使命 一
人には、皆、尊い使命がある。
その使命を自覚した時、閉ざされていた生命の扉は開け放たれ、無限の力がわく。無量の智慧がわく。
われらの根本的使命――それは、万人の幸福と平和を実現する、「広宣流布」という人類未到の聖業の成就にある。
初代会長牧口常三郎の生誕九十八年の記念日にあたる一九六九年(昭和四十四年)六月六日は、東京地方の梅雨入りが宣言された日であった。
雨が降り続く、この日の夕刻、学会本部に近い新宿区南元町の女子会館(花壇寮)に生き生きと向かう女性たちがいた。
女子部の看護婦(現在は看護師)メンバーの代表たちである。
身繕いをする間もなく、勤務先の病院から息を弾ませて駆けつけた人もいたが、その頬は紅潮し、瞳は使命に生きる誇りに輝いていた。
午後七時前、四十数人の参加者が顔を揃えた。
開会が告げられると、まず、女子部長の藤矢弓枝が、満面に笑みを浮かべて語り始めた。
「皆さん、今日は嬉しいお知らせがあります。
山本先生から、看護婦の皆さんのグループを結成してくださるとの、お話をいただきました。そして、名前もいただいております。
グループの名称は『白樺グループ』です。
本日は、その結成式となります。大変におめでとうございます」
「ワーッ」という歓声とともに、大きな拍手が起こった。
白樺グループ――幾たびとなく、山本伸一は、北海道を訪問していたが、そこで目にする白樺の、清楚で気品あるたたずまいは、「白衣の天使」のイメージにピッタリと符合していた。
白樺は「パイオニアツリー(先駆樹)」と呼ばれる樹木の一種で、伐採後の荒れ地や山火事のあとなどでも、真っ先に育つ、生命力の強い木であるといわれている。
また、あとに生えてくる木々を守る、「ナースツリー(保護樹)」としても知られている。
彼は、人びとの生命を守りゆく看護婦グループに、最もふさわしい名前であると考え、「白樺グループ」と命名したのである。
使命 二
“看護婦さん”というと、山本伸一には忘れられない思い出があった。
それは、国民学校を卒業し、鉄工所に勤めていた時のことであった。
戦時下の軍需工場での労働は、かなり過酷なものがあった。
伸一の胸は、結核に侵されていた。
しかし、仕事をやめるわけにはいかなかった。四人の兄たちが、皆、兵隊に取られ、彼が一家を支えなければならなかったからである。
彼は無理に無理を重ねた。三九度の熱を出しながら、仕事を続けたこともあった。軍事教練中に倒れたこともあった。
休ませてもらおうとしても、「ずる休みをするな!」と言われる時代であった。
そんなある日、高熱に加え、血痰を吐き、医務室に行った。
憔悴しきった伸一の姿を見ると、医務室の“看護婦さん”は、素早く脈をとり、体温を測った。
四十代半ばの小柄な女性であった。
彼女は、心配そうな顔で言った。
「これじゃあ、苦しいでしょう。ここには満足に薬もないし、レントゲンも撮れないから、すぐに病院へ行きましょう」
伸一は遠慮した。だが、“看護婦さん”は、ふらつく彼を支えて、病院まで付き添って来てくれたのである。
道すがら、彼女は転地療法を勧めたあと、屈託のない顔で語った。
「戦争って、いやね。早く終わればいいのに。
こんな時世だけど、あなたは若いんだから、病気になんか負けないで頑張ってね」
診察を終えると、伸一は、何度も頭を下げ、丁重にお礼を述べた。
“看護婦さん”は、さらりと言った。
「気にしなくていいのよ。当たり前のことなんだから」
社会も人の心も、殺伐とした暗い時代である。親切を「当たり前」と言える、毅然とした優しさに、力と希望をもらった気がした。それは、伸一にとって、最高の良薬となった。
彼女の優しさは、戦時下にあって、「戦争はいや」と、堂々と言い切る勇気と、表裏一体のものであったにちがいない。
一人の生命を守り、慈しむ心は、そのまま、強き“平和の心”となる。
使命 三
看護婦メンバーのグループの結成を、山本伸一が提案したのは、ひと月ほど前のことであった。
この数年、看護婦の過重労働が、大きな社会問題となっていた。
看護婦の数は、病院のベッド数の増加に追いつけず、看護婦不足は、年々、深刻化の一途をたどっていたのである。
病院看護は、二十四時間を、日勤、準夜勤、深夜勤の三交代で行うことになっていたが、準・深夜勤を合わせると、月のうち、十回を超えるのは普通で、月二十回という人もいた。
どこの病院でも、看護婦は疲れ果てていた。労働内容に比べて待遇も悪く、体がもたないなどの理由から、転職を考える人も多かった。
全日本国立医療労働組合は、人事院に行政措置要求を行い、一九六五年(昭和四十年)には、「夜勤回数は月八回以内に」「夜勤人数は二人以上に」との判定が出されたが、改善は、ほとんどなされなかった。
そのため、夜勤を月八回以内に制限することなどを要求する看護婦のストが、全国で起こっていたのである。
六九年(同四十四年)の五月になると、学会本部のある信濃町の慶応病院でも、夜勤を月八回以内にした、組合がつくったダイヤで仕事をするという、自主夜勤制限が行われた。
これは、マスコミにも大きく取り上げられた。
「看護婦のいない夜は、患者はどうなるのか。患者を人質にすることではないのか」との、組合への非難も渦巻いた。
伸一は、学会の女子部にも、多くの看護婦がいることを知っていた。
当時、東京だけでも、七百人ほどのメンバーがいたが、勤務の関係で、思うように学会活動に参加できない人も少なくなかった。
しかし、彼女たちは、そのなかで、懸命に活動に励み、さらに、学会の各種行事の「救護」役員として、忙しい仕事の合間を縫って、駆けつけてくれていたのだ。
伸一は、看護婦として働く女子部員に、励ましを送り、勇気と希望を与えたかった。生命の守り手たる、尊き使命を自覚し、職場の第一人者として大成してほしかった。
そのために、女子部の幹部と相談し、「白樺グループ」の結成に踏み切ったのである。
使命 四
看護婦メンバーの使命の重大さを、山本伸一は痛感していた。
医学は目覚ましい進歩・発展を遂げてきたが、医療の人間不在を指摘する声もまた、次第に高まっていた。
「薬づけ」という状況もあった。治療か人体実験かわからないという批判も起こっていた。「人間」が置き去りにされつつあったのだ。
また、病院で患者は、どれほど人間の温もりを感じ、心の癒しを覚えるであろうか。
さらに、患者の尊厳がどこまで守られ、人間としての誇りが、どこまで保たれているであろうか。
そう考えると、伸一もまた、医療の現実に、疑問をいだかざるをえなかった。
その医療に人間の血を通わせるうえで、看護婦の果たす役割は、極めて大きいといえよう。
看護婦は、人間と直接向き合い、生命と素手でかかわる仕事である。
その対応が、いかに多大な影響を患者に与えることか。
体温を測るにせよ、注射一本打つにせよ、そこには看護婦の人間性や心が投影される。患者はそれを、最も鋭敏に感じ取っていく。
そして、看護婦の人間性や患者への接し方は、どのような生命観、人間観、いわば、いかなる信仰をもっているかということと、密接に関係している。
ナイチンゲールは「ともかくもその人の行動の動機となる力、それが信仰なのです」(注)と述べているが、献身的な看護には、宗教的な信念が不可欠であろう。
仏法は、慈悲、すなわち、抜苦与楽(苦を抜き楽を与える)を説き、その実践の道を示した教えである。
さらに、仏法は、生命は三世永遠であり、万人が等しく「仏」の生命を具えた尊厳無比なる存在であることを説く、生命尊厳の法理である。
まさに、仏法のなかにこそ、看護の精神を支える哲学がある。
その仏法を持ったメンバーが、自身を磨き、職場の第一人者となっていくならば、人間主義に立脚した、患者中心の看護を実現しゆく最強の原動力となることを、伸一は、強く確信していたのである。
引用文献
注 『ナイチンゲール著作集』第三巻、湯■<木へんに眞>ます監修、薄井坦子・小玉香津子・田村真・金子道子・鳥海美恵子・小南吉彦編訳、現代社
使命 五
結成式は、「白樺グループ」として、毎月、各区ごとに部員会をもつなど、今後の活動が発表されたあと、代表抱負に移っていった。
そのうちの一人は、この年の春から、看護専門学校の教員として教壇に立っている、小森利枝という女子部員であった。
彼女は、「まず自分が模範の存在となって、自らの行動を通して、慈悲を根本にした看護の在り方を、学生たちに教えていきたい」と、はつらつと語った。
また、八月に、西ドイツ(当時)に渡り、現地の病院に勤めることが決まった山木千鶴というメンバーの抱負も、参加者に希望の新風を送った。
「山本先生は、二十一世紀は『生命の世紀』であると言われておりますが、直接、生命と触れ合う私どもこそ、それを実現しゆく、先駆者であると思います。
今、世界は、どのような看護婦を必要としているか――。
幅広く、深い、専門的な知識や技術の習得はもちろんですが、何よりも求められているのは、癒しや希望をもたらすことができる、人格の輝きではないでしょうか。
二十一世紀のあるべき看護婦像を築き上げていくことこそ、私たちの使命であります。
私は、この八月、西ドイツに渡りますが、医療にも、信仰にも国境はありません。
ともに“白樺”の同志として、妙法のナイチンゲールをめざし、『生命の世紀』を創造していこうではありませんか!」
さらに、結成式では、大学病院に勤める米光愛子が、看護婦ストの問題について所感を語った。
彼女は訴えた。
「看護婦のストは、人手不足が恒常化し、過重労働が続く現状では、患者中心の看護ができないために、それをなんとかしようということが、出発点になっています。
私も、労働条件の改善の必要性は痛感しておりますが、看護婦が職場を放棄し、患者を置き去りにするような事態を生じさせることは、間違いであると思います。
看護の原点は、患者の生命を助け、守ることだからです。
看護婦のために患者がいるのではなく、患者のために看護婦がいるのです」
使命 六
米光愛子は、看護婦が労働条件の改善要求のために、患者の生命を手段化するようなことは、絶対にあってはならないと考えていた。
そうなれば本末転倒であり、なんのための“戦い”なのか、意味がなくなってしまうからだ。
「私たちも労働者ではありますが、生命の守り手としての責任を、決して忘れてはならないと思います。
そのうえで、患者さんの十分な看護ができる看護婦の増員を、病院側が行うように、粘り強い運動を続けていくべきではないでしょうか」
米光は、福岡県の久留米市の出身で、中学時代にナイチンゲールの伝記を読んで感動し、人のために尽くせる道を歩みたいと、看護婦をめざした女性であった。
中学校を卒業した彼女は、親元を離れて准看護学校に入り、寮生活を送った。二年後に准看護婦になると、久留米の病院に勤務しながら、定時制高校に通った。
この高校時代に、腎臓の病に罹った職場の先輩が学会に入り、ほどなく病気を克服した。
だが、米光は、そのことよりも、入会後、その先輩の人柄が、大きく変わっていったことに驚いていた。
以前は、ぶっきらぼうで、笑顔を見せたことのなかった人が、後輩にもにこやかに、「ご苦労さま」「お疲れさま」と声をかけるようになった。
また、誰よりも積極的に仕事に取り組むようになった。
よく聞かされていた、愚痴や文句も、耳にすることがなくなった。
そのころ米光は、全般的に学会員の患者の治りが早く、治療の副作用や合併症などが少ないことに気づいた。
“創価学会の信心と病気の好転とは、なんらかの関係があるのかもしれない”
そう考えた彼女は、学会に強い関心をいだき始めた。
まさに、御聖訓に仰せのように、「一切は現証には如かず」(御書一二七九ページ)である。
探究心の旺盛な米光は、自分が目にした厳たる事実を、無視することができなかった。
「創価学会って、どんな宗教なんですか」
その先輩に尋ねてみた。しかし、入会して間もないせいか、先輩は答えに窮してしまった。
使命 七
先輩は言った。
「私は、うまく説明できないけど、会合に出てみれば、学会のことが、よくわかると思うわ」
米光愛子は、公会堂で行われた御書講義に参加した。
そこには、老若男女が生き生きと集っていた。担当講師の声は確信にあふれ、話は理路整然としてわかりやすく、納得することができた。
彼女は、自分も、この信心を試してみようと思い、ほどなく入会した。
信心を始め、地道に学会活動に励み、教学を学ぶなかで、米光は信仰が生命力を湧現する源泉であることを知った。
また、心と体の関係などの、仏法の深い洞察や、慈悲という教えに感動を覚えた。そして、「慈悲の看護」の実現をめざしたいと思うようになっていった。
高校卒業後は上京して看護学校で学び、正看護婦になると、大学病院に勤めた。
勤務する病院では、組合活動も盛んであった。しかし、労働条件の改善が最優先され、患者が二の次になっていることに疑問を感じた。
米光は、常に「患者中心の看護をめざすべきです」と主張し続けた。
組合は、そんな彼女を名指しで批判することもあった。米光が学会員であることにも、反感を募らせていたようだ。しかし、彼女は、信念を曲げなかった。
“いかなる理由があろうが、患者を人質にするようなやり方は、人道に反する。何があっても、人命を守ることを最優先することが、看護の基本精神ではないか!”
