蘇生 一

 それは、生命のルネサンスの朝を告げる号砲であった。
 「広宣流布とはまさしく“妙法の大地に展開する大文化運動”である!」
 一九七〇年(昭和四十五年)五月三日の本部総会での、山本伸一のこの宣言によって、新しき時代の幕が切って落とされたのだ。
 妙法の大地に展開する大文化運動――それは、仏法の人間主義を根底とした社会の建設である。
 肥沃な土壌には、豊かなる草木が繁茂する。
 同様に、仏法の大生命哲学をもって、人間の精神を耕していくならば、そこには、偉大なる文化の花が咲き薫り、人間讃歌の時代が築かれることは間違いない。
 いな、断じて、そうしなければならない。そこにこそ、仏法者の社会的使命があるのだ。
 「人を救い世を救うことを除いて宗教の社会的存立の意義があろうか」とは、牧口常三郎初代会長の叫びであった。
 七〇年秋、創価学会は、本格的な人間文化創造への取り組みを開始しようとしていた。
 伸一は、近年、人間の精神の開拓を忘れ、便利さや豊かさのみを追い求めてきた現代社会の“歪み”を、いやというほど痛感してきた。
 その最も象徴的な事例が、公害問題の深刻化であった。
 このころ、イタイイタイ病、水俣病などの裁判の行方が、社会の大きな関心事となっていた。
 イタイイタイ病は、カドミウムに汚染された農作物や水を、長年、吸収することによって起こる病である。
 カドミウムを吸収し続けると、カルシウムの代謝に異常が生じ、骨が軟化し、変形したり、折れたりするようになる。くしゃみをしただけで骨折した人もいた。
 腰、肩、膝など、全身に激痛が走り、「痛い、痛い」と泣き叫ぶことから、イタイイタイ病と名づけられたのである。
 激痛のために夜も眠れず、やせ衰え、やがて亡くなっていく人もいた。
 ホルモンの関係から、患者は中年以後の女性に多かった。
 この病は北陸地方の富山県・神通川流域に多発していたが、長い間、風土病と考えられてきた。
 だが、地元の開業医や岡山大学の教授が、原因究明に立ち上がり、調査を開始していった。


蘇生 二

 一九六一年(昭和三十六年)六月、日本整形外科学会の総会の会場は騒然となった。
 神通川流域でのイタイイタイ病の研究に取り組んできた、開業医の萩野昇が、その原因を発表したのだ。
 ――上流にある大手金属会社の鉱業所が流す、排水に含まれたカドミウムであった。
 しかし、行政側の対策は、遅々として進まなかった。
 それから五年半が経過した、六七年(同四十二年)の一月になっても、原因は定まらないとする報告書を出していたのである。
 波風が立つのを恐れ、人間の生命よりも、大企業の擁護を優先するという姿勢を、取り続けてきたのだ。
 政府が、イタイイタイ病の問題に対して重い腰を上げたのは、この年の五月、公明党の参議院議員である大矢良彦が、参議院の「産業公害及び交通対策特別委員会」で、イタイイタイ病を取り上げてからであった。
 公明党は、生命の尊厳を守り、人間優先の政治を実現しようと、公害問題の解決に全力で取り組んできた。
 人間の生命を守ることに、最大の力点を置いていたのである。
 そもそも大矢が、この問題を国会で取り上げる契機となったのは、公明党本部にかかってきた一本の電話である。
 イタイイタイ病の研究に取り組んできた、岡山大学教授の小林純からであった。
 六六年(同四十一年)十月、公明党の参議院議員の鈴本実が、再発した足尾銅山の鉱毒問題について、被害農民の側から大企業の責任を厳しく追及した。
 それを新聞で知った小林は、同じ鉱毒問題で、もっとひどいところがあると、公明党本部に連絡してきたのである。小林が語ったのが、神通川流域のイタイイタイ病であった。
 その調査を担当したのが大矢であった。
 彼は、すぐに岡山に飛び、小林と会った。話を聞くと、放って置くわけにはいかないと思った。
 この病気の原因を究明した、地元の萩野医師も訪ねた。
 萩野は、金属鉱業所の排水が原因であると発表したことから、激しい非難にさらされていたのである。


蘇生 三

医師の萩野昇は、スライドなどを使って、患者の悲惨な実情を訴えた。
 病に侵され、激痛にうめき苦しみながら、やがて息絶えていく人びとの姿は、大矢良彦に激しい衝撃を与えた。
 大矢の目には、涙があふれた。
 “こんな悲惨なことがあるのか!
 これは、歴然とした公害だ。こんなことが許されていいわけがない!”
 大矢は、ぎゅっと唇を噛み締めていた。
 彼は、涙を拭い、深々と頭を下げた。
 そして、顔を上げると萩野に言った。
 「これを追及することこそ、私たち政治を預かる者の責任です。
 これまで、なんの手も打てなかったことを、申し訳なく思います」
 萩野は、驚きを隠せなかった。黙って、大矢の手を、固く握りしめた。
 見つめ合う二人の、目と目が光った。
 大矢が言った。
 「やります! 断じて戦います!」
 萩野は大きく頷いた。
 一九六七年(昭和四十二年)五月二十六日、大矢は、国会で質問に立った。初めてイタイイタイ病が国会の場で取り上げられたのだ。
 大矢の追及に厚生省は慌てたようだ。地元の国会議員は、大企業を敵に回しては“票”が減ると考えてか、誰も取り上げなかった問題である。
 民衆を苦しめる社会の不条理と戦ってこそ、政治家である。その戦いがなければ政治屋である。
 大矢は、六月九日にも再び、イタイイタイ病を取り上げた。
 彼は、原因は金属会社の鉱業所から出るカドミウムであることは明らかであり、政府は公害と断定して、速やかに、患者に対する医療保障対策を講ずるべきであると迫った。
 さらに、公明党は、党内に「イタイイタイ病対策特別委員会」を結成。医療給付や援護手当の支給を盛り込んだ、「イタイイタイ病対策緊急措置要項」を作成し、法案化への流れを開いていったのである。
 十二月には、参議院の「産業公害及び交通対策特別委員会」に、参考人として出席した岡山大学教授の小林純や医師の萩野昇らが、病因を断定するとともに、患者の悲惨な病状を訴えた。
 その内容は、報道を通して全国に伝えられた。

蘇生 四

政府が、イタイイタイ病の原因を、神通川上流の大手金属会社の鉱業所から出たカドミウムであると断定したのは、一九六八年(昭和四十三年)五月のことである。
 事態は、急展開したのだ。公害問題で、政府が加害者を特定する見解を発表したのは、初めてのことであった。
 国民の生命を守ろうとする政治家の一念が、遂に政府を動かしたのだ。
 最も苦しんでいる人に、救済の手を伸ばすことこそ、政治の原点である。公明党結党の意義もそこにある。
 この発表は、イタイイタイ病で苦しみ続けてきた人はもとより、公害に苦しむ全国の人びとにとって大きな力となり、希望となった。
 まさに、このイタイイタイ病が、政府の公害病認定の突破口となったのである。
 そして、九月には、政府は水俣病に対しても、化学会社の工場廃水に含まれる、メチル水銀化合物が原因の公害病と、断定したのである。
 水俣病は、九州の熊本県南部にある水俣で起こった、メチル水銀中毒による神経疾患である。
 四肢の感覚障害、運動失調、言語障害、視野狭窄、震えなどの症状が起こり、重症になれば死に至る病である。
 工場廃水によって、メチル水銀化合物に汚染された魚介類を食べたことから、この病にかかっていったのである。
 人びとの間に異変が出始めたのは、五三年(同二十八年)ごろといわれる。だが、その一年ほど前から、水俣湾周辺では、猫の異常な行動が多発していた。
 猫が同じ場所をグルグルと回り続けたり、壁やカマドの炎のなかに突進するなど、奇怪な行動が目立った。同様の現象は、犬や豚にも現れた。
 また、魚が白い腹を見せ、海に浮かんでいることもあった。
 空を飛んでいたカラスや海鳥が、落下してくることもあった。
 人びとは不気味な予兆を感じた。
 やがて、異変は住民にも現れ始めた。
 手足が痺れる。歩くとつまずく。言葉がもつれる。筒を覗いた時のように、視野が狭くなった。耳が聞こえにくい――そんな症状を訴える人が増えていったのである。


蘇生 五

 異常を訴える水俣の人びとの症状は、日ごとに悪化していった。
 体が動かなくなり、話すことも、言葉を聞き取ることもできなくなる人が出始めた。
 わけもなく泣いたり、笑ったりするようになった人もいた。そして、衰弱し、死んでいったのである。
 医者も、初めてみる病気であった。
 原因不明のまま、「脳炎」などといった診断が下された。
 水俣保健所に、病院から、原因不明の中枢神経疾患が多発しているという報告があったのは、一九五六年(昭和三十一年)の五月一日のことであった。
 五月末には水俣市奇病対策委員会が設置され、原因の究明が始まった。
 当初、水俣病は、伝染病の疑いがあると考えられ、患者は隔離病棟に入れられ、患者を出した家は消毒された。
 人びとは、その家の前を、鼻をつまんで、駆け抜けた。近しい人も、病がうつることを恐れて来なくなった。
 共同井戸を使うことも禁じられ、子どもも仲間外れにされた。
 患者の家族は、買い物に行っても、手で金を受け取ってはもらえず、金のやりとりにザルや箸が使われたりした。
 無知が偏見を生み、苦しみをつのらせた。
 熊本大学では、奇病対策委員会からの依頼を受けて、水俣病医学研究班を組織し、調査研究を開始。十一月、中間報告を行った。
 ――患者からは病原菌を特定できない。患者の症状から「ある種の重金属」による中毒が推定される。
 そして、汚染された海産物の摂取が原因として疑われ、海産物を汚染する元凶として、地元の大手化学会社の工場廃水が考えられるとの見解が、発表されたのである。
 熊本大学の水俣病医学研究班の中間報告を聞いた、水俣市の漁業協同組合が行動を開始したのは、五七年(同三十二年)一月であった。
 化学会社が工場廃水を流すことを中止し、浄化装置を設置して無害と立証されたものを排水するよう要求したのである。
 しかし、化学会社は、水俣病との因果関係を否定し、その後も汚悪水を流し続けたのだ。



蘇生 六

 二月には、熊本大学の水俣病医学研究班は、病の発生を防ぐために、水俣湾の漁獲を禁止すべきであると、熊本県に提案した。
 だが、県は、まだ原因物質が確定していないため、漁を禁ずることはできないとして、提案を受け入れようとはしなかったのである。
 厚生省もまた、湾内のすべての魚介類が有毒化しているという根拠がないとして、漁獲の禁止は困難であるとしていた。
 人命よりも、建前を優先させたのだ。
 なんのための法律か。なんのための行政か――すべては、人間を、人命を守るためのものでなければならないはずだ。
 この対応の遅れが、水俣病の被害を大きくしていったのである。
 水俣病の原因と推定される「ある種の重金属」がなんであるかを突き止める作業は、遅々として進まなかった。
 それが有機水銀である可能性が指摘されたのは、医学研究班の中間報告から、二年半が過ぎた一九五九年(昭和三十四年)七月であった。
 しかし、それでも、化学会社は、責任を認めることはなかった。御用学者などを使って、原因は工場廃水とは考えられないなどと反論させたのである。
 このころ、化学会社の付属病院の医師は、猫に工場廃水をかけた餌を食べさせる実験をした。
 三カ月後、一匹の猫に水俣病の症状が表れた。その報告を受けた工場の幹部は、実験をやめさせた。実験結果が発表されることはなかった。
 工場側は、廃水に原因があることを感じていたはずだ。しかし、それを否定し続けたのである。
 水俣病の発病者は、水俣周辺から不知火海沿岸に広がっていった。
 地元で捕れた魚は全く売れず、漁民の生活は逼迫した。
 五九年(同)八月には水俣市漁協の人びとが補償を求める闘争を展開したが、十月には不知火海沿岸の漁民が決起。十一月には、漁民の怒りが爆発、工場の構内に突入し、施設の一部を壊すなどの騒ぎがあった。
 その後、県知事が調停委員会を設置し、化学会社と熊本県漁連との斡旋に乗り出した。
 最終的に化学会社は補償に応じはしたが、それは漁民を黙らせるためのものだった。



蘇生 七

 補償として、当初、県漁連が要求したのは、二十五億円であった。
 しかし、決着を見たのは、補償三千五百万円、そして、六千五百万円を融資するというものであった。
 しかも、デモの際に工場に突入し、損害を与えたとして、補償金から一千万円が差し引かれたのである。
 一戸あたりにすれば、わずか一万五千円程度である。生活の道を閉ざされた漁民への補償というには、あまりにも少ない額であった。
 また、この一九五九年(昭和三十四年)の十一月には、被害患者が組織する水俣病患者家庭互助会が、患者一人当たり三百万円の補償を化学会社に要求した。
 だが、会社側は補償を拒否し、互助会のメンバーは、工場前に座り込む抗議行動に出た。
 ところが、その行動に対して、周囲の目は冷たかった。
 水俣は、この工場とともに栄えてきた町である。患者が騒いで工場の生産を止めることは、市を衰退させることだという思いが、多くの人びとにあったのだ。
 化学会社と互助会は、県知事を中心とする調停委員会によって、見舞金契約を結ぶ。
 だが、それは、調停委員から、この斡旋案をのまなければ、調停をやめると言われての苦渋の選択であった。
 見舞金は、死者三十万円、生存者の成人に年金十万円、未成年者に同三万円、葬祭料二万円であった。
 そして、化学会社が患者や家族の互助会と交わした契約には、次の趣旨の条文があった。
 ――将来、水俣病が工場排水に起因することが決定した場合でも、新たな補償金の要求は一切行わない。
 “工場の排水が原因であると立証されるのを見越した布石”といわざるをえない契約である。
 これは後に裁判で無効とされるが、こうした契約を進めた調停委員たちも、化学会社の側に立っていたといえよう。
 多くの人が、釈然としない思いで、やむなく金を手にした。
 もとより、人間の生命は、金に換算できるものではない。そのうえ、見舞金契約には、会社側の謝罪の「心」も、人間の「涙」も、感じられなかったからだ。



