烈風 一
フランスの文豪ユゴーは叫んだ。
「昼となく夜となく戦い続けるのです。山も平野も森も戦うのです。立ちあがりなさい! 立ちあがりなさい! 戦いの手を休めてはなりません」(注)
山本伸一は、命を燃やして、走り、戦い続けていた。
彼は、この年(一九六九年)の五月の本部総会で、会長就任十周年となる明七〇年(昭和四十五年)五月三日までの目標として、会員七百五十万世帯の達成を発表したのであった。
それは、師の戸田城聖が宿願とした七十五万世帯の実に十倍である。
組織を盤石にし、仏法の人間主義に基づく社会建設の運動を多面的に展開しながら、その目標を成就するのは、決して容易なことではない。
しかし、広宣流布の大構想を実現していくためには、断じて成し遂げねばならぬ課題であった。
ゆえに伸一は、五体をなげうつ覚悟で、走り抜こうと心に決めた。
全国津々浦々の同志と会い、力の限り励まし、自分と同じ決意、同じ自覚で進んでくれる一騎当千の“勇将”を、何人つくるかが勝負であると、彼は思っていた。
伸一は、八月の夏季講習会を終えると、九月二日には、京都での関西幹部会に出席し、大阪、奈良、愛知と回った。
九月の中旬には北海道に飛び、十月の初旬は関西、四国に行き、下旬には東北を訪れている。
さらに、十一月に入ると、中部、関西、そして九州を訪問。十二月の初旬には、また、関西、中国、中部と回り、この折には、淡路島にも足を延ばした。
その間隙を縫うようにして、東京をはじめ、静岡、神奈川、山梨、茨城などの近県の会員の激励に奔走したのだ。
彼のスケジュールは、過密を極めた。しかも、どの地でも、会う人ごとに全魂の激励を重ねた。
移動の合間も、同志からの手紙や決裁書類に目を通し、書籍などへの揮毫は、連日、二百、三百を数えた。
激闘につぐ激闘で伸一の疲労は激しかった。十二月半ばには体調を崩してしまい、高熱が続いていた。だが、彼の勢いは、とどまるところを知らなかった。
烈風 二
一九六九年(昭和四十四年)十二月二十日、山本伸一は、新大阪に向かう新幹線のシートに身を委ねていた。
この年七度目の関西指導のためである。
彼の顔は、大きなマスクで覆われていた。熱は下がらず、口の中はいがらっぽく、咳も治まらなかった。だが、その胸には、闘魂が激しく燃え盛っていた。
伸一は、海外訪問の折などにも、何度か、体調を崩したことがあった。
しかし、これほど熱も高く、咳も激しいことはなかった。最悪のコンディションといってよい。
伸一の様子を見ていた同行の幹部は、心配そうに言った。
「かなり体調がお悪いようですから、もしもの場合を考え、奥様をお呼びし、付き添っていただいた方がよいのではないでしょうか」
伸一は、頷きながら言った。
「そうだな……。万全を期すためには、そうした方がいいね」
彼は、この関西指導に広宣流布の未来をかけていた。
関西がすべてに大勝利し、常に全国をリードする存在になれば、広宣流布の新しい流れが開かれることになる。
なぜなら、それは、各方面が中心となって、学会を牽引していく、地方の時代の幕開けを意味するからだ。
それだけに、この関西訪問は、なんとしても大成功させなければならなかったのである。
伸一は、前々日、峯子をはじめ、家族を呼ぶと、強い語調で言った。
「私は関西に行くが、私の体は最悪の状態にある。場合によったら途中で倒れたり、入院したりするようなことがあるかもしれない」
長男の正弘は十六歳、久弘は十四歳、弘高は十一歳である。
皆、父の思いを必死で受け止めようと、食い入るような眼差しで、伸一を見ていた。
彼は言葉をついだ。
「しかし、私は行く。今、関西は、広宣流布の未来のために、断じて勝たねばならぬ正念場の時を迎えているし、関西の同志が私を待っている。その気持ちを踏みにじるわけにはいかない。
戸田先生も、倒れてもなお、広島に行こうとされていた。私も弟子として、広宣流布の歩みを止めるわけにはいかない」
烈風 三
山本伸一は、峯子と子どもたち一人ひとりに、じっと視線を注いだ。そして、覚悟を促すように言った。
「だから何が起ころうが、どんなことになろうが、決して驚いたり、慌てたりしてはいけない」
妻も子も、意を決したように、深く頷いた。
また、伸一は、途中で倒れたり、発熱などのために、会合で話ができなくなってしまった場合のことも考慮し、周到に準備をした。
東京・杉並方面の幹部会(十二月九日)で、強き信心と団結こそが勝利の原動力であることを訴えた、講演のテープを用意したのだ。
いざという時には、これをかけようと考えたのである。
いかなる事態になろうが、絶対に同志を奮い立たせる――その強い一念が、緻密な準備となっていったのである。
大ざっぱであったり、漏れがあるというのは、全責任を担って立つ真剣さの欠如といってよい。
絶対に失敗は許されないとの強い決意をもち、真剣であれば、自ずから緻密になるものだ。
伸一が峯子を呼ぶことに同意したのも、万が一のことを考えてのことであった。
関西では、二十二日までの三日間で、大阪、和歌山、奈良と回り、二十三日には三重を訪問する予定であった。
時刻は、午後三時半を回っていた。間もなく、新大阪駅である。
この日は土曜日とあって、午後五時から、東大阪市の市立中央体育館で関西幹部会が行われることになっていた。
休む間もなく、すぐに会場に向かわなければならない。
高熱と咳に苦しむ伸一を見ていた同行の幹部の関久男が、改まった口調で言った。
「山本先生! 今日の関西幹部会は、私たちで行いますので、先生は休養なさっていただければと思いますが……」
関の隣にいた、森川一正も言った。
「ぜひ、そうしてください」
伸一は言下に答えた。
「いや、行くよ。苦楽をともにした最愛の関西の同志が待っているんだ。出席しないわけにはいかないよ。私は、そのために来たんだもの」
烈風 四
毅然とした山本伸一の言葉に、同行の幹部たちは、それ以上、何も言えなかった。
午後三時四十分、一行は新大阪駅に到着した。
オーバーの襟を立て、大きなマスクをした伸一の姿を見て、駅に出迎えた関西の幹部は、驚きを隠せなかった。
「どうも、ご苦労様! 風邪をこじらせちゃってね……」
伸一は、努めて明るい声で言った。しかし、その目は、充血して赤かった。
いつもなら彼は、出迎えた幹部に活動の状況などを詳細に尋ねたが、この日は、黙って車に向かった。
彼をよく知る、関西の中心者である春木征一郎は、この瞬間、伸一の体調が、かなり悪いことを感じ取った。それにもかかわらず、山本会長が関西入りしてくれたことに、春木は胸が痛んだ。
車中、伸一は、悪寒と戦っていた。
車内は暖房がきいていたが、それでも体は、ワナワナと震えた。
車は、一時間余りで、関西幹部会の会場である東大阪市の体育館に到着した。
幹部会の開会時刻が迫っていた。
同行の幹部は言った。
「先生。会合は私たちで始めておりますので、控室で、お休みになってから、おいでください」
「わかった。そうさせてもらおうか」
伸一は、少しでも、体調を整える時間がほしかった。
会場では、関西幹部会の開会が宣言された。
伸一は、控室のソファに横になった。
喘ぐように、肩で大きな息をしている伸一を見て、控室にいた数人の関西の幹部は思った。
“これは、えらいこっちゃ! 幹部会出席は無理とちゃうやろか”
だが、しばらくして荒い呼吸が治まると、彼はスッと立ち上がった。
「さあ、行こう!」
伸一が、壇上に姿を現した。
嵐のような歓声と拍手がうねった。
彼は、参加者に一礼して、席に向かった。その足の運びは、いつものように速かった。
“先生はお元気や!”
皆がそう感じた。
ひとたび戦いに臨んだならば、同志に心配などかけては絶対にならないというのが、伸一の決意であった。
烈風 五
壇上後方には「第2の10年へ勝利で船出」の文字が躍っていた。
山本伸一が入場してほどなく、総務の関久男のあいさつが終わった。
会長講演である。
演台に向かうと、伸一は言った。
「最初に、大勝利の船出への決意を込めて、シュプレヒコールをやりましょう!」
皆が立ち上がった。
「関西は、大勝利するぞ!」
力強い伸一の声に、参加者が続いた。
皆の目には、高熱のために赤らんだ彼の顔も、元気さゆえの、血色のよさと映った。
それから伸一は、「聖人知三世事」や「四条金吾殿女房御返事」等の御書を拝して、指導していった。
「日本の命運を担い、世界平和を建設する民衆勢力を築き上げるのは、私たちしかおりません。
そう確信して、獅子王の気風、気概をもって、前進していこうではありませんか!
大聖人は、『大将軍よは(弱)ければ・したがうものも・かひなし』(御書一一三五ページ)と仰せですが、この御文は指導者論として拝することができます。
幹部に、勇気も情熱もなく、心が弱ければ、誰もついてこない。勝負はリーダーの一念によって決まるということです。
まさに、『弓よはければ絃ゆるし・風ゆるければ波ちゐさきは自然の道理なり』(同)と仰せの通りです。
どうか、大将軍たる皆さんの題目の大風で、広宣流布の新しい波動を起こしていっていただきたいのであります。
私は、いよいよ関西の同志が、全学会の金字塔を打ち立てる時代が到来したと、強く確信しております」
気迫にあふれる指導であった。
怒濤のような、決意の大拍手がわき起こった。
幹部会の最後は、青年部幹部、そして、同行の総務らの指揮で、学会歌を合唱した。
司会が閉会を告げようとした時、「先生!」という声があがった。伸一に学会歌の指揮をとってほしいとの要請である。
伸一は、ニッコリと頷いた。
「わかりました。やりましょう!
それでは、大阪の歌である『嗚呼黎明は近づけり』を歌おう!」
烈風 六
山本伸一は扇を手にして、再び立ち上がった。
大拍手が彼を包んだ。
勇壮な調べが流れた。
伸一の体調を知る同行の幹部らは、飛び出して行って、学会歌の指揮をやめさせたかった。
だが、伸一は、悠然と指揮をとり始めた。
同行の幹部は、無事に終わるように心で唱題しながら、ハラハラして見ているしかなかった。
大鷲が天空を舞いゆくかのような、力強い、さっそうたる指揮である。
参加者は、その姿に感極まった。皆、大勝利、大前進を心に誓いながら伸一の舞に合わせ、力いっぱい手拍子を打ち、声を限りに熱唱した。
集った関西の同志の闘魂は燃え上がり、意気天を衝く勢いであった。
皆、山本会長に生命力を注がれ、蘇る思いがした。だが、伸一にとっては、文字通り、命を削っての指揮であった。
彼は、控室に戻ると、倒れるように、ソファに体を横たえた。全身から力が抜けた気がした。
“一時も早く、山本先生にお休みいただかなければ……”
同行の幹部は思った。
伸一が起き上がれるようになるのを待って、急いで、車で関西文化会館に向かった。
伸一は、悪寒による震えに襲われ続けた。
ようやく関西文化会館に到着したが、まだ布団も敷かれていなかった。
寝具が用意されると、伸一は上着だけ脱ぎ、ワイシャツにズボンのまま布団に入った。
「寒いな。シベリアに来たようだよ」
湯タンポも用意されたが、発熱による寒気は治まらなかった。
そのなかでも伸一は、関西の同志のことを気遣い、同行の幹部に尋ねるのであった。
「みんな元気で帰っていったかな……。明日は和歌山だね。大事だな」
彼の心は、既に和歌山へ飛んでいた。
ほどなく、妻の峯子が到着した。午後七時前であった。
峯子は、伸一の容体を知ると、春木征一郎の妻で関西の婦人部の幹部である文子に言った。
「お医者さまに、往診をお願いできないでしょうか」
春木文子は、誰に頼めばよいのか困惑したが、守口市に住む学会員の開業医に電話をした。
烈風 七
医師は、「すぐには行けないが、なるべく早く駆けつけましょう」とのことであった。
三、四十分すると、山本伸一の看護をしていた峯子が、また、部屋から出てきた。
いつも、決して笑顔を絶やさない峯子が、春木文子に、切迫した顔で尋ねた。
「お医者さまは、まだでしょうか……」
春木は、峯子の表情から、山本伸一の病状は、容易ならぬ事態であることを感じ取った。
医師が着いたのは、午後八時前であった。直ちに診察が始まった。
伸一は、咳が出て胸が締めつけられる感じがすることを告げた。
医師が体温を測った。
四〇度五分――。
大変な高熱である。口の中も、熱のために真っ白になっていた。
聴診器を伸一の胸に当てた。
バリバリという異常な呼吸音が聞こえた。
“これは、ひどい!”
医師は思った。
肺が、かなり炎症しているにちがいない。
急性気管支肺炎と診断を下した。
抗生物質の注射をし、薬を飲ませ、しばらく様子を見ることにした。
峯子は、医師の処方した薬を、一つ一つ確認すると言った。
「この薬とこの薬は、副作用が強すぎて、主人の体には合いません」
医師は、驚きを隠せなかった。
“山本会長の体質を知り尽くしておられる。また、薬に対する知識も豊富だ。日々、会長の健康を気遣い、献身的に支え続けてこられたにちがいない……”
しばらくして、容体を見に来た医師に、伸一は念を押すように言った。
「明日は和歌山に行くんだが、行けるね!