彼女は、その信念と見解を、「白樺グループ」の結成式で、所感として発表したのである。
結成式では、最後に、女子部長の藤矢弓枝が、「白樺グループ」の使命について語っていった。
「私の闘病体験でも、病院では、モノとして扱われているようでいやでした。
そうした医療の現場で、慈悲の哲学をもって、人間の心を通わせていくのが、皆さんの使命であると思います。
法華経には『如蓮華在水』とありますが、どんなに厳しい環境であっても、そこで“実証の花”を、“信頼の花”を咲かせていってください」
大きく頷く参加者の澄んだ目に、決意が光っていた。
使命 八
「白樺グループ」の結成式の模様は、藤矢弓枝から、会長の山本伸一に伝えられた。
彼は言った。
「この会合はささやかだが、やがて歳月とともに、その意義の大きさがわかってくるよ。
メンバーは皆、本当に大変ななかで懸命に信心に励んでいる。寮住まいをし、信心に理解を示さない先輩や同僚と、同じ部屋で暮らしている人もいるだろう。勤行一つするにも、からかわれ、気兼ねしながらせざるをえないかもしれない。
また、三交代という不規則な勤務のうえに、常に人間の生死と直面している。疲労も激しいだろうし、緊張感もストレスも、相当なものがあるだろう。
会合に出席するのも必死であるにちがいない。急患があったりすれば、参加できなくなることもあるだろう。
しかし、そのなかで、広宣流布の使命の炎を赤々と燃やして、頑張り通してこそ、真実の仏道修行がある。
それによって、自らの人間性も磨かれ、人の苦しみ、悲しみが共有できる。菩薩の心、慈悲の心を培うことができる。
『極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず』(御書三二九ページ)と仰せの通りだ。
冬を経ずして春は来ない。花には忍耐という大地がある。労苦なくしては勝利もないし、人生の幸福もない。
皆がともに勝ちゆくために、同じ看護婦として互いに励まし合い、支え合い、使命に生きる心を触発し合っていくことが大事になる」
それから伸一は、未来を仰ぎ見るように顔を上げ、目を細めた。
「これで、苗は植えられた。二十年、三十年とたてば、このグループは、必ず大樹に育つよ。
もともと、病に苦しんでいる人のために尽くそうと、看護婦の仕事を選んだこと自体、菩薩の心の人たちなんだ。
みんなが、自身の使命を自覚し、自身に挑み勝っていくならば、『白樺グループ』は、最も清らかで、最も強く、一番、信頼と尊敬を集める、功徳と福運にあふれた女性の集まりになるよ。楽しみだ、楽しみだね……」
藤矢は、「白樺グループ」に寄せる、山本会長の深い思いに、目頭が熱くなるのを覚えるのであった。
使命 九
「白樺グループ」の結成は、メンバーに限りない勇気と誇りを与えた。
彼女たちは「生命の世紀」のパイオニアの自覚を新たにし、人間主義の看護をめざして、それぞれが奮闘を開始した。
結成式で、看護婦ストの問題について所感を述べた米光愛子は、以前から患者に対する看護要員の算定基準の研究に取り組んできた。
基準看護制度では、当時、看護婦は患者四人に対して一人が適正であるとされていた。
だが、彼女は、看護の内容を度外視して、単に患者数に基づいて画一的に割り出す算定基準に、疑問を感じていたのである。
そして、看護業務の内容の詳細な実態調査を重ね、看護要員の算定基準の新たな考え方をつくり出し、患者中心の看護を実現していく一助にしたいと思ったのだ。
米光は、友人と二人で調査と研究を重ね、論文にまとめていった。
仕事を終えてからの研究、執筆であり、睡眠時間を大幅に削ることもあった。
それが完成すると、「白樺グループ」結成直前の五月末、医学・看護学の専門出版社の懸賞論文に応募した。
彼女たちの論文のタイトルは、「看護要員数および看護業務内容の分析による基準看護の現状」であった。
そこでは、綿密な実態調査のうえから、看護婦の業務量は極めて多く、診療の際の介助や雑務などに時間を奪われ、患者中心の個別的な援助には、とても対応できる状態にないことが明らかにされていた。
そして、現状の人員算定の基準は、現実を無視したものであり、看護内容などの正確な把握のうえから、再検討されなければならないとしていた。
それは、看護婦増員が医療の喫緊の課題であることを学術的に立証し、客観的に裏づけた貴重な論文となった。
この年の秋、米光たちの論文は、「優秀作」に選ばれ、看護研究学会でも注目を浴びた。
彼女は、「白樺グループ」の一員として、人間主義の看護を実現するために、さらに、さまざまな研究テーマに取り組んでいくことを決意したのである。
使命 十
米光愛子が次に挑戦したのは、「肺性脳症の看護」についての研究であった。
さらに、「白樺グループ」のメンバーと、「看護とは何か」「看護婦の適性と能力とは何か」などについて共同研究した論文が、優秀作に選ばれたこともあった。
彼女は、看護婦としての実践と地道な研究が評価され、後年、医療技術の短期大学の看護教員となり、やがて、教授となっていくのである。
「白樺グループ」では、看護の基本は、生命の法則を知ることであるとの考えのうえから、教学の研鑽に力を注ぐことにした。
そして、結成の翌年には「白樺教学」と銘打ち、御書の学習会をスタートさせた。
仏法の研鑽は、皆に自身の使命の深い自覚を促し、人間主義の看護の実現をめざす原動力となっていった。
「一念三千」や「色心不二」「依正不二」「九識論」等の法理を学び、生命と生命は互いに相通じ合うという「感応妙」の原理を知ると、メンバーの患者への接し方は大きく変わっていった。
ある人は、交通事故にあい、ほとんど意識がなくなった八歳の女の子の健康回復を、懸命に祈りながら、日々、手を握っては、励ましの言葉をかけ続けた。
「必ず治るから、頑張ろうね」「早く元気になって、また学校に行きましょうね」
だが、反応はなく、一週間、二週間とたっても変化は見られなかった。しかし、三週間目から、容体は好転し始め、やがて、視線が反応するようになった。
ある日、少女の体を拭いていると、突然、言葉を発した。
「お姉ちゃん、ありがとう。私、学校に行けるようになるからね」
彼女は、跳び上がらんばかりに驚いた。本当に、生命は感応し合っていたのだ。
こうした体験は、彼女一人ではなかった。皆が同様の体験をもち、看護する人の一念の大切さを痛感していった。だからメンバーは、患者のことを必死で祈った。
“このまま死なせるものか!”
“この命を必ず守らせてください!”
その心で、看護にあたった。
使命 十一
学会の各種行事に「救護」の役員として出動する心構えも、教学の研鑽が深まるにつれて変わっていった。
メンバーの一人に、佐竹千栄子という、山形県出身で新宿区内の病院に勤めている女子部員がいた。
彼女は、「救護」の役員として、病気になったり、怪我をしたりした人が出たら、いかに素早く適切な処置をするかに心を砕いてきた。
しかし、次第に、こう考えるようになった。
“病人や怪我人が出たら、全力で救護にあたることは当然だが、それだけでよいのだろうか。
仏法は、万法は自身の一念に収められていると説いているのだから、救護にあたる私たちの一念と祈りによって、そうした事態を未然に防ぐこともできるのではないか。
それこそが、私たちの大切な心構えなのかもしれない”
彼女は、メンバーと話し合った。皆、意見は一致した。
「救護」の担当につくメンバーは、「無事故」を祈って、誰よりも真剣に唱題した。それが「救護」役員の伝統となっていった。
また、会合等に参加していて気分が悪くなった人の多くが、食事をしないで駆けつけて来たり、室内の温度は高いのに、厚着をしたまま会場にいたことがわかった。
そこで、食事をして来ることや、暑ければ上着を脱ぐように、行事の主催者に徹底してもらうようにした。
「白樺グループ」のメンバーは、さらに仏法の視点から、看護の在り方を探究していった。
そして、「生命力の消耗を最小にする」ことが看護であるとのナイチンゲールの考え方を一歩進めて、「患者の生命力を引き出す」看護の在り方を研究していった。
彼女たちは、生命力は希望や喜びとともにわくことに気づいた。
希望がもてるように、患者と一緒に、病を克服するための挑戦目標を決め、懸命に応援するメンバーもいた。
また、病気の絶望感や孤独感から、患者が自暴自棄になったりしないように、励ましには、特に皆が力を注いだ。
さらに、殺風景な病室や廊下に花を生けるなど、少しでも心和む環境づくりをしようと努めるメンバーもいた。
使命 十二
「白樺グループ」に初めてグループ長が誕生したのは、結成から一年余が過ぎた一九七〇年(昭和四十五年)の八月、田端の東京第三本部で行われた、第一回総会でのことであった。
グループ長は、佐竹千栄子であった。
彼女は抱負を語った。
「大聖人は『一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし』(御書七五八ページ)と仰せです。この大慈大悲の同苦の心こそ、医療、看護の究極の精神ではないでしょうか。
この御精神を体して、慈悲の看護を実践し、皆を勇気づける光源となっていくには、自分が強くなければなりません。
わが生命を磨き鍛え、悲哀に負けない強さ、自分の“おごり”に打ち勝つ強さ、宿命に流されない強さを、身につけてまいりたいと思います。
そのために、私たちは、自分に妥協することなく、広宣流布の最前線に立って活動に励み、自身の人間革命をめざそうではありませんか」
佐竹は、そこに人間主義の看護を実現するカギがあると確信していた。 仏典には、こう説かれている。
――人間は、老者や病者、死者を嫌悪するが、それは「若者のおごり」「健者のおごり」「生者のおごり」である。自分もまた、老い、病み、死んでいく者なのだと知らなければならない。
彼女は、医師や看護婦にも、自分たちが健康で“優位”な立場にあることから、ともすれば、患者を「下」に見る“おごり”の傾向があることを感じてきた。
そうした意識は、表情や言動に表れ、患者の心を傷つけ、医療への不信にもつながっていく。
「心のケア」を欠き、患者を、単なる「肉体」や「物体」であるかのように扱う、医療の在り方も、この“おごり”と無関係ではあるまい。
しかし、自分も老い、病み、死ぬことを自覚する時、眼前の老者も、病者も、自分自身であることに気づく。そこから同苦の心が生まれる。
ゆえに、看護婦の一念の転換、人間革命から、慈悲の看護の第一歩が始まるというのが、佐竹の叫びであった。
こうして「白樺グループ」は、人間主義の旗を掲げ、「生命の世紀」へと、勇躍、船出したのである。
使命 十三
平和の天使・鼓笛隊の奏でる“希望の調べ”が、大空に舞った。
アメリカ・ロサンゼルス近郊のサンタモニカ市を走るオーシャン大通りの沿道は、五万人の観衆で埋まっていた。
一九六九年(昭和四十四年)七月二十七日午前十時(現地時間)、第六回全米総会を記念する“日米鼓笛隊パレード”が、晴れやかに行われたのである。
オーシャン大通りとカリフォルニア大通りの交差点を出発したパレードは、サンタモニカ市立公会堂までの、およそ一・五キロのコースを、軽快な調べを奏でながら、華麗に行進していった。
このパレードには、日本から参加した富士鼓笛隊百四十人をはじめ、アメリカ鼓笛隊・音楽隊、そして、アメリカの各地のメンバーによって構成された舞踊隊など、合計二千人が出場し、一大ページェントを繰り広げたのである。
パレードの先頭は、警察のオートバイ隊で、続くオープンカーには、サンタモニカ市長らの姿があった。
市当局はパレードの開催を全面的に支援し、協力を惜しまなかった。
パレードは、アメリカの歴史をテーマに構成されていた。
鼓笛隊や音楽隊のほか、白馬に乗った、初代大統領のジョージ・ワシントンやカウボーイの一団などに扮した、仮装パレードもあった。
さらに、スコットランドの踊りやハワイのフラダンスなどが続いた。
また、首都ワシントンにある米連邦議会議事堂や、打ち上げに成功したばかりの、アポロ11号のフロート(山車)もあった。
なかでも、オレンジ色の地に金色の菊の模様などが施されたユニホーム姿の、富士鼓笛隊のさっそうとした演奏行進に、観衆は魅了された。