蘇生 八

 一九六八年(昭和四十三年)九月、ようやく政府は、水俣病の原因は化学会社の工場が排出したメチル水銀化合物であると結論を下した。
 既に、患者の公的な確認から、十二年の歳月が経過していた。
 この時点で、水俣病に認定されていた患者は、死者・生存者を合わせ、百十一人であったが、政府の公害認定を機に、診断を受け、水俣病と認定された患者は二千人を超えた。
 また、水俣病の認定はされなかったが、感覚障害など、水銀汚染の影響があると認められ、化学会社からの一時金支給の対象となった人も、一万人を超えている。
 しかし、診断を受けなかった人や、それ以前に亡くなってしまった人を含めれば、どれほどの人が苦しみ、尊い人命が犠牲になったことか。
 しかも、政治の対応の遅れは、六五年(同四十年)には、新潟県阿賀野川流域において、第二の水俣病の発生を許してしまったのである。 
 全く同じ轍を踏んだのである。なんと愚昧なことであろうか。
 民衆の苦悶の叫びに耳を傾け、そのために命がけで戦うのが、政治家の使命ではないか。
 水俣病の患者や家族たちには、その後も、補償を獲得するための、長い戦いが待っていた。
 ある被害者は言う。
 「銭は一銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、上から順々に、水銀母液ば飲んでもらおう。上から順々に、四十二人死んでもらう。奥さんがたにも飲んでもらう。胎児性の生まれるように。そのあと順々に六十九人、水俣病になってもらう。あと百人ぐらい潜在患者になってもらう。それでよか」(石牟礼道子著『苦海浄土 わが水俣病』講談社)
 胎児性とは、胎児に起きる先天性水俣病のことである。
 人の命は、決して金では買えない。しかし、日本は、人命を守り、公害対策を行うことよりも、経済を最優先させてきたのである。
 その帰結がイタイイタイ病や水俣病、また、四日市ぜんそくなど、公害の蔓延となってしまったのだ。
 山本伸一は、この公害問題を、いかにして乗り越えるか、心を痛めつつ、深く思索し続けていたのである。



蘇生 九

 日本は、明治以降、欧米列強に追いつき、追い越すことを目標に、「富国強兵」「殖産興業」に力を注いできた。
 そして、国家は、国民一人ひとりの生命を守り、大切にすることよりも、産業の育成を図り、生産を増大させ、国を強く、豊かにすることを最重要視してきた。
 日本の「公害の原点」といわれる、足尾銅山鉱毒事件にも、それは象徴的に現れている。
 政府は、鉱毒被害が広がり、深刻化していっても、軍需に必要な銅の生産を止めようとはしなかった。のみならず一九〇〇年(明治三十三年)には、請願のために大挙して上京する被害民を阻止しようと、警察官や憲兵が襲いかかったのだ。
 サーベルで切りつけ、殴る蹴るの暴行を加え、主だった人びとを次々と逮捕していった。権力が、その正体を露にしたのである。
 鉱毒反対に生涯を捧げた政治家・田中正造は、憤怒の叫びを放つ。
 「民を殺すは国家を殺すなり……」
 国民ありての国家である。国家が守るべきは民衆である。
 戦後もまた、人命よりも、企業の利益が優先されてきたといってよい。
 日蓮大聖人は「立正安国論」で、仁王経の「国土乱れん時は先ず鬼神乱る」(御書一九ページ)との文を引かれている。
 「鬼神乱る」とは、思想の混乱といえよう。 
 まさに、人間の生命よりも、国益や企業の利益を優先させてきた、本末転倒こそ、思想の混乱の最たるものではないか。
 山本伸一は、水俣病にせよ、イタイイタイ病にせよ、その原因となった廃液を流した企業が、メチル水銀化合物やカドミウムの危険性を知らぬわけはないと思った。
 “そんなものを、住民が生活の拠りどころとする河川や海に流せば、どんなことになるか、明らかではないか”
 ところが、公害が社会問題化してからも、技術者も、企業のトップも目をつぶってきた。
 その結果、尊い人命が相次いで奪われていったのだ。
 そこには、企業の利益のためには人命を奪うことも容認してしまう、エコノミックアニマルの傲慢さに裏打ちされた、魔性の思考が潜んでいる。

語句の解説
 ◎田中正造/
 一八四一〜一九一三年。政治家。社会運動家。栃木の県会議員を経て、一八九〇年に衆院議員に当選。この年、渡良瀬川の大洪水で足尾銅山の鉱毒被害が広がった事件を契機に、被災農民の救済に奔走。一九〇一年に議員を辞職。晩年には、最も被害を受けた谷中村に住み込むなど、生涯、民衆の側に立って、鉱毒反対運動に奮闘した。

 ◎仁王経/
 「仁王般若波羅蜜経」の略。正法が滅して思想が乱れる時、戦乱や甚大な災害などの七難が起こる旨を説く。


蘇生 十

 公害を垂れ流した企業側は、数多くの死者や患者が出ても、「科学的根拠」をタテに、シラを切り通そうとしてきた。 
 住民を守るべき行政担当者も、その企業が、重要な収入源であるところから、対応は弱腰であった。
 企業の支援を受ける政治家たちも、企業の擁護に狡猾に動いた。
 また、住民のなかには公害企業におもねり、長いものには巻かれろという姿勢を取り続けた人も、少なくなかった。
 その「保身」と「もたれ合い」の心がつくり出した構造が、たくさんの犠牲者を出してしまったのである。
 山本伸一は、公害の蔓延に激しい怒りと危機感を覚えていた。
 彼は、公害をこの地球上からなくすために、断固、立ち上がらなくてはならないと決意した。それが、仏法者としての使命であると思った。
 そして、この一九七〇年(昭和四十五年)の五月三日の本部総会で、公害問題が深刻化しつつあることに言及したのだ。
 次いで、八月に行われた、男子部、女子部、婦人部の夏季講習会でも、公害問題について訴えていった。
 「公害は、人類の生存の権利を脅かす魔性としての姿を、次第に現しつつある。
 その魔性と戦い、生命の尊厳を守ることが、私どもの使命であることを知っていただきたいのであります。
 また、その根本的な解決の道は、仏法による以外にないと、私は断言しておきます」
 さらに、九月から十月にかけて、伸一は、公害問題について、二本の原稿の執筆に取りかかっていった。
 一つは、ある大手出版社が発行する総合月刊誌からの依頼であった。
 「日本は“公害実験国”か!」と題してペンをとり、反公害闘争の矢を放った。
 ここで彼は、まず、水俣病やイタイイタイ病などは、「公害」というより、その本質は、道義的責任の欠落した企業が引き起こした「事件」であり、それは、「未必の故意の殺人」であると、糾弾していった。
 正義の心で研ぎ澄まされたペンは、「悪」をえぐり出す最も鋭いメスとなる。

語句の解説
 ◎未必の故意/
 犯罪事実の発生を積極的に意図し、希望しているわけではないが、自分の行為から、結果的に犯罪事実が発生してもやむをえないと認めて行為する心理状態のこと。故意の一種であり、故意犯が成立する。


蘇生 十一

 次いで山本伸一は、これから、真の公害として対処しなければならないのは、広範な地球的規模での、空気、水、土地の破壊、汚染であると訴えていった。
 それは、一個人や一企業の、道義的責任感や努力だけではいかんともしがたい問題であり、加害者であっても、同時に被害者になることを免れぬ、万人に共通した危機であるからだ。
 彼は、その公害の要因となったものこそ、「進歩への信仰であり、環境支配のあくなき欲望である」と結論した。
 もちろん、それによって、科学技術の発達があり、現代の物質的繁栄がもたらされた面は否定できない。
 しかし、同時にそれは、文明の根底的な歪みを生じさせ、公害という全人類的な危機を招くに至ったのである。
 伸一は、その根本的な解決のためには、「人間を、いかなる存在としてとらえるかということからはじまり、人間と、それを取り巻き、支える文化的、自然的環境との関係のあり方について、まったく新しく設計し、構築し直さなければならない」と訴えた。
 さらに彼は、公害を克服するうえで、「生命の尊厳」の哲学が必要であることは言うまでもないが、その内実の厳しい検証こそが、最も大切であると述べた。
 なぜなら、「生命の尊厳」は、これまでに、誰もが口にしてきたことであるからだ。
 さらに、あくなき環境支配を促した独善的な思想のなかにさえ、「生命の尊厳」という発想があるからだ。
 いや、その誤った“人間生命の尊厳観”こそ、無制限な自然の破壊と汚染を生んだ元凶にほかならないのだ。
 なればこそ、伸一は記していった。
 「自然を、人間に征服されるべきものとし、いくら破壊され、犠牲にされてもかまわぬとする“ヒューマニズム”は、実は、人間のエゴイズムであって、かえって人間の生存を危うくする“アンチ・ヒューマニズム”にほかならない。
 真のヒューマニズムは人間と自然との調和、もっと端的に言えば、人間と、それを取り巻く環境としての自然とは、一体なのだという視点に立った“ヒューマニズム”であるべきである」


蘇生 十二

 本来、人間もまた、一つの生物であり、大自然をつくりあげている悠久の生命の環の、一部分にすぎない。
 その環は、生命が幾重にも連なり合った生命の連鎖であって、一つが壊されれば、全体が変調をきたし、一カ所に毒物が混入されれば、全体が汚染されてしまうのだ。
 また、人間が無限と思い込んできた、自然の恩恵も、実は有限であり、地球という“宇宙船”の貯蔵物質にすぎない。
 そうした視点をもたない、“独善的なヒューマニズム”に支えられた人類文明は、自然の再生産の能力を遥かに上回る消費を続け、自然を破壊し、汚染して、生命的な自然のメカニズムそのものを破壊しているのだ。
 ――山本伸一は、こう主張したのである。
 また、彼は、この原稿のなかで、大気、土地、水等は有限で、人類の共有財産であるという考え方に立ち、「これらを消費することに、なんらかの制限を設ける必要がある」など、公害問題への対策を発表している。
 具体的には“各工場などは酸素の消費量に応じて自治体に金を支払う”“樹木の伐採も、自治体に金を納め、伐採したあとには苗木を植えることを義務づける”“徴収した金で公害防止のための金庫をつくる”等である。
 さらに伸一は、住民の生命と安全と幸福を守ることが、本来、政治の使命であるにもかかわらず、公害が蔓延している現実は、政治家の無責任さにあることを指摘し、住民の意識の覚醒を促している。
 「経済第一主義で、住民の生命が脅かされても平然としているような政治家は、代表になる資格はないのだというぐらいになっても当然ではなかろうか。
 日常においても、住民は、環境の汚染、破壊を、生命への直接の危害として、激しく摘発し、追及していくべきであろう。
 公害問題で、最も主導権を握るべき人は、企業人でも、政府でもない。住民の連帯の意識が、政府を動かし、企業をも動かしていくのである」
 そして、住民の代表によって“公害Gメン”をつくり、監視の目を光らせていくことや、科学者と住民との協力などを提案していったのである。


蘇生 十三

 山本伸一は、公害問題の解決は、住民運動、市民運動の展開に、最も重要なポイントがあると考えていたのである。
 社会を変え、時代を動かすのは民衆である。民衆が賢明になり、変革の主役となって立ち上がってこそ、歴史の地殻変動が起こるのだ。
 その民衆を触発し、目覚めさせ、時代建設の主役とする運動が、われらの広宣流布である。
  
 伸一が書いた、「日本は“公害実験国”か!」の原稿は、四百字詰め原稿用紙にして四十枚を超えていた。
 それは、十月上旬に発売された、大手出版社の総合月刊誌十一月号に掲載された。
 さらに伸一は、十月下旬に出された、東洋哲学研究所発行の季刊誌「東洋学術研究」秋季号にも公害問題について論文を発表した。
 まさに、間断なき言論闘争であった。怒濤のごとき、追撃の行動があってこそ、時代は動き始めるのである。
 タイトルは「人間と環境の哲学」である。
 ここでは「日本は“公害実験国”か!」で提起した問題を、さらに哲学的な観点から、深く掘り下げていった。
 彼は、公害問題の淵源は、自然はいかに破壊されても調和を保っていくという楽観論と、人間こそ宇宙のいっさいに君臨すべく資格を与えられた万物の霊長であるとする考え方にあると断じた。
 そして、現代文明を根底で支えるその発想の一端が、旧約聖書の歪んだ解釈に発していることを指摘していった。
 ――旧約聖書の「天地創造」の章には、神は、神自身の姿に似せて人間を創り、これを、こう祝福している。
 「産めよ、殖えよ、地に満ちよ。地を支配せよ。そして海の魚、空の鳥、地を這うすべての生きものを従わせよ」(中沢洽樹訳、中央公論社)
 人間は神の似姿――ということは、人間こそ、あらゆる生物のなかで、最も尊き存在であるとする論拠ともなる。
 また「地を支配せよ。……すべての生きものを従わせよ」とは、人間こそ地上の支配者であり、すべての生物は人間に従い、仕えるために存在するのだとの解釈が、後になされていったのだ。


