楽土 一

 「さあ、新しい年だ。山本先生は、どんな詩を発表されるのだろう」
 全国の会員は、聖教新聞の新年号に掲載される山本伸一の詩を、楽しみに待っていた。
 そして、胸を躍らせながら、一九六九年(昭和四十四年)「建設の年」の元日付の聖教新聞を手にした。一面に、「建設之譜」という、伸一の特徴ある、力強い毛筆の文字が躍っていた。
 これが、この年に、彼が全同志に贈った、詩のタイトルであった。
 
 おお 煌然として 太陽はのぼる
 新しき生命の 鼓動にあわせて――
 建設の戦士 いま起ちて
 建設の譜を 謳わんとす
 七彩の雲ながれ
 ああ 暁鐘は鳴りわたる
 
 同志は、自らの決意を確認する思いで、この詩を読んでいった。
 
 破壊は 一瞬
 建設は 死闘
 惰性は暗 希望は明
 後退は死 前進は生
 
 白法の隠没せんとした時から
 ああ 二十余年……
 
 国破れた山河に ただひとり
 恩師は 曠野にむかって叫んだ
 ――大聖哲の昔に還れ! と
 いま 建設の槌音のなかで
 私は 声をかぎりに叫ぼう
 ――曠野に立った 恩師の昔に還れ
 ――そして 大聖哲の昔に還ろう
 
 総本山では、七二年(同四十七年)の完成をめざして、八百万信徒の赤誠による、正本堂の建設が始まっていた。
 正本堂は、やがて本門の戒壇となる建物であり、広宣流布の大前進の象徴である。
 ゆえに全同志が、その槌音とともに、自身の胸中に不滅なる信心を築き上げ、広宣流布の勝利の実証を打ち立てなければならないというのが、伸一の信念であった。
 そして、そこにこそ、永遠ならしめるべき、この世界平和の大殿堂を荘厳する道があると、確信していたのである。


楽土 二

 正本堂建設の喜びに、学会も、宗門も、わきかえっていた。
 だが、仏法上、極めて重要な意義をもつ正本堂も、建物の建造だけをもって事足れりとすれば、信心の内実を欠いた、権威のための伽藍となってしまう。
 それでは、魂の抜け殻に等しい。
 伽藍は、信心という光源があってこそ、光り輝くのである。
 したがって、今こそ、全同志が勇猛果敢に立ち上がり、万代にわたる広宣流布の堅固な基盤を完成させなければならないと、山本伸一は、強く決意していたのである。
 だから彼は、詩のなかで「礎は 深く ふかく そして 岩底まで 掘らねばならぬ」と訴え、こう叫んだのである。
 
 一人が 一人の宝塔をひらき
 そのまた一人が――
 もう一人の 宝塔を建てねばならぬ
 
 慈悲と忍辱と勇気と空前絶後の――
 栄えある 果敢な闘魂が
 いまほど 絶対の要請となった時はない
 
 そして、詩は、次の言葉で結ばれていた。
 
 指標に進む 建設の友よ
 使命に生きる 建設の勇士よ
 警世の篝火を 狼煙のごとく
 空高く また遠く
 掲げゆけ!
 
 「建設之譜」は、全国の同志の魂を、強く、激しく揺さぶった。皆、武者震いを覚えた。
 特に「破壊は一瞬 建設は死闘」は、同志の合言葉となった。
 この年の五月三日で、伸一は会長就任九周年を迎え、十年目の佳節に突入することになる。
 いよいよ学会は、新しい大前進が始まるにちがいない――と、同志の誰もが感じていた。
 それだけに、皆、詩の行間から、伸一自身の、決戦の心意気を感じ取っていた。
 “今しかない。時は戻らない。この一瞬、この一年こそが勝負だ。今こそ広宣流布の新しい幕を開くのだ。自分自身の黄金の歴史をつくろう!”
 「建設の年」の未曾有の大勝利の因は、実に、伸一の、年頭のこの詩にあったといってよい。


楽土 三

 山本伸一は、この「建設の年」の一年も、くまなく日本全国を回り、同志を励まし続ける決意でいた。
 一月は、首都圏のメンバーの激励に奔走し、二月に入ると、八日から十二日まで、関西、中部を訪問した。
 そして、十五日の午前十時半過ぎには、彼は沖縄の天地に立っていた。
 那覇は、「曇後雨」の予報を覆し、晴れ渡った空が広がり、初夏を思わせる陽気であった。
 伸一の胸には、沖縄の楽土建設への闘魂が、照りつける太陽にも増して燃え盛っていた。
 沖縄は、本土復帰、さらに、米軍基地の問題で揺れ続けていた。
 前年の十一月、嘉手納基地で、戦略爆撃機B52の墜落事故が起こった。
 幾度となく、こうした事故の被害に泣き、常に危険にさらされてきた沖縄住民の怒りは、激しく燃え上がった。
 この事故が契機になって、「いのちを守る県民共闘会議」が結成され、B52の撤去のための運動が、広がりを見せていったのである。
 そして、B52の常駐から一年となる二月四日、共闘会議は嘉手納村(当時)で、同機の撤去、原子力潜水艦の寄港中止などを求める、県民の総決起大会を開いた。
 大会は、左翼系学生から超党派の婦人連合会、キリスト教団体、基地周辺の農民、漁民など、約五万五千人(主催者発表)が参加する大規模な集いとなった。
 宣言や決議の採択に続いて、デモ行進に移ったが、過激派学生らが基地突入を図り、琉球警察の機動隊と激しい乱闘となったのである。
 沖縄の米軍基地は、六〇年代後半に入ってベトナム戦争が拡大すると、利用頻度が激増していった。また、以前から配備されていた核兵器の問題もあり、住民は基地に対して、大きな脅威を感じてきた。
 一九六七年(昭和四十二年)十一月、佐藤栄作首相とジョンソン米大統領との会談で、沖縄の施政権を日本に返還する方針が明らかになった。
 本土復帰は、人びとの悲願であった。だが、復帰した時、核や基地はどうなるのか――それが、最大関心事であった。
 そのなかで戦略爆撃機B52の墜落事故が起き、反核・反基地運動に火をつけたのである。


楽土 四

 沖縄の問題は、山本伸一が最も胸を痛めてきたことの一つであった。
 彼は、佐藤・ジョンソン会談の三カ月前にあたる、一九六七年(昭和四十二年)八月の第十回学生部総会で、沖縄問題について、次のように言及していった。
 「日本の一部である沖縄が、戦後二十二年間もアメリカの統治下に置かれてきたことは、沖縄の百万島民はもちろんのこと、日本人全体にとっても、忍びえないことでありました。
 したがって、名実ともに、沖縄のすべてを日本に復帰させることは、現地住民の悲願であるだけでなく、日本国民全体の願いであります。
 現在、沖縄は、米軍の施政下にあり、現地の人びとは、日本人として平等の人権が尊重されず、普遍的な国民福祉の享有が、できない現状であります。
 のみならず、沖縄に軍事基地が置かれている事実は、日本の運命、世界の平和にとって、大きな脅威であり、核兵器の持ち込みは、日米間の友好関係を促進するうえに、大きな障害となっております。
 私は、この沖縄の現状を改善していくために、次のように主張したいのであります」
 そして、「施政権の即時全面返還」「核基地の撤去」「通常基地の段階的全面撤去」を訴えたのである。
 また、産業振興対策を強力に推し進めていくために、「沖縄経済総合開発調査会」「沖縄総合開発銀行」の設立等も提案していった。
 彼の提案は、これまで沖縄に何度も足を運び、その現状を見て、さまざまな人びとと対話を重ねるなかで、練り上げてきたものであった。
 核も、基地もない、平和で豊かな沖縄になってこそ本土復帰である――それが、沖縄の人びとの思いであり、また、伸一の信念であった。
 「本土復帰」という住民の悲願の実現を盾に、核兵器や基地を沖縄に背負わせるとするならば、かつて沖縄を本土決戦の“捨て石”にしたことと同様の裏切りを、政府は重ねることになる。
 まだ、返還への具体的な目途が見えない状況のなかで、伸一は、日本の進むべき道を、必死になって示そうとしていた。


楽土 五

 沖縄の友の、崩れざる幸福と、永遠の平和の建設こそ、山本伸一の誓願であった。
 彼は、沖縄の本土復帰が速やかに、また、核基地などは、当然、撤去した、安全なかたちで行われるように、力を尽くす決意を固めていた。
 とともに、沖縄の友に寄せる伸一の励ましは、一段と力強さを増した。
 真の繁栄と平和を勝ち取ることができるかどうかは、最終的には、そこに住む人びとの、一念にこそかかっている。
 人間が、絶望や諦めの心をいだき、無気力になったり、現実逃避に走れば、社会は退廃する。
 楽土の建設は、主体である人間自身の建設にこそかかっているのだ。
 楽土を築こうとするならば、他の力を頼むのではなく、平和のため、人びとの幸福のために、自分が一人立つことだ。
 何があっても、絶対に屈することのない、強き信念と希望の哲学をもつことだ。複雑な現実の迷路を切り開く、聡明な知恵を働かせることだ。
 そして、その源泉こそが、日蓮大聖人の仏法なのである。
 御聖訓には、「心の一法より国土世間も出来する事なり」(御書五六三ページ)と仰せである。
 ゆえに伸一は、会員一人ひとりの胸中深く、確固不動なる信心の杭を打ち込もうと、心に誓っていた。
 地域、社会の建設は、最終的には、民衆がいかに活力と意欲に満ち、聡明であるかに、いっさいはかかっている。
 その民衆の力を引き出すことが、信仰の大きな意義でもある。
 
 二月の十五日、空港から那覇市の沖縄本部に向かった伸一は、直ちに、新装なった会館の広間で開催された勤行会に出席した。
 沖縄本部は、一九六二年(昭和三十七年)七月に落成した二階建ての建物であったが、飛躍的な会員の増加にともない、手狭となったために、前年の六月から増改築工事を行っていた。
 そして、三階建ての本部として装いを新たにし、礼拝室となる広間も百二十八畳となり、全体の床面積は約二倍の広さとなったのである。
 ここでの勤行会から、伸一の全力投球での激励と指導が始まった。


楽土 六

 勤行会の会場の広間に向かって歩きながら、山本伸一は、沖縄の中心者である副理事長の高見福安に語った。
 「私は、三泊四日しか沖縄に滞在できません。だからこそ、真剣勝負で戦います。一人でも多くの人と会い、発心の種子を植えていきます。
 リーダーが真剣であり、懸命であるということが、どれほど大きな力となるかを、知ってもらいたいんです。
 本当に必死であれば、勇気がわく。力がわく。知恵がわく。自分の壁も乗り越えていくことができる。
 真剣であること、誠実であることこそ、指導者の要件です」
 
 伸一は、この勤行会の席上、大発展を遂げた沖縄創価学会の同志の敢闘を心から讃えたあと、力を込めて訴えた。
 「楽土の建設といっても、そこに住む一人ひとりが、自らの宿命を転換し、さらに、国土の宿命を転換していくことが根本です。
 今日を沖縄の第二段階への出発の日として、再び“じっとこらえて今に見ろ”との心で、柔和忍辱の衣を着て、スクラムを組んで、朗らかに前進していこうではありませんか!」
 正午過ぎに勤行会が終わった。
 伸一は、流し込むように昼食をとり、すぐに車で北谷村(当時)にある体育館に向かった。
 班長、班担当員など六千人のメンバーとの、記念撮影会に出席するためである。
 地区、班の幹部と、伸一との記念撮影は、四年前から始まったが、沖縄での開催は、これが初めてであった。
 那覇を出てしばらく行くと、延々と基地の高い金網が続き、彼方に、爆撃機と思われる尾翼が並んでいるのが見えた。
 道路を行き交う車も、軍用車が目立ち、離着陸するジェット機の轟音が頭上を圧した。
 まさに基地の島であることを実感させる光景であった。
 その沖縄で、同志は、この日が来るのを、一日千秋の思いで待ちわびていたのだ。
 参加者は、沖縄本島はもとより、宮古・八重山諸島からも、船で一日がかりで、喜々として集って来た。


楽土 七

 記念撮影は、午後二時に開始となった。
 撮影は、全部で二十数回を予定しており、壮年部、婦人部、女子部、女子高等部、男子部、学生部・男子高等部の順に進められた。
 山本伸一は、撮影の前後にはマイクを取り、参加者の労をねぎらい、指針を示し、握手を交わすなど、休みなく動いた。
 壮年部六グループの撮影が終わり、婦人部の記念撮影に入った時、彼は撮影台の上にいた二人の老婦人に声をかけ、傍らに招いた。
 沖縄本島から南西三百二十キロにある伊良部島から参加したメンバーであった。
 二人は、人口一万人ほどのこの島で、黙々と、広布の開拓に汗を流してきた。
 二人のうち、先に信心をしたのは、池谷カメであった。
 彼女の娘の頼子は、結婚し、子どももいたが、体が弱く、めまいや動悸に苦しみ、家事さえもできない状態であった。
 そのうえ、家庭不和にも悩んでいた。
 霊能者といわれる「ユタ」のもとに通ったが、何も変わらなかった。
 その頼子が、那覇から里帰りした知人に仏法の話を聞き、信心に励むようになると、日ごとに元気になっていった。
 それを見て、母のカメも、九年前に入会したのである。
 カメ自身も、長年、夫との不和で苦しみ、さらに六人の子どものうち、四人を病気と事故で亡くしていた。
 苦しみと諦め――それが人生なんだと、彼女は自分に言い聞かせて生きてきた。そんな日々のなかで、酒を口にすることだけが、せめてもの慰めだった。
 しかし、入会して、勤行・唱題に励み、学会活動に参加するようになると、心が弾み、人生に希望を感じている自分に気づいた。
 “こんな私にも使命がある。人に幸福の道を教えることができるんだ”
 その思いが、喜びと生きがいになっていたのである。
 ところが、学会が日本本土から来た宗教ということから、周囲の反発は激しかった。
 「ヤマトガミなど拝むな」と言われ、石を投げられ、家のガラスを割られたりもした。


