と不安が交錯していたといってよい。
 伸一の沖縄訪問の目的は、那覇とコザ(現在は沖縄市)でのメンバーとの記念撮影であり、また、コザ会館の開館式に出席することであった。
 伸一は、同志との触れ合いのなかで、復帰後の沖縄を、真実の「幸福島」にしていけるかどうかは、一人ひとりの宿命の転換以外にないことを強く訴えたかった。
 そして、それを実現する創価学会員の尊き使命を全同志が自覚し、今こそ、決然と立ち上がってほしかったのである。
 二十九日の正午過ぎ、沖縄本部に到着した伸一は、すぐに、本部の広間に集っていた同志への激励を開始した。
 今回の沖縄訪問は三泊四日であった。
 その間に、彼は、ブロック長、ブロック担当員をはじめ、第一線で活躍する主だったメンバー全員と会おうと決意していたのである。
 だから、束の間の休みもなかった。彼は、目標の成就から緻密に逆算して、行動を組み上げていた。それだけに、一分一秒も、無駄にはしたくなかったのである。
 全情熱を傾け、「今」なすべきことを、「今」成し遂げ、「今日」なすべきことを、「今日」完璧に仕上げていくのだ。その積み重ねのなかにこそ、広宣流布の大勝利もある。
 反対に、一瞬の油断や一瞬の手抜きが、緻密な広宣流布の構想を、根底から切り崩してしまう要因となる。
 ゆえに、彼は、常に真剣勝負であった。


入魂 二十六

 山本伸一は、沖縄本部の広間でメンバーを励ましたあと、沖縄総合本部の総合本部長になっていた高見福安の案内で、会館内を視察した。
 伸一を案内しながら、高見が言った。
 「五月には、いよいよ沖縄も日本に復帰しますが、皆、日本一の広宣流布の理想郷をつくろうと固く誓い合っています」
 高見の話を聞くと、伸一はアメリカの思想家エマソンの、「勝利は、つねに、落着いて偉大な目的をいだいて働く者の手にあります」(注)との言葉を思い出した。
 “沖縄は、きっと勝てるだろう”と、彼は確信することができた。
 黄金の未来を胸に描きながら、伸一は言った。
 「尊いことです。仏法を持った学会員が元気で勢いがあれば、必ず社会は栄え、絶対に平和になっていきます。それが、依正不二の原理です」
 屋上に出た伸一は、目を見張った。
 守礼門を縮小した高さ四メートルほどの、“庶民の門”と名づけられた門をくぐると、昔ながらの茅葺きの家や、ヤシなどを配した庭園等があり、屋上とは思えぬ別世界が広がっていた。
 茅葺きの家に入ると、古い調度品が並び、囲炉裏もあった。
 これは、メンバーが伸一に沖縄情緒を堪能し、ゆっくりしてもらおうとの思いから、全島を駆け回って、材料を集めてつくったものだという。
 「申し訳ない。皆さんの真心が痛いほど感じられます。ここで原稿も書かせてもらいますよ」
 高見は、満面に笑みを浮かべた。
 「ありがとうございます。みんなも大喜びすると思います。
 沖縄の私たちは、先生のいらっしゃる東京から遠く離れているだけに、心は、師匠である先生と、最も近くあろうと決めて、前進してきました。
 そして、先生に呼吸を合わせるために、唱題しては、ご指導をむさぼるように読み、信心に励んでまいりました。
 また、一つ一つの事柄に、先生なら、どうお考えになり、どんな手を打たれるかと、常に先生を思い起こして、日々、己心の先生と対話しながら進んでまいりました。
 だから、沖縄は、大前進することができたんです。この設営も、その感謝の気持ちを表現したくてつくったものです」

語句の解説
 ◎依正不二/
 依報と正報が不二であること。正報とは、生命活動を営む主体をいい、その身がよりどころとする環境・国土を依報という。この両者が深い次元で関連し合っていることを示した法理。

引用文献
 注 『エマソン選集1』斉藤光訳、日本教文社


入魂 二十七

 高見福安は、さらに、しみじみとした口調で語った。
 「山本先生に呼吸を合わせ、心を一つにして戦うと、生命の電流が流れるように、元気が出るんです。勇気がわいてくるんです。どんな壁も、次々と打ち破っていけるというのが、私の実感なんです。
 これは、どうしてでしょうか」
 山本伸一は答えた。
 「本来、師匠というのは、みんなの力を引き出すためにいるんです。皆さんがそう実感されたのなら、私も、その使命を、少しは果たすことができたということです。
 勉強だって、自分だけでやっていたのでは、わからない問題にぶつかって行き詰まってしまったり、偏ったものになってしまいがちです。
 しかし、よい先生に教われば、わかりやすいし、やる気も引き出してくれる。また、基本もしっかり教えてくれるでしょうし、能率的な学習法も身につけられる。当然、向上も著しい。
 皆さんが私と心を合わせて、大前進できたというのは、大変に嬉しく、ありがたいことです」
 高見は、真剣な顔で伸一の話を聞いていた。その目には、伸一と接することができるこの機会に、少しでも多くのことを学び、吸収しようという、求道の息吹があふれていた。
 伸一は、話を続けた。
 「私も、戸田先生の心を心とし、常に呼吸を合わせて戦ってきました。
 すると、“これはかなり困難な課題だ。果たしてできるだろうか”と思っていたことも、“必ずできる!”という確信に変わっていきました。
 どんなに辛く、大変な時でも、勇気がわき、元気が出ました。そして、日々、自分の壁を破ることができたんです。
 それは、広宣流布をわが使命とされ、現代における地涌の菩薩のリーダーとして立たれた戸田先生の、大生命と感応していったからです。
 広宣流布の師弟の道を行く人には、行き詰まりがありません。師匠と心が一つにとけ合った時、無限の力がわくというのが、私の人生の結論なんです」
 人間が自身の力を最大限に発揮し、自分を生かしきる道こそが、「師弟不二」の道であることを、伸一は確認しておきたかったのである。


入魂 二十八

 山本伸一は、沖縄本部の屋上に造られた茅葺きの家を出ると、高見福安に語った。
 「少しだが時間があるので、会館周辺を回って同志を激励しよう!」
 高見は、心配そうに言った。
 「でも、到着されたばかりで、お疲れではありませんか」
 言下に伸一の言葉が返ってきた。
 「疲れているからといって、休んでなんかいられません。
 私の滞在は、わずか三泊四日です。だから、一瞬たりとも、無駄に時間を過ごすわけにはいかないんです。
 決勝点は決まっている。私は真剣勝負をしている。あなたたちもその決意でいてもらいたい。それが、私に呼吸を合わせるということです」
 こう言うと、伸一は、すぐに何人かの幹部らと会館を飛び出した。
 会館を出たところで、警備をしている男子部員の姿を見た伸一は、すぐに声をかけた。
 「どうも、ご苦労をおかけしてすいません。ありがとうございます。
 そうやって、黙々と陰で学会を守ってくださる方がいるから、みんな安心できる。その功徳、福運は、永遠に自身を荘厳し、子孫末代までも栄えていきます。
 お疲れでしょうが、よろしくお願いします」
 そして、その青年と、固い握手を交わした。
 青年は、山本会長の丁重な感謝の言葉に驚いた。かえって申し訳なさを覚えた。
 東京から同行した幹部たちは、懸命に激励する伸一を、ただ黙って見ていた。
 伸一は、厳しい口調で言った。
 「どうしてあなたたちは、役員として一生懸命に働いてくださっている方々に、ねぎらいの言葉をかけ、お礼を言おうとしないのだ!」
 皆、はっとした様子であった。
 「同志の方々が、献身的に学会のために尽くしてくれていることを、いつの間にか、あたりまえのように思っている。会員の皆さんの厚意の行動は、普通なら、考えられないほど尊い、ありがたいことなんです。
 それが実感できなくなっていること自体、官僚主義に陥り、傲慢の心に毒されているんです」
 彼は、幹部には常に厳しかった。


入魂 二十九

 御書には「かく(隠)れての信あれば・あら(顕)はれての徳あるなり」(一五二七ページ)と記されている。生命の因果の法則を説いているのが仏法である。
 学会活動は、すべて仏道修行であり、苦労した分だけ、自分自身の功徳、福運となる。
 そう考えれば、人が賞讃してくれるかどうかではなく、広宣流布のために頑張れること自体に、最高の喜びと感謝を感ぜずにはいられないはずである。
 そして、その感謝の心が、また功徳、福運を増していくのである。
 しかし、だからといって、さまざまな任務に積極的に取り組んでくださる同志の献身を、幹部が当然のように考えるのは誤りであり、それは、傲慢である。
 大聖人は、信心に励む人への接し方について、「当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし」(創価学会版法華経六七七ページ)との経文を引かれ、“仏に接するように互いに尊敬していきなさい”と御指導されている。
 仏に等しい同志の献身的な行為に感謝がないのは、この精神を踏みにじっていることになる。
 ゆえに山本伸一は、幹部に、同志に対する姿勢を、徹底して訴えておきたかったのである。
 「ともかく会員の方々に接する時は、たとえ自分より年下であろうが、いかなる役職の方であろうが、仏を敬う思いで対応することです。感謝と賞讃の心を失った幹部は仏法への違背です。
 戸田先生は、自分お一人でも七十五万世帯の折伏を成就される決意であられた。
 だから、自分と同じ心で、懸命に折伏に励み、広布に尽力する学会員に会うと、『ありがとう。ありがとう!』と最大に賞讃され、感謝された。
 “自分が必ずやり抜くのだ”という責任感が強い人ほど、同志への感謝の念は強くなる。力を合わせてくれる人のありがたさが、身に染みるからです。
 一人では、戦いは勝てない。したがって、幹部は同志に心から感謝し、頭を下げ、土下座する思いでお願いして、訴え、励ますんです。それが本当の幹部の姿です」
 「傲慢は常に没落の寸前に現われる」(注)とは、スイスの哲学者ヒルティの箴言である。