みんなが待っていてくれるので、どうしても行かなければならない。大丈夫だね!」
翌二十一日の夕刻、和歌山県立体育館で行われる幹部会に、彼は出席することになっていた。
医師は答えに窮した。当然、とても行ける状況ではない。いや、行かすわけにはいかないと思った。
しかし、伸一の気迫に押され、駄目だとは言えなかった。
また、空気のきれいな和歌山の方が、体によいのではないかという考えが頭をよぎった。
烈風 八
医師は、口ごもりながら答えた。
「お行きになるには、やはり、熱が三八度以下に下がりませんと……」
しかし、無理だろうと医師は思った。
それを聞いた山本伸一の目が光った。
「そうか。三八度以下だね!」
それから、一時間ほどしたころ、医師は、また体温を測った。
三九度八分――わずかながら下がっていた。咳も治まっていた。
伸一は医師に言った。
「ありがとうございます。楽になりました。
今晩はもう結構ですから、明日、また診察してください。
急にお呼び立てして、すいませんでした」
自分は高熱に苦しみながらも、ねぎらいの言葉をかける伸一に、医師は感動を覚えた。
「では、明朝まいります。今夜は、絶対に安静にしていてください」
医師が帰ると、伸一は峯子に言った。
「どうしても和歌山に行ってあげたい。断じて行くぞ!」
彼は、一晩中、寝汗をかき続けた。何度も下着を取り換え、遂に、着替えがなくなってしまうほどであった。
寝ていても、うとうとするだけで、すぐに目を覚まし、熟睡することはなかった。
隣の控えの間では、峯子が小声で懸命に唱題しながら、神経を研ぎ澄まして、伸一の部屋の音に耳をそばだてていた。
――部屋からは、伸一の「ヒュー、ヒュー」という、苦しそうな息遣いが聞こえてくる。
彼女は、居ても立ってもいられない気持ちであった。とうとうこの夜は、一睡もせずに、題目を唱え続けた。
朝が来た。
伸一は起きようとした。熱は下がっているようだ。だが、体に力が入らなかった。
前日から食事らしい食事をしていないからであろう。しかし、食欲はない。
少しでも体力をつけなければと思ったが、スープを口にするのがやっとだった。
スープを飲み終えた伸一に、峯子は伝えた。
「さきほど、総務の森川さんたちが来られて、『和歌山には私たちだけでまいろうと思いますので、先生は、どうかお休みください』と、言われていました」
烈風 九
山本伸一は、黙って、再び布団に身を横たえ、目を閉じた。
峯子は、伸一は和歌山行きを断念してくれたのかと思った。
長い戦いである。彼女は、内心、ほっとした。
だが、伸一は、決してあきらめたわけではなかった。絶対に和歌山に行こうと唱題しながら、必死に病魔と闘い続けていたのだ。
「南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さは(障)りをなすべきや」(御書一一二四ページ)との御文が、彼の頭にこだましていた。
“こんな病に、負けてたまるか!”
彼は、心で叫びながら、真剣に祈った。
汗が体から噴き出すのがわかった。
午前十一時過ぎ、伸一は閉じていた目を開け、時刻を尋ねた。
それから、下着を取り換えた。
待機していた医師が、「お目覚めのようですので、診察をさせていただきます」と言って、部屋に入って来た。
まず、脈をとり、体温を測った。一瞬、驚いた顔をした。
「何度ですか」
「三七度八分まで下がっております」
伸一の顔が輝いた。
「じゃあ、和歌山に行けますね!」
「はあ……」
聴診器をあてた。その顔が曇った。
肺からは、相変わらず、異常な呼吸音がしていたからだ。
医師は顔を上げると、口を開いた。
「行けないことはないと思いますが……」
そこまで聞くと、伸一は笑みを浮かべた。
「そうか。よかった」
医師は、慌てて付け加えた。
「しかし、注射で辛うじて、小康状態を保っているだけですから、基本的には、安静にしていなければなりません」
「わかりました。十分に注意します」
ともあれ、和歌山行きは決まった。
それは、同行の幹部らにも伝えられた。
伸一の昼食が用意されたが、やはり、ほとんど喉を通らず、彼はすぐに箸を置いた。
そのあとも、伸一は布団に入り、体を休めた。
それを聞いた同行の幹部は、心配でたまらなかった。","20030515","20030516","20030516"
烈風 十
森川一正は、関久男に言った。
「先生は、本当に和歌山に行くことができるんだろうか」
関は、沈痛の表情で答えた。
「先生が行くと言われたんだから、必ず行かれるだろう。
しかし、無理に無理を重ねての決行であることは間違いない」
「そうだな……。
関さん、もう一度、先生に、和歌山行きを中止していただくようにお願いしてはどうだろうか。
先生は、自ら命を削ろうとされている。私たちは、門下として、それを黙って見ていて、いいわけがない。
たとえ叱られても、申し上げるべきではないだろうか」
関は、静かに答えた。
「私も、そう思う。
ただ、私たちには、先生の代わりなんてできないよ。
昨日の関西幹部会だって、先生がご出席になって、あれだけ指導され、学会歌の指揮までとってくださったから、皆が涙を流し、心から決意することができたんだ。
不甲斐ない話ではあるが、私たちが行きますと言っても、結局は、何もできない。だから、正直なところ、どうすればよいのか、迷っていたところなんだよ」
森川は、頷きながら言った。
「それは、そうだ。
もちろん、和歌山の同志だって、先生が訪問されなければ、私たちが何を叫ぼうが、がっかりするだろう。
でも、和歌山の同志への、先生のお気持ちと病状を、ありのままに伝えれば、皆、きっと納得してくれると思う。
そして、健康を回復したら、先生は必ず来てくださるから、その時をめざして戦おうと、全力で訴えれば、立ち上がってくれるはずだ。
ともかく今は、先生にお休みいただき、元気になっていただくことを、最優先して考えるべきではないだろうか」
「そうだな。そうするしかないな」
代表して森川が進言することになった。
布団に体を横たえる山本伸一に、彼は訴えた。
「先生、お話がございます。率直に申し上げますが、どうか、今日だけは、ぜひ、ご静養なさってください」
烈風 十一
山本伸一は、布団から体を起こし、森川一正の顔を、じっと見すえた。
次の瞬間、気迫に満ちた彼の言葉が響いた。
「もしも、広宣流布の戦いのなかで倒れるならば、仏法者として本望じゃないか。
私は、力の限り走り抜くぞ。出発だ!」
午後二時四十分、伸一は、関西文化会館を出発した。
彼は、厚手のオーバーの襟を立て、首にはマフラーを巻き、ソフト帽を目深に被っていた。さらに、その顔は、マスクに覆われていた。
車で、国鉄(現在はJR)の天王寺駅に出て、そこから鉄路、和歌山に向かった。
列車には医師も同乗していた。時折、心配そうな顔で、山本会長の様子をうかがっていた。
座席にもたれる伸一の胸には、和歌山の愛する同志の顔が、次々に浮かんでくるのであった。
下車駅の和歌山駅までは、急行で五十分ほどの距離である。しかし、今の彼には、遠い道のりであった。
山本会長が和歌山に向かったという知らせは、直ちに、和歌山総合本部長の長山嘉介にも伝えられた。
長山は、会長一行を出迎えに、小躍りしながら和歌山駅に向かった。
彼は、山本会長の和歌山訪問を、待ちに待ち続けてきたのだ。
ところが、この日の早朝、関西の幹部から、相次ぎ電話が入った。
山本会長の体調が優れないので、和歌山には行けなくなるかもしれないというのである。
長山は、前日も、山本会長の体調がよくないという連絡を受けていた。
しかし、東大阪での関西幹部会では、山本会長は力強い指導のあとに、学会歌の指揮までとってくれたと聞いていた。その会長の体調が、それほど悪いとは、どうしても思えなかった。
和歌山では、山本会長を迎えるとあって、皆が懸命に、唱題に励み続けていた。
伸一の容体がよくわからない長山は、関西の幹部から電話を受けるたびに、こう答えた。
「ともかく、和歌山の同志は、山本先生のご来訪をお待ちしております。それだけ、お伝えください」
電話をした幹部は、頭を抱えた。
烈風 十二
長山嘉介は、これまで山本伸一と会うたびに、「ぜひ、和歌山に来てください」と頼んだ。訪問を念願して、出した手紙も、数知れなかった。
伸一も「必ず行きます」と約束していた。
だから長山は、幹部からどんな事情を聞かされても、“山本先生は絶対に来てくださる”と、強く確信していたのだ。
彼は、喜びに胸を弾ませながら、駅のホームで山本会長一行の到着を待った。
列車が止まり、一行がホームに降りた。
伸一の顔は、大きなマスクで覆われていた。
いつもは毅然として、速足で歩く山本会長とは別人のように、歩みも遅かった。
長山の胸は詰まった。
“先生は、こんなお体なのに、わざわざ和歌山まで、おいでくださったんだ。私が、無理強いしてしまったんだ”
彼は、感動とともに、自責の念に苛まれた。
「先生、本当に申し訳ございません……」
あとは言葉にならなかった。
だが、伸一は、目に笑みをたたえて、大きく頷いた。
「約束だから来たよ」
幹部会の会場である和歌山県立体育館に向かう前に、まず、和歌山会館に寄り、休憩することになっていた。
伸一は、会館の階段を上るにも、何度も手すりにもたれて、息を整えねばならなかった。
熱が下がり始めているせいか、今日は悪寒はなかったが、汗が噴き出して、痰が喉に詰まり、ひっきりなしに咳込んだ。
峯子は、伸一が少しでも食事をとり、体力をつけるようにしなければならないと思った。
会館には、カレーライス、そして、オニギリが用意されていた。
伸一はカレーが好きだと聞いた、関西の婦人部の幹部が、真心で作ったものであった。
しかし、彼は、まだカレーを口にする食欲はなかった。作ってくれた人のことを考えると、申し訳ない気がした。
伸一は、何もいらないと言ったが、峯子は、せめてオニギリだけでも食べられないかと思った。
そして、口に入れやすいように、なるべく小さく握り直した。
ようやく、伸一は食事をとった。
「もう大丈夫だよ」
彼は微笑んだ。
烈風 十三
医師がまた、山本伸一の体を診察した。
体温を測った。
熱は三七度二分まで下がっていた。
だが、肺炎そのものが治っているわけではない。注射と薬で熱や咳を抑えているだけである。動けば、また、症状は悪化してしまう。
診察を終えると、力強い声で伸一は言った。
「よし、幹部会へ行こう!」
その声には、獅子吼を思わせる響きがあった。
彼が会場の県立体育館に到着したのは、午後五時十五分であった。
開会までは、まだ十分に時間があったが、体育館は、既に、ぎっしりと人で埋まっていた。
「山本先生に、お会いできるというので、みんな早くから、大喜びで集まって来たんです。それで、開会の一時間以上も前に、いっぱいになってしまいました。
もう、来るべき人は、皆、来ているようです」
地元の幹部の報告を聞くと、伸一は、直ちに開会するように告げた。
同行の幹部は、「先生はご指導の直前まで、控室で休んでください」と厳命するような口調で言った。
彼は、控室に入ったが、お茶を一杯飲むと、すぐに席を立ち、会場に向かった。
開会してほどなく、壇上に、山本会長が姿を現した。
割れんばかりの拍手が場内にこだました。
「先生!」
皆が叫んだ。立ち上がって、ハンカチを振る人もいた。
幹部会は、喜びが弾むなか、総務の春木征一郎や森川一正が、次々とあいさつに立った。
関久男は、山本会長が高熱を押し、皆の反対を押し切って、和歌山を訪問したことを語った。
しかし、誰も、関の話を深刻には受けとめなかった。目の前に、悠然と微笑を浮かべた伸一がいるのだ。
皆、今は、すっかり健康を回復したものと、信じて疑わなかった。
やがて、伸一の講演となった。
「会長講演!」
伸一は立ち上がろうとした。
その時、続けざまに咳が出た。咳は止まらなかった。このままでは、話をすることは難しい。時間がほしかった。
烈風 十四
咳をこらえながら、山本伸一は言った。
「テープをかけよう」
東京から持ってきたテープが、事前に届けられているはずであった。
だが、テープはすぐにはかからなかった。準備の間、音楽隊の演奏が行われた。
用意が整った。テープが回り、伸一の力強い声が流れた。
名声や見栄などにとらわれた“虚像”の幸福観を捨てて、自身の人間革命を成し遂げ、社会に大きく貢献する栄光の人生の闊歩を――と呼びかけた指導であった。
続いてスピーカーからは、詩を朗読する伸一の声が流れた。
『大白蓮華』(一九七〇年一月号)に掲載された、彼の「七〇年代へ勇躍前進」の詩である。
…………
私は断じて たじろぐまい
堅忍不抜の 剛勇をもって
煉獄の 黒い雨のなかに跳び入ろう
陸続とつづけ! 使命の徒よ
混沌と 破壊の 真っ只中に
創造の躍動を 切りひらきゆくのだ
その詩句と声の響きには、会長就任十周年の佳節の年に幕を開ける七〇年代に、断固、人間主義の勝利を打ち立てんとする伸一の、烈々たる決意がみなぎっていた。
その会長が今、自分たちの眼前にいると思うと、皆の心は躍った。
テープが終わった。伸一の咳は治まっていた。彼は、すっくと立ち上がった。
雷鳴のような拍手が轟いた。
「和歌山の皆さん、しばらくです。お元気ですか!」
「はーい!」
皆の声が一つになってこだました。
「元気がないのは、ぼくだけなんだな。風邪ひいちゃったんですよ」
「先生、頑張って!」
声があがった。
「そうだ! 頑張らなくちゃ! よし、みんなでシュプレヒコールをやろう!」
和気あいあいとした雰囲気に場内が包まれた。
伸一は、拳を握ると叫んだ。
「和歌山は戦うぞ!」
歓喜にあふれた皆の声が潮騒のように響いた。
烈風 十五
「和歌山は、断じて勝利するぞ!」
「和歌山を見ろ!」
参加者は頬を紅潮させながら、山本伸一の言葉を復唱していった。
シュプレヒコールに続いて伸一は、鼓笛隊や音楽隊、高等部員などに、次々とねぎらいと励ましの声をかけた。皆の緊張はほぐれ、心は一つにとけ合っていった。
伸一は、「呵責謗法滅罪抄」などの御書を拝しながら、無名の民衆のなかから起こった妙法の新しき力に対して、いわれなき中傷や迫害があるのは、仏法の法理に照らして、当然の現象であると述べた。
そして、その種々の難に挑み、戦っていくなかにこそ、大功徳、大福運を受け、宿命転換、一生成仏を遂げゆく直道があることを語り、こう訴えたのである。
「権力には、人間を支配し、隷属化させようという魔性があり、民衆勢力の台頭を必ずや阻もうとします。ゆえに、民衆が賢明になり、強くなることです。
民衆が“王”となる、真の民主主義の時代を築く戦いが、私どもの広宣流布であり、その大リーダーこそが、皆様なのであります」
また、「種種御振舞御書」の「日蓮によ(依)りて日本国の有無はあるべし、譬へば宅に柱なければ・たもたず人に魂なければ死人なり」(御書九一九ページ)の御文を拝して、宗教と社会の関係について語っていった。
「教育にせよ、政治にせよ、そこには人間の考え方が反映されている。そして、その考えの根本となるのが宗教です。ゆえに宗教は、時代、社会を決定づけていきます。
では、人間疎外が指摘され、公害が蔓延し、混沌とした現代社会を救いゆく教えは何か。
それは、日蓮大聖人の生命の大法理しかない。
その法理のもと、人間主義の旗を掲げ、社会の建設に立ち上がったわが創価学会こそ、国家、社会を支える黄金の“柱”なのであります。
どうか、私たちの宗教運動、民衆運動こそ、人間を蘇生させ、社会と時代にみずみずしい活力を与えることができる、唯一の力であることを確信していただきたい。
そして、皆が心を合わせ、一波が万波を呼ぶように、さらに大きな広宣流布の潮流を起こそうではありませんか」
烈風 十六
全魂を傾けての、山本伸一の講演であった。
時間は十分、十五分、二十分と過ぎていった。
妻の峯子も、医師も、同行の幹部たちも、ハラハラしながら、講演する伸一を見ていた。もう限界は、超えているはずであった。
“とにかく早くやめていただきたい”
それが医師の、偽らざる気持ちであった。
伸一の話は、二十四分に及んだ。
式次第は、学会歌の合唱に移った。
総合本部長の長山嘉介の指揮で、「威風堂々の歌」を合唱したのに続いて、関久男や森川一正など、総務四人の指揮で、「嗚呼黎明は近づけり」を歌った。
学会歌を合唱している最中も、伸一は高齢者の姿を見つけると、舞台の下まで招いて、激励の念珠などを贈り、握手を交わして励ました。
合唱が終わるや、会場のあちこちで「先生!」という叫びが起こった。
「学会歌の指揮をとってください!」
ひときわ大きな声が響いた。伸一は笑顔で頷いた。
その時である。喉に痰が絡み、彼は激しい咳に襲われた。
口を押さえ、背中を震わせ、咳をした。五回、六回と続いた。
一度、大きく深呼吸したが、まだ、治まらなかった。
苦しそうな咳が、さらに立て続けに、十回、二十回と響いた。
演台のマイクが、その音を拾った。
咳のあとには、ゼーゼーという、荒い呼吸が続いた。皆、心配そうな顔で、壇上の伸一に視線を注いだ。
だが、彼は、荒い呼吸が治まると、さっそうと立ち上がった。
「大丈夫ですよ。
それじゃあ、私が指揮をとりましょう!」
歓声があがった。
「皆さんが喜んでくださるんでしたら、なんでもやります。私は、皆さんの会長だもの!」
大拍手が広がった。
「なんの歌?」
「武田節!」
「よーし、やるぞ!」
音楽隊の奏でる、力強い調べが響いた。
「おやめください!」
舞台のソデで医師が言ったが、その声は、参加者の力のこもった手拍子にかき消された。
烈風 十七
甲斐の山々
日に映えて
われ出陣に憂いなし
…………
(作詞・米山愛紫)
山本伸一は、扇を手に舞い始めた。
それは、天空を翔るがごとき、凛々しき舞であった。
“病魔よ、来るなら来い! いかなる事態になろうが私は闘う!”