楽土 八

 池谷カメは、何があっても挫けなかった。
 娘と自分の体験から、信心のすばらしさを痛感していたからだ。
 島の交通の便は悪く、会合などに参加すれば、四キロ、五キロと、夜道を歩いて帰らねばならなかった。
 でも、娘や孫と学会歌を歌い、家路をたどる時、彼女は“人生とはこれほど楽しく、満たされたものなのか”と、しみじみと喜びを噛み締めるのであった。
 カメの入信から三年ほどして、もう一人の老婦人である福丘カツが入会した。
 二人は、来る日も、来る日も、一緒に弘教に歩いた。
 その健気な姿を、島の学会員は「二人が夫婦なら、大聖人御在世当時の阿仏房と千日尼だ」と讃えるのであった。
 彼女たちは、砂糖キビを栽培していた。
 ある時、台風で、島の砂糖キビに大きな被害が出た。しかし、二人の畑は、ほとんど被害がなかった。周囲の人も、不思議がるほどであった。
 彼女たちは、聖教新聞などに掲載される山本会長の指導を、何度も読み返しながら、誓い合ってきた。
 「必ず、伊良部中の人に仏法を教え、幸せにしようね」
 「そうだね。山本先生に、この決意を、直接、聞いていただこうよ」
 二人は、その機会が訪れることを願って、懸命に、唱題に唱題を重ねてきたのである。
 
 伸一は、並んでいたメンバーに視線を注いでいった。そのなかに、二人の老婦人がいた。彼は、なんともいえない生命の輝きを感じた。
 伸一は、日々、真剣に祈り、念じていた。
 “広宣流布のために、人知れず汗を流し、涙を流している同志を探し出し、讃え、励ましたい。無冠の勇者を一人でも多く顕彰していきたい”
 それが会長である自分の責務であると、考えていたからだ。
 だから彼は、“無名の王者”を絶対に見逃すまいと、鋭敏なレーダーのように、常に心を研ぎ澄ましてきた。
 そのなかで、健気なる同志の発する魂の輝きともいうべきものを、敏感に感じ取るようになっていたのである。


楽土 九

 山本伸一から声をかけられた二人の老婦人は、頬を紅潮させ、急いで彼の前に来た。
 伸一は、笑顔で包みながら言った。
 「遠いところ、本当にご苦労様です。皆さんが広宣流布のために、どれだけ真剣に戦ってこられたか、私にはよくわかりますよ。
 すがすがしい生命の輝きが、それを明確に物語っていますから。
 お二人とも、檜舞台に立って、スポットライトを浴びることはなかったかもしれない。
 しかし、地域広布の大功労者です。
 その功徳、福運は、永遠であり、三世にわたってご自身を荘厳し、ご家族にも、子孫にも、回向されていきます」
 伸一の言葉に、うん、うん、と頷く老婦人の目から涙があふれた。
 二人は、“あれも話そう、これも報告しよう”と思っていたが、いざ伸一の前に立つと、何も言えなかった。
 ただ、ただ、涙が込み上げてくるのだ。
 池谷カメが、ようやく口を開いた。
 「先生、私は、既にたくさんの功徳をいただきました」
 「それは、よかったですね……。
 おばあちゃんたちは、まるで、私のお母さんのようだな。いつまでも長生きしてください」
 伸一は、左右の手を使い、それぞれの老婦人の手を優しく握った。
 老婦人たちも、伸一の手を、両手で強く握り返した。そして、しばらくは離そうとせず、童女のように泣きじゃくった。
 「さあ、涙を拭いてください。私は、いつも皆さんと一緒ですよ。おばあちゃんたちのことは、一生、忘れません。
 お二人は、私の心のなかに永遠にいます。おばあちゃんの胸のなかに、私がいるように……。
 いつも、いつも、題目を送っていますよ」
 「頑張ります。頑張りますとも……」
 感動的な、心の交流の一コマであった。
 合掌する思いで、伸一は老婦人を見送った。
 彼の目には、その姿は尊貴なる菩薩に、金色の仏に映った。
 広布に献身しゆく同志に、仏を見ずしては仏はない――それが伸一の仏法者としての、信念であり、哲学であった。


楽土 十

 婦人部の八グループ、女子部の二グループに続いて、女子高等部の記念撮影となった。
 写真を撮ったあと、山本伸一は、マイクを持って立ち上がった。
 「皆さんとの、夏季講習会での約束を果たしにまいりました。
 この半年の間、皆さんは、勉強をはじめ、あらゆる課題に、どれだけ真剣に挑戦してきたことか。皆さんの目の輝きを見ればわかります」
 実は、前年の八月、総本山で開催された高等部の夏季講習会の折、伸一と沖縄のメンバーは、固い約束を交わした。
 それは、講習会二日目の夜、グラウンドで行われた野外集会でのことであった。
 沖縄の高等部員は、郷土民謡の踊りと、「沖縄健児の歌」をバックにした空手の演技を披露した。
 伸一は、その演技を讃えたあと、メンバーに力を込めて訴えた。
 「沖縄の歴史は、あまりにも悲惨でした。だからこそ、諸君が立ち上がって、私とともに、永遠に崩れぬ平和を建設してもらいたい。
 その決意を分かち持つ人こそが師弟であり、地理的には遠く離れていても、心の距離は、最も近い人です。
 しかし、恒久平和の実現は、最も困難なテーマです。聡明な、力ある英知の指導者が、続々と育たなければならない。
 もし、平和への使命を自覚するならば、口先ではなく、日々、実際に何をするかです。いかに、自分を磨くかです。どれだけお題目を唱えて、どれだけ勉強したかです。
 私は、諸君に最大の期待を寄せています。
 来年は、必ず沖縄に行きますので、その時は皆さんも、一段と成長した姿で集まって来ていただきたい。
 今度は沖縄の地で、また、お会いしましょう」
 そして、集った全高等部員に呼びかけた。
 「今日は、沖縄のメンバーにグラウンドを一周してもらって、全員で拍手をもって讃えよう」
 怒濤のような拍手と大歓声がうねった。
 赤、青、黄などの懐中電灯の光が揺れるなか、沖縄の六十数人の男女高等部員は、感涙に咽びながら場内を一周した。
 伸一も大きく手を振って、「頑張れ、頑張れ」と声援を送った。


楽土 十一

 山本伸一は、さらに夏季講習会に参加した沖縄の高等部員に、自分の著作を贈った。
 そして、「沖縄を訪問した時に、その本に揮毫させていただきます」と約束したのである。
 以来、伸一の訪問をめざして、メンバーは、懸命に勉学と活動に励んできた。
 「私たちがいる限り、沖縄の未来は盤石です――と、胸を張って言える、成長した姿で先生をお迎えしよう」
 それが、沖縄高等部の誓いとなった。
 記念撮影に集った女子高等部員は、約二百六十人である。どの顔も晴れやかであった。
 伸一が「皆さんとお会いできて嬉しい。元気だったかい?」と語りかけると、一人の高等部員の、はつらつとした声が響いた。
 「先生! 沖縄の平和建設への誓いを込めて、歌を歌わせてください」
 「そう。嬉しいね。ぜひ聴かせてください」
 マイクが渡された。
 彼女は、高等部の愛唱歌である「我が青春譜」を歌い始めた。
  
 強き同志の 絆もち
 向学に燃え……
 
 その声に皆が唱和し、全員の誓いの大合唱となった。
 伸一は、歌声を聴きながら、一人ひとりに眼差しを注いだ。
 三番の「輝く栄光 ひとすじに 若き平和の 戦士征く 世界の友よ 肩くみて……」の個所に至ると、声は一段と力強さを増した。
 だが、伸一が補作した四番の「富士の高嶺を あおぎゆく 君よおいたて ぼくは待つ」に入ると、感極まってか、涙声になっていった。
 しかし、皆、涙をこらえながら必死に歌った。清らかな歌声に、健気な心意気があふれていた。
 伸一は、“この乙女たちを断じて幸福にせねばならぬ”と、心に誓いながら、笑顔で言った。
 「ありがとう。皆さんの一途な決意が伝わる、真心の歌でした。感動しました。
 私は、この歌声を、永遠に忘れないでしょう。
 皆さんの存在こそ、沖縄の光です。力です。希望です。
 全員が二十一世紀をめざし、勝利の人生を生き抜いてください」


楽土 十二

 男子の学生部・高等部との記念撮影では、山本伸一はこう呼びかけた。
 「皆さんには、郷土であるこの沖縄に、平和の楽土を建設する使命があると、私は申し上げておきたい。
 二十一世紀の日本、アジア、世界の指導者は、戦争の辛酸をなめ、最も平和を希求してきた沖縄出身者のなかから出なければならない。
 特に、信心を持った皆さんは、平和創造の大人材として、雄々しく未来に羽ばたいていってもらいたいのであります」
 この伸一の指導を、集った高校生、大学生は、目から鱗の落ちる思いで聞いた。
 当時はベトナム戦争の渦中であり、この戦争を遂行するうえで、沖縄の米軍基地は、極めて重要な役割を果たしていた。
 ある高等部員は、昼となく、夜となく、戦闘機や輸送機が行き交う空を見て思った。
 “沖縄は、いつ戦争に巻き込まれてもおかしくない……。
 なんでこんなところに生まれてきてしまったんだろう。
 戦時中は、本土決戦の捨て石にされ、悲惨な地上戦で、多くの同胞が死んでいった。
 戦後は、アメリカの施政権下に置かれ、基地の島となった。日本は、アメリカに沖縄を差し出すことで、戦後、独立を果たしたんだ。
 沖縄は、いつも本土の犠牲にされてきた。今だって、生存権や基本的人権を守ることさえ危ういじゃないか。
 ぼくは、こんな島に、いつまでも住んでいたくはない。高校を卒業したら、沖縄を出て、ずっと本土で暮らすんだ”
 だが、伸一の言葉が、この高等部員の心を変えていくことになる。
 指導を聞いて、彼は考えた。
 “ぼくは、一日も早く沖縄から離れたいと思い続けてきた。
 でも、それでは、誰がこの沖縄の現実を変えていくのか。
 それを成し遂げていくのが、沖縄に生まれ育った、ぼくたちの使命だと、先生は教えてくださった。
 また、この世界に、第二、第三の「沖縄」をつくってはならない。
 だから、その苦しみを知るぼくたちこそが、世界の平和のために、貢献していかなくてはならないんだ”


楽土 十三

 山本伸一との記念撮影を通して、郷土・沖縄の平和と繁栄のために生き抜こうと誓った、高等部員、学生部員は少なくなかった。
 そして、使命を自覚した青年たちは、沖縄に生まれたことに、誇りと喜びをもつようになっていったのである。
 記念撮影は、一瞬の出会いであった。しかし、沖縄の平和を願う伸一の燃える魂が、若き友の一念を転換させていった。魂を触発するものは、熱き魂の言葉しかない。
 予定されていた二十数回の記念撮影が終わりに近づくと、伸一は、地元の幹部に言った。
 「さっきのアメリカ人の方たちを、呼んであげてください」
 沖縄には、米軍基地が多いことから、米軍の軍人やその家族などの入会者が増えていた。
 この日、伸一が会場の体育館に到着した時、会場の周辺にアメリカ人メンバーなど、四、五十人ほどの人たちが集まっていた。
 今回の記念撮影会の参加対象者ではなかったが、山本会長に一目会いたいと、駆けつけて来たのである。
 伸一は、その話を聞くと、「では、最後に皆さんと一緒に、写真を撮りましょう」と約束したのであった。
 沖縄では、近年、アメリカ人の会員の成長が著しかった。
 撮影会場に入って来たメンバーの表情は、限りなく明るかった。
 皆、伸一を見ると、満面に笑みを浮かべ、「センセイ、コンニチハ!」「アリガトウ、ゴザイマス!」と、カタコトの日本語で、元気いっぱいにあいさつした。
 「お待たせして、すいません。お会いできて本当によかった。
 皆さんのご無事と、ご健康と、お幸せを、私は、毎日、一生懸命に祈っております。
 栄光の未来への出発のために、一緒に、写真を撮りましょう」
 メンバーが並ぶと、伸一は、一人の少年の隣に立った。身長は、伸一と、ほとんど変わらなかった。
 「体が大きいね。肩を組もうよ。君は、世界中の人と肩を組んでいくんだよ」
 こう言うと彼は、少年の肩に手をかけた。
 フラッシュが光った。