途中、星形に隊形を変化させて、「星条旗よ永遠なれ」を演奏すると、その一糸乱れぬ見事な演技に大歓声があがった。人びとが初めて目にする高度な技術であった。
「ワンダフル!」
観衆の反応に、皆、確かな手応えを感じた。
成功と勝利を掌中に収めるならば、その瞬間、積み重ねてきた苦労は、すべて栄光の思い出に変わるものだ。
使命 十四
パレードは、緑の葉が風に揺れるヤシ並木の下を、ゆっくりと進んでいった。
右手には太平洋の大海原が広がり、砂浜に砕ける白い波が、喝采を送っていた。
左手に立ち並ぶビルの窓からは、たくさんの顔がのぞき、手を振る人もいれば、拍手を送る人もいた。
観衆の喜びようは大変なものだった。
街路樹に登って眺める人や、電話ボックスの上で、盛んにカメラのシャッターを切る人も出るほどであった。
この日、道路は片側通行となっていたが、ドライバーがパレードに見とれて徐行運転するため、しばしば渋滞を余儀なくされた。
報道陣も数多く取材に訪れ、ヘリコプターを使って、空から取材するテレビ会社もあった。
現地の各紙も、こぞって、このパレードを報道した。
「五万の観衆が仏教系のパレードを見つめる」「画期的な華麗なパレードを展開」などの見出しが躍った。
市民の間からは、「サンタモニカで、これほど見事なパレードを見たのは初めてだ」「たいしたものだ。仏教系の団体が行ったそうだが、なんという団体なのだ」等々の声が聞かれた。
終着地の市立公会堂前に富士鼓笛隊が到着した時のことであった。
鼓笛部長の高村文子のところへ、日系の初老の紳士が、頬を紅潮させて近づいてきた。
「おお! 本当に素晴らしい演奏でした」
そして、涙を拭った。
「私の住んでいる地域には、百五十世帯ほどの日系人がいますが、私たちはこれまで、日系人ということで、多くの辛酸をなめてきました。苦しいことの連続でした。
しかし、このさっそうとした、あなたたちの演奏は、自信と誇りを呼び覚ましてくれました。勇気がわいてきます。あなた方は日本の希望です。
本来ならば、あなた方をお招きし、パーティーでも開いて、御礼申し上げるべきところですが、せめて、御礼の言葉だけでもと思い、声をかけさせていただきました。
ありがとう!」
感動の面持ちでこう語ると、紳士は何度も頭を下げた。
使命 十五
富士鼓笛隊がアメリカでの諸行事に参加するため、ロサンゼルスの空港に到着したのは、七月二十五日の午前七時半(現地時間)であった。
翌二十六日の午後六時には、アメリカ五十州、カナダ、メキシコの代表一万人が集って、ロスのシュライン公会堂で盛大に開催された全米総会に出席した。
総会に集った人びとは角帽やガウンを着用していた。それは、自分たちこそ、仏法という世界最高の哲学を学び、実践している、“幸福と平和の博士”なのだという誇りの象徴として、着用することにしたものだ。
総会では、山本伸一のメッセージが、日本語と英語で読み上げられた。
「……近代科学の結晶であるアポロ11号に乗って、人類はついに月面着陸に成功しました。
私はここに、人類が長きにわたっていだき続けてきた夢を実現し、“宇宙時代”を開かれたアメリカ合衆国の皆様に、深く敬意を表するものであります」
アメリカの月着陸宇宙船「アポロ11号」は、米東部夏時間の二十日(日本時間二十一日)、月面着陸に成功し、宇宙飛行士二人が、人類史上初めて月に立ったのだ。
そして、二十四日(同二十五日)に、中部太平洋上に、無事、着水し、帰還したのである。
このニュースに、アメリカ国内はもとより、世界中がわき返った。
メッセージで、伸一は訴えた。
「ここで一つ申し上げておきたいことは、いかに月旅行が可能になったとはいえ、人類の喫緊の課題である飢餓や貧困、病気の問題は、いまだ未解決のままであるということであります」
その解決のためには、国家や人種、イデオロギーを超え、人類は同じ地球の一員であるとの自覚に立ち、互いに力を合わせていくことだ。
憎悪や差別の心を乗り越え、対立と抗争の世界を、信頼と調和の世界へと転じていくことだ。
それには、生命の尊厳と平等という仏法の哲理を、人間一人ひとりの胸中に打ち立てていかねばならない。
ゆえに、彼は、呼びかけた。
「今まさに、日蓮大聖人の生命哲学が世界に広宣流布する時が到来したことを、深く自覚しようではありませんか!」
使命 十六
山本伸一のメッセージは続いた。
「日蓮仏法は、あらゆる国の、あらゆる職業の人びとが実践でき、そして、確実に功徳を受けることのできる、世界宗教であります。
この仏法によって、すべての人びとの人間性を呼び覚まし、人間に内在する力強い創造力を引き出すことが、行き詰まった現代社会を活性化させ、偉大なる生命の世紀を創りゆくことであると確信いたします。
皆様方、お一人お一人が幸福になることが、アメリカ全体の幸福につながっていきます。
その姿は、将来、必ず、すべての国の模範となっていくでしょう。
仏法を持ち、若々しい輝きと、希望に満ちあふれた皆様方こそ、世界の平和建設のパイオニアであります」
そして、最後に、「世界平和の旗手たれ! 人類の希望の太陽たれ!」と呼びかけ、メッセージは結ばれていた。
全文が読み上げられると、嵐のような拍手と歓声がわき起こり、公会堂を揺るがした。
アメリカという多民族国家のなかで、人びとが互いに信頼と友情で結ばれていけば、世界平和のモデルができ上がる。
伸一は、アメリカのメンバーに、その先駆けとして、平和の縮図となる全米総会を開催してほしいと念願していた。
平和とは、単に戦争がない状態をいうのではなく、人と人とが信頼に結ばれ、生の歓喜と躍動、希望に満ちあふれていなければならない。
なぜなら、それこそが憎悪と死の恐怖に怯える戦争の、対極に立つものであるからだ。
ゆえに彼は、全米総会が、はつらつとした歓喜にあふれる集いとなるよう、アドバイスもし、題目を送り続けてきた。
また、富士鼓笛隊を派遣することにしたのも、音楽と友情の、日米の平和の懸け橋を築きたいとの思いからであった。
全米総会では、この一年間の前進の歩みが報告されたほか、人事紹介や活動方針の発表、日本から出席した女子部長の藤矢弓枝、総務の森永安志のあいさつがあり、熱気みなぎるなか、午後七時二十分に終了した。
引き続き、「日米友好の夕べ」が行われたのである。
使命 十七
暗くなった場内に、強烈なドラムの音が響き渡った。
スポットライトが客席を走り、一階の後方に待機していた日米の鼓笛隊が照らし出された。
アメリカ鼓笛隊が左右の通路から舞台に上がると、続いて、白い帽子の上に大きな羽根をつけた富士鼓笛隊が、中央の通路から登場した。
はるばる太平洋を越えてやって来た「平和の天使」に、同志は割れんばかりの拍手を送った。
次いで、アメリカの鼓笛部長が日本語で、日本の鼓笛部長が英語であいさつした。
富士鼓笛隊の高村文子は、満面に笑みをたたえて、英語で語った。
「日本全国の鼓笛隊員の祈りが叶って、フロンティア精神あふれる国にやって来ることができました!
今日のこの集いを通じて、世界平和に大きな役割を果たせるよう、心を一つにして、共に前進してまいりましょう」
日米の鼓笛隊の演奏が始まった。
やがてライトが消え、壇上のスクリーンいっぱいに一年前に行われた「日米友好鼓笛隊交歓会」の映像が流れた。
前年の八月十六日、日本全国から集った三千五百人の鼓笛隊と、アメリカ鼓笛隊二百人が参加して、東京体育館で行われた交歓会である。
スクリーンには、メジャー(指揮杖)を交換する日米鼓笛隊の代表を、笑顔で見守る山本伸一の姿が映し出された。
それは、音楽を通して世界を結ぼうと、平和への共戦を誓い合った、忘れ得ぬ光景であった。
舞台が明るくなった。富士をかたどった台の上に、日米の鼓笛隊の代表が上がった。互いにこの一年の健闘を讃え、新しき前進への決意を込めて、ここで再び、メジャーを交換したのである。
そして、「星条旗よ永遠なれ」の合同演奏が始まった。
彼女たちは“私たちは平和の大道を開きます”との誓いを込め、一生懸命に調べを奏でた。
真剣さは、人間の心を打つ。演奏が終わると、一人の壮年が立ち上がって叫んだ。
「感動だ! “天使”たちに拍手を送ろう。私たちも、自分の使命を果たすために、頑張ろうじゃないか!」
使命 十八
全米総会、「日米友好の夕べ」が行われた翌日の二十七日が、アメリカの中心会館があるサンタモニカ市での、パレードとなったのである。
それは、信仰から発する生の歓喜と希望を、全身で表現しながらの「平和の行進」となった。
拍手と喝采のなか、終着地の市立公会堂に到着した日米の鼓笛隊のメンバーは、館内に入ると、互いに手を取り、肩を抱き合って、大成功を喜んだ。
皆が、目を赤く腫らし、涙にむせんでいた。
日本を発つ前、富士鼓笛隊のメンバーは、「泣いたりしたら罰金よ」と互いに誓い合ってきた。
だが、パレードを終えた今、彼女たちは、声をあげて泣いた。
それは、自己自身に挑み、勝ち越えた、青春の凱歌の感涙であった。
メンバーのなかに、フルートを手に、盛んに涙を拭う乙女がいた。立川良美である。
彼女は、心で叫んだ。
“おばあちゃん、やったよ。大成功だよ!”
立川の祖母は、二カ月ほど前に、他界したばかりであった。最後は寝たきりであったが、元気なころには、一生懸命に良美を育ててくれた。
鼓笛隊への入隊に賛成してくれたのも、この祖母であった。
立川は、七歳で父親を癌で亡くした。東京・葛飾区に電気店を開業し、これからという時の死であった。
あとには、母親と母の両親、六歳の妹、三歳の弟が残された。
しかし、母は弟を産んでから、病気がちで、入退院を繰り返していた。
翌年には、追い打ちをかけるように祖父が亡くなった。祖母が孫三人を育て、一家を支えた。
父と母のいない家の中は暗かった。
立川は、決して笑わない子どもになっていた。いつも、寂しさを抱えていた。
その年の十二月、祖母が学会の話を聞き、家族全員で入会した。
中学生になった時、立川は、鼓笛隊に入っていた同級生に誘われ、練習を見学に行った。
また、一緒に、台東体育館で行われた女子部幹部会にも参加した。
はつらつとした鼓笛隊のまばゆい笑顔と、力強い演奏に、魂が揺さぶられる思いがした。
使命 十九
鼓笛隊に入りたい――立川良美は思った。
しかし、それには、勤行を励行し、地元の女子部幹部の推薦を受けなければならないことを知らされた。
彼女は勤行をするようになり、女子部の先輩について、会合にも出席するようになった。
立川にとって、大きな心配は、経済的な問題であった。
鼓笛隊に入れば、練習に通う交通費などもかかる。だが、母は入院中であり、家計にゆとりなど全くなかった。
彼女は、ある時、祖母に相談した。
「あなたがやりたいのなら、やりなさい。そして、音楽を教わるだけでなく、しっかり信心を学んでいきなさい。生活は楽ではないけど、一生懸命、応援するわよ。
私が、あなたたちに残してあげることができる財産というのは、信心だけだからね」
彼女は、晴れて、念願の鼓笛隊に入ることができた。
練習は厳しかった。先輩からは、「ファイフが吹けるように」「この曲が演奏できるように」など、常に次々と課題が与えられた。
でも、彼女は頑張り抜こうと思った。“おばあちゃん”に応えたかったからだ。
「団結」や「責任」ということを学んだのも鼓笛隊であった。
なかなか曲の演奏が習得できない彼女に、先輩は言った。
「『私一人ぐらいできなくてもわからない』と思うかもしれないけど、それは違うわ。
みんなが最高の音色を出し、音が一つにとけ合ってこそ、演奏の成功があるのよ。
あなたが演奏できなければ、みんなの努力も実らず、迷惑をかけることになるわ」
何度も何度も練習し、うまく吹けると、先輩はわが事のように、心から喜んでくれた。
厳しくもあったが、そこには、太陽のような温かさがあった。立川は、いつの間にか、笑顔を取り戻していった。
“私は一人じゃないんだ。何人もの、鼓笛の姉妹がいる!”
彼女は何事にも意欲的に取り組む、明るく活発な乙女に育っていった。
信頼に結ばれ、互いに切磋琢磨し合う人間の絆こそ、青春時代の最も価値ある財産といえよう。
使命 二十
一家の柱であった祖母が脳溢血で倒れたのは、立川良美が高校二年の三月のことであった。
“なんとか助かってほしい!”