伸一は、大宇宙に遍満する「魔」に、決然と戦いを挑んでいた。
峯子は、指揮をとる伸一を見て、必死に唱題していた。
“絶対に倒れませんように……”
彼女は、広宣流布のために生き抜かねばならぬ伸一に代わって、病は自分が引き受けたいと思い続けてきた。事実、“病魔よ、私に集まれ”と祈ったこともあった。
しかし、ある時、妻の心を見抜いた伸一から、「それは違うよ。自他共に健康になろうと願うのが、真の仏法だよ」と、たしなめられた。
以来、そうした祈りは改めたが、代われるものなら、すべて自分が引き受け、伸一には、元気に広宣流布の指揮をとり続けてほしいという、峯子の思いは同じであった。
和歌山の同志は、伸一の気迫の指揮に、胸を熱くしていた。
“先生は、あんなお体なのに、指揮をとってくださっている!”
どの目も潤んでいた。
なかには、彼の体を気遣い、“先生! もうおやめください!”と叫びたい衝動をこらえる婦人もいた。
皆が、涙のにじんだ目で、この光景を生命に焼き付けながら、心に誓っていた。
“私も戦います! 断じて勝ちます!”
そして、力の限り手拍子を打ち、声を張り上げて歌った。
感涙にむせびながらの大合唱が終わった。
わき起こる大拍手のなか、閉会が告げられた。
伸一は上着を取ると、右手を高く掲げて、皆に言った。
「では、また、お会いしましょう!
いついつまでも、お元気で!」
大歓声がうねった。
伸一は、いつもと変わらぬ様子で退場した。
だが、舞台のソデの階段を下り始めた時、フラッとして足がもつれた。
烈風 十八
山本伸一は、すべての力を使い果たしていた。
だが、彼は、倒れかかった体を起こすと、笑みを浮かべて、茶目っ気たっぷりに、周りの人に言った。
「もう、ヘトヘトなんですよ。なんでも、やってしまうものですから、疲れちゃいました」
誰にも心配をかけたくなかった。
伸一は、控室には戻らず、そのまま車で、宿舎に予定していたホテルに向かった。
シートに身を沈めながら彼は思った。
“勝った! これで和歌山も、新しい十年に向かって、大きく飛翔できるにちがいない。私は、今日の日のことは、永遠に忘れないだろう”
疲労は激しく、体がどこかに吸い込まれていくような感じがした。
しかし、それは全精魂を注ぎ、自らを完全燃焼させた、満ち足りた、心地よい疲れであった。
この夜、医師には大阪に戻ってもらった。開業医である医師に、これ以上、迷惑をかけたくなかったからだ。
翌二十二日、山本伸一は、奈良県橿原市の奈良本部で行われる、奈良総合本部の指導会に向かった。
またしても、彼は悪寒に襲われていた。体に数枚タオルを巻き、カイロを二つ入れての、奈良訪問となった。
しかし、ここでも「■<撰の己が巳>時抄」等の御文を拝するとともに、団結の大切さなど、約三十分間にわたって、全力で指導を重ねたのである。
「決意を固めても、旧習の壁の厚さなどから、ともすれば、『とても広宣流布はできない』と思い込んでしまう。実は、その心こそが最大の“敵”なんです。
それに打ち勝って、自分の弱さを破り、油断、惰性を排して、前進していくために、同志のスクラムが大事になる」
奈良の発展を願い、情熱を込めて訴える伸一を見て、彼が病魔と闘い続けていることに気づく人はいなかった。
夜、大阪に戻った伸一を、医師が直ちに診察した。熱は三八度ほどであった。
だが、伸一は、笑顔で言った。
「ありがとう。お陰さまで、随分よくなりました。これなら戦えます。明日は三重なんですよ」
烈風 十九
山本伸一の日々は、まさに、“間断なき闘争”であった。一日として、いな、一瞬として、手を抜くことなど許されなかった。
民衆の大地に幸福の花々を咲かせ、平和社会を建設する、広宣流布という未聞の作業が、容易であろうはずがない。それは、全力を傾けた、絶え間なき前進によってのみ、可能となるのだ。
山本伸一の捨て身ともいうべき行動から、関西の首脳幹部たちは、その精神を生命に刻んでいったのである。
二十三日、大阪から三重に向かった伸一は、午後二時前、松阪市の松阪会館を訪問した。
ここには四百人ほどのメンバーが集っていた。
彼は、「開目抄」の一節を拝し始めた。
「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけん」(御書二三四ページ)
この御文を、初めて耳にした人もいた。
詳細な意味はわからなくとも、難が競い起こることを述べられた御文であることは、誰にもわかった。
御書を拝する伸一の声が厳として響いた。
「つた(拙)なき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」(同)
伸一は、強い力を込めて語った。
「この御文を、本当に身で拝することができれば、仏法の真髄を実践したことになります。
この御文を、皆様方は、これからの、また、生涯の指針としていただきたい。
その人こそが、日蓮大聖人の本当の弟子であります」
彼は、この御文を講義していった。
「『我並びに我が弟子』――ここには師弟不二の大精神があります。
大聖人とともに、師と同じ決意で、広宣流布に邁進する人こそが、真実の弟子です。
信心は、立場や肩書とは関係ありません。すべては自分の『志』で決まります。
そして、師とともに前進していく師弟不二の実践のなかに、一生成仏の道があるんです
烈風 二十
山本伸一は、大きな深呼吸をした。息が苦しいのである。
「『諸難』というのは、さまざまな難です。
隣近所から、悪口を言われることもあるでしょう。また、マスコミから叩かれることもあるでしょう。
さらに、権力やあらゆる勢力が、学会を潰そうと躍起になり、巧妙な画策や謀略をしかけてくることもあるでしょう。
しかし、どんなことになろうが、いかなる現象が起ころうが、絶対に信心に疑いをもってはならない。
題目を唱え抜き、唯一の広宣流布の団体である学会とともに、断じて進んでいくんです。
疑いの心がなければ、信心の一念が揺るがなければ、『自然に仏界にいたるべし』と仰せのように、一生成仏は間違いありません。
最後は、大功徳、大福運をつけ、最高の幸福境涯に至ります。
したがって、天の加護がなく、辛い思いや苦しい思いをしたからといって、疑ってはいけない。また、批判や迫害にさらされ、現世が安穏でないからといって、決して嘆いてはいけない――と仰せになっているんです」
伸一は、メンバーに視線を注いだ。皆、真剣な顔であった。
「しかし、大聖人は、そのように、わが弟子たちに、朝な夕な教えてきたけれども、いざ大難が起こると、皆、信心を捨ててしまったと、嘆かれている。
そして、弱い者の常として、最も大事な『まことの時』になると、約束したことを忘れてしまうものなのである――と、述べられている。
『いざという時』にどうするか。実は、その時にこそ、日ごろの信心が表れるんです。
いつも、いい加減な人が、いざという時にだけ、急に強信になれるわけがありません。
柔道や剣道だってそうでしょう。稽古もせず、練習で負けてばかりいる人が、試合の時だけ達人になれるわけがない。
だから、普段の信心が大事なんです。日々、忍耐強く、黙々と、水の流れるように信心に励むことです。自分の生命を、磨き、鍛え抜いて、信心への絶対の確信を培っておくことです。
それができてこそ、大事な時に、大きな力が出せるんです」
烈風 二十一
一人ひとりの決意を促すように、山本伸一は語っていった。
「『いざという時』とは、個人にとっては、自分や家族が大病にかかったとか、不慮の事故、事業の倒産に遭遇するなどといった、一大事の時がそうです。
これは、自分の過去遠遠劫からの宿業が出たことであり、まさに宿命転換のチャンスなんです。
また、信心を反対されたりすることも、『いざという時』です。
さらに、学会が法難を受けるなど、大変な事態に陥った時です。
幸福を築くには、何があっても崩れることのない、金剛不壊のわが生命をつくり、輝かせていく以外にない。
そして、難こそが、生命を磨き鍛える、最高の研磨剤なんです。
したがって、大難の時こそ、自身の宿命転換、境涯革命の絶好の時といえる。
ゆえに、勇んで難に挑む、勇気がなければならない。臆病であっては絶対になりません。
学会は、この十年は順風満帆で来ました。大発展しました。
しかし、いつまでも、そんな時ばかりであるはずがない。
『魔競はずは正法と知るべからず』(御書一〇八七ページ)、『よ(善)からんは不思議わる(悪)からんは一定とをもへ』(同一一九〇ページ)とも、仰せではないですか。
大難が競い起こらなければ、この御聖訓が嘘になってしまう。
どうか、皆さんは『まことの時』に、敢然と立ち上がり、私とともに、学会とともに戦い、広宣流布の勇者として、自身の誉れの歴史を築いていってください」
「はい!」という、皆の声が響いた。
どの顔にも、決意の輝きがあった。
伸一は、指導を終えると、何人かの壮年と握手を交わした。その時、彼らは、伸一の手が異様に熱いことに気づいた。
だが、それが、体調の不良による発熱であるとは、誰も思わなかった。
松阪会館を後にした伸一は、伊勢会館にも足を延ばし、ここでも約三十五分間にわたって、全力で語り抜いた。
大阪に始まり、三重に至ったこの指導の旅は、限界を超えた壮絶な激励行となったのである。
烈風 二十二
この一九六九年(昭和四十四年)は、十二月二日に衆議院が解散し、年末に総選挙が行われた年であった。
公示は七日で、二十七日が投票という、慌ただしい「師走総選挙」となったのである。
総選挙の争点は、「沖縄と安保」であった。
十一月、訪米した佐藤栄作首相は、ニクソン大統領と会談し、沖縄返還をうたった共同声明を発表。政府・自民党は、これで沖縄の施政権返還問題は、日米安保条約の「長期堅持」を前提に、「核抜き、本土並み、七二年返還」で決着がついたとしていた。
それに対して野党は、共同声明に疑問を呈し、有事の核持ち込みの道を開くものであり、国民を騙す取り決めであると主張していた。
さらに、安保条約が翌七〇年六月に固定期限切れとなることから、安保をどうするかで、与野党の意見は大きく分かれていた。
いわば、国民にとっては、将来にわたる国政の基本路線を選択する総選挙であったといえよう。
公明党としては、二度目の衆院選挙であった。
公明党は、東西冷戦という危機的な状況下にあって、日米安保は社会主義国との溝を深め、安全保障の半面、戦争に巻き込まれる可能性があることを憂慮していた。
そして、将来的には両国の合意に基づいて解消されることが望ましいとし、当時、段階的解消を唱えていた。
段階的としたのは、即時廃棄によって、日米関係に緊張や対立が生まれたり、日本を不安定な国際的立場に立たせることがあってはならないと考えてのことである。
そこで、解消に至るまでに、在日米軍基地の撤去や沖縄の即時無条件返還など、安保体制のもつ問題点を解決していくことを打ち出していた。
特に基地については、既に総点検を実施し、活発な撤去運動を展開してきたのである。
また、日本の安全保障の在り方として、イデオロギーに縛られることなく、中立の立場で、すべての国と平和友好関係を保つべきであるとする、等距離完全中立政策を主張していた。
これは、戸田城聖が提唱した、地球民族主義の理念を実現しようとするところから、生まれたものであった。
烈風 二十三
解散時の各党派の議席は、公明は二十五であった。そして、自民二百七十二、社会百三十四、民社三十一、共産四、無所属三で、欠員が十七となっていた。
公明は、総選挙に七十六人が立候補し、各地で激戦を繰り広げた。
今回の選挙は「七〇年代の選択」ともいわれており、学会員の支援活動にも一段と熱がこもっていった。
学会員は「立正安国」という、正法を根底にした平和社会建設の使命に燃えていた。
だから、広宣流布の拡大の帰結として、「どれだけ社会が繁栄したか」「恒久平和への前進が見られたのか」に、強い関心を寄せていた。
そして、そのためには政治の改革が不可欠であると考え、選挙の支援活動に力を注いでいった。
投票日は、暮れも押し詰まった十二月二十七日であり、慌ただしいなかでの支援活動であった。
しかし、学会員は、支援する限りは、断じて勝とうと決意し、意気盛んであった。
この十二月、山本伸一は、あの関西、三重の訪問に先立ち、京都、淡路島、岡山、愛知、埼玉、神奈川、静岡を回り、七〇年代への新たな出発のために、全魂を傾けて同志を励まし続けてきた。
その間断なき力闘の姿と励ましが、会員を勇気づけ、支援活動でも、大きな力となって爆発したのである。
なかでも、高熱を押して激励に訪れた、和歌山などでの同志の奮闘は、目覚ましかった。伸一の励ましによって、一人ひとりの胸中にともされた信心の火は、社会建設のエネルギー源ともなっていったのである。
総選挙の結果は、投票日の翌二十八日夕方には決まり、公明は改選前の約二倍にあたる四十七議席を確保し、第三党になるという、大躍進を果たしたのである。東京、そして、関西、九州は全員当選であった。
自民は解散時より十六議席増やし、二百八十八に、社会は百三十四から九十へと激減。民社三十一、共産十四、無所属十六となったのである。
開票結果を伝える新聞には「公明躍進第三党」「公明、47で第三党」などの見出しが躍った。政治の流れを変える、歴史的な勝利といってよい。
烈風 二十四
懸命に総選挙の支援活動に取り組んできた学会員は、「公明党大勝利」に沸き返った。
学会員は、この支援活動で、予想外の苦戦を強いられてきただけに、その喜びは、ことのほか大きかった。
実は、藤沢達造という政治評論家が書いた、創価学会の批判書の出版を、学会と公明党が妨害したという非難が沸騰するなかでの、支援活動であったのである。
――選挙投票日の四カ月ほど前、日本をどうするかをテーマにしたという、藤沢のシリーズ本が出版された。第一巻は教育問題であった。
八月末、その本を宣伝する、電車の中吊り広告が出され、そこに第二巻として、創価学会を批判する本の発刊が予告されていたのだ。
これを見た学会員は、怒りを覚えた。
藤沢は、二年半ほど前にも、ある月刊誌で、公明党と学会の批判を展開したが、憶測と偏見による“中傷”になっていたからだ。
また、藤沢は、テレビやラジオでも毒舌を売り物にし、創価学会を「狂信徒集団」呼ばわりしてきた。
さらに、学会の婦人たちを侮辱し、卑しめるような発言をしたこともあった。
“また今度も、学会を中傷し、言論の暴力を重ねようというのか!”