楽土 十四

 黒縁のメガネをかけ、通訳をしてくれていた、丸顔の日系人の男性が、山本伸一に伝えた。
 「このなかには、間もなくベトナムに行く人もいます」
 「そうですか。しかし、絶対に生きて帰ると決めて、真剣に唱題するならば、必ず守られます。
 私も、お題目を送り続けます。大切な、使命ある仏子だ。死なせるものですか。
 元気な姿で戻って来てください。そして、永遠の平和のために、妙法という慈悲の利剣を手に、広宣流布の戦士として戦ってください。
 またお会いしましょう。約束しましょう」
 メンバーの目頭が潤んだ。唇を噛み締め、大きく頷く人もいた。
 それから伸一は、通訳の男性に言った。
 「しっかり、面倒をみてあげてください。
 ここにいる皆さんは世界広布の宝です。世界の平和と幸福を築く、使命ある人です」
 通訳の男性は、主にアメリカ人のメンバーによって構成される、マーシー地区の地区部長をしている藤峰正則であった。
 マーシー地区の結成には、こんないきさつがあった。
 沖縄では、続々とアメリカ人のメンバーが誕生していたが、皆、日本語は、ほとんどわからなかった。
 そのため、組織のなかで、うまくコミュニケーションがとれず、信心に励むことができないケースが少なくなかった。
 その打開策として、英語が堪能な幹部が、アメリカ人メンバーの面倒をみることになり、担当に決まったのが、藤峰であった。
 彼は、両親が移住したカナダのトロントで、一九三一年(昭和六年)に生まれた。
 戦後、一家は日本に戻ったが、英語の世界で暮らしてきた彼は、日本語よりも英語の方が得意だった。
 やがて彼は、外資系の会社に就職。その後、結婚し、五九年(同三十四年)に、米軍への酒類のセールスなどのために、沖縄に派遣された。
 藤峰は酒を売ることに情熱を燃やしていたが、飲むことは、もっと好きだった。そして、飲むと荒れることが多かった。
 それが、妻の寿美代の悩みでもあり、彼女が入会に踏み切る動機にもなったのである。


楽土 十五

 藤峰寿美代が入会したのは、一九六四年(昭和三十九年)の二月のことであった。
 三年ほど座談会にも出席し、十分に学会を「観察」し抜いた末のことである。
 沖縄に来て知り合った人から、創価学会の話を聞かされた彼女は、まずその熱心さに驚いた。 
 さらに、宗教に正邪があるということや、宗教と宿業の関係などの話に興味を覚えた。
 そして、入会はしないが、勉強してみようと、会合などには参加するようにした。
 しかし、仏法は絶対であると言い切る学会に、反発も感じていた。
 だから、学会を批判した書物が出ると、すぐに購入して読み、学会の幹部のところに出かけていった。
 「この本は読みましたか。ここに、こんなことが書いてありますが、どうなんですか」
 それでも、学会の幹部は、微動だにしなかった。悠然と、一つ一つの問題について、その誤りを明らかにしていった。
 また、「なぜ、日蓮大聖人の仏法が最高と言えるのか」「信心で病気が治ったというのは迷信ではないのか」など、どんな質問をしても、いつも理路整然とした答えが返ってきた。
 さらに、学会の会合は明るく、希望にあふれていた。そして、皆が真心をもって、「この信心をすれば、絶対に幸せになれるわ」と、確信をもって語ってくれた。
 二年がたち、三年がたった時、彼女は思った。
 “私は、自分の疑問は全部ぶつけてきた。話としては、納得できる。みんなの言うように、宿命を転換し、希望通りの人生が歩めるとしたら、すごいことだと思う。
 でも、傍観者では体験もつかめないし、真実はわからない。それでは、なんの進歩もない。やはり最後は、実際に自分が信心してみるしかないのだろう。
 やってみて、何もつかめなければ、やめればいいのだ”
 彼女は、友人にも相談してみた。
 「本当にすばらしい宗教なら、私も入るから、先に入って偵察してよ」
 こう言われ、寿美代は入会の決意を固めた。
 だが、夫の正則に話すと、大反対された。


楽土 十六

 夫の藤峰正則の言い分は、こうだった。
 「俺は、お前に何も不自由な思いをさせた覚えはない。
 欲しいというものは、すべて買い与えてきた。お手伝いさんも二人もつけている。
 いったい、何が不服なんだ。それでも何か拝みたいなら、俺を拝め!」
 夫は、短気で、頑固であった。
 寿美代は、息子の喘息を治したいことなどを語ったが、正則は取り合おうとはしなかった。
 それでも信心をしてみたいと言うと、遂に怒り出した。
 「どうしても学会に入るのなら、お前は東京に送り返す。子どもは俺が引き取る!」
 離婚話まで、浮上してしまった。
 しかし、学会の会合に通った三年間のなかで、「信心しようとすると、三障四魔が競い起こるわよ」と、何度も聞かされてきた彼女は、むしろ、感心した。
 “本当に、言われてきた通りだわ!”
 また、魔に打ち勝つには唱題しかないということも、耳にタコができるほど聞いていた。
 寿美代は、正則がいない時に、一人で懸命に題目を唱えた。
 それから、一カ月ほどしたころ、彼女は、再び正則に頼んだ。
 「あなたにやれとは言わない。ただ、いい信心だというから、私だけやってみたいの」
 「勝手にしろ!」
 それが夫の答えであった。ともかく正則は、彼女が信心することを認めたのだ。
 だが、寿美代は、御本尊を授与してもらえなかった。正則は、信心に賛同しないだけでなく、酒を飲んで荒れるため、御本尊を不敬することが懸念されたからである。
 一方、正則の方は、寿美代は入会し、家に御本尊を安置するものと思っていた。
 その日の夜、彼は仕事から帰るなり、寿美代に聞いた。
 「お前の言っていた、御本尊様っていうのはどこだ」
 「家族が信心に協力的でないと、御本尊様はいただけないようなの」
 正則は、自分のせいで妻が軽んじられたような気がして、悔しかった。
 「よし、今度は俺も一緒に行く」


楽土 十七

 それから間もなく、藤峰正則は、車を運転し、妻の寿美代を寺に連れて行った。
 これによって、「ご主人が不敬したりすることはないだろう」と判断され、寿美代に御本尊が授与されたのである。
 入会した妻に、正則は言った。
 「お前は、どんどん祈ればいい。俺は俺の生き方でいく。競争しよう」
 彼女は、学会に入れたことが嬉しかった。力の限り、信心に励んでみようと決意していた。
 自分が悩んでいることを列挙してみた。
 ――酒癖の悪い夫が、飲んで荒れなくなるように。長男の喘息がよくなるように……。
 彼女は、その解決を祈って、日々、真剣に唱題に励んだ。
 題目を唱え続けていくうちに、寿美代は、いつか、夫の気持ちを考えるようになっていった。
 “夫は酒を飲んではよく荒れる。私も困っている。でも、彼がそうするのは、酒に頼らなければならないほど、大変な辛い思いをしているということではないのか。
 夫は本来、心の優しい人だ。それが、酒に溺れて、時には暴れることさえある。それだけ、辛いのだ。孤独なのだ。
 ところがこれまで、私は、彼の気持ちを理解しようとしたことがあっただろうか……”
 彼女は、そう思うと、夫が、かわいそうでならなかった。申し訳なさで胸が痛んだ。
 以来、正則が酔って帰って来ても、腹を立てることはなかった。また、怒鳴られても、恐れを感じなくなった。
 ただ、夫をいたわりたいという気持ちでいっぱいだった。
 すると、正則の態度が変わっていった。
 依正は不二である。彼女の一念が変化し、境涯が変わっていったがゆえに、夫が変わっていったのである。
 正則は、妻が変わっていく様子に、信仰の力を感じたのだ。
 寿美代は、弘教にも積極的に取り組み、ほどなく、友人を入会させることができた。
 その妻の、生き生きとして歓喜に満ちあふれた姿に、正則の心は大きく動いた。
 そして、遂に「俺もやる」と言って、信心を始めたのである。


楽土 十八

 藤峰寿美代は、信心の力を実感した。
 気がつくと、長男の喘息の発作も、ぴたりと止まっていた。
 功徳の体験こそ、活動の原動力となる。
 彼女は、夫の母親や、東京にいる自分の母親、そして、弟、妹たちにも信心を教えていった。
 夫の正則も、悩んでいた上司との人間関係が改善し、功徳を実感した。酒を飲んで荒れることもなくなっていった。
 入会一年後の一九六五年(昭和四十年)二月には、夫妻で班長、班担当員の任命を受けた。
 藤峰の家は、米軍基地の近くであり、正則が英語を話すことから、夫妻が基地のメンバーを、担当することになった。
 また、アメリカ人と結婚する女性が、相手を折伏してくれと、連れてくることもあった。
 次第に藤峰の班には、アメリカのメンバーが多くなっていった。
 やがて、六六年(同四十一年)三月に、アメリカ人とその家族らで構成される地区を結成することになり、藤峰夫妻が地区部長、地区担当員になった。
 地区の名は、米軍のキャンプ(駐屯地)の名前をとって、マーシー地区となった。
 マーシーには「慈悲」の意味がある。メンバーは、この名を誇りとし、活動に励んだ。
 藤峰夫妻は、沖縄本島の各地に散在している、外国人メンバーの激励に奔走した。多忙を極めたが、使命に生きる喜びに生命は躍動していた。
  
 一九六八年(同四十三年)二月十七日の朝のことである。
 けたたましく電話が鳴った。寿美代は、受話器を取った。
 夫の正則は、東南アジアに出張中であった。
 電話は、夫の会社からであった。
 「昨夜、ご主人の乗った、香港発台北(タイペイ)行きの飛行機が、台北郊外に墜落しました」
 「えっ!」
 寿美代は、全身の力が抜けていくのを感じた。
 「しかし、なんと、ご主人は無事です」
 「本当ですか!」
 詳細は、まだわからないが、無事であることは確認されたというのだ。
 彼女は電話を切ると、仏壇の前に座った。
 「御本尊様! ありがとうございました。夫が元気でありますように」


楽土 十九

 正午ごろになって、ようやく、正則から寿美代に電話が入った。
 夫の元気な声に、彼女は言葉を詰まらせた。
 “守られた。功徳なんだ”と、心の底から痛感した。幾筋もの涙が頬を濡らした。
 正則も、同じ思いであった。
 ――藤峰正則が乗った飛行機は、夜間の悪天候のなか、午後九時(日本時間午後十時)過ぎ、台北の空港に着陸しようとしていた。
 だが、同機の高度は低く、空港の十数キロメートル以上も手前で陸地に接触し、民家などに、次々と激突していった。
 乗客たちにとっては、突然の出来事であった。
 「ガガガーン!」という大きな音とともに、激しい衝撃を受けた。
 乗客の絶叫が響いた。
 飛行機は激しく震動しながら、そのまま走り続けた。
 「ガガーン!」
 また、大音が轟いた。
 ライトが明滅して、消えた。
 藤峰は、機内の中央部に座っていたが、体が前の座席に叩き付けられそうになった。それを、シートベルトが防いだ。
 衝撃で意識が遠のきかけた。
 しかし、気力を振り絞るようにして、辛うじて持ちこたえた。
 目を開けると、座席のすぐ前から、機体は真っ二つに折れていた。そこから、風と雨が吹き込んできた。
 頭はくらくらしていたが、体を動かすと、痛みもなく動いた。
 隣にいた、パイロット経験者であると語っていた男が、「脱出しないと助からないぞ」と言って立ち上がった。そして、機体から飛び降りた。
 藤峰も立ち上がった。
 下を見た。暗くてよくわからなかったが、地上まで数メートルはありそうだった。
 飛び降りれば、怪我をするにちがいない。しかし、死ぬよりよい。
 題目が口をついて出た。意を決して跳んだ。
 下には、飛行機に積んであった荷物が散乱していた。彼が降りたのは、その上だった。それがクッション代わりになった。どこにも傷を負っていないようであった。
 立とうとすると、めまいがし、体がふらふらした。だが、かまわず、全力で走り出した。


楽土 二十

 走り出した藤峰正則が振り返ると、飛行機は火に包まれていた。
 “俺は助かったんだ”と思った。
 その瞬間、恐怖に襲われ、わなわなと全身が震えた。腰が抜けたようになり、歩くこともできなかった。
 この事故で、乗員乗客合わせて六十三人のうち、残念なことに二十一人が犠牲となった。
 無事に生還した、正則のこの体験は、夫妻の信仰への大確信を育んだ。
 正則は決意した。
 “自分は、既に死んだ人間だ。御本尊に命をいただいた人間なんだ。だから、生ある限り、広宣流布のために尽くし抜こう!”
 彼は、報恩感謝の思いで、弘教に、個人指導にと、全力で取り組んだ。
 飛行機事故から無傷で帰ってきた彼の体験談には、説得力があった。
 歓喜の波動となって、沖縄中に、大きく広がっていった。
 マーシー地区の中心である藤峰夫妻の悩みは、短期間のうちにメンバーが入れ替わってしまうことであった。
 メンバーの大多数は、沖縄での任期を終えると本国に帰ったり、他の基地に異動していく。
 やっと成長し、役職につけられるかと思うと、転勤になってしまうのである。
 移転先は、アメリカに限らず、世界中に広がっていた。
 そのメンバーから、よく手紙が来た。そこには、移った先の国で、弘教が実ったことや、座談会を開いたことなどが記されていた。
 夫妻は、喜々として話し合った。
 「マーシー地区は、世界広布のための基地になっているんだね。
 基地で飛行機が燃料を補給し、プロペラやエンジン、タイヤを整備し、また、飛び立っていくように、この地区から陸続と人材が世界に飛び立っていく。
 本当に大事な使命を担った地区なんだな」
 「確かにそうですね。
 皆、世界広布を担う人たちなんですから、一人ひとりを、大人材に育てなければいけませんね。
 このマーシー地区にいるうちに、全員が、勤行も、折伏も、教学も、信心の基本はすべて身につけられるように、頑張りましょうね」