立川は、必死になって御本尊に祈った。
祖母は、一命を取りとめた。しかし、半身不随になってしまった。
今度は、長女の彼女の肩に、生活のすべてがのしかかってきた。電気店の仕事、炊事洗濯……。
妹は、中学を卒業すると、定時制高校に進み、彼女が学校から帰るまで店番をしてくれた。
立川は、女子部の班長として、二十人余りのメンバーを担当していたが、女子部の活動にも、鼓笛隊の活動にも、参加できない日が続いた。
寂しくて、悔しくてしかたなかった。
広宣流布のために、一生懸命に活動に励んでいる時の、あのさわやかな生命の躍動と歓喜が思い出され、学会活動がいかにすばらしいかを、痛感するのであった。
日々、必死に祈った。
“いつか、必ず、思う存分に、学会活動に参加できるようにさせてください。広宣流布に、存分に献身させてください”
高校を卒業した彼女は、家族と話し合い、店をたたんで、貸店舗にすることにした。
立川は勤めに出た。
学会活動に励めるようになり、鼓笛隊の活動も再開した。
「苦労の中に人間の栄光がある」(注)とは、タゴールの言葉である。
平坦な人生などありえない。人は試練の坂道を越えてこそ、幸福の度を深めていくものだ。
鼓笛隊の渡米が発表された時、立川は、なんとしても、自分も参加したいと思った。
だが、どう考えても、渡航費用を工面することは難しかった。それでも、絶対に行くと決めて、祈りに祈った。
すると、店舗を貸していた中華料理店が引っ越すことになった。五年契約の二年目であり、五年分の契約金を既に受領していた。
ところが、中華料理店の主は、自分たちの都合で出ていくのだから、契約金は返さなくてよいと言ってくれたのだ。
その店舗を、すぐに洋品店が借りることになり、新たにまた、契約金が入ったのである。思わぬ臨時収入であった。
使命 二十一
渡米をめざして、本格的な練習が開始されて間もなく、立川良美の祖母は、息を引き取った。七十七歳であった。
眠るような顔をして、柩に納まった祖母に、彼女は語りかけた。
「おばあちゃん、ありがとう。私たちを育ててくれて。
おばあちゃんがいたから、学会に巡り合うことができた。
そして、おばあちゃんの応援があったからこそ、生活も大変だったのに、鼓笛隊に入ることができた……。
おばあちゃんは、私に最高の宝をくれた。ありがとう。ありがとう、おばあちゃん!」
アメリカに出発する日の朝、彼女は、祖母の遺影にあいさつした。
「行ってきます。頑張ってくるからね。きっと大成功させるよ。見ていてね」
立川には、祖母が頷いているように思えた。
雀躍してアメリカの大地を踏んだ彼女は、サンタモニカの街をさっそうと行進した。
“見てください! 良美の晴れ姿を!”
パレードを終えた彼女の胸に、微笑みながら、何度も、何度も頷く祖母の顔が広がった。
アコーディオンのパートの責任者であった佐田典代は、体の不調を克服し、この渡米を実現させたメンバーであった。
出発を一カ月後に控えた六月のことだった。
パレードの行進練習中、突然、右膝に痛みが走り、普通に歩くことができなくなった。
病院に行くと、足の筋がやられているうえに、背骨が捻れ、湾曲しているというのだ。
「これは、相当無理をして重い物を持って歩きましたね。
安静が必要です。しばらく、負担のかかることはしないでください」
アコーディオンは、重さが十キロほどあった。この二カ月ほど、毎日のように、そのアコーディオンやバッグを持って、あちこちの練習会場に通い続けた。
華奢な彼女には、それは、かなりの重労働であった。
腰や肩に負担がかかるために、不自然な姿勢をとり続けていたことが原因のようであった。
アコーディオンが持てなければ、渡米しても、なんの意味もなくなってしまう。
使命 二十二
佐田典代は、喜びの絶頂から地獄に突き落とされた気持ちであった。
泣きながら、毎日、ひたすら題目を唱えた。
“御本尊様! どうして私だけ、こんなことになってしまったのでしょう……”
悔しかった。たまらなく悲しかった。
しかし、唱題を重ねるうちに、彼女は思った。
“これも必ず意味があるはずだ。何があっても負けない強さをつくるための、私に与えられた人生の試練かもしれない。
アコーディオンが演奏できなくても、鼓笛隊員として、やるべきことはあるはずだ”
こう思った時、彼女の涙は止まった。
佐田は、鼓笛隊の渡米の成功のために、今の自分にできることは何かを考えた。
そして、皆のために譜面を写すなど、体に負担をかけずにできる陰の労苦を、勇んで引き受けていった。
人は、ともすれば、障害に出あうと“もうだめだ!”“もうできない!”と思い込み、自ら挑戦の心を捨ててしまう。人生の本当の敗北の原因は、障害自体にあるのではない。そのあきらめの心にこそあるといってよい。
彼女の足の痛みは次第に和らぎ、予想以上に早く回復していった。
医師にアメリカでの演奏について相談すると、パレードは無理だが、室内での演奏なら大丈夫だと言われた。
佐田は、シュライン公会堂での「日米友好の夕べ」では、喜々としてアコーディオンを演奏し、パレードの際には、記録係としてカメラを手に、メンバーの輝く笑顔を撮り続けたのである。
アメリカの鼓笛隊にはアングロサクソン系もいれば、アフリカ系、メキシコ系、中国系など、さまざまな人がいた。
そのメンバーが、互いに肩を抱き合い、感涙にむせんでいた。
佐田は、その光景に感動しながら、次々とシャッターを切った。
“アメリカは、人種差別の問題で揺れ続けてきた。しかし、学会では、皆が互いに仏子として尊敬し合い、同志として信頼の絆に結ばれている。ここには、人間共和の縮図がある。
私は、絶対に世界広布に生きよう!”
それは、以前から、彼女が胸に描いてきた夢であった。
使命 二十三
世界広布の役に立ちたいとの思いから、佐田典代は高校を卒業すると、英会話の専門学校に通っていた。そして、この渡米によって、世界広布への、強い決意が固まったのである。
それから六年後、彼女は、日本に来ていたミクロネシア出身の、学会員の青年と結ばれ、ノリヨ・ロドリゲスとなって、ポナぺ島(現在はポンペイ島)に渡った。
夫の村には、電気もガスも水道もなかった。川の水で、炊事や洗濯をして、体を洗い、夜はランプで生活した。
経済的には、決して豊かとはいえなかったが、そこには、美しい自然と豊かな人間の心があった。ここに崩れざる幸福の楽園を築こうと、彼女は必死に唱題し、弘教に力を注いだ。
子宝にも恵まれ、子どもたちも、すくすくと成長していった。
数年後、夫は、ミクロネシアでの経済的な基盤を確立するため、銀行を設立した。だが、懇意にしていた日本人に騙されて資金を奪われ、倒産してしまった。
一九八四年(昭和五十九年)、その夫が心筋梗塞で急逝した。ノリヨが出産のために、日本に里帰りしていた折のことである。
彼女は、乳飲み子を抱え、ミクロネシアに戻った。夫の年金を生活の糧に、女手一つで子どもたちを育てた。夫の兄弟や親戚も、よく彼女を守り、支えてくれた。
悲しみに打ちひしがれそうになる時、彼女はアコーディオンを手にし、学会歌を弾いた。
その音色は、心に染み渡り、弾き続けるうちに、泉のように勇気がわいてくるのだ。
“私は、あの渡米の時も、題目で克服することができた。御本尊ある限り、どんな悲しみも乗り越えていけるはずだ。
私は、誇りある鼓笛隊だ。負けるものか!”
ノリヨは、闘志がたぎるのを感じた。
ミクロネシアに支部が結成されたのは、一九九二年(平成四年)のことであった。支部長はノリヨ・ロドリゲスである。
鼓笛隊出身の彼女は、人生の大きな試練を乗り越え、ミクロネシア広布の母として立ったのだ。
青春時代に鍛えられた魂は強い。鍛錬された精神は、何があっても朽ち果てることのない、黄金の輝きを放つ。
使命 二十四
ノリヨ・ロドリゲスは、「私たちは仏法者として、どう社会に貢献できるか」を、常に考え、行動してきた。
地域の子どもたちに、音楽の楽しさを知ってもらいたいと、楽器や歌を教えたり、コンサートを開いたりもした。
そうした着実な努力が実り、SGI(創価学会インタナショナル)メンバーへの、信頼が広がっていった。
新世紀に入った二〇〇一年(平成十三年)の三月のことであった。
ミクロネシア連邦から、同国で第一号となる「名誉国民」の称号が、SGI会長の山本伸一と妻の峯子に贈られた。
これは、ミクロネシアのSGIメンバーを通して、平和・文化・教育への、夫妻の世界的業績を知った同国のファルカム大統領が、自らの発議で制定した称号であった。
また、同年七月には、日本で、同国の「ポンペイ首長最高評議会」から山本夫妻に、「ポンペイ伝統最高位」称号が授与されたのである。
この授与式の通訳を務めたのは、ノリヨ・ロドリゲスの長男であった。
この長男をはじめ、三人が創価大学に学び、五兄弟は皆、立派な人材と育っている。
彼女にとって、その世界広布への旅立ちの原点となったのが、鼓笛隊としての渡米であったのである。
富士鼓笛隊は、“日米鼓笛隊パレード”が開催された二十七日の夕刻には、ロサンゼルス市内の病院を訪問し、中庭で慰問演奏を行った。
強行スケジュールではあったが、メンバーは日米親善交流という使命を思うと、疲れも忘れた。
使命の自覚が、活力をもたらすのだ。
日本の曲や、華麗な隊形変化をみせるドリル演奏にも、拍手が鳴りやまなかった。
演奏中、鼓笛隊のメンバーの代表が、集まった人たちの首にレイを掛けていった。今回、渡米できなかった鼓笛隊員が、祈りを込めて折った千羽鶴で作ったレイである。
「オオ、サンキュー」
「アリガトウ!」
日本からやって来た、「平和の天使」の励ましに、目に涙を浮かべる人もいた。
慰問演奏は、「希望の調べを聴かせてもらった」「元気をもらった」など、大好評を博した。
使命 二十五
パレードが行われた翌日の二十八日夜、ロサンゼルスのプラヤ・デル・レイ海岸で、日米鼓笛隊の交歓会が行われた。
日本とアメリカの「平和の天使」は、焚き火を囲み、婦人部の心づくしのオニギリやバーベキューに舌鼓を打ちながら、語り合った。
目の前には太平洋が広がっていたが、夜の闇に覆われ、打ち寄せる波の音だけが、天にこだましていた。
アメリカ鼓笛隊のメンバーが語った。
「この海の向こうには、日本があります。そこには、学会本部があり、山本先生がいます。だから、この海は、先生につながる海です。
山本先生は、何度もアメリカに来てくださり、私たちに仏法を教えてくださいました。アメリカの女子部は、先生こそ、人生の師匠であると決めています。
だから私は、辛いことや苦しいことがあると、海岸に来ます。
そして、海に手足をつけて、『先生! 私は負けません。私は頑張ります』って叫ぶんです。
私と先生の間には、なんの障壁もありません。そうして、いつも、先生と対話しているんです」
彼女の目には、涙が光っていた。
それを聞いて、感動に頬を赤らめる富士鼓笛隊のメンバーがいた。秋田からただ一人参加した、木田ヨリ子であった。
彼女は、秋田が東京から遠く離れていることから、“山本先生も私たちには遠い存在だ”と思い込んでいた。
しかし、アメリカの同志の言葉に、目から鱗が落ちた気がした。
“アメリカは秋田よりも、地理的には比べものにならないほど遠い。アメリカから見れば、秋田なんて、先生のすぐ隣にいるようなものだ。
ところが、そのアメリカの女子部員の心は、山本先生とこれほど近い。
師弟の距離というのは場所や立場では決まらないのだ。自分の一念が、求道の心が、すべてを決するのだ”
木田は、決意を新たにした。
日米の鼓笛隊メンバーは、互いに信心を学び合い、広宣流布への永久の誓いを固め合った。
ファイアーに照らされて、友情のスクラムが揺れていた。
使命 二十六
全米総会の模様や、富士鼓笛隊が参加した行事の様子は、連日、日本に国際電話で伝えられた。
山本伸一は、全米総会に引き続いて行われた「日米友好の夕べ」も、パレードも、すべて大成功に終わったことを聞くと、満面に笑みをたたえて言った。
「すばらしいね。歴史的な壮挙だ。メンバーも、市民も、心から喜んでくれたようだ。
