栄光 一

 地涌の友よ
 いま
 生命の世紀の夜明けに
 陣列は幾重にも
 布かれたのだ
 
 かつての近い昔
 われらの歴史には
 疾風の日があった
 怒濤の夜があった
 秋霜の
 ながい歳月が流れた
 寂として
 声をのんだ時もあった
 
 (中略)
 親しき友よ
 新しき年の
 この朝に一線を劃し
 あの流転の
 苦難の日々に
 別れを告げよう
 
 地涌の戦士よ
 面をあげよ 胸をはれ
 まことの栄光の
 朝の門出だ
 
 一九六八年(昭和四十三年)「栄光の年」は、この詩とともに出発した。
 元日付の聖教新聞を手にした同志は、吸い寄せられるように紙面に視線を注いだ。
 その一面には、全面を使って、「栄光への門出に」と題する、会長・山本伸一の詩が掲載されていたのである。
 伸一は、二年前の六六年(同四十一年)、潮 出版社の少年 少女向け月刊雑誌『希望の友』の新年号に、「伸一郎」のペンネームで「黎明」と題する詩を発表した。
 それを見た会員から、「ぜひ、聖教新聞にも詩を掲載してほしい」との要請が、数多く寄せられていたのだ。
 また、聖教新聞社からも、再三にわたって、新年号への詩の寄稿を求められていたのである。
 伸一は、この「栄光の年」が、今後の広宣流布の流れを決するうえで、いかに重要であるかを痛感していた。
 学会は、待望の正本堂が完成する七二年(同四十七年)に、いっさいの活動の焦点を合わせて進んでいた。
 その正本堂の建設が始まるこの年こそ、向こう五年間の大勝利の軌道をつくり上げねばならぬ、最も重要な年であり、決して敗北の許されない一年であった。
 だから伸一は、同志が勇気をもって前進するためには、どんなことでもしようと決めていた。
 彼は、決戦への火蓋を切る号砲として、詩を発表することにしたのだ。


栄光 二

 山本伸一は、「栄光の年」を迎える心情を、ありのままに、詩に綴っていった。
 ほとばしる歓喜を、燃え盛る闘魂を、同志への友愛の思いを、一気に書き記していった。
 「君よ立て!」「断じて負けるな!」「ともに進もう!」と、語りかけながら――。
 詩の冒頭、彼は、来るべき二十一世紀を、「生命の世紀」と謳った。
 「生命の世紀」とは、生命が尊厳無比なる存在としての座を確保し、いかなることのためにも、手段とされたり、犠牲とされることのない、人間復権の時代である。
 戦争と殺戮の二十世紀から、平和と生命の尊厳の二十一世紀へと転換しゆくことこそ、学会が成し遂げようとする、広宣流布の目的である。
 彼は、それこそが、自身の人生の使命であると決めていた。
 そして、そのための基盤づくりの期間が、一九七二年(昭和四十七年)までの、この五年間であるととらえていたのだ。
 ゆえに、そのスタートとなる「栄光の年」を、断じて大勝利で飾らねばならなかった。
 詩は、十五分ほどで、かたちになった。しかし、それから、一念を研ぎ澄まして、何度も、何度も、推敲を重ねた。
 詩ができ上がると、どっと疲れが出た。一瞬に生命を凝縮しての創作であったからだ。
 大聖人は、「言と云うは心の思いを響かして声を顕すを云うなり」(御書五六三ページ)と仰せであるが、この詩には、彼の平和への熱願と決意が脈打っていた。
 詩「栄光への門出に」が発表されると、聖教新聞社にも、学会本部にも全国の会員から、電話や手紙で、多くの反響が届いた。
 「体中に電撃が走る思いです。歓喜に震えています」と言って、電話口で絶句する同志もいた。
 ある人は、「励ましの新風」を得たと述べ、また、ある人は、「希望の花束」を贈られた思いであると語った。
 一編の詩が、新春の日本列島に、平和を誓う共鳴の交響楽を奏でたのである。
 皆、この詩を読み、自らの使命の深さを、あらためて確信し、弾む心で「栄光の年」の新しき出発を開始したのだ。