楽土 二十一

 藤峰正則は、このマーシー地区ができたのは、沖縄に軍事基地があったからだと思うと、何か不思議な感じがした。
 マーシー地区のメンバーは、皆、戦争という忌まわしい重荷を背負っていた。
 それゆえに、誰よりも平和を熱願していた。皆が、自身の、さらにアメリカという国の、そして人類の宿命の転換を、真剣に願っていた。
 唱題にも必死さがあった。また、仏法の平和の哲理を学ぼうと、教学の研鑽にも、懸命に取り組んでいた。
 藤峰が座談会や御書講義に行くと、皆が次々と質問し、終了後も、彼を帰そうとはしなかった。
 藤峰夫妻は、彼らこそ世界広布のために出現した、地涌の菩薩であるとの確信を、深くするのであった。
 そのメンバーが、世界の大空に羽ばたいていくために、全力で応援していくことが自分たちの責務であると、夫妻は決意していた。
 二人は、どうすれば、メンバーが、より早く成長できるか、日々、考え抜いてきた。
 そして、結論したことは、何よりも、それぞれが功徳を受け、仏法の力を体験しなければならないということであった。
 それには、勤行・唱題とともに、折伏を実践していくことが最も大事であると思った。
 新入会のメンバーが誕生すると、藤峰は、まず英語でこう伝えた。
 「勤行と折伏が信心の基本です。これを実践しなければ、信心をしたとはいえないし、なかなか功徳も出ませんよ」
 そして、翌日から、一緒に折伏に歩いた。
 また、勤行の指導は、折伏した人だけにまかせず、組織のメンバーが、交代で通うようにした。その方が、早く組織にとけ込めるし、多くの人と人間関係をつくることができるからである。
 日本語で行われる会合の場合には、彼は、登壇者の話を、その場で英語に訳してノートに書き、それを皆に見せるようにした。
 会合に参加しても、言葉がわからないと、取り残されたような気持ちになるものだ。地区のメンバーに、そうした寂しい思いをさせたくないという、藤峰の心遣いから生まれた対応であった。


楽土 二十二

 藤峰夫妻の奮闘で、アメリカ人メンバーは、短日月のうちに、目覚ましい成長を遂げていった。
 基地でも、学会員となった兵士が、日ごとに、はつらつとしていく姿は、周囲の大きな関心の的となった。
 兵士たちは、夕方になれば、友人同士で飲食店街などに繰り出し、酒を飲むのが常であった。
 明日にも、ベトナム行きを告げられかねない状況のなかで生きる兵士たちにとって、酒を飲むことが、その恐怖を紛らわす唯一の道であった。
 しかし、学会に入った兵士は、生活態度が全く変わっていった。
 ――朝晩、部屋でお経を読むようになり、夜は誘いを断ってどこかに出ていく。
 帰りは、酒も飲まないのに頬を紅潮させて、意気揚々として戻って来るのだ。
 興味を感じた兵士たちは、メンバーに尋ねた。
 「ヘイ、ユー。お前は朝晩、聞き慣れない歌を歌っているが、どういう歌なんだ」
 「あれは、お経と題目だよ。自分の生命を磨いて健康になり、ハッピーになるための方法だ」
 ここから、仏法対話が始まり、座談会に出席した兵士たちが、次々と入会していったのである。
 いつ戦場に行くかもしれないなかで入会した彼らの信心は純粋であり、求道心は強かった。
 だから、功徳も大きかった。
 座談会では、われ先にと手をあげ、立ち上がり、体験を発表する人が多かった。
 こんな体験もあった。
 ある青年は、ベトナムの戦地に派遣された。
 襲撃を受けた時、彼はテントから飛び出し、皆と一緒に避難した。
 しかし、途中で、置いてきた御本尊を取りに帰ることにした。
 彼は、一人で引き返した。これが生死の分かれ目となった。避難した兵士たちは、全滅したのである。
 また、パラシュート隊を希望し、唱題したが、願いは叶わず、落胆していた青年がいた。
 しかし、その隊はベトナムに送られ、ほとんどの人が命を落としてしまったのだ。
 こうした体験は、枚挙にいとまがなかった。それが確信の源泉となっていったのである。


楽土 二十三

 マーシー地区のメンバーは、「真実の平和とは何か」「人間は、いかに生きるべきか」といった問題を、誰よりも真剣に考えていた。
 その解答を求めて、信心をする人も少なくなかった。
 ある兵士は、戦地で暗夜に襲撃を受け、マシンガンを乱射した。彼は翌朝、横たわる敵の兵士の遺体を見た。
 “俺が殺したのだ!”
 以来、自分を呵責し続けた。やがて、彼は沖縄に来た。そこで知り合った人から仏法の話を聞き、座談会に出席した。
 彼は尋ねた。
 「私は、平和のためにと思って戦ってきたが、平和はますます遠のいていくように思える。仏法で平和が築けますか」
 幹部の話は、明快であった。
 「築けます。いや、仏法でなければ、真実の平和は築けません。
 紛争についても、武力によって制圧すれば、解決できると考えるのは誤りです。それでは、むしろ、憎悪を生み、果てしない報復の繰り返しになってしまう。
 戦争といっても、それを引き起こすのは、結局は人間です。ゆえに、平和の建設は、人間の生命を変革し、憎悪の心を慈悲に、反目を友情に変える以外にない。
 その人間革命の道を教えているのが、日蓮大聖人の仏法なんです。
 また、仏法では、人間は皆、『仏』の生命を具えた、尊極無上の存在であると説いています。
 その生命の尊厳の哲理を、一人ひとりの胸中に打ち立てることです。それこそが、平和の礎ではないでしょうか」
 さらに、幹部は、こうも語った。
 「兵士として戦場を走り抜いてきたあなたは、戦争の悲惨さを誰よりも知っているはずです。だからこそ、崩れざる平和を建設する使命と責任があると思います。
 仏法は、永遠の幸福境涯を確立するための教えです。あなたも信心をして、自分が幸福になるとともに、人類を幸福にするために、生きようではありませんか」
 彼は入会を決意した。
 仏法に人間の大道を見いだしたからである。そして、人びとの幸福の道を開く“平和の戦士”になろうと決意し、広宣流布の戦野を走った。


楽土 二十四

 沖縄では、兵士による住民への暴行事件なども頻発していた。戦地に送られる恐怖から、兵士たちの心は荒んでいたのである。
 米軍基地に苦しむ沖縄の住民の怒りは、ますます激しさを増した。
 そして、反戦反基地の運動が盛り上がるにつれて、住民の米軍兵士への憎悪はつのり、両者の関係は悪化していった。
 学会員も、基地の撤去を強く念願していたが、米軍の兵士だからといって、憎悪するようなことはなかった。
 学会員は、会合などで米軍のメンバーと交流する機会が多かったからである。
 そのなかで、彼らの人柄も知ることができた。また、彼らが、出撃命令に苦しみながら、平和を願い、健気に信心に励んでいることも、よくわかっていた。
 兵士である同志が“戦場に行かなくてすむように”“行っても、無事に帰って来るように”と、題目を送る人もいた。
 兵士といっても、一人ひとりは気のいいジョニーであり、剽軽なトムであり、親思いのマイクであるというのが、学会員の実感であった。
 メンバーの兵士と接触していた学会員の住民たちの目には、抽象化された“米軍”ではなく、「個」としての人間の実像が映っていたのだ。
 一方、米軍の兵士のメンバーも、住民である学会員との触れ合いのなかで、日本人への理解を深め、信頼を育んでいったのである。
 まさに、住民と米軍という対立を超えて、学会員は、互いに友情の絆に結ばれていたのだ。
 分断は、不信と反目を深めていく。なんでもないことのようだが、こうした人間と人間の交流こそが、平和建設の重要な基盤にほかならない。
 ところで、このマーシー地区のメンバーのなかから、沖縄に愛着をいだき、“ここを平和の楽土にしよう”と、除隊後も沖縄に残って、広宣流布のリーダーとなっていく人も出ている。
 また、アメリカ本土やハワイなどで、エリア(方面)等の幹部として活躍する人も、数多く輩出していったのである。
 まさに、マーシー地区は、世界広布の人材を育む、「信心のトレーニンググラウンド(訓練場)」としての役割を担っていったのであった。


楽土 二十五

 アメリカ人メンバーとの記念撮影に続いて、鼓笛隊の演奏が行われた。
 皆、額に汗を滲ませながらの熱演であった。
 なかでも、まだあどけないジュニア隊のメンバーには、賞讃の大拍手が送られた。
 山本伸一は、鼓笛隊をねぎらうために、演奏を終えた彼女たちのなかに入っていった。
 「すばらしい演奏でした。お父さん、お母さんによろしくね」
 そして、鼓笛隊とも一緒にカメラに納まり、記念撮影会の幕を閉じたのである。
 
 この記念撮影会の日の夜も、翌十六日の午前中も、伸一は、寸暇を惜しんで机に向かい、激励の揮毫の筆をとり続けた。
 前年の高等部の夏季講習会で書籍を贈り、沖縄訪問の折に揮毫することを約束した本だけでも、六十冊を上回っていた。
 彼は、高く積まれた、それらの本や色紙を取ると、一人ひとりの成長と幸福を祈り念じて、心で唱題しながら、次々と筆を走らせていった。
 「輝く青春 輝く人生 輝く栄光のために 輝く信心を」
 「わが学会の 未来を よろしく」
 限られた滞在時間のなかで、何人の人に会い、どれだけ深い激励ができるのかと思うと、伸一は眠る時間さえ惜しくてならなかった。
 励ましは、人間の心に勇気の火をともし、発心を促す。
 だが、そのためには、己の魂を発光させ、生命を削る思いで、激励の手を差し伸べなくてはならない。
 その強き一念の波動が、人の心を打ち、触発をもたらすのである。
 二月十六日、伸一が沖縄本部にいることを知った会員は、朝から、続々と集まって来た。
 いつの間にか、会館の前は人で埋まっていた。
 それを聞くと、伸一は揮毫の手を休め、外に出ていった。
 彼の姿を見たメンバーは歓声をあげた。
 「ありがとう。よくおいでくださいました。
 それでは、一緒に勤行をしましょう。どうぞ、お入りください」
 この日は、日蓮大聖人の御聖誕の日である。
 伸一の導師で清々しい勤行が行われた。
 皆、大喜びであった。


楽土 二十六

 勤行を終えると、山本伸一は、集ったメンバーに語りかけた。
 「ご苦労様です。今日はこうして、皆さんにお会いできて、大変に嬉しく思っております。
 私は、皆さんの会長であります。したがって、たとえ、お会いすることは少なくとも、皆さんのご健康と、ご一家のご繁栄を、真剣に祈念してまいります。
 時代は、沖縄の本土復帰に向かって動き出しています。
 しかし、果たして、いつ、どういうかたちで復帰するのかは、まだ、予測が立たない状態です。
 ただ、大事なことは、社会を、環境を変えていくのは、最終的には、そこに住む人の一念であるということです。
 皆さん方が“私がいる限り、この沖縄を平和の楽土にしてみせる”との強い決意で信心に励み、社会の建設に立ち上がっていくならば、必ずや、沖縄を変えていくことができます。
 依正は不二です。自分自身の生命の変革から、すべては変わっていくんです。
 運命を呪い、歴史を呪い、他人を恨んでも、何も問題は解決しません。
 未来に向かい、何があっても挫けずに、生命力をたぎらせ、智慧を涌現しながら、前へ、前へ、前へと、力強く進んでいくんです。
 皆さんの存在こそが、沖縄の柱です。建設の原動力です。
 さあ、新しい出発を開始しましょう」
 短時間ではあったが、全生命を傾けての指導であった。
 このメンバーが、喜び勇んで帰っていくと、入れ替わるかのように、また、たくさんの同志が会館の前に集ってきた。
 伸一は、再び、メンバーを招き入れ、ともに勤行し、激励を重ねるのであった。 

 午後は、那覇市の琉球新報ホールで、沖縄初の芸術祭が行われることになっていた。
 伸一は、午後一時過ぎに沖縄本部を出発し、会場の琉球新報ホールに向かった。
 那覇市の中心街に琉球新報社があり、その三、四階が七百席ほどのホールになっていた。このホールは、当時、那覇で、最も大きな文化施設の一つであった。