引用文献
 注 ヒルティ著『幸福論』草間平作・大和邦太郎訳、岩波書店


入魂 三十

 山本伸一は、さらに険しい顔で、同行の幹部に語った。
 「特に青年部で幹部になった者は、自分が人より偉いかのように、錯覚しないことです。
 言葉遣いがぞんざいであったり、態度が横柄であったりしては、絶対にならない。そうなれば、学会の未来は闇です。
 立場的には、青年部の最高幹部になったとしても、それで、自分に力があり、皆から信頼され、尊敬されていると思い込んではいけない。組織を円滑に運営していくための役職であり、未来を期待しての任命です。
 ゆえに、自分は、まだ若く、未熟者なのだと、常に言い聞かせ、謙虚に真剣に研鑽を重ね、力をつけていくことです。その謙虚な姿、誠実さに、人はついてくる。信心の強盛さは人格に現れる」
 こう言うと、伸一は、「さあ、同志を励まそう」と言って歩き出した。
 地元の幹部の案内で、学会員が営む、沖縄本部の近くの商店を回り、買い物をしていった。
 一軒の雑貨店に立ち寄ると、赤ん坊を抱いた若い母親が、買い物に来ていた。
 伸一は、その母親に気さくに語りかけた。
 「こんにちは! かわいいお子さんですね!」
 「ありがとうございます。さっきまで泣いていまして、ようやく静かになったんですよ」
 「泣く子は育つと言いますから、お子さんが元気に泣くのは、すばらしいことではないですか。
 私のウチにも、男ばかり、子どもが三人いるもので、小さい時は、家のなかは戦場でしたよ」
 声をかけることから、人は心を開き、対話が始まり、友情が芽生えていく。希望の語らいの花は社会を潤す。
 伸一は、その赤ん坊を抱き上げながら、初対面のこの婦人と、子育てについて対話を交わした。
 「子どもを育てることは未来をつくる最も崇高な仕事です。また、育児を通して自分も成長できるんです。
 何かと大変でしょうが、立派にお子さんを育て上げてください」
 伸一の言葉に、婦人は喜びの笑みを浮かべて帰っていった。
 さらに伸一は、店番をしていた雑貨店の婦人にも言葉をかけた。
 「お世話になります。私が会長の山本でございます」


入魂 三十一

 あらたまった、丁重な山本伸一のあいさつに、雑貨店の婦人は、驚き慌てた。
 「会長って、本当に学会の会長の山本先生ですか。こんなに近くで拝見するのは初めてなもので……。あら、いやだ。どうしましょう。夢みたいで。ともかく、わざわざおいでいただいて……」
 緊張する婦人に、伸一は言った。
 「おかまいなく。私は買い物をするために来ただけですから」
 「そうですか。満足に品物もそろっていないもので……」
 同行してきた妻の峯子も、微笑みながら語った。
 「今回は、お土産もあまり用意してこなかったものですから、飲み物とか、皆さんに喜んでいただける物がほしいと思いまして……」
 伸一と峯子は、菓子や飲み物などを、次々と購入していった。
 婦人が、急いで商品を用意し終えると、伸一は言った。
 「お店を営んでいらっしゃる方は、しっかりと地域に根を張っておられる。また、地域のこともよくご存じです。まさに、学会の宝ともいうべき皆さんであり、大きな使命をおもちです。
 どうか、自分がこの地域の学会の代表なんだ、地域広布の柱なんだという自覚で、商売をうんと繁盛させ、また、幸福になってください。
 商店の皆さんが、信頼の輪を広げ、功徳の実証を示された分だけ、地域広布は大前進します」
 彼は、婦人としばらく語り合うと、「ご家族の皆さんに、よろしくお伝えください」と言って、店を出た。
 伸一は、腕時計をチラリと見て言った。
 「この辺りをもう少し回ったら、沖縄本部に帰ろう。
 さっき、会館の周囲に何人か学会員がいらっしゃったが、私に会いたいと待っているかもしれない。まだ、いるなら、お会いして激励したい」
 人生も、信心も、すべて限りある時間との壮絶な戦いである。いかに立派そうに決意を語り、大言壮語しようが、瞬間、瞬間、時間をどう使い、何をしているかに、その人の生き方や真剣さが表れるものだ。
 伸一は、一人でも多くの同志と会い、力の限り励ましたかった。
 彼は、速足で、スタスタと歩き出した。


入魂 三十二

 山本伸一が、歩き出してしばらくすると、三人の子どもが、「先生!」と言って、息せき切って追いかけてきた。
 年長の子が中学一年生ぐらいで、あとの二人は小学校の高学年のようだ。今、訪問した雑貨店の子どもたちだという。
 伸一は、子どもたちの顔に噴き出ている汗を見て言った。
 「ご苦労様。必死で追いかけてきたんだね。よく来たね。ありがとう。
 私は、君たちのことを忘れません。
 やがて、二十年後、三十年後には、君たちの時代が来る。その時のために、今はしっかり勉強するんだよ。そして、人びとを守り、幸福にする、広宣流布のリーダーに育ってください。
 お父さん、お母さんを大切にね」
 子どもたちは、笑顔で頷いた。
 それから伸一は、一人ひとりと固い握手を交わし、それぞれの名前を尋ねた。
 「また会いたいね。将来、創価学園か、創価大学にいらっしゃい。そこで、会おうよ」
 伸一は、三人に、勉学に励むうえで、一つの目標を与えておきたかったのである。
 勉強にせよ、学会活動にせよ、自分の目標が明確であり、日々、そこに向かって、全力で突き進んでいる人には勢いがある。しかし、ただ漫然と進んでいたのでは勢いは出ない。結局は惰性化してしまうものだ。
 一日一日、目標への懸命な歩みを続けずしては、青春の勝利も、人生の勝利もない。
 伸一は、急いで周囲を視察し、沖縄本部の近くでも、居合わせた学会員を励ました。
 さらに、夜には、会館の広間で勤行会を行ったあと、引き続き、沖縄の主だった幹部らと懇談会をもった。
 話題が、本土復帰後の問題になった時、一人の壮年の幹部が質問した。
 「ご存じのように、本土復帰にあたって、『核抜き、本土並み』ということが大きなテーマとなっています。
 核も基地もなくして、経済的にも本土と同じ水準にしてほしいというのが、沖縄県民の切実な願いです。
 そのなかで、今後、私たちは、学会員として何を心がけ、具体的に、何をテーマにして進んでいけばよいでしょうか」


入魂 三十三

 山本伸一は答えた。
 「核の問題、基地の問題をどうするかは、沖縄にとって最大のテーマであることは言うまでもありません。
 これは、政治の問題です。政治家には沖縄県民の生活と安全を保障する義務がある。
 私たちには、政治を厳しく監視し、政治を民衆のためのものにしていく使命と責任がある。
 もう一つ見落としてはならないことは、今後、本土から、快楽的、消費的な文化や、拝金主義的な風潮も入り込んでくるということです。
 そのなかで、沖縄人の純粋で豊かな心を、どうやって守り、育んでいくかです。
 社会といっても、あるいは政治といっても、その柱となるのは、人間の心です。強く健全な精神です。その心が蝕まれ、退廃していけば、本当の意味での社会の繁栄も発展もありません」
 伸一の話を聞くと、沖縄の青年部の幹部である盛山光洋が言った。
 「実は、私もそれを心配しておりました。特にそうした精神の荒廃は、すぐに青少年に現れがちです。最も影響を受けやすいのが、若者や子どもたちですから。
 将来、青少年の非行や犯罪が増加することを、私は恐れています」
 伸一は大きく頷いた。
 「そうなんです。だから、学会の存在が、青年部の存在が、極めて重要になるんです。
 青少年に、人間の真実の価値とは何か、人生を生き抜くために何が大事なのかを教え、人間性を磨き、鍛え、輝かせていける教育ができるかどうかが、沖縄の未来を決定づけていくことになる。
 そして、それを本当にできるのは、創価学会しかないことを、私は断言しておきます。子どもの心が荒れてしまえば、社会の未来はない。
 若い世代を、育てましょう。信心も、親から子へ、子から孫へと、きちんと継承していってもらいたい。
 地域、社会への仏法の横の広がりと、この縦の流れがしっかりできてこそ、広宣流布は初めて可能になる。
 いずれにしても、沖縄の未来を考える時、創価学会の担うべき役割、使命は、あまりにも大きなものがあります」
 皆、真剣であった。社会建設の主体者の自覚に燃えていた。