栄光 三

 山本伸一は、少年のころから、詩が大好きであった。
 詩の世界には、夢を運ぶ想像力の翼が、自在に天空を駆け巡っていた。
 また、限りなく深い、大宇宙をも包みゆくような意味の広がりがあり、心の花々が、馥郁と咲き薫っていた。
 伸一は、そこに、魅了されてきたのである。
 そして、年齢を重ね、人の心が殺伐としていく世相を目にするにつれ、この“詩心”ともいうべき、豊かな精神の世界を、人間は取り戻さなければならないと、思うようになっていった。
 機構や制度が人間性を抑圧し、金やモノが人心を蝕み、過度な科学信奉や、合理的思考への偏重が、人間の精神性を剥奪している現代である。
 人びとの胸に、豊かなる精神の世界を築き上げる「詩心の復権」は、彼にとって、年ごとに、切実な課題となっていたのである。
 伸一は、「宇宙即我」「我即宇宙」と教え、一念三千という人間生命の大法則を説く仏法こそ、汲めども尽きぬ、深く広大な精神の泉であり、詩心の源泉であると確信していた。
 そして、その仏法を弘める広宣流布の運動は、詩心を復権させる、人間精神の開拓作業であるというのが、彼の一つの結論であった。
 ゆえに、彼は、人間性の勝利のために戦う詩人として、詩「栄光への門出に」の筆を執ったのである。
 ここから、伸一の生涯にわたる、怒濤のごとき詩作の戦いが、本格的に開始されたのだ。
 一月八日付の聖教新聞には、青年の使命と心意気を謳った「元初の太陽を浴びて」を寄稿。
 さらに翌九日付には、女性の尊き姿を詠んだ、「生命の尊厳を護るものへ」と題する詩が発表された。
 また、このあとも、毎年のように聖教新聞の新年号に詩を寄せ、翌六九年(昭和四十四年)には「建設之譜」が、七〇年(同四十五年)には「革新之響」が発表されることになる。
 英語やフランス語などで、「詩」の語源となったギリシャ語「ポイエーシス」は、「創造」を意味する。
 まさに詩作は、「生命の世紀」の創造のための、彼の言論戦となるのである。

語句の解説
 ◎一念三千
 一念三千は、衆生の一念に三千の諸法が具わること。瞬間瞬間に生起する衆生の心を「一念」といい、宇宙をも包含した現象世界のすべてを「三千」という数で表している。天台大師が法華経に基づき体系づけた法門で、一切衆生の成仏の理論的根拠とされる。
 日蓮大聖人は、この一念三千の生命を「南無妙法蓮華経」と説き明かされ、事実の上で万人が成仏する道を開かれた。


栄光 四

 この「栄光の年」を迎えた同志たちの、最大の希望であり、喜びであったのが、創価学園(中学校・高等学校)の開校であった。
 一九六八年(昭和四十三年)四月八日――。
 東京・小平市の創価学園では、遂にこの日、待ちに待った第一回入学式が、晴れやかに行われたのである。
 武蔵野の空は、朝から美しく澄み渡っていた。
 濃紺の真新しい学生服に、学帽を被り、春の日差しを浴びて、校門を入る生徒たちの顔には、希望の輝きがあった。
 正門を入ると、左手に入学式の会場となる講堂があった。
 その横には、矢のような形をした、純白の時計台がそびえ立っていた。
 そして、武蔵野の風情が漂う木立に包まれるようにして、四階建ての、近代的な二棟の校舎が並んでいた。
 講堂前は、朝早くから詰めかけた父母たちで、いっぱいであった。
 随所で歓談の花が咲いていたが、その言葉には関西弁も、東北弁も、九州弁も交じっていた。
 生徒は、南は沖縄、九州、北は北海道、東北など、全国から集まっていたのである。
 一人の母親が、時計台を見上げながら、目を潤ませてつぶやいた。
 「校庭も広々としてて緑が多いし、校舎もすばらしいわ。
 山本先生の創られた、この学校で、うちの子が学べるなんて、ほんま夢のようやわ」
 傍らにいた父親が、満面に笑みを浮かべながら頷いた。
 「そうやな。苦労してきたかいがあったな。
 子どもを東京に出すのは大変やけど、息子が頑張るゆうてるんやから、わてらも負けんと、働かなあかんな」
 「うちも頑張るで! それにしても、あの子は、いい時代に生まれたもんやな」
 父母たちは、やがて講堂に入ると、そのすばらしさに息をのんだ。
 階段式に千二百三十余のイス席が並び、天井は音響効果を考えて、波のような形に設計されていた。都心の有名な劇場にも引けをとらない、見事な造りである。
 「すごい環境やな! これからあの子は、こんなええとこで、毎日、勉強すんやな」