楽土 二十七

 芸術祭は二部形式で進められた。
 第一部は、音楽や舞踊で構成され、琉球舞踊、日本舞踊、女子部や婦人部の合唱団、吹奏楽団の演奏などが、多彩に繰り広げられた。
 第二部は、演劇「青年尚巴志」であった。
 これは、十五世紀に琉球を統一した名将・尚巴志の史実をもとに創作した劇で、総勢百人の出演者による一時間半にわたる舞台となった。
 尚巴志は、一三七二年に琉球南部の佐敷に、この地域の按司(首長)の子として生まれた。
 そのころ、琉球は、南山、中山、北山の三山に分かれて、戦乱が続き、民衆は塗炭の苦しみに喘いでいた。
 巴志が二十一歳になると、父の思紹は言った。
 「私に代わって、佐敷の按司となり、人民を水火の苦しみから救え」
 巴志は誓う。
 “戦をなくし、人民のための世をつくろう”
 青年が立ち上がる時、時代は動き始める。
 彼は交易を推進し、鉄を買い取って農具をつくらせ、農業の振興を図っていった。
 一四〇六年、尚巴志は、中山王の武寧を滅ぼした。武寧は酒色にふけり、諫める者を罰し、おもねる者を喜び、民を虐げる悪王であった。
 按司たちは、巴志を王に推したが、彼はそれを固辞して、父の思紹を中山王とし、自分は父の政治を助けた。そして、中山の拠点を浦添から首里に移した。
 次いで、一四一六年(一四二二年説もある)には、北山王の攀安知を討った。
 また、首里城を拡充し、城下町や那覇の港も整備していった。
 さらに、父の死後、中山王となった巴志は、一四二九年には南山王の他魯毎を攻め、遂に琉球の統一を果たすのである。
 メンバーは、戦時中から今まで、沖縄の民衆がなめてきた辛酸は、尚巴志が生きた戦乱の時代と酷似していると思った。
 そこで、尚巴志の劇に託して、沖縄の平和建設への決意を、表現しようとしたのである。
 烈風が激しければ激しいほど、雀躍して前進する――それが、沖縄健児の心であり、まことの丈夫である。同志は、その闘魂を、芸術祭にぶつけたのであった。


楽土 二十八

 演劇「青年尚巴志」のシナリオを担当したのは、音楽家で音楽雑誌の編集にも携わってきた、山木厚雄という青年であった。
 彼は、尚巴志が、父・思紹の志を受け継ぎ、民の苦しみを救うために立ち上がる姿に、深い共感を覚えていた。
 “これは、師に広宣流布を誓う、弟子の姿に通じるかもしれない。
 われわれには、生命の尊厳の哲理をもって世界を結び、人類の恒久平和を実現していく使命がある。その使命に生き抜く師への誓いを、この演劇で示そう”
 また、皆が力を合わせて、首里城を建設するシーンでは、団結をもって沖縄の新時代を開かんとする、同志の決意を表現しようと思った。
 この演劇には、読谷村高志保に伝わる「馬舞」など、伝統芸能も随所に織り込まれ、郷土色あふれる舞台となった。
 「青年尚巴志」は大成功であった。救世の息吹に満ちあふれた熱演は、強く、激しく、観客の胸を打った。
 山本伸一は、郷土建設に奮い立つ沖縄の同志たちの、魂の叫びを聞いた思いがした。
 最後は、出演者、観客が一体になっての、「沖縄健児の歌」の大合唱であった。二階席から、惜しみない拍手を送っていた伸一も、立ち上がって手拍子を取りながら、一緒に歌い始めた。
 
 一、正法流布の
    朝ぼらけ
  打ちくだかれし
    うるま島
  悪夢に目覚め
    勇み立つ
  伝統誇る 鉄拳は
  沖縄健児の
    誇りなり
 
 二番の「南に築く 楽土郷……」に至った時、伸一の胸には、平和の楽土として光り輝く、沖縄の未来が広がった。
 合唱のあと、山本伸一がマイクを取った。
 「わが同志の皆様! 
 平和建設への誓いを託した、沖縄の夜明けを告げる見事な芸術祭、大変にご苦労様でした。
 私の念願は、皆様方が一致団結して、最高の幸せを勝ち取ってくださることであります。
 沖縄を平和の幸福島とする日まで、ともどもに力の限り、前進しようではありませんか」


楽土 二十九

 芸術祭の会場を出た山本伸一は、副理事長の高見福安に言った。
 「すばらしい芸術祭だったね。沖縄に不屈の精神の柱が立ったことを、私は、強く、深く、感じました。もう沖縄は大丈夫です。
 本土に復帰したあとも、さまざまな苦労があるでしょう。問題は一朝一夕には解決しないかもしれない。
 しかし、わが同志がいる限り、みんなの、この心意気がある限り、心配はありません。
 あらゆる苦難を乗り越え、障害をはねのけ、沖縄は発展していきます。
 すべては、人間の一念の姿勢です。意欲です。活力です。精神の力にかかっています。
 どんなに経済の支援があろうが、人間の精神が荒廃してしまえば、本当の発展はない。
 だから私は、全力で沖縄の同志と会い、さらに幾千、幾万の、未来に伸びゆく精神の大樹を育もうとしているんです」
 事実、伸一は、片時の休みもなく、同志の激励に奔走したのである。
 芸術祭のあとは、琉球大学、沖縄大学、国際大学(当時)の、三大学会の結成式が待っていた。
 午後五時過ぎ、伸一が那覇市内の会場に到着すると、OBを含めて、百人ほどのメンバーが集まっていた。 
 結成式の冒頭、彼は、万感の思いで訴えた。
 「沖縄県民のため、日本のため、さらにはアジア、世界のために、沖縄の大学出身者が、二十一世紀のリーダーになっていかなければならない。
 なぜなら、沖縄の皆さんは、戦争の悲惨さを最も知っているからです。他国の施政権下で生きる辛酸を味わってきたからです。
 過酷な運命と戦い、苦しみ抜いてきた人でなければ、民衆の苦悩はわからない。だから、私は諸君に期待したい。
 偉くなってほしい。うんと偉くなってほしい。
 そのために、青年時代は、苦労に苦労を重ね、自らを鍛え抜いていただきたい。
 十年先、二十年先、三十年先をめざして、じっとこらえて、時の来るのを待っていただきたいんです。
 力をつけ、地中深く根を張り巡らせていれば、時が来れば、必ず花が咲きます」


楽土 三十

 大学会の結成式は、山本伸一が皆の質問や報告を受けながら、懇談的に進められた。
 勉学、仕事、学会活動を、どうすればやりきっていけるかという、二部(夜間部)学生の質問もあった。
 大学卒業後の進路についての相談もあった。現代文学の感想を求める学生もいた。
 伸一は、その一つ一つに、真剣勝負の思いで答えた。
 特に、二部学生の質問には、全精魂を注ぎ込むように語っていった。
 「全部やると決めて、挑戦していくことです。
 逃げたり、卑屈になったりしてはいけない。また、焦ってはならない。
 今は将来に向かって、着実に人生の土台をつくる時です。
 人生はある意味で死闘といえる。血を吐くような思いで、無我夢中で戦っていくしかありません。悩んで悩んで、悩み抜いていくところに成長がある。人間形成がある。それこそが、生涯の財産になります。
 私も夜学に通っていたから、皆さんの苦しさ、辛さはよくわかります。
 私は、三十歳まで生きられないといわれていた病弱な体でした。
 また、長兄は戦争で死に、家も焼かれ、暮らしは貧しく、いつも、腹を空かせていました。本を買うには、食費を削るしかなかったからです。
 しかし、それでも私は、知恵を絞って時間を捻出し、徹底して学んできました。電車のなかも、勉強部屋でした。
 そして、働きに働きました。朝も三十分前には出勤し、清掃をしてみんなを待ちました。職場での信頼も厚く、戸田先生の会社に移る時には、上司も、同僚も、本当に惜しんでくれました。
 さらに、猛然と学会活動に取り組み、信心ですべてを切り開いてきたんです。
 家族が用意してくれた整った環境での勉学よりも、大変ななかで、泣く思いをして学んだことの方が、何倍も自分の血肉となり、身につくものなんです。
 鍛えのない青年は、軟弱になり、人生を滅ぼしかねない。ゆえに、二部学生は、最高の修行の場を得ているということなんです。頑張りなさい」
 質問した学生の顔が輝いた。


楽土 三十一

 大学会の結成式のあと、沖縄本部に戻った山本伸一は、二階の広間で高等部が会合をもっていることを聞いた。
 彼は、そのまま、広間に顔を出した。
 「こんばんは!」
 歓声があがった。
 伸一は、にこやかに、包み込むように、皆を見て言った。
 「一緒に勤行をしましょう」
 読経も、唱題も、喜びに弾んでいた。
 勤行が終わると、伸一は語り始めた。
 「昨日の記念撮影に続いて、今日も沖縄の高等部員の皆さんにお会いすることができて、本当に嬉しい。
 このなかから、必ず、未来を担う大人材が出ると信じます。では、人材の要件とは何か――。
 広宣流布の使命を自覚することです。
 人は、なんのための人生なのかという、根本目的が定まっていなければ、本当の力は発揮できないものです。
 また、力をつけ、立派な地位や立場を手にしたとしても、自分の立身出世のみが目的になっていれば、社会への真の貢献はできません。
 才能の開花も、知恵の発揮も、忍耐も、すべて広宣流布の使命を自覚するところから生まれるものであることを、知ってください。
 さらに、人材とは、人格の人であるということです。人への思いやり、包容力、自分を律する精神の力、正義への信念と意志等々、人格の輝きこそ、人間として最も大事です。
 それには、精神闘争が必要です。
 自分の弱さに挑み、苦労に苦労を重ねて、自己の精神を磨き上げていくことです。
 そして、人材には、力がなくてはならない。
 心根は、清く、美しくとも、力がないというのでは、民衆の幸福、平和を築くことはできない。
 だから、何か一つでよい。これだけは誰にも負けないというものをもつことが必要です。
 わが弟子ならば、全員が大人材であると、私は確信しております。
 皆さんこそ、私の宝です。沖縄の誇りです」
 高等部員は、頷きながら、伸一の指導を聞いていた。
 その目には、誓いの涙が光っていた。


楽土 三十二

 人材を育むには、先輩幹部が一人でも多くの人と会うことである。
 草木も、豊富な養分を吸収し、燦々たる太陽の光を浴びてこそ生長する。人材もまた、さまざまな励ましがあり、触発があってこそ、育ちゆくものである。
 山本伸一は、だから、一瞬たりとも無駄にすることなく、メンバーの中へ、メンバーの中へと、入り続けたのである。
 この日も伸一は、高等部の会合に出席したあとも、会館の事務所で、同志の成長を念じながら、色紙や書籍に次々に揮毫していった。
 彼の肩は凝り固まり、首筋も腫れていた。
 しかし、これによって同志が奮い立ってくれるかもしれないと思うと、筆を止めるわけにはいかなかった。
 “もう一枚”“もう一枚”と筆は走り、作業は深夜にまで及んだ。
 体の疲労は極限に達していたが、心は晴れやかであった。
 
 明けて二月十七日は、「旧正月」の始まりの日であった。
 沖縄では、「正月」よりも、この「旧正月」を盛大に祝い、親族などが集まる風習があった。
 そのため、伸一は、社会性のうえから、高見福安と話し合い、あえてこの日は、会合等は行わないようにしていた。
 高見は、この日、伸一に、会館建設予定地などを視察してもらう計画を立てていた。
 伸一は、視察に出発する前、地元幹部や役員らに、感謝とねぎらいの思いを込めて、沖縄本部の屋上で、ともに記念のカメラに納まった。
 そのあと、屋上から下を見ると、大勢の会員が集まって来ていた。
 「みんな、私に会いに来てくれたんだね」
 伸一は、昨日に続き、また一緒に、勤行することにした。
 高見は、汗を滲ませながら、懸命に祈りを捧げる伸一を見て、胸が詰まった。
 “先生は、沖縄に着かれてから、片時の休みもなく、激励に力を注ぎ、何度も、何度も、皆と一緒に勤行をしてくださっている。
 目にするすべての人を励まそう、沖縄の天地の隅々にまで妙法を染み込ませようと、決意されているんだ。そして、そのために生命をかけていらっしゃる……”


楽土 三十三

 高見福安は、山本伸一の行動に、まばゆいばかりの真心と大誠実を感じていた。
 “これが、学会の心なのか!”
 さらに、高見は、祖国日本に裏切られ続けてきた沖縄の人びとが、最も求めているものは、この人間の「真心」ではないかと思った。
 「真心」こそ、人間主義の魂であり、それは、国家主義、権力主義の対極にある。その大誠実の光は、人の心を温もりで包み、勇気を与え、希望を与える。
 高見は決意した。
 “今回、山本先生が示してくださった、この真心をもって、沖縄中の人びとを包もう。
 そこに真実の民衆の絆が生まれ、それこそが、郷土建設の原動力となるはずだ”
 伸一の一行は、午前十一時前に、車で沖縄本部を発ち、北に向かって走った。
 車中、高見は、伸一に語った。
 「最初に恩納村に行っていただきたいんです。ここの基地には、核弾頭が装備できる、中距離弾道ミサイルのメースBの発射台があるんです。
 でも、本来、恩納村は美しい海が広がる風光明媚なところで、平和の楽園のようなところだったんです」
 「そうですか。恩納村を、断じて、もとの楽園に変えていきましょう。
 広宣流布が進めば、国土世間も変わります。
 いつの日か、そのメースB基地もなくなるでしょう。そして、今度は、そこから、私たちの手で、世界に向かって、平和の哲理を発信していくんです」
 車は、左手に白い砂浜とエメラルド色の海を見ながら北上していった。
 一時間ほど走ったところで、恩納村のいんぶビーチに着いた。ひときわ美しい海岸であった。
 「この先の防風林の辺りで、お弁当を食べていただいたあと、船で海側から一帯を視察していただければと思います」
 防風林の前で、伸一が車を降りると、そこには百人ほどの学会員が待ち受けていた。
 高見が、伸一を迎えるにあたって、「今回は、山本先生に本島の北の方も回ってもらい、視察していただこうと思います」と語った一言を頼りに、山本会長に会いたい一心で、集まって来ていたのである。


