光城 一

 紺碧の空、きらめく太陽、エメラルドの海、砕け散る銀の波……。
 南国・奄美は、美しき光の城であった。
 常緑樹の緑に染まる島のなかで、微風に揺れる黄金のススキの穂だけが秋を感じさせた。
 山本伸一が奄美空港に降り立ったのは、一九六八年(昭和四十三年)十一月十三日の正午過ぎのことであった。
 彼は十日から九州を訪問し、福岡県北九州市での芸術祭(十日)、熊本市での大学会結成式(十一日)、鹿児島市での婦人部と女子部の指導会(十二日)などに出席し、この日、空路、奄美大島に飛んだのである。
 奄美本部の班長、班担当員らの幹部との記念撮影会に出席するためであった。
 伸一の奄美訪問は、五年ぶりであり、これが二度目であった。
 六三年(同三十八年)六月の初訪問の時には、まだ奄美大島への航空便はなかった。
 鹿児島から徳之島まで飛行機に乗り、そこから奄美大島の名瀬港まで、五、六時間も船に揺られなければならなかった。
 伸一は激しい疲労を覚えたが、一日で五年分に相当する仕事をするのだと、奄美大島会館の落成式や総支部結成大会などに相次ぎ出席した。
 渾身の力で、メンバーの激励にあたった彼は、五年後に、再び奄美を訪問することを約束したのである。
 新たなる希望は、闘魂を燃え上がらせる。メンバーは再会を目標に、懸命に広布に走った。
 そして、この五年の間に奄美諸島は、一総支部から一本部二総支部へと大発展を遂げたのだ。
 
 伸一は、出迎えた地元幹部とともに、奄美大島会館に向かった。
 車は、大海原が広がる太平洋岸の道を進んでいった。風に揺れる海岸のヤシやソテツが、南国情緒を漂わせていた。
 それから、波のない、青い鏡のような、東シナ海側の内海に出た。
 奄美では、この前年、ある村で学会員への弾圧事件が起こっていた。
 伸一は、車を運転してくれている地元の幹部に尋ねた。
 「弾圧事件があった村の同志は元気ですか」
 「はい。新しい決意で頑張っております」


光城 二

 車は木々の生い茂る峠道に差しかかっていた。
 山本伸一は、重ねて尋ねた。
 「事件があった村は、今はどんな状況ですか」
 「かつてのような激しい村八分は収まり、一応の解決はみました。
 しかし、村の人たちの学会に対する偏見は、まだまだ根強いものがあります」
 「そうだろうね。誤解が晴れ、偏見が払拭されるには、長い歳月が必要です。何があっても粘り強く、頑張り抜いていくしかない。
 学会は、村の人たちの幸福と、地域の発展を願って行動しているんだもの、きっと、いつかわかる時がくるよ。
 しかし、こうした難が起こったということは、奄美の同志の信心も、いよいよ本物になったということです。
 あの事件は、奄美広布の飛躍台なんです。大聖人は、『大悪をこ(起)れば大善きたる』(御書一三〇〇ページ)と仰せではないですか。
 皆が、いよいよ決意を新たにして前進していくならば、奄美は必ずや日本で一番、広布が進んだ地になるでしょう」
 伸一は、車中、静かに題目を唱え、深く祈りを捧げた。
 
 その村に弘教の波が広がったのは、村の出身である富岡トキノが、一九六〇年(昭和三十五年)の春に、福岡から帰って来てからであった。
 彼女は、奄美で生まれたが、尋常小学校四年の時に、父親の仕事の関係で神戸に移った。
 十九歳でトキノは、父が決めた男性と結婚。男の子をもうけた。
 だが、その夫に、妻子がいることが発覚したのである。彼女は子どもを連れて家を飛び出した。
 終戦後、トキノは、神戸で再婚する。
 ほどなく、奄美に帰っていた父親から、跡取りが必要だからと言われ、泣く泣く息子と別れなければならなかった。
 やがて、新しい夫との間に娘が誕生。名古屋で始めた製菓業も軌道に乗り、幸せを手に入れたかに思えた。だが、夫が結核で他界してしまう。
 追い打ちをかけるように店が火事になり、さらに、借金をして店を再建した矢先、従業員が店の金をすべて持って、消えてしまったのである。


光城 三

 富岡トキノは失意のどん底に叩き落とされた。
 幼い娘を連れて、知人を頼って福岡に来た。
 牛小屋の二階を改造したアパートを借り、せんべいを焼く仕事などをした。細々と母子二人が生きるのが精いっぱいの暮らしである。しかも、娘は虚弱体質であった。
 希望の見えぬ、暗澹たる日々が続いた。
 その福岡で、学会員に出会い、仏法の話を聞いた。「宿命」という言葉が心に突き刺さった。
 その「宿命」が転換できるとの確信にあふれる話に、彼女は入会を決意した。一九五六年(昭和三十一年)の秋のことであった。
 トキノは、結核にも侵されていた。
 入会した彼女は、一心不乱に信心に励んだ。むさぼるように御書も拝した。そのなかで、人生の崩れざる幸福は、自分自身の生命の変革にあることを知った。
 彼女は、娘の香世子の手を引き、弘教にも奔走した。
 折伏に行き、訪ねた相手が激怒し、池に突き落とされたこともあった。
 でも、微動だにしなかった。
 学会活動を続けるなかで、幾つもの体験をつかんだ。病も克服した。
 そして、六〇年(同三十五年)の春に、彼女は、故郷の村に帰って来たのである。
 離れて暮らしていた息子の正樹は、既に二十歳になっており、香世子は、小学校の四年生になっていた。
 トキノの父親は、信心に猛反対だった。
 しかし、子どもたちは、彼女と一緒に信心に励むようになった。
 富岡一家が住む集落には、数人の学会員がいたが、指導の手が入らなかったせいか、真剣に信心に取り組んでいる人はいなかった。
 トキノは、来る日も来る日も、集落の人びとに仏法の話をして歩いた。三カ月もしたころには、集落の二百数十軒の家を、くまなく折伏し、入会者も出始めた。
 だが、土俗信仰の根強い地域であり、人びとの反発は強かった。
 さらに、トキノをはじめ、学会員が、神社の修復の寄付を拒んだことから、大騒ぎとなった。
 集落で、富岡一家と学会への対策が協議されたのである。


光城 四

 富岡トキノへの非難は激しかった。
 「トキノは島に帰って来たと思ったら、創価学会だなんていう、とんでもない宗教を持ち込んで、集落の秩序を壊そうとしている」
 「これは、黙って見過ごすわけにはいかん。断固とした処置が必要だ」
 集落の人たちは、彼女たち一家を、村八分にする取り決めを行ったのである。
 人びとは、トキノたちを避けるようになった。道で会っても、皆、目をふせ、足早に通り過ぎていった。
 集落の店では、何も売ってくれなくなった。ほかの店に行くには、何キロも歩く必要がある。
 祭りの日、御輿をぶつけられ、家の壁を壊されたこともあった。
 また、息子の正樹は、普段は農業をしていたが、農閑期には土木工事に出ていた。彼は、身長が一八〇センチほどあり、体格もよく、力も人一倍強いことから、雇い主には喜ばれていた。
 しかし、その正樹が、「雇うわけにはいかない」と断られたのである。
 「私は君に働いてもらいたいのだが、集落の人たちが、君を雇うなら働かないというのだよ」
 富岡の家は、収入源も断たれてしまった。
 小学生の香世子も、いつも空腹をかかえていた。もともと虚弱な子どもだけに、倒れてしまうこともあった。
 学校では「ナンミョーの子」といって、皆に、はやし立てられることもあった。
 ある日、香世子は、川の洗い場から、野菜クズを拾ってきた。
 「お母さん、これ、おいしそうだよ。私、いっぱい、集めてきたよ」
 無邪気に、得意そうに微笑む娘の顔を見て、トキノの胸が詰まった。
 こんなことまでさせてしまったと思うと、わが子が、不憫で、不憫でならなかった。
 彼女は黙って、ギュッと娘を抱き寄せた。
 娘は、不思議そうな顔をしながら、手に野菜クズを握ったまま、クスクスと笑って、母に抱かれていた。
 気丈なトキノの目にも涙があふれ出た。
 それでも彼女は、決して弱音は吐かなかった。むしろ、御書に仰せの通りだと、確信を深めていったのである。


光城 五

 村八分のなかでも、富岡の母子は、明るさを失わなかった。
 食べ物のない時、どこからかニワトリが庭に入って来て卵を産んで、出ていった。
 母子は、「功徳だね」と、手を取り合って喜ぶのであった。
 母のトキノは、子どもたちに言った。 
 「日蓮大聖人は、正法を弘めれば、必ず迫害されると言われている。その通りになっただけのことだよ。
 また、大聖人様は『末法の法華経の行者を軽賤する王臣万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず』(御書一一九〇ページ)と断言していらっしゃる。
 折伏を行じる私たちをいじめれば、絶対に現証が出るよ。見ていてごらん。それが、仏法の生命の法理だからね。
 だから、何があっても『スットゴレ!』(“なにくそ”の意味)って、歯を食いしばって頑張り抜くんだよ」
 母子は負けなかった。
 仕事のない正樹は、山に入ってハブを追った。ハブによる死傷事故をなくすために、捕らえたハブを、買い取ってくれる制度ができていたのだ。
 危険な作業だが、怖いもの知らずの正樹は、勇んで、山のなかを駆け回った。
 トキノは御書を携え、他の集落に、せっせと弘教に通った。
 一九六一年(昭和三十六年)八月、奄美に支部が誕生すると、彼女は、地区担当員(現在は地区婦人部長)となった。
 母子への圧迫はまだ続いていたが、それから間もなく、集落にあった神社が、台風で吹き飛ぶという出来事があった。
 さらに、迫害の中心的な人たちが、病に罹るなどの事態が生じた。
 すると、人びとはこう囁き合った。
 「学会の信心を悪く言うと、悪いことが起こる。トキノが読んで聞かせて歩いている、あの黒い本に書いてある通りだ」
 「ともかく、罰を避けるには、反対などしない方がよい」
 「黒い本」とは御書のことである。
 そして、村八分は次第に解消されていった。
 しかし、富岡母子に対する、この村八分は、その後、村に起こる迫害事件の、ほんの序章にすぎなかったのである。


光城 六

 一九六四年(昭和三十九年)の初夏のことであった。
 地区担当員の富岡トキノは、ある集落の学会員の家で、二十人ほどのメンバーに対して、「聖人御難事」の講義をしていた。
 「各各師子王の心を取り出して・いかに人をどすともをづる事なかれ」(御書一一九〇ページ)
 彼女は、いかなる迫害があろうとも、決して恐れてはならないと、力を込めて訴えていった。
 その時、部屋の障子が開き、一人の男が入って来た。顔は赤く、息は臭かった。酒に酔っているのだ。
 男は村会議員で、日ごろから、学会を誹謗していた人物である。
 参加者の顔に緊張が走った。
 彼は、睥睨するように会場を見渡した。
 それから、どっかりと腰を下ろすと、講義を聴き始めた。参加者は胸を撫で下ろした。
 トキノは、そのまま、講義を進めていった。
 「大聖人は、信心をして難に遭っても、それによって、後生は仏になるのだと言われ、続いてこうおっしゃっています。
 『設えば灸治のごとし当時はいた(痛)けれども後の薬なればいた(疼)くていたからず』(同)」
 こう語った時、男は立ち上がり、トキノに詰め寄った。
 「何が灸治だ! これは誰が書いたんじゃ。島の者か!」
 「いいえ、日蓮大聖人です」
 「日蓮? いい加減なこと書きやがって!」
 そして、男は、やにわにトキノの手をつかみ、捻り上げた。
 「なんですか!
 こんなことしなくても、いいでしょ。話があるなら、終わるまで待ってください」
 「早く終われ!」
 「そういうわけにはいきません。まだ、残りがあります」
 「うるせい!」
 男は、トキノの顔面を力いっぱい殴打した。
 彼女は、畳の上に倒れた。皆、息を飲んだ。
 男を取り押さえようと身構える人もいたが、倒れたトキノが起き上がって、それを制した。
 男は喚き出した。
 「お前ら、今度の選挙で、勝手に候補者を立てて、俺の票をもっていくんだろ!」


光城 七

 村では、八月に村議会議員選挙が予定されており、その選挙に公明政治連盟(当時)から初めて候補者を立て、学会として支援することが決まっていた。
 相手は酔漢である。何をするかわからない。
 富岡トキノも、さすがに不安になった。
 しかし、こんなことで皆を動揺させてはいけないと自分に言い聞かせ、心で唱題しながら、勇気を奮い起こして、座り直した。
 そして、男の顔を見すえて言った。
 「それは、選挙ですもの、公政連(公明政治連盟の略称)の候補者の政策や人柄に共感した人は投票してくれるでしょうから、票はいただくことになりますよ。
 でも、私たちは、ソーメンや焼酎で、票を買ったりはしません!」
 島では、選挙のたびにソーメンや焼酎などを配り、投票を依頼するといった買収行為が後を絶たなかった。
 男は大声で叫んだ。
 「俺にも票を回せ!」
 男は、次の村議選で自分が落選してしまうことを恐れ、酒を飲んだ勢いで、学会の会合に押しかけてきたのだ。
 「そんな相談にはのれません。それより、厳粛な御書の講義の最中にこんなことをして、今に必ず後悔しますよ」
 男が暴れ出すことを、皆、心配していた。
 誰かが、小声で題目を唱え始めた。皆が、その声に唱和し、唱題が広がった。
 すると、男は逃げるように帰っていった。
 トキノは、参加者に笑顔を向けた。
 「皆さん、驚いちゃいけません。
 今、御書で学んだ通りじゃないですか。
 信心をして、広宣流布をしようと思えば、必ず難が競い起こることが、よくわかったでしょ。
 私も殴られたんですから痛いですよ。でも、大聖人様が『後の薬なればいた(疼)くていたからず』(御書一一九〇ページ)と仰せのように、これで宿命転換ができると思うと、痛みなんか、飛んで行ってしまいましたよ」
 トキノは、ますます元気になっていた。
 「大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし」(同一四四八ページ)
 彼女は、困難に出あうたびに、確信が深まり、喜びが込み上げてくるのであった。
 