学会の鼓笛隊は、世界一だもの。全会員の誇りだね。
みんな、本当に頑張ったな。よくねぎらってあげてください」
伸一は、自分がつくった鼓笛隊が、日米の友好の懸け橋として、見事に平和の調べを響かせてくれたことが嬉しくてならず、無量の感慨を覚えるのであった。
――鼓笛隊が発足したのは、一九五六年(昭和三十一年)の七月二十二日のことである。
この数カ月前、青年部の室長であった山本伸一の自宅に、数人の女子部の幹部が訪れた。
女子部の未来展望を語り合うなかで、鼓笛隊を結成しようという話がもちあがった。
鼓笛隊の結成は、男子部に音楽隊が発足してから、女子部の懸案事項となっていたのである。
音楽隊は、既に二年前の五四年(同二十九年)の五月に、伸一の提案によって誕生していた。
この音楽隊の結成に対して、先輩幹部は、誰一人、理解を示そうとはしなかった。
「信心と関係ないではないか」「やめた方がいい」と、こぞって反対したのである。
だが、伸一は、こう考えていた。
“優れた宗教があるところ、必ず偉大なる文化、芸術が生まれる。真の人間文化の創造は学会の使命である。
そして、文化と芸術を育むことが、仏法の偉大さの証明になる”
また、音楽は、民族、国境を超え、人間の心と心を結ぶ生命の言葉であり、平和を創造するうえでも、音楽隊は大きな役割を果たすにちがいないと確信していた。
さらに、力強い音楽の調べは、広宣流布に進む同志の心を、どれほど鼓舞し、勇気づけるか計り知れない。
彼は、熟慮に熟慮を重ね、音楽隊は絶対に必要だと結論したのだ。
使命 二十七
戸田城聖だけは、山本伸一の考えを、よく理解し、励ましてくれた。
「伸一がやるんだったら、やりたまえ」
音楽隊が正式に発足したのは、一九五四年(昭和二十九年)五月六日、渋谷公会堂で開催された男子部幹部会の終了後のことであった。
楽器の演奏の心得がある人や有志を募って、音楽隊としてスタートすることになったのである。
初出場は、三日後の九日に行われた、青年部総登山であった。
メンバーは十六人で、自前の楽器はないため、借りて急場をしのいだ。
当日は雨となったが、彼らは燃えていた。
「最初が肝心だ。初めの勢いこそが勝負だ!」
「悪条件にひるんだら負けだ。悪条件だからこそ、成功すれば、歴史に輝く壮挙になる!」
皆、闘志を剥き出しにして、激しい雨をものともせずに、勇気の調べを奏で続けた。
借りた太鼓が雨に濡れてしまい、返却する段になって、途方に暮れる一幕もあったが、大いに参加者の士気を鼓舞したのである。
伸一は、音楽隊に、せめて自前の楽器を持たせたかった。そこで、自分で工面して、楽器を買って贈った。
メンバーは、練習に練習を重ね、着実に技術を磨いていった。伸一も折あるごとに激励した。
やがて、勇壮な学会歌の調べで同志の魂を鼓舞する音楽隊の存在は、学会になくてはならないものになっていった。
それだけに女子部として、一日も早く鼓笛隊を発足させたいとの強い思いがあったのである。
伸一は、女子部の幹部から、鼓笛隊結成の希望を聞くと、笑みを浮かべて言った。
「よし、鼓笛隊も結成しよう。しかし、問題は楽器だね。どうにかして買ってあげるから、少し時間をくれないか」
伸一の言葉に、希望の光を見いだした彼女たちは、笑顔で頷いた。
当時、学会には、鼓笛隊の楽器を購入する余裕などなかった。伸一は、自分が私財を投じて用意しようと思った。
やがて彼は、楽器の購入を、音楽隊長の有村武志に頼んだ。有村は、米軍の払い下げ品から、ファイフとドラムの良いものを選んで購入した。
使命 二十八
鼓笛隊の結成の日となった、一九五六年(昭和三十一年)の七月二十二日、入隊を希望する女子部員が、学会本部に集って来た。
しかし、ファイフやドラムスティックを手にするのは初めての人ばかりであった。
メンバーは、音楽隊長の有村武志に演奏の手ほどきを受けることになり、喜び勇んでファイフを手にした。
しかし、唇をあて、息を吹いても、空気の漏れるスースーという音がするばかりであった。
ムキになって吹いていると、息が切れ、頭がくらくらした。
また、ほとんどのメンバーが、楽譜が読めなかった。それでも、皆、必死であった。
この日から、果敢な挑戦が始まった。技術は全く未熟だが、心意気だけは誰にも負けなかった。
たとえば、ドラムのメンバーは、常に「ブン・チャッチャ」と口ずさんで、リズムを体で覚えるように努めた。
家に帰れば、まな板に布巾を敷き、ドラム代わりにし、箸で叩いて練習した。
仕事や学業、そして、学会活動と多忙ななかでの練習である。でも、誰も弱音は吐かなかった。新しい挑戦に苦労があるのは当然だと、皆が自覚していたからだ。
鼓笛隊の初出場となったのは、その年の九月三日に行われた、東京・中野公会堂での女子部幹部会であった。
この時、鼓笛隊の中心者も決まった。古賀美重子という、小学校で教鞭をとりながら、音楽大学の夜間部に学ぶ女子部員である。
鼓笛隊の編成は、ドラム十人、ファイフ二十三人の計三十三人であり、古賀の指揮で、「荒城の月」「日の丸の旗」をはじめ、女子部の愛唱歌などを演奏した。
皆、真剣に練習に励みはしたが、まだ、ファイフのメンバーの半分近くが、まともに音が出せず、ただ「スースー」という音を響かせていた。
また、前列の人の背中に「ド・ミ・ソ……」などと、カタカナで書いた“楽譜”を張り、それを見ながら演奏する人もいたのである。
ドラムのメンバーは、つり下げる紐が足りず、前列の人は、舞台の床の上に、直接、ドラムを置いて演奏したため、音はくぐもっていた。
使命 二十九
初演奏とあって、鼓笛隊員は、皆、緊張していた。楽器を持つ手も震えが止まらず、膝はガクガクしていた。
メンバーは一生懸命ではあったが、「見事」というには、ほど遠い結果であった。
ファイフの音が満足に出ないことから、“スースー隊”などと呼ぶ人もいた。
山本伸一は、女子部の幹部から、その報告を聞くと、微笑を浮かべて言った。
「最初は、何を言われてもいいじゃないか。
いつか、世界一になればいいんだ。鼓笛隊は、必ずそうなる。私は確信しているよ。
なぜか――。
世界一になるには、なんのためかという、崇高な目的が必要だ。目的があいまいであれば、自分の本当の力を出し切ることはできない。
学会の鼓笛隊は、広宣流布のためにある。世界の平和と、人びとの幸福のためにある。
世界で一番、崇高な目的をもっている鼓笛隊じゃないか。
だから、皆がその目的と使命を自覚すれば、結果的に見て、自分たちが考えもしなかったような、大きな力が出せるようになる。
しかし、それには、真剣な練習を重ね抜くことです。血の滲むような努力が必要だ。
何事も、成功とは努力の異名なんです。ほかの鼓笛隊を凌ごうと思ったら、人一倍、練習することです。
その挑戦の原動力が信心なんです」
女子部幹部会での初演奏から二十日後の九月二十三日には、鼓笛隊は、東京・下高井戸の日大グラウンドで行われた、青年部の第三回体育大会「若人の祭典」に出場したのである。
この日が、戸田城聖、山本伸一の前での初めての演奏となった。
“スースー隊”の評判を聞いていた戸田は、開会前、鼓笛隊のそばに足を運ぶと、心配そうに尋ねた。
「調子はどうだい? 鳴るかね?」
「はい!」
メンバーの元気な声が返ってきた。
「そうか……」
戸田は、ニッコリと頷くと、一緒に写真を撮ろうと言った。
彼もまた、鼓笛隊に大きな期待を寄せていたのである。
使命 三十
「若人の祭典」に出場した鼓笛隊の服装は、クリーム色のシャツと黒のスカート、そして、白い運動靴であったが、靴は、白いチョークや歯磨き粉を塗って、汚れを隠していた。
前日に雨が降り、ぬかるみのグラウンドで、予行練習を行ったため、彼女たちの靴は、泥だらけになってしまったからである。水は靴下にまで染み込んでいた。
しかし、当日は、皆、喜々として歓喜の調べを奏でた。
最初の演奏の時と比べると、全員が大成長していたが、それでも、思い通りの音は出せず、“スースー隊”の名を返上することはできなかった。
山本伸一は、そんな彼女たちに賞讃を惜しまなかった。
「一生懸命さが伝わってくる、力強い演奏だったよ。短時間で、よくここまで頑張ったね」
さらに、メンバーに、真っ白いソックスをプレゼントした。
伸びゆこうとする人の力を開花させるものは、春風のように温かい、真心の励ましである。
鼓笛隊は、その後、本部総会や女子部総会等々に出動を重ねるごとに、技術的にも目覚ましい向上を遂げていった。
結成から半年ほどたったころには、“スースー隊”などと茶化す声は消え、むしろ、同志の希望の星となっていった。
伸一は、鼓笛隊のメンバーと会うたびに、「必ず、世界一の鼓笛隊にしようよ」と、力強く語りかけるのが常であった。
また、「今に、世界の友と演奏する時が、必ずくるよ」とも断言した。
鼓笛隊のメンバーにとっては、それは、遥か彼方の山の頂をめざすような、遠い目標に感じられた。しかし、誰も不可能だとは思わなかった。
いつか、絶対に実現してみせると、皆、深く心に誓い、来る日も、来る日も、猛練習を重ねていったのである。
“決意”という種子には、“成就”という果実が内包されている。
「未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」(御書二三一ページ)である。
そして、決意あるところには、必ずや、果敢なる挑戦があり、不断の努力がある。
もし、その行動を欠いているなら、それは、はかない夢物語を口にしているにすぎない。
使命 三十一
東京で鼓笛隊が結成された翌年(一九五七年)の十月には、関西にも鼓笛隊が誕生した。
また、この月には、鼓笛隊の第一回の研修会が総本山で行われた。
その折、山本伸一は鼓笛の友に、「太陽のように明るく 月光のごとく清らかな鼓笛隊たれ」との指針を贈った。
さらに、研修会での懇談の折、伸一は、鼓笛隊を「妙音菩薩」と讃えたのである。
妙音菩薩とは、法華経妙音菩薩品第二十四で明かされる、東方の「浄光荘厳国」という世界に住む菩薩である。
その姿は壮大で、顔も端正で百千万の月を合わせたよりも美しく、体は金色に輝き、「無量百千の功徳」と「威徳」があふれていると説かれている。
妙音菩薩は「釈尊を礼拝し、親近し、供養し、さまざまな菩薩方にお目にかかりたい」と、釈尊の法華経の説法に際して、娑婆世界にやって来るのである。
娑婆世界に行く妙音に、「浄光荘厳国」の仏である「浄華宿王智如来」は、「娑婆世界を軽んじてはならない」と告げている。
そこは、泥や石や山も多く、汚れている。仏の身も、菩薩の身も小さく見劣りがする。しかし、娑婆世界の仏、菩薩を尊敬せよというのだ。
なぜなら、一番大変なところで、泥まみれになって法を説き、戦っている方こそが尊いからだ。見かけで判断するのではなく、そうした方々を、最高に尊敬していきなさい、との教えである。
伸一は、鼓笛隊にも、広宣流布のために黙々と献身する学会員を、どこまでも敬い、大切にしてほしかった。そして、同志の心に希望の調べを、勇気の調べを届けてほしかった。
妙音菩薩が、娑婆世界に向かうと、通り道の国々は震動し、「七宝の蓮華」が雨と降り、種々の妙なる天の音楽が自然に奏でられたとある。その現象は、法華経の功徳を示したものである。
仏法の正義といっても、社会で実証されなければ、独善にすぎない。
伸一は、鼓笛隊は、妙音菩薩のように、華麗なる音楽をもって、仏法の偉大さを世界に宣揚する人たちであると、強く確信していたのだ。
使命 三十二
鼓笛隊は「妙音菩薩」であるという、この山本伸一の指導に、メンバーは、自分たちの使命を深く自覚していった。
このころになると、鼓笛隊は百名ほどの陣容になっていた。
専門的に音楽の勉強をする人もおり、皆の技術は、ますます向上し、鼓笛隊は、学会の主要行事には、なくてはならぬ存在になっていた。
一九五八年(昭和三十三年)三月一日の、学会が総本山に建立寄進した大講堂の落成式や、十六日に行われた広宣流布の記念の大式典でも、鼓笛隊の演奏は、参加者を魅了した。