楽土 三十四

 山本伸一は、笑顔でメンバーに語りかけた。
 「皆さん、待っていてくださったんですか! ご苦労様です」
 早速、緑陰での懇談が始まった。
 集って来た人のなかには、高齢の人も少なくなかった。伸一は、お年寄りに眼差しを向けながら言った。
 「お元気そうですね。年をとっても、人びとの幸福を願い、希望に燃えて、はつらつと広宣流布の活動に励んでいること自体、人生の勝利の実証なんです。
 世間の人たちの関心というのは、若い時には、どうしても、社会的な地位や名誉、財産などに向けられます。しかし、一定の年齢になれば、関心も、価値観も、異なってきます。
 そして、社会的な肩書がどうであるとか、大豪邸に住んでいるといったことには、若い時のようには、意味を感じなくなるものです。
 それよりも、健康であることの大切さや、生きがいをもって、心豊かに明るく生きていることの尊さなどを、痛感するようになります。
 したがって、お年寄りの同志の皆さんは、その元気な姿自体が、自分のありのままの生き方自体が、信心のすばらしさの証明になります。
 ですから、自信をもって、仏法を語り抜いてください。
 生涯、広宣流布の使命に生き抜き、後輩たちに、『信心、かくあるべし』との模範を示しきっていってください」
 高齢の男性が、元気な声で語った。
 「先生、やりますよ。私は、折伏が大好きなんです」
 「お願いしますよ。
 牧口先生の入信は五十代後半でした。そして、獄中で亡くなられるまで、大闘争の連続でした。広宣流布の道には、引退はありません。
 荘厳な夕日は、明日の晴天を約束します。
 同様に、最後まで、この世の使命を果たし抜いて、見事な人生の総仕上げをしていくならば、来世は、福徳に満ちあふれた、黄金の人生が待っています。
 大空を紅に染める太陽のように、生ある限り、自らを燃焼させきっていこうではありませんか」
 頷くお年寄りの顔は、決意に燃えていた。


楽土 三十五

 山本伸一は、微笑を浮かべながら言った。
 「実は、私はここで、お弁当を食べようと思っていたんです。
 今日は、旧正月ですから、みんなで一緒に食べて、お祝いしましょう。ケーキやお菓子もありますから。
 また、念珠など、記念のお土産も用意してきましたので、それもお配りしましょう」
 歓声が起こった。
 伸一は、同行の幹部らと、オニギリやソーセージ、菓子、そして、記念の品々を配っていった。
 メンバーは百人ほどいるために、一人ひとりに配られる食べ物の量は、決して多くはなかった。
 「あら、先生の分がなくなってしまうわね」
 婦人がつぶやく声が聞こえた。すると、伸一は言った。
 「いいえ、遠慮なく召し上がってください。私や幹部の分は、なくなってもいいんですよ。皆さんのための会長であり、幹部なんですから」
 その言葉を耳にしたメンバーの目に、涙がにじんだ。
 「それに、同行の幹部は、最近、太りぎみですから、一食ぐらい抜かすようにしてあげることが慈悲なんです」
 今度は、笑いが広がった。皆、オニギリなどを嬉しそうに頬張った。
 伸一は、それを見守りながら、ベンチに腰を下ろし、持ってきたお茶をすすった。
 そこに、二人の婦人部員があいさつに来た。そのうちの一人は、名護総支部の婦人部長の岸山富士子であった。
 伸一は、彼女の苦闘については、高見福安たちから詳細な報告を受けていた。
 ――岸山が入会したのは、一九六〇年(昭和三十五年)十月であった。
 夫妻で雑貨店と食堂を営んでおり、男三人、女二人の子どもがいた。
 ところが、小学校六年生の長男が、この年の八月、悪性リンパ腫と診断されたのだ。
 医師は告げた。
 「有効な治療法はありません。もって、あと二カ月か三カ月でしょう」
 野球が大好きで、いつも真っ黒に日焼けし、ピッチャーとして地域の大会にも出場していた長男が、もう助からないというのだ。
 まさに青天の霹靂であった。


楽土 三十六

 岸山富士子は、必死になって、先祖の霊に息子の病の全快を祈った。
 しかし、病状は、日増しに悪化していった。
 失意のなかで、富士子は、夫の親戚から仏法の話を聞いた。
 確信あふれる話に、藁をもつかむ思いで、彼女は信心を始めた。
 夫は信心はしなかったが、反対もしなかった。
 彼女は、長男が寝ている、病院のベッドの傍らで、懸命に唱題した。
 “どうか、この子の命を助けてください”
 その必死な祈りが通じたのか、それまで、ほとんど食事を口にしなかった長男がつぶやいた。
 「お腹が空いたよ」
 彼女は、長男を退院させた。病院にいても、有効な治療を行うことはできなかったからだ。
 長男は、彼女の作った料理を、「おいしい。おいしい」と言って食べるようになった。
 また、病院では、痛みに苦しんでいたが、家で一緒に唱題するうちに、痛みを訴えることがなくなった。
 医師が予告した、二、三カ月という「命の時間」が過ぎた。
 富士子は、真剣に信心に励んだ。御書も貪るように拝し、教学にも取り組んだ。
 長男は、さらに元気になっていった。
 やがて、新しい年を迎えた。小学校の卒業を前にした三月の学芸会の時には、長男は歩いて学校に行った。
 その後も、元気そうにしていたが、病魔は、わが子の体を蝕み続けていたのである。
 そして、四月半ば、長男は、眠るように、息を引き取った。寝息をたてているかのような、安らかな臨終の相であった。
 彼女は、遺体を抱きしめて、語りかけた。
 「今度は、健康になって生まれてくるんだよ。
 お前がいたから、私は信心することができた。
 私たちに仏法を教えるために、あえて、幼くして難病にかかるという業を背負って、生まれてきてくれたんだね。それが使命だったんだね。
 思えば、お前は、仮死状態で生まれてきた子だった。
 どんな過去世の宿業かはわからないけど、今世の使命を果たしたんだから、お前は今生で宿命を転換できたと思うよ。
 だって、微笑むような、こんなにいい顔をしているもの……」


楽土 三十七

 岸山富士子は思った。
 “私は、御本尊様に、治らない病気を治してくれ、この子を生かしてくれと、せがみ続けた。
 でも、御本尊様は、その無理難題を聞き入れ、半年も寿命を延ばしてくださった。
 あの寿量品にある「更賜寿命」(更に寿命を賜う)の経文の通りだ。
 なんとありがたいことか……”
 彼女は、わが子の死の悲しみのなかにも、感謝に胸を熱くしていた。その感慨が、幾筋もの涙となって頬を流れた。
 この体験が、彼女に信心への確信を与えた。
 息子は他界したが、寿命を延ばすことができた喜びを、親類や地域の人びとに語って聞かせ、勇んで折伏に歩いた。
 また、夫の幸徳も、息子の死を契機に、富士子とともに、御本尊に手を合わせるようになっていった。
 この年の十二月、那覇支部に名護地区が結成され、岸山は、地区担当員(現在は地区婦人部長)になった。幸徳も、活動に協力してくれた。
 年の瀬も押し詰まった二十七日の夜、地区の結成大会が行われた。
 席上、彼女は、こう決意を披瀝した。
 「いよいよ名護にも地区が誕生し、本格的な広宣流布の幕が切って落とされました。
 御聖訓に照らして、当然、さまざまな魔や難が競い起こってくると思います。
 しかし、大聖人は『よ(善)からんは不思議わる(悪)からんは一定とをもへ』(御書一一九〇ページ)と仰せです。
 たとえ、どんなことが起ころうが、何があろうが、決して御本尊を疑うことなく、広宣流布に邁進してまいります」
 地区結成大会のあと、富士子は、親しい学会員の家に寄った。夫の幸徳も付き添ってくれた。
 早く帰らなければと思いながらも、ついつい話し込んでいると、けたたましい消防自動車の音がした。
 ウーウー、カンカンカン……。
 様子を見に外に出た家の人が、息を弾ませて帰って来た。
 「大変だよ。あんたの家の方が燃えているよ」
 家では娘二人と息子二人が留守番をしている。
 岸山夫妻は、慌てて自宅へ向かった。


楽土 三十八

 しばらく行くと、夜空に上がる、真っ赤な火柱が見えた。
 自宅が近づいた時、岸山夫妻は息をのんだ。燃えているのは、自分の家であった。
 家の前には、人垣ができていた。
 富士子は、子どもたちの名を呼びながら、家の方に駆けていった。
 家は、ゴーゴーと音をたてて燃えていた。近づこうとすると、熱風が富士子の体を包んだ。
 その時、近所の人が、彼女に声をかけた。
 「あっ、富士子さん! 息子さん二人は、あんたのお義姉さんのところにいるよ」
 「そうですか! それで、娘たちは?」
 「それが、娘さんは、見つからないのよ。みんなで、海岸の方も捜してみたんだけどね」
 富士子は、すぐ近くにある、次女の同級生の家に走った。
 「娘は、こちらにお邪魔していませんか」
 いなかった。強い不安が頭をよぎった。
 義姉の家に急いだ。
 小学校二年の次男と五歳の三男は、彼女の顔を見るとしがみつき、わーわーと泣き出した。
 富士子は、二人をなだめながら、次男に、経過を尋ねた。
 ――小学校五年の長女がランプの火を消し、皆で布団に入った。しばらくすると、そのランプのある部屋から、パチパチという音がし、燃え始めたのだ。
 「ぼくは、すぐに気がついて、『大変だよ!』って、ネーネー(姉さん)を起こしたんだけど、起きなかった。
 それで、どんどん燃え始めたんで、怖くなって逃げ出したんだ。
 弟は起こさなかったけど、自分で起き出して、ぼくの後についてきたんだ……」
 富士子は、自分の体から、血の気が引いていくのがわかった。
 “生きていてほしい。生きていてほしい……”
 彼女は、心で必死に唱題した。
 やがて鎮火した時には、家は全焼していた。
 二人の娘は、遺体で発見された。
 あまりにも過酷な出来事であった。宿命の嵐は、容赦なく、岸山一家に襲いかかったのだ。
 富士子は号泣した。幸徳は、呆然として立ちつくしていた。


楽土 三十九

 火事は、ランプからの出火であった。
 長女は明かりを消したが、たまっていたホコリに火がつき、それが燃え出して、油に引火したのではないかとのことであった。
 そのランプは、以前から調子が悪く、新しいものに取りかえようと、夫婦で話していた矢先のことであった。
 岸山の事故のことは、すぐに高見福安から、山本伸一に連絡が入った。だが、その詳細を聞くには、高見の上京を待たねばならなかった。
 年が明けた一月、東京に出て来た高見は、事故の詳しい状況と、その後の岸山の様子を、伸一に報告した。
 「葬儀には、私が出席し、先生からのお香典をお渡しいたしましたが、その時は、岸山地区担は失意の底にありました。
 でも、信心は揺らいではいません。火事のあと、一家は、敷地のなかにある、焼け残った小屋で暮らしています」
 岸山富士子は“この事故は魔なのだ”と感じ、御本尊への不信をいだくことはなかった。しかし、自分を責め苛み続けていた。
 留守中に出火して、大事な二人の娘を亡くしてしまったことが、悔やんでも、悔やんでも、悔やみきれなかった。
 “なぜ、すぐにランプを新しくしなかったのだろう。きっと心のどこかに、信心しているから大丈夫だという思いがあったのだ。それが油断であり、魔であったのだ”
 また、地区担当員でありながら、地域の人たちにも、学会にも迷惑をかけてしまったことが、たまらなく辛かった。
 火事以来、地域の学会に対する風当たりは強くなっていた。学会員が折伏に訪れると、人びとは、こう言うのである。
 「あの岸山のところを見てみろ! 家を焼き、子どもも亡くしたじゃないか。ヤマトガミなど拝むからじゃ」
 そう言われると、何も言い返せなくなるメンバーもいた。組織のなかに動揺が広がっていった。
 「名護では、しばらくは折伏はできんな」
 溜め息まじりに、こう漏らす人もいた。
 岸山は、いたたまれない気持ちであった。
 御本尊にすがりつくように、唱題したかった。
 だが、その御本尊も、火事で焼失してしまっていたのである。


楽土 四十

 山本伸一は、高見福安の話を聞くと言った。
 「岸山さんは、さぞかし辛いだろう。悔しいだろう。胸が痛みます」
 伸一の目には、涙さえにじんでいた。
 「私たち凡夫には、自分が、どんな宿業をもっているかわかりません。
 大聖人は、御自身が大難に遭ったことについて、過去の『謗法の重罪』によると仰せです。
 ましてや私たちは、過去遠遠劫以来、いかに多くの重罪を犯してきたか計り知れない。
 そして、大聖人は、本来なら、その罪の報いを未来永遠にわたって一つずつ受けるべきところを、法華経の敵を強く責めたので、大難となって一時に集まり起こったのだと言われている。
 それは、今世で成仏するためです。しかも、その難は、仏法の功徳の力によって、過去の重罪の報いを現世で軽く受けているのだと、断言なされている。これが、転重軽受ということです。
 つまり、信心をして苦しみを受けるということは、一生成仏への道を進んでいる証拠です。それは、絶対に間違いない。
 岸山さんは、地区担当員として、名護の広宣流布に決然と立ち上がったから、過去世の罪障が一気に出て来たんです。
 信心の旗を掲げ持ったがゆえに、魔も激しく競い起こった。彼女が倒れれば、名護の広宣流布は大きく後退するからです。
 仏法の視座に立って考えるならば、大苦悩を受ける意味も、明らかになります」
 高見は、伸一の話に深く頷きながら、つぶやくように言った。
 「私は、亡くなってしまった二人の小学生の娘さんが、かわいそうでならないんです」
 「そうだ。本当にかわいそうだ……。
 しかし、娘さんたちは御本尊に巡り合い、お題目も唱え、広宣流布のためのお母さんの活動に協力して亡くなった。
 それは、三世の生命観に立つならば、今世で罪障を消滅し、永遠の幸福の軌道に入るために、生まれて来たということなんです。来世は、必ず、幸せになって生まれてきます。
 岸山さんが、さらに強盛な信心を貫き通していくならば、いつか、きっと、心の底から“そうなんだ!”と、確信できる日がきます」