栄光 五

 父母たちが講堂に入り終えると、「タンホイザー大行進曲」が流れ、生徒たちが入場してきた。
 胸を張って歩く制服姿が、初々しくもあり、凛々しくもあった。
 期せずして、拍手がわき起こった。目頭を拭う父母もいた。
 校歌の練習のあと、午前十時前、副校長の諸谷文孝の「開会のことば」で、入学式が始まった。
 諸谷は、これまで都立高校で社会科を教えてきた、三十二歳の青年教師である。
 次いで校長の小山田隆が、あいさつに立った。
 小山田は、理学博士号をもつ、四十四歳の壮年である。
 東京教育大学で生物学者として研究に従事しながら、都立高校の定時制で、十六年間にわたって教鞭をとってきた。
 この小山田と諸谷が、中学と高校を合わせた創価学園の校長、副校長として、学校の運営にあたっていくことになるのである。
 小山田は、中学新入生二百十七人、高校新入生三百二十一人の入学を発表したあと、柔和な微笑をたたえて語り始めた。
 「新入生の諸君、そして、ご父母の皆様、ご入学、大変におめでとうございます」
 その温厚な口調に、彼の人柄があふれていた。
 「本校の開校に先立ちまして、創立者の山本伸一先生から、次のような五つの指針を頂戴しております。
 一、真理を求め、価値を創造する、英知と情熱の人たれ。
 二、決して人に迷惑をかけず、自分の行動は、自分で責任をとる。
 三、人には親切に、礼儀正しく、暴力を否定し、信頼と協調を重んずる。
 四、自分の信条を堂々と述べ、正義のためには、勇気をもって実行する。
 五、進取の気性に富み、栄光ある日本の指導者、世界の指導者に育て。
 ご存じの方も多いことと思いますが、これは、四月四日付の聖教新聞に、山本先生が『創価学園の入学式を祝う』と題して発表された、談話のなかで、お述べになったものです。
 ここに、私どもの進むべき道は、明確に示されております。
 これらの指針を胸に刻み、有意義な学園生活を送っていただきたいのであります」


栄光 六

 山本伸一は、その談話のなかで、学園開校の目的について言及し、こう語っている。
 「いうまでもなく、創価学園は創価学会のために設立したのではない。我らの願いは、妙法の大地を根底に、崩れざる人類の繁栄と豊かな第三文明の花を咲かせることである。
 したがって、教育はあくまで教育の分野で、見事な花を咲かせていくのは当然である。
 事実、創価学園においては、宗教教育は行わないし、生徒のなかには、学会員以外の子弟が多数含まれている。
 創価学園は、あくまでも、日本の未来を担い、世界の文化に貢献する、有為の人材を輩出することを理想とするものであり、それ以外のなにものもないことを断言しておきたい」
 さらに、伸一は、現在の教育界の混迷の原因として、教育理念の喪失、若人の人格を軽視する風潮、指導者の次代に対する責任感の欠如を指摘。
 そして、創価学園は、教師も、生徒も、生徒の父母も一体となって、理想の教育の実現に地道な努力を続け、教育界の道標となりゆくことを期待し、次の言葉で話を結んでいる。
 「この学窓より、凛々しい幾多の新世紀建設の英才が輩出して、日本、世界の繁栄と平和のために寄与することができるならば、これにすぎる喜びはない」
 