光城 八

 八月三十日に投票が行われた、村議会議員選挙では、公政連の候補者は二百八十一票を獲得して、第一位で当選した。
 この選挙で、苦戦した現職議員や落選した候補者は、学会に見当違いな恨みをいだいた。
 そして、村の一、二の集落で、学会員が村八分にされるなどの事件が起こっている。 

 さらに、それから三年がたった一九六七年(昭和四十二年)四月、鹿児島県議会議員選挙が行われた。
 公政連は、六四年(同三十九年)十一月には公明党として新出発し、この六七年一月、初めて衆議院議員選挙にも候補者を立て、全国で二十五人が当選した。公明党は社会の最大関心事となっていた。
 そのなかで鹿児島県議選に、奄美の大島郡区(定数五)でも、初めて公明党が候補者を立てることになった。
 投票は、四月十五日に行われ、公明候補は、学会員の懸命な支援によって三位で当選した。
 一方、この村の出身で、村の大多数の人が推した現職県議が、落選したのである。
 村では、誰も予想しなかったことであった。
 動揺は、落選した候補者よりも、村会議員や地域の有力者たちの方が大きかった。翌年に村議会議員選挙が控えていたからである。
 この県議選で公明候補が獲得した村での票は、村議選なら優に三人は当選できる数であった。
 再選を狙う現職村議や、立候補を考えている人たちは、強い危機感を覚えた。
 また、地元出身の県会議員とつながり、何かと便宜を図ってもらっていた有力者たちは、その後ろ盾を失ったことに、不安をいだいた。
 ある集落では、何人かの村会議員や有力者が集まり、自分たちが推した現職県議が、なぜ落選してしまったのか、検討が行われた。
 「公明党が初出馬して当選し、票をもっていったからだ!」
 「公明党といっても、支援に動いているのは創価学会だ」
 攻撃の矛先は、筋違いにも学会に向けられた。
 “今のうちに対策を講じておかなければ、われわれのなかから、誰かが落ちることになる”
 彼らは焦っていた。


光城 九

 村会議員ら地域の有力者は、学会員の信心をやめさせ、学会の動きを封じようということで、目論見が一致した。
 そして、各集落に呼びかけ、村をあげて学会員を圧迫し、締め出そうと謀ったのである。
 もともと奄美は、選挙熱の高い地域であった。
 奄美を代表する産業といえば、大島紬と砂糖キビだが、それだけでは本土並みの経済の発展は望めなかった。
 地域の振興は、公共事業に頼らざるをえないのが現実であった。
 その公共事業を、いかに島に持ち込み、どれだけ便宜を与えてくれるか――それが政治の力とされ、誰が当選するかによって、利害は大きく分かれた。
 選挙で自分の推した候補が落選すれば、公共事業の指名から外されたり、役所のポストから降ろされるなど、もろに影響が表れた。
 まさに、選挙には、自分の生活がかかっていたのである。
 そこに、物事をはっきりさせぬと気がすまない島民の気質も加わり、選挙戦は過熱した。 
 選挙となれば、現金も乱れ飛んだ。
 村や集落が真っ二つに分かれ、親戚同士で激しい争いとなったり、暴力沙汰になることも珍しくなかった。
 対立する候補者の運動員を、自分たちの地盤に入れさせぬために、焚き火をしながら夜通し見張りを立てたりもした。
 また、誰が当選するかを賭ける“選挙賭博”まで行われた。
 そんな風土のなかで、この村の村議選に公明政治連盟が候補者を立てて当選を果たし、さらに、県議選でも、公明党の候補が議席を獲得したのである。
 候補者も、支援する学会員も、奄美の繁栄を願い、利権で結びついた濁った政治を変え、政界を浄化したいとの一心で、懸命に選挙活動に取り組んだ。
 それが、愛する島の未来を開いていくために、不可欠な課題であると、真剣に考えたからだ。
 だが、これまでの島の選挙や政治の旧弊に慣れてきた人たちの目には、学会の支援活動が、村や集落の団結を壊し、島を混乱させる危険な動きであるかのように、歪められて映ったのである。


光城 十

 学会員を締め出すという有力者たちの謀議は、直ちに行動に移された。
 ある集落では、退転状態にあって学会に批判的だった会員や、信心の弱いメンバーの御本尊が、密かに集められた。
 御本尊を集める際には、本人に委任状を書かせ、しかも、誰が来たのか、学会に言ってはならないと釘を刺した。
 こうして、五日ほどの間に、十数世帯の家の御本尊が没収されたのである。
 この事実をつかんだ、学会の地元の幹部は、その集落の代表と、話し合いをもつことにした。
 四月二十二日、地元の地区部長ら三人が集落の有力者の家を訪ねた。
 彼らは、会員から取り上げた御本尊の返却を求めるとともに、信教は自由であり、信心をやめるように圧迫を加えるのは違法であることを訴えていった。
 また、学会員は島の繁栄を願って信心に励んでいるのであり、地域の団結を乱す意思など全くないことを語った。
 交渉にあたった地元の幹部は、集落の代表と人間関係があり、話し合いが進むうちに、緊張もほぐれ、和やかな雰囲気になっていった。
 有力者たちは、学会の主張に同意する姿勢を見せ始めた。
 問題は解決の方向に向かうかに思えた。
 その時であった。
 「ウウー」
 火災を告げる集落のサイレンが、突然、けたたましく鳴り響いた。
 このサイレンの音を聞くと、集落の代表は顔色を変えた。
 そして、改まった口調で言った。
 「今回の件は、集落の総意で行ったものだ。だから、私たちだけで判断するわけにはいかない。
 これから公民館で、すぐに集会を開くから、皆の前で、もう一度、説明してもらいたい」
 この地域では、公政連が初めて候補者を立てた村議選の直後に、一部の学会員に圧力をかけ、脱会させるという事件が起こっていた。
 その時、名瀬から十数人の男子部員が来て、同志の激励に回った。
 それを地域の人たちは、学会の示威と感じたようだ。
 そして、今回、学会の男子部が大勢で来るようなことがあったら、サイレンを鳴らすことにしていたのである。


光城 十一

 集落では、サイレンを合図に住民を公民館に集め、学会を威圧しようと決めていたようだ。
 学会の方は、全くそんなことは知らずに、名瀬から三十数人の男子部員が、この時、集落を訪れたのである。
 彼らは、この集落の学会員の御本尊が取り上げられるという事件が起こっていると聞き、メンバーの家を訪問し、激励しようと、バイクや乗用車で駆けつけて来たのだ。
 それを見た集落の人たちは、「学会は、いよいよ青年たちを送り込んできた。実力行使の構えだ」と憶測し、サイレンを鳴らしたのである。
 住民は、続々と、公民館に集って来た。
 そのサイレンは、火災を知らせる警報であったが、学会員以外の人たちには事前に知らされていたとみえ、誰も、慌てる様子はなかった。
 そのなかで、何も知らされていない学会員だけが、「火事だ!」と声をあげながら、バケツを手にして家を飛び出した。
 集落の緊急集会が始まった。
 公民館は、百人近くの人で埋まり、場外には、さらに多くの人があふれていた。
 会場に入った学会員は、わずか十人ほどに過ぎなかった。多勢に無勢である。
 集会では、学会側と集落側の双方から、順番に発言していくことになった。
 学会側で最初に話をしたのは、名瀬から来た男子部の幹部であった。
 彼は、学会への誤解を晴らすために、冒頭、学会の理念と実践を説明していった。
 すると、激しい野次と罵声が起こった。
 「黙らせろ! あいつの口をふさげ!」
 「勝手なことばかり言うな!」
 「我田引水だ!」
 学会側の話には、全く耳を傾けようとはしなかった。
 一方、集落の有力者たちが、「村を混乱させる学会を、断じて撲滅しようではないか」などと叫ぶと、嵐のような喚声に包まれた。
 冷静な話し合いや説明など、とうてい行える状況ではなかった。
 集会が始まって一時間ほどしたころ、学会側は、これでは話し合いにならないと判断し、引き揚げることにした。


光城 十二

 この集落での集会が、学会員締め出しの号砲となり、各集落で同志への圧迫が始まった。
 村の有力者や親戚などが押しかけ、学会をやめろと迫るのである。
 もし断れば、「商売も、仕事もできないようにする」「紬の織子をやめさせる」「台風の被害があっても協力しない」「田植えも手を貸さない」などと脅すのだ。
 紬は奄美の基幹産業であり、「織子」というのは、それを織る人のことで、ほとんどが女性であった。
 紬工場を営む学会員は、「織子」がやめてしまえば、経営は成り立たなくなる。
 また、奄美は、台風の通り道であり、常に被害に泣かされてきた。
 暴風で家が浮き上がり、礎石から落ちてしまうこともよくあった。そうなれば、住むことはできないし、柱も腐ってしまう。
 直すには人びとの協力が必要だが、それを拒否するというのだ。
 そして、こうした不当な制裁が、実行に移されていったのである。
 学会員の商店には、買い物に来る人はいなくなった。
 一方、集落の商店は、学会員には、いっさい、商品を売らなくなった。
 紬を製造する学会員の工場では、従業員が次々とやめ、経営が困難になった。
 残念なことには、こうした理不尽な圧力に耐えかねて、次第に、信心を捨てる人が出始めたのである。
 学会としても、退転者を出すまいと、必死であった。地元の幹部だけでなく、名瀬からも、連日幹部を派遣し、家庭指導に回り、同志の激励に全力を注いだ。
 しかし、迫害を加える有力者たちの対応は、陰湿であった。
 名瀬などから来た幹部が引き揚げたのを見計らって、深夜に脱会を迫って回るのである。
 前夜に激励・指導した会員が、翌日になると翻意していて、「信心をやめます」と言うことも少なくなかった。
 それをまた、説得し、励まし、信心を貫く決意を固めさせるのである。
 まさに、攻防戦であった。安堵した瞬間に覆されるのである。
 一瞬として、気を抜くことは許されなかった。


光城 十三

 公民館での緊急集会から数日後、学会は、この村を中心とした地域の決起大会を開催した。
 会場となったメンバーの家は、公民館のすぐ近くにあった。
 同志は、続々と決起大会に詰めかけ、四百人を超す大結集となり、場外にも人があふれた。
 集落の男たちも、会場の周りに集まって来た。そして、大声をあげ、バイクのエンジンを一斉にふかすなど、会合を妨害し始めたのである。
 その音に、しばしば、登壇者の声もかき消されたが、それでも、元気に決起大会は進められた。
 ある壮年は叫んだ。
 「私たちは、村の団結を乱すつもりなど、全くありません。
 信仰も、選挙で誰に投票するかも、憲法に保障された国民の権利ではないですか。
 村のやり方は、人権侵害であり、誤りです。そんなことに屈するわけにはいきません!」
 また、ある婦人の幹部は力説した。
 「この難を乗り越えていってこそ、宿業を転換し、人間革命していくことができるんです。
 今こそ、自身の信心を磨き、一生成仏への飛躍台としていくチャンスなんです」
 集った同志の決意は、固く、強かった。
 しかし、学会排斥の動きも強まり、各集落では毎日のように、学会への対策会議が開かれた。
 有力者たちは、学会員を呼び出し、執拗に脱会を迫った。
 「明るい村づくりのためには、みんなが心を一つにしなければならん。だから学会をやめろ」
 すると、メンバーは毅然として答えた。
 「明るい村にしていくために、信心が必要なんです。病苦、経済苦、家庭不和などの宿命に泣いていたのでは、村は明るくなりません。
 私たちの仏法は、その宿命転換ができる、唯一の信仰なんです」
 村の若者に取り囲まれて、「殺してやろうか」と脅された婦人もいた。
 しかし、同志は、“熱原の三烈士”を信心の鑑とし、どんな弾圧が襲いかかろうが、絶対に負けまいと誓い合った。
 このころ、「いぬちんかぎり、きばらんば」(命の限り頑張らなければ)というのが、皆の合言葉となっていた。