楽土 四十一

 山本伸一は、力のこもった声で語っていった。
 「人間は苦悩を離れて生きることはできない。
 人は病気もするし、老いもする。そして、遅かれ早かれ、いつか、誰もが死を迎える。
 病気が治る。事業が成功するといったことも、信心の力であり、功徳ですが、まだまだ小さな利益です。
 本当の大功徳は、どんな大苦悩に直面しても、決して負けない自分自身をつくり、何があっても、揺るがない大境涯を築いていけるということなんです。
 それが、絶対的な幸福境涯です。
 もし、岸山さんが、今回の問題を乗り越えていったら、どんなに大きな苦しみを抱えた人にも、勇気を与えることができるでしょう。万人を奮い立たせる力をもつことになるでしょう。
 大変な宿命を背負っているということは、同時に大使命を担っていることになるんです。
 どうか、『負けるな。断じて、負けるな。あなたが元気であり続けることが、信心の力の証明です』と伝えてください。
 私も、日々、真剣にお子さんの追善の唱題をしていきます」
 さらに、伸一は、御本尊を焼失してしまった岸山が、すぐに新しい御本尊を受けられるように手配した。
 
 伸一の指導は、沖縄に帰った高見から、岸山富士子に伝えられた。
 それは、彼女の心を、大きく揺さぶり、決意を目覚めさせた。
 「私は負けません。名護の人たちに、『学会は正しかった。すごい宗教だ』と言われるまで、頑張り抜きます!」
 富士子は、夫の幸徳にも、亡くなった子どもたちの本当の追善は、この仏法しかないことを訴えた。幸徳も、一生懸命に信心に励み、学会活動に取り組むようになった。
 火事になって懲りるどころか、夫婦で信心をするようになった姿に、呆れる人もいたようだ。
 当時、米軍は、地域住民との親善のために、各村の村長らと、定期的に懇談会をもっていた。
 その席で、米軍の将校が「困ったことがあったら相談しなさい」と言うと、岸山の村の村長が、夫妻が火事で焼け出されたことを伝えた。


楽土 四十二

 米軍の将校は、すぐに岸山の一家が住んでいる小屋に来て、岸山幸徳に尋ねた。
 「大変そうだが、欲しいものは何かね」
 「家です。それを建てるために資材が欲しいんです」
 「家か!」
 将校は、彼を基地に連れて行った。そして、トタン屋根の木造の家屋を見せた。
 「これを、あなたに提供しようと思うが、どうかね」
 家の中に入ってみた。まだ十分に、使うことができる。
 「これをいただけるんですか。……ありがたいのですが、とても運ぶことができません」
 将校は、笑みを浮かべて言った。
 「大丈夫! こちらで運搬するから心配ない」
 家の中は、きれいにリフォームしてくれた。そして、道路を通行止めにし、十キロ余り離れた焼け跡まで、トレーラーで運んでくれたのである。
 火事に次いで、家をもらった人として、岸山夫妻は、ますます有名になった。
 また、営んでいた雑貨と食堂の店も、再開することができた。
 “御本尊は、私たちを守ってくださる”
 強い確信をもった夫妻は、来る日も、来る日も折伏に歩いた。
 しかし、親戚や地域の人たちは、なかなか信心の話に、耳を傾けようとはしなかった。
 夫妻は、鼻先でせせら笑われることも多かった。だが、毅然としていた。富士子は、胸を張って言った。
 「私たちは、長男を病気で亡くし、さらに火事で、娘二人を失いました。皆さんにも、ご迷惑をおかけしました。
 でも、めげずに立ち上がりました。苦しみをはねのけ、未来に希望を見いだし、元気に生きています。
 信心をしても、人生にはさまざまな試練があるものです。考えられないような、大きな悲しみに出あうこともあると思います。
 それでも、どんなことがあろうが、負けずに生きていく力の源泉が信仰なんです。私たちは、必ず幸福になります。見ていてください」
 その叫びが、次第に、人びとの疑念を晴らしていった。


楽土 四十三

 悲しみの淵から、敢然と立ち上がった岸山夫妻の姿に共感し、信心をする人も出始めた。
 沖縄では、あの戦争で何人もの家族を失った家が少なくなかった。そうした辛酸をなめてきた人たちには、岸山夫妻の“強さ”が、いかに尊いことであるかが、よくわかるのであった。
 富士子は思った。
 “人生は苦悩の連続かもしれない。でも、苦悩即不幸ではない。仏法は煩悩即菩提と説くではないか。
 長男も、二人の娘も、私にそれを証明させるために、亡くなったにちがいない。いや、その使命を、私に与えるために生まれてきたのだ”
 彼女は、今は亡きわが子たちに誓った。
 “母さんは、自分の生き方を通して、信心の偉大さを証明してみせる。負けないよ。何があっても負けないからね。お前たちの死を、決して無駄にはしないから……”
 岸山夫妻は学会活動に汗を流しながら、夜空を仰ぎ、好きな琉歌(沖縄の歌曲)を噛み締めた。
 「あても喜ぶな うしなても泣くな 人のよしあしや 後ど知ゆる」
 財産があっても喜ぶな。失っても泣くな。人間の真価は、そんなもので決まりはしない。人のため、世のために何をしたかどうかで、その人のよしあしは、後になってわかるものだ――との意味である。
 見上げる空の星が美しかった。二人は、三世につながる永遠なる生命の銀河を見ていた。
 夫妻は、一歩も引かずに頑張り通した。
 やがて、名護は総支部へと発展したのである。
 また、夫妻は、社会に迷惑をかけたのだから、社会に尽くそうと、地域貢献に力を注いだ。
 そして、後年、幸徳は地域の老人クラブの会長として、富士子は市の婦人会の会長や民生委員・児童委員などとして活躍し、信頼の輪を広げていくことになるのである。
 あの火事から、七年余りの歳月が流れていた。
 いんぶビーチにやって来た岸山富士子を、山本伸一は、包み込むように励ました。
 「よく頑張ったね。
 勝負は、途中では決まりません。最後に勝つ人が、人生の勝利者です。生涯、広布の道をひた走り、沖縄一、日本一の幸福者になってください」


楽土 四十四

 岸山富士子は、何度も頷きながら、唇を噛み締め、感涙を抑えた。
 彼女は、“山本先生とお会いできたら、ぜひ、名護に来てくださいと頼もう”と思っていた。
 名護では、メンバーが「山本先生に絶対においでいただくのだ」と言って、拠点に集っていたのである。
 しかし、岸山がそれを口にする前に、伸一は、浜辺に到着した船に向かって歩き出していた。
 「では、お元気で!」
 伸一は、メンバーに見送られて船に乗った。
 船は、二十人乗りほどのモーター付きのボートで、船底にガラスが張ってあり、そこから、海の中が見えるようになっていた。
 「これは、グラスボートという観光船です」
 高見福安が説明した。
 船が動き始めた。
 伸一は、砂浜のメンバーに手を振り続けた。
 ガラスの下では、珊瑚礁の間を縫うように、色鮮やかな魚の群れが泳いでいた。
 岩礁を越えると、船の揺れは、急に激しくなった。大波が来るたびに、船体は、右に左に大きく傾いだ。
 しかし、船は、さらに、沖へ、沖へと進んでいった。
 “いったい、どこまで行くのだろう”と、伸一は思った。
 その時である。船を運転していた船長が、後ろにいた乗員に怒鳴った。
 「おい、故障だぞ。点検した時は、どうなっていたんだ!」
 その声に、皆の顔色が変わった。
 伸一は、落ち着いた、静かな口調で言った。
 「調子が悪いなら、無理をして遠くまで行く必要はないから、引き返そう。事故を起こさないようにすることが大事だ」
 同行していた総務の森川一正が、それを船長に伝えようとした。
 「おーい、引き返してくれー」
 だが、船長は、振り向きもせずに、懸命にハンドルを操っていた。
 船の揺れは、ますます激しくなった。船縁に波が弾け、白いしぶきが上がった。
 森川は、さらに強い語調で言った。
 「引き返してくれ!」
 必死になって、舵を操作しようとしていた船長の耳には、何も入らなかったのである。


楽土 四十五

 船長は、乗員に向かって、大声をあげた。
 「舵を手で操れ!」
 舵が壊れたようだ。舵が利かなければ、船は進路を一定に保つことも、方向転換することもできない。
 二人の乗員が船尾で、手を使って舵を操作し始めた。
 高見福安が船長のところに行き、話をして戻ってきた。
 「先生。舵は手動で操作するので、心配ないということですが、戻るように話をしました。
 ところが、流されて時間がたち、干潮になってしまうので、ちゃんとした桟橋のない、もとのいんぶビーチに戻るのは難しいそうです。
 それで、名護港に船を着けるとのことです」
 「わかりました」
 船は、名護をめざしたが、うまく進まず、ジグザグ運転を続けた。
 同行していた沖縄の婦人部の幹部は、船酔いと不安のためか、顔面は蒼白になっていた。
 「大変な視察になってしまったな……」
 森川一正が、溜め息まじりにつぶやいた。
 「こんなことになって、申し訳ありません」
 高見は恐縮して、山本伸一に頭を下げた。
 すると、伸一は笑顔で語った。
 「心配しなくてもいいよ。いつ、何が起きても、私は大丈夫だよ。
 ただ、指導者として大事なことは、絶対に事故を起こさないように、何を行うにせよ、安全な方法、確実な方法を考えていくことです。
 無事故を貫くことは、勝利の必須条件です。
 だから、決して冒険をしてはいけない」
 このころになると、いんぶビーチで、船の帰りを待っていた、沖縄の幹部や役員の青年たちも、異変に気づいた。
 浜辺に戻って来るはずの船が戻らず、しかも、蛇行しながら進み始めたからだ。
 海は、干潮に近づき、だんだん海水は、引いていっていた。
 “これでは、船は帰って来られないぞ!”
 皆が心配して見ていると、船は北に進み、部瀬名岬を越えて行ってしまったのである。
 「先生は、名護に向かわれているようだ。私たちも行ってみよう」
 誰かが言った。
 名護総支部の婦人部長である、岸山富士子の瞳が輝いた。


楽土 四十六

 このころ、名護では、港のすぐ近くにある拠点に、メンバーが集まっていた。
 名護の同志は、「山本先生が本島の北の方を回られるなら、ぜひ、名護に来ていただこう」と、何日も前から、懸命に唱題に励んできた。
 唱題を重ねるうちに、「山本先生に来ていただきたい」とのメンバーの願いは、いつの間にか、「山本先生は必ず来られる」との確信に変わっていった。
 地元の人たちは、“既に記念撮影、芸術祭が終わったので、視察に回られるなら今日しかない”と考えた。
 そして、この日、朝から拠点に集まっていたのだ。
 名護の同志は、なんの根拠もないのに、山本会長は来るものと信じて疑わなかった。
 いんぶビーチから名護までは、十キロほどの道のりであった。
 幹部や役員たちは、伸一の船を追って、車を飛ばして来たが、名護に着いた時には、まだ、船の姿は見えなかった。
 名護からいんぶビーチに行っていた地元の幹部は、皆が集っている家に向かって走った。戸を開けるなり、叫んだ。
 「皆さん、山本先生が間もなく名護に来られますよ。今、船で向かわれています!」
 「わー」という大歓声があがった。
 拠点には、「先生ようこそ」と書かれた横断幕も用意されていた。
 皆、あたふたと靴をはき、港に向かった。
 波止場に三百人ほどの人が並び、海に向かって横断幕が掲げられた。
 しばらくすると、彼方に小さな船が見えた。
 それが山本会長の乗った船かどうかはわからなかったが、皆、盛んに手を振り始めた。
 伸一の船は、手で舵を操作しているために、蛇行を繰り返した。
 その船の上で、望遠レンズを港の方に向けていた聖教新聞のカメラマンがつぶやいた。
 「なんだ、あれは!」
 それから彼は、大声で告げた。
 「先生! 港に学会員らしい人たちが、大勢集まっています。
 『先生ようこそ』という横断幕もあります。
 人数は二百人、いや、三百人ぐらいで、手を振っております」