蘇生 十四

 当初、旧約聖書の「地を支配せよ」の意味は、その後の解釈とは、かなり異なっていたようだ。
 当時のユダヤの支配者(王)は、神から秩序の維持を委任された者であり、基本的にはユダヤの民は皆が同輩であり、同じ民衆であった。
 したがって、「支配」といっても、独裁者が民衆を意のままに操るのとは異なり、秩序の安定の責任をもつといった意味合いに近い。
 もし、人間が神を無視して、動物や自然を隷属させるならば、それは「創造主」になることであり、最も不遜な行為となる。
 しかし、やがて、この当初の考えを離れ、文字面通りに「地を支配せよ」と解釈され、人間を地上の支配者とする思想が生まれたのだ。
 また、キリスト教が広まったヨーロッパは、かつては大半が千古の森林に覆われていた。
 そして、人間に征服されない自然は、野獣や“悪魔”が潜む、「暗黒の世界」と考えられた。
 これを切り開き、文明の光をあてることは、神の王国を広げることであり、その労働は神への奉仕にほかならなかった。
 伸一は、一次元から言えば、この未知の世界を征服しようとしたところに、科学の進歩、発達がもたらされたことを述べ、こう記した。
 「それらの科学・技術が、いま、自らを滅ぼす、恐るべき脅威となってふりかかっているのだ。
 それは、この征服と支配の、哲学の底にある、人間の傲りと、独善の破局であり、人間存在が、宇宙の万物に支えられているという、関係を無視した、必然の結果である」
 さらに、公害の解決のためには、その根源に立ち返り、文明それ自体の“体質”をつくり直さなければならないとして、仏法の生命哲理に言及していった。
 「人間と、環境との関係について、仏教哲学では、依正不二と捉えていく。
 依正不二とは、依報と正報とが、不可分の一体をなしているということで、正報とは生命主体であり、依報とは、その生命体を形成し、その活動を助ける環境世界である。
 ――生命主体と、その環境とは、一応、概念として分けられるが、これらは相互に密接に関係し合い、一体をなしている」


蘇生 十五

 山本伸一は、「依正不二」から、仏法の法理を詳述していった。
 「これを、更に体系化した哲理に、一念三千がある。一念三千とは、生命の実体を、三千の範疇に分析して論じたもので、仏教の生命哲学の極説とされている。(中略)その中に、三世間といって、五陰、衆生、国土があげられている」
 五陰世間とは、個々の生命を、生理的、心理的にみる見方であり、衆生世間とは、広義に言えば、社会学的な見方である。国土世間とは、その生命にとっての、自然環境との関係性の側面といえよう。
 仏法では、大宇宙のすべてを生命ととらえ、草木や石、砂の一粒にも、仏の生命の実在を認め、いっさいを尊極の当体と見るのである。
 そして、伸一は、人間が環境と調和し、しかも人間が主体性を確立していくための、確固たる哲学的、思想的基盤こそ、この大乗仏教の哲理であることを強く訴えて、「人間と環境の哲学」の結論としたのである。
 この論文は、総合月刊誌に寄稿した、「日本は“公害実験国”か!」とともに、大きな賞讃と共感の輪を広げていった。
 当時、公害への社会の関心は高まり、各地で反公害運動も大きな広がりを見せていた。
 伸一は、公害を、単に地域的な問題と見るのではなく、文明というマクロな観点からとらえていったのである。
 そして、地球的規模で進行しつつある公害をもたらした思想の、淵源にさかのぼり、その根本的な解決の方途を明確に示した点に、彼の論文の特徴があった。
 学会本部にも、たくさんの賛同の声が寄せられた。絶賛を惜しまぬ識者もいた。
 なかでも、学生部員をはじめ、学会の青年たちは、大きな感動をもって、この論文を読んだ。
 仏法こそ、人類の未来を開くうえで絶対不可欠な哲理であることを確信し、「生命の世紀」を築きゆく使命を、一段と深く自覚したのである。
 このころ、公害問題に取り組んでいる学者などが、次第に、創価学会に強い関心をもつようになっていった。
 信心を始めた公害病の患者や、その家族の生き方を見て、信仰の力に着目せざるをえなかったのである。


蘇生 十六

 公害病にかかれば、患者本人はもとより、その家族も、深い絶望の底に叩き落とされた。
 生きる気力を奪われたり、怨念の炎に胸を焦がして生きる人が少なくなかった。
 しかし、そのなかで学会員は、人生に希望と使命を見いだして、悲しみの淵から、敢然と立ち上がり、蘇生していったのである。
 正しき信仰は、無限の力と勇気を引き出す。信心ある限り、決して絶望はない。
 公害問題を乗り越えるための、大きな鍵の一つは、公害に苦しむ人びとが生きる力を持てるかどうかである。
 それこそが、最も重要なテーマといえよう。
 あの水俣にあっても、学会員は、周囲の人びとの希望の存在となっていたのだ。
 水俣では、一九五三年(昭和二十八年)ごろから、少しずつ学会員が誕生していった。まだ原因不明の奇病とされていた「水俣病」にかかる人が出始めたころである。
 そして、漁村を中心に、四肢の感覚障害や運動失調、言語障害等を引き起こす人が増えていったのである。
 患者の苦しみはもとより、治癒のあてのない患者を介護する家族の苦悩も、並大抵のものではなかった。
 患者が出た一家は、誰もが疲れ果てていた。
 そうしたなかで、「絶対に幸せになれる」と確信をもって断言する学会員の言葉は、希望の輝きをもって胸に迫った。
 六一年(同三十六年)、後に「胎児性水俣病」であることがわかる娘をもつ、山上英雄が入会した。絶望の果てに始めた信心であった。
 彼には、四人の子どもがいたが、五五年(同三十年)に生まれた末の娘は、首がなかなか座らなかった。
 また、四歳になっても歩くことができなかったのである。
 病院に連れて行っても、医者は、ただ首を傾げるばかりであった。
 「水俣病」は、水俣湾の魚介類を食べたことと関係しているのだから、食べていない幼児がなるはずはないと、思い込んでいたからであった。
 さらに、山上自身も「水俣病」にかかり、何年か前から平衡感覚が鈍くなっていた。強い手足のしびれを感じ、よく頭痛に襲われた。


蘇生 十七

 山上英雄は、建設会社に勤めていたが、「水俣病」の症状が強くなるにつれて、次第に先行きの不安が強まっていった。
 四人の子どもをかかえる一家の暮らしは、決して楽ではなかった。
 しかも、末の娘は、歩くことも、言葉を発することもできなかった。さらに、長男も、体が弱かった。
 “娘の未来はどうなるのか。俺の人生はどうなるのか……”
 考えれば考えるほど、絶望感が増した。
 明かりの見えない闇のような生活であった。その苦しさを忘れようと、山上は浴びるように酒を飲んだ。
 飲めば暴れた。手がつけられなかった。
 玄関の戸を蹴破り、怒鳴り、わめき散らし、ちゃぶ台をひっくり返した。また、鍋や釜までも土間に投げ出した。
 妻も、子どもたちも、ただおろおろするばかりであった。安心して、眠れる夜はなかった。
 末娘は、間もなく小学校に入学する年齢に達していた。
 彼の不安は、ますます募った。
 その山上に、学会員の知人は、熱心に仏法の話をし、入会を勧めた。
 「山上さん。こん信心ばすれば、絶対、幸せになれるばい。娘さんも必ずようなるけん。俺が保証する。
 一緒に信心しよい」
 力強い声であった。真剣さがあふれていた。
 ほかに、希望をつなぐ道は何もない。
 半信半疑であったが、彼は信心を始めることにした。
 ひとたび信心をするからには、やるべきことは必ずやること――というのが、紹介者と交わした約束であった。
 だから、欠かさず勤行も励行した。折伏にもひたむきに取り組んだ。教学も真剣に学んだ。
 「さぼったら、約束にならん」
 彼は律義であった。
 信心に励むにつれて、生命力がみなぎってくるのが感じられた。
 また、会合に参加するなかで、生命の因果の理法ということを学んだ。
 “娘の病気も、俺の病気も、宿命という問題を抜きにしては考えられない。そして、この宿命を転換できる、ただ一つの道が仏法なんだ。
 それなら、俺も宿命の転換に挑戦してみよう。もう逃げたりはしない”


蘇生 十八

 周囲の人たちは、信心に励む山上英雄を見て、「酒の次は宗教か」と嘲笑った。
 しかし、山上は微動だにしなかった。彼は、既に確信をつかんでいたからである。
 ――真剣に信心に取り組んで間もなく、末娘が初めて立ち上がり、少しずつ歩き始めたのだ。
 その現証を目の当たりにして、彼の妻も入会した。すると、今度は娘が言葉を発したのである。
 「かあちゃん……」
 夫妻の驚きは大きかった。涙があふれた。
 “この信心はすごい”
 確信は不動のものとなり、希望が、勇気が、夫妻の胸にあふれた。
 家のなかは、いつの間にか、明るさを取り戻していた。
 末娘は、七歳の時に、「胎児性水俣病」と認定された。
 また、山上も、妻も、検査の結果、「水俣病」と認定された。しかし、彼の手足のしびれや頭痛は軽くなっていたし、妻も自覚症状は軽く、辛さを感じなかった。
 山上夫妻は、よく語り合った。
 「水俣病で苦しむとは、私たちだけでよかね」
 「ここを仏国土にせにゃいかん。そんためには、広宣流布するしかなかばい」
 いたいけな娘を見ながら、二人は誓い合うのであった。
 やがて、長男も、次男も働きに出るようになると、経済的にも、余裕が出てきた。
 だが、何よりも、山上が嬉しかったのは、医師から知能はほとんど発達しないかもしれないと言われていた末娘が、言葉を理解し、少しずつ、自分のことは、自分でできるようになっていったことである。
 山上の家には、いつも笑いの花が咲くようになった。その談笑の中心には、「胎児性水俣病」の末娘がいた。
 彼は誓った。
 「病気ばもって生まれてきた娘がおったけん、俺たちは信心すっことができた。娘に仏法ば教えてもろたったい。
 こん子は、ほんなこつ地涌の菩薩の使命ば果たしとる。俺も、水俣から不幸ばなくすために、頑張っぞ」
 山上夫妻は、弘教の闘士となっていった。
 山本伸一は、苦しみをバネに、公害病に挑む、そうした同志の活躍をよく耳にしていた。


蘇生 十九

 公害との戦いとは、根本的には、人間に巣くう“生命の魔性”との戦いである。
 企業家も、学者も、役人も、住民も、保身やエゴイズムという魔性を破っていかなければ、解決の道はない。
 また、万人が仏であるという生命の尊厳の大哲学を掲げ、自身と環境との不二なる原理を示した生命の法理を、一人ひとりの心に打ち立てねばならぬ戦いである。
 そして、現実の社会に、改革の波を広げゆくことだ。
 人間革命から社会の変革へ――それが、広宣流布の大運動である。
 山本伸一は、公害の地で敢闘する同志たちのために、真剣に題目を送り続けた。
 また、彼は、公害問題に取り組む研究者とも会い、真摯な思いで話に耳を傾け、公害について学んでいった。
 正しく深い知識をもつことは、問題解決の手がかりとなるからだ。
 公害の根絶に立ち上がった伸一に相呼応し、聖教新聞も、盛んに公害問題の特集を組んだ。
 悪を見て放置することは、結果的に、悪に加担することに等しい。
 聖教の記者たちは、公害が起きている地域に足を運び、徹底して取材していった。
 また、公害を生み出した根本原因をえぐり出し、解決の方途を示そうと、真剣であった。
 人類の未来を覆う暗雲を払わんと、聖教新聞が鋭い正義の剣を抜いて立ったことが、伸一は嬉しかった。
 一九七三年(昭和四十八年)の春のことであった。聖教新聞社の職員と懇談した折、一人の記者が語った。
 「先日、水俣に取材に行きましたが、現地では、公害病という問題以外に、さまざまな問題が生じています。
 たとえば、水俣は小さな町ですが、その地域社会のなかで、公害の元凶となった化学会社の関係者と、被害にあった患者や家族との間には、深い対立の溝があります。
 水俣で公害問題を解決する道を探るとともに、現地の同志を勇気づけたいと思います。
 水俣に、しばらく派遣させていただけないでしょうか」
 ある国立大学の獣医学科を卒業して、三年前に聖教新聞の職員になった舘正男であった。


蘇生 二十

 舘正男は、普段は温厚な青年であった。その彼が力を込めて訴えたのである。
 山本伸一は、その真剣さが嬉しかった。また、青年の積極的な意見を大切にしたかった。
 水俣派遣の件を編集の幹部に相談すると、全員が賛成であった。
 一九七三年(昭和四十八年)の四月、舘は水俣に向かった。苦悩する患者のなかに飛び込み、取材活動を開始した。
 周辺の離島にも何度も足を運んだ。そこにも水銀に侵されながら、懸命に生き抜いている学会員がいた。
 ――ある婦人は水俣病で、全身が松葉の先で刺されるようにうずき、痙攣に苦しんできた。
 営んでいた食堂と雑貨の店も、閉店せざるをえなくなった。
 「奇病」にかかった人の店から、村人の足は遠のいていったからだ。家賃も払えず、立ち退きを迫られた。
 彼女は、絶望の果てに、仏法の話を聞き、創価学会に入会した。
 不思議なことに信心を始めた直後から、痛みが止まったのだ。
 島では、学会に対する偏見が根強かった。入会した彼女には、村八分同然の厳しい仕打ちが待っていた。
 しかし、彼女は負けなかった。真剣に信心に励むにつれ、病状は回復に向かい、痛み止めの注射も必要としなくなったという体験をつかんでいたからだ。生命力が増したのである。
 “信心を続ければ、絶対、幸せになれる!”
 そう確信した。
 彼女は、自分だけでなく、島中の人びとに仏法を教え、幸せにしたいと思うようになった。
 だから、どんな悪口を言われようが、自分から笑顔であいさつした。
 やがて、水俣病の原因は、化学会社の流したメチル水銀化合物であることが明らかになった。
 化学会社の幹部は、ひざまずいて謝罪した。
 その時、彼女から発せられたのは、恨みの罵声ではなかった。
 「あんたたちゃ、私たちに謝らんちゃよか。そりよか御本尊さんに、心から許してくださいと謝れな。懺悔せろな」
 水俣病を引き起こし、自分の体をめちゃくちゃにした化学会社は、彼女にとって、いくら憎んでも、憎み足りない相手であるはずである。