そして、四月二日、師の戸田城聖が他界し、二十日に行われた学会葬でも、鼓笛隊は音楽隊とともに、その葬列の先頭に立ち、後継の誓いの曲を凛然と響かせた。
この翌月の五月には北海道にも鼓笛隊がつくられ、七月には東北、八月には九州と、各地に結成されていった。
そして、十二月には、東京・品川区内で、青年部の室長であった山本伸一が出席して、鼓笛隊の第一回全国大会が開催されたのである。
これには、東京の百五十二人をはじめ、関西五十五人、九州十七人、北海道十六人、東北二十人の計二百六十人のメンバーが集った。
伸一は、「世界一の鼓笛隊に」との思いを込めて、真の芸術とは何かを語った。さらに終了後には、代表と懇談し、一人ひとりの報告に耳を傾けながら、全力で励ましていった。
自分の仕事や学業、学会活動のうえに、鼓笛隊の活動を行うには、時間的にも、経済的にも大変であり、大きな苦労があるにちがいない。
そのなかで、希望の調べを奏でようと、懸命に頑張り抜いてくれているのだ。なんと尊く、健気な乙女たちか。
伸一は、妙音菩薩を礼讃する思いで、激励に激励を重ねた。
励ましは、希望の薫風である。
「励ます」という言葉は英語で「インカレッジ」という。これは「カレッジ(勇気)」を吹き込むという意義がある。
励ましのあるところ、苦しさも、悲しさも、吹き払われ、勇気が萌えいずる。蘇生の活力が満ちあふれる。
指導者とは、「励ましの人」の異名である。
使命 三十三
鼓笛隊は、山本伸一が第三代会長に就任した一九六〇年(昭和三十五年)五月三日の、あの本部総会でも、新時代への旅立ちのファンファーレを奏でた。
白のブラウス、白のスカート、白のソックスに赤い蝶ネクタイをつけ、両国公会堂から会場の日大講堂まで、初めて市中パレードを繰り広げたのである。
“世界一”をめざす彼女たちは、常に新しい挑戦を忘れなかった。
六一年(同三十六年)十一月、横浜・三ツ沢のグラウンドに八万五千人が集った第九回女子部総会では、初めてドリル演奏が披露された。
ドリル演奏とは、演奏しながら、隊形を変化させる演技である。
それまでは、鼓笛隊のパレードは、縦列行進が中心で、「線」の動きであったが、グラウンドにさまざまな模様を描き、「面」の動きを展開しようというのだ。
しかし、ドリル演奏といっても、彼女たちは、数十人規模のものしか見たことはなかった。
鼓笛隊が試みようとしているのは、数百人規模である。
結局、自分たちでアイデアを絞り出し、一からつくり上げていくしかなかった。
企画を担当するメンバーは、常にドリル演奏のことが、頭から離れなかった。
レース編みの模様や、街のネオンの形にもヒントを求めた。皆が集まって食事をすると、食器なども、隊形変化を考える模型代わりになった。
「まだ、できるわ」「まだまだ、工夫の余地があるわ」――彼女たちに“妥協”はなかった。
そこに、新しき前進があり、未来の栄光が生まれる。挑戦を忘れれば停滞の迷路に陥る。
大人数で隊形変化の練習ができる場所を確保するのも大変だった。
だが、その労苦は、第九回女子部総会で、華麗なる大輪となって開花したのだ。
この日は、総勢七百二十人が出場し、赤と白のユニホームに身を包んだ鼓笛隊が、グラウンドいっぱいに、市松模様や、「V」形、「X」形などを、次々に描いていったのである。
皆が息をのんだ。感嘆の溜め息が漏れ、絶賛の拍手が空に舞った。
使命 三十四
鼓笛隊の実力は、社会的にも高く評価されるようになり、日仏のラグビー親善試合(一九六二年)の開会式をはじめ、学会行事以外の催しにも、請われて出場するようになっていった。
彼女たちの、さわやかで技術的にも優れた演奏や、すがすがしい笑顔に触れ、創価学会への理解と信頼を深めていく人も少なくなかった。
また、鼓笛隊は、音楽の技術を磨くだけではなく、友情と団結の心を培い、自身を鍛え輝かせる“青春学校”ともいうべき役割を担ってきた。
アメリカ公演に参加し、やがて第三代の鼓笛部長になる小田野翔子も、鼓笛隊で学会の精神や人間の在り方を学んだ一人であった。
彼女は、高校一年の時に、姉に勧められて鼓笛隊に入った。
入隊後、しばらくすると、数人の部員に、練習の日時や場所を連絡する係りになった。
きちんと連絡をしても、来ない人もいた。しかし、自分は責任を果たしたのだから、あとは本人の問題であると、別に気にもとめなかった。
彼女は、生来、さばさばした性格であり、人に干渉することも、されることも好まなかった。
だが、同じ係りのメンバーの取り組み方を見て、彼女は驚いた。
皆、連絡しても練習に来ない人がいると、そのことを真剣に悩んで唱題し、先輩に指導を受けたり、家まで訪ねて行って、励ましたりしているのだ。
「なぜ、そこまでしなくてはならないの?」と首をかしげる小田野に、あるメンバーは言った。
「だって、練習に通って上達し、出場できるようになれば、すばらしい青春の思い出になるわ。あんな感動はほかにはないんですもの。
本人も、それを夢見て鼓笛隊に入ったはずだから、なんとしても、その夢を、一緒に実現してもらいたいのよ。
だから私は、最後の最後まであきらめない。適当に妥協しても、誰も何も言わないかもしれないけど、それは、自分を裏切ることだわ」
小田野は、自分の考え方を恥じた。
“みんな、自分のことより、後輩やメンバーのことを考えている。それが学会の心なんだ”
使命 三十五
小田野翔子は、音楽の専門家でもない先輩たちが、「世界一の鼓笛隊」にしようと、懸命に努力し続けている姿を目にするたびに胸を熱くした。
その心意気に感じて、彼女も、「世界一」を実現させるために、自分は何をすべきかを考えた。
“今、鼓笛隊に必要なものは、より専門的な知識と技術の習得ではないだろうか。
自分がどこまでできるかわからないけれど、音大に行って勉強して、鼓笛隊のために役立てるようになりたい”
人それぞれに使命がある。それぞれが「私が立とう!」と、自己の使命を果たし抜くなかに、真の団結がある。そして、そこに、新しき歴史が創られるのだ。
山本伸一は、鼓笛隊が、次第に高い技術を身につけてきたことが嬉しかった。
彼は、鼓笛隊を、世界の檜舞台で乱舞させたかった。
また、次々と誕生していった各国の鼓笛隊と交流を深めながら、希望の調べで、世界を包んでほしかった。
その思いから、一九六八年(昭和四十三年)八月の「日米友好鼓笛隊交歓会」に続いて、この六九年(同四十四年)七月のアメリカ行きを提案したのである。
渡米メンバー百四十人が確定した六九年三月、東京体育館での本部幹部会で、鼓笛隊は、渡米の記念演奏を行った。
しかし、演奏を聴いた参加者の多くが、何か、もの足りなさを感じた。技術は、そこそこに上達しているのだが、胸に迫るものがないのだ。
伸一は、青年部の幹部に率直な感想を語った。
「今日の演奏には、泥まみれになって、同志の士気を鼓舞しようと必死だった、あの鼓笛隊の精神が失われてしまっているね。残念だな」
それは、鼓笛隊のメンバーに伝えられた。
皆、思い当たる節があった。
アメリカに行くということで、うまく見せたいという思いが強く働き、小手先の技術ばかりを追い求めていたのだ。体裁であり、見栄である。
また、ここまで頑張ってきたのだから、もういいのではないかという気持ちもあった。甘さであり、油断である。
それが、結果となって現れてしまったのだ。
使命 三十六
鼓笛隊のメンバーは、「もう一度、信心という原点に立ち返って出発しよう」と語り合った。
そして、懸命に唱題することから、挑戦を開始したのである。
ベートーベンは記す。「音楽は人々の精神から炎を打ち出さなければならない」(注)
人びとの精神から、歓喜の炎、勇気の炎を打ち出す触発の調べを奏でる使命の奏者こそ、鼓笛隊であり、音楽隊である。
そのためには、ほとばしる信仰の火をもって、自らの魂を燃え上がらせなければならぬ。
渡米メンバーは、四月から七月まで、ほとんど毎日、練習に通った。その折には、皆で御書を拝したり、学会の指導を学ぶなどして、広宣流布の使命を確認し合った。
また、互いの技術に厳しく注文をつけ、徹底して妥協を排していった。「我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇を止めて之を案ぜよ一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ」(御書九七〇ページ)の御聖訓が、皆の共通の一節になっていった。
トランペットのメンバーは唇が切れても、弦楽器のメンバーは指先に血が滲んでも、決して弱音を吐かなかった。
さらに、メンバーは、渡米のために休暇をとることになるため、仕事にも懸命に励んだ。
朝、一時間以上も前に出勤し、昼休みを返上して働いた人もいた。
鼓笛隊が必死になって努力を重ねているとの話は、山本伸一の耳にも入ってきた。
七月の中旬、伸一は、鼓笛隊が打ち合わせをしている、本部周辺の施設を訪れた。メンバーと会って、励ましたかったのである。
「やあ、ご苦労様!」
入り口にいたメンバーは、驚きの声をあげた。
皆が、急いで玄関に出てきた。
「頑張っているね。七月の本部幹部会で、もう一度、記念の演奏をやりなさい」
皆の瞳が、決意に燃え輝いた。
七月二十日、日大講堂での本部幹部会で、メンバーは渡米用の真新しいユニホームに身を包み、高村鼓笛部長の指揮で、フランスのガンヌが作曲した行進曲「勝利の父」を演奏した。
清新の息吹にあふれた力強い調べであった。その音色は勇壮で美しく、万人を魅了した。
使命 三十七
鼓笛隊の演奏が終わると、一瞬の静寂のあと、割れんばかりの大拍手が日大講堂のドームにこだました。
山本伸一は、鼓笛隊のアメリカ公演は大成功することを確信しながら、身を乗り出して拍手を送った。
彼は、メンバーの健気なる精進に、心から喝采を送りたかった。
血の滲み出るような、懸命な努力なくして勝利はない。青春時代に、自らの鍛えの場をもった人は幸せである。
なぜなら、幸福とは、何があっても、決して負けない魂の輝きであるからだ。
自分を不幸にするものは、他者ではない。時流でも、運命でもない。自身の弱さである。
希望をいだけず、勇気を奮い起こさず、あきらめてしまう。そして、無気力や自暴自棄に陥り、他人を恨み、自分をも嫌悪する魂の脆弱さが、自身を不幸にしてしまうのである。
ゆえに、幸福の人生を歩みゆくためには、青春時代に、徹して自身の魂を鍛え上げることが、何にも増して重要になるのである。
鼓笛隊のアメリカ公演が大成功したことを聞いた伸一は思った。
“今回、渡米したメンバーの、あの決意、あの精神、あの使命感、あの努力が受け継がれていくならば、鼓笛隊は名実ともに、世界一であり続けるにちがいない。
また、それぞれが、生涯、人生の大勝利者となっていくだろう”
そして、心で「世界一の鼓笛隊万歳!」と叫びながら、一人ひとりの顔を思い浮かべ、唱題を重ねたのである。
鼓笛の王女たちは、このアメリカ公演を飛躍台にして、まさに、「世界一」の大道を、誇らかに前進していった。
海外演奏も重ね、伸一とともに、イデオロギーの壁を超えて、ソ連(当時)も訪問した。また、マーチングバンドの全国大会等でも、幾たびとなく最優秀賞などを受賞していくことになる。
今や、メンバーは、国内だけで二万人の陣容となり、鼓笛隊は世界二十六カ国・地域で結成されるに至った。
「平和の天使」の希望の調べは、二十一世紀の空高く鳴り響いている。
使命 三十八
この一九六九年(昭和四十四年)の夏季講習会は、七月三十日から八月二十八日まで、総勢十万人が参加して行われた。
学生部(男子)に始まり、高・中・少の各部、男子部、壮年部、文化局、海外、女子部、婦人部など、十三期にわたって、それぞれ二泊三日で実施されたのである。
その間、山本伸一も会場となった総本山に滞在し、運営の全責任を担うとともに、参加者の指導と激励に奔走した。
講習会を迎えるにあたって、彼は担当の幹部たちに言った。
「これからの十年間の新しい時代を担う、十万人の人材を育成しよう。私も、十万人と“生命の対話”をする思いで、全魂を注ぎます!