楽土 四十七

 船が名護港に近づくにつれて、肉眼でも、学会員の姿が、はっきりとわかった。
 山本伸一も、船から身を乗り出すようにして手を振った。
 船が接岸され、伸一が姿を現すと、大拍手がわき起こった。
 多くの人がスーツ姿であり、晴れ着を着た少女もいた。
 旧正月だからでもあったが、皆、きちんとした身なりで会長を迎えようと考えていたのだ。
 伸一は、横断幕の両端の竹竿を支えていた青年に語りかけた。
 「わざわざ、ありがとう。あなたたちが東京に見えた時には、私が大歓迎します」
 そして、その二人の青年と握手を交わした。
 それから、傍らにいた婦人たちに言った。
 「私は、ここに来る予定はなかったんですよ。それにしても、皆さんの一念はすごい。引き寄せてしまうんだから。
 でも、私が来なかったら、どうするつもりだったの?」
 一人の婦人が答えた。
 「お見えになるまで待っているつもりでした。絶対来てくださると、確信していましたから」
 「困ったな。これからは、こういうことはやめましょう」
 笑い声が広がった。
 海岸で伸一を囲んでの懇談会となった。
 地元の幹部が、一人の女子部員を紹介した。小柄な女性であった。
 彼女は、子どもの時に失明し、全く目が見えなくなった。そのうえ一年ほど前に、最愛の母親を亡くしていた。
 「そうですか。大変でしたね。しかし、私は断言しておきます。信心を貫いていくならば、絶対に幸せになれます。
 悲しいことが続くと、“自分は不幸なんだ”“自分は弱いんだ”と決め、自ら希望の光を消してしまう人もいる。
 しかし、その心こそが自分を不幸にしてしまうんです。決して、目が見えないから不幸なのではありません。
 “信心の眼”を、“心の眼”を開いて、強く生き抜いていくんです。そうすれば、みんなが希望を感じます。勇気を覚えます。あなたは必ず多くの人の、人生の灯台になっていくんですよ」
 彼女の見えぬ目に、熱い涙があふれた。


楽土 四十八

 山本伸一の同志への激励は続いた。
 喉にガーゼを当てた、気管支の病で苦しんでいるという壮年には、「必ずよくなりますよ」と励ましの言葉をかけ、固い握手を交わした。
 子どもたちは抱きかかえ、高齢の友には念珠を贈った。
 また、「東京の学校に合格しました」と報告した女子高等部員が、伸一の著作である小説『人間革命』を手にしているのを見ると、彼は、すぐにその本に激励の一文を記した。
 「生涯 名護を忘れずに信心を」
 それは、彼女の旅立ちの指針となった。
 一人でも多くの人に、「発心の種子」「決意の種子」を植えようと、彼は必死だった。その燃える一念が、人の心を燃え上がらせるのだ。
 名護で同志を激励したあと、伸一は車でコザ(現在は沖縄市)に寄り、それから、沖縄本部に戻ることにした。
 コザには、会館の建設予定地があった。
 広い空き地の一角で車を降り、周囲を見ていると、木陰や草むらの随所に人が集まり、遠慮がちに伸一の方を見ていた。学会員である。
 「こっちに、いらっしゃい」
 伸一が手招きすると、安心した顔で、次から次へと、彼の周囲に集まってきた。
 その数は、なんと五百人ほどに及んだ。
 ここでも、満面に笑みをたたえ、皆と対話しながら、渾身の力で、激励が続けられたのである。
 伸一が沖縄本部に帰ったのは、夕刻であった。
 明日には沖縄を発つことから、このあとも、彼は寸暇を割いて、書籍や色紙に揮毫していった。
 さらに、夜には、今回の沖縄訪問の締めくくりとして、地元幹部とともに懇ろに勤行をした。
 勤行が終わった時には、時計の針は午後九時を回っていた。
 その時、幹部の一人がためらいがちに、伸一に告げた。
 「たった今、国頭から二十人ほどのメンバーが到着しました」
 東京から来た幹部の顔が曇った。
 連日、伸一は激励につぐ激励を重ねていただけに、皆、彼の体調を心配していたのだ。
 伸一の声が響いた。
 「お会いしよう。通してください」


楽土 四十九

 国頭は、沖縄本島の北部に広がる地域である。
 ここでも、山本会長が本島の北の方を視察すると聞いて、「それなら、国頭に先生をお呼びしよう」と、懸命に唱題を重ねてきた。
 そして、それぞれが、最高の真心で山本会長を迎えようと、支部婦人部長の家など、何カ所かに分かれて、準備をしていたのである。
 ある壮年は、海で海老を捕り、ある婦人は山で果物をとってきた。
 地元の特産品の貝細工や、芭蕉布などの民芸品を用意する人もいた。
 取り立てて高価なものではなかったが、皆、それらの品々に喜びを託して贈り、自分なりの歓迎の気持ちを表したかったのである。
 昼過ぎであった。名護に住むメンバーから、支部に電話が入った。
 「山本先生が名護に来られましたよ」
 皆、色めき立った。
 “名護に来られたのならば、国頭にも来られるはずだ”
 なんの裏付けもなかったが、そう思った。
 メンバーは、山本会長を歓迎しようと、支部の中心会場で待機することにした。なかには、道路に出て待つ人もいた。
 だが、それからしばらくして、また、名護から連絡が入った。
 「山本先生は、沖縄本部に向かわれました」
 同志たちの落胆は大きかった。皆、気が抜けたように、呆然とした顔をしていた。すすり泣く婦人もいた。
 その時、一人の壮年が口を開いた。
 「先生をお呼びできなかったら、私たちが、先生のおられる沖縄本部に行けばいいじゃないか。
 そうすれば、私たちの真心は伝わる」
 「そうだ。行こう!」
 「お会いできなくてもいいから、行くだけ行ってみよう」
 皆、急いで、準備に取りかかった。
 夕刻、支部を代表して二十人ほどが、何台かの車に分乗し、国頭を出発した。車といっても、そのうちの一台はトラックであった。
 舗装されていない道もあり、車体は、ガタガタと激しく揺れ、もうもうと砂埃が舞い上がった。
 だが、国頭の友は、胸を高鳴らせながら、夕暮れの道を沖縄本部へと向かった。


楽土 五十

 途中、道沿いの家の庭に、満開の美しい緋寒桜が見えた。ピンクの光を放っていた。
 一人の婦人が、「車を止めてください」と言った。かつて誰かから、山本会長は桜が好きだと聞いたことを思い出したのである。
 彼女は、桜を届けたいと思った。
 車を降り、その家の人に、桜の枝を分けてほしいと頼んだ。
 快諾してくれた。
 その桜の枝を、婦人の娘である、小学校五年生の少女が持った。
 メンバーは、夕暮れの道を那覇へと急いだ。
 沖縄本部に着いたのは、午後九時近かった。
 メンバーの一人が、懇願するように、警備にあたっていた役員の青年に告げた。
 「私たちは、国頭から来ました。
 ひと目だけでも、先生にお会いできないでしょうか……」
 青年は、困惑した顔で答えた。
 「もう、夜も遅いですから、今日はお帰りください」
 こんな時間に、突然、会長に取り次いでくれと言われても、応じるわけにはいかないと思ったからである。
 メンバーは、寂しそうに肩を落とした。
 それを見た、もう一人の役員の青年が言った。
 「無理だとは思いますが、聞いてみますから、しばらく、車のなかでお待ちください」
 国頭の同志は、自分たちが非常識なことをしていることも、よくわかっていた。断られても、仕方ないと思っていた。
 ただ、それでも、山本会長と会い、自分たちの心を伝えたかった。
 役員の青年は、なかなか戻ってこなかった。
 皆、心のなかで、懸命に題目を唱えながら待っていた。心臓は、早鐘を打つようにドキドキしていた。
 「皆さん! 山本先生が、お会いしてくださるそうです」
 青年の声がした。
 「バンザーイ!」と、叫び出したい衝動を、必死にこらえた。
 沖縄本部の二階に案内された。それぞれ、心づくしの届け物を抱きかかえるようにして、われ先にと階段を上った。
 伸一の声が響いた。
 「よくおいでくださいました。本当にご苦労様です。どうぞ、こっちにいらっしゃい」


楽土 五十一

 メンバーは、山本伸一の周りに座った。
 「国頭からだと、車で何時間ぐらいですか」
 「休まずに走れば、三時間です」
 「運転手の方は?」
 何人かの男性が手をあげた。
 「お腹がすいて、事故を起こしてはいけないので、おソバを用意しますから、運転手の方は、食べていってください」
 メンバーの一人が、語り始めた。
 「今日は、先生が来られるのではないかと思って、みんなでお待ちしていたんです。
 今度は、ぜひ、国頭にいらしてください」
 「そうか、待っていてくれたのか……。かわいそうなことをしたな。
 何人ぐらいの人が待っていたの?」
 「全部含めると、百人ほどです」
 「その方々に、くれぐれもよろしくとお伝えください。皆さんに袱紗を差し上げましょう」
 すぐに、側近の幹部が袱紗を用意した。
 「先生、これを!」
 婦人が携えてきた荷をほどき、沖縄のミカンを差し出した。
 伸一は「ありがとう」と言って、ミカンを一つ取り、皆にも勧めた。
 メンバーは、芭蕉布や貝細工の置物など、持参した品々を、次々と伸一の前に広げた。
 「私は、物はいただかないようにしていますが、皆様方の尊い真心なので頂戴いたします。御宝前にお供えします。
 私も、お土産を差し上げましょう」
 さらに、一人の少女が、自分の身の丈ほどもあろうかと思われる、濃いピンク色の花びらを広げた緋寒桜の枝を持って、前に出てきた。
 少女は、この桜は、自分が山本会長に渡したいと、持ち続けていたのである。
 伸一は、その桜を受け取ると、少女を傍らに座らせた。
 「ありがとう。きれいだね。沖縄はもう桜が咲いているんだね」
 少女は頷いた。
 「幾つになったの?」
 だが、少女は黙っていた。涙があふれて、返事ができなかったのだ。
 彼女は、幼少期に父親を亡くし、母親の手で育てられた。
 母親から、よく伸一の話を聞かされてきた彼女は、「私も先生にお会いしたい」と、祈り続けてきたのである。


楽土 五十二

 少女は、肩を震わせて泣き始めた。
 沖縄の幹部が、少女の父親は、既に他界していることを、山本伸一に伝えた。
 「そうですか。寂しかっただろうね。今日から、私が父親になりましょう。だから、もう泣くのはやめようね。
 あなたは、何が好きなの?」
 包み込むような、優しく、温かい声であった。
 少女は、ますます泣きじゃくるのであった。
 一緒に来ていた母親が、代わって答えた。
 「娘は、ピアノが好きなんです」
 「うーん、ピアノか。ピアノは重くて持ってこられないな」
 皆の笑いがこぼれた。
 伸一は少女に語った。
 「あなたのことは、生涯、見守っています。
 もし、苦しいこと、辛いことがあったら、手紙を書くんだよ。元気な時や調子のよい時はいいから、大変な時こそ、遠慮せずに、私の胸に飛び込んでいらっしゃい。
 これから先、何があったとしても、負けてはいけないよ。転んでも、転んでも、信心で立ち上がって、前へ、前へと進むんだ。きっと、きっと幸せになるんだよ」
 それから、伸一は、側近の幹部に、新しいノートを持ってくるように頼んだ。
 手渡されたノートを広げると、彼はペンを走らせた。
 「国頭の友の栄光を 永遠に記しておくため 茲に氏名を留める 伸一」
 そして、それぞれの名前と年齢を記載するように言って、ノートを回した。
 全員が書いて、伸一のもとにノートが戻った。
 皆、きちんとした身なりをしていたが、生活苦と懸命に戦っている人も少なくなかった。
 しかし、その顔には、清らかな信心の、黄金の輝きがあった。
 伸一は、合掌する思いで、記された名前に、じっと視線を注いだ。
 「このノートは、尊き広宣流布の記録として、沖縄の会館に永久保管いたします。
 また、皆さんが無事に帰られますよう、一緒にお題目を唱えましょう」
 伸一は、御本尊に向かった。
 国頭の友は、喜びに震えながら、彼の朗々たる声に唱和した。


楽土 五十三

 山本伸一の沖縄滞在は、三泊四日にすぎなかった。
 しかし、その訪問は、沖縄の同志に無限の勇気を与え、楽土建設への、不撓不屈の闘魂を燃え上がらせたのである。
 
 東京に戻ってから八日後の二月二十六日、千代田区の日本武道館で、二月度本部幹部会が開催された。
 山本伸一の堂々たる声が響いた。
 「学会の国内合計世帯数は、この二月をもちまして、待望の七百万世帯を達成いたしました。大変にご苦労様でございました!」
 その瞬間、雷鳴のような大歓声と大拍手が、武道館を揺るがした。
 一九六六年(昭和四十一年)十一月に六百万世帯を達成して以来、わずか二年三カ月で百万世帯の拡大である。
 まさに破竹の勢いで、広宣流布は進み、幸福と歓喜の大波が、日本列島を包もうとしていた。
 伸一は言葉をついだ。
 「大聖人は、『軍には大将軍を魂とす大将軍をく(臆)しぬれば歩兵臆病なり』(御書一二一九ページ)と仰せであります。
 この七百万世帯は、皆さんが大将軍となって、勇気をもって戦い抜いた証であります。
 大聖人も、また、牧口先生、戸田先生も、この壮挙を喜ばれ、諸手をあげて、ご賞讃くださることは間違いありません。
 勇気は、希望を呼び、力をわかせます。勇気こそ、自分の殻を破り、わが境涯を高めゆく原動力であります。
 大将軍の皆さん!
 遂に、新しき建設の幕は開かれ、創価の勇者の陣列は整いました。新時代が到来しました。
 わが胸中に、いや増して勇気の太陽を輝かせながら、いよいよ、歴史の大舞台に躍り出ようではありませんか!」
 大勝利の獅子吼がこだました。同志の顔に決意が光った。
 「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事」(同一六一八ページ)――それが、創価の精神である。
 この広宣流布の拡大のなかにこそ、師弟の直道があり、人類の幸福と平和の、確かなる大道があるのだ。
 (第十三巻終了)