“いったい、どういうつもりなんだ!”
学会員はいやな思いをしてきただけに、この広告は、皆の怒りの火に油を注いだのである。
山本伸一も、この著者の言動には、憤りを感じていた。
自分への誹謗ならまだよい。だが、健気に、法のため社会のために、尊き献身の汗を流す婦人部員を侮辱することは、断じて許せなかった。
しかし、この時期、伸一は多忙を極めていた。
九月二日からの関西指導に始まり、全国の会員の激励や正本堂建設の式典などで、彼のスケジュールは、年末までギッシリと詰まっていたのである。
会長就任十周年にあたる明年の新しい飛翔のためには、全力で助走を開始することが不可欠であった。
彼は、片時の休みもなく、東奔西走の日々を送っていたのである。
烈風 二十五
山本伸一は、寸暇を惜しんで、全国各地を回っていたが、同時に、この間に準備を進め、明年には、断じて成し遂げなければならない、大きなテーマがあった。
それは、会長就任十周年の佳節を迎え、第二の十年への新たな前進を開始するために、学会の機構を抜本的に改革することであった。
学会がさらに深く社会に根を張り、皆が力を発揮していける、より近代的な組織へと発展させていくことを、彼は計画していたのである。
戸田城聖亡きあと、会員約八十万世帯からスタートした学会は、今や七百五十万世帯に迫る、事実上、日本一の大教団となった。
また、社会改革にも本格的に着手し、政治の世界でも、学会が母体となって誕生した公明党が、政界の新しい力として台頭してきた。
そのなかで、学会の社会貢献、地域貢献への期待も高まっていた。
広宣流布とは、仏法の人間主義を根底にした、時代、社会の建設といえよう。
その使命を果たしていくには、学会の機構や組織も、時代の進展に合わせて、社会に最も貢献でき、信頼される、開かれたものにしていく必要がある。
ところが、学会の機構の骨格は、基本的には草創期とほとんど変わっていなかった。
それだけに、日本第一の教団となった今こそ、新しい時代に即応できる近代的な機構、組織に改革することが急務であり、そこに広宣流布の新展開の要諦があると、伸一は考えていたのだ。
その一つが、入会した会員が紹介者と同じ組織に所属するという、これまでの「タテ線」組織から、地域を基盤とした「ヨコ線」すなわち「ブロック」組織に、全面的に移行することであった。
当時は、既に各県の組織も整備され、たとえば北海道や九州などの在住者が、東京の支部に所属するといったケースはなくなっていた。
しかし、東京の支部を例にとると、支部員の居住地は、都内全域に広がり、さらに近県にも及んでいた。
学会が地域に深く根差し、社会貢献していくためには、「ブロック」組織への移行が不可欠であった。
烈風 二十六
山本伸一は、会長である自分に、かかりすぎている仕事の負担や、集中しすぎている責任を、できる限り分担し、より組織を合理的にしていくために、副会長制の導入も考えていた。
さらに、公明党と学会の関係についても、社会から誤解を招くことのないよう、運営や機構的な面で、より明確に立て分けていく方向を模索していたのである。
これらの事柄を、順次実行に移し、新しい時代にふさわしい布陣を整えることが、彼の最重要課題となっていたのだ。
伸一は、機構、組織の改革、さらには、全会員の意識を刷新し、新時代への希望の出発をする年が、明年であるととらえていた。
そこで、九月度の本部幹部会で、明一九七〇年(昭和四十五年)を「革新の年」とし、別名「新生の年」と名づけて、前進することを発表した。
学会の首脳幹部も、公明党の幹部も、藤沢達造の学会批判書の予告が出ると、やはり、発刊が気になった。
既に、衆院選挙が行われることが、この年の年頭から取り沙汰されており、各党とも、それを視野に入れた活動を開始していたからである。
“その総選挙前に、学会と公明党を中傷する悪質な本が出され、選挙の妨害をされたのではたまったものではない”と思ったのだ。
九月の半ば、学会の総務で聖教新聞の専務理事であった秋月英介は、公明党の都議会議員でもある幹部と、藤沢の自宅を訪問した。
この都議会議員は藤沢と面識があり、二週間ほど前にも、一人で藤沢を訪ねていた。
秋月は、自分が個人的に藤沢と会って、率直に要望を伝えてみようと考えたのである。
もし、創価学会に関する本を出すなら、極端な決めつけではなく、きちんと取材もして、事実に基づいて書いてほしい。また、そのために資料も提供するし、総本山にも案内する――それが、秋月たちの一貫した要請であった。
さらに彼らは、選挙直前に、学会、公明党の批判書を発刊するのは、公明党の側からすれば、選挙妨害に感じられることなどを語った。
烈風 二十七
秋月英介たちは、あくまでも丁重に、藤沢達造に要望を述べていった。
また、二人は、藤沢の了承を得て、数日後、この本の出版社の関係者とも会って要望を伝えた。
しかし、藤沢も出版社も、要請を受け入れることなく、十一月の初旬、批判書は、予告通りに発刊された。
藤沢の本が発刊される直前、出版関係業務に携わる男子部員が、出版取次店を訪ねた折に、藤沢の本の見本刷りを見せられた。彼は、腰を落ち着けて読み始めた。
ページをめくるにつれて、この青年の顔色が変わっていった。体は怒りに震え始めた。
その内容は、衆院選挙を前にした、悪質な妨害といってよかった。
――たとえば、学会は、公明党に天下を取らせて、やがて憲法を変え、「日蓮正宗を国教化」しようとしているというのである。
これは、学会を批判する「常套句」のように言われてきたが、山本伸一が、これまでに何度も、公式の場で明確に否定してきたことであった。
そもそも、学会は、世界の広宣流布をめざしているのに、どうして日本の国教にする必要があるのだろうか。
一九六七年(昭和四十二年)五月三日の本部総会でも、この問題について、こう明言している。
「日蓮正宗を国教化して国立戒壇を建てるのではないか等々の論評は、的はずれの感情論であり、ことごとく、仏法を全く知らない妄評であり、憶測にすぎない」
しかし、それを聞き入れようとはせず、頭から学会が国教化をめざしていると、断言してはばからないのである。
藤沢は、一度として学会本部に取材に来たこともない。
学会を誹謗した他の出版物などを資料にしての執筆のようだ。
また、学会の選挙の支援活動についても、会員の政治意識を目覚めさせる教育はほとんどなく、会員を無能にし、意のままに操り、票を集めているというのだ。
学会員に対する、なんたる侮辱であろうか。
世の中をよくしよう、民衆の手に政治を取り戻そうと、社会建設の使命に燃えて支援活動に取り組む人びとへの、甚だしい愚弄ではないか。
烈風 二十八
藤沢達造は、さらに、学会は組織への「盲目的服従」を強いており、選挙となれば住民の集団移動も辞さないというのだ。
どこに、そんな根拠があるのか。
しかも、その事実無根の話をもとに、学会と公明党は「民主主義の敵」と断言し、公明党の解散を叫んでいるのである。
また、彼は、厚顔無恥にも、「折伏」は「人の不幸」につけこむものと決めつけていた。
相手の幸せを願って、真心の対話を重ねる学会員の姿を直視したことがあるのか。
あるいは、学会が民衆の心に希望と勇気の光を送り、人びとを蘇らせていったことを、民主主義の「落ち穂拾い」などとも評していた。
記述の基本的な間違いも目立ち、山本伸一の青年時代の役職さえ、就いたことのない「青年部長」となっているというお粗末さである。
見本刷りを目にした青年は、怒りにかられた。
“これは、言論の自由をいいことに、嘘と罵詈雑言で塗り固めた、誹謗・中傷のための謀略本ではないか。
言論の自由を利用した言論の暴力以外の何ものでもない”
この青年以外にも、出版や広告関係の仕事をしていて、出版取次店で藤沢の本の見本刷りを見た学会員もいた。
そうした人たちは、学会員である同僚や、男子部の幹部などに、この本が、いかにひどい、理不尽なものであるかを伝えていった。
その内容を聞いた人たちは憤った。
「やっぱり、そんなことを書いていたのか。
著者の政治評論家は、大学教授でもあったな。そうした肩書から、このでたらめな内容を、まともに信じてしまう人も多いだろう」
「こんなものが世に出れば、創価学会としても、大変な迷惑を被ることになる」
「言論の自由を守るということは、“中傷”の垂れ流しを黙って見ていることではないはずだ。
やられ放題にやられても、泣き寝入りしているしかないとしたら、おかしな話だ」
青年たちは、この本がいかに悪辣な誹謗書であるかを、語り抜いていこうと思った。なかには書店などで、これは、巧妙な選挙妨害であると訴えた人もいた。
烈風 二十九
十一月上旬、藤沢達造の本が発刊された。すると、すぐにテレビ番組のなかで、ある評論家がこの本を取り上げた。
そして、学会を批判しながら、「思い切ったことをやってくれた」と、藤沢を大称賛し、宣伝に努めたのである。
十二月二日、衆議院は解散となり、七日には、総選挙の公示を迎えた。
その数日前、藤沢は、民社党系の思想研究団体が主催するシンポジウムに出席し、創価学会と公明党から、自著の出版をめぐって、さまざまないやがらせ、妨害を受けたと語ったのだ。
その話は、公示前後に発売された、週刊誌に大きく取り上げられた。
さらに彼は、共産党の機関紙「赤旗」のインタビューに応じた。
藤沢は、反共評論家としても知られてきた人物である。それが、共産党の機関紙に、臆面もなく登場したのだ。
同紙は十七日付の一面で、大々的に「公明党 言論・出版に悪質な圧力」と報じ、以後、連日のように、この問題を扱った。
また、社会党の機関紙「社会新報」(二十一日付)も報じた。
衆院選挙に合わせ、時機を見計らったかのように、公明党、創価学会による“言論・出版妨害問題”なるものが急浮上したのだ。
藤沢と話し合った秋月英介は、言論・出版妨害されたと騒ぐ彼の言動に不可解なものを感じていた。丁重に要望を伝えただけであることは、藤沢本人が一番よく知っているはずである。
それを妨害されたと吹聴しているのだ。
秋月は思った。
“中傷本を出すことを予告し、こちら側が抗議などの働きかけをするのを待って、圧力をかけられたと騒ぎ立てる計画だったのかもしれない”
さらに、その後、藤沢は、秋月らとのやりとりを、密かに録音していたことを明らかにする。
そして、このテープが、圧力の「決定的な証拠」だと言って騒ぎ出すのである。
しかも、藤沢は、「いやがらせや脅迫の電話が殺到した」「圧力によって出版取次店などでの本の扱いも、全国紙などの広告掲載も断られた」と、マスコミなどに語ったのである。
烈風 三十
藤沢達造が、言論弾圧を受けたと騒ぎ出すと、これまでに学会や公明党の批判書を書いてきた何人かの著者たちも、一緒になって騒ぎ始めた。
こうして学会と公明党への批判が猛り狂うなかでの衆院選の支援活動となった。それだけに、苦戦を強いられた選挙戦であった。
週刊誌を振りかざしながら、こんな言葉を投げつける人もいた。
「言論弾圧するなんて、学会も公明党も戦時中の軍部のようだな」
しかし、社会建設の使命に生きる同志は、決して挫けなかった。
烈風は、むしろ闘魂の炎を、ますます燃え上がらせていった。
「何を言っているんですか。その軍部政府と命がけで戦って、信教の自由を叫び抜いたのが、学会なんです。
それに、根も葉もないことまで書きたい放題書かれ、悪口を言われ、弾圧されてきたのは、学会の方じゃないですか!」
皆、悔し涙を決意に変えて、敢然と走り抜き、衆院選は公明党が四十七議席を獲得するという大勝利を収めたのだ。
喜びが爆発した。全精根を尽くして苦難と試練を乗り越え、勝利をわが手にした者のみが得る、生命の凱歌であった。
その喜びが覚めやらぬなか、「新生の年」とも銘打たれた、一九七〇年(昭和四十五年)「革新の年」が、晴れやかに開幕したのである。
山本伸一は、元日付の聖教新聞に、「革新の響」と題する詩を寄稿していた。
全同志は、この詩を胸に刻みながら、第二の十年への新しき大飛躍を心に誓い、一年のスタートを切ったのだ。
伸一は、元日は学会本部での新年勤行会に出席し、翌二日には総本山にいたが、彼の体調は優れなかった。いや、最悪の健康状態のなかで迎えた新年であった。
年末の関西訪問のあとも、発熱が続き、呼吸器疾患に苦しめられていたのである。
それは、会長就任以来、これまでになかった、熾烈な病魔との攻防戦となるのである。
だが、そうしたなかで彼は、新しい時代の幕を開くために、機構、制度の改革に着手していったのであった。