入魂 三十四

 「一日一日が勝負だ。全力で走り抜くぞ!」
 沖縄訪問の二日目となる一月三十日、山本伸一は、こう言って車に乗り込んだ。
 彼が向かったのは、コザ市(現在は沖縄市)であった。コザは沖縄最大の基地の街で、一九七〇年(昭和四十五年)十二月には、“コザ騒動”が起こっている。
 ――米兵の運転する車が日本人をはねた交通事故をめぐる処置から、MP(米憲兵)に住民が抗議した。しかし、MPが威嚇発砲したために、住民の怒りが爆発し、米人の車を次々と焼き払ったのだ。
 それまでにも、米兵による事件が相次いでいたのである。
 伸一は、基地の街の苦しみをかかえたコザのメンバーを、まず最初に、励ましたかったのだ。
 コザでは、ブロック幹部ら二千五百人との記念撮影が予定されていた。彼は会場に入るや、力強い声で語りかけた。
 「大変にしばらくでございました。皆さんとお会いできることを、楽しみにしておりました」
 伸一は、矢継ぎ早に激励し続けた。婦人部にはこう語った。
 「創価学会が世界に誇る最高の宝は何か。婦人部です。これほど、清らかで強く、民衆の幸福のために働く、正義の集いはありません。
 一家の太陽であり、広布の太陽である婦人部の皆さんの手で、沖縄の幸福を築くために、断固、勝利してください。母の勝利は民衆の勝利です」
 また、高齢者の姿を見ると、手を握り締めながら語った。
 「わざわざおいでくださり、ご苦労様です。お体は大丈夫ですか」
 「はい。目が少しかすむことと、耳が遠くなってきていますが、元気いっぱいですよ。
 年をとれば、足腰が弱くなったり、どこか調子が悪くなるのは、あたりまえです。長年、使ってきたんですから。
 でも、『それを理由に信心を休んだら、一生成仏はない。負けだ』と、年寄り同士で話し合っております。私たちにも、広宣流布の活動はいくらでもできます」
 伸一は感嘆した。
 「立派です。おっしゃる通りです。信心には、“卒業”もなければ“定年”もありません。生きるということは、戦うということなんです」


入魂 三十五

 山本伸一は、高齢でありながら、健気に信心に取り組む沖縄の同志たちの姿に、自らも、ますます闘魂が燃え盛るのを感じた。
 「年齢を重ねられた方の力は大きい。人生経験を重ねられた分、生き方の根本的な知恵をお持ちです。
 また、人脈や人間関係も広い。その方々が広宣流布のために、本気になって頑張るならば、若い人たちの、何倍もの力が発揮できます。
 人生で縁した人には、すべて仏法を伝え抜いていこうとの決意で、やろうじゃありませんか」
 老婦人は、「ええ、ええ、頑張り……」と言いかけて、声がかすれた。
 すかさず伸一は、「これをお飲みください」と言って、自分のために用意されていたグラスの水を、老婦人に差し出すのであった。
 伸一は、合掌する思いで語った。
 「尊いことです。お体を大切にしながら、頑張ってください。
 大聖人は、『譬えば鎌倉より京へは十二日の道なり、それを十一日余り歩をはこ(運)びて今一日に成りて歩をさしをきては何として都の月をば詠め候べき』(御書一四四〇ページ)と仰せです。
 自身の一生成仏のためには、最後の最後の瞬間まで、絶対に信心の歩みを止めてはならないとの御指導です。
 地涌の菩薩である私たちが、この世に生を受けた意味は、広宣流布のため、人びとの幸福と社会の繁栄のために、行動し続けるためなんです」
 多くの参加者が“そうだ!”と心から賛同し、大きく頷いていた。
 「牧口先生は、高齢の身で、牢獄にあっても戦い続け、仏法の正義を叫び抜かれました。
 私も、牧口先生のように、七十になろうが、八十になろうが、命ある限り、動きに動きます。語りに語ります。書きに書き、叫びに叫びます。
 足腰が立たなくなっても、正義を書きつづる手があります。手が動かなくなっても、仏法を語る口があります。また、御本尊を見つめ、御書を拝する目があります。
 命の尽きる瞬間まで、這ってでも、戦って、戦って、戦って、戦い抜いていきます。
 私は、その決意です。見ていてください。そこに、仏道が、わが人生の完勝があるからです」


入魂 三十六

 この日の参加者には、宮古島や石垣島などの離島から、飛行機でやって来たメンバーもいた。
 その報告を聞いていた山本伸一は言った。
 「遠くから、大変にご苦労様です。二年後の二月、私はまた、沖縄を訪問いたします。
 その折には、必ず、宮古島も、八重山諸島の石垣島も、訪問させていただくことを、お約束いたします」
 拍手がわき起こった。
 「また、沖縄が本土に復帰する、今年五月の本部幹部会は、復帰を祝賀する記念の本部幹部会とし、皆さんの代表を東京へご招待いたします」
 大歓声が響いた。
 伸一は、活気あふれる楽しき前進のために、常に希望となる目標を示すことに、心を砕いていたのである。
 「およそ何かに着手するとき、それを達成しようとする最大の熱意を引き出すのは、最大の希望なのだ」(注)
 これは、古代ギリシャの歴史家トゥキュディデスの名言である。
 記念撮影では、それぞれの部に、伸一の入魂の指導が行われた。
 彼は、男子部には、新たな指針を示した。
 「人生の勝利も、広宣流布の勝利も、すべて勇気から始まる。一歩踏み出す勇気、挫けぬ勇気、自分に負けない勇気……。勇気こそが壁を破る。
 その勇気をもって、青年は、次の決意に立っていただきたい。
 それは、『御本尊を守ろう』『創価学会を守ろう』『わが家を守ろう』『わが地域を守ろう』ということであります。
 御本尊は、信心の根本であり、御本尊を守る具体的な姿は、勤行・唱題に現れます。すべての勝利を祈り、御本尊に誓いを立て、御本尊根本に、日々を勝ち抜いていっていただきたい。
 創価学会を守るのは、学会こそが、広宣流布を推進している唯一の団体だからです。学会なくしては、人類の幸福も世界の平和もない。
 また、わが家を守るのは、そこにこそ、幸福の実像があるからです。そして、家庭こそが、偉大なる人材を育む根本の母体であるからです。
 さらに、地域を守るのは、わが地域こそが生活の基盤であり、広宣流布の舞台であるからです。地域を離れて、どこか別の所に、広布の楽土があるわけでは絶対にない」

引用文献
 注 トゥキュディデス著『歴史2』城江良和訳、京都大学学術出版会


入魂 三十七

 未来部メンバーとの記念撮影の折、山本伸一に、少女部員から黄色い花のレイが、女子中等部員から赤いバラの花束が贈られた。
 「ありがとう。このレイを掛け、花束を持って写真を撮ります。皆さんの真心も、一緒にとどめておきたいんです」
 人の誠意や努力に、いかに速やかに、いかに誠実に応えるか――リーダーのその対応が、勝敗の大きな分かれ目となる。
 さらに、記念撮影のあと、未来部のメンバーは、郷土の“わらべ歌”などを歌ってくれた。
 伸一は、子どもたちがおなかを空かしているのではないかと、心配でならなかった。
 彼は、用意してもらったオニギリを自ら配り、一緒に食べた。皆、大喜びであった。
 午後三時ごろ、いっさいが終了した。
 それから伸一は、コザ会館の開館式に急いだ。この会館は、沖縄本部に次いで、沖縄で二番目の会館として建てられたもので、前年四月に完成し、既に使用を開始していた。
 だが、山本会長が訪問した折に、正式に開館式を行いたいと、皆が強く希望していたのだ。
 コザ会館で伸一は、開館式を記念し、琉球コクタンを植樹すると、傍らにいた、沖縄の婦人部の中心者である、上間球子に声をかけた。
 「上間さん! 私は、亡くなったご主人に心から感謝しております。
 いつか、ご主人の遺徳を讃える記念植樹をさせていただきます」
 彼女は、二年前の一月に、夫の俊夫を亡くしていた。伸一には、俊夫との忘れられない思い出があった。
 それは、伸一が初めて沖縄を訪問し、沖縄支部が結成される一九六〇年(昭和三十五年)七月のことであった。
 その時、支部の婦人部長には上間球子が推薦され、内定をみていた。
 婦人部長になれば、沖縄中を駆け巡らなければならず、どうしても、家を空けることも多くなってしまう。それだけに、上間の婦人部長就任にあたっては、夫の俊夫の了承を得なければならないと、伸一は思った。
 彼は上間夫妻を宿舎に招いた。
 俊夫は、夏の暑い夜にもかかわらず、きちんとネクタイを締めて訪ねてきた。