蘇生 二十一

 学会員である婦人にも、“私たちが、こんな病で苦しめられるのは、この化学会社のせいである。当然、化学会社は、その責任を負わねばならない”との、強い思いがあった。
 だが、同時に彼女は、生命の因果という次元から、なぜ自分が水俣病で苦しまねばならないのかを見つめていた。
 そして、その宿業は、今世の信心によって、必ず消滅できると確信していた。
 いや、病に負けずに強く生き抜く姿を通して、仏法の功力を人びとに示していくことが、自分のこの世の使命であると感じていたのだ。
 また、公害で苦しむ人のいない社会を断じてつくろうと、決意していたのである。
 彼女は、ひれ伏すようにして謝罪する、化学会社の幹部を見て、むしろ哀れに思えた。
 “この人たちは、結果的に多くの人びとの命を奪い、苦しめ、重罪を犯してしまった。
 社会的な責任を追及されるだけでなく、生命の因果の理法によっても、厳しい報いを受けることになる”
 彼女は、かわいそうでならなかった。それで、御本尊にお詫びし、懺悔滅罪するように、懸命に訴えたのである。
 舘正男は、水俣で取材を続けるなかで、苦悩を使命へと転じて、水俣を公害なき仏国土に転じようと立ち上がった、何人もの同志の姿に触れた。
 水俣では補償問題が紛糾するにつれて、公害を出した化学会社の従業員の家族と、患者の家族の間でも、対立の溝が深まっていった。
 化学会社の社員のなかにも、会社の工場廃水の問題が指摘されて以来、心を痛め続けてきた人も少なくなかった。
 患者の一家も、そのことを知らないわけではなかった。でも、自分たちの深い苦しみを思うと、化学会社の関係者には、どうしても、一様に憎しみの目を向けてしまうのである。
 しかし、学会の組織では、化学会社の従業員と患者が、仲良く、肩を並べて座談会に出席し、折伏に歩く姿が見られた。
 学会員は、ともに力を合わせ、水俣の人びとの幸福と繁栄を築くことこそ、互いの使命であると自覚していたのである。


蘇生 二十二

 舘正男は、学会の組織にあっても、水俣の中心者として戦い、同志の激励に駆け巡った。
 そして彼は、水俣の同志たちが、会長山本伸一を求め抜き、伸一と広宣流布のために生きることを、無上の誇りとしていることを知った。
 彼は、それを伸一に報告した。
 「よし、わかった。水俣の皆さんとお会いしよう。そして、力の限り、励まそう!」
 伸一は、翌一九七四年(昭和四十九年)一月、九州を訪問した。
 九州では、福岡で行われる、九州大学会の総会や青年部総会、本部幹部会などに出席し、それから香港に出発する予定であった。
 だが、その間隙を縫うようにして、鹿児島の九州総合研修所(当時)に水俣のメンバーを招き、第一回「水俣友の集い」を開催することにしたのである。
 会場を九州総合研修所にしたのは、この研修所が、霧島の豊かな大自然のなかにあったからだ。苦労に苦労を重ねて頑張り抜いてきた水俣の同志に、気宇広大な景観のなかで、英気を養ってもらいたかったのである。

 一月二十四日、メンバー百八十人が、バスを連ねて、喜々として研修所に集って来た。
 美しい青空が広がっていた。
 彼方には錦江湾が銀色に輝き、桜島が噴煙を上げていた。
 水俣の同志が集ったという報告を聞くと、山本伸一は、「みんなで一緒に記念撮影をしよう」と提案した。
 庭に並んだメンバーの顔には、喜びがあふれていた。
 日焼けした凛々しい青年の姿もあった。
 笑顔皺を刻んだ老婦人もいた。
 どの顔も輝いていた。
 伸一は、万感の思いを込めて語りかけた。
 「ようこそ、霧島へおいでくださいました!
 お待ちしていました。お会いできるのを、楽しみにしていました。
 私は、皆さんが、宿命に怯まず、絶望に負けず、自分自身に打ち勝ち、ここに集われたことをよく知っております。皆さんこそ、人生の偉大なる勝利者です。
 これからも、さらに、強く、強く、強く、生きて、生きて、生き抜いてください」


蘇生 二十三

 山本伸一の声に力がこもった。
 「このなかには、公害による病をかかえた方もいらっしゃるでしょう。
 しかし、それに負けずに、強く生き抜いていくこと自体が、人びとの希望となり、仏法の力の証明になります。
 苦しみを噛み締めてきた皆さんには、幸福になる権利がある。皆さんの手で社会を変えていくんです。
 さあ、戦いましょう!
 公害を引き起こした、大宇宙に遍満する魔性を、人間の生命の魔性を打ち破るために!」
 「はい!」
 メンバーの元気な声が返ってきた。
 「では、皆さんの大健闘と大勝利を祝して、万歳三唱をしましょう!」
 皆、胸を張り、晴れやかに叫びながら、振り上げるように手をあげた。
 「万歳! 万歳! 万歳!」
 誇らかな声が、霧島の空高くこだました。
 「では、お元気な皆さんの姿を、後世永遠にとどめ、顕彰する意義を込めて、一緒に写真を撮りましょう」
 皆、伸一を囲み、笑顔でカメラに納まった。
 「この写真は、大きく引き伸ばして、研修所に掲げます」
 拍手と歓声が舞った。
 「今日は、わが家に帰ったような気持ちで、一日、ゆっくりしていってください」
 微笑みを浮かべる同志の目は、生き生きと輝いていた。
 過酷な宿命の嵐にも、決して負けなかった庶民の英雄たちの、勇気と英知の光彩であった。
 それから、研修所の広間に移って、伸一が出席して、第一回「水俣友の集い」が行われた。
 まず、伸一の導師で、厳粛に勤行・唱題が行われた。
 次いで、舘正男があいさつに立った。
 「皆さん、今日は、私たちの心を表すような日本晴れとなりました。おめでとうございます!
 私たちの真心からほとばしる演技を、山本先生に見ていただこうではありませんか!」
 感極まってか、その声は上擦っていた。
 「水俣友の集い」の開幕である。
 メンバーの演技が始まった。それは「水俣物語」と名づけられ、郷土・水俣の歩みを、合唱や剣舞、舞踊、体験などで構成したものであった。


蘇生 二十四

 水俣の同志による「水俣物語」には、山紫水明の天地を汚し、尊い人命を奪った、水俣病という郷土の不幸を転換して、幸福の都を築こうとする不撓不屈の心意気があふれていた。
 新出発の誓いを込めた壮年部による「武田節」の舞があった。
 挑戦の決意を託した男子部の「霧の川中島」の剣舞があった。
 そして、水俣病に戦い勝った、感動の体験発表があった。登場したのは山上英雄である。彼は、体験を語ったあと、目に涙を浮かべて叫んだ。
 「先生! 私たちは、信心によって、学会によって、見事に蘇生することができました。
 『妙とは蘇生の義』であります。水俣を救う道は妙法しかありません。これは、私の信念です。
 私は、ご恩返しのためにも、余生を広宣流布に捧げ、必ず、愛する水俣を、幸福の楽土に変えてまいります。ありがとうございました!」
 さらに、未来への希望を歌う女子部のコーラスがあり、使命に生きる喜びを表した婦人部の「水俣ハイヤ節」の踊りと続いた。
 最後は「同志の歌」の合唱であった。
  
 我いま仏の 旨をうけ……
 
 水俣の友の幸福と平和のために、それぞれが一人立とうとの、誓いを込めた熱唱であった。
 伸一は、身を乗り出すようにして演技を見ていたが、この合唱が始まると、彼も一緒に歌った。
 そして、伸一の指導となった。
 「学会精神を基調として立ち上がった皆様方の、真剣な姿を拝見し、私は本当に嬉しい。
 今日の催しこそ、新しき水俣建設の原点となるものであると、私は確信しております。
 今日を『水俣の日』と定め、毎年、互いの成長を刻む節とし、新しき伝統を後世に残していってはどうかと思いますが、いかがでしょうか!」
 賛同の拍手が響いた。
 「水俣の変革といっても、それは、そこに住む一人ひとりの生命の変革、人間革命による以外にありません。
 一個の人間革命が、やがて一国の宿命の転換をも可能にすることを説いているのが仏法です」


蘇生 二十五

 山本伸一は、参加者一人ひとりに視線を注ぎながら言った。
 「皆さんは、この水俣の地にあって、『人間革命』即『社会の宿命転換』の原理を、証明していっていただきたい。
 水俣の悲惨な現実も、やがて忘れ去られていくかもしれない。しかし、水俣は、戦後の公害の原点であります。
 これから、二十年後、五十年後、百年後に、水俣がどうなっていったかを見続けていくことは、日本の全国民の義務でもあります。
 そして、皆さんが、水俣の変革の原動力となって、年ごとに、郷土の蘇生の歴史を刻んでいっていただきたいのです。
 どうか、いつまでも、お元気で、楽しく、愉快に、人生を生き抜き、長生きをしてください。私は、皆さんに、毎日、題目を送り続けます」
 大きな拍手が響いた。
 その後も伸一は、水俣の同志への激励を、折あるごとに続けていった。
 後年、彼は詠んだ。
  
 水俣の
  友に幸あれ
   長寿あれ
 仏土の海で
  今世を楽しく
 
 公害の被害は、公害を垂れ流した企業が非を認め、多額の補償金や賠償金を出したとしても、決して、それで終わるというものではない。
 公害病の患者の苦しみは、さらに続くのだ。
 だからこそ公害に泣いた人びとが、生きる勇気を、未来への希望を、呼び覚ましていくことが、何よりも大切になる。また、励ましの人間のスクラムが必要になる。
 さらに、公害の根本的な解決のためには、現代文明の在り方を根源的に問い、新たなる人間の哲学を打ち立てなければならない。
 そこに、創価学会の果たすべき役割がある。
 後に、伸一が対談集を発刊する歴史学者のアーノルド・J・トインビー、ローマクラブの創立者アウレリオ・ペッチェイ、行動する文化人のアンドレ・マルローの各氏も、環境問題への学会の挑戦に心からのエールを惜しまなかった。
 現実社会の改革を忘れた宗教は、死せる宗教である。一人ひとりの人間を内面から覚醒し、社会変革の主体者とする宗教運動こそ、創価の人間革命の大運動なのである。

語句の解説
 ◎トインビーなど/
 トインビー(一八八九〜一九七五年)は、イギリスの歴史家。世界史を“諸文明の歴史”ととらえ、大著『歴史の研究』等で、西欧中心史観を打破した。池田SGI会長と対談集『二十一世紀への対話』がある。

 ペッチェイ(一九〇八〜八四年)は、イタリアの実業家。一九六八年に、世界各国の有識者を集め、ローマクラブを設立。環境汚染など、人類の生存に関わる諸問題の解決のために、数々の提言を行った。SGI会長との対談集『二十一世紀への警鐘』がある。

 マルロー(一九〇一〜七六年)は、フランスの作家・政治家。第二次大戦中は、反ファシズム闘争に身を投じ、戦後、ド・ゴール政権下で、情報相、文化相を歴任。代表作に『人間の条件』など。SGI会長との対談集『人間革命と人間の条件』がある。


蘇生 二十六

 山本伸一が、公害問題への挑戦をめざし、ペンをとっていた一九七〇年(昭和四十五年)の秋には、芸術部などが中心となって、文化・芸術のさまざまな催しが行われていった。
 これは、五月三日の本部総会で伸一が発表した「妙法の大地に展開する大文化運動」の具体化であり、九月十一日には両国の日大講堂で、「生命の歓喜」をテーマに、第一回「第三文明華展」(第三文明協会主催)が開幕している。
 日大講堂は、日本屈指のマンモスドームであった。そこに、華道界六十八流派のメンバーによって出品された二百点近い作品が、絢爛と咲き薫ったのである。
 流派を超えて、これほど大規模な華展が開催されるのは、初めてのことであったにちがいない。
 果たして、どんな華展になるのか――各流派の関係者も、大きな関心をもって注目していた。
 会場に足を踏み入れた人は、まず、その大胆な会場構成に息をのんだ。
 ドーム全体が、一つの大きな花器に見立てたつくりになっているのだ。
 場内は乳白色のテープで覆われ、頭上には、大小千二百個の白球が取り付けられていた。
 会場には、テーマである「生命の歓喜」を表現するために、「常」「楽」「我」「浄」の四コーナーが設けられていた。そこに「永遠」「喜び」「強さ」「浄らかさ」を象徴する作品が陳列されていたのである。
 作品名を見ても、「フェニックス」や「楽しい家族」「生命の泉」など、強さや生きる喜びがあふれていた。
 共同制作も多く、入り口の近くに展示された、「よろこび」と題する作品は、四十四人が力を合わせた秀作であった。
 流派を超えて、皆が一緒になって、一つの作品をつくるなど、華道界の常識では考えられないことであったといえよう。
 また、そこには、伝統と近代性の調和があり、高い芸術性と大衆性の融合があった。
 それぞれが自分の殻を破り、“全体の勝利”という大きな目的のために、「水魚の思を成して」(御書一三三七ページ)力を合わせる時、各人の想像をはるかに超えた、新たなる可能性が開かれるものだ。