烈風 三十一
一月二日は、山本伸一の四十二歳の誕生日であった。
日蓮大聖人が、東条景信らの襲撃を受け、額を斬られ、弟子を殺された小松原の法難に遭われたのは満四十二歳である。
伸一は、自分も大聖人門下の一人として、何があっても微動だにせぬ、強盛なる信心に立たねばならぬと思った。
そして、大聖人の御遺命である広宣流布の実現のため、力の限り邁進しようと、決意を固めたのである。
彼は、激しい嵐の到来を予感していた。
この夜、全国の代表が集って行われた、総本山での幹部会で、伸一は力を振り絞るように、「種種御振舞御書」を拝して、指導していった。
「『国主等のかたきにするは既に正法を行ずるにてあるなり、釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ、今の世間を見るに人をよくな(成)すものは かたうど(方人)よりも強敵が人をば・よくなしけるなり……』(御書九一七ページ)
いかなる正義の戦いであっても、いな正義であればあるほど、必ず、いわれのない非難、中傷が競い起こってくる。その原理のうえから、障魔の意義を述べられている御文です。
まず、国主等がかたきに思い、迫害を加えるということは、既にこちらが正法を行じている証拠なのだと、大聖人は宣言されている。
人間を本当に強くするものは、迫害です。大難です。ゆえに、釈迦如来のためには、提婆達多こそが第一の『善知識』であるのだと仰せになっている。
『善知識』とは、仏道の完成を助ける人という意味です。提婆達多は釈尊に敵対した『悪知識』ですが、釈尊は、提婆達多と戦い、魔を打ち破ることによって、その偉大さを証明され、教団も発展した。
したがって、釈尊を迫害し抜いた提婆達多こそ、最高の『善知識』であると仰せなんです。
同じように、今の世の中を見ても、人を良くするものは、味方よりも、むしろ強敵であると言われている。
大聖人の場合も、東条景信や極楽寺良観などによって迫害され、大難を受けたので、法華経の行者になれたと仰せになっているんです」
小説「新・人間革命」 語句の解説
◎東条景信など/
東条景信(生没年不詳)は、日蓮大聖人を立教開宗の当初から迫害した、安房国(千葉県南部)の地頭。文永元年(一二六四年)の小松原の法難では、大聖人は、景信が率いる武士たちに襲撃され、頭に傷を受け、左手を折られた。
極楽寺良観(一二一七〜一三〇三年)は真言律宗の僧。鎌倉の極楽寺の開山。慈善事業を行い、“生き仏”のごとく振る舞ったが、裏では、政治権力と結託して利権を貪り、民衆を圧迫。大聖人との祈雨の勝負に敗れたことを恨み、讒言を用いて、竜の口の法難が起きる要因をつくった。
烈風 三十二
山本伸一は、叫ぶように訴えた。
「私たちも難に遭い、魔と戦い、その悪を打ち破ることによって、自身の生命が鍛えられて、人間革命ができる。一生成仏ができるんです。
また、それを乗り越えてこそ、学会の大発展もある。
この御聖訓に則って、非難や中傷の嵐が競い起これば起こるほど、団結を強め、信心を深め、勇気を奮い起こして、力強く前進していっていただきたいのであります」
参加者は皆、全国から集った最高幹部ではあった。しかし、この時の伸一の指導を、切実な問題として受けとめた人はほとんどいなかった。
一月五日、学会本部でこの年初の総務会が開かれた。
席上、新たに副会長制の設置が決まり、副会長に、十条潔、森川一正、秋月英介の三人が就任したのである。
伸一が構想してきた、新生・創価学会の機構改革が、いよいよ始まったのだ。
副会長のうち、最年長の十条でも四十六歳であり、秋月に至っては三十九歳の若さである。
その若い力が、伸一のもとで責任を分担し、七百五十万世帯になんなんとする創価学会の、全責任を担っていこうというのだ。
また、戸田第二代会長のもとで理事長を務めた小西武雄をはじめ、清原かつ、山平忠平らが本部参与となった。まさに、世代の交代であった。
常に若い力の台頭があり、それを皆で支えていくところに、新しき前進の道が開かれる。
さらに、この総務会では、公明党の委員長、書記長は、党務並びに政務に専念するために、学会の幹部としての役職を退くことも決まった。
公明党の議員については、引き続き、衆参の国会議員、そして、各地方議会の議員と、順次、すべての議員の学会役職との兼務をなくしていく方針であった。
人事、財政等の面でも、学会と公明党は一線を画し、党が自主性をもって運営していくべきであるというのが、考え抜いた末の、伸一の意見であった。
同時にそれは、公明党の意向でもあり、学会としての、未来を見すえたうえでの結論でもあったのである。
烈風 三十三
学会が公明党を支援することも、議員が信仰活動に励むことも、本来、憲法で保障された権利である。
憲法の二〇条でうたわれている「政教分離」の「政」とは「国家」であり、国と宗教との分離を定めたものだ。
つまり、この条文は、国は宗教に対して中立の立場をとり、宗教に介入してはならないことを示したものであり、宗教団体の政治活動を禁じたものでは決してない。
それは、戦前、戦中の国家神道を国策とした政府が、宗教を弾圧してきた歴史の反省のうえに立って、「信教の自由」を保障するためにつくられた条文といってよい。
したがって、創価学会と公明党の関係は、もともと憲法が禁ずる“政教一致”とは、全く異なるものである。
しかし、人びとが誤解や懸念を感じたりすることのないように、人事面でも一線を画し、両者の関係を明確にするために、創価学会と公明党が、自主的に踏み切った改革であった。
着々と未来への布石がなされ、新時代に向かって歯車は回り始めた。
同志は皆、学会は、このまま勝利、勝利の上げ潮のなかで、山本伸一の会長就任十周年を迎えることができると思っていた。
しかし、公明党という民衆のための新しき政党が、破竹の勢いで台頭し、歴史は大きく変わろうとしているのである。既存の勢力が、それを黙って見過ごすはずがなかった。
一月十四日には、第六十三特別国会が始まるが、野党各党は相次いで、この国会で、公明党、創価学会による“言論・出版妨害”を徹底追及するとの、対決姿勢を明らかにしていった。
さらに、この十四日、「言論・出版の自由にかんする懇談会」の集会が開かれた。
この懇談会は、日共系の学者や既成仏教の僧侶らの呼びかけで、前年の十二月に結成された、学者、宗教者、文化人らの集まりである。集会には文化人、出版関係者ら百十人が出席し、言論・出版問題を、今国会で取り上げるように、要請する方針を固めたのだ。
公明党と学会による“圧力”は、既成の事実とされ、にわかに“政治的大問題”にされていったのである。
烈風 三十四
烈風は、激しさを増していた。
しかし、同志は年頭から、社会建設の使命を燃やしながら、喜々として弘教に走った。
新しい十年への出発となる、「5・3」の本部総会をめざし、七百五十万世帯達成に向けて、弘教の渦が全国津々浦々に巻き起こっていたのである。
言論・出版問題は、日々、マスコミを賑わしていたが、折伏に励む誰もが意気軒昂であった。
同志は語り合った。
「国会で取り上げるなんて、騒いでいる党もあるけど、変な話ね。
妨害された、脅迫されたというのなら、裁判にでも、なんでも、訴えればいいじゃないの」
「選挙で公明党が伸びたんで、悔しくって、仕方がないのだろう」
「何か、謀略めいたものを感じるな。
しかし、こんなことに負けて、広宣流布を遅らせるわけにはいかない。
今こそ折伏だ。学会の正義、仏法の正義を語り抜こうよ!」
一月二十八日、学会本部で総務会が行われた。
席上、本部統計局から、学会の世帯数について報告があった。
報告のためにマイクに向かった幹部は、頬を紅潮させ、やや上擦った声で、叫ぶように語った。
「最初にお伝えしたいことは、現在、学会世帯数は七百五十五万七千七百七十七世帯となり、念願の七百五十万世帯を遂に達成いたしました!」
その瞬間、皆の顔に光が差し、歓声があがり、大拍手が起こった。
目標としてきた五月三日より、三カ月以上も早く成就したのだ。
同志は、見事に、逆風を追い風に変えたのだ。
御聖訓には「大悪を(起)これば大善きたる」(御書一三〇〇ページ)と仰せである。
それは、何もせずして「大悪」のあとに、「大善」が訪れるということではない。
“ピンチ”こそが“チャンス”ととらえ、苦難を飛躍台として断じて進み抜こうという、不屈の一念によって、「大善」は開かれるのだ。
「烈風に勇み立て!」「吹雪に胸を張れ!」――何ものも恐れず、常にこの精神で前進し続けてきたところに、学会の強さがあるのだ。
烈風 三十五
学会を襲う風は、二月に入ると、いよいよ凶暴なまでに吹き荒れた。
二月三日、「言論・出版の自由にかんする懇談会」は、東京・文京公会堂に、約三千人を集め、「公明党・創価学会の妨害に反対する言論・出版の自由にかんする大集会」なる集いを開催したのである。
これには、あの藤沢達造をはじめ、学会、公明党の批判書の著者三人のほか、社会党、共産党の役職者、宗教家などが出席し、発言している。
九日には、七人の作家が、学会系出版物への執筆を拒否することを伝えてきた。
そして、二月十七日、開催中の第六十三特別国会の衆院本会議で、社会党議員が、言論・出版の自由について首相に問いただした。
次いで十八日の衆院本会議、十九日の参院本会議では、共産党議員が質問に立ち、公明党による出版妨害が行われたとして、国会の場で、真相を究明する用意があるかどうかを首相に迫った。
二十三日には、衆院予算委員会に舞台を移し、社会党の議員が質問に立ち、言論・出版妨害をされたという藤沢ら三人の証人喚問を要求した。
この二十三日、「言論・出版の自由にかんする懇談会」は、記者会見を開いた。
そこで、公明党国対委員長の渡吾郎が、一月の学生部幹部会で、言論・出版問題について語った講演テープを公開したのである。これは、何者かによって、密かに録音されたテープであった。
渡は、創価学会、公明党によって行われたとされている“言論・出版妨害”が、いかに誇張された出来事であるかを、個人的な所感を語るつもりで、面白おかしく語ったのである。
学会内部の集会でもあり、しかも、かつて自分が学生部長を務めた学生部の会合であったことから、気が緩んでいた。
下宿で後輩たちを相手に、政治談議でもするような気楽な気分で彼は話をした。
渡は、学会、公明党を袋叩きにするようなやり方が腹にすえかねていたと見え、批判本の筆者や他党を揶揄し、笑いのめした。
時に、他党を罵倒するような、激しい言葉も飛び出した。
烈風 三十六
学生部員は、政党やマスコミの、一方的な学会への中傷に耐えてきた。それだけに、渡吾郎の話に痛快さを覚えた。
会場は、笑いと喝采に包まれた。
もともと渡は、弁舌にたけた男であった。そのうえ、仲間うちという安心感もあり、ますます冗舌に拍車がかかり、口が滑った。
人は、ともすれば、自ら得意とするものによってつまずくものである。ついつい調子づいてしまい、慎重さ、緊張感を失ってしまうからだ。
その話が密かに録音されて、「言論・出版の自由にかんする懇談会」によってテープが公表されたのだ。
この内容は、一部の週刊誌に掲載されたのをはじめ、テレビ、ラジオでも流されたのである。
テレビなどでは、他党を揶揄したり、激しい言葉で批判しているところが流されたために、渡は、とんでもない暴言づくしの講演をした印象を与えた。
渡にやり玉にあげられた各党は、このテープを聞くと、大反発した。
二月二十五日、渡は記者会見を開いて、「内部における個人的発言だが、発言中に関係者に対し、穏当を欠くものがあり、誠に申し訳ない。ご迷惑をかけたことをお詫びします」と陳謝した。
だが、各党は納得しなかった。渡の発言について、徹底追及の構えを見せた。このままでは、党派間の折衝にも支障があるため、渡は二十七日、やむなく国対委員長を辞任したのである。
各党は、ますます勢いづいた。
この日、衆院予算委員会で共産党の議員が、新たに、何人かの批判書の著者や出版関係者、公明党議員らの証人喚問を要求した。
さらに翌二十八日、自ら公明党の批判書を執筆した民社党のある議員が、衆院予算委員会で質問に立った。
彼は、言論・出版妨害は、公明党という政党よりも、創価学会という宗教団体の問題であるとしたのである。
そして、学会は組織的な選挙犯罪が絶えず、学会員による犯罪が多発していると、偏見をもとに断定。その調査とともに、会長の山本伸一を証人として喚問するよう、強く求めたのだ。
全く妥当性を欠いた、理不尽な話である。