 校長の小山田隆は、最後に、力強く訴えた。
 「日本の、世界の繁栄のために、寄与できるよう成長していっていただきたいというのが、創立者の願いであります。
 どうか、諸君は、栄えある第一期生の誇りを胸に、後輩によき伝統を残す、よき生徒であってください。
 そして、互いに尊敬し合い、共に勉学に励み、共に青春の汗を流しながら、人間性を磨きゆかれんことをお願いし、あいさつといたします」
 喜び勇んで、創価学園に集って来た生徒たちの瞳は、キラキラと輝き、頬は紅潮していた。
 続いて、新入生の代表が、はつらつと、「誓いのことば」を述べた。
 「新時代の到来をつげる創価中学校・高等学校の開設を知り、ここに偉大な目標を見いだした私たちは、日夜、学業に励みました……」


栄光 七

 「誓いのことば」を読み上げる生徒の声は、希望に弾んでいた。
 「……この恵まれた環境のなかで、心身ともに鍛え、ひたすら勉学に励み、将来、必ず世界平和のために雄飛する人材として育ちゆかんことを、今日、この晴れの入学式に臨んで、固く誓うものであります」
 その顔には、新しき時代を担わんとする使命の光彩があった。
 そして、その胸には、徹して学び、自らを鍛えんとする、青春の気概と決意が脈打っていた。
 次いで、創価学園の理事長になった森川一正があいさつに立ち、開校に至る経過を述べるとともに、新入生の成長に期待を寄せた。
 大きな喜びに包まれ、入学式は進み、最後の校歌斉唱となった。
 山本伸一の出席はなかったが、皆、校長や理事長、来賓の話に、創立者の期待と真心を痛感していた。
 歓喜にあふれた、晴れやかな式典であった。
 十時四十五分、第一回入学式は終了した。
 式が終わると、森川理事長がマイクを取り、弾んだ声で告げた。
 「実は、山本先生は、先ほど信濃町を出発され、こちらに向かわれております。あと一時間ほどで、到着されるのではないかと思います」
 大歓声があがった。そして、大拍手がそれに続いた。
 父母も、生徒も、入学式に行けば、創立者の山本会長に会えるのではないかと、期待に胸を躍らせて集って来たのだ。
 伸一は、そうした父母たちの気持ちは、痛いほどよくわかっていた。
 しかし、学園の運営は校長、理事長が中心で行うべきものである。
 その原則を明らかにするためにも、創立者である自分は、表面に出るのではなく、側面から応援していこうと決めていたのだ。
 だから、三月十六日に来賓五百人を招いて行われた開校祝賀会にも、伸一は出席を見合わせた。
 そして、終了後に学園を訪問して、教職員を励ましたのであった。
 理事長の森川は、「入学式には、なんとしても、山本先生にご出席いただきたい」と、強く要請してきた。
 だが、伸一は、あえて辞退したのである。


栄光 八

 山本伸一は、森川一正に言った。
 「学園の運営については、小山田校長や、理事長である森川さんたちが力を合わせて、全責任をもって取り組んでいってほしいんです。
 そして、学園は、私がいなくても大丈夫だという状態に、一日も早くしてもらいたいんです。
 創立者というのは針です。理事長や校長は、後に残る糸です。ひとたび着物が縫い上がれば、着物を維持していくのは、糸の役目です。
 その強い自覚をもち、学園として、自立したスタートを切ってもらうためにも、私は、第一回の入学式への出席を辞退させていただきます。
 ただし、その日は、必ず私も学園に駆けつけ、私は私の立場で、生徒とご両親を激励します」
 森川の顔に、安堵の色が浮かんだ。
 伸一は、話を続けた。
 「生徒たちは、名門校や一流校といわれる学校が数あるなかで、私の創立した、まだ、無名に等しい、この創価学園を選んでくださった。
 また、家族の方々は、それを全力で応援してくださろうとしている。
 経済的に大変なご家庭もあるはずです。特に、地方から子どもを送り出すのは、大きな家計の負担になるでしょう。
 しかし、私とともに、牧口先生、戸田先生の理想を実現しようとしてくださっている。涙が出るほどありがたい話ではないですか。
 学園生は、かけがえのない、私の宝です。私の命です。大切な、大切な私の子どもです。どんなことをしても、生徒を守ります。生徒のために戦い抜きます。それが私の決意です。
 だからといって、私を頼るのではなく、“自分がいれば、全学園生を、世界の未来を担って立つ、大人材にしてみせる!”という気概で、頑張ってほしいんです。
 表舞台に立つのは、校長であり、先生方です。また、理事長です。
 作家の吉川英治さんが『菊作り 菊見る時は 蔭の人』という句を残しているが、学校ができれば陰の人でよいというのが、私の気持ちなんです」
 森川は、伸一の言葉を粛然たる思いで聞いた。伸一の、学園に寄せる、熱い、熱い心に、触れたように感じた。