蘇生 二十七

 華展が開幕した九月十一日には、山本伸一も、文化局の代表らと会場の日大講堂を訪れ、作品を鑑賞するとともに、出品者らを励ました。
 入選作は、華道界を代表する錚々たる華道家の審査員によって、出品作の中から選ばれていた。
 作品を鑑賞しながら、伸一は言った。
 「どれもすばらしい作品だけに、審査員の先生方も悩まれただろうね」
 彼を案内していた役員が答えた。
 「はい、力作ぞろいなので、最後はほんの一、二点の差で、入選か否かが、分けられました」
 「そうだろうね。どれも皆、甲乙つけがたいもの。でも、その一、二点で結果は決まってしまうんだね」
 「審査員の先生が『華道の世界も勝負です。皆が必死です。自分との勝負なんです。それに勝つか負けるかです』と話されていました」
 「どの世界も、本当に厳しいものだね。
 でも、私の気持ちとしては、全作品に努力賞をあげたいな。みんな、すばらしいんだもの」
 その言葉を聞いた出品者たちは、皆、大喜びであった。
 華展は、九月十一日から三日間にわたって開催され、この間に、五万五千人が鑑賞した。
 ある華道家は、「流派を超越する哲学から生まれた新感覚の創造美」と評した。
 また、ある識者は、「流派、年代、経験を超えて、見事な一つの作品を完成したこの事実は、華道史に残る偉業」と、賞讃を惜しまなかった。
  
 一方、九月十三日の夜には、神田の共立講堂で富士合唱団の第一回定期演奏会が行われた。
 伸一は、ここにも出席し、女子部員の美しいハーモニーに耳を傾けた。
 また、十月の六日からは、「’70東京文化祭」が日本武道館で三日間にわたって開催された。
 これは、新たな文化運動の展開のために行われる、方面別文化祭の先駆を切るもので、十一月には関西でも開催が決まっていた。
 さらに、翌年春までに、中部、四国、中国、九州、北海道、東北、信越、沖縄でも、開催が検討されていた。
 信仰の喜びが、人生の歓喜が、人間讃歌の絢爛たる文化の花々を咲かせていったのである。


蘇生 二十八

 十月八日には信濃町の学会本部で総務会議が行われた。その席上、明一九七一年(昭和四十六年)を「文化の年」とし、本格的な文化運動を推進していくことが決定をみた。
 また、十一月の十七日には、第二回「第三文明展」(第三文明協会主催)が都内のデパートで開幕した。
 同展は“生命の尊厳”“人間性の回復”をテーマに、新たなる芸術運動の創造をめざしてスタートしたもので、第二回展には、絵画、彫刻、書、工芸の千六百点の作品のうち、選び抜かれた七十八点が展示された。
 応募者には、専門家だけでなく、サラリーマンや主婦、学生も多く、民衆に開かれた美術展となっていた。
 “本来、芸術といっても、特別なものでもなければ、一部の特権階級のものでもない。日々の生活に深く根差して、人びとに、喜びや勇気、希望などを与えるものでなければならない”
 それが、伸一の主張であり、文化を民衆の手に取り戻すことが、彼の念願であった。
 彼は、特にこのころから、メンバーの励ましのために、折々に、句や和歌、詩を詠んでは贈るように努めていた。
 富士合唱団の演奏会の折には、「金の声 富士までとどけと 初舞台」と詠んだ。
 「敬老の日」の集いには参加者を讃えて、「妙法の 戦士に不老 不死の道」との句を贈った。
 また、東京文化祭では「絢爛と 民衆乱舞の 文化祭」と詠んだ。
 その出演者との懇談では、「満月や 文化の人と 宴かな」、関西文化祭の運営にあたったメンバーには、陰の労苦を讃えて、「僕たちの 裏方芸術 文化祭」との句を贈っている。
 表現なくしては心も情熱も伝わらない。行動で、対話で、文で、思いを表現し抜いてこそ、人との絆も生まれるのだ。
 また、十一月の三日には、大学教授など学術者によって構成される学術部の第一回総会が行われたが、伸一は、この総会に、メッセージとして自作の詩「熱原の三烈士」を贈ったのである。
 それは、日蓮大聖人御在世当時に起こった熱原法難で、殉教していった不惜身命の農民信徒の姿を謳い上げたものであった。


蘇生 二十九

 富士の裾野の朝ぼらけ
 若葉の露は彩なして
 潤井の川のせせらぎに
 雲雀の声にも
   児は舞いて
 かくものどかな
    今朝の村
  
 時末の世か水濁り
 仏法の乱れは麻に似て
 民の恨みも悲しけれ
 熱原の郷百姓に
 若き丈夫愁いあり
 
 その名熱原神四郎
 弟弥五郎弥六郎……
 
 熱原法難は、日興上人の折伏によって、富士郡の熱原郷にあった天台宗滝泉寺の住僧の日秀、日弁らが大聖人門下となったことを契機とする弾圧事件である。
 滝泉寺の院主代行智によって日秀らは追放されるが、密かに寺にとどまって弘教を続けた。
 それによって神四郎、弥五郎、弥六郎の三兄弟が入信し、熱原の信徒の中心となって活躍していくことになる。
 民衆を隷属させようとする権威権力は、民衆が新しい信仰に目覚め、自立し、時代、社会を変革する力となることを恐れる。
 行智らは信徒を殺害するなど、容赦のない迫害を加え始めた。
 さらに、弘安二年(一二七九年)九月、日秀の持ち田の稲刈りに集まった信徒たちを、武装した役人、武士たちに襲わせたのである。
 そして、滝泉寺の田の稲を奪ったという無実の罪をでっち上げ、農民信徒二十人を捕らえ、鎌倉に送ったのだ。
 農民信徒は、勇んで法難に立ち向かった。不撓不屈の金剛の信仰が確立されていたのだ。
 日蓮大聖人は、この法難を機縁として、時の到来を感じられ、十月の十二日、一閻浮提総与の大御本尊を御図顕になり、出世の本懐を遂げられたのである。
 讒言、冤罪――いつの世も、それが迫害の常套手段である。
 ゆえに、それを打ち破る執念の言論戦が、絶対に必要になる。
 この取り調べにあたった侍所の所司である平左衛門尉頼綱は、法華経を捨て念仏を唱えよと、農民信徒に迫った。
 しかし、屈する者は誰もいなかった。
 頼綱は激怒し、神四郎、弥五郎、弥六郎の三人を斬首した。彼らは莞爾として、殉教の誉れの道を選んだのである。


蘇生 三十 

 山本伸一の詩「熱原の三烈士」は、熱原の農民信徒である三烈士の、死身弘法の精神を謳い上げていた。
 伸一が、この詩を学術部に贈ったのは、学術部のメンバーに、真実の人間の偉大さとは何かを、考えてほしかったからであった。
 人間の偉大さは、学歴や社会的な地位、肩書などによって決まるのではない。
 それらを鼻にかけ、見栄、保身、名聞名利に汲々とし、魂の輝きを失った人間ほど、滑稽にして醜悪なものはあるまい。
 人間の偉大さは、人びとの幸福のため、法のために、どれだけ献身し、勇敢に戦い抜いたかによって決まるのである。
 五十五連の詩は、こう結ばれている。
 
 生死流転の神四郎
 桜の花に吹く風に
 あれよ広布の鑑よと
 その名かんばし熱原の
 烈士の命 誉れあり
 
 三烈士には、永遠不変の生命の輝きがある。
 
 十一月の二十五日のことであった。衝撃的なニュースが流れた。
 作家の三島由紀夫が割腹自殺したのである。
 彼は、この日午前、自分が主宰する民間防衛組織「楯の会」の青年四人と、東京・市ケ谷の陸上自衛隊東部方面総監部で総監を監禁。自衛隊員を集めさせ、バルコニーから演説を行った。
 憲法を改正し、自衛隊を国軍とすることや、天皇を中心とする伝統などの擁護を訴え、決起を呼びかけたのである。
 カーキ色の「楯の会」の制服に身を包み、悲壮感にあふれた蒼白な顔で彼は叫んだ。
 「俺は自衛隊が立ち上がるのを四年間待ったんだ。諸君は武士だろう。ならば、自分を否定する憲法をなぜ守るんだ!」
 自衛隊員からは、盛んにヤジが飛んだ。
 「何を考えている!」
 「英雄気取りは、やめろ!」
 賛同する者はいなかった。「七生報国」と書かれた鉢巻きをした、三島の顔が歪んだ。
 演説は終わった。
 「天皇陛下、万歳!」と叫ぶ声が響いた。そして、総監室で、三島は割腹したのだ。四十五歳であった。
 四十二歳の伸一とは、三歳違いであり、ほぼ同時代を生きたといえる。


蘇生 三十一

 三島由紀夫の事件をニュースで知った山本伸一は、愕然とした。
 “いったい、なんのための死であったのか”
 彼が書いた「檄」にはこうある。
 「われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。
 政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力慾、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見てゐなければならなかった」
 彼は、その魂の腐敗、道義の退廃を生んだ根本原因は、真の日本人、真の武士の魂が残されている自衛隊を違憲状態に置き、国の根本問題である防衛を、ご都合主義の法解釈によってごまかしてきたことにあると訴えていた。
 「もっとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである」
 「共に起って義のために共に死ぬのだ」
 武士道を規範とする三島にとって、恥辱にまみれて生きることは「醜」であり、義のために死ぬことこそが、「美」であったのであろう。
 三島が、日本人の空虚な精神性や政治の腐敗を嘆く気持ちは、山本伸一にもよくわかった。
 しかし、三島は、自分とともに自衛隊が死を覚悟で決起すれば、政治の矛盾や権力欲などの問題が、解決できると確信していたのであろうか。
 伸一には、とても、そうとは思えなかった。
 三島は、自ら小説に描いてきたように、自刃をもって人生の幕を引き、文学と行動を一体化させ、自分の美学を完結させること自体を目的としていたのではないか。
 だとすれば、それは、ナルシシズムであり、生きてなすべき改革を、放棄したことではないか。大事なことは、現実に何をなしたかである。
 また、その行動の背後には、どのように鍛えようとも、やがて、肉体が老い、衰えていくことへの、強い“恐れ”が潜んでいたのかもしれないと、伸一は思った。


蘇生 三十二

 山本伸一は、学生部員と懇談する機会をもつように努めていたが、ある時、三島由紀夫の死の問題が話題となった。
 一人の学生が言った。
 「先生、三島由紀夫は“義のために起て”と言って割腹しましたが、本当の『義』というのはなんでしょうか」
 伸一は頷いた。
 「大事な質問だね。
 『義』すなわち、人間の行うべき道というものを突き詰めていくなら、万人の幸福と平和の実現ということになる。
 大聖人は『一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし』(御書七五八ページ)と仰せだが、この御心こそが、真実の『義』の在り方ではないだろうか。
 『憂国の士』というならば、民衆と同苦する心がなければならないと、私は思う」
 別の学生が意見を述べ始めた。
 「私は、三島の文学は好きですが、“民衆”が欠落しているように思えてなりませんでした。
 社会は経済的に繁栄していても、その陰で、貧しさにあえいでいる人たちもたくさんいます。
 たとえば、夫に死に別れ、女手で子を育てるために、日々、歯を食いしばりながら汗まみれになって働く女性もいます。病苦や家庭不和に悩む人もいます。
 でも、そうした民衆の息づかいは、彼の作品からは聞こえてきません。
 また、戦火に追われ、逃げまどうベトナムの子どもたちもいます。彼は日本の敗戦の汚辱を嘆きましたが、その子どもたちの嘆きの声には耳を傾けていたのか、疑問を感じます」
 伸一は言った。
 「三島文学に、民衆の息づかいを期待しても、ないものねだりかもしれない。文学を民衆の手に取り戻すことは大事だが、内容的には、さまざまな文学があっていいのではないだろうか。
 しかし、社会の改革をめざすうえで、民衆を見失った思想は、観念の遊戯であり、自己満足にすぎないことは確かです。
 社会の建設を考えるならば、現実の大地に足をつけ、民衆のなかに分け入って、民衆を覚醒させながら、一歩一歩、粘り強く、改革の道を開いていく以外にない。
 それをしないで、観念の間尺に現実を合わせようとすれば、待っているのは“破滅”です」


蘇生 三十三

 さらに、別の学生が口を開いた。
 「三島由紀夫は死をもって主張を貫こうとしました。
 仏法でも、『不自惜身命』や『帰命』ということが説かれていますが、私は仏法者として、主義主張を貫くために死ぬことができるかというと、自信がありません」
 山本伸一は、包み込むように微笑を浮かべ、力強く語り始めた。
 「君は、真面目な人柄だね。しかし、自分を責める必要はないよ。
 帰命というのは、確かに仏や法に身命を捧げ尽くすという意味だが、何かのために死ぬということと、何かのために生きるということは、表裏の関係にある。
 大事なことは、何を人生の目的、最高価値として、何に人生を捧げていくかということです。
 大聖人が『主君の為に命を捨る人はすくなきやうなれども其数多し男子ははぢ(恥)に命をすて女人は男の為に命をすつ』(御書九五六ページ)と仰せのように、人はさまざまなことに命をかけてきた。
 そして、『世間の浅き事』(同)に、命を失うことが多い。
 では、命はなんのために使うべきか。大聖人は、法華経のために身命を捧げるべきであると結論されている。『命を法華経にまいらせて仏にはならせ給う』(御書一二九九ページ)というのが、その理由です。
 法華経すなわち、正法のため、広宣流布のために身命を捧げるなかに、成仏という自身の絶対的幸福境涯を確立する道があり、一切衆生を救う直道があるからです。
 でも、身命を捧げるとは、ただ死ぬということではない。広宣流布のために、全力で戦い抜くことです。
 そのなかで、熱原の三烈士や初代会長の牧口先生のように、殉教することもあるかもしれない。
 しかし、広布の使命を果たすために、生きて生きて生き抜き、命ある限り、動き、語り抜くこともまた帰命です。
 むしろ、“自分は今日一日を、広布のために全力で戦い抜いたのか。妥協はないか。悔いはないか”と問いつつ、毎日、毎日を勝ち抜くなかに、帰命の姿があります。
 また、日ごろ真剣に信心に励むこともなく、いざとなったら殉教の決意でいるなどというのは、寝言のようなものです」