入魂 三十八

 山本伸一は、上間俊夫に言った。
 「私たちは、宿命の島・沖縄を、妙法の力で、二度と戦争の犠牲になることのない平和の島にする決心でおります。この理想を実現するために、奥様を沖縄の婦人部の中心者にと考えています。
 ご家庭の事情もおありかと思いますが、いかがでしょうか」
 すると、俊夫は、キッパリと答えた。
 「了解いたしました。愛する妻が人びとのために働くのですから、私は妻を応援します。
 どんなことをしてでも守っていきます。ご安心ください」
 沖縄戦で弟を亡くしていた彼は、平和への思いは人一倍強かったのだ。
 それから俊夫は、妻の手を取り、固い握手を交わしながら言った。
 「球子、頑張るんだよ」
 それは、一幅の名画のようだと伸一は思った。
 さらに、その夜、俊夫は球子に言った。
 「学会のやろうとしていることは、人びとを救うためのいわば革命だ。想像を絶する困難があるだろう。でも、必ずやりきるんだ。勝つんだよ。
 ぼくも、これからは、シャツのボタンが取れているとか、靴を磨いてないとか、そんなことで、いっさい文句は言わないようにする。
 山本先生と約束したんだから、君は山本先生とともに頑張り抜くんだ」
 球子は戦った。沖縄中を動きに動いた。
 尊い広宣流布の使命を果たすために、足が鉄板になるほど動こうというのが、彼女の決意であり、信念であった。
 トルストイは「私の生涯の幸福な時期は、私が全生活を人々への奉仕の為めに差し出した時ばかりである」(注)と述懐しているが、学会活動という奉仕には、歓喜と生命の躍動がある。
 俊夫は、石油会社に勤めており、やがて、東京の所長として赴任した。
 その俊夫が、心臓病のために、東京で入院し、一九六九年(昭和四十四年)の夏、危篤状態になったのだ。
 球子は連絡を受けると、懸命に心で唱題しながら、病院へ向かった。
 俊夫は、翌朝、意識を回復した。球子の姿を見ると、メモに鉛筆で、こう走り書きした。
 「先生とともに頑張ってくれ」
 その後、病状は、しばし快方に向かった。

引用文献
 注 『トルストイ日記抄』除村吉太郎訳、岩波書店


入魂 三十九

 山本伸一は、上間球子に、東京で夫の俊夫の看病をするように勧めた。
 だが、彼女は沖縄の地にとどまった。それが夫の強い要望であった。
 その後も、球子が病床を訪れるたびに、俊夫は諭すように語った。
 「私のことなら大丈夫だ。沖縄の多くの友が待っているんだから、君は広宣流布のために働きなさい。それが私にとっては、一番嬉しい」
 その俊夫が、一九七〇年(昭和四十五年)の一月に他界したのだ。
 伸一は、俊夫の話を涙で聞いた。毅然たる姿勢に深い感動を覚えた。
 以来、二年が過ぎていた。球子は夫の心を無にせず、“沖縄広布の母”として生き抜く決意を、強く、強く、固めていた。
 伸一は、彼女のためにも、俊夫を顕彰する木を植樹しようと、決めていたのである。
 婦人部を大事にし、守り抜いた俊夫の一念は、必ず沖縄の壮年部に受け継がれていくことを、伸一は深く確信していた。
 記念植樹のあと、伸一はコザ会館の開館式に臨み、「沖縄に平和の理想郷を築こう」と、力強く参加者を励ました。
 さらに、夜には那覇市内で四十人ほどの代表幹部と懇談し、沖縄広布の未来展望を語り合った。
 午後九時前に沖縄本部に戻ると、彼は、屋上の茅葺きの家に向かった。
 ここで、山と積まれた書籍や色紙に、次々と揮毫の筆を走らせていった。沖縄の同志に贈るためである。
 彼が手を止めたのは、午前零時前であった。
 作業を手伝ってくれた妻の峯子が言った。
 「あなた、明日は、那覇の記念撮影のあと、名護に行かれるんですね」
 当初の予定では、名護の訪問はなかった。しかし、前日、高見福安から「ぜひ名護へ」と懇願され、名護行きを決断したのである。
 那覇の行事の終了は夕方近くであり、激しい強行スケジュールとなる。しかも、彼の体調は優れなかった。峯子もそれを心配していた。
 だが、伸一は強い口調で言った。
 「今やるしかない。行っておくしかないんだ。時は待ってはくれない。
 私は最後の瞬間まで命をかけて走るよ。戸田先生の弟子だもの。
 力を尽くし抜かねば、悔いが残る。後悔は、自身の最大の恥辱だ」


入魂 四十

 那覇市での記念撮影会は、一月三十一日正午過ぎから、沖縄第一・第二ブロック本部の代表約三千人が、那覇市民会館に集って行われた。
 山本伸一が会場に姿を見せた瞬間、大歓声がわき起こった。
 それは、メンバーにとって、大歓喜の雄叫びであった。
 実は前年の四月、この那覇市民会館で「’71沖縄文化祭」が行われたが、当初、伸一も、そこに出席する予定であった。
 彼は、この文化祭を楽しみにし、「沖縄広布の朝ぼらけ」と題する随筆を書き、聖教新聞に発表した。しかし、体調を崩し、沖縄訪問は実現しなかったのである。
 文化祭の日、伸一は、心を痛めながらメッセージを認め、出席できなかったことを深く謝するとともに、平和建設への期待を託した。
 さらに、文化祭が大成功で終わったとの報告を聞いた彼は、「嬉し沖縄の健在ぶり」と題する随筆を発表。新生・沖縄の大前進を願った。
 同志は誓い合った。
 「いつか必ず、山本先生においでいただき、今回の文化祭で行った演技を、ぜひ見ていただこう。その日をめざし、広布の拡大に励み、大勝利の実証を示そう!」
 以来九カ月半、その那覇市民会館に、山本会長を迎えたのである。
 小躍りしながら、歓声をあげる同志たちに、伸一は呼びかけた。
 「おめでとう! ありがとう! 沖縄はあらゆる面で、大きな広宣流布の発展を遂げています。皆さんは、懸命に頑張り抜いてくださった。
 未来に、世界に、光り輝く平和建設の戦いをされました。諸天諸仏も、大賞讃しているでありましょう。
 広宣流布のために苦労した分だけ、自分が幸福になる。これが仏法の生命の法則です。
 その大功徳、福運は、三世にわたって自分自身を荘厳し、子々孫々まで慈光に照らされゆくことは間違いありません。 
 さあ、新出発です! 沖縄の幸福と平和への新しき決意を込めて、記念撮影をしましょう」
 どの顔も、皆、晴れやかであった。
 戦いきった人の心には悔恨の雲はない。美しい青空が広がっている。困難の壁を破り、凱歌を響かせた同志の笑顔は、黄金に輝いていた。


入魂 四十一

 体調が優れぬうえに、沖縄のメンバーを励まし続けてきた山本伸一の声は、嗄れていた。
 しかし、彼は各グループごとに写真を撮るたびに、生命を振り絞るようにして激励を続けた。
 男子部との記念撮影では、傍らにいた青年の腕を握り、肩を叩き、こう訴えた。
 「二年後にまた来るから、その時には、一段と成長した姿で会おう。
 沖縄には、本土の犠牲となり、苦渋を強いられてきた長い歴史がある。日本の国家に対して、抗議すべきは抗議し、要求すべきことは、当然、要求していくべきです。
 しかし、過去にのみとらわれ、被害者意識に陥っていれば、本当の建設はできません。
 被害者意識は、所詮は受け身の生命なんです。そこから生まれるのは憎悪であり、それは破壊のエネルギーにしかなりません。また、あきらめと無気力を生みます。
 諸君は、新生・沖縄を担う主体者です。同胞への慈悲と正義をもって、未来のために雄々しく立ち上がるんです。
 前へ、前へ、希望へ、希望へと、自身の一念を転換していくことが、人間革命です。
 そして、青年が郷土建設の柱として立ってこそ、沖縄の大いなる発展と栄光がある。
 仏法を持った諸君の使命は大きい。断じて負けてはいけないよ」
 合計十三グループの記念撮影が終わると、各部の有志によって、郷土芸能などが披露された。
 それは、小規模ながら、まさに感動の「沖縄文化祭」となった。
 まず、女子部員による「ゆうなの花」の合唱が始まった。メンバーの代表が、黄色い、ゆうなの花を伸一に差し出した。
 この花が咲くのは、主に夏ごろであり、一月に手に入れるのは難しい花であった。
 “でも、なんとしても山本先生に、ゆうなの花を贈りたい”と、皆で沖縄中を探し回った。
 そして、とうとう見つけることができたのだ。
 伸一に贈られた、黄色い、その花は、沖縄の女子部員たちの、真心の結晶であった。
 「ありがとう! 皆さんの美しき心をいただきました。光栄です」
 伸一は、最敬礼して言った。