光城 十四

 五月に入って間もなくのことであった。
 三つの集落が合同して、「学会撲滅」を掲げたデモを行うという話を、学会員は耳にした。
 調査してみると、六日午前、あの公民館の前に集まり、車やバイクなどを連ねて、村中を巡る計画になっていることがわかった。
 地元組織としても、九州の幹部と連携をとりながら、協議を重ねた。
 そして、学会としてはこのデモに対して、実力で阻止するなどの行為は厳に慎み、静観することになった。
 ともかく、挑発にのって、暴力事件などを絶対に起こすことのないよう徹底されたのである。
 また、デモが過熱化して、学会員の家を襲ったり、暴行を加えたりすることを防ぐため、地元警察に、警備の強化を強く要請した。
 さらに、デモが実施される六日は、夜には、一斉に座談会を開き、団結を固め合うとともに、座談会に参加できなかったメンバーの家を訪ね、激励を重ねていくことに決まった。
 五月六日、公民館の前には、午前八時過ぎから村の人たちが集ってきた。
 その数は、約三百人に達した。このデモを主催した、三つの集落の世帯数が約二百七十世帯というから、各集落をあげての企てであったといってよい。
 午前十時、集会が開かれ、宣言が朗読された。
 そこでは、「選挙につながる折伏」を排除し、平和な村づくりをしようと呼びかけていた。
 それから、二台の乗用車を先頭に、約五十台のバイク、四台の大型バス、さらに、小型トラックや乗用車に分乗し、デモが開始された。
 バスなどには「邪教を許すな」「選挙につながる折伏に絶対反対」「病気が治る、金持ちになると言う宗教にだまされるな」等の横幕が掲げられていた。
 それは、あまりにもものものしい、異様な光景であった。
 その列は、約一キロメートルにわたった。
 デモの行列は、スピーカーを使い、「邪教にだまされるな!」などとがなり立て、学会への誹謗を繰り返しながら、村内を回っていった。


光城 十五

 ある家では、デモの列から発せられる罵声を聞いて、小さな子どもたちが、母親にしがみつき、火がついたように泣き出した。
 ある婦人は、悔し涙に濡れ、必死で唱題した。
 “学会がどんな悪いことをしたっていうの!
 こんなことが許されていいわけがない!”
 また、ある壮年は、デモの通る道の脇にある畑で、黙々と農作業に励んでいた。
 だが、デモが近づいて来ると、じっと、天を仰いだまま、動こうとしなかった。
 動けば、涙がこぼれ落ちる。決して涙は見せたくなかったからだ。
 各集落の沿道には、見物人があふれていた。
 そのなかに、三十過ぎの一組の夫婦がいた。男子部の班長の天竜和夫と妻のエリ子である。
 和夫は、人情に厚く、一本気な性格であった。
 また、短気で腕っぷしも強く、入会前は、よく喧嘩もした。
 だが、信心を始めてからは、そのエネルギーは折伏に向けられ、仏法対話の闘士となった。
 集落の人たちには、ほとんど信心の話をし、喜界島などにも頻繁に布教の歩みを運んだ。
 彼は、この日、家にいたが、デモの声が響き始めると、じっとしてはいられなかった。
 「連中がどんな顔でデモなんかしているのか、見に行くぞ!」
 妻のエリ子は言った。
 「あんた、どんなに腹が立っても、絶対に手を出しちゃだめよ」
 夫の性格をよく知る彼女は、彼の怒りが爆発することを恐れていた。
 「もし、手出しをすれば、学会に迷惑がかかるんだからね。何があっても堪えるのよ」
 「ああ……」
 「本当よ。もし、どうしても、どうしても、我慢できなくなったら、私を殴って!」
 二人は、デモの行列が通っている道に立った。
 周りには、何人もの人が出ていた。
 夫妻が、路上でデモを見ていると、村の有力者として知られる、顔見知りの村会議員の男がやって来た。
 そして、向こうから声をかけた。
 「学会も、えらいことになったな。私は、この“パレード”とは、何も関係ないからな」


光城 十六

 天竜和夫は、有力者を睨みすえた。
 この男は、学会を締め出すために、陰で糸を引き、さまざまな動きをしていた。天竜は、それをよく知っていた。
 「関係ないことはないでしょう。あなたがやっていることは、全部、わかっていますよ」
 その時、デモの行列の車から、有力者に声がかかった。
 「先生! 絶大なご協力、ありがとうございます! 学会を撲滅するまで頑張ります!」
 天竜は言った。
 「あなたが陰で何をやっているか、明確じゃないですか!」
 「私は知らん!
 そんなことより、君らは、公明党、公明党と、別の集落の人間を担ぐ。なんで地元が送り出そうとする代表を、落とそうとするんだ」
 「私たちは、政治をよくしようとして頑張っているだけです。何も悪いことはしていません。
 それなのに、どうしてこんな卑劣なまねをするんですか!」
 「何を言うか! この“貧乏たれ”が!」
 学会員を見下しきった態度であった。
 天竜の胸に、怒りが込み上げた。
 「“貧乏たれ”で結構だ。学会は、あんたのように私利私欲の固まりじゃないからな。
 それに俺たちは、あんたから、びた一文、もらったことはないんだ」
 路上で激しい言い合いになった。
 妻のエリ子は、はらはらしながら夫を見た。
 集落の住民も、遠巻きにして彼らを見ていた。
 有力者は、吐き捨てるように言った。
 「だいたい、“貧乏たれ”が集まって、ホーレンゲキョーで何が変わるか。学会には、まともなもんなど、おらんだろ」
 天竜は、拳を握り締めていた。
 自分のことなら我慢もできた。しかし、学会のことを、ここまで言われると、もう、堪えることはできなかった。
 エリ子には、夫が我慢の限界に達していたことがよくわかった。いや、誰でも、同じ気持ちになると思った。
 「あんた、ダメよ! 絶対ダメよ。殴るなら、私を殴るのよ!」
 エリ子が叫んだ。
 有力者の顔に怯えが走った。


光城 十七

 「この野郎!」
 天竜和夫の拳が風を切った。
 だが、彼が殴ったのは有力者ではなく、妻のエリ子であった。彼女は、のけぞるように倒れた。
 天竜は、“すまん”と心で詫びた。感情を抑えることができなかった自分が、不甲斐なかった。
 エリ子は、痛みを堪えながらも、夫が約束を守ってくれたことが嬉しかった。
 これを見て、遠巻きにしていた住民たちが近寄って来た。
 有力者の顔からは、血の気が引いていた。
 天竜は、溜飲が下がったのか、落ち着いた声で言った。
 「仏法は勝負だ。見ていなさい。正しい者が必ず勝つ!」
 すると、有力者の妻が出てきて、天竜とエリ子を指さして言った。
 「まあ、なんて暴力的なの! この人たちは、いつもこうなのよ。
 それに、うちのことをいつも立ち聞きしているのよ! 気持ちが悪くてしょうがないわ!」
 全く身に覚えのないことだ。今度はエリ子が憤った。
 「そんなことは、していません!」
 「しているでしょ!」
 居合わせた住民は、有力者の夫人に迎合した。
 「そんなやつらは、村から出ていけ!」
 「追い出せ!」
 背中に村人の罵声を浴びながら、天竜夫妻は家に戻った。
 
 “学会排斥デモ”は、地元の新聞で大きく取り上げられた。
 この出来事が山本伸一に伝えられたのは、その夜のことであった。
 九州の幹部から、電話で連絡を受けた理事長の泉田弘が、報告に来たのである。
 話を聞くと、伸一は厳しい口調で言った。
 「報告が遅すぎます。こうした大変な状況になるまでには、幾つもの段階があったはずです。
 最初の段階で手を打っていれば、問題をこじらせず、こんな事態になるのは防げたはずです。
 鹿児島や九州の幹部は知っていたんですか」
 「知っていましたが、大きな問題になるとは思わず、報告をしなかったということです。
 また、対応も、基本的には、すべて現地に任せていたようです」


光城 十八

 山本伸一は、言葉をついだ。
 「この奄美の問題は、本部の対処が遅れた分だけ、対立の溝が深まっていったように思う。
 ともあれ、幹部は、報告を受けたら、聞き流したり、放置しておくことなく、本部とよく連携をとり、直ちに反応することです。
 それが、同志の信頼につながる。
 学会がこれまで、なぜ大発展してきたのか。
 それは、たとえ、北海道の原野の村で起きたことも、九州の山里で起きたことも、その日のうちに本部に報告され、即座に適切な手を打ってきたからです。
 つまり、緻密な連絡・報告、そして、迅速な反応と対処にあった。
 連絡・報告が速やかに行われず、幹部がすぐに反応しない組織というのは、病んでいる状態といえる。いや、死んでいるようなものです。
 幹部が、惰性、マンネリに陥っている証拠といえます。
 そこに、油断が生じ、魔の付け入る隙ができてしまう。
 そして、結果的に、同志を苦しめることになる。怖いことです」
 「おっしゃる通りだと思います」
 泉田弘は、緊張した顔で答えた。
 「問題は、これからどうするかです。
 まず、現地に副理事長など、最高幹部を派遣して、詳しい実情を調べてください。そして、全力をあげて地元の同志を守り抜くことです。
 私は、こんな仕打ちを受けた奄美の同志が、かわいそうでならない。すぐにでも飛んで行って、一人ひとりを抱き締め、讃え、励ましたい。
 しかし、今、私は、その時間がとれません。だから最高幹部が、私に代わって皆を激励し、全力で解決にあたってほしいんです」
 早速、理事長の泉田を中心に検討し、学会本部から副理事長の澤田良一を派遣する一方、九州からも幹部を送り、この問題の解決にあたることになった。
 澤田たちが奄美入りしたのは、五月十一日のことであった。
 彼らは、村八分のあった村の会員から話を聞くとともに、同志への激励、指導の方法などについても協議を重ねた。


光城 十九

 派遣幹部は、村八分によって生活が脅かされたり、暴力を振るわれた会員がいることから、被害にあった人たちと協議を重ねた。
 そして、鹿児島地方法務局の名瀬支局へ、人権侵害の実態の調査を依頼し、集落の首脳らを名瀬警察署に告訴した。
 もはや法的手段に出なければ、同志の人権は守りきれないところまできていたのである。
 さらに、澤田良一は、幹部会や御書講義などを担当した。
 そして、今回の問題は御聖訓に照らして見るならば、三障四魔が紛然として競い起こってきた姿であり、どこまでも、信心第一に乗り越えていくことが肝要であると訴えたのである。
 村八分事件の起こった村の状況と対応の詳細は、電話で学会本部に伝えられた。
 山本伸一は、その報告を泉田弘から聞いた翌日の五月十三日、アメリカ・ヨーロッパ訪問に出発した。この訪問は十七日間にわたったが、伸一は、その間、奄美の同志のことを思い、真剣に題目を送り続けた。
 副理事長らの派遣は、奄美のメンバーを、一段と勇気づけた。
 広宣流布への闘魂を燃え上がらせた村の同志は、名瀬の幹部の応援も得て、勇猛果敢に、家庭指導と折伏を敢行していったのである。
 家庭を訪ねると、迫害を恐れ、安置していた御本尊を隠してしまっている人もいた。
 「周りから睨まれたくないから、来ないでくれ」という人もいた。
 折伏に行けば、門前払いされることが多かったし、罵声だけでなく、水までも浴びせられた。
 しかし、そんななかでも、「学会の言っていることの方が正しい」と、共感を示す人もいた。
 また、懸命に語り合うなかで、入会を決意する人もいたのである。
 一方、告訴された有力者のなかには、事情聴取が始まると、自分たちの行き過ぎを後悔する人も出始めた。
 さらに、村八分に加担し、デモに参加した人びとが、集落の首脳に、こう言って詰め寄る場面もあった。
 「あんたたちがやれと言ったからやったんだ。警察に引っ張られたら責任を取ってくれるのか」


光城 二十

 学会員締め出しを画策した有力者の足並みに、乱れが見え始めた。
 一方、学会員は心を一つにし、ますます団結は強まっていった。
 村八分に対しても、可能な限り、学会員同士で協力して守り合った。
 不買運動に泣く学会員の店があれば、遠く離れた集落であろうと、自転車を飛ばして買いに出かけた。
 紬工場を営む会員が、従業員がやめて困惑していることを知ると、婦人部員や女子部員が「織子」になって応援した。
 学会員は語り合った。
 「絶対に負けないわ。どっちが正しいか、やがて、すべては明らかになるもの」
 「そうよ。何をされようが、私たちは、最後は、必ず勝つ。今、私たちをいじめた人たちは、正邪が明らかになった時に、なんと言って来るんだろうね」
 その確信は、現証となって現れていった。
 婦人部の塩野松子は商店を営み、雑貨とともに塩、たばこ、米、酒などを販売していたが、不買運動に苦しんでいた。
 収入は、以前の十分の一ほどに落ち、暮らしは困窮していった。
 しかし、塩野は負けなかった。
 「スットゴレ!」(なにくそ) 
 こう必死に自分を励ましながら、懸命に唱題に励んだ。
 ある日、彼女の集落の付近に、トビウオの大群が来た。普段、農業をしている人も、皆、総出で漁に出た。
 捕ったトビウオを保存するには塩が必要であったが、あまりの大漁のために、各家庭で蓄えていた塩では、とうてい足りなかった。
 だが、集落のなかで塩を売っているのは、塩野の店だけであった。人びとは、やむなく彼女の店にやって来て、売ってくれと、頭を下げて頼まなければならなかった。店の売り上げは、かつての倍以上になった。
 そして、これを境に、この集落では、不買運動がなくなっていった。
 だが、村全体では、依然として村八分は続いていた。
 しかも、村の有力者の一部は、学会の撲滅を叫んで二回目のデモを計画し、その運動を全国に広げると放言していたのである。