語句の解説
 ◎吉川英治
 一八九二〜一九六二年。小説家。大衆文学の第一人者で、日本を代表する国民作家として知られる。主な作品に『三国志』『新・平家物語』『宮本武蔵』などがある。


栄光 九

 入学式が行われていたころ、山本伸一は、信濃町を出て、創価学園に向かう車のなかにいた。
 いよいよ今日、晴れの入学式を迎えたのだと思うと、万感迫るものがあった。
 彼の胸には、戸田城聖から学園の建設を託されて以来の思い出が、次々と去来してきた。
 伸一が、戸田城聖から最初に学校の設立の構想を聞かされたのは、一九五〇年(昭和二十五年)の晩秋のことであった。
 戸田の事業が破綻した苦境のなかで、なんとか、新しい再起の道を見つけ、二人で激浪の暗夜に船出した時である。
 戸田は、創価教育を実践する、小学校から大学までの学校の建設を悲願としていた牧口が、その実現を自分に託したことを明かし、伸一に、こう語るのであった。
 「私の代でできなければ、その時は、頼むよ。牧口先生の悲願である、創価の学舎には、最高の教育環境を、整えてもらいたい」
 この時、伸一は、弟子として、何があろうと、必ず自分の手で創価教育の学校を建設しようと、固く、固く、心に誓ったのである。
 伸一に学校建設を委ねた戸田は、人前で、その話を口にすることは、ほとんどなかった。
 ある時、清原かつが、戸田に尋ねた。
 「創価学会として、牧口先生の創価教育学を実践する場所が、必要ではないかと思います。
 かつての時習学館のような塾を、開設してみてはどうでしょうか」
 すると、戸田は、厳しい口調で言った。
 「余計なことをしなくてよい!」
 彼女は、戸惑いを覚えながら考えた。
 ――先生は私の意見に対して、いいとも、悪いとも言われなかった。そして、ただ“余計なこと”と言われた。先生には、きっと何か、お考えがあるんだわ。
 後年、清原は、創価大学、創価学園を建設するという伸一の発表を聞くに至って、戸田の言葉の意味に、ようやく気づいたのである。
 “あの時、山本先生は戸田先生からすべてを託されて、大構想を練り、着々と準備を重ねられていたんだ。師弟の間で、建設の歯車は、既に回転していたんだわ”

語句の解説
 ◎時習学館
 戸田城聖が一九二三年(大正十二年)、東京・目黒駅の近くに設立した学習塾。教育界のさまざまな制約にとらわれず、牧口常三郎の独創的な教育理論や指導法を実践した。


栄光 十

 山本伸一は、戸田城聖亡きあと、ただ一人の総務として、事実上の学会の運営を担っていた時から、学校を建設するための土地を、懸命に探し始めた。
 彼が用地を選ぶにあたっては、四つの条件があった。
 一、武蔵野の大地にある。
 一、富士が見える。
 一、近くに清らかな水の流れがある。
 一、都心から車で、一時間ほどの距離である。
 この条件に合った場所として、小平市の、西武国分寺線の鷹の台駅に近い土地を紹介された。
 玉川上水が流れる閑静なところで、広さは、一万坪ほどあるという。
 伸一が、その土地を視察したのは、一九六〇年(昭和三十五年)の四月五日のことであった。
 彼が第三代会長に就任する一カ月前である。
 当時、彼は、会長就任への要請を、固辞し続けてきたが、首脳幹部から懇請され、就任を承諾せざるをえない状況がつくられつつあった。
 伸一は、せめて戸田の七回忌までは猶予がほしかったが、弟子として、学会を率いて立つ決意は固まっていた。
 そして、先師・牧口常三郎と恩師・戸田城聖の構想を実現し、人類の恒久平和の道を開くために、何から手を打つべきかを考え、学校の創立へ、第一歩を踏み出したのである。
 伸一は、学会本部が用意してくれた車で、大田区小林町(当時)の自宅から、妻の峯子とともに学校建設の候補地へ向かった。
 その辺り一帯には、くぬぎ林や木蓮、柳、楠、桃の木、菜の花などがあり、大自然の鼓動が聞こえてくるような、心洗われる平和な風景が広がっていた。
 伸一の考えた、すべての条件を満たしていた。彼は、最高の教育環境であると思った。
 「よし、ここだ。ここに学校を建てよう!」
 彼は、決断した。
 伸一は、玉川上水のほとりの雑木林で、峯子がつくってきたオニギリを食べた。
 水筒の蓋を湯飲み茶碗の代わりに、交互にお茶を飲みながら、二人は語り合った。
 「いいところだね。ここに学校ができれば、牧口先生も、戸田先生も、きっとお喜びになるにちがいないよ」