入魂 四十二

 演目は、学生部による舞踊「出陣」、婦人部の民謡踊りに続いて、男子部による、沖縄の伝統芸能の獅子舞となった。
 芭蕉を叩いて作った繊維でできた五頭の獅子が登場し、勇壮に舞い始めた。
 山本伸一は、立ち上がり、自らも出演者と同じ鉢巻きを締めた。
 そして、太鼓を抱えると、バチを手にした。
 トーン、トーン、トーンと、彼の叩く太鼓の音が高らかに響いた。
 獅子は、その音に合わせて、力強く舞った。
 獅子の衣装を頭からすっぽり被って演技をする青年には、太鼓を打ち鳴らしているのが誰かは、わからなかった。
 しかし、獅子舞の青年の一人は、開かれた獅子の口から、太鼓を叩く伸一の姿を見た。
 電撃に打たれた思いがした。
 “山本先生が、ぼくらのために太鼓を叩いてくださっている!”
 前年の文化祭に伸一が出席できなくなり、“いつか、先生に見ていただこう”と、皆が涙で誓い合った日のことが、彼の頭をよぎった。
 “俺たちは、この日を待ちに待っていた! そして、今、その先生が、一緒に太鼓を叩いてくださっている!”
 そう思うと、胸は熱くなり、目には涙があふれた。彼は、獅子の衣装のなかで、おうおうと声を出して泣いた。
 だが、泣きながらも、体中に歓喜が脈打ち、肢体は勢いよく躍った。
 「困難が大きければ、それだけ誉れも大きい」(注)とは、古代ローマの哲学者キケロの言葉である。
 それは、まさに彼らの実感であった。
 師弟共戦の感動の舞台は終わった。
 伸一はマイクを取り、叫ぶように言った。
 「ありがとう! 感激しました。
 日蓮大聖人の仏法は師子の仏法です。師子の吼えるがごとく、戦い進もうではありませんか。
 また、大聖人は、師子王は『前三後一』といって、蟻の子を取る時も、獰猛な敵に立ち向かう時も、常に恐れなく、また、油断することなく、全力で立ち向かっていくと述べられています。
 全力で戦い抜いてこそ師子です。私どもも、日々、力の限り戦い、師子の人生を送ろうではありませんか!」

引用文献
 注 『キケロー選集9』高橋宏幸訳、岩波書店


入魂 四十三

 演目はさらに、各部のメンバーによる、農作の労働の喜びを表す「マミドーマ」へと移った。
 「ヒーヤ」「サッサ」と元気のいい掛け声に合わせ、頭に手拭いを被ったり、鉢巻きをした、着物姿のメンバーが、軽快に踊り始めた。
 キネやクワを手に、踊っている人もいる。皆、全身に喜びがあふれていた。
 この衣装なども、前年の沖縄文化祭で使ったものだ。それを、この日のために、大切に保管しておいたのである。
 出演者には、少年少女からお年寄りまでいた。一家和楽の姿を象徴しているようでもあった。
 会場には、まぶしいほどの笑顔が輝いていた。
 沖縄総合本部長の高見福安も、メンバーの輪の中に入り、一緒に踊り始めた。
 長年、沖縄の中心者として、メンバーと苦楽を共にし、嬉しい時には、一緒に踊ってきただけに、なかなかの身のこなしであった。
 また、沖縄の同志の拍手に誘われ、東京から山本伸一に同行して来た、副会長の十条潔らも、踊りに加わった。
 慣れない手つきではあったが、共に喜びを分かち合おうという心が伝わる、懸命な踊りであった。参加者からは、ヤンヤの喝采を浴びた。
 そして、「沖縄健児の歌」の大合唱となった。

 正法流布の 朝ぼらけ
 打ちくだかれし
    うるま島
 悪夢に目覚め
    勇み立つ
 伝統誇る 鉄拳は
 沖縄健児の 誇りなり
 
 歌は、涙の熱唱となった。伸一も拳を握り、手を振りながら、力の限り歌った。
 合唱が終わると、伸一は、力強い声で語った。
 「見事な演技でした。希望の演技でした。
 沖縄の人びとの多くは、五月十五日の祖国復帰を前に、半ば喜びながらも、半ば不安をかかえていることでしょう。
 しかし、だからこそ、いかなるところをも常寂光土に変えていく仏法を持ち、希望に燃える皆さん方がいる。闇を照らすために、太陽があるように――」
 希望と確信に満ちた人間の存在は、周囲に勇気という光を与える。
 それこそが、仏法者の使命である。


入魂 四十四

 闇を照らすために、太陽がある――山本伸一の言葉に、会場の誰もが自らの使命を深く自覚し、決意を新たにした。
 伸一は言った。
 「私はこれから、名護のメンバーの激励のために、名護にまいりますので、これで失礼します。では、また、お会いしましょう。ありがとう!」
 皆の拍手に送られて会場を出た伸一は、駆け込むように車に乗った。
 時計の針は既に午後三時半を指していた。
 会場から名護へは、この時刻だと、二時間ほどかかってしまう。
 伸一は、車中、名護の同志のことを考えると、気が気でなかった。
 沖縄の幹部の報告によれば、名護では、メンバーが、「山本先生は必ず来てくださる。いや、来てくださらなくとも、先生の来島をお祝いするのだ」と、名護会館の建設用地に集まっているというのだ。
 また、彼を迎えるために、毎日、踊りや歌などの練習も重ねてきたというのである。
 「明るいうちに、名護に着けるだろうか……」
 伸一は、つぶやくように言った。
 彼はできることなら、名護のメンバーとも、一緒に記念撮影をしたかったのである。
 伸一の乗った車が、名護の会館建設用地に到着した時には、空を焦がすような、真っ赤な夕焼けに包まれていた。まだ日没前であった。
 そこには、南国特有のソテツの葉で、大きなアーチが作られ、くす玉もつるされていた。
 アーチには「先生ようこそ名護へ」「心からお待ちしていました」などの文字が毛筆で大きく書かれ、二千人ほどの人が集まっていた。
 伸一が車を降りると、くす玉が割れ、メンバーの大歓声と大拍手が夕焼け空に轟いた。
 “山本先生は、来てくださった! またしても願いは叶った!”
 「一身一念法界に遍し」(御書二四七ページ)である。わが一念は大宇宙にみなぎる。強き祈りの心は、すべてを動かすのだ。
 伸一の姿を見ただけで、涙ぐんでしまう人も多かった。
 彼は、三年前の二月に名護を訪れているが、その時も、訪問の予定はなかった。いんぶビーチで乗ったグラスボートの舵が故障し、名護に来ることになったのである。


入魂 四十五

 名護会館の建設用地は、海がよく見える、小高い丘の上にあった。
 山本伸一は、すぐに用意されていたマイクを手にすると、語り始めた。
 「名護の皆さん、こんにちは!
 三年前には、大変にお世話になりました。
 私は、皆さん方の幸せを、日々、真剣に祈り続けてまいりました。
 また、この場所には、皆さんの名護会館が建設されることになっておりますが、今日の集いをもって、起工式とさせていただきたいと思いますがいかがでしょうか」
 大拍手が空に舞った。
 「本日は、皆さんと一緒に、記念撮影をしたいと思います。
 暗くなると、うまく写真が撮れませんので、急いで始めましょう」
 歓声があがった。
 各総ブロックごとに分かれて、記念撮影が始まった。
 伸一は、撮影の合間にも、メンバーに声をかけ続けた。三年前に会った人も、少なくなかった。
 彼は、記念撮影で隣に座った、白い顎鬚を蓄えた高齢の男性にも声をかけた。
 「お久しぶりです。お元気ですか」
 前回の訪問の折に、いんぶビーチで会い、懇談した男性であった。
 「はい! 以前、お会いした時、先生がおっしゃいましたように、広宣流布の使命に生き抜こうと決めて頑張っております。お陰さまで、こんなに元気です」
 「そうですか。すばらしいことです。お幾つになられましたか」
 「はい! 八十七歳です。でも、わしは男子部です。ただ、明治の男子部ですが。ワッハッハッハッ……」
 この男性は、十二年前に入会していたが、その時、既に七十代半ばであった。
 かつては、神経痛、心臓病など、幾つもの病に苦しみ、入会当初は、男子部員に背負われて、座談会に出席したほどであった。
 しかし、年ごとに元気になり、今では、皆の先頭を切って、活動に励んでいるというのである。
 「若さを保つには、成長しつづけることである」(注)とは、アメリカの作家ピーターソンの卓見である。
 友の幸福のため、社会のために献身する学会活動こそ、人間的成長の源泉といってよい。


入魂 四十六

 記念撮影は手際よく進められ、日没直前に終了した。
 それから、この日のために用意した、アトラクションが始まった。
 特設されたライトの光に、琴を前にした、着物姿の女子部員が映し出された。
 目の不自由な、名嘉勝代という女性である。三年前に名護の浜辺で、山本伸一に激励されたメンバーであった。
 琴をつま弾く瞬間、彼女は心で叫んだ。
 “先生! 力いっぱい演奏します。私の琴を聴いてください!”
 「一段」の曲の美しい調べが流れた。空には、一番星が輝いていた。
 伸一は、彼女の姿を、じっと見つめながら、琴の調べに、一心に耳を傾けていた。
 彼女も、自分を見つめる伸一の視線を、全身で感じていた。
 “山本先生! 私は負けません。これから先、何があろうが、私は絶対に勝ってまいります!”
 こう誓いながら、彼女は弦を弾いた。
 名嘉は七歳の時、ハシカにかかり、弱視になった。さらに、慢性の緑内障になり、中学生の時には、ほとんど視力を失ってしまった。
 十四歳の少女たちの心には、未来はバラ色に輝いているにちがいない。しかし、彼女にとっては、未来は絶望の闇であった。
 生きることは、死ぬことよりも辛く、苦しく感じられた。それは、あまりにも過酷な運命であった。
 学校に行く気力もなかった。ただ、ベッドの上で、一日中、ラジオを聴いて時を過ごした。
 ささくれだった彼女の心は、家族のいたわりの言葉にさえ、逆なでされるような痛みを覚えるのである。考えることといえば、“どうすれば楽に死ねるか”ということだった。
 しかし、彼女の心のどこかに、“死んでも、この苦しみから逃れられはしないのではないか”という、漠然とした思いもあった。
 やがて、完全に視力を失った。生きることも、死ぬこともできぬまま、暗闇のなかで身悶え、ベッドの上で過ごす、空虚な生活が続いた。
 人間にとって、「空虚」は最大の苦しみであり、地獄のようである。