北斗 二十一

 山本伸一は、一人ひとりに視線を注ぐように、参加者を見た。
 「私は、皆さんのご苦労は、よく存じております。皆さんの戦いも、つぶさに報告を受けております。
 本当に、よく頑張ってくださった。皆さんは勝ちました。大勝利しました。今日は、まず、そのことを、宣言しておきたいんです」
 参加者の大多数は、山本伸一を“人生の師”と定め、吹雪をついて弘教に歩き、ただひたすら、彼の来訪を待ちわびてきたのだ。
 その伸一が、今、眼前に立ち、自分たちの労をねぎらい、讃えてくれたのだと思うと、とめどなく涙があふれてくるのであった。
 会場の一角から嗚咽が漏れた。
 利尻島、礼文島の同志たちであった。
 この数年、この二つの島の広布の躍進は、目覚ましかった。
 先月の二十六日には、両島を合わせて、「利礼支部」が結成された。
 これによって、稚内総支部は、稚内、宗谷、天北、南稚内、東稚内、そして利礼と、六支部の陣容に拡大したのである。
 利尻島から参加したメンバーのなかに、必死で涙をこらえる、日焼けした顔の六十過ぎの男がいた。堀山長治である。
 彼の妻の千枝も、盛んにハンカチで涙を拭っていた。
 皆さんは勝ちました――という伸一の言葉が、夫妻の胸にじーんと響いたのである。
 長治は漁師であった。
 利尻島は、かつては、ニシン漁で賑わっていたが、一九五五年(昭和三十年)を境に、さっぱりニシンは来なくなった。
 不漁が続くと、長治は博打に夢中になった。花札である。
 博打に負けては、借金を重ねていった。
 千枝の負けず嫌いの性格が、その借金に拍車をかけた。
 彼女は、決して、夫に博打をやめてくれと、泣いて縋るようなまねはしたくなかった。
 長治が博打に負けて帰ってくると、千枝は黙って、自分の着物を持って質屋に行った。そして、つくった、なけなしの金を、夫に突き出して言うのである。
 「これで、取り戻してこい!」


北斗 二十二

 借金はかさみ、堀山の一家は、貧乏のどん底に突き落とされた。
 八人の子どもをかかえ、食べるものにも事欠き、冬が来ても、新しい靴下一つ買ってやれなかった。
 電気も止められた。雨が降ると、冷たい雨水が家の中に、ポトポトと漏った。妻の千枝は、天井を見上げながら、惨めさを噛み締めた。
 一九五七年(昭和三十二年)のことであった。見知らぬ人が、突然、堀山の家を訪ねて来た。小樽からやって来た学会員である。
 窮迫した堀山の家の様子を見て、なんとしてもこの人に仏法を教えたいという思いにかられ、戸を叩いたのだ。
 夫妻の語る窮状に耳を傾けていた学会員から、確信にあふれた言葉が跳ね返って来た。
 「祈りとして叶わざるなしの信心です。絶対に借金も返せます!」
 その一言で、妻の千枝は入会した。
 しかし、長治は信心に反対だった。
 反対する理由は何もなかったが、入会すれば、男のプライドを捨てるように思ったのである。
 彼には、経済苦のほかに大きな悩みがあった。神経痛である。
 “信心なんかで病気が治るものか”という、思いもあったが、ほかになす術のない彼は、ある時、試しに御本尊に手を合わせてみた。
 しばらく題目を唱えてみると、痛みが和らいだ気がした。続けて祈ってみると、日ごとに楽になっていった。
 それから、二人で、信心に励むようになった。
 島の人びとは、「今度の博打は宗教か」と陰口をたたいた。
 だが、それにめげずに信心を続けた。サンマやウニ、イカなど、大漁にも恵まれ、一年で借金を返済することができた。
 堀山夫妻は驚いた。驚きは、歓喜と感謝と確信に変わった。
 二人は、島中の人びとに仏法を教えようと、勇んで折伏に歩いた。
 吹雪の夜は、手拭いを頭にまいた長治が前に立ち、風を防ぎながら一列になって歩くのである。
 弘教が実り、一人、二人と、入会する人が出てきた。
 やがて、島に班が結成され、夫妻は班長、班担当員の任命を受けた。


北斗 二十三

 常に同志の悩みに耳を傾け、素朴だが、誠心誠意、激励を続ける堀山夫妻は、皆から、「トッチャ(父ちゃん)」「カッチャ(母ちゃん)」と呼ばれ、慕われていった。
 ある年、利尻島では不漁が続いた。
 生活は逼迫していった。一方、本土では大漁続きだという。
 仕方なく出稼ぎに行くことにした。泣く子を人に預け、家の戸口を板で打ち付け、夫婦でオホーツク海沿岸の枝幸に向かった。気がかりは、同志のことだった。
 大漁であった。毎日、無我夢中で働いた。
 しかし、仕事を終え、ホッと一息つくと、二人で交わす言葉は、島に残っている同志のことばかりであった。
 生活苦にあえぐ人、目の不自由な人、足が悪くて動けない人……。
 皆、入会して日も浅く、信心への強い確信があるとはいえなかった。
 「困ったことがあったら、みんな、誰に相談するんだべな」
 「うんだね……」
 日ごとに不安が募り、もはや、居ても立ってもいられなくなった。
 「トッチャ、帰ろう!
 島さ、帰るべ。いくら金を儲けてもしぁねぇべさ」
 二人は決めた。
 “おらだぢを頼りにしている同志がいる。どんなに生活が苦しくってもいい。広宣流布のため、同志のために、利尻で暮らそう。それが、おらだぢ夫婦の使命だと思う”
 夫妻は島に戻った。それから、二度と出稼ぎに出ることはなかった。
 不漁が続けば、食うや食わずの生活になる。やむなくカッチャは、便所の汲み取りをして、わずかな金をもらい、生計を立てた。
 そのカッチャが信心の話をすると、こんな言葉が返ってきた。
 「何が、いい信心だ。あんたの、その姿はなんだのさ!」
 彼女は、快活に笑いながら答えた。
 「あんたは、人を格好でしか、見ることができねんだねぇ。
 それじゃ、いつまでたっても、人間の真実を見抜くこともできねぇし、この信心のすばらしさはわかんないべさ」
 カッチャは、強く、強く、決意していた。
 “どんなことを言われても、おらは、みんなに仏法を教えて、利尻を幸福の楽園にするんだ”


北斗 二十四

 同志のために、島のために――それが、堀山夫妻の生きがいであり、活動の原動力であった。
 苦しみに泣く人がいると聞けば、いつでも、どこへでも飛んでいった。
 一緒に涙を流し、抱き締めるようにして、励ましの言葉をかけた。
 また、悩みを克服した同志がいれば、手を取って喜び合った。
 二人は、貧しい平凡な庶民であった。しかし、島の人びとを守り抜こうとする気概と責任感は、誰よりも強かった。
 だから家には、夫妻を慕って、学会員だけでなく、多くの地域の人たちが集まり、いつも社交場の様相を呈していた。
 カッチャは、ご飯時に来た客には、必ず、「まんま食ってけ」と声をかけた。食べ物が十分にない時には、自分は食べないで、笑顔で皆に振る舞うのである。
 人びとの幸せを願う一念が、面倒みのよさとなって表れていたのだ。
 ともあれ、堀山夫妻の入会から十一年、夫妻をはじめ、草創の同志の命がけの苦闘によって、利尻島にも、地域広布の盤石な基盤ができ上がったのである。
 “華やかな表舞台に立つことはなくとも、黙々と献身してくださる無名無冠の同志こそが、学会の最大の功労者なのだ。
 ゆえに私は、その方々を守り、讃え、生涯を捧げよう”
 それこそが、山本伸一の決意であった。
 彼が、あえて稚内に足を運んだのも、そうした同志の一人ひとりを、全精魂を傾けて激励し、敢闘をねぎらいたかったからである。
 稚内総支部指導会は、午後六時に開会となり、北海道の幹部である総務の宮城正治が、あいさつに立った。
 「皆さん、待ちに待った山本先生を、遂に、遂に、稚内に、お迎えすることができました!」
 こう言うと、彼は絶句した。
 感涙を抑えることができなかったのだ。
 割れるような拍手が轟いた。もはや、言葉はいらなかった。皆が同じ思いであったからだ。 
 十条潔ら、同行の幹部の話のあと、伸一の指導となった。
 「ようやく、念願であった稚内に来ることができました。大変に嬉しく思っております」


北斗 二十五

 山本伸一は、皆を包み込むような穏やかな口調で語り始めた。
 「車中、それはそれは美しい、荘厳な夕日を見ることができました。
 私には、それが、皆さんの栄光と勝利の象徴であり、また、諸天の祝福であるように思えてなりませんでした。
 今日は、みんなで、その夕日を眺めながら、懇談するような気持ちで、少々、お話をさせていただきます」
 そして、彼は、五項目の指針を示していったのである。
 第一に「自信をもて、そして、退転するな」
 第二に「みんな仲良く進んでいってほしい」
 第三に「先輩、後輩のわけへだてなく、なんでも相談し合える同志であってほしい」
 第四に「稚内が日本最初の広宣流布を成し遂げてもらいたい」
 第五に「この稚内の地から、日本、そして世界の偉人を、陸続と輩出していただきたい」
 彼が、「日本最初の広宣流布」を、稚内の同志に呼びかけたのは、北海道、とりわけ、サハリンを望む稚内は、ソ連(当時)に最も近く、東西冷戦下にあって、緊張を強いられていた地域であったからである。
 米軍はここにレーダー基地を置き、自衛隊も北海道には、北の守りとして力を注いできた。
 仏法では、人間の一念の転換、生命の変革によって大宇宙をも動かし、いっさいの環境を変えゆくことができると説いている。
 戦争の脅威にさらされてきた人は、平和と幸福を手にする権利と使命がある。
 それには、仏法という生命の大法をもって立ち上がる以外にない。
 だからこそ伸一は、稚内に広宣流布の模範の大城を築き、平和の灯台を打ち立ててほしかったのである。
 さらに伸一が、この地から、「世界の偉人」を輩出するように念願したのは、厳しい自然環境など、逆境のなかでこそ、民衆の苦悩を知る真の偉人が育つからである。
 また、その実現のためにも、稚内の同志には、自分たちこそが、時代、社会を建設する主役であり、ヒーロー、ヒロインであるとの、「覇気」と「誇り」とをもってもらいたかった。


北斗 二十六

 “広布の拡大の実証をもって、山本先生を迎えよう!”と、多くの弘教を実らせてきた稚内の同志には、勢いがあった。
 しかし、稚内地域は、日本の最北端にあり、幹部の指導の手も、あまり入らぬところから、普段は、取り残されたような寂しさを感じながら、活動しているメンバーも少なくなかった。
 実は、山本伸一の指導の眼目は、その心の雲を破ることにあったといってよい。
 彼は「千日尼御前御返事」の「佐渡の国より此の国までは山海を隔てて千里に及び候に……」(御書一三一六ページ)の御文を拝していった。
 この御書は、阿仏房が妻である千日尼の使いとして、佐渡から身延の日蓮大聖人を訪ねたことに対し、千日尼に与えられた御手紙である。
 伸一は、「御身は佐渡の国にをはせども心は此の国に来れり」(同)の御文から、こう訴えた。
 「佐渡という山海を遠く隔てた地にあっても、強い求道心の千日尼の一念は、大聖人とともにあった。地理的な距離と、精神の距離とは、全く別です。
 どんなに遠く離れた地にあっても、自分がいる限り、ここを絶対に広宣流布してみせる、人びとを幸福にしてみせると決意し、堂々と戦いゆく人は、心は大聖人とともにあります。
 また、それが、学会精神であり、本部に直結した信心といえます。
 反対に、東京に住んでいようが、あるいは、学会本部にいようが、革命精神を失い、戦いを忘れるならば、精神は最も遠く離れています。
 私も真剣です。広布に燃える稚内の皆さんとは、同じ心で、最も強く結ばれています。
 さらに大聖人は、『我等は穢土に候へども心は霊山に住べし』(同)と仰せになっている。
 私たちの住む娑婆世界は、穢土、つまり汚れた国土ではあるが、正法を持った人の心は、霊鷲山すなわち常寂光土にあるとの大宣言です。
 ここが、わが使命の舞台であると心を定め、広宣流布に邁進する時、どんな場所も、どんな逆境も、かけがえのない宝処となっていきます。
 その原理を確信できるかどうかで、すべては決まってしまう」