烈風 三十七
社会党もまた、会長山本伸一の証人喚問を主張したのである。
攻撃の矛先は、公明党から創価学会に、そして山本伸一にと、一斉に向けられていったのだ。
そのニュースを耳にした学会員は激怒した。
ある地域では、座談会の終了後、同志は、怒りをぶつけるように、この問題を語り合った。
男子部員が言った。
「国会で山本先生を証人喚問しろなどと言っている国会議員がいるが、先生と言論・出版問題とは関係ないじゃないか」
別の青年が答えた。
「そうなんだ。結局、彼らは、初めからこれが狙いだったんだろうな。
先生を国会に呼んで、『言論弾圧をしたんだから謝れ』とか、『学会は反社会的な団体だ。責任をとれ』などと、責め立てる計画なのだろう。実に卑劣だ」
婦人部員が、怒りを露にして言った。
「学会員の犯罪が多いから調査しろなんて、失礼極まりない話ね。それなら、その前にすべての犯罪について、犯人が何宗かを調査すべきだわ。
そうすれば、自分たちが、とんでもない言いがかりをつけていたことがわかるはずよ」
壮年の幹部が相づちを打ちながら語り始めた。
「実はね、私は事業に失敗して、一家心中を考えていた時に入会したんだよ。
学会の先輩たちが、毎日、一生懸命に励ましてくれたが、それでも、精神的に立ち直れるまでに、約一年かかった。
その間、何度も死のうと思ったし、いつ何をしでかしても不思議ではなかった。そこまで、行き詰まっていたんだ。
考えてみれば、創価学会は、この世の中から不幸をなくそうと、病苦や経済苦、家庭不和、社会での人間関係などで苦しんでいる人がいれば、真っ先に布教してきた。
それは、民衆救済をめざす宗教の使命であったからだ。
苦悩する民衆と共に生きるということは、学会がその苦しみや、多くの問題を、共にかかえて進むということだ。
そして、学会は不幸に苦しみ抜いてきた民衆を蘇生させてきた。こんなことは、国家でさえできなかったことだよ。
本来、この学会の業績を、各政党も、マスコミも、最大に評価し、賞讃すべきではないか」
烈風 三十八
国会では「公明党と創価学会の関係は政教一致ではないのか」といった、言論・出版問題とは、直接、関係のないことまで取り上げられるようになった。
また、学会を追及した議員のところへ、「『火をつける』『殺すぞ』といった脅迫電話が相次いでいる」と、記者会見を開いて、吹聴する代議士もいた。
根拠もないのに、学会員の仕業であるかのような口ぶりである。
こうした発言が、そのままテレビやラジオ、新聞等で報じられ、学会は極めて反社会的な団体というイメージがつくられていった。
新聞にも週刊誌にも、「創価学会」「公明党」「言論・出版妨害」の文字が躍っていた。
電車に乗っても、学会や公明党を中傷する週刊誌の、中吊り広告が掲げられていた。
山本伸一は、一月に入って、学会への攻撃が一段と激しさを増すと、さらに全国を駆け巡り、一人ひとりの同志を、力の限り励まそうと思った。皆の胸に勇気の炎を燃え上がらせたかった。しかし、彼は病んでいた。
伸一の心は痛んだ。学会員がかわいそうでならなかった。
伸一の容体は、年が明けてからも、いっこうに好転しなかったのだ。
医師の話では、もともと結核で呼吸器が弱いうえに、無理に無理を重ねてきた疲労の蓄積が、体力の低下を招いているとのことであった。
それでも、会員の激励に動こうとする伸一に、医師は言った。
「これ以上、悪化させれば、取り返しのつかないことになります。
何カ月かかろうが、完治するまでは、ともかく静養してください」
伸一は、体を休めながら、執務を続けるしかなかった。なさねばならぬ仕事は山積していた。
会長の仕事を分担しようと、設けられた副会長制であったが、本格的に機能するには、まだ時間が必要であった。
前年八月に第五巻の連載が終了した小説『人間革命』も、早く再開してほしいとの強い要請が、聖教新聞社や多くの会員から寄せられていた。
頼まれれば断れないのが伸一の性格であった。彼は、二月上旬から第六巻の連載を開始する約束をした。
烈風 三十九
山本伸一は、小説『人間革命』第六巻の執筆を決意したが、発熱も続いており、体は激しく衰弱していた。
長い心労のゆえか、彼の肩や首筋は凝り固まり、ペンを持つことも辛かった。
彼は、やむなく口述をテープレコーダーに吹き込み、そのテープから、原稿を起こしてもらうことにした。
疲弊の極みにあった彼は、口述を始めると、すぐに息が苦しくなった。
痰が喉に絡み、咳が止まらなくなることも少なくなかった。額には脂汗が滲んだ。
それでも口述は続けられた。
第六巻は、一九五二年(昭和二十七年)四月に行われた、総本山での宗旨建立七百年記念慶祝大法会から始まる。
この時、戦時中、神本仏迹論の邪義を唱え、学会弾圧の発端をなした笠原慈行が、総本山にいたのである。
男子部員は、笠原に、その誤りを認めさせ、獄死した牧口初代会長の墓前で謝らせた。
すると、日蓮正宗の宗会は、理不尽にも戸田城聖に対して、「謝罪文の提出」「法華講大講頭の罷免」「登山停止」を決議したのである。
正法正義を貫き、学会が悪を正したがゆえに、烈風にさらされた恩師戸田城聖――その在りし日の雄姿を思うと、伸一の胸にも、勇気が沸々とたぎるのであった。
今、病める伸一も、また、烈風にさらされていた。強い風であった。
伸一は、公明党が衆院進出を決断した時から、やがて、支持団体の学会も、激しい集中砲火を浴びる日が来ることを覚悟していた。
弾圧は、学会が社会の改革に立ち上がった時から、繰り返されてきたことであったからだ。
政治を民衆の手に――と、学会が地方議会に初めて同志を送り出したのは、五五年(同三十年)のことであった。
この年、左右両派に分かれていた社会党が再統一され、さらに保守政党の自由党、民主党が合同し、自由民主党が結成されている。
保守・革新の二大政党制のかたちがつくられ、日本の戦後政治を支配することになる、いわゆる“五五年体制”がスタートするのである。
語句の解説
◎神本仏迹論/
仏と神の関係について、神が本地で、仏は神の垂迹(仮の姿)であるとする説。元来、仏教では“仏が主、神が従”であるのに対し、神本仏迹論は、国家神道のもとに国論を統一しようとした軍部権力にすり寄った邪説である。
烈風 四十
創価学会は、翌一九五六年(昭和三十一年)の参院選には、推薦候補者六人を立て、うち三人を参議院に送った。
また、翌年の参院大阪地方区の補欠選挙にも、候補者を立てた。
ここでは惜敗したものの、参院進出という新たな民衆勢力の台頭は、社会に大きな波紋を呼び起こした。
まず、北海道の夕張などで、社会党を推してきた炭労(日本炭鉱労働組合)が、学会員を組合から締め出すという弾圧が起こったのである。夕張炭労事件である。
次いで、大阪の補欠選挙で、熱心さのあまり、一部に違反者が出てしまったことを理由に、権力は魔性の牙をむいて、学会に襲いかかった。
この選挙の最高責任者であった山本伸一を、不当逮捕したのだ。大阪事件である。
しかし、四年半に及ぶ法廷闘争の結果、彼の無実が証明され、無罪判決を勝ち取ったのである。
やがて、学会が母体となって公明政治連盟が誕生し、六四年(同三十九年)の十一月には公明党が結成された。
その間、参院にあっても、着実に議席を増やし、さらに翌年七月の参院選挙では、公明党は十一議席を獲得。非改選議員の九人と合わせ、二十議席へと発展した。
この選挙は、多くの宗教団体関係者が立候補したり、各宗派が候補者を推薦するなどしたことから、「宗教戦争」と言われたほどであった。
政党は各教団の組織を頼り、票をあてにし、教団は政治の力を借りて、学会の撲滅を図ろうと画策していたのである。
たとえば、この年の八月、全日仏(全日本仏教会)が開いた全日本仏教徒会議では、学会が公明党を結成したことは、仏教盛衰に多大な影響をもつとして、創価学会対策が協議された。
そして、団結を強固にして、“防衛”より“攻撃”に転じて、戦うべきであるとしていた。
方法としては、次のようなことが掲げられた。
――「各教団の長および地域仏教会長は“邪教撲滅”の厳然たる指令を発すること」「創価学会の強大な宣伝に対抗するために、仏教会発行の大衆向け週刊紙でマスコミを制圧する」「時期をみて国会および政府へ請願する」(「中外日報」一九六五年九月一日付)
烈風 四十一
全日本仏教徒会議では政府への請願の内容についても、創価学会の教理に、反道徳、反法律の個所があるので、それを立証していくべきであるなどと、偏見と憶測に基づいた、一方的な提案がなされていたのである。
また、この時、出席した弁護士は「撲滅は、キメを細かくして、法律上の批判から行なわれなければ効果は出てこない」(「中外日報」一九六五年九月一日付)と助言している。
学会撲滅を掲げ、その手法が、周到に検討され始めたのである。
一方、新宗教教団の連合会である新宗連(新日本宗教団体連合会)でも、九月初めに理事会を開き、加盟九十余教団、信徒約七百万人を総動員して、学会、公明党と対決し、“逆折伏”することを決めたのである。
新宗連は、さらにマスコミへの対策も協議し、「マスコミで創価学会や公明党に“色目”をつかい、おもねるような勢力に対して、断固とした態度でのぞみ、新聞などの不買同盟やボイコット運動も辞さない」(同九月八日付)としている。
各教団が恐れていたのは、公明党の衆議院への進出であった。
そこには、甚だしい誤解があった。公明党が将来、政権を担うようになったら、日蓮正宗を国教にし、国立戒壇を建立して、ほかの宗教は権力によって排斥されてしまうと思い込んでいたのだ。
そんなことは、学会として明確に否定しているにもかかわらず、頑なにそう信じ込んでいたのである。
こうした誤解に基づく恐れから、学会、公明党への激しい反発が起こっていたといってよい。
この年の十二月には、学会の“野望を阻止”するとして、神道、仏教、キリスト教、新宗教などの代表百人余りが参加し、「時局対策宗教者会議」なるものを発足させ、学会への対決姿勢を明らかにしたのである。
学会と公明党に味方する教団も、政党も、皆無であった。
ただ、民衆だけが味方であった。
そのなかで公明党は、一九六七年(昭和四十二年)一月、衆院選に初挑戦し、二十五人の当選という快挙を成し遂げたのだ。
烈風 四十二
一九六七年(昭和四十二年)一月の衆院選には、各宗教団体の関係者も数多く立候補していた。全日仏、新宗連の推薦候補は、ともに百人を超えていたのである。
特に新宗連は、衆院選挙前に、政治結社として「新宗連政治連合」を発足させ、全国に推薦運動を展開し、政界への影響力を強めていった。
それぞれの教団が推した候補者は、与党の自民党を筆頭に、民社党、社会党など、各党派にわたっていた。
学会と公明党の関係を「政教一致」などと非難しながら、各教団と政党は癒着の度を強めていったのである。
衆院選挙が終わった二月、「時局対策宗教者会議」は総会を開き、自民、民社両党に対して、公明党に同調しないよう、要望書を提出することを決めている。
ともあれ、各教団が手を結び、各政党にも働きかけ、創価学会、公明党の“撲滅”に総力をあげていたのである。
だが、公明党は、破竹の勢いであった。翌六八年(同四十三年)の参院選でも、十三人が当選を果たし、参院での議席は二十四となった。
山本伸一は、この数年間に、数々の平和提言を行ってきた。
六六年(同四十一年)十一月の青年部総会では、ベトナム戦争の即時停戦を訴えている。
さらに、翌年八月の学生部総会では沖縄問題に触れて、「施政権の即時返還」や「核基地の撤去」を主張。
六八年(同四十三年)五月の本部総会では核問題に言及し、核保有国は一堂に会して、核兵器の製造・実験・使用の禁止、核兵器の廃棄について真剣に話し合うように訴えた。
次いで、九月の学生部総会では、日中国交正常化の推進、中国の国連加盟を認めるべきであるなど、中国問題について提言してきた。
こうした彼の提案は、生命の尊厳や平等を説く仏法の哲理をもとに、人類の平和の実現を考え、必然的に導き出された主張であった。
学会員は、この伸一の提案に強く共感した。
そして、仏法者の社会的使命を一段と深く自覚し、平和への民衆運動は広がりを見せていったのである。
烈風 四十三
日中国交正常化などの山本伸一の提言は、東西冷戦のなかで、アメリカに同調することで経済的な繁栄を維持してきた日本の、政府や財界などにとっては、危険な動きと映ったようだ。