講習会は、それぞれの参加者にとっては、二泊三日という短い期間にすぎない。しかし、そこで一念を転換し、生命の姿勢が変われば、大人材に育つし、大きな力を発揮していきます。
飛行機でも、東に針路をとるか、西に針路をとるかは、操縦桿の一瞬の操作によって決まってしまう。歴史も、その転換点というのは一瞬です。
では、どうすれば、参加者の一念を転換し、仏法の大勝利の流れがつくれるのか。
皆さんの一念です。一念は、一念によって触発される。
それには、担当幹部の皆さんが、この講習会の期間中、一分一秒も無駄にしないと決めて、参加者と会い、『臨終只今』の覚悟で、誠心誠意、激励していくことです」
また、彼は、こう提案した。
「参加者は、全員、署名をしよう。
その人たちが、三年後に、五年後にどうなっていくか、私は見守っていきたいんです」
伸一は、自らの言葉の通り、十万の同志に一人も漏れなく、発心の種子を植えようと、語りに語り、動きに動いた。
男子部の野外大集会では、終了後も、「今日は尊敬するわが弟であり、同志である皆さんを、私がお送りします」と言って、最後の一人が帰るまで、丘の上に立って手を振り続けた。
マイクを握って、「お元気で!」「さようなら」「お題目を送るよ」と、声がかれるほど、励ましの言葉をかけ続ける伸一の姿に、青年たちは拳で顔を拭った。
使命 三十九
八月の十六日から十八日にわたって行われた八期の夏季講習会には、文化局各部のメンバーと、世界三十七カ国・地域から二千人のメンバーが参加した。
山本伸一は、求道の心を燃やして集った海外の友には、とりわけ精魂を傾けて、激励を重ねた。
メンバーとは、記念撮影を行ったり、自らスイカを配る一幕もあった。
グラウンドで行われた、海外から参加した同志を歓迎する文化祭の折のことであった。
ぐずついた天気であったが、文化祭の途中から雨が降り出した。
しかし、伸一は、傘をさそうともせずに、海外メンバーの歌や踊りを、じっと見守っていた。
彼の前に置かれたテーブルの上には、タオルが用意されていた。伸一は、それを取ると、近くにいた海外メンバーに手渡した。
「雨で濡れるから使ってください」
メンバーのなかには、傘を持っている人もいれば、持っていない人もいた。伸一は、男子部の役員に、各坊にある傘をグラウンドに集めるように指示する一方、マイクを手にして言った。
「皆さん、傘をさしてください!」
そう呼びかける彼の全身は、びっしょりと濡れていた。
誰かが叫んだ。
「先生! 傘をさしてください!」
「いいんです。私は若いのですから」
皆、驚きを隠せなかった。振る舞いは、心を雄弁に語るものだ。
いよいよ雨が本降りになり、参加者の顔にしずくが流れ始めた。
舞台には、三十七カ国・地域の代表が勢揃いしていた。側近の幹部が伸一に尋ねた。
「まだ、演目はたくさん残っていますが、中止にしましょうか」
「いや、それでは、準備をしてきたメンバーがかわいそうだ。ほかに方法を考えよう」
こう言うと、伸一は立ち上がって、会衆のなかを、舞台に向かって歩き始めた。
彼の姿に、歓声があがった。
握手を求めて駆け寄る人で、伸一はもみくちゃになった。
しかし、彼は笑顔で、「ご苦労様」と、一人ひとりにねぎらいの言葉をかけながら、ステージに進んだ。
使命 四十
山本伸一は、胸ほどの高さの、舞台の上に飛び乗ると言った。
「すばらしい演奏でした。天女の合唱でした。最高の舞踊でした」
伸一は、壇上にいた出演者を讃え、握手を交わした。
そして、雨に打たれながら、マイクを手にして語り始めた。
「風邪をひいてはいけないので、これで文化祭は、中断しましょう」
出番を待っていた出演者の顔に、落胆の色が浮かんだ。
だが、伸一の次の言葉が、皆を元気づけた。
「それで、このあと、会場を大講堂に移して、続きを行いたいと思いますが、いかがですか!」
大歓声がうねり、大拍手が舞った。
彼は、言葉をついだ。
「皆さんが、この日のために、一生懸命に練習してきたんだから、最後まで、見させていただきます。
しかし、雨が激しいものですから、一度、坊に戻って、体を拭いて、ゆっくりしてから、また、やりましょう」
皆の心をくんだ提案であった。
どうすれば、皆が喜ぶのか――常に、そのことを考え、心を砕き続けているからこそ、最も適切な、臨機応変な対応が可能となるのである。
やがて、大講堂で再開された文化祭では、沖縄芸術部による琉球舞踊や九十八面の琴による大合奏などが披露された。
それは、友情と平和の、思い出の室内文化祭となったのである。
また、伸一は、学生部の代表とは、白糸の滝に行き、ともにボートに乗りもした。
婦人部の代表とは、緑陰で懇談し、家庭のことや子どもの教育について耳を傾け、意見を交わし合った。
夏季講習会という、この人材育成のチャンスを逃せば、緻密に練り上げられた広宣流布の、未来への大構想に支障をきたすことになる。
ゆえに、毎日毎日が真剣勝負であった。
彼は、参加者の励ましのために、考えられる、あらゆる手を打ち、行動し抜いた。
一瞬でも、「時」を疎かにし、やるべきことをやらなければ、結局は、禍根を残す。悔いは人生の恥辱である――伸一は、そう考えていた。
使命 四十一
この夏季講習会の折、人間文化創造の号砲が、また一つ、高らかに鳴り響いた。
文化局の夏季講習会が行われた、第八期の二日目にあたる八月十七日午前、文芸部の結成式が行われたのである。
文芸部は、作家、ジャーナリストなど、文筆活動に従事する人びとで構成される部である。
前年十二月の本部幹部会で設置が発表され、その席上、文芸部長に臼田昭が任命になった。
彼は編集者で、文学に造詣の深い、二十九歳の青年であった。
東大法学部の学生時代に、山本伸一の「御義口伝」講義を受講し、広宣流布の言論活動に生き抜く決意を固めていた。
この臼田を中心に結成の準備が進められ、学会員である小説家やジャーナリスト、詩人、歌人、俳人などのなかから、人選が進められていったのである。
また、文筆家をめざす学生部員のなかで、未来が嘱望されるメンバーも人選の対象となった。
こうして第一期生五十人余りが選ばれ、結成式を迎えたのである。
メンバーは、午前十一時前、伸一が運営の指揮をとる、総本山の雪山坊前に集った。
「ようこそ、おいでくださいました!」
白い開襟シャツの伸一が、姿を現した。
「こんにちは!」
はつらつとした、皆の声が響いた。
「お待ちしておりました。さあ、結成式を始めましょう!」
伸一は、用意されていた旗を手にした。文芸部旗の授与である。
旗には、白地に朱色で獅子の横顔が描かれ、ラテン語で文学を意味する「LITTERA」(リテラ)の文字が記されていた。その周囲を紺色の月桂樹が取り囲むというデザインであった。
伸一は、文芸部長の臼田に旗を手渡しながら、強い声で言った。
「世界一、力のある部になってもらいたい」
「はい!」
決意のこもった声が響いた。
伸一は、未来にそびえる文豪の大山脈を思い描いた。
一人ひとりが、厳として一念を定め、日々、自身の壁を打ち破って、前進し続けるならば、成就できない念願はない。
使命 四十二
続いて、文芸部員の任命に移った。
敬称を略して、名前が呼ばれた。
皆、「はい」と元気に返事をした。
数人のメンバーが紹介されたところで、山本伸一は名前を発表した幹部を咎めるように言った。
「文芸部員は、全員が文豪の方々ですから、“先生”とお呼びすべきだと思う。もう一度、最初から、“何々先生”と呼んで任命しよう」
その言葉を聞いて、驚き、恐縮したのは、文芸部員たちであった。
メンバーのなかには、児童文学や時代小説の分野で、何人か大家といわれる作家がいたが、全体的に見れば、まだ、無名の人が多かった。
文筆活動の傍らアルバイトをして、生計を立てなければならない人もいたし、作家を志す現役の大学生もいた。
「先生」と呼ぼうという提案には、伸一の限りなく大きな期待が込められていた。彼は、文芸部員のなかから、新しき人間主義の文芸復興を担い立つ、数多くの大文豪が出てほしかった。
再び、「先生」という敬称をつけて、各人の氏名が読み上げられた。
誇らかに胸を張って、返事をする人もいれば、照れくさそうに顔を赤らめるメンバーもいた。
伸一は、敬愛の思いを込めて、一人ひとりと握手を交わした。
「皆さんのお名前とお顔は、生命に焼き付けておきます。さあ、暑いので中へ入りましょう」
雪山坊の中で、指導会が始まった。
「文芸部の皆さんは、本当の実力をつけていただきたい。そうなれば、広宣流布の前進は、五十倍、百倍と速まります。
一流の文学賞を受賞する人も、数多く出てほしい。しかし、必ずしも賞にこだわる必要はありません。大事なことは、何人の人が、自分の作品に共感するかです。
皆さんの文学を、多くの人が支持し、賞讃してくれる――それがそのまま、仏法のすばらしさの証明になる。
そのためには、自分と戦うことです。一日一日が勝負になります。
“今日も自分の殻を破ろう”“新しい境地を開こう”との精進がなければ、社会で勝つことはできません。ほかの人も、皆、必死なんですから」
使命 四十三
山本伸一の言葉には、気迫があふれていた。
「私も、書きまくっています。連載小説だけでなく、各出版社からの原稿依頼もかなりの数になります。
三九度近い熱が続いた時もありました。しかし、“ここでやめるわけにはいかない!”“書かずしてなるものか!”との一念で、ペンをとり続けました。
そういう時こそ、たくさんの読者から、感銘を受けたとの、大反響がありました。
『文は人なり』と言われますが、それは、『文は生命』であり、『文は魂』であり、また、『文は境涯』であるということです。
文には、生命がすべて投影されます。
したがって、苦労し、苦労し抜いて、ほとばしる情熱で、炎のように燃え上がる生命でつづった文は、人びとの心を打つんです。
話をする場合も同じです。必死さ真剣さが、その魂の叫びが、情熱の訴えが、人の心を揺さぶるんです。
大事なことは、民衆の心をつかむことです。
人びとの幸福に最大に貢献するのだという信念をもち、思想、哲学の眼を開いて、それぞれの分野で、皆さんが、大いに活躍されんことを念願いたします」
そして、最後に、伸一は、こう付け加えた。
「今日は、本当に嬉しい。今度、文芸部の結成を祝って、みんなで食事をしましょう」
結成式は終わった。
伸一は、これで創価の文芸の流れが生まれたと思った。あとは、どう広げていくかである。
彼は、仏法を基調にした、新しい文学の興隆の必要性を痛感していた。
――近代の淵源となったルネサンスは、「神」と「教会」の鉄鎖から人間を解き放った。
「古代に帰れ!」
「人間に帰れ!」
自由の讃歌は轟き、ヒューマニティーの勝利が打ち立てられた。
この「自由なる精神」の大地から、未曾有の文芸の大輪が花開いた。
十四世紀のイタリアに、ダンテ、ペトラルカ、ボッカチオらが活躍して以来、文芸復興の潮流は西欧に広がり、オランダにエラスムス、フランスにラブレー、イギリスにトマス・モア等といった大文人が、次々に誕生していった。
使命 四十四
人間解放をめざしたルネサンスによって、人びとは自由を手にした。
しかし、皮肉にも、人間は「幸福」も「平和」も、掌中に収めることはできなかった。
ルネサンスの号砲のもとに羽ばたいた自由の翼は、近代の幕を開き、やがて、急速な科学技術の発達をもたらした。
だが、それは、人間の際限のない欲望の肥大化に裏打ちされていた。
その結果、やがて機械に人間が支配され、核兵器や公害を生み出し、人間性の喪失、人間疎外という事態をも招いたのである。
スイスの歴史家ブルクハルトは、ルネサンスを、「世界と人間の発見」と位置づけている。
ルネサンスは、確かに社会の背後に、巨大なる人間を発見した。
しかし、人間の背後にある「生命」という内的世界の深部にまで、光を当てることはなかった。
それゆえ、未だ本当の「人間の発見」には至らず、愛と憎、正と邪、献身と支配、自己犠牲と名聞名利等々が複雑に絡み合い、善を欲して悪を為す人間が、十全に解明されることもなかった。
そして、人間が真に主体性を回復することもなかったのである。
だが、今、人間の生命をあますところなく解明した、仏法の大法理が広く世界に流布されようとしている。
なれば、仏法を基調にした、新しきルネサンスが、文芸復興の大波が、わき起こらなければならない。
日本文学の「沈滞」や「低迷」が指摘されて久しかったが、事実、深い思想性、哲学性を基盤にした大作はほとんどないのが現状であった。
文学の衰退は、思想の脆弱化であり、活字離れに通じよう。それは同時に、人間精神の荒廃を招くことになる。
かつて、サルトルは、“飢えた子どもたちに、文学は何ができるか”との問いを発した。
日本は高度経済成長による繁栄のなかにある。その“満ち足りた子どもたち”にさえ、影響力をもちえなくなりつつある文学の未来を、山本伸一は憂慮していた。
「広宣流布」とは、文芸も、教育も、政治も、すべてを人間のためのものとして蘇らせる、生命復興の戦いなのである。
使命 四十五
山本伸一が約束した、文芸部員との会食は、翌九月の二十七日に、東京・青山のすき焼き店で行われた。
食事が始まった時、黒縁のメガネをかけた初老の紳士が、一冊の本を手にして、伸一の前に出てきた。長田若葉という児童文学者であった。
「私が最近、発刊しました本でございます」