蘇生 三十四

 山本伸一の話に、学生たちは、目を輝かせて頷いていた。
 伸一は言葉をついだ。
 「私は青年時代、自身の決意を、こう日記につづりました。
 『革命は死なり。われらの死は、妙法への帰命なり』
 わが生涯を広布に捧げよう、戸田先生と生きようと、自ら決めた瞬間でした。
 それは、一人の無名の青年にすぎない私の死であったかもしれない。しかし、その時、永遠の生命を生きゆく広宣流布の闘士として、地涌の菩薩・山本伸一として蘇生したんです。
 以来、私は、どんな困難があろうとも、微動だにしません。
 実は、そこにこそ、自身の人間革命、絶対的幸福境涯への道がある。
 侮辱がなんですか。悪口がなんですか。嘲笑がなんですか。広宣流布のためならば、皆が幸せになるためならば、私は、喜んで耐えます。
 『忍辱の鎧を著よ』というのが、仏法の教えではないですか。
 見栄や体裁、格好を気にしていては、広宣流布はできません。ナルシシズムやヒロイズムなんか捨てて、泥まみれになって戦うことです」
 伸一は、学生部員たちに、軟弱で観念的な、自己中心的な知識人になってほしくはなかった。
 民衆のなかに飛び込み、民衆を守り抜き、先頭に立って戦う、たくましき民衆指導者に育ってほしかったのである。
 
 一九七〇年(昭和四十五年)の各部総会の掉尾を飾り、十二月六日、男子部は「開拓」をテーマに、日大講堂で第十九回総会を開催した。
 伸一は、この男子部総会にも、メッセージとして自作の詩「青年の譜」を贈ったのである。
 
 天空に雲ありて
 風吹けど
 太陽は 今日も昇る
 午前八時の
 青年の太陽は
 無限の迫力を秘めて
 滲透しつつ
 正確に進む……
 
 伸一は、この詩を通して、仏法を根底に社会の建設に立ち上がるなかにこそ、仏法者としての、青年の尊き使命があることを、訴えておきたかったのである。


蘇生 三十五

 総会に集った男子部員は、山本伸一の詩「青年の譜」を聞きながら、興奮と感動を覚えていた。
 
 幕は落ちた
 第二の十年
 線上より
 広く面上にうつり
 高く聳えゆく
 二十一世紀の結実の
 文化の作業をするのだ
 それは 君達の踏む
 檜舞台!
 誇り高き 初登場だ!
 
 われには
 われのみの使命がある
 君にも
 君でなければ
 出来ない使命がある
 
 詩は、新世紀を担う青年の自覚を促し、人間革命を機軸にした社会変革の必要性を叫んでいた。
 
 二十一世紀に生きゆく
 民衆の願望は
 外形のみの
 改革にはない
 一人ひとりの哲学と
 思想の中に
 平和裡に漸進的な
 汝自身の
 健全なる
 革命を願っている
 これには長期の判断と
 深い哲理を必要とする
 これを
 総体革命と命名したい
 
 そしてこれを
 われらは
 広宣流布と呼ぶ
 
 さらに詩には、そのためには「一日一日の 不屈の土台」を築き上げることの大切さがうたわれ、「今日も民衆の真っ只中で友好の対話を頼む」など、具体的な行動が示されていた。
 伸一は、広宣流布という崇高な人生の使命に目覚め立ってほしかったのである。
 「青年の譜」は、激しく、強く、青年たちの胸の共鳴板を叩いた。
 ある人は、この詩の、「労苦と使命の中にのみ 人生の価値は生まれ 壮麗なる結晶の曲が響きわたる」との言葉を座右の銘とした。
 ある人は、「笑う者には 汝の笑うに任せよう 誹る者には 汝の誹るに任せよう」との一節を、深く心に刻んだ。
 皆が「総体革命の主体者」として、決然と立ち上がったのである。
 青年が立つ時、時代は新しき回転を開始する。
 歴史を創る決戦の勝敗の鍵は、常に青年の腕のなかにある。


蘇生 三十六

 山本伸一の詩作は、一九七一年(昭和四十六年)「文化の年」になると、さらに勢いを増した。
 この年には、元日付の聖教新聞に詩「文化と大地」を発表し、特に秋には、矢継ぎ早に詩を書きつづっている。
 たとえば、九月五日には学生部に「革命の河の中で」を、十八日には鼓笛隊に「平和の天使」を、二十八日には女子部に「民衆」を、三十日には中等・少年部に「少年」を贈っている。
 十月に入ると、三日に男子部に「雑草」、高等部に「義経」を、四日に婦人部に「母」を、三十一日には、再び高等部に「メロスの真実」を贈るといった具合である。
 伸一の詩は、人びとに平和と幸福の大道を指し示す詩であった。
 また、社会の建設に走る健気な同志を讃え、励ます、無名の民衆に捧げる詩であった。
 そして、「宇宙即我」「我即宇宙」という仏法の眼をもって、自然と世界をとらえた詩であるといえた。
 彼の生命には、言葉が泉のようにあふれた。
 広宣流布の大使命に生きる喜びと躍動が、わが同志への励ましの念々が、また邪悪への怒りが、言葉の奔流となって、堰を切ったように噴出するのである。
 ともあれ伸一は、「妙法の大地に展開する大文化運動」の先駆けたらんと、ペンをとり続けた。
 彼の詩歌に触発され、詩や和歌などに関心をもつようになった人びとも少なくなかった。
 詩集を好んで読み、自ら詩作に励むようになった青年もいた。
 折々の思いを、句や和歌にする婦人も増えていった。
 伸一は、心に、万葉の世界を思い描いていた。「万葉集」に収められた四千五百余の歌には、天皇や貴族だけではなく、多くの庶民の歌がある。
 民衆が思いのままに詩歌を詠み、自然を、人間を、日々の感動をうたう姿には、文学と生活の融合がある。
 彼は、広宣流布という“人間生命の開拓運動”が進めば、現代における万葉の世界もまた、広がりゆくにちがいないと思った。
 そこに、殺伐とした社会を潤し、人間性の回復をもたらす、一つの道があると考えていたのだ。


蘇生 三十七

 この一九七一年(昭和四十六年)「文化の年」は、文化運動に一段と力が注がれた年であった。
 一月の十五日には、初の「聖教写真展」が開催された。
 方面別の文化祭も、前年秋の東京、関西に引き続いて、各地で盛大に行われた。
 山本伸一は、一月二十九日に中部文化祭に出席したのをはじめ、二月七日には四国文化祭、十四日には中国文化祭、十八日には九州文化祭と、各地の文化祭を観賞するとともに、出演者、役員を全力で励ました。
 そして、二月二十五日には、北海道の文化祭に出席するため、札幌に飛んだのである。
 彼には、一日の休みもなかった。
 ともかく、一人でも多くの友と会い、全精魂を注いで励ますことによって、「第二の十年」に向かう新しい力を育てようとしていたのである。
 人の心を動かすのは、真剣にして誠実な対話である。燃えるような情熱に触れた時、人の心もまた燃え上がるのである。
 北海道では、雪と氷の祭典「’71北海道 雪の文化祭」と銘打って、「人間と自然の調和」をテーマに、この二十五日の夜から三日間、屋外での催しを企画していた。
 “雪の文化祭”の会場は二カ所に分かれ、第一会場となった札幌市のスキー場テイネオリンピアでは、二十六日にスキーを使ってのマスゲームなどが行われることになっていた。
 そして、第二会場の札幌市・中島公園では、大小の雪像などの展示が行われ、二十五日夜に開幕されたのである。
 伸一が、会場の中島公園に着いたのは、午後五時半ごろであった。
 青い防寒服に白い帽子を被ってはいたが、東京育ちの伸一には、二月の北海道は、さすがに寒く感じられた。
 会場に足を踏み入れた彼は感嘆した。夕闇のなかに、赤や青の照明を浴びた、さまざまな雪像が浮かび上がり、幻想的な美の世界が展開されていたのである。
 案内役の北海道長の伊藤順次が頬を紅潮させて言った。
 「この文化祭では、民衆の団結が、いかにすごいものであるかを社会に示そうと、みんなで力を合わせて頑張りました」


蘇生 三十八

 北海道次長をしている高野孝作が、笑顔で山本伸一に説明した。
 「会場は『開拓』『調和』『万葉の森』『幻想の森』など、十二ブロックに分かれております。
 『幻想の森』にはスケートリンクもあり、そこでは男女青年部によるフィギュアの演技も行われます。ぜひ、ご覧になってください」
 「ありがとう。今日はゆっくり観賞させてもらいます」
 伸一は、こう言うと、巨大な雪像の前で足を止めた。
 十数メートルはあろうかという切り倒した巨木を、筋骨隆々たる十人ほどの人が、運び出そうとしている雪像である。
 その傍らには、別の木を切り倒そうと、力の限り斧を振り上げる人の像もあった。
 荒々しい北海の原野に命がけで挑んできた開拓者の、闘魂が脈打つ力作であった。作品のタイトルは「開拓」である。
 伸一は、傍らにいた青年部の幹部に言った。
 「開拓は死闘だな。そうでなければ、歴史を開くことなんかできない。
 北海道の広宣流布の歩みも、開拓につぐ開拓であり、死闘につぐ死闘だった。
 だから、ここまで学会は大きくなったんだよ。もし、青年が開拓精神を忘れれば、もはや未来の発展はない」
 こう語る伸一の胸に、北海道の天地を走り抜いた青春の日々が、懐かしく蘇るのであった。
 
 山本伸一が最初に北海道を訪問したのは、一九五四年(昭和二十九年)八月十日であった。
 戸田城聖とともに第二回夏季地方指導のため、羽田空港から、空路、千歳に向かったのである。
 気流が悪いせいか、飛行機はよく揺れた。機体が激しく上下することもあった。
 伸一は、激しい振動が戸田の健康に響きはしないかと、はらはらしながら、心のなかで題目を唱えた。
 しばらくして、揺れが収まると、戸田は待っていたかのように、伸一に、組織の在り方や人材の育成などを、矢継ぎ早に語り始めた。
 その声には、まだ元気な今のうちに、すべてを語り抜いておかねばならないという、気迫があふれていた。


蘇生 三十九

 戸田城聖は話が一段落すると、窓の外に広がる雲海を見つめていた。
 それから、山本伸一の方に顔を向け、つぶやくように言った。
 「伸一、君たちの孫の孫の代までの構想は、教えておくからな」
 伸一は、その言葉に遺言の重みを感じ、思わず姿勢を正した。
 “自分はいつ死ぬかわからない。構想は示しておく。後は、お前がいっさいやるのだ!”
 伸一の胸には、戸田はそう言おうとしているように響いたのである。
 また、「孫の孫の代」といえば、百年ほど先の話になる。はるかな未来を見すえた、戸田の構想を、なんとしても実現していくのだと思うと、伸一は、血潮がたぎるのを覚えた。
 戸田は、この北海道訪問で、札幌、函館、小樽、旭川、岩見沢などを回って、活動の陣頭指揮をとった。
 それは、まさに生命を削っての戦いであった。彼は、北海道に旅立つ前日の九日に、大阪、福岡の指導から戻ったばかりであり、その前には、総本山での夏季講習会で、人材の育成に全精力を注いでいたのである。
 広宣流布に生涯を捧げた戸田には、遠大な展望があり、その実現のために緻密な計画があった。それは、一つの敗北も許されぬ道程であった。
 しかし、彼は自分の命の長からぬことを、ひしひしと感じていたのだ。
 伸一には、その戸田の胸中が、痛いほどよくわかった。ゆえに弟子は、捨て身の闘争を展開していたのである。
 戸田は、この夏季指導の折、伸一を伴い、故郷の厚田村に足を運んだ。
 広宣流布の後事を託すべき分身の弟子に、自分を育んだ天地を見せておきたかったのである。
 翌一九五五年(昭和三十年)三月には、日蓮宗(身延派)と学会の間で、法の正邪を決することになった、あの小樽問答が起こる。
 この時、学会側の司会を務めるとともに、運営の指揮をとったのが伸一であった。
 彼は、衣の権威を振りかざし、純朴な学会員を見下し、苦しめた者たちを絶対に許せなかった。
 邪悪の牙を完全に抜き取るために、この法論は、断固、大勝利しなければならなかった。