入魂 四十七

 “私も何かやりたい”
 やがて、名嘉勝代の胸にも、そんな思いが兆し始めた。
 二十歳になったある日、彼女は「お琴を習ってみたい」と、母親に告げた。
 琴が好きなわけではなかったが、何かをしなければ、苦しくて仕方なかったのである。
 母も大賛成であった。琴の教室は、近所にあった。母に連れられて、毎日、その教室に通った。
 日々、稽古に通っているだけに、上達するのは早かった。
 だが、心の底から喜びを感じることはなかったし、彼女も、ただ、その瞬間だけでも、一生懸命に打ち込めればよいと思っていた。
 それから三年ほどしたころ、一緒に暮らしている次兄が入会した。
 兄は、彼女にも信心をするように真剣に話してくれたが、人の弱みにつけ込んで、入会を勧めているように感じ、素直に話を聞けなかった。
 ところが、ある時、兄が読んでくれた、「生命論」についての学会の指導に、彼女は、深い関心をいだいた。
 永遠の生命、生命の因果の理法、宿命転換等の法理に、それまで、もやもやしていた問題が、雲が晴れるように解消していくような気がした。
 以来、兄の語る仏法の話に、真剣に耳を傾けるようになった。
 彼女は、次第に、仏法に心引かれるようになり、母親とともに入会したのである。一九六三年(昭和三十八年)十二月のことである。
 勤行をすると、閉ざされていた自分の心が大きく広がり、大空に羽ばたくような思いがした。今までに体験したことのない、不思議な喜びと躍動を感じた。
 母とともに座談会をはじめ、弘教など、学会活動にも参加した。
 いつの間にか、人びとの幸福を願い、懸命に語っている自分に気づいた。いまだかつてない、生命の燃焼を感じた。
 彼女は信心によって、最高の充実感を知り、生きることの意味を実感したのである。
 信仰とは、生の意味を知ることである。
 また、琴の先生に勧められ、琴の教師の資格も取得した。
 そして、入会から五年余、彼女は、名護で伸一と会い、激励される機会に恵まれたのであった。


入魂 四十八

 名護の浜辺で、山本伸一から激励される一年ほど前、名嘉勝代は、杖とも柱とも頼む、最愛の母親を亡くしていた。
 失意の底から、完全に立ち上がることができずにいたなかでの、伸一との出会いであった。
 彼女は、その時の伸一の指導を、片時も忘れることはなかった。
 「私は断言しておきます。信心を貫いていくならば、絶対に幸せになれます。
 悲しいことが続くと、“自分は、不幸なんだ”“自分は弱いんだ”と決め、自ら希望の光を消してしまう人もいる。
 しかし、その心こそが自分を不幸にしてしまうんです。決して、目が見えないから不幸なのではありません。
 “信心の眼”を、“心の眼”を開いて、強く生き抜いていくんです。あなたがそうなれば、みんなが希望を、勇気を感じます。
 あなたは、必ず多くの人の、人生の灯台になっていくんですよ」
 彼女の胸に、この時、希望の太陽が昇った。
 名嘉は、入会以来、宿命を転換したいと、懸命に信心に励んできた。
 そして、伸一の指導を聞いて、目が不自由であるということも、自らの尊い使命を果たすためなのだと思った。
 宿命の転換とは、決して自分を離れ、別人になることではない。自分のありのままの姿で、最高の幸福境涯をつくりあげていくことなのである。
 人間は、広宣流布の使命を自覚することによって、自らが「地涌の菩薩」であると、知ることができる。また、自身の絶対的幸福を約束する「仏」の生命が具わっていると、確信することができるのだ。
 それは、自分のもっている最高の幸福に気づくことといってよい。
 彼女は、この日、家に帰って唱題しながら、しみじみと自分の幸せをかみしめていた。
 “私は、目は見えない。しかし、それによって、御本尊に巡り合うことができた。また、私には、広宣流布のために仏法を語り、唱題する口がある。歩き回ることのできる足がある……。なんと幸せなのだろう”
 ドストエフスキーは記している。
 「人間が不幸なのは、ただ自分の幸福なことを知らないからです」(注)
 真理の言葉である。

引用文献
 注 ドストエーフスキイ著『悪霊(上)』米川正夫訳、岩波書店


入魂 四十九

 名嘉勝代は、感謝の思いで唱題しながら、“広宣流布の役に立てる自分になろう”と、固く、固く心に誓った。
 そして、琴の道で力をつけ、信心の実証を示そうと決意した。
 しかし、本格的に挑戦を開始すると、幾つもの厚い壁があった。スランプが続くこともあった。
 だが、彼女は負けなかった。
 “自分には、この道以外にない! 逃げるわけにはいかない”
 必死に祈っては、練習を重ねた。
 やがて、弟子も取るようになった。
 一九七一年(昭和四十六年)の秋には、琉球古典芸能コンクールに初出場し、新人部門で入賞を果たした。
 未来への大きな歩みを踏み出したのだ。
 
 名護会館の建設用地で、名嘉は今、無我夢中で琴をつま弾いていた。
 演奏が終わった時、真っ先に拍手を送ったのは山本伸一であった。
 彼女の耳には、伸一の叩く手の音が、強く、強く、響いた。
 “先生、ありがとうございます!”
 名嘉は心で叫んだ。
 挑戦し続ける人には、必ず勝利の結実がある。
 彼女は、伸一の前で琴の演奏をした、この年の秋には、琉球古典芸能コンクールの優秀部門に出場し入賞。翌七三年(同四十八年)には、最高部門に挑んで見事に入賞に輝いた。
 さらに後年(一九九九年)、彼女は、沖縄県指定の無形文化財「沖縄伝統音楽箏曲」の保持者に認定されることになる。
 名嘉は、誓いを果たした。彼女は勝ったのだ。
 
 琴の演奏に続いて、女子部の歌う、はつらつとした「名護小唄」の歌声が響いた。
 次いで、陣羽織を着て太鼓を手にした婦人と、紺地のかすりに赤いハチマキ姿の婦人たちが、民謡踊りを披露。山本会長を名護に迎えた喜びを全身で表すかのように、さっそうと「めでたい節」などを踊った。
 三線を手に曲を奏で、歌を歌っているのは、壮年たちであった。
 最後は全員で「春が来た」の大合唱になった。
 
 春が来た 春が来た
 どこに来た
 山に来た 里に来た
 野にも来た


入魂 五十

 名護の同志は、皆がさまざまな人生の試練を乗り越えてきた。幾たびとなく、悔し涙を拭いながら、折伏・弘教に汗を流してきた。
 その心の支えとなったのが、「法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる」(御書一二五三ページ)との、有名な御聖訓であった。
 皆、この御文を胸に刻み、人生の師匠と定めた山本伸一と会える日を胸に描いて、苦闘に苦闘を重ねてきた。
 その念願が叶った喜びが爆発し、「春が来た」の大合唱となったのだ。
 まさに、人生の春を、萌えいずる生命の歓喜と躍動の春を実感しながらの、熱唱となった。
 合唱が終わると、一斉に、「ありがとうございました!」との声があがった。
 マイクを取って、伸一は答えた。
 「こちらこそ、ありがとう!
 真心あふれる歓迎に、私は心から感動いたしました。厚く、厚く、御礼申し上げます。
 皆さん方が東京に来られました折には、私も負けないよう、一生懸命、大歓迎をさせていただきます」
 歓声が広がった。
 「この名護会館が完成したならば、また、必ずおじゃまいたします。
 その時には、再び、皆で楽しいひと時を過ごそうではありませんか!」
 大拍手が、星々が瞬く空に舞った。
 この建設用地のなかにも、茅葺きの家が造られていた。
 “山本先生にくつろいでいただきたい”と、有志が建てたものだ。
 「私はこれから、皆さん方が真心で造ってくださった、あの家を使わせていただき、名護会館の設計のことをはじめ、名護の未来について、関係者の方々と、さまざまな打ち合わせを行いたいと思います。
 既に、夜になり、子どもさんも多いので、本日は、全体的には、これで解散にいたしましょう。
 今日は、私が、皆さんをお見送りします。 
 また、お元気な姿でお会いしましょう。お休みなさい。ありがとう!」
 皆の真心を最高に大切にし、全力で応えるというのが、伸一の真情であった。
 人格とは、人の真心をどれだけ感じ取り、鋭敏に反応するかに表れるといってよい。


入魂 五十一

 山本伸一が話し終わると、歓声と拍手がいつまでも鳴りやまなかった。
 伸一は、大きく手を振りながら、声をかけた。
 「では、お気をつけてお帰りください! ありがとう!」
 皆、名残惜しそうではあったが、口々に、「先生!」「また、名護に来てください!」と叫び、手を振って応えながら、帰って行った。
 その後、伸一は、茅葺きの家で一時間余りを費やして、沖縄の幹部らと打ち合わせを行った。
 表に出ると、夜風が心地よかった。
 伸一は空を見上げた。雲の間に、美しい満月が皓々と輝いていた。
 「諸天もみんなを、祝福してくれているような、きれいな月だね」
 伸一の心には、自然に句が浮かんだ。
 