たとえば、日中国交正常化提言の直後に行われた日米安全保障協議の席でも、外務省の高官が、アメリカの駐日大使や在日米軍司令官らに、伸一の提言を露骨に非難している。日本政府の外交の障害になるというのである。
国家中枢を動かす勢力は、山本伸一、そして、創価学会という存在を、まことに「邪魔」なものと感じていたようだ。
また、各教団も、各政党も、躍進する公明党、創価学会に、強い反発と憎悪、恐れをいだきながら、虎視眈々と攻勢の機会をうかがっていたのであろう。
翌年の一九六九年(昭和四十四年)は、衆院の解散、総選挙が予測されていた。
民社党の国会議員が、公明党の批判書を出したのも、この年であった。
また、全国紙の記者の工藤国哉、福山泰之を名乗る地方紙の論説委員の隈田専蔵らも、相次ぎ批判書を出版した。
このうち、隈田は、旧日本軍のスパイ養成のためにつくられた陸軍中野学校の出身で、某宗教団体の幹部といわれ、右傾化した勢力とも深いつながりをもっていた。
彼は、以前にも別のペンネームを使って、学会批判書を書いた人物である。
さらに隈田は、後年、右翼系の雑誌の編集に携わり、スキャンダルを並べ立てた学会批判記事を連載する。
それが、事実無根の甚だしい捏造であることから学会は刑事告訴し、彼は、名誉毀損の有罪判決を受けたのである。
ともあれ、衆院選前に、藤沢達造の本とともに、陰険な批判本が次々と出されたのだ。
暗黒の嵐が、正義の城に吹き荒れた。
その卑劣な風とともに、正義の指導者を倒さんとする、攻撃の毒矢が放たれたのであった。
学会員にとっては、荒れ狂う波浪のなかでの支援活動となったのである。
烈風 四十四
公明党は勝った。
波浪を乗り越え、衆議院で四十七議席を獲得するという、大勝利を収めたのである。
山本伸一は、学会、公明党の“撲滅”を打ち出してきた諸勢力が、この大躍進を、黙って見ているわけがないと思った。
そして、事実、年が明けると、言論・出版問題をめぐって、大攻勢が始まったのだ。
学会の一部のメンバーが、批判書の著者などに、要請や抗議を行ったことは確かである。伸一は、もし、そこに行き過ぎがあれば、会長である自分が、非は非として謝ろうと思っていた。それが彼の心情であった。
問題は、そのことを針小棒大に騒ぎ立てて口実にし、学会を狙い撃とうとしていることである。
表立って、攻撃をしかけているのは野党だが、与党の一部も、学会と公明党を追い込む画策をしているようだ。
あの藤沢達造自身が、内閣官房副長官は、自分を呼んで、言論・出版問題を法務委員会にかける相談にのってくれた――と語っているのだ。
伸一は、ほとんどの政党が、学会を憎悪する宗教団体の支援を受けるなど、各教団と濃密に関わっていることを思うと、学会を襲う波の背後に、政治権力と宗教とが絡んだ、巨大な闇の力を感じるのであった。
大聖人は仰せである。
「悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし」(御書九五七ページ)
正法を滅ぼすために、悪王すなわち政治権力と、邪法の僧すなわち宗教が結託し、民衆の幸福のために立ち上がった智者を迫害するというのである。
伸一は思った。
“主義も、主張も異なる政党と政党が、また、宗教が徒党を組み、創価学会に集中砲火を浴びせるこの構図は、御書に仰せの通りではないか。
しかし、その時に、師子王の心をもって立ち上がるならば、必ず仏になれると、大聖人は、断言されているのだ。
学会攻撃の嵐が吹き荒れている時こそ、自身の人間革命、境涯革命の最大の好機となるのだ”
彼は、心で叫んだ。
「同志よ、負けるな! 師子となって立て!」
烈風 四十五
言論・出版問題が、マスコミを騒がすようになると、学会本部には、差出人不明の脅迫状が届いたり、嫌がらせ電話もかかるようになった。
受話器を取ると、いきなり罵声を浴びせ、殴り込むなどと言って、すごむ電話もあった。
山本伸一の自宅も、警戒が必要であった。
彼は、妻や子どものことを考えると、心配でならなかった。だが、妻の峯子は、何があっても悠然としていた。
彼女は、学会を破壊せんとする前代未聞の暴風雨を乗り切らんとして、一年、いな二年にわたって、丑寅の勤行を断行していった。
また、少しでも時間を見つけては、懸命に御書を拝していった。
御書という“明鏡”に照らすと、信心の眼が開かれ、勇気と確信がわき上がってくるのだ。
ある時、拝した「辧殿尼御前御書」には、次のように認められていた。
「第六天の魔王・十軍のいくさを・をこして・法華経の行者と生死海の海中にして同居穢土を・とられじ・うばはんと・あらそう、日蓮其の身にあひあたりて大兵を・をこして二十余年なり、日蓮一度もしりぞく心なし」(御書一二二四ページ)
――第六天の魔王が、十の大軍勢をもって戦を起こし、法華経の行者と苦悩渦巻く海のなかにあって、仏と凡夫がともにいる娑婆世界を、取られまい、奪おうとして争っているのである。
日蓮は、その第六天の魔王と対決し、大兵を起こして二十数年になる。その間、一度として、退く心はなかった――との意味である。
峯子は、夫の伸一が会長に就任してから、片時も休むことなく、ただ、ただ、人びとの幸福と世界の平和を願って、広宣流布のために走り抜いてきたことを、誰よりもよく知っていた。
まさに、大聖人の仰せのままに、全精魂を注いでの“闘争”であった。
そして、今や学会は、七百五十万世帯の一大民衆勢力になった。
“その大前進が御仏意にかない、第六天の魔王を攻め立てているから、あらゆる勢力が攻撃の牙をむいて、襲いかかってきたのだ”と峯子は確信することができた。
難こそ正義の証明。難こそ誉れ――それが彼女の結論であり、心の底からの実感であった。
語句の解説
◎丑寅の勤行 /丑寅の刻に行う勤行のこと。丑寅の刻とは、午前二時ごろから四時ごろまでの時間をいう。この時刻に、日興上人の時代から広宣流布大願成就を祈る勤行が行われてきたことに由来する。
◎第六天の魔王/人の心を悩乱させ、仏道修行を妨げる「魔」の中でも、最大の働きをなす魔性の王。欲望の世界である「欲界」には六つの天があり、その最上の第六天に住むとされる。人びとを自在に操って破滅させることから、「他化自在天」とも呼ばれる。
烈風 四十六
二月のある日、伸一は峯子に言った。
「どんな時でも、君は決して、笑顔を失わないね。本当に強いんだな。
いつも、悠々としている君を見ていると、ぼくも勇気が出て、元気になってくるよ」
峯子は、微笑みながら答えた。
「こんなこと、なんでもありませんよ。
御書に仰せの通りに生きるならば、難があるのは当然ですもの。
毎日、毎日が、ドラマを見ているようですわ」
「そうだね。
今のことを、懐かしく振り返る日が、きっと来るよ」
二人は頷いた。
来る日も、来る日も、嵐のような非難が打ち続くなかでの、夫婦の会話である。
また、伸一は、子どもたちのことが気にかかっていた。
連日のようにテレビやラジオ、新聞で「言論・出版妨害問題」として扱われ、伸一を証人喚問せよなどと、狂ったように集中攻撃が行われていた時である。
当然、学校でも話題になっているはずである。あるいは、そのことで、あれこれ言われたり、いじめにあっているかもしれない。
伸一は、子どもたちを不憫に感じたが、それは同時に、人生の大事な滋養となるにちがいないと確信していた。
ある時、自宅に戻った伸一は、三人の子どもたちを集めて言った。
「今、学会がどんな状況にあるか、君たちもよく知っているね。
私に対する攻撃も、ますます盛んになってきている」
子どもたちは頷いた。
「でも、驚いてはいけない。また、怖がる必要もない。私は、何も悪いことなんかしていないんだから。
学会がめざしているのは広宣流布だ。それは、地球上の人びとが、民衆が、一人も漏れなく幸福になり、世界が平和になることだ。
そのために、私は戦っている。
しかし、世の中には、学会への誤解や嫉妬などから、学会をつぶしたいと考えている人たちもいる。それで、いろいろ悪口を言われたり、攻撃されたりすることもある。
だが、これは、仕方のないことなんだ」
烈風 四十七
山本伸一は、子どもたちに、今こそ、「正義の人生」とは何かを、生命に刻んでほしかった。
「いつの時代でも、社会をよくしようと立ち上がった人は、迫害にあうものだ。
民衆の幸福や平和のために生きた人の多くが、牢獄に入れられたりしている。
学会の初代会長の牧口先生だって、戦時中、軍部政府の弾圧で捕らえられて、牢獄で亡くなっている。戸田先生も牢屋に入れられている。
人間にとって大切なことは、正義に生きるということだ。信念を曲げないということなんだ。
パパも、そうやって生きてきた。これからも、そうしていくつもりだ。
私は獅子だもの、その子どもである君たちは、獅子の子だ。だから、何があっても負けてはいけない。すべてを笑い飛ばして、堂々と胸を張って生きていくんだよ」
「はい!」
三人が、そろって返事をした。
長男の正弘が、凛々しい口調で言った。
「ぼくたちは大丈夫です。絶対に負けません。広宣流布のために一家が難を受けることは、誇りだと思っています」
「ぼくも平気だよ」
間もなく小学校六年になる末っ子の弘高も、口をとがらせて言った。
「そうか! 獅子の子は強いな」
伸一は嬉しかった。
多くの会員もまた、烈風にさらされていた。
試練は、人の本性を暴き、淘汰する。
――勇気の人か、臆病者か。正義の人か、偽善者か。信義の人か、背信の徒か。
臆病にして卑怯な者たちは、五人、十人と、非難の唾を吐きながら、同志を裏切って、学会を去っていった。
しかも、それまで幹部面をして、威張っていた連中であった。
その姿をまざまざと見た、正義と情熱に燃える知性あふれる伸一の愛弟子たちは、激怒した。
“遂に卑劣な本性を現したな。
われらは、断固として学会を守る! 師匠を守る! あんな卑怯な人間たちとは、一生涯戦い抜く。そして、絶対に勝ってみせる!”
真の弟子は、敢然と立ち上がったのである。
烈風 四十八
集中砲火を浴びる創価学会を見て、多くの識者たちは、“これだけ、あらゆる次元の総攻撃を受けた学会は、必ず壊滅するであろう”と予測したようだ。
二月には、学会系の出版物への執筆拒否を宣言した作家などがいたが、それ以外にも、多くの識者が、学会と距離を置いたり、学会との関係を断っていった。
だが、後年、彼らは、学会の大興隆を見ながら愕然とした。学会は、前代未聞の非難中傷を浴びながら、同志は、ますます意気揚々と歓喜に燃えて、社会に平和の波を広げながら、大前進していたからである。
しかも、創価の人間主義のスクラムは、SGI(創価学会インタナショナル)として、二〇〇三年(平成十五年)には、世界百八十六カ国・地域に広がることになる。
そして、真の「平和」と「文化」、さらに「人権」と「民主」の団体として、世界中から顕彰され、大賞讃されている。
学会は、世界を照らす幸福の太陽となって、二十一世紀の大空に昇ったのだ。
毀誉褒貶の似非文化人たちには、創価学会の歴史も、真実も、そして、山本伸一の正義も、わからなかったのである。
烈風をついて、いっさいを乗り越え、大発展を遂げた学会に対して、ある識者は、「二十世紀の奇跡のなかの偉大な奇跡を残した」と、溜め息をついて語っていたという。
さらに、卑怯にも学会を裏切った者たちも、学会があらゆる試練を勝ち越えて、朝日が昇るがごとく隆盛する姿を見て、驚愕したようだ。
なかには、心から懺悔し、深く頭を垂れて詫び、学会の陣列に戻ってきた者もいる。
その姿は、あまりにも不甲斐なかった。伸一と共に戦い抜いた愛弟子たちは、そうした人物の名前も顔も、決して忘れることはできなかった。
また、信心がよくわからずに、激しい批判の大風に慌て驚き、「こんなはずではなかった」と、学会を離れていった人たちも哀れであった。
やがて、幸福の根本軌道を踏みはずしていたことに気づいた時の悔恨は、限りなく深かった。
厳しきは、仏法の因果の理法である。厳然たる生命の審判である。
烈風 四十九
学会への激しい非難中傷の嵐のなかで、真っ先に立ち上がったのが、創価後継の若獅子である学生部であった。
学生部幹部会での渡吾郎の話が、二月二十三日に、「言論・出版の自由にかんする懇談会」によって、無断で公表されたことを知ると、学生たちの怒りは爆発した。
「そもそも、あの会合は、学会の学生部が主催し、学生部員を対象に行ったものだ。
取材などの要請は、機関紙以外はなかったと聞いている。ということは、公表されたテープは、密かに録音するなど、不当な方法で入手したことになる」
「これは、集会の自由を脅かすものだ!