蘇生 四十

 小樽問答を前に、山本伸一は、相手がいかなる出方をしようが、すべて打ち砕くための方法を考えに考えた。悪質なヤジへの対策の案まで練り上げていた。
 勝利への強い責任感は慎重さに磨きをかけ、決して、妥協を許さぬものだ。杜撰であるということは、結局、勝利への執念の欠如といえる。
 この法論は、伸一の司会第一声で、日蓮宗側を圧倒して、勝利の流れが開かれ、学会側の完全勝利に終わった。
 さらに、この一九五五年(昭和三十年)の八月には、伸一が派遣隊の主将となって、札幌での夏季指導が行われた。
 この時、札幌は、弘教三百八十八世帯を成し遂げ、全国四十五カ所で展開された夏季の折伏活動で、堂々日本一の大勝利を飾った。
 ここに「札幌・夏の陣」として語り継がれる、燦然たる広宣流布の闘争史が刻まれたのである。
 活動期間は、わずか十日間にすぎなかった。とりわけ力ある人材が、札幌に集められたわけではない。では、なぜ、これだけの成果を出すことができたのか――。
 伸一は、決して、特別なことをしたわけではない。ただ、十日間という短期間の活動で大勝利するために、六月末に主将として派遣が決定した時から、彼は、すべてにわたって、周到な準備を重ねてきたのである。
 札幌班の班長である尾高友愛には、幾たびとなく手紙を出し、綿密に連携を取り合った。
 そこには、弘教の目標を三百世帯にすることをはじめ、派遣隊の宿舎の件、全体のスケジュール、戸田会長の日程、大会の会場と日時、下種拡大の推進についてなど、指示や検討事項が事細かに記されていた。
 さらに、手紙には、心温まる励ましがつづられていたのである。
 札幌班では、この手紙を回覧し、すべて伸一の指示通りに、着々と手が打たれていった。
 札幌市を東・西・南・北・中央と五つの区域に分割し、派遣幹部の担当者も明らかにされた。
 詳細な日程表も作られ、座談会の会場や住所、時間帯も明記されていた。
 活動の本番に向かって、水も漏らさぬ万全な手が打たれたのである。


蘇生 四十一

 山本伸一は、夏季指導の準備のために、一日一日、真剣勝負で臨んだ。
 今、やるべき事がなされていなければ、それは最後に結果となって跳ね返ってくる。日々の着実な勝利の積み重ねなくして大勝利はない。
 今日の動きに無駄はないか。戦いに甘さはないか。悔いはないか――日々、伸一は、自らに厳しく問い続け、走り抜いてきたのである。
 札幌の中心者で班長の尾高友愛は三十七歳であり、伸一より十歳年上であったが、誠実に準備に奔走してくれた。
 八月十六日午前十一時過ぎ、派遣隊一行は、列車で札幌に到着した。駅には、尾高と妻の民子らが出迎えていた。
 伸一は、尾高の手を取ると、こう宣言した。
 「尾高さん、戦いは勝ったよ!」
 尾高の、優しそうな目がキラリと光った。
 尾高は、水道衛生設備の会社を営んでいた。しかし、事業に行き詰まり、万策尽きて、二年前に一家で入会した。
 彼らは、信心で必ず苦境を脱してみせると、真剣に活動に励んでいた。
 特に、この十日間で、伸一から徹底して信心を学び、生涯の基盤をつくろうと、強く決意していたのである。
 尾高に限らず、札幌の同志も、派遣隊のメンバーも、皆、経済苦をはじめ、切実な問題を背負い、苦悩を抱えていた。
 生活に余裕がある人など、皆無であったといってよい。
 だからこそ、その悩みの克服と境涯革命を祈り、そして広宣流布を願って、この夏季指導に参加したのである。
 それゆえに、誰もが必死であり、懸命に走り抜いた功徳もまた、顕著であった。皆が信心の歓喜と確信を深めていったのである。
 伸一たちは、札幌市街の中央を東西に走る「大通公園」から、やや南に入った、木造の質素な旅館を拠点に、活動を開始した。
 毎朝六時からの勤行が終わると、伸一の御書講義が始まった。
 御書は「生死一大事血脈抄」をはじめ、「経王殿御返事」「上野殿御返事」などであった。
 札幌の同志は、入会一年未満の人がほとんどを占めていた。
 だが、伸一の講義は明快であり、誰にでもよくわかった。


蘇生 四十二

 山本伸一は、「生死一大事血脈抄」の「過去の宿縁追い来って今度日蓮が弟子と成り給うか」(御書一三三八ページ)の御文では、こう語った。
 「ここは、大聖人様とともに戦う弟子の、深い宿縁について述べられた個所ですが、今、その御精神を受け継ぎ、広宣流布に生きる私たちにも同じことがいえます。
 私たちが今、この時に生まれ合わせ、ここに集って、活動に励んでいるのも、実は、過去世からの深い宿縁によるものなんです。決して偶然ではありません。
 私たちは、日蓮大聖人と、過去世で広宣流布をしていく約束をして生まれてきた。
 しかも、そのために、ある人はあえて貧乏の姿を現じ、ある人は、病気の悩みを抱えて出現してきたんです。
 そして、大闘争を展開する、待ち合わせの場所と時間が、昭和三十年八月の札幌だったんです。
 皆さんは、それぞれが貧乏や病の宿命を断ち切り、妙法の偉大さを証明するために、この法戦に集ってこられた。
 その強い自覚をもつならば、力が出ないわけがありません。
 御本尊に行き詰まりはありません。意気揚々と痛快に戦おうではありませんか!」
 一人ひとりの生命を揺さぶる講義であった。
 伸一の講義を聴くうちに、メンバーは皆、久遠の使命を自覚し、広宣流布の流れを決する歴史的な闘争に、今、自分が参加している喜びに包まれるのであった。
 誰もが勇み立った。その歓喜が、戦いの勢いを加速した。
 派遣隊と地元の同志は一体となって、さっそうと、札幌の街に飛び出していったのである。
 伸一も走った。
 敢闘する同志を現場で励まし、勇気づけるとともに、一人でも多くの友人と直接会い、対話することこそ、勝利の道であることを、彼は痛感していたのである。
 伸一は、座談会場や同志の家を次々と回った。さっき、郊外の同志を激励していたかと思うと、三十分後には市の中心部の拠点に顔を出していた。機敏な行動は、神出鬼没といってよかった。
 その彼の足となったのは、尾高友愛が運転するスクーターであった。


蘇生 四十三

 ある婦人部員は、朝の御書講義のあと、山本伸一から、「あなたの出る座談会に行きますよ」と言われた。
 彼女は、約束の時間に会場の外で伸一を待っていた。スクーターが近づいて来たが、気にもかけなかった。
 すると、「いやー、お待たせしました」という声がした。振り返ると、伸一が立っていた。
 婦人部員は、伸一はタクシーなどの車で来るものと思い込んでいた。まさかスクーターの後ろに乗って来るとは、考えてもいなかったのだ。
 驚く婦人に、伸一は言った。
 「これが一番早いね。お陰で、より多くの拠点を回れるよ」
 彼には、格好も、外見も、どうでもよかったのだ。勝利こそが、至上の命題であった。
 当時の札幌は、裏通りや路地は、砂利道であったり、でこぼこ道も多かった。スクーターの後部座席はよく揺れ、伸一の体は、何度も跳ね上がった。腰や背中に、激痛が走ることもあった。
 伸一は、スクーターの後ろで、常に小声で題目を唱え続けた。真剣勝負だからこそ、祈らずにはいられなかったのだ。
 また、この時、彼の体調は思わしくなかった。
 食欲はなく、水やジュースしか受けつけない日もあった。
 それでも、疲れた様子を見せることなど、全くなかった。“負けるものか!”と、ますます闘魂を燃え上がらせた。
 リーダーが疲れに負けていては、皆を鼓舞し、元気づけることなどできないからだ。
 また、伸一は、こう心に決めていた。
 “戦いは、自分一人ではできない。この方々の奮闘があってこそ、初めて勝利がある。ゆえに、力の限り、わが同志を、讃えに讃え、励まそう”
 だから、皆が意気消沈していれば、「さあ、みんなで歌いましょう!」と呼びかけ、自ら童謡を歌うこともあった。
 黒田節を舞うこともあった。
 伸一が勇壮に舞い始めると、戦いへの気迫がみなぎった。薄暗い電球一つの会場でも、不思議に部屋が、ぱっと明るくなったように感じられた。
 そして、地元のメンバーも、派遣隊のメンバーも、決意を新たにし、歯を食いしばって頑張ってくれたのである。


蘇生 四十四

 「札幌・夏の陣」を戦った同志は、当時を振り返って語っている。
 「山本主将には、絶対に勝つのだという、すさまじいばかりの執念と情熱がありました。その気迫に触れ、誰もが奮い立ったんです。
 でも、それだけではありません。私たち一人ひとりを思いやる真心にあふれていたんです。むしろ、それがエネルギーの源でした。
 顔を合わせるたびに、ねぎらいの言葉をかけ、家族のことまで心配してくれるんです。
 みんなが“こんなにも気遣ってもらって申し訳ない。頑張らなければ”っていう気持ちでいっぱいでした」
 八月十六日に火蓋を切った札幌の夏季指導は、日ごとに勢いを増し、二十日には、早くも目標の三百世帯を達成した。
 そして、最終日には三百八十八世帯という、全国一の金字塔を打ち立てたのである。
 さらに一九五七年(昭和三十二年)六月に、夕張で炭鉱労働組合が学会員を締め出すという夕張炭労事件が起こった時にも、伸一は、直ちに北海道に飛んだ。
 夕張炭鉱の学会員は、社会をよくしようと、前年の参議院選挙で学会推薦の候補者を支援したことから、組合の統制を乱したとして陰に陽に排斥されてきたのである。
 学会員は労働金庫も使わせてもらえなかった。社宅の修理を申請しても断られた。子どもまでもが仲間外れにされた。
 折伏すれば嘲笑され、罵声を浴びた。水も撒かれ、塩も撒かれた。
 でも、同志は、我慢に我慢を重ね、“いつか必ず、仏法の偉大さを、学会の正しさを認めさせてみせる!”と、誠実に対話を続けてきた。
 しかし、炭労が定期大会で、学会を敵対視した、信教の自由を脅かす行動方針を決議するに及んで、夕張の学会員は、遂に抗議の声をあげ、デモを行ったのである。
 すると、夕張炭労は学会に対決を伝え、北海道炭労としても、学会“撲滅”を指示したのだ。
 現地の会員が、学会本部に、その報告に来ると、伸一は、即日、北海道に向かった。電光石火の行動であった。
 一瞬の遅れが、取り返しのつかぬ失敗につながることもある。決戦の勝敗の決め手は、迅速な対応と行動にこそある。


蘇生 四十五

 六月末、北海道に乗り込んだ山本伸一は、夕張の炭鉱労働組合への対策を協議し、抗議集会の準備にあたるなかで、渾身の力を込めて同志を激励した。
 ところが、夕張炭労は「対決」を打ち出しておきながら、急きょ、それを取り消してきたのだ。
 炭労の方針が、信教の自由を脅かし、憲法にも違反する可能性があることから、炭労本部が変更の指示を出したようであった。
 伸一は、夕張炭労の幹部に二度にわたって会見を求めたが、会おうとはしなかった。
 彼は、再び学会員が不当な差別を受け、いじめられたりすることのないよう、炭労への追撃を緩めなかった。
 七月一日には、札幌の中島スポーツセンターで抗議集会として札幌大会を開催し、炭労の横暴を激しく糾弾。さらに、記者会見を行い、炭労の不当と、学会の正義を訴えたのである。
 そして、夕張に移り、翌二日には、炭労への抗議と糾弾のため、夕張大会を開催したのである。
 山本伸一という二十九歳の青年の胸には、金剛のごとき、固い決意が秘められていた。
 “戸田先生に代わって、自分が断じて、同志を守り抜く。指一本触れさせてなるものか!”
 彼は、胸に阿修羅の炎を燃やして、暴虐な勢力に立ち向かった。最後の最後まで、徹底して戦い抜いた。
 正義の怒りもなく、悪の根も断てぬ、中途半端な戦いでは、悪はすぐに息を吹き返してしまうからだ。
 そして、その翌日の三日には、伸一は、大阪府警の求めに応じて、自ら出頭する。そこで、無実の罪で不当逮捕される。いわゆる大阪事件が起こるのである。

 伸一は、今、“雪の文化祭”の「開拓」と題された雪像の前で、北海道の広宣流布の開拓に思いを馳せながら、傍らの青年たちに言った。
 「開拓魂というのは挑戦だよ。これまでと同じ努力、同じ発想でよしとしていたのでは、新しい勝利は望めない。
 日々、勇気を奮い起こして、自分の限界に挑み、もう一歩、もう一歩と、突き進んでいくなかにこそ、勝利はある」


蘇生 四十六

 山本伸一は、「開拓」の雪像の細部にまで、視線を注いでいった。
 「隅々にまで、北海健児のフロンティアスピリットが脈打っているね。
 制作に当たった人たちの苦心が、よくわかります。苦労が光っている。担当した人たちに『心から感動しました』と伝えてください」
 その言葉に、北海道の幹部たちは、目頭を熱くした。
 この雪像を制作したメンバーが、いかに悩み抜いてきたか、よく知っていたからだ。
 作業は、雪を運び込んで積み上げ、土台を作ることから始まった。
 その上に、木材で雪像の骨組みを作り、水をまぜた雪を塗り重ねて肉付けをした。そして、木彫りのように、ノミで削って完成させるのである。
 この雪像では、巨木の重みに耐える男たちの力感、団結、雄叫びが伝わってくるような作品にしなければならない。
 しかし、何度、仕上げても、肝心の力強さが表現できなかった。出来上がった作品を、幾度となく、ハンマーで叩き壊さなければならなかった。
 雪像を砕くたびに、自分の自信や誇りまでが、砕け散る思いがした。
 デザインは芸術部員などの専門家が担当したが、作業にあたった人は、全員、雪像作りとは無縁である。強い決意はあったが、思い通りにはいかなかった。
 “一つ一つ、問題点を明らかにして、対策を練ろう。できないでは、すまされないのだ!”
 メンバーの一人は、深夜に鏡台の前に立った。
 上着を脱ぐと、三段になっている和ダンスの一つを担ぎ上げた。
 歯を食いしばって、その重さを堪えながら、鏡を見つめた。腰の位置、筋肉の動き、血管の浮き上がり方……。
 顔は歪み、腕はブルブルと震えた。
 “これだ。この形が、とらえきれていなかった”
 その姿を眼に焼き付けて、スケッチした。
 夜ごと、これを繰り返し、スケッチの完成まで三日を費やした。
 この絵をもとに、作業を追い込み、筋骨隆々とした男の像が、次々と誕生したのである。
 「すごいぞ! 生きているようだ」
 厳しくやり直しを命じてきた担当者が、目を大きく見開いて叫んだ。執念の勝利であった。