 むらくもに
  月天すずしく
    名護の友
 
 彼が沖縄本部に着いた時には、午後九時半を回っていた。
 だが、彼には会長としてのさまざまな執務が待ち受けていた。
 沖縄本部の屋上の家で、たくさんの書類に細かく目を通して決裁したあと、メンバーへの激励の揮毫を始めた。
 揮毫すべき書籍や色紙は、前日の倍近い量があった。
 彼は、それぞれの同志の成長を願い、健康と幸福を祈り念じながら、一文字一文字に生命を注ぎ込む思いで筆を執った。
 まさに、入魂の励ましであった。
 伸一の書いた揮毫を、妻の峯子が、手際よく並べて乾かしていった。
 彼女は、伸一の健康が気がかりであった。
 しかし、明日は東京に戻らねばならないだけに、伸一は必死であることを、峯子はよく知っていた。だから彼女は、心で題目を唱え続けていたのだ。
 この三日間で、彼が会って、激励した同志は、約八千人になんなんとしていた。
 伸一が、揮毫の筆を置いた時には、間もなく午前一時半になろうとしていた。
 「今日も、力の限り戦い抜いたよ」
 伸一が言うと、峯子が答えた。
 「そうですね。黄金の日記をつづりましたね」
 頷き合う二人の微笑が光った。


入魂 五十二

 記念撮影を中心とした会長山本伸一の激励は、二月に入っても、間断なく続けられた。
 十三日には、東京・葛飾の水元公園で、地域友好の集いとして開催された葛飾文化祭に、地元の実行委員会から招かれて出席した。
 葛飾は、伸一が一九五七年(昭和三十二年)の八月末から約二年間にわたり、区の責任者にあたる初代の総ブロック長として、地域広布の基盤をつくり上げた地である。
 葛飾で行われる集いに出席するのは、十三年ぶりであったが、喜びにあふれた、たくさんの懐かしい顔があった。
 伸一は、葛飾を担当していた時、徹底して個人指導を重ねた。借りた自転車で、時にはトラックの助手席に乗せてもらって、また、歩きに歩いて同志の家々を訪ねた。
 台風の折には、皆の安全を祈りつつ、全身、ずぶ濡れになりながら、氾濫しそうな川の周辺や会員の家を見て回ったこともあった。
 その一つ一つが、かけがえのない、人生の思い出となっていた。
 そうして励ました同志の、功徳と希望に輝く、花のような笑顔が、この日、随所で見られた。
 伸一は、万感の思いを句に託して、会場の控室の黒板に記した。

 水元に
  花光りけり
   友の顔

 そして、代表と記念のカメラに納まった。
 さらに、二十日には、東京・台東体育館で行われた、荒川区の記念撮影会に出席した。
 伸一にとっては、荒川も、忘れ得ぬ青春の思い出の天地であった。
 葛飾の総ブロック長に就任する直前の、八月八日から十四日までの七日間、夏季指導で荒川の担当となったのである。
 駅のホームでも、路上でも、同志に会えば、一期一会の思いで、懸命に対話を重ねた。
 「ともに荒川の新時代を開こう!」との、魂の叫びが、皆の心を燃え上がらせた。そして、わずか一週間で、当時の荒川の会員世帯の一割を超える、二百数十世帯の弘教を成し遂げたのである。
 「強さは身体的な能力から生じるものではない。それは、不屈の意志から生じるものである」(注=4面)とは、ガンジーの言葉である。


入魂 五十三

 荒川の記念撮影では、写真を撮ったあと、合唱や踊りも披露された。
 なかでも、高等部員が歌った「友よ強く」の歌は、参加者の心を激しく揺さぶった。
 この「友よ強く」の詩は、山本伸一が青年時代に作ったものであった。
 神奈川の会員宅を訪問した折のことである。
 その家の婦人から、家計を助けるために他県に働きに出ている、十代半ばの子息から来た手紙を見せられた。
 手紙には、一部屋で数人が共同生活しており、勤行をするにも、大変に苦労していることがつづられていた。
 ――タオルと石鹸を持って、風呂に行くと言っては裏山に登り、そこで勤行をしているというのである。
 手紙を読み終えると、伸一は直ちにペンをとった。励まさずにはいられなかった。そして、一詩をしたためた。
 それが、「友よ強く」であった。
 
 友よ強く
 雄々しく立てよ
 僕が信ずる君が心を
 苦しき仕事
 深夜の勉強
 これも修行ぞ
 苦は楽し
 君が信念 情熱を
 仏は
 じっとみているぞ
 …………
 
 それから二十年近くして、荒川区に住むある学生部員は、先輩の家で、この詩を目にした。
 彼は、大きな感動を覚えた。働き、学ぶ、青春の模範が、そこにあると思った。
 かつてピアノを習い、音楽好きであった彼は、これを歌にして、二部学生に教え、元気づけたいと思った。
 ギターを使いながら曲を考え、楽譜にした。
 出来上がった曲を、皆で口ずさんだ。
 「いい歌だ! 困難に立ち向かう勇気が出てくるよ」
 好評であった。やがてこの歌は、友から友へと静かに広まっていった。
 そして、荒川区の記念撮影会を迎えるに当たって、高等部の担当幹部から、「当日、高等部員で『友よ強く』の歌を合唱したい」との要請があったのである。
 そこで、音楽隊長を務めた有村武志のアドバイスを受け、楽譜を手直しして、この日の発表となったのだ。


入魂 五十四

 高等部員による「友よ強く」の合唱には、若々しい力があふれていた。
 歌が終わると、山本伸一は、立ち上がって拍手を送りながら絶讃した。
 「うまいね! 感動しました」
 それから、作曲者の青年を呼んで言った。
 「すばらしい曲です。
 このメロディーを永遠に残すために、レコードにしよう」
 高校生たちの間から、歓声があがった。
 感極まり、目を潤ませるメンバーもいた。
 そして、この「友よ強く」の歌は、高等部をはじめ、広く、学会の愛唱歌として歌われていくようになるのである。
 伸一は、行く先々で、喜びの種子を、向上の種子を植え続けた。それが大いなる前進の活力となるからだ。
 “どうすれば、皆が、元気になるのか。信頼の柱となる力あるリーダーに成長できるのか。何があっても退転することなく、幸福への道を歩み抜けるのか……”
 伸一は、どこにあっても、そのことを真剣に悩み、考え続けた。
 法華経の寿量品に「毎自作是念」(毎に自ら是の念を作す)とある。
 これは、仏が、常に衆生をいかにして「悟り」に導くかを考え、法を語り続けていることを説いたものだ。
 伸一もまた、広宣流布に生きる仏法者として、自分も、そうあらねばならないと、心を定めていたのである。
 仏法は、自らの実践のなかにこそ、脈動する。
 自分は、常に何を考え、一念をどこに定めているか――そこに、自身の境涯が端的に表れるといってよい。
 
 伸一は、三月には、山梨、千葉、また、岐阜、滋賀、京都、福井にも、激励の足を運んだ。
 その折にも、各地で記念撮影をしたり、大学会などの人材育成グループを結成するなど、新しき前進のための、さまざまな配慮と布石を重ねた。
 岐阜、福井では、県としての文化祭の開催を提案している。
 また、七、八日と訪問した山梨では、各部の代表からなる人材育成グループを結成するとともに、次の女子部を担う世代で、「山梨読書研究会」をつくるように提案し、決定をみた。


入魂 五十五

 山本伸一は、広宣流布の未来を盤石なものにするためには、女子部に力を注ぎ、育成していかなければならないと、強く感じていた。
 二十一世紀は「女性の世紀」となり、あらゆる分野に女性が進出し、社会をリードしていくことは間違いない。
 また、一家の太陽となり、後継の子どもたちを育む、最大の力となるのも女性である。
 それゆえに、女子部員が、優れた人格と知性をもち、聡明な女性リーダーに成長していくならば、広宣流布は、一段と大きな広がりをもっていくことになろう。
 それには、女子部の時代に何をする必要があるのかを、伸一は、さまざまな角度から、思索をめぐらせていた。
 そして、この山梨訪問に際して、次の山梨女子部の中核を育てるために、人材育成グループを結成したいとの報告を受けたのである。
 山梨本部の一室で、伸一は、選ばれた二十人ほどのメンバーに会うと、こう訴えた。
 「聡明な二十一世紀の女性リーダーとなっていくために、女子部は、まず教学を学び、何があっても揺らぐことのない、生き方の哲学を確立していただきたい。
 さらに、教養を身につけ、知性を磨くことが大事になる。それには良書を読むことです。
 だから戸田先生は、青年は『読書と思索をせよ』と叫ばれ、男子部、女子部の代表で結成された、水滸会、華陽会で、名著を教材に研修を行われたんです。
 このメンバーも、読書を中心に研修し、会の名称は『山梨読書研究会』としてはどうだろうか」
 女子部員たちは、笑顔で頷いた。
 伸一は、読書についての戸田の訓練が、懐かしく思い出された。
 戸田は、顔を合わせると、「今、何を読んでいるのか」と尋ね、その本の内容や感想を述べるように言うのである。
 読書が進んでいない時など、戸田は、烈火のごとく叱った。
 そこに伸一は、命がけで弟子を一流の指導者に育て上げようとする師の、深い慈愛を感じた。
 彼は、仕事も学会活動も多忙を極めていたが、電車の中をはじめ、どこにあっても、寸暇を惜しむように、古今東西の名著を読みあさってきた。