北斗 二十七

 山本伸一は、言葉をついだ。
 「今、関西といえば、“常勝”の模範であると、全国の同志が思っています。
 既に関西は東京をしのぎ、広宣流布の一大推進力となっているといっても過言ではない。
 しかし、初めから、そうであったわけではありません」
 関西は、かつては、東京と比べ、会員の世帯も至って少なく、組織も弱かった。
 広宣流布の未来構想のうえから、関西の重要性を痛感した戸田城聖は、一九五六年(昭和三十一年)の一月、伸一を関西に派遣したのだ。
 当初、関西の同志の誰もが、何をやっても東京には敵わないという思いをいだいていた。
 伸一は、何よりも、一人ひとりの、その一念を転換することに全精魂を注いだ。
 「関西に創価の不滅の錦州城を築こう!」
 「日本一の、模範の大法戦を展開しよう!」
 伸一という若き闘将の魂 に触れ、関西の同志は心を一変させた。
 “自分たちこそ、広布の主役なのだ”
 “関西こそ、広布の主戦場なのだ”
 そして、皆が獅子奮迅の闘士となった。
 この年の五月には、大阪支部は一万一千百十一世帯という未聞の弘教を成し遂げ、広布史上に不滅の金字塔を打ち立てたのである。
 さらに、七月には、学会として初めて候補者を推薦した参議院議員選挙で、東京地方区が惨敗するなか、大阪地方区は、伸一の指揮のもと、当選は不可能だとする大方の予想を覆し、見事に勝利したのである。
 以来、メンバーは、この関西こそが、広布の模範の「常勝の都」であるとの、強い誇りをもつようになった。
 また、自分たちこそが広宣流布の中核であり、創価学会の代表であるとの、不動の自覚をもつようになった。
 伸一は、確信を込めて語った。
 「関西の大発展の要因は、同志の一念の転換にありました。一念が変われば、いっさいが変わります。
 そして、関西が、東京をしのいだことが、全国の同志の、新たな希望となったんです」


北斗 二十八

 「私は、皆さんに訴えたい!」
 山本伸一の凛とした声が響いた。
 「稚内は、東京からも遠く離れている。札幌からも遠い。交通の便も悪い。人口も決して多くはない。冬の寒さは言語に絶するほど厳しい。
 確かに、この地で頑張ることは、大変であると思います。しかし、大変といえば、どこでも大変なんです。
 苦労せずに広宣流布ができるところなんて、一カ所もありません。
 大変な理由を数えあげて、だから無理だ、だからダメだと言っていたのでは、いつまでたっても何も変わりません。
 自分の一念が、環境に負けているからです。戦わずして、敗北を正当化しているからです。
 この最北端の稚内が、広宣流布の模範の地になれば、全国各地の同志が『私たちにもできないわけがない』と、勇気をもちます。みんなが自信をもちます。
 北海道は日本列島の王冠のような形をしていますが、稚内は、その北海道の王冠です。皆さんこそ、日本全国の広布の突破口を開く王者です。
 やがて、二十一世紀を迎えた時には、『北海道の時代』『稚内の時代』が来ると、私は、強く確信しています!」
 大歓声と大拍手がわき起こった。
 メンバーの眼は光り輝いていた。
 「どうか、皆さんは、誉れある同志として、信心を全うし、有意義な悔いのない、所願満足の人生を送っていただきたいのであります。
 私は、東京から、皆様方の一層のご多幸とご繁栄、ご健康とご健闘をお祈り申し上げ、題目を送り続けてまいります」
 話を終えた伸一は、席に戻ったが、そこでも、マイクを手にした。
 そして、参加者の年齢を尋ね、明九月十五日の「敬老の日」を記念して、高齢のメンバーに念珠を贈った。
 それから伸一は、初代支部長を務めた佐治秀造を招いた。
 「佐治さん、私の隣に座ってください。こんなに元気になられているとは思わなかった。勝ちましたね。おめでとう!
 今日は、あなたが会長です。病を克服して臨んだ、栄光の晴れ舞台ですもの……」


北斗 二十九

 「これからも、うんと長生きしてください」
 山本伸一は、こう語りかけながら、隣に座った佐治秀造の肩を叩き、背中をさすっていった。
 佐治の目から、涙があふれて止まらなかった。
 「最初に支部長として頑張ってきた方が、いつまでも元気であれば、みんなが希望をもてます。
 道を開いた人には、みんなの模範として生き抜く責任があるんです」
 佐治は、涙を拭いながら、何度も、何度も、頷いていた。
 「それでは、ここで歌の合唱をしましょう」
 伸一は、稚内の同志の胸に、忘れ得ぬ思い出をとどめたかった。
 彼は、幹部を次々と指名し、歌の指揮をとるように言った。
 「みんな、いい声をしてるね。元気だな。仕事は何が多いの?」
 「漁師です!」
 場内の一隅から、青年の声が返って来た。
 「そうか。私の家もノリを製造し、海で生計を立てていました。家は貧乏で、そのうえ、体が弱かった。
 しかし、仏法では『如蓮華在水』と説かれている。蓮華は泥沼から生じて、あの美しい花を咲かせます。
 同じように、どんなに厳しい状況にあっても、最高に価値ある人生を開いていけるのが仏法です。私もそう確信して生きてきました。
 今、どんなに苦しくても、決して負けてはいけない。幸福と栄光の人生へと、劇的に転換できるのが信心です。
 大空を黄金に染める太陽のように、強く生きるんだよ」
 それから、みんなで、「夕焼け小焼け」などを合唱した。明るい、弾んだ歌声がこだました。
 どの顔にも、笑みの花が咲いていた。誰もが、嬉しそうであった。
 「では、最後に私が『武田節』の指揮をとります」
 伸一が扇を手にして立ち上がると、大歓声があがった。
  
 甲斐の山々
 日に映えて
 われ出陣に憂いなし
 …………
 (作詞・米山愛紫)
 
 それは、新しき旅立ちの合唱となった。
 伸一は「稚内の出陣だ! 戦おう!」と、心に叫びながら懸命に指揮をとった。


北斗 三十

 会場を出ると、満天の星であった。
 北西の空に、北斗七星が、清らかな光を投げかけていた。
 ヒシャクの形をしたこの七つの星は、時を計る星とされ、航海の指標ともなってきた。
 夜空を見上げながら、山本伸一は思った。
 “牧口先生、戸田先生が青春時代を過ごされ、飛翔の舞台となった北海道には、両先生の魂が刻まれている。そして、私も青春の全精魂を傾け、北海道広布の開拓の鍬を振るってきた。
 北海道は、この北斗七星のように、広宣流布の永遠なる希望の指標であらねばならぬ”
 
 翌九月十五日の朝、伸一は稚内市内を回った。
 わが同志の活動の天地を、よく見ておきたかったのである。
 学会が建立寄進した寺院や、赤と白に塗られた灯台の立つノシャップ岬にも足を延ばした。
 そして、このあと、稚内会館を初訪問し、支部幹部と懇談会をもった。
 一人ひとりの自己紹介に耳を傾けながら、伸一は訴えた。
 「学会が大発展していけるかどうかは、幹部がどれだけ成長できるか、つまり『幹部革命』にかかっています。
 一番偉く、尊いのは会員である。幹部は、会員の皆さんのために働き、会員に尽くすためにいるのだ――この哲学を全幹部がもち、実践していけるかどうかです。
 学会も組織が大きくなれば、ともすれば、権威主義、官僚主義に陥ってしまう。
 そうなるのは、『会員第一』という目的を見失ったところに、根本的な原因がある。
 また、会員奉仕の姿勢に徹し、同志を守っていくことによって、自身の我慢偏執の殻が打ち破られ、偉大なる人間革命、境涯革命が成し遂げられていくんです。
 さらに、如来の使いである同志への献身は、それ自体、大福運を積む要因となります。
 大聖人は『人のために火をともせば・我がまへあき(明)らかなるがごとし』(御書一五九八ページ)と仰せです。
 会員の皆さんのために尽くすということは、結局は、自分の崩れざる幸福を築いていくことになるんです」


北斗 三十一

 山本伸一は、必死であった。
 二度と訪問できないかもしれぬ稚内の同志たちの心に、尊き使命の花を咲かせゆこうと――。
 彼は、最後に力を込めて訴えた。
 「稚内を広宣流布のモデルにしてください。
 それには、核となる幹部が心を合わせ、団結することです。
 私は、この訪問を、生涯、忘れないでしょう。“北の守り”をよろしくお願いします」
 皆に送られ、車で稚内駅に向かった伸一は、途中、丘の上にある稚内公園に立ち寄った。
 この公園には、海を背景に、女性のブロンズ像を挟むようにして、高さ八メートルほどの二本の石の柱が立っていた。
 「氷雪の門」である。
 樺太(現サハリン)で亡くなった人びとへの慰霊と、今は異国となった樺太への望郷の念を込めて、数年前に建てられた碑である。
 この碑の近くには、終戦直後、集団自決した若き女性電話交換手の慰霊碑「九人の乙女の碑」があった。
 ――一九四五年(昭和二十年)八月二十日の早朝、樺太の真岡で電話交換手をしていた彼女たちは、いよいよ真岡にソ連軍が向かったという知らせを受信した。
 終戦を迎え、ソ連軍の侵攻が予想されたことから、既に女性の緊急疎開の命令が出されていた。
 しかし、彼女たちは、自ら交換台にとどまった。
 “電話が機能しなくなったら、大混乱をきたしてしまう。電話を止めるわけにはいかない!”
 ほどなく、ソ連の軍艦が港に入ってきた。艦砲射撃が始まり、兵士が続々と上陸してきた。
 街には銃声が轟き、絶叫がこだました。
 だが、最後まで職場を死守して、交換業務を続けたのである。
 彼女たちは、覚悟を決めていた。
 “敵に辱めを受けるなら、自ら命を絶とう!”
 電話回線に、交換手の最後の声が響いた。
 「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」
 九人の交換手は、用意していた青酸カリを仰いで、自決したのである。
 碑には、この最後の言葉も刻まれていた。
 あまりにも痛ましい話である。


北斗 三十二

 山本伸一は、「九人の乙女の碑」の前で、平和への、深い、深い祈りを込めて題目を三唱した。
 それから、伸一は、海の彼方に目を凝らした。
 「先生、サハリンが見えます」
 同行の幹部が、双眼鏡を差し出した。
 きらめく海原の向こうに、青みがかった島影が広がっていた。二十三年前、そこで悲劇が起こったのだ。
 彼は、沖縄の「ひめゆりの塔」を訪れた時のことが、ありありと思い出された。
 「ひめゆりの塔」は、沖縄戦で負傷者の看護にあたり、犠牲となった、沖縄県立第一高等女学校と沖縄師範学校女子部の生徒らを合祀した慰霊塔である。
 かつての日本の南と北で、戦争によって、乙女たちの尊い命が奪われる惨事が起こったのだ。
 “こんな惨禍を二度と繰り返してはならない。
 女性は、常に戦争の最大の被害者であった。女性の幸福なくして、人類の平和はない。女性が輝けば、家庭も、地域も、社会も輝く。
 ゆえに二十一世紀は、女性が主役となる「女性の世紀」に、しなくてはならない”
 伸一は、女子部、婦人部を守り育てるために、全生命を注いでいくことを決意するのであった。
 彼が振り向くと、二人の婦人が、数人の子どもと一緒に立っていた。
 学会員であるという。
 「いつも元気で、はつらつと頑張ってください。婦人部の皆さんこそ学会の宝なんです」
 彼は、子どもたちにも、一人ひとりに声をかけ、それから、ともに記念のカメラに納まった。
 「この写真は、必ずお送りします。また、十年後にお会いしましょう。楽しみにしています」
  
 伸一が稚内駅に着いたのは、列車の出発時刻の十分ほど前であった。
 彼は、駅でも発車寸前まで、地元の幹部を励まし続けた。
 列車が走り出した。
 車窓に目をやると、あちこちで手を振る人の姿があった。伸一は急いで窓を開けると、大きく手を振った。
 “頑張れ、頑張れ! 断固、負けるな!”と、心で叫びながら、いつまでも、いつまでも、手を振り続けた。


北斗 三十三

 「ご承知の通り、座談会は教学と並んで創価学会の根本の伝統であり、仏道修行の要諦であり、学会の縮図です。
 私は座談会を最も重視し、“戦う座談会”を学会の大伝統として再確認し、来月からあらためて実践に移したいと思いますけれども、いかがでしょうか!」
 会長山本伸一の呼びかけに、賛同の大拍手がドームにこだました。
 九月二十五日、東京・両国の日大講堂で行われた、九月度本部幹部会でのことである。
 伸一は、この本部幹部会で、全幹部が一丸となって、全力で座談会に取り組み、広宣流布の堅固な礎を築こうと訴えた。
 そして、学会本部に、仮称「座談会推進本部」を設置し、自らが推進本部長として、座談会の充実に挺身していくことを表明したのである。
 彼は、常に率先垂範の闘将であった。
 民衆は賢明である。自らは行動もせず、実証も示せぬリーダーの号令など、誰も耳を傾けなくなるにちがいない。
 人を動かすのは、口先ではない。魂の触発である。実践、体験に裏打ちされた確信に、人は魂を揺り動かされるのだ。
 もしも、号令によって人が動くなどと考えているなら、それは、人間を侮蔑しきった傲慢の徒といってよい。
 ともあれ、伸一は、自らが先頭に立って、動き、戦い、学会の活動の柱ともいうべき座談会を盤石なものにしようと、決意していたのだ。
 牧口初代会長以来、学会は座談会とともにあった。いや、座談会こそが学会の民衆運動の最大の源泉であった。
 そこで学ぶ御書や、赤裸々な同志の信仰体験、幹部の明快な指導などが参加者の発心と決意を促し、学会発展の原動力となってきたのである。
 また、座談会には、職業も、世代も異なる老若男女が集い、苦悩に沈む友がいれば、皆がわが悩みとして励ましを送り、歓喜の報告には、皆が喜びを分かち合ってきた。
 そこには、社会的な地位や貧富の差などによるわけへだては、いっさいなかった。
 まさに、「民主」と「人間共和」の縮図であり、現代社会の「心のオアシス」をつくり出していたといってよい。