蘇生 四十七

 そもそも、この“雪の文化祭”は、青年たちの挑戦心の結晶であった。
 北海道の青年たちは、各方面別に文化祭を開催するという発表を聞いた時、北海道の特色を生かすなら、「さっぽろ雪まつり」のような、野外での“雪の文化祭”しかないと思った。
 しかし、それは無謀とも思える計画であった。“雪まつり”の大規模な雪像作りは、陸上自衛隊の隊員などが、延べ何万人と動員され、さまざまな機械と機動力を駆使して行っている。
 しかも、自衛隊には、回を重ねるなかで蓄積してきた技術がある。
 それを、なんの経験も技術もない、いわば素人集団が行おうというのである。いや、なんらかのかたちで、“雪まつり”を上回る催しにしようというのだ。
 折から、札幌冬季五輪の開催も近かったこともあり、運営にあたった首脳幹部の構想は、次々に膨らんでいった。
 「雪像だけでなく、スケートリンクをつくって演技もしてはどうか」
 「ステージも設置し、音楽隊、鼓笛隊に演奏してもらおう」
 「どうせやるなら、ゲレンデを借りて、スキーを使ったマスゲームをやろうじゃないか」
 しかし、青年部の代表が、“雪まつり”の関係者に話を聞くと、こんな答えが返ってきた。
 「開催は、二月の末ですか……。
 昼の気温も、地熱も上がってきて、もう雪が緩み始める時期ですね。雪像を作るのは無理じゃないでしょうか」
 「無理」と言われたことが、青年の闘魂を燃え上がらせた。
 “ひとたび戦いを起こして、おめおめと引き下がれるものか! 新しい歴史を開くんだ”
 会場探しが始まった。
 “これが、勝負を決する!”“今日こそが勝負だ!”と、足を棒にして歩いた。
 「臨終只今にあり」(御書一三三七ページ)との御聖訓を深く拝して、準備を開始したのだ。
 その結果、市の中心部にほど近い中島公園と、手稲山のスキー場のテイネオリンピアを借りることができた。最高の会場である。
 雪像のデザインや大きさ、位置が決まると、具体的な制作の作業は、各組織で担当することになった。


蘇生 四十八

 雪像を作り、“雪の文化祭”を行うと聞いた地元の学会員は、最初、大喜びした。
 だが、すべて自分たちの手で行うのだと言われると、誰もが、驚きと戸惑いを隠せなかった。
 運営にあたる青年は、懸命に訴えた。
 「なんの経験もない、素人である私たちが力を合わせ、雪の大芸術をつくりあげるからこそ、この文化祭は歴史的な意味をもつんです。
 それこそ、仏法を根本にした民衆文化の姿であり、まさに、妙法の大地に展開する大文化運動の先駆けになるんです。
 もともと苦闘は覚悟です。力を奮い起こしましょう! 今こそ開拓魂を発揮し、学会の力が、民衆の力が、いかに偉大であるかを、社会に示そうではありませんか!
 皆さんが立てば、皆さんが燃えれば、絶対に勝てます。大成功します。力を貸してください」
 青年の魂の叫びに、皆が奮い立った。
 凍りつくような寒さのなかで、準備が開始された。時には、零下一〇度を下回る日もあった。
 作業は、困難の連続であった。氷のブロックを作るために、木箱に雪を入れ、ホースで水をかける作業をしていて、誤って水を被ってしまった人もいた。
 でも、誰もが意気軒昂であった。
 厳寒のなか、“雪の文化祭”の準備に励む北海道の同志の様子は、東京の山本伸一のもとにも、報告された。
 一途な同志たちの気持ちが、痛いほど彼の胸に響いた。飛んでいって、抱きかかえるように、皆を励ましたかった。
 伸一は、せめて、自分の思いを、北海道の同志に伝えたかった。
 彼は、連載を開始したばかりの、「随筆 人間革命」の第二回に、「恩師の故郷・厚田村」と題してペンを執ったが、そこに、次のように記したのである。
 「今年の二月二十五、六、七日は、札幌で“雪の文化祭”。昨年は、体調悪く、一度も、指導に行けなかった。恐縮」
 「本年は、元気で出席したい。初の祭典の、大成功を祈るのみ。友の健在を願うのみ。
  
 雪祭り
  庶民の文化の
    凱歌かな」


蘇生 四十九

 山本伸一の“雪の文化祭”への思いを記した「随筆 人間革命」が、聖教新聞に掲載されたのは、一月二十九日のことであった。
 北海道のメンバーは、新聞を手にすると、決意が胸にたぎった。
 “文化祭には、山本先生も来てくださる。祈ってくださっているんだ。なんとしても、大成功させなければ!”
 この時、勇気の明かりがともされた。
 その後も、悪戦苦闘は続いたが、北海道の同志は、すべてを勝ち越えて、“雪の文化祭”を迎えたのだ。
 
 伸一は、会場の一つ一つの作品を、じっくり見て回りながら、青年たちに言った。
 「みんな、よく頑張った。敢闘の歴史をつくった。本当にご苦労様!
 自分の限界に挑んだ分だけ、生命は磨き鍛えられる。また、広宣流布につながる活動は、すべて自身の大福運となるよ」
 「子どもの国」というコーナーには、ゾウやキリンの雪像もあった。
 彼は、制作にあたったメンバーや役員の姿を見ると、必ず「ありがとう」と声をかけた。皆の苦労に、応えたかったのである。感謝の言葉、励ましの言葉は、新しき出発の力となる。
 色とりどりの手づくりの花をあしらった「庶民の讃歌」と題するコーナーもあった。
 「万葉の森」には、高さが優に八メートルを超える、氷雪像の大宮殿がそびえていた。
 その横には、精緻な五重塔もあった。
 また、一番奥にある「幻想の森」には、公園の自然林をバックに、長さ百五十メートルの雪の“渓谷”や“滝”がつくられ、タンチョウヅルも配されていた。
 ここにはスケートリンクが設けられ、フィギュアスケートの華麗な演技が披露された。
 伸一は、会場にいた学会員の老婦人の手を引き、ともに席を並べて演技を観賞した。
 「うんと長生きしてくださいね。そして、また今日から、ともどもに、広布の旅をしようじゃありませんか。戦うことが人生ですから」
 一人ひとりが、苦闘を重ねてきた同志である。民衆の大英雄である。
 彼は、皆にねぎらいの声をかけ、讃え、励ましたかった。


蘇生 五十

 フィギュアの演技が行われた、このスケートリンクづくりも、難航を極めた作業であった。
 二月に入り、次第に暖かくなり始めてしまったからだ。
 リンクは、雪を踏み固めて下地をつくり、その上に、毎日、小川から汲み上げた水を、ホースを使って霧状にして散布し、薄い氷を少しずつ張ってつくられていった。
 しかし、イチョウの根の近くなどでは、氷がシャーベット状になっていた。地温が高くなっているのだ。
 また、氷の面に、わずかでもデコボコがあれば、フィギュア演技の命取りになりかねない。
 設営メンバーは、カンナや左官ゴテを手にし、氷上に鼻先を付けるようにかがみ込んで、氷のかすかな起伏も見逃さず、表面を滑らかにしていった。
 翌日、鳥の足跡があったり、風で落ちた葉が氷の中に埋まっていたりすれば、また、やり直さなければならない。
 特設したリンクの上で、本格的なフィギュアの練習ができたのは、本番の前々日だった。それでも、まだ氷の状態は、完璧でなかった。
 本番前夜、設営担当者は、皆、懸命に祈った。やるべきことはすべてやった。しかし、気温が上がってしまえば、いっさいは水の泡だ。もはや祈るしかなかった。
 この祈りが天に通じたのか、その夜、気温はグングン下がり始めた。
 “雪の文化祭”当日の二月二十五日――。
 最低気温は、五日ぶりに、マイナス一〇度を下回った。
 北海道の冬らしい寒い朝となり、スケートリンクも、雪像も、冷気の中で引き締まり、予想を上回る仕上がりとなった。
 しかも、夜間には、小雪もちらつき、「幻想の森」の木々には綿帽子のような雪が枝にかかり、最高の演出となった。
 今、スケートリンクの上では、“銀盤の妖精”たちが、ライトを浴び、音楽に合わせて、流れるように、舞っていた。
 山本伸一も、身を乗り出して、大きな拍手を送り、演技を讃えた。
 「すばらしいね!」
 その瞬間、設営担当者の頬に、大粒の涙が、ポロポロと流れた。
 勝利の喜びの涙は、限りなく温かかった。


蘇生 五十一

 翌二十六日、山本伸一は、第一会場のテイネオリンピアで、マスゲームなどの演技を観賞した。
 実は、この日、彼は発熱していたのである。
 昨年来、体調の本格的な回復をみないまま年を越したうえに、北海道の寒さが、いたく体にこたえたのだ。
 朝、熱を測ると、三九度近かった。
 しかし、皆が待っていると思うと、行かぬわけにはいかなかった。
 ゲレンデには、「’71北海道 雪の文化祭」「若人の広場」の文字が浮かび上がっていた。
 午後一時半、ファンファーレが高らかに鳴り響いた。
 ゲレンデの下から頂上へ、リレーで運ばれた火が聖火台にともされた。そして、花火が打ち上げられ、色とりどりの風船が空に舞い上がった。
 文化祭の開幕である。
 ゲレンデ頂上から、黄色のスキーウエアの一群が、鮮やかなシュプールを描いた。
 威勢のいいエンジン音を響かせて、麓からスノーモービルの一隊が頂上へ一気にかけ上がった。
 女子部百七十五人のマスゲーム。ジャンプ台を使った“飛翔”の演技。フィギュアスキー。徒手体操……。
 趣向を凝らした演技の数々に、終始、どよめきが起こっていた。
 技術指導に当たったメンバーは、役員席で、興奮を抑えることができなかった。
 出演者のなかには、最初はスキー靴の履き方さえ知らない人もいた。それが短期間の練習で技術を修得し、見違えるように、堂々とマスゲームを演じているのである。
 彼は、一つ一つ演技が決まるたびに、自然に「ヨシッ!」と叫び、拳を握り締めていた。
 たとえ、自分は檜舞台に立つことはなくとも、苦労し、力を尽くした分だけ、感動があり、充実があり、歓喜がある。
 それが、生命の因果の法則といってよい。
 圧巻は、三十人のメンバーによる“組み体操”であった。
 四人のスキーヤーが、肩の上に、スキーを履いた人を乗せ、まるで騎馬を組むようにして滑降してきた。途中で、上の一人も、パッと着地し、一緒に滑り出す。
 大歓声があがり、拍手がこだました。


蘇生 五十二

 青年たちの演技は、来賓が、プロスキーヤーによるものと勘違いするほど見事なものであった。
 次いで、白銀のゲレンデに、スキーヤーによって、絵が描かれ始めた。
 斜面いっぱいに、青い服のメンバーが富士の輪郭を、黄色い服のメンバーが山頂部分を描き、そして、オレンジと緑の旗をもった女子部が裾野をかたどった。
 やがて、全出演者から「北海健児の歌」がわき起こり、フィナーレを迎えた。
 山本伸一も歌った。熱のために悪寒が彼を苛み続けたが、北海道の友への賞讃と共戦の思いを込めて熱唱した。
 「見事な“雪の文化祭”だった。みんな、勝ったね。歴史を開いたね」
 彼は、側にいた幹部に語ると、両手を高く掲げて成功を祝福した。

 文化祭の終了後、地元幹部が言った。
 「スノーモービルを用意してありますので、ぜひ、お乗りください」
 伸一は、皆の気持ちを大切にしたかった。
 彼は、スノーモービルに乗せてもらい、スキー場の上に向かった。
 バリバリバリバリッ!
 猛烈なエンジン音であった。車体は起伏を越えるたびに激しく弾んだ。
 スノーモービルを降りると、そこには、雄大な眺望が広がっていた。
 白銀の稜線の間に、街並みが見え、その先には海が光っていた。石狩湾である。
 「先生。厚田村は、こちらの方向です」
 青年が、石狩湾の右手の方角を示した。
 このテイネオリンピアのある手稲山は、北海道師範学校の教諭だった初代会長の牧口常三郎も、生徒を引率して登った山である。
 そして、伸一の恩師である戸田城聖は、石狩湾に臨む厚田村から雄飛していった。
 伸一は、海を見ながら心で語りかけた。
 “牧口先生! 戸田先生! 両先生の故郷に、今、人間文化の旗は、堂々と翻りました……”
 頭上を仰ぐと、やや西に傾いた太陽を囲むように、七彩の虹の環が美しく輝いていた。
 伸一は、初代、二代の会長が、この“雪の文化祭”を見守り、新しき民衆文化の潮流を、讃え、喜んでくれているように思えてならなかった。(この章終わり)