入魂 五十六

 山本伸一は、「ヨーロッパ統合の父」として知られるリヒャルト・クーデンホーフ・カレルギー伯爵と、広範な分野にわたる対談を重ね、近く、その対談集『文明・西と東』が、上梓されることになっていた。
 また、この年の五月には、世界的な歴史学者であるアーノルド・J・トインビー博士の要請で、イギリスを訪問し、後世のために対談を行うことも決定していた。
 彼の、そうした教養の基礎となったものの一つが、青年時代から、日々、懸命に積み重ねてきた読書であった。
 伸一は、女子部員たちに、読書の大切さを語っていった。
 「イギリスの思想家であるカーライルは、『書物の中には過去一切の精神が籠っている』(注1)との名言を残している。
 私も、良書こそ人類の最大の精神遺産であると痛感しています。
 また、フランスの思想家であるモンテーニュは、読書の喜びを、こう記しています。
 『書物が私の人生にどんなに救いになるかを思い知ると、どれほどの安らぎと寛ぎを覚えるかは言葉では言い尽くせない。これこそはこの人生の旅に私が見いだした最良の備えである』(注2)」
 伸一は、よく名言や箴言を引いて話をした。
 それによって、皆がその著者や作品に関心をいだき、読書をする契機になってくれればとの、思いからであった。
 時代の趨勢か、あまり読書をしない若者たちが増えていることを、彼は憂慮していた。
 良書が読まれず、活字文化がすたれていけば、人類が営々として築き上げてきた最大の精神の遺産が、朽ちてしまうことになる。
 伸一は、皆に視線を注ぎながら語った。
 「優れた作品は仏法に通じることが多い。まずホール・ケインの『永遠の都』あたりから、始めてはどうだろうか。学ぶべき革命精神があるよ。
 定期的に集まって意見を述べ合い、感想文を書いてみてはどうかね。私も見せてもらうから」
 皆の瞳が輝いた。
 「私たちは、最高の仏法をもっている。それを的確に訴えていくためにも、教養は大事だよ。毎日が勉強だ。生涯が勉強だ。『水滴石を穿つ』だよ。日々の努力の積み重ねに優るものはない」

引用文献
 注1 『英雄と英雄崇拝カーライル選集II』入江勇起男訳、日本教文社
 注2 モンテーニュ著『エセー(五)』原二郎訳、岩波書店


入魂 五十七

 山本伸一は、三月十九日には、信濃町の創価文化会館で行われた、千代田区の記念撮影会に出席した。参加者は七百五十人であった。
 千代田区は、「学会のふるさと」ともいうべき地域であった。
 戦後、学会の再建に着手した戸田城聖が、出版事業を再開し、日本正学館の事務所として購入した建物があったのが、今の千代田区の西神田であった。
 この三階建ての社屋に学会本部を置き、一九五三年(昭和二十八年)十一月に、信濃町に学会本部が移転するまで、ここが広宣流布の電源地となってきたのである。
 また、伸一にとっても千代田区は、青春時代の黄金の思い出を刻んだ天地であった。
 戸田が、西神田に事務所を構えたころ、伸一は現在の千代田区三崎町にある、東洋商業(当時)の夜学に通い始めている。
 さらに、信心を始めた彼が、戸田から法華経講義を受けたのも、西神田の学会本部であった。
 そして、四九年(同二十四年)一月に日本正学館に勤務するようになった伸一は、この建物を舞台に、師弟共戦の苦闘と栄光に彩られた、青春の日々を送っていくことになるのである。
 特に戸田の事業が苦境に陥った一九四九年秋から一年半ほどの間の、まさに劇のごとき日々は、決して忘れることはできなかった。
 給料が遅配するようになると、社員たちは恨み言を残して、二人、三人と、戸田のもとを去っていった。
 伸一は、“自分一人になっても、広宣流布の大師匠である戸田先生を、断じて守り抜かねばならない”と決意していた。
 ――それは、事業の窮地を脱する目途もたたない、万策尽きた、春のある日のことであった。
 伸一は戸田と一緒に、皇居のお堀端を歩いていた。乗用車を買うことなど、とうていできない状況であった。
 途中から、どしゃ降りの雨が降り出した。傘はなかった。伸一はタクシーを拾おうとしたが、雨のためか、空車はない。
 師も弟子も、全身、ずぶ濡れだった。冷たい雨であった。
 「寒いな……」
 戸田がつぶやいた。
 伸一は、事態を好転させられぬ申し訳なさに、激しく胸が痛んだ。


入魂 五十八

 皇居の向かい側には、GHQ(連合国最高司令官総司令部)の高いビルが、威圧するかのようにそびえ立っていた。
 雨に打たれながら、山本伸一は、戸田城聖に言った。
 「先生、申し訳ございません。必ず、将来、先生に乗っていただく車も買います。広宣流布のための立派なビルも建てます。どうか、ご安心ください」
 戸田は、嬉しそうに頷いた。雨の中での師弟の語らいであった。
 千代田の地での、この誓いを、伸一は終生、忘れることはなかった。
 さらに、戸田から、創価教育の学校をつくろうとの構想を聞かされたのも、西神田の会社の近くにあった、大学の学生食堂であり、このころのことであった。
 その思い出深き千代田の、わが同志たちに会えると思うと、伸一の心は弾んだ。
 千代田区は、区の真ん中に皇居があるのをはじめ、国会議事堂や首相官邸、諸官庁、大オフィス街を擁する日本の政治・経済の中心である。
 しかし、それだけに、住宅地は至って少なく、昼と夜の人口の差は激しかった。
 このころ、昼は八十四万人、夜は十二万人といわれていた。
 しかも、年々、住民は減り、さらに、減少傾向が続くことが予測されていた。また、学会の世帯も、決して、多くはなかった。
 だが、そのなかで、千代田の同志は、自分たちが「学会のふるさと」を守り、発展させるのだと誓い合い、深く地域に根を張りながら、真剣に活動に取り組んできた。
 伸一は、記念撮影会を前に、千代田の同志が、どうすれば未来に向かって、誇りと希望を見いだしながら、喜々として活動に励んでいけるか、思案し続けた。
 そして、当日、記念撮影会に参加する七百五十人で、グループを結成してはどうかと考えた。
 ――名称は「千代田七百五十人会」とし、区内から移っていった人は兄弟会となる。その分、区内のメンバーから補充するようにしてはどうか。
 つまり、常に千代田の同志によって、七百五十人会は構成され、そのメンバーが、千代田の広宣流布の責任をもち、原動力となって前進していくのである。


入魂 五十九

 創価文化会館での千代田区の記念撮影会に出席した山本伸一は、マイクを取ると、最初に「千代田七百五十人会」の結成を提案した。
 歓声がわいた。
 「当面は、第七の鐘が鳴り終わる昭和五十四年(一九七九年)をめざして、毎年、春と秋の年二回、学会本部などに集まってはどうだろうか。
 そして、勤行をしてもよい、楽しく交流を深めてもよい。
 ともかく、地域広布への誓いを胸に、互いに切磋琢磨し合いながら、進んでいっていただきたいのであります。
 私も、可能な限り、出席いたします。出られない時は、誰か代理に出席してもらうこともあるかと思いますが、その日を前進の節にしながら、共に広宣流布の大使命に、生き抜いていこうではありませんか!」
 誓いと賛同の大拍手がこだました。
 この日は、日本の中核たる千代田の、新しき船出となったのである。
 後年、「千代田七百五十人会」は、さらに十人のメンバーの追加が決議され、七百六十人会となっていくが、このメンバーが、千代田の核となって、盤石な広布の礎が築かれていったのである。
 
 四月、伸一は関西指導に赴き、大阪で堺・泉州のスポーツ祭や大学会の結成式などに出席し、激励の歩みは、奈良、兵庫にも及んだ。
 そして、四月の二十九日には、約一カ月にわたる、ヨーロッパ、アメリカ訪問に出発することになる。
 広宣流布とは、虐げられ続けてきた民衆が、社会の主体者となり、勝利と幸福の旗を掲げる、人類史の転換のドラマである。それだけに伸一には、一瞬の逡巡も、また、失敗も、絶対に許されなかった。
 ロマン・ロランは、鋭い警鐘の矢を放った。
 「行動して然るべき瞬間に行動しない者、その者は戦う以前に敗れ去っている」(注)
 伸一は、決して時を逃さなかった。瞬間、瞬間が、真剣勝負であった。
 彼は、わが命を炎と燃やして、入魂の指導を続けた。そして、あの地、この地で、庶民の英雄が立ち上がっていった。
 それこそが、創価の新しき勝利の原動力となっていったのである。(この章終わり)

語句の解説
 ◎第七の鐘/
 学会は、創立(一九三〇年)以来、七年ごとに“節”を刻み、発展してきたことから、七年を「一つの鐘」の期間としてきた。「第七の鐘」は、七二年(昭和四十七年)から七九年(同五十四年)までの七年間のこと。

引用文献
 注 『ロマン・ロラン全集19』波多野茂弥訳、みすず書房