民主主義の原則からいっても、許されることではない」
「著作権の問題もあるぞ。登壇者本人の許可もなく、不当に録音したテープを公開したり、他に転載することは、著作権の侵害になるはずだ」
「彼らは、自分たちは言論・出版・表現の自由、民主主義を守るための、学者、文化人などの集まりだという。
その団体が、平然と基本的人権を侵しているんだ。これほどの欺瞞はない。これは、断固、抗議すべきだ」
なかでも早稲田大学に学ぶ学生部員の怒りは激しかった。
“懇談会”の世話人のロシア文学者が、早大出身であったからだ。
彼らは、代表を選んで抗議に行くことにした。
渡が国対委員長を辞任した翌日の二月二十八日の午前中、四、五人の学生部員が、“懇談会”の世話人の家に向かった。
学内組織の中心者の一人で政経学部三年の加藤正秋と、商学部四年の中山貴久司らであった。
彼らは緊張していた。
世話人が、どういう対応をするのかは、全く予想できなかったからだ。
面会を拒否するかもしれないし、怒って言い争いになることも考えられた。また、不在かもしれなかった。
その世話人の家は、郊外の公団住宅であり、そこが“懇談会”の連絡先にもなっていた。
学生服姿の加藤が表札を確かめてから、入り口のブザーを押した。
ドアが半分ほど開けられ、中年の男性が顔を出した。
烈風 五十
学生たちは、ドアを開けた男性が“懇談会”の世話人であることを確認すると、まず、眉の濃い、精悍な顔立ちの加藤正秋が自己紹介した。
「私は、創価学会の学生部員で、早稲田大学の加藤正秋と申します」
続いて、長身の中山貴久司らも同じように名乗った。
相手は、驚いた顔で学生たちを見た。
すかさず、加藤が訪問の目的を告げた。
「先日、あなたたちは、私たちの学生部幹部会での話を録音したテープを、無断で公開されましたね。この件で抗議にまいりました」
そして、封筒に入れた抗議文を手渡した。
抗議文には、不当な方法で録音した可能性の高い会内行事のテープを、無断で公表し、新聞等に掲載させたことは、著作権の侵害であり、さらに、集会の自由、信教の自由、言論の自由を脅かすものであると記されていた。
そして、三日以内に、謝罪と、録音テープの入手方法を公開することなどを要求していた。
相手は、ドアを半開きにしたまま、「わかりました」と言って、それを受け取った。
加藤は、簡潔に抗議文の内容を述べた。
話し終わるや、ドアが閉められた。
彼らは、ひとまずは、これでよしとし、意気揚々と引き揚げた。
期限とした三日が過ぎたが、「言論・出版の自由にかんする懇談会」からは、なんの返事もなかった。
しかし、学生部員のこの抗議行動は、聖教新聞などに報道され、全学会員が活気づいた。
皆が、今、自分にできることは何かを考えた。
「今こそ、学会の正義と真実を語り抜く時だ。自分の体験を通して、学会のすばらしさ、信心の偉大さを語り抜くことなら、私にもできる。戦おう!」――同志の多くはそう考え、決然と立ち上がったのである。
三月十一日のことであった。
この日、発売された、ある週刊誌に、前年九月に秋月英介らが、批判書の著者である藤沢達造の家を訪問した折のやり取りが掲載された。
見出しには、「公明党言論抑圧問題」「『極秘テープ』の全貌」などの文字が躍っていた。
烈風 五十一
「極秘テープ」というのは、藤沢達造が秋月英介たちとの話し合いを密かに録音したテープで、週刊誌の内容は、それを原稿に起こしたものであった。
藤沢が、学会から言論・出版を妨害された「決定的な証拠」があると言い続けてきた録音テープである。
しかし、公表する、公表する、と言いながら、なかなか世に出なかったテープだ。それが、遂に公表されたのである。
“これで言論・出版妨害は動かぬ事実となる”
世の中の人びとは、そう思ったにちがいない。
ところが、その内容を読んだ人のなかには、“これが妨害や抑圧、脅迫になるのか”という疑問を感じた人も、少なくなかった。
このころ、国会では衆院予算委員会で、社会、民社、共産の三党が言論・出版問題を取り上げ、証人喚問並びに調査特別委員会の設置を要求していた。
衆院予算委員会は、理事会で検討した結果、この問題は各党の国対委員長会談に処理を委ねることにした。
そして、三月十一日から、自民、社会、民社、公明の四党で国会対策委員長会談がもたれた。
会談から共産が外されたのは、京都府知事選をめぐって共産と民社の激しいいがみ合いが続いていたためである。各党は、共産がいたのでは話し合いにならないと考えたようだ。
学会と公明党を攻撃するための、社会、民社、共産による三党の共闘に、早くも亀裂が走り始めたのである。
国対委員長会談では、言論・出版問題の衆院予算委員会での論議は打ち切り、ほかの適当な委員会に移すことで意見の一致をみた。
また、会談では、証人喚問についても話し合いが行われた。
公明は、党利党略のための国会喚問など、断じて認めるわけにはいかなかった。
自民党も、最終的には、これは「国会で取り上げる問題ではない」と判断した。
公明、自民の反対で証人喚問は難しいとみた社会、民社の両党は、「これ以上の話し合いは意味がない」と言い出し、結局、国対委員長会談は打ち切られた。
烈風 五十二
三月十七日、社会、民社、共産三党の議員たちは、藤沢達造をはじめ、学会と公明党によって言論・出版妨害を受けたとする著者や出版関係者ら七人を呼び、「出版妨害問題真相究明議員集会」なる会合を開いた。
民社と共産の反目は続いていたが、学会と公明党の攻撃のために、なりふり構わず、また手を結んだのである。
会場となった衆院第一議員会館には、三党の衆参両院議員七、八十人が集まった。
集会は、国会での証人喚問を真似て、代表の議員の質問に出席者が答えるというかたちで進められたが、学会と公明党への中傷に終始した。
そして、最後に、「今後とも、それぞれの党の立場で、真相の究明に努力する」との、共同アピールが発表された。
この集会から二日後の十九日、民社党は、今度は、公明党と創価学会は憲法で定めている政教分離の原則に違反する疑いがあるとして、政府に質問主意書を提出した。
これに対して政府は、政教分離の原則は、宗教法人の政治活動を排除しているわけではないと回答している。
すると、民社党は四月二日にも、再度、政治と宗教についての質問主意書を提出したのだ。
一方、社会党は、参院の予算委員会でも、言論・出版問題を取り上げていった。
あらゆる手を使っての執拗な攻撃である。この機会に、なんとしても学会と公明党に大ダメージを与えたいと、血道を上げていたのだ。
山本伸一は、どんなに体調の不良が続いていた時にも、毎月の本部幹部会には、必ず出席した。
出れば、全力で激励、指導しないわけにはいかなかった。学会歌の指揮もとった。それが、また体調を悪化させた。
彼は、病床にありながらも、学会の未来、そして、日本と世界の未来について、思案をめぐらせていた。
伸一の病状に、ようやく好転の兆しが見え始めたのは、春三月に入ってからのことであった。
彼が、真っ先に行ったことは、日中友好の先達である松村謙三との会談であった。日本と中国の国交正常化を実現し、両国の万代にわたる友情と信義の道を開くための語らいである。
語句の解説
◎松村謙三/
一八八三〜一九七一年。富山県出身の政治家。新聞記者を経て、一九二八年の第一回普通選挙で衆議院議員に当選。幾度も閣僚を務め、六九年に引退した。戦後、農相時代には、第一次農地改革を推進。また日中友好を“生涯の悲願”として訪中を重ね、国交正常化に尽力した。
烈風 五十三
桜花の季節が訪れようとしていた。
四月二日、総本山の大客殿で、第二代会長戸田城聖の十三回忌大法要が厳粛に営まれた。
山本伸一の体調は、まだ完全に回復したとはいえなかった。
だが、大法要に出席した彼は、気迫にあふれていた。
全国から集った参列者は、伸一の姿を見て、安堵に胸を撫で下ろした。
本部幹部会を除けば、山本会長の会合等への出席は、二月はほとんどなく、三月も数回にすぎなかったことから、皆、彼の健康を心配していたのである。
焼香などが続き、最後に伸一の話となった。
彼は、師の戸田城聖に語りかけるように話し始めた。
「私どもの畏敬する恩師戸田城聖先生に捧げます……」
力強い声であった。
伸一は、在りし日の戸田を偲び、遺徳を讃えたあと、師亡きあとの弟子たちの戦いの歩みを語っていった。
「先生! 力なき私どもではありますが、不肖私を代表として、ただ勇猛精進し、遂に七百五十万世帯を超える広宣流布の法戦を、進めることができました。
先生の後を継いで会長職を汚すこと十年。あまりにもいたらぬ私ではありましたが、大御本尊の偉大なる御力により、また、多くの同志の支援により、先生の仰せられたご構想は、ことごとく実現することができたと思っております」
伸一は、弟子として、師に胸を張って広宣流布の敢闘の歩みを報告できることが、何よりも嬉しかった。
「今まさに、広宣流布実現の象徴ともいうべき正本堂が、その雄姿を現さんとしております。
加えて、大御本尊の御威光は、遠く海を越え、南北アメリカにも、東南アジアにも、そして、ヨーロッパ、アフリカにまで、燦然と輝き渡り、先生の幾十万の弟子の活躍を見るまでに至っております。
正本堂落慶の式典には、これら世界の各地から、地涌の菩薩たちが来集し、先生の言われていた『地球民族』の壮大な絵巻を繰り広げていくことになります」
伸一の胸いっぱいに、満面に笑みを浮かべた、懐かしい戸田の顔が広がっていた。
烈風 五十四
大客殿に、山本伸一の獅子吼が響いた。
「先生! 広宣流布の流れは、遂に渓流より大河の流れとなりました。必ずや、やがて洋々たる大海に注ぐ日も、眼前でありましょう。
妙法の曙光に金波は躍り、水平線の彼方には、生命の讃歌がわき起こっております。
御本仏・日蓮大聖人の広大な御慈悲、そして、末法折伏の総帥・恩師戸田城聖先生のご構想は、末法万年の一切衆生をば、大白法の功徳に浴せしめ、一切衆生の幸福境涯と、常寂光土の平和社会を具現することを、強く確信いたします。
私たちは、いかに嵐が叫ぶとも、怒濤が猛り狂うとも、御仏の、獅子王の子らしく、また、戸田門下生の誇りをもち、それぞれの使命の庭に、必ずや勝利の記念碑を打ち立ててまいります。
先生が亡くなられる直前に言われた、『一歩も退くな!』『追撃の手をゆるめるな!』とのお言葉を、私ども弟子一同は、深く、深く、胸に刻んで、障魔と戦い、勇気凛々、仲良く生き抜いてまいります」
烈々たる誓いの言葉であった。
学会の社会建設を恐れる勢力は、伸一に照準を合わせ、集中砲火を浴びせていたが、彼に逡巡はなかった。
ただ、広宣流布という「師弟の道」を、まっしぐらに進みゆく決意を固めていたのである。
間もなく、第二の十年の出発となる五月三日が近づきつつあった。
伸一は、日ごとに健康を取り戻していった。
彼は、戸田城聖の十三回忌法要で自ら語ったように、広宣流布の流れは渓流から大河へと、大きく変わろうとしていることを実感していた。
その転換期に言論・出版問題が起こったのだ。
御書には仰せである。
「夏と秋と冬と春とのさかひ(境)には必ず相違する事あり凡夫の仏になる又かくのごとし、必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり」(一〇九一ページ)
この御文に照らして、言論・出版問題は、広宣流布の波が広がり、人間主義に目覚めた民衆勢力が台頭し、時代の転換点を迎えたがゆえに起こった烈風といってよい。
語句の解説
◎三障四魔/
信心修行を阻み、成仏を妨げる三種の障り(煩悩障、業障、報障)と、四種の魔(煩悩魔、陰魔、死魔、天子魔)のことをいう。
烈風 五十五
新時代に飛翔するために、学会は、機構の改革を推進していた。
「政教一致」などという批判は、その機構の整備が進みつつあることを知ったうえで、改革途上ゆえの未整理な部分を、あえて突き、攻撃材料としたのかもしれない。
山本伸一は、日蓮大聖人が流罪の地・佐渡でお認めの「開目抄」に「世間の失によせ」(御書二三一ページ)との一節があることを思い起こした。
弾圧は、「社会的な問題」を探し出し、時には捏造して罪を被せ、それを理由にして起こるのである。
したがって、少しでも社会に誤解を与えるような、曖昧さがあってはならないし、社会のルールをいい加減に考える、甘えや傲りがあっては絶対にならない。それが、魔の付け入る隙を与えてしまうからだ。
ゆえに、学会の組織も個人も、常に社会との緊張感をもち、どこから見ても、非の打ち所のない、社会の模範となる存在でなければならない。
伸一は、今回の問題が意図的に仕掛けられた問題であったとしても、結果的に社会を騒がせてしまったことに、会長としての責任を感じていた。
彼は、批判書をめぐる学会の対応について、社会という観点から冷静に分析を重ねていった。
――まず、秋月英介らが、著者の藤沢達造や出版社の関係者に会い、内容についての申し入れを行ったが、そのどこに問題があったのだろうか。
秋月は、事前の話し合いで解決できるものならと考えて、行動したのであろう。
秋月らは、あくまでも要請を伝えたにすぎず、その言い方も丁重であり、妨害の意図など全くなかった。
だが、本の出版前に接触をもったということ自体が問題とされたのだ。
ということは、事実と異なる屈辱的なことを書きたい放題書かれ、名誉や人格が傷つけられることがわかっていても、事前には、なんの対応もできないことになる。
おかしな話ではある。
しかし、事前に接触したことが攻撃の口実にされ、言論を抑圧したかのような誤解を社会に与えてしまったのだ。社会性のうえから、慎重に配慮し、より適切な対応をするべきではなかったか。
烈風 五十六
今回、学会が書籍の取次各社や書店に対して、批判書を扱わぬよう組織的に圧力をかけたと、盛んに喧伝されている。
出版関係業務に携わるメンバーのなかに、取次店や書店で批判書の非道さを訴え、取り扱いの配慮を要請した人はいたようだ。
しかし、その書籍を取り扱うかどうかは、本の内容や出版社の業績等から、取次各社が独自で判断したはずである。
特定の宗教団体や政党を激しく中傷した書籍や、業績のない出版社の本の取り扱いに対して、取次各社が慎重になるのは当然であろう。
ところが、義憤を感じてのこととはいえ、一部の学会員の取次店や書店への訴えかけが、“組織的な圧力”などと喧伝されてしまったのである。
気持ちはわかるが、一つ一つの行為が結果的にどう見られるかという客観的なものの見方、慎重さを欠いていたことは間違いない。
また、学会の圧力で新聞広告や電車の中吊り広告の扱いも断られたと言っているが、それは、各社が広告倫理規制などに基づいて判断したものであろう。
そもそも、衆院選挙前に、学会と公明党を攻撃する、選挙妨害の疑いさえある書籍の広告を、不偏不党をうたった大新聞等が扱うなど、考えられないことではないか。
では、膨大な数の抗議の電話や手紙が殺到し、学会から圧力をかけられたとされていることはどうか。
学会員の怒りは、確かに激しいものがある。自分たちの団体が、「狂信者の群れ」「ナチス」「愚民化」などと罵倒されれば、普通の神経なら、誰でも怒りを覚えるであろう。また、一部に抗議する人が出るのも当然である。
悔しさと怒りに震える学会員の抗議には、強い語調の電話や、論旨に飛躍が見られる文面もあったかもしれない。
学会は既に七百五十万世帯を突破している。仮に千世帯に一人、一万世帯に一人が抗議の手紙を書いても、受け取った側から見れば膨大な数に上り、脅威を感じ、結果的に迷惑をかけてしまったにちがいない。
それにしても、伸一が腑に落ちないのは、いやがらせや脅迫電話、脅迫状が相次いだと言われていることである。
烈風 五十七
もし、喧伝されたように、学会員が、脅迫じみた言動をとれば、さらに学会に非難が集中することは自明の理である。
そんな学会を貶めるようなことを、あえて学会員がするとは、どうしても考えられなかった。
脅迫電話や脅迫状があったとするなら、学会への反発や敵意を高めさせるための謀略かもしれない。
しかし、困ったことには、それを証明する手立てはなかった。
ともあれ、学会が小さな団体であれば、なんでもないことでも、大きな勢力になれば、意図に反して相手は脅威を感じることもある。
これまで学会は、若さゆえに、批判に対して、あまりにも敏感すぎたのかもしれない。日本第一の教団に発展した今、学会は、社会を包み込む、成熟した寛容さをもつことの大切さを、山本伸一は痛感するのであった。
そして、今回の問題で、結果的に社会を騒がせ、関係者に迷惑をかけてしまったことについては、会長である自分が率直に謝ろうと思った。
ただ、言論の暴力と戦う権利は誰にでもある。悪を許さぬ、清らかな正義の心は永遠に失ってはならない。
その“純粋性”と“寛容性”とをいかにして併せ持っていくかが、これからの学会の課題であろうと彼は感じていた。純粋なる正義の心が失われてしまえば、「大河の時代」は、濁流の時代と化してしまうからだ。
四月に入っても、野党各党は、衆院の法務委員会や参院の予算委員会などで言論・出版問題を取り上げ、学会への執拗な追及が続いていた。
いまだ闇は深く、烈風が吹き荒れていた。
言論・出版問題は、伸一の会長就任以来、初めての大試練となった。
だが、それは、最も理想的な社会の模範となる創価学会をつくろうとする彼の決意を、一段と固めさせた。
いわば、この試練が未来への新たな大発展の飛躍台となったのである。
伸一の胸には、新生の創価の太陽が、赫々と昇ろうとしていた。
そして、五月三日の本部総会で、伸一は、この言論問題について謝罪するとともに、壮大な世界の広宣流布への展望に立ち、新生の決意を披歴していったのである。(この章終わり)