栄光 十一

 山本伸一の話に耳を傾けていた、妻の峯子が、心配そうに言った。
 「でも、学校を設立するとなれば、相当、お金がかかりますでしょ。学会にそんなお金は、ないんじゃありませんか」
 このころ、確かに学会は貧しかった。活動に必要な、各地の会館さえ、満足になかった。
 伸一は、笑みを浮かべて、峯子に言った。
 「大丈夫だよ。ぼくが働くよ。
 これから本を書いて、書いて、書き続けて、その印税で、世界的な学園を、必ず、つくってみせるよ」
 その言葉に、峯子は、微笑んで頷いた。
 春風が梢を鳴らした。野鳥が勢いよく、空に飛び立っていった。
 
 この翌月の五月三日、伸一は、第三代会長に就任した。
 激務につぐ激務が、彼を待っていた。
 そのなかで伸一は、あの小平の土地を購入し、学校設立の構想を、緻密に練り上げていった。
 だが、その構想を、首脳幹部に語っても、反応は至って冷たかった。
 「学校をつくると言われましてもね……。
 学会は、資金的に厳しいために、寺院の建立寄進や会館の建設も遅れているんです。とても、そんな予算はありません」
 皆、当面する問題で精いっぱいであり、学校の建設など、考える余裕はなかったのだ。
 しかし、伸一は、人類の幸福と平和を実現するために、人間主義に基づく教育を行う学校が、いかに必要不可欠であるかを、機会あるごとに、首脳幹部たちに訴え続けていった。
 そして、学校の開校に備え、小平の土地を買い足すことを計画するとともに、さらに、八王子にも、新たな学校建設用地を購入する準備に入ったのである。
 小学校から大学まで、一貫教育の学校をつくるには、広大な土地が必要であったからだ。
 伸一が、創価大学の設立構想を正式に発表したのは、戸田の七回忌をすませた、一九六四年(昭和三十九年)六月三十日の、第七回学生部総会の席上であった。
 彼が会長就任時に掲げた、三百万世帯を達成し、総本山に大客殿を建立寄進し、広布の盤石な基盤を築いての、満を持しての発表であった。


栄光 十二

 第七回学生部総会で発表された大学設立構想を受け、学会の首脳の間で協議が重ねられ、設立の時期や建設用地などが具体化されていった。
 翌一九六五年(昭和四十年)の十一月上旬、創価大学設立審議会が発足した。
 審議会の会長には山本伸一が就任。委員長は十条潔、委員には、学会の副理事長、学術部員、教育部員の代表三十五名が任命された。
 第一回の設立審議会が開かれたのは、十一月二十六日であった。
 この席で伸一は、大学より先に、六八年(同四十三年)ごろに高校を開校し、大学の開学は七〇年(同四十五年)以後にすることを発表した。
 次いで、大学建設の用地として、八王子市を考えており、小平市に購入してある土地には、高校を建設する計画であることを述べた。
 また、これまで創価学会として役員会を開き、学校の建設についての大綱を決めてはきたが、今後は、すべて、この審議会に委ねるつもりであることを語った。
 さらに、設立審議会のなかに、法律的な準備にあたる設置基準委員会と、大学、高校の設立の具体的な準備を進める、大学専門委員会、高校専門委員会を設けることを提案し、決定をみた。
 この日から、建設への歯車が、本格的に回り始めたのである。
 しかし、学校をつくることなど、皆、初めての経験であり、何から手をつければいいのかさえ、わからなかったというのが実情であった。
 高校専門委員会のメンバーは、名門校といわれる学校や全寮制の学校、ユニークな教育方針で知られる学校などを、次々と訪問し、視察することから始めた。
 都内、関東近県はもとより、岐阜県や兵庫県にも足を運んだ。
 そして、委員会の席で、視察した学校の教育内容や設備、生徒数、教職員数、授業料、学則などを報告し合った。
 そこから、具体的に取り入れられるものはないか、徹底的に分析し、検討を重ねた。
 討議が白熱し、気がつくと深夜になっていることも珍しくなかった。
 その情熱こそが、学園建設という新しき創造の原動力であった。