北斗 三十四

 さらに、会員に限らず友人等も参加し、忌憚なく意見を交換し合う座談会は、「社会に開かれた対話の広場」であり、弘教の法戦場であった。
 人びとは、座談会を通して、創価学会を実感として知り、認識を深めていくのだ。
 座談会が充実し、活力と歓喜にあふれている限り、広宣流布の前進はとどまることはない。
 ところが近年、その座談会を軽視する風潮が生まれ、内容的にも、マンネリ化の傾向が見られ始めていたのである。
 山本伸一は、この事態を真剣に受け止め、座談会の改革に乗り出したのであった。
 まず、九月十八日、伸一は、学会本部の黒板に、「日々の指針」として、こう書き記した。
 「幹部は常に充実した座談会を推進しよう。そして一人一人と話し合い、自信をあたえ、幸せに導くことが大事だ」
 周りにいた本部職員がそれを見ていると、伸一は言った。
 「さあ、今日から座談会革命だ。みんなで力を合わせて、最高の座談会にしていこう」
 職員の一人が、伸一に尋ねた。
 「先生、座談会を充実させる秘訣というのは、なんでしょうか」
 「詳細は、次の本部幹部会で語ろうと思っているが、原理は明確だ。
 主催する幹部や担当幹部の一念で、すべては決まってしまうということだよ。
 本来、座談会は、弘教のための仏法対話の場だった。
 牧口先生も、戸田先生も、新来者のどんな質問にも、懇切丁寧に答えられ、なぜ、日蓮大聖人の仏法が正しいのか、真実の幸福の道とは何かを、大確信をもって、理路整然と語られた。
 まさに、座談会は法戦の最前線であった。
 また、集って来た同志に、勇気と確信を与えようと、真剣勝負の指導が行われた。
 座談会に参加すれば、どんな疑問も晴れた。
 つまり、ひとたび、座談会を開いたならば、友人も会員も、納得させ、歓喜させ、発心させずにはおくものかという、中心者の気迫と力量が勝負になる。
 幹部の自覚としては、“戦う座談会”にしていくことだ」


北斗 三十五

 山本伸一は、既に、聖教新聞社の編集首脳に、座談会充実のための企画を提案していた。
 それを受けて聖教新聞では、九月十八日付から「見直そう座談会の力」と題する連載を開始した。
 さらに、二十四日に、学会本部で開かれた全国理事会でも、伸一は、学会伝統の最重要行事である座談会を軽視する風潮があることを、厳しく戒めた。
 そして、翌二十五日、本部幹部会での、座談会についての指導となったのである。
 伸一は、この幹部会では、座談会の重要性を語ったあと、これまで、実施の回数も、日時もバラバラであったので、開催日を定めていくことなどを発表した。
 そして、「私自身、十月から、率先して座談会に参加する決意です」と宣言したのである。
 この伸一の言葉に、大拍手が広がった。
 拍手が収まるのを待って、彼は言葉をついだ。
 「座談会で活躍し、育った人こそが、真の学会っ子であります。
 教学、そして、座談会は、誰がなんと言おうと、学会の礎であり、広布の推進力であります。
 したがって、本当に学会を大事にし、愛し、守ろうとするなら、私とともに、座談会の充実のために、涙を流し、汗を流して、戦い抜いていただきたいのであります」
 気迫に満ちた伸一の呼びかけに、参加者は取り組みへの決意を新たにしたのであった。
 伸一は、さらに、座談会を開催するにあたっての重要なポイントを語っていった。
 「どうか、新来者を連れて来られた人を、大事にしていただきたい。
 新来者が信心に反対することもあるでしょう。しかし、紹介者は、この人を幸福にしたいとの真心で、苦労を重ねて連れて来たのであります。
 その紹介者の立場がなくなるような思いにさせることは、誠意と努力に対する冒涜です。
 新来者を連れて来た人には、心から尊敬の念をもって、激励していただきたいのであります。
 また、新来者が出席しない場合も、担当幹部は知恵を働かせ、集って来た同志とじっくり懇談し、質問を受けたりするなど、有意義な座談会にしていただきたい」


北斗 三十六

 山本伸一の言葉には、話すにつれて熱がこもっていった。
 「座談会は、全員参加が原則です。座談会の日は、最高幹部も、本部、支部の幹部も、必ず、どこかの座談会に出席するのは当然です。
 そして、座談会を迎えるにあたっては、幹部が手分けをして、連絡、指導、激励にあたり、全員が参加できるように力を尽くしていくことが大事になります。
 座談会は、当日だけでなく、結集も含め、事前の準備によって決まってしまうといえます」
 ここで、伸一の話は、担当幹部の在り方に及んでいった。
 「座談会を担当する幹部は、成功を真剣に御本尊に祈り、固い決意と大確信をもって臨むことが大切です。
 どんなに面白い話をしても、信心の確信が伝わってこなければ、画竜点睛を欠いています。
 確信のない人は、結局、担当幹部としては失格です。
 そして、どの場面を見ても、学会精神にあふれているという座談会にしていただきたい。
 また、幹部に不可欠なのは配慮です。
 皆が発言するような場合でも、口下手な人もいるので、そういう人の気持ちも敏感に察知しなくてはならない。
 さらに、座談会でどんなことが起ころうと、臨機応変に対処できる聡明さと、明朗さがなくてはならない。
 なかには酒を飲んで、ふざけ半分で乱しに来る人もいるかもしれない。そういう場合には、参加をお断りするという、厳然とした対応も必要になります。
 信心の錬磨の清浄な世界を、かき乱されるようなことがあってはなりません。
 その毅然とした態度とともに、社会性ある、常識豊かな振る舞いが大事です。特に、言葉遣いは、どこまでも、丁寧であっていただきたい。
 たとえ、信心に批判的な発言をする人がいても、礼儀正しく、相手を尊敬した立場で話をしていくべきです。
 これまでも、一部の幹部の心ない言葉遣いに失望し、残念なことには、学会を離れていってしまった人もいるんです」
 こう語った時、伸一の表情は曇った。


北斗 三十七

 山本伸一は、担当幹部や主催者の地区部長などに必要な配慮について、微に入り細をうがつように述べていった。
 「会場提供者には、特に礼を尽くして、使ってもらってよかったと思えるように、幹部は心を砕いていただきたい。
 また、その会場のご家族、子どもさんにも、丁重に御礼申し上げていただきたい。
 さらに、会場周辺にも、十分に注意を払い、駐車違反をはじめ、騒音や駐輪等で、絶対に迷惑をかけることのないようにしてください。
 そして、近所の方々に対しても、事前に、誠意あるあいさつをしておくことも大切です。
 誰が見ても、すがすがしいな、納得できるな、というものにしていかなければならない。
 座談会は、学会の地区など、一部分の、小さな行事であると思うのは、大きな誤りです。
 創価学会といっても、それは、どこか遠くにあるのではない。わが地区の座談会のなかにこそ、学会の実像がある。
 したがって、その充実こそが、学会の建設の要諦となるのであります」
 この本部幹部会での伸一の指導は、座談会の在り方を考える、重要な指針となったのである。
 幹部会の参加者をはじめ、伸一の指導を機関紙で知った同志は、闘志を燃え上がらせた。
 「これが創価学会だといえる、最高の座談会を開こう!」
 「みんなで力を合わせて、頑張ろう!」
 ある人は、全友人に参加を呼びかけて歩いた。また、ある人は、家庭訪問に全力を注いだ。
 こうして、全国津々浦々に、座談会成功への息吹がみなぎっていったのである。
 それから十日後、全国の会場提供者に、一枚の栞が届けられた。
 その栞には、馬に乗った女性の戦士の絵が描かれ、「創価学会座談会場」を意味する英語の文字が記されていた。
 ささやかだが、感謝の思いを伝えたいと、伸一が提案し、作られたものであった。
 たった一枚の栞ではあったが、贈呈された会場提供者は、山本会長の真心に胸を熱くした。
 また、座談会にかける、伸一の決意を感じ取っていった。


北斗 三十八

 正本堂着工大法要が行われた、一九六八年(昭和四十三年)十月十二日の夜のことである。
 山本伸一は、富士宮市上条で開かれた、北山支部市場地区の座談会に出席した。
 会場は、大石寺の西側で、売店が軒を連ねる道から、二百メートルほど離れたところにあった。
 地区部長の佐原一郎の家の小屋を改築したもので、部屋の広さは三十畳近かった。
 定刻の午後七時前に伸一が会場に到着すると、入り口に、精悍な顔立ちの四十代半ばの壮年が待っていた。北山支部の支部長の清野智也である。
 「先生! ありがとうございます」
 感極まった声で、清野が言った。
 彼は、大石寺の売店組合の組合長をしており、地区部長の佐原も、売店を営んでいた。
 前日の十一日に、山本会長が総本山に来たことを知った二人は、勇んであいさつに行った。
 正本堂着工大法要を翌日に控えた慌ただしいさなかであり、伸一と会うことはできなかったが、応対に出た幹部が、こう告げたのである。
 「先生は、明日、座談会に出席される予定なんだが、佐原さんの地区になるかもしれないよ。
 といっても、ご多忙な先生のご予定は、最後までどうなるかわからないから、君たちの胸のなかにとどめておいてもらいたい。でも、その心づもりでいてほしい」
 小柄でメガネをかけた地区部長の佐原は、メガネを取り、レンズをハンカチで拭きながら、小躍りしたい衝動を抑えた。
 “山本先生が座談会に出席されれば、みんな、どんなに喜ぶか!”
 しかし、それを皆に話せないことが、最大の苦痛であった。
 翌十二日、夜が明けると、佐原は、やむにやまれず、六人の班長に電話を入れた。
 「実は、今日の座談会に山本先生がお見えになるかもしれないんだ」
 「本当ですか!」
 皆、興奮した口調で応えた。
 「昨日、同行の幹部の人が、教えてくれてね。
 まだ、どうなるかわからないので、みんなに言うわけにはいかないが、ともかく大結集して、山本先生をお迎えしようじゃないか」


北斗 三十九

 この日の午後六時前、支部長の清野智也に、山本伸一に同行して来た幹部から、会長の座談会への出席が決まったという連絡があった。
 その話は、直ちに、地区部長の佐原一郎をはじめ、地区のメンバーにも伝えられた。

 伸一は、会場の入り口に立つ清野に尋ねた。
 「あなたは、八月に、この北山支部の支部長になられたんですね。おめでとう」
 「はい! ここの市場地区の地区部長の佐原一郎さんも、その時に、一緒に任命になりました」
 「私は、お二人の出発のお祝いの意味も兼ねて来させてもらいました」
 「ありがとうございます!」
 清野は声を弾ませて言った。
 彼の家は、代々、大石寺の周辺で農業を営む法華講であった。
 清野の家が土産物店を始めたのは、学会の本格的な登山会が始まった、一九五二年(昭和二十七年)のことである。
 彼の父親が、大石寺の知り合いの僧から、勧められたのである。
 農家にとって、現金収入を得られることはありがたかった。
 そこで、とりあえず、シキミを売ることから始めてみた。
 父親は、登山する学会員に接するうちに、自分たち法華講とは、全く違う雰囲気を感じた。
 皆が生き生きとしているのである。
 学会員と言葉を交わしていると、誰もが、信心の喜びにあふれ、功徳の体験が尽きなかった。
 そして、創価学会が目覚ましい発展を遂げる姿を目の当たりにして、感嘆した父親は、五四年(同二十九年)に、学会に入会した。
 登山者の増加にともなって店も繁盛し、シキミ以外に土産物も揃えるようになっていった。
 長男の清野智也も手伝うようになり、ほどなく彼が、店を取り仕切るようになった。
 彼は、父とともに、学会の会合にも参加した。
 学会の先輩たちは、一生懸命、朝晩の勤行や教学を教えてくれた。
 また、親身になって真心の激励を重ね、人間としていかに生きるべきかや、広宣流布の使命に生きることの大切さを語ってくれた。


北斗 四十

 清野智也は、学会活動に励むようになった。
 すると、総本山の儀式に参加するだけにすぎなかった法華講の信心が、形式と権威だけの“抜け殻”の宗教のように思えるのだった。
 また、真剣に活動に取り組めば取り組むほど、いまだかつて体験したことのない、躍動と歓喜が、全身に込み上げてくるのを感じた。
 売店の経営も順調で、経済的にも恵まれていった。学会員の登山者が増加し、年々、売り上げも伸びていたからである。
 彼は、売店が組合をつくると役員に推され、やがて、組合長を務めるようになった。
 清野は、学会に深い恩義を感じていた。生活にゆとりができたのも、学会の登山会のお陰であると思っていた。
 また、何よりも、学会に出あえたからこそ、本当の信心を知り、広宣流布の使命に目覚め、生きがいある最高の人生を歩むことができたと、心の底から痛感していた。
 清野は、学会への報恩感謝の思いで、支部長として同志のために尽くそうと、懸命に活動に取り組む決意を固めていたのである。
 仏法は「心こそ大切」と教えている。感謝がある人は幸福である。心には豊かさがあふれ、喜びに満ち、生き生きとして明るい。福徳が輝く。
 しかし、感謝のない人は不幸である。その心は暗く、貧しく、いつも、不平と不満、嫉妬と恨みと愚痴の暗雲が渦巻いている。
 だから、人も離れていく。希望も、福運も消してしまう。自分で自分の幸せを破壊し、空虚と絶望へと自らを追い込んでいるのだ。
 慢心の人もまた、感謝の心がないゆえに、不幸であり、孤独である。
 わが人生を輝かせゆく源泉は、報恩感謝の一念にこそあるのだ。
 山本伸一は、清野に言った。
 「御書にも仰せのように、『仏』と『魔』との戦いが信心の世界です。
 民衆救済のために、大御本尊をお守りすべき総本山だけに、仏法を断絶させようと、魔の働きも強くなる。
 ゆえに、大聖人の仰せ通りに、仏法の正義を貫こうとする強盛な信心がなければ、魔に食い破られてしまう」