『児童文学の展望』と題する本である。
「ありがとうございます。すぐに読ませていただきます。長田先生のことは、よく存じ上げております」
長田は、日本児童文芸家協会の常任理事であり、また、日本児童文学者協会、日本ペンクラブ等に所属する児童文学界の大家であった。
彼は、大阪生まれで、同じ旧制中学の出身者に、ノーベル文学賞を受賞する川端康成と、評論家の大宅壮一がいたことから、二人に憧れ、文筆家を志した。
女学校の教師を経て作家生活に入ったが、少年雑誌の編集者から、童話を書くように勧められ、児童文学の道に進んだのである。
そのころ、日本の児童文学といえば、童話やおとぎ話、それに加えて浅薄な通俗読み物が少なくなかった。
“これでは、子どもたちが、豊かな文学の滋養を吸収できない”
そう考えた長田は、児童の人格を尊重し、もっと純粋に人間を追究した、「小説精神」に基づく、新しい少年文学を打ち立てなければならないと思った。
その実現のためには、賛同者を募って会をつくる必要があった。
彼は設立に奔走した。
作家、児童文学者に会っては、「少年文学の樹立」を情熱を込めて懸命に訴えた。
まさに、体当たりの語らいであった。長田は、実に粘り強かった。
ひとたび事を起こして全力を出し切ることなく頓挫するならば、それは人間としての最大の恥辱である。自己の信念に醜い汚点を残すことになる――こう自らに言い聞かせ、彼は力の限り、走り抜いた。
その必死な呼びかけが皆の心を動かした。
そして、「少年文芸懇話会」を設立したのである。一九三九年(昭和十四年)のことであった。
使命 四十六
「少年文芸懇話会」には、川端康成、大宅壮一、井伏鱒二、宇野浩二、小川未明、坪田譲治、豊島与志雄、村野四郎など、錚々たる作家や詩人が名を連ねた。
懇話会の代表は、長田若葉である。
会誌の『少年文学』も創刊し、新しい文学を創造しようとの息吹は高まっていった。
長田は、まず自らが、「新しい少年文学」の道を開くべきだと、長編小説『桜の国の少年』を書き上げた。
この本に、川端康成は序文を寄せ、児童文学にかける彼の熱意と努力を絶賛している。
時代は、軍国主義の嵐が吹き荒れていた。児童文学も厳しい検閲を受け、国威発揚のために利用されていった。
長田は、その暗雲の時代に、優れた児童文学を残そうと、子ども向けの本を編集した。
印刷用の紙の確保も難しいなかで、その発刊を引き受けてくれたのが、戸田城聖の経営する出版社であった。
やがて、終戦を迎え、自由な時代が訪れた。
しかし、長田は胸部疾患のため、数年にわたって療養生活を送らなければならなかった。
それでも、病と闘いながら着実に秀作を残し、児童文学者としての評価を高めていった。
だが、運命の怒濤は、さらに彼を襲った。心筋梗塞で倒れたのだ。五十代後半のことである。
なんとか一命を取り留め、二年間の療養生活を経て、ようやくペンが持てるようになったころ、若い女性編集者が訪ねてきた。
少年少女向けの月刊誌に、日本の伝説をもとにした物語を連載してほしいというのだ。
長田の体調は、まだ万全ではなく、執筆には強いためらいがあった。
彼女は瞳を輝かせ、情熱を込めて訴えた。
「今の子どもたちには夢がなくなりつつあります。子どもたちに夢を与え、勇気を与え、希望を与え、豊かな情操を培う作品を、ぜひ、お書きいただきたいのです」
その声には、一途さがみなぎっていた。
彼女の純粋な姿に、若き日の自分が重なって見えた。胸に、熱い血がわくのを覚えた。
彼は、執筆を約束していた。
この女性編集者は、女子部員であった。
使命 四十七
長田若葉は、打ち合わせに出版社を訪れた時、表にハイヤーを待たせておいた。自分の体を気遣い、すぐに自宅に帰るためである。
女性編集者は、それを知ると、長田の健康を祈り始めた。
児童文学の大家として地位や名声があっても、病気で苦しんでいる長田が、かわいそうでならなかった。
ある時、彼女は、意を決して、彼に、信心を勧めた。
「長田先生、仏法は、自分の最高の生命力を湧現させる法則なんです。また、宿命を転換し、崩れざる幸福を確立する生命の哲学です。
先生のこれまでの人生は、すばらしい業績で飾られていますが、さらにこれから、どんな人生にしていくかが、もっと大切だと思います。
私は、ぜひ先生に、健康になっていただきたいのです。そして、二十一世紀に生きる子どもたちの、心の財産となるような作品を、たくさん残してください」
娘のように若い編集者の訴えであったが、そこに彼女の真心を感じた。
また、彼は、戦時中、本の出版で世話になった戸田城聖が、学会の第二代会長になったことを、かつて、知人から聞かされていた。
“よし、この信心をしてみよう!”
入会して題目を唱えてみると、長田は、生命力がみなぎるのを感じた。次第に健康を回復していった。
また、仏法の深遠な生命哲理を学ぶにつれて、その仏法を基調にした人間主義の文学を創造したいとの思いを、深くするのであった。
そして、文芸部の結成の折には、喜び勇んで駆けつけたのである。
文芸部には、長田のほか、児童小説の名作『戦争っ子』の著者や、幼年童話の代表作『とけいの3時くん』や『まいごのドーナツ』で知られる作家など、著名な児童文学者が集っていた。
この文芸部の会食で、山本伸一は、児童文学の役割について語った。
「日本は経済成長に血眼になり、青少年の良き心を育む土壌が、汚染され、失われつつあることを、私は危惧します。
それだけに、未来をつくるうえで、児童文学が極めて重要になります」
使命 四十八
山本伸一は、力のこもった声で続けた。
「次代の建設とは、『人』をつくることであり、若い世代を育むということです。
それには、『心』を育てることです。人間としていかに生きるかということを教えることです。
そこに教育の根本的な使命がある。国家も、社会も、そのことに最大の力点をおくべきです。
そうでないと、一時期は経済的に豊かになっても、将来、必ず行き詰まります。
もしも、子どもたちの『心』が歪んでしまえば、やがて、社会を崩壊させることになります。『心』の育成を忘れた日本は、このままでは、三流国になってしまう。
私も、未来を担う青少年のために、全力をあげます。四十年先、五十年先を創るんです。
いつの時代でも、学会のリーダーは、後継の育成に全精魂を傾けなければならない――これは、私の遺言として語っておきたいんです」
長田若葉をはじめ、児童文学者たちは、大きく頷いた。
伸一は、そのメンバーに視線を注ぎながら、言葉をついだ。
「子どもの育成で、最大の役割を果たすのは家庭です。そして、母親が子どもを育てるうえで、児童文学が果たす比重は実に大きい。児童文学は最初の“人生の師”ともいえる。
だから私も、妻には、子どもに、たくさんの児童文学を読み聞かせるように言いました。
人格がつくられていく時に、親子で読むのですから、子どもも、一生涯忘れないでしょう。
児童文学の先生方は、どうか長生きをしていただき、さらに優れた作品を生み出してください。
私も、少年少女向けの童話や小説を書いていきますよ。一緒にやりましょう」
この時の約束を、伸一は忘れなかった。
五年後、初めての童話『少年とさくら』を発表したのに続いて、『雪国の王子さま』『お月さまと王女』『青い海と少年』など、相次ぎ童話を創作していった。
また、中学生向け小説として『ヒロシマへの旅』、高校生向け小説として『アレクサンドロスの決断』を発表したのをはじめ、少年少女のための小説も、次々と発刊していったのである。
使命 四十九
文芸部員の育成と激励に、山本伸一は心を砕き続けた。
翌一九七〇年(昭和四十五年)夏に行われた文芸部の研修会の折には、緑陰での懇談のひとときをもった。
また、常にメンバーの近況に注意を払い、研修会や部員会の折に、「泥沼の 蓮より開く 功徳かな」「かくすれば かくなるものと 修行かな」など、励ましの句を詠んでは贈った。
さらに、何人かのメンバーが本を出版すると、都内の一流ホテルなどに代表を招いて、合同出版記念会を開いた。
一緒に記念の写真も撮った。
七一年(同四十六年)に入ると、文芸部に書記長が誕生するとともに、東北、関西など四方面に、方面の文芸部長が任命され、組織も整備されていった。
中国の文芸部長になった礒村秀樹は、山口県の県立高校で教鞭をとりながら、燃えるがごとき情熱をもって、文筆活動に励む壮年であった。
東京帝大の学生であった時に、学徒動員で南方の戦線に送られ、九死に一生を得て生還。“残された人生を、詩にかけよう”と思った。
そして、詩誌『駱駝』を創刊し、五一年(同二十六年)には詩集『浮灯台』で、第一回山口県芸術文化振興奨励賞を受賞した。
さらに彼は、詩劇、ドラマ、童話でも、健筆を振るった。
六五年(同四十年)の春、礒村は、苦悩の底に叩き落とされた。
次男が突然倒れたのだ。血液の癌である急性骨髄性白血病であった。
ある日、家に帰ると、題目を唱える声が聞こえてきた。息子の病を治したい一心で、彼の妻が学会に入会したのである。
十三歳の次男の体は、高熱を発し、衰弱の極みにあった。
しかし、次男も、妻とともに仏壇の前に座り、澄んだ瞳で御本尊を見つめ、懸命に唱題していた。
その健気な姿に、礒村は「人間の強さ」を見た思いがした。
“私も一緒に祈ろう”
翌年の一月、彼も入会し、信心を始めた。
医師からは、生存は一カ月も保証できないと言われていたが、次男は三月まで生き、輝くような微笑を浮かべて、息を引き取った。
使命 五十
礒村秀樹は、次男の闘病と死から、生命の不可思議さを垣間見た思いがした。
彼は、懸命に仏法の生命の法理を学び始めた。
生命が三世永遠であることや、十界互具、色心不二、依正不二などの原理を学ぶにつれて、その深遠さに驚嘆した。
そして、この仏法を、自己の思想的な基盤として、新たな文学を創造していきたいとの思いをいだくようになっていったのである。
関西の文芸部長になった池中義介は、かつて、青果店を営んでいた。
その店先で次々と書き上げ、応募した懸賞小説が、相次いで入選し、作家としての道を歩み始めた人物であった。
神戸のラジオ局が開局すると、ラジオドラマを書き、それが八年間もの長寿番組となった。
さらに、テレビドラマの執筆、スポーツ紙への小説の連載等、寝る間も惜しんで書きに書いた。
彼は、自分の作品に、物足りなさを感じることもあったが、熟慮する余裕はなかった。
ともかく、書き続けていなければ捨てられてしまうという不安が、頭から離れなかった。
だが、四十代半ば、働き盛りの年代で、急性結核性肋膜炎で倒れた。
それが契機となって、学会に入った。一九六二年(昭和三十七年)一月のことである。
やがて病は癒えたが、池中は学会員と接するなかで、自分のこれまでの生き方に、疑問を感じるようになった。
“なんで学会員は、人のために、あれほど一生懸命になれるんやろう。苦しんどる人がいると、一緒に悩み、励まし、手を取り合って喜び合う。打算も、利害もない。
きれいごとを並べ立てたりはせえへんが、なりふり構わぬ誠実の行動がある。地に足が着いた善意を見る思いがする。
それに対して俺は、何をしてきたんやろ。なんのために働いてきたんやろか。
結局は、知名度や金といった、名聞名利ばかり求めて書いていたんやないか。
その揚げ句の果てが病気や。こんな自分から脱皮せなあかん”
彼は、「虚名」を追い求めるなかで、本当の自分を見失っていたことを痛感するのであった。
使命 五十一
池中義介を、さらに驚嘆させたのは、経済苦や病苦をかかえた学会員が、喜びにあふれて、学会活動に励んでいる姿であった。
それは、彼の価値観、人生観を、根底から覆すものでもあった。
“俺の幸・不幸のとらえ方は、あまりにも表層的で観念的やった。結局は、人間というものが、わかってへんかったんやないか。
これでは、本当に人を感動させる作品なんか、書けるわけあらへん”
以来、売れっ子作家はペンが持てなくなってしまった。いや、しばらくは、ペンを持つまいと思った。
彼は、学会の世界で一からやり直し、自分の生命を磨き、境涯を高めようと決意していた。真実の人間を見つめる「眼」を開こうと思った。
作品を書かなくなった池中の生活は困窮した。貴重な蔵書を売り、保険も解約し、生活をつないだ。しかし、彼は燃えていた。懸命に唱題し、書斎から飛び出して、学会活動に挑んだ。
倒産や難病を乗り越えて、人生の凱歌を高らかに歌う、たくさんの同志と語り合った。
何人もの子どもを育てながら仕事をこなす婦人や、海外雄飛を胸に描いて、町工場で働く青年とも対話を重ねた。
池中は、学会活動を通して、人間の輝き、人間の強さを知った。人間がもつ、無限の可能性を実感した。
彼の心の世界は、大きく変わっていった。生命の底から、創造の息吹がみなぎり始めていた。
文芸部が結成され、彼が第一期生の任命を受けたのは、ちょうど、そのころであった。
池中は、再び執筆を決意し、優れた人間洞察の歴史小説を、次々と発表していくことになる。
まさに、「妙とは蘇生の義なり」(御書九四七ページ)との仰せ通りの復活であった。
こうしたメンバーが中核となって後輩の育成にあたり、やがて、文芸部からは、日本を代表する作家や、各文学賞の受賞者、そしてまた、正義の言論の闘士など、多くの逸材が育っていくのである。
絢爛たる人間文化の創造――ここに創価学会の尊き大使命がある。
(この章終わり)