北斗 四十一

 本来、総本山は清らかなる信心の継承の地でなければならない。
 だが、歴史を振り返れば、その総本山大石寺で、幾度となく醜悪な勢力争いが繰り広げられてきた。
 古くは、日目上人が京都への途次、美濃の垂井で遷化したあと、目師に随伴していた日郷が、付嘱を受けたとして、第四世の日道法主と争った事件は有名である。
 これは、坊の土地の所有権争いとなり、宗内も二つに分かれ、七十年以上にわたって対決することになる。
 さらに、大正末期から昭和初期にかけて、阿部法運(日開。日顕の父)によって、総本山第五十八世の日柱法主(管長)を追い落とすための謀略が練られ、醜悪な泥仕合が続いたことは、あまりにも有名である。
 当時の「静岡民友新聞」にも、「大石寺の紛擾 更に擴大」「血で血を洗ふ醜争」「他宗の物笑ひ」等と報道されている。
 阿部法運の暗躍で、宗会は日柱法主の不信任を決議。そのうえ、宗会議員と評議員が、辞職を勧告したのである。
 大石寺では、以前から勤行中にピストルのような爆発音が響いたり、客殿に石が投げこまれるなど、威嚇、いやがらせが繰り返されていた。
 日柱法主は、やむなく辞表を提出する。だが、その後、脅迫によるものであったとして宗会議長らは告訴されている。
 やがて阿部法運は、宗内の選挙で法主の座を獲得するが、酒色を供したり、脅しをかけるなど、伏魔殿さながらの腐敗選挙の結果であった。
 「唯授一人血脈付法」とは名ばかりの、恐るべき実態といってよい。
 宗門は、こうした醜い権力闘争を重ねてきただけでなく、法義さえも平気で踏みにじってきた。
 戦時中には、御書の削除や神宮の遥拝も指示しているのだ。
 大聖人は仰せである。
 「衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり」(御書三八四ページ)
 ゆえに、僧侶に、大聖人の御精神のままに、広宣流布に生きる清き信心がなければ、総本山も穢土となり、魑魅魍魎の魔の巣窟となるのである。


北斗 四十二

 山本伸一は、牧口常三郎と戸田城聖が、謗法の魔の山と化した宗門を正し、正法正義を守り抜いたように、清野智也をはじめ富士宮の同志には、破邪顕正の大精神に生きてほしかった。
 それが、仏法を守り、総本山を守ることになるからだ。
 伸一は、清野と握手を交わしながら言った。
 「清野さん。あなたたちは、何があろうが、富士のように、堂々たる信心を貫いてください」
 「はい!」
 清野の顔に、決意が光った。
 座談会場には、百人ほどが詰めかけていた。
 伸一が姿を現すと、大歓声があがった。
 畑仕事から駆けつけたのか、作業着姿の壮年もいた。乳飲み子を抱えた若い婦人も、女子高校生もいた。
 その顔に、一斉に笑みの花が咲きこぼれた。
 「どうも、大変にご苦労様です。実は、総本山に、もう一晩、泊まることになったもので、皆さんの地区座談会に、出席させていただくことにしました」
 伸一は尋ねた。
 「ご主人の佐原さんはどなたでしょうか」
 「はい!」
 すぐ横にいた壮年が手をあげた。
 「どうも、お世話になります」
 伸一は、正座し、深々とお辞儀をした。
 まさに、会場提供者に礼を尽くそうと、語った通りの姿であった。
 佐原も、恐縮して、畳の上に両手をついて、何度も頭を下げた。
 その様子が微笑ましく、さざ波のように、笑いが広がった。
 題目を三唱すると、伸一は、笑顔で参加者に視線を注ぎ、正座している壮年に声をかけた。
 「どうぞ、あぐらをかくなど、楽な姿勢になってください。
 足がしびれて、転んで怪我をしたんじゃ、なんのために座談会に来たのか、わかりませんから」
 また、笑いが起こった。それが、皆の緊張を解きほぐした。
 「今日は形式は抜きにして、なんでも気軽に話し合いましょう」
 すると、真正面に座っていた婦人が言った。
 「先生、質問して、よろしいでしょうか……」
 婦人は、疲れきった顔をしていた。


北斗 四十三

 山本伸一は答えた。
 「もちろん、結構ですよ。なんでも聞いてください。私は、皆さんの会長なんだもの。また、今日は、そのために来たんですから」
 婦人は、その言葉に人間の温もりを感じた。
 「私は、大石寺の従業員をしている武井チヨ子と申します。実は、題目を唱えていても、歓喜がわいてこないんです」
 この地区には、大石寺で従業員として働くメンバーが少なくなかった。
 武井が信心を始めたのは十年ほど前であり、総本山で働くことは、かねてからの夢であった。
 二年前に、その夢が叶い、彼女は従業員として採用され、一家で北海道から富士宮に出て来た。
 “大石寺には、間もなく本門の戒壇となる正本堂が建立される。まさに霊山浄土にも等しいところなんだ。この私が、そこで働くことができるんだわ!”
 そう思うと小躍りしたい気持ちだった。
 武井は、登山者の弁当を作る、フードセンターで働くことになった。
 仕事は交代制で、早番の時は、夜明け前から働いた。学会の登山会が行われている時は、連日、休みなく働き、月末に休むという生活であった。しかも薄給である。
 でも、自ら望んで来たのだから、頑張り抜こうと心に決めていた。
 彼女が大きな衝撃を受けたのは、そんなことより、僧侶たちの実態であった。
 厳しい修行を積み、強盛な信心を貫いていると信じていた僧侶たちのなかに、酒色に溺れ、遊びほうけている坊主が、少なくなかったからだ。
 また、従業員に対する態度は横柄そのもので、人格を疑いたくなるような者が多かった。
 さらに、驚いたのは、陰で学会の悪口を言う僧侶がいたり、「ここで働いていれば、学会活動などしなくてよい」という話が、まかり通っていたことであった。
 武井は愕然とした。
 まるで、他宗教の本山にでもいるような気がしてならなかった。
 信心への確信が揺らぎ始め、いつも、心は悶々としていた。
 やがて、題目を唱えても、歓喜がわかなくなってしまった。また、月日を経るごとに、疲れもたまっていった。


北斗 四十四

 武井チヨ子にとって、唯一の希望となっていたのが、山本会長が登山して来ることであった。
 伸一は、登山すると、「従業員の方へ」と言って、地元の幹部らに土産物を託すなど、配慮を重ねてきた。
 “先生は、私たちの苦労を知って、励ましてくださっているんだ”
 そう思うと、暗い気持ちをかかえながらも、一日一日を、辛うじて踏ん張ることができた。
 でも、胸に潜む、僧侶への不信と失望を払拭することはできなかった。
 彼女は、座談会で、言葉少なに自分の心境を語った。
 総本山の多くの従業員を励ましてきた山本伸一には、それだけで、武井の置かれた状況と気持ちがよくわかった。
 「信心をしていくうえで、一番大事なことは、周りに翻弄されるのではなく、御書の仰せのままに、広宣流布に生き抜いていくことです。
 『未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事』(御書一六一八ページ)というのが、御開山上人である日興上人の御指南です。
 題目を唱えても、その根本の一念が揺らぎ、漫然と唱題していたのでは歓喜も力もわきません。
 御本尊に広宣流布を誓い願って、唱題していくことです。
 そして、“あの人を立ち上がらせてください”“折伏させてください”など、学会活動や職場、家庭のことなど、目標を明確にして祈り、信心に励んでいくことです。
 そうすれば力が出るし、その祈りが叶い、目標が成就すれば、さらに喜びがわきます。
 学会活動に励み、広宣流布に挺身していくならば、わが身に、地涌の菩薩の生命が脈動していきます。それは、大歓喜の生命です。必ず、元気になっていきますよ。
 今日から、新たな気持ちで、題目をあげていきましょう」
 次に、手をあげたのも婦人であった。
 「私は、現在、内得信仰をしていますが、母が信心に反対なので悩んでいます」
 「そのなかで、信心を続けるのは大変でしょうが、頑張ってください。
 ところで、もし、あなたが、学会以外の信心を始めたら、お母さんは反対したと思いますか」


北斗 四十五

 山本伸一が尋ねると、婦人は答えた。
 「浄土宗とか、禅宗ならば、母は反対しなかったと思います」
 伸一は頷いた。
 「きっと、そうでしょうね。人間の常として、年をとればとるほど、それがどんなに正しいものであっても、新しいものは、なかなか受け入れられずに、反対しがちなものなんです。
 だから、お年を召されたお母さんが反対するのは、やむをえないことでもあるんです。この仏法は時代の最先端を行く思想であり、未来を開く哲学なんですから。
 あのコペルニクスの地動説も、正しい真理でありながら、長い間、認められなかった。
 しかし、今では、それ以前の天動説を信じている人など、いないではありませんか。
 また、お母さんは信心に反対だというけれど、それは、仏法のこと、学会のことが、よくわからないからです。あなたがかわいいから、心配して反対するんです。
 あなたが信心によって幸福の実証を示し、さらにお母さんが本当に誇りに思える娘さんになれば、必ず信心に理解を示すようになりますよ。
 娘の幸福を願わない母親なんて、いないんですから。
 私の母も、最初は信心しませんでした。でも、私は、母を絶対に幸せにしてみせると決意しました。今では学会員として幸福に暮らしています。
 あなたも、何があっても負けないで信心を全うし、お母さんにも仏法を教え、幸せにしていくんですよ。
 それが、娘としての義務であり、使命であると思ってください」
 伸一自身の体験を踏まえた指導には、説得力があった。 
 話が終わるや、すぐに何人もの手があがった。
 今度は、壮年が指名された。
 「私は、仕事が忙しくて休日も取れません。でも、なんとか折伏をしたいと思っています。ところが、なかなかできないもので悩んでおります」
 「人を救おうとして悩むなんて、すごいことではないですか。尊く誇り高い、最高の悩みです。本当の慈悲の姿です。
 それ自体、地涌の菩薩の悩みであり、仏の悩みです」


北斗 四十六

 集った同志は、弘教を実らせようと、日々、懸命に戦っていた。
 それだけに、折伏についての山本伸一の話に、皆、目を輝かせ、真剣な顔で聞き入っていた。
 「折伏を成し遂げる要諦は何か。
 それは決意です。一念が定まれば、必ず状況を開くことができる。
 折伏は、どこでもできるんです。戸田先生は、牢獄のなかでも法華経の極理を悟り、看守を折伏しています。
 まず、折伏をさせてくださいと、御本尊に懸命に祈り抜くことです。すると、そういう人が出てきます。
 また、ともかく、あらゆる人と仏法の対話をしていくんです。
 もちろん、信心の話をしても、すぐに入会するとは限りません。それでも、粘り強く、交流を深めながら、相手の幸福を日々祈り、対話を重ねていくことです。
 種を蒔き、それを大切に育て続けていけば、いつか、必ず花が咲き、果実が実ります。焦る必要はない。
 さらに、入会しなくとも、ともに会合に参加して教学を勉強したり、一緒に勤行したりすることもよいでしょう。自然な広がりが大事です。
 ともあれ、苦労して弘教に励んだ分は、全部、自分の福運になります。
 相手が信心しようが、しまいが、成仏の因を積んでいるんです」
 皆が笑顔で頷いていた。伸一の話を聞くうちに、安心感と勇気がわいてくるのである。
 彼は、言葉をついだ。
 「また、対話してきた人を入会させることができれば、何ものにもかえがたい、最高最大の喜びではないですか。
 折伏は、一人ひとりの人間を根本から救い、未来永遠の幸福を約束する、極善の実践です。
 寄付をするとか、橋を造ったとかいうような慈善事業などよりも、百千万億倍も優れた、慈悲の行為なんです」
 答え終わると、すぐに次の手があがり、質問は後を絶たなかった。
 皆の悩みや素朴な疑問に答える、この率直な語らいこそ、座談会の妙味といえよう。
 座談会に生き生きとした語らいがあれば、学会は常に満々たるエネルギーをたたえ続けることは間違いない。


北斗 四十七

 地区部長の佐原一郎が、会場の端に座っていた一人の壮年を、山本伸一に紹介した。
 「先生、あの方は、座談会に出席するために、今日は、名古屋から来られました」
 伸一は、その壮年に尋ねた。
 「そうですか。遠くから大変でしたね。もう信心して長いんですか」
 「いいえ、私はまだ信心していません」
 「それは、どうも失礼しました。遠慮せずに、どうぞ、こちらにいらしてください」
 新来者の壮年が前に来ると、伸一は、「わざわざ、ご苦労様です」と言って、握手を交わした。
 壮年は、顔を赤らめながら語った。
 「いやー、まさか、会長さんが出席されるとは、思いませんでした。
 私も質問してよろしいでしょうか」
 「どうぞ。会長といっても、別に偉くもなんともないんです。みんな同じですよ。なんでも結構ですから、おっしゃってください」
 その言葉に安心したのか、壮年の顔に微笑が浮かんだ。
 「宗教とは、わかりやすくいえば、どういうものですか」
 「いろいろいえますけれども、一口でいえば、生活の根本法です」
 そして、人間の価値観や生き方の根本をなすものが宗教であり、いかなる宗教を信じるかによって、人間の幸・不幸が決定づけられることを、諄々と語っていった。
 新来者の壮年は、何度も頷きながら話を聞いていた。
 「おわかりいただけましたか。それでは、仏法を生活の根本法とした結果、どうなったか、皆さんにお話ししてもらいましょう。
 どなたか、体験発表をしてください」
 伸一が司会役となっての鮮やかな進行である。
 「はい!」と一斉に何人もの手があがった。
 最初に、男子部員が、笑みを満面に浮かべて、語り始めた。
 「先生! 隣にいるのは私の父ですが、三年前に脳内出血で倒れ、半身不随になりました。
 一時は、もう駄目かと思いましたが、こうして、座談会に出席できるまでに回復しました。私は嬉しくって仕方ないんです」


北斗 四十八

 山本伸一は、拍手を送りながら青年に言った。
 「それはよかった。親孝行ですね。お父さんには、お祝いに念珠を差し上げましょう」
 大きな、温かい拍手が広がった。
 体験発表の手は、次々とあがった。
 未熟児で生まれた娘が元気に育っているとの、報告もあった。
 夫婦喧嘩が絶えなかったが、互いに相手を思いやれるようになり、家庭のなかが明るくなったという体験もあった。
 職場に不満を感じていたが、入会後は考え方が変わり、意欲をもって仕事に取り組めるようになったという人もいた。
 「病気の問屋」と言われたほど、病に苦しんできたという婦人は、体験談の途中で、「先生、私は、こんなに幸せになれたんです」と言ったきり絶句し、ポロポロと涙を流した。
 その涙が、信仰の喜びを、最も雄弁に物語っていた。祝福の拍手が彼女を包んだ。
 体験という厳たる事実には、万人の心を打つ力がある。
 体験談が終わると、伸一は、ユーモアを交えて言った。
 「みんな、聖教新聞に出してもいいような、すばらしい体験です。
 これから、ますます頑張ってくださいよ。
 功徳を受けたから、もう信心をやめてもいいなんて考えると、また振り出しに戻ってしまいますからね」
 決意を秘めた、明るい笑いが広がった。
 このあと伸一は、「法蓮抄」の「今法華経・寿量品を持つ人は諸仏の命を続ぐ人なり、我が得道なりし経を持つ人を捨て給う仏あるべしや……」(御書一〇五〇ページ)の御文を拝して、指導していった。
 「三世十方の諸仏は、すべて法華経の寿量品文底の大法である南無妙法蓮華経によって、成仏したんです。
 したがって、その法を持つ私たちは、諸仏の命を継ぐ人であり、諸仏がわれわれを守らないわけはないとの、御本仏・日蓮大聖人の御言葉です。
 ゆえに、皆さんは、どんな試練があっても、必ず最後は勝ちます。負けるわけがない。
 どうか、この御文を確信して進んでいってください」


北斗 四十九

 御書の講義の最後に、山本伸一は、自らの思いを語った。
 「私の念願は、皆さんが幸福になっていただきたいということです。
 そのために、何があろうが、学会から離れることなく、生涯、信心を貫いてください。
 私は、皆さんが一人も漏れなく、正義の大道を歩み通して、幸せになっていただくために、お題目を唱えて、唱えて、唱え抜いて、死んでいくつもりです。
 個人的には、何もして差し上げることはできないけど、これだけはさせてもらいます」
 題目を三唱して、座談会が終わった。
 伸一は立ち上がると、皆に呼びかけた。
 「大変にご苦労様でした。外に出ましたら、近隣の迷惑になりますので、立ち話などはしないで、静かにお帰りになってください。
 また、路上での喫煙は火災の原因になりますので、自宅にお着きになるまで、しばらくの間、我慢してください。大丈夫ですね!
 車で来られた方は、安全運転で、無事故でお願いしますよ」
 絶対に事故など起こさせまいとの一念から発する、この一言が、皆の注意を喚起し、事故を防ぐ力となるのである。
 それから伸一は、参加者のなかに分け入り、一人ひとりと握手を交わしていった。
 「いつまでも、お元気でいてください」
 「いよいよ青年の時代です。広宣流布を頼みます!」
 彼の励ましに、目を潤ませる人もいた。
 感動的な心の交流のドラマが織りなされた座談会であった。
 この座談会には、九人の新来の友が出席していたが、終了後には、そのうち六人の人が入会を申し出たのである。
 市場地区の座談会のあと、伸一は、近くの会館に立ち寄った。
 そこでは上条支部富士見地区の座談会が行われていたが、既に終了し、新来の友と数人のメンバーが懇談しているところであった。
 伸一は、短時間ではあったが、残っていた人びとを激励した。
 彼は、瞬時も疎かにはできなかった。「時」というものは、二度と戻らないからだ。


北斗 五十

 座談会場を回ったあとも、山本伸一は参加者の顔を一人ひとり思い返しながら、さらに激励の手を打っていった。
 市場地区の会場の後方に座っていた学生服姿の中学生をはじめ、何人かのメンバーに、念珠などを贈ることにした。
 そして、全参加者の健康と長寿と、一家の繁栄を、懸命に祈念するのであった。 
 
 翌週の十月十九日にも、伸一は、東京・北区の東十条にある、北会館(当時)で行われた、東十条支部北地区の座談会に出席した。
 彼の座談会への出席は、メンバーには全く知らされていなかった。直前まで、どうなるかわからなかったからである。
 伸一が会場に到着したのは、定刻の午後七時より十分ほど早かった。
 「こんばんは!」
 声のする方に視線を向けたメンバーは、そこに山本会長の姿を見て、目を丸くした。
 地区部長の細川喜芳と地区担当員(現在は地区婦人部長)の恵田美代子は、驚きのあまり、声も出なかった。
 北地区では、九月の本部幹部会で“座談会の充実”が打ち出されると、「模範の座談会を開こう」と、皆が団結して、大成功をめざした。
 その結果、六十九人が参加し、内容的にも充実した座談会を開くことができた。
 この時、地区担当員の恵田は、皆に、こう訴えたのである。
 「今回の座談会は、大成功でしたが、次は、もっとすばらしい座談会にしましょう。
 私たちにとって最高にすばらしい座談会とは、山本先生にご出席していただく座談会だと思うんです。
 そこで、絶対に、わが地区に先生をお迎えするんだと決めて、結集にも、準備にも、全魂を傾けていきましょう」
 彼女の呼びかけに、全員が頷いた。
 そして、会場も、地区の活動の拠点ではなく、会館の大きな部屋を使って、大結集をしようということになった。
 山本先生を座談会に――それが合言葉となり、皆の唱題にも一段と力がこもった。
 特に婦人部は寸暇を惜しんで、徹底して真剣な唱題を重ねた。
 その祈りが、本当に叶ってしまったのである。


北斗 五十一

 驚きのあまり、地区担当員の恵田美代子の口から、「山本先生!」という言葉が出たのは、伸一を見て数秒ほどしてからであった。
 会場の広間に集っていたのは、まだ十二、三人であった。
 伸一は言った。
 「今日は、当初は別の座談会に出る予定でいたんですが、時間の関係もあり、最終的に、ここにお邪魔することになりました。
 まるで、磁石で吸い寄せられるように、この会場になってしまったんですよ。
 きっと、みんなで祈っていたんだろうね。題目をあげている人たちには敵わないね」
 恵田は、夢を見ているような気持ちであった。
 でも、目の前にいるのは、まぎれもなく、山本会長なのだ。
 “お題目だ。お題目に勝るものはないんだ!”
 彼女は、今更ながら、唱題の力を実感するのであった。
 「では、勤行しましょう。そのうち、みんな、来るでしょうから」
 伸一の導師で、勤行が始まった。
 彼のすぐ横に座って勤行する恵田の声が、しばしば途切れた。込み上げる感涙のためである。
 やがて、続々とメンバーが集って来た。
 唱題を終えて伸一が振り向くと、皆、緊張した顔で彼を見ていた。
 伸一は、笑顔で包み込むように言った。
 「どうも、ご苦労様です。膝を崩して、楽にしてください。
 創価家族の集まりなんですから、自分の家にいるような、くつろいだ気持ちでいてくださっていいんですよ。
 皆さんもお疲れでしょうから、今日は堅苦しい話や、難しい話はやめましょうね。
 皆さんの方で、聞きたいこと、話したいことがあれば、自由に話してください」
 この言葉で、参加者の心が和んだ。
 三列目ほどのところに座っていた婦人が、ためらいがちに手をあげて、立ち上がった。
 「先生、うちの中学三年になる長男のことで、お伺いしたいんです。
 息子は小児マヒをやってまして、今も、ちょっと手が不自由なんです。将来のことを思うと、不安で仕方ないんです」


北斗 五十二

 確信に満ちた山本伸一の声が返ってきた。
 「大丈夫です。皆、深い使命があって生まれてきているんです。息子さんが、生涯、強盛な信心を貫いていくならば、必ず幸福になります。息子さんは来ているの?」
 「はい」
 母親は、振り返って、息子を探した。後ろの方で学生服姿の少年が、小さく縮こまるようにして座っていた。
 「あれが息子です」
 「じゃあ、前にいらっしゃい! よく来たね」
 伸一に言われて、息子は、恥ずかしそうに前に出て来た。
 少年は、座談会に参加するのが嫌だった。
 大勢の人の前に出ると、疲れてしまうのだ。それに、幹部の難しい話は聞きたくないという思いが強かった。
 だから今日も、母親から座談会があると聞かされていた彼は、わざと遅く家に帰るようにした。
 ところが、帰る途中に母親と出くわしてしまい、仕方なく、一緒に参加したのだ。
 彼は、伸一から前に来るように言われた時、座談会なんかに来なければよかった、と思った。
 伸一は、少年を自分の横に座らせた。
 「どっちの手が不自由なの?」
 「こっちです」
 うつむきながら、右手を差し出した。
 伸一は、その手を両手で包み込むように、ギュッと握り締めた。
 そして、心のなかで叫んでいた。
 “何があっても負けないで、強く、生き抜くんだ! わが人生の勝利者になり、必ず幸福になるんだ!”
 瞬間、伸一の口から題目が漏れた。少年の成長を願う強い思いが、祈りとなったのだ。
 「スポーツは何が好きなの?」
 上目遣いに伸一の顔を見て、少年は答えた。
 「野球をするのが好きです」
 「野球ができるのか。そりゃあ、たいしたものだな。
 もう、治っているようなものじゃないか」
 少年の顔に、穏やかな微笑が浮かんだ。
 「大変なこともあるだろうが、挫けて、自分に負けてはいけないよ。本当に強い人というのは、自分に負けない人のことなんだ」


北斗 五十三

 少年は顔を上げた。その瞳が輝きを放った。
 母親の目は、感涙に潤んでいた。
 山本伸一は語った。
 「小児マヒであった君が、明るく元気で、勇気をもって幸福な人生を生き抜いていけば、同じ病気に苦しむ、多くの人の希望になるじゃないか。
 それは、君でなければできない、君の使命でもあるんだ。
 使命を自覚すれば、歓喜がわき、力があふれる。その根本が信心なんだよ。だから、何があっても、しっかり信心していくんだよ」
 「はい!」
 弾んだ声であった。
 「君には、念珠をあげようね」
 念珠を受け取る少年を拍手が包んだ。
 「よかったわね」
 「頑張れよー」
 あちこちから、声援が起こった。
 そこには、創価家族の温かさがあった。
 この座談会でも、さまざまな質問が続いた。
 家族のことで悩む、女子部員の相談もあった。心臓病など、幾つもの病をかかえた壮年の質問もあった。
 伸一は、その一つ一つに真剣勝負で臨んだ。
 そして、友の顔に微笑が浮かび、瞳が決意に燃え輝くたびに、励ましと賞讃の拍手が広がった。
 フランスの歴史家ミシュレは言った。
 「生命は自らとは異なった生命とまじりあえばまじりあうほど、他の存在との連帯を増し、力と幸福と豊かさを加えて生きるようになる」(注)
 人間は、人間の海のなかで、励まし合い、触発し合うことによって、真の人間たりえるのだ。
 学会の座談会は、まさに、人間の勇気と希望と歓喜と、そして、向上の意欲を引き出す“人間触発”の海である。
 山本伸一が率先して、座談会を駆け巡っている様子や、その語らいの詳細が機関紙誌に報道されると、学会中に大きな波動が広がった。
 運営にあたる幹部をはじめ、皆の決意と意識が一新された。
 活気にあふれ、企画も創意工夫に富み、充実した座談会が、全国各地で活発に開催されるようになった。
 民衆の蘇生の人間広場である、「座談会革命」がなされたのである。
 (この章終わり)