栄光 十三

 創価高校の開校の準備は、着々と進められ、一九六六年(昭和四十一年)の十一月十八日には、起工式が行われることに決まった。
 この年の四月十日、山本伸一は、小平市の建設用地を視察し、現地で審議会の代表と、今後の計画について検討した。
 伸一は、六年も前に購入した、この雑木林の土地が、美しく保たれていることに気づいた。
 彼は、同行していた総務の十条潔に言った。
 「ありがたいね。近隣の同志の皆さんの、真心を感じるね」
 だが、十条も、そのほかの幹部たちも、キョトンとしていた。
 「みんな、わからないのかい。使われていない土地があれば、たいていゴミ捨て場にされてしまうものだ。しかし、ここはきれいだ。きっと、地元の同志が定期的に清掃してくれているはずだ。調べてみなさい」
 十条は、早速、地元組織と連絡を取った。
 ――敷地内には、やはり、ゴミや瓦礫が投げ込まれたり、強風で飛ばされた周囲のゴミが、雑木林に引っかかって、たまっていることがよくあったという。
 それを見て、胸を痛めた地元の会員の有志が話し合い、自主的に清掃してくれていたのだ。
 炎天下で汗まみれになりながら、また、ヤブ蚊に刺されながら、皆、夢中になってゴミを拾い、雑草を刈った。
 清掃は、六年間で百回を超えていたのである。
 伸一は、十条の報告を聞くと、決意を噛み締めるように語った。
 「今、創価高校の建設の話を聞いて、寄付をしたいと言ってくださる同志も大勢いる。
 この清掃といい、寄付の件といい、無名の庶民である会員の皆様が、創価の学舎を築き、守ろうとしてくださっている。
 学園の建設は、民衆の真心に支えられてきたという、この偉大な事実を、生徒にも、教師にも、永遠に伝え抜いていかなくてはならない」
 
 委員たちの献身的な努力で、設計も迅速に進められ、八月二日には、創価高校の完成予想図が、聖教新聞の紙面を飾ったのである。
 全国の学会員は、そこに、希望の光を見た。新時代の到来を感じた。


栄光 十四

 起工式を一カ月後に控えた十月、高校専門委員会の委員から、一つの提案がなされた。
 ――これまで、男子校の高校を、最初に開校するという方向で進めてきたが、各校を視察してみると、中・高一貫校の方が、目覚ましい教育の成果を上げている。
 したがって、創価高校にも、中学を併設したいというのである。
 だが、この段階で、中学校の併設に切り替えれば、設計をはじめ、さまざまな面で修正や変更が必要になる。
 その提案を聞いた、設立審議会の委員たちは、難色を示した。せっかく形が決まったものを、変えたくないという思いが強かったのだ。
 しかし、山本伸一は、中学を併設したいという意見を支持した。
 中学生には、高校受験という問題が重くのしかかり、それが伸び伸びと学業やスポーツに打ち込む障害となっていることを、彼も憂慮していたからである。
 伸一は、委員たちに言った。
 「私たちがめざしているのは一貫教育です。
 だから、高校に中学を併設する意見には、私は賛成です。また、高校の第一期生が卒業する時には、大学を開学させたいと思っています。
 さらに、小学校も幼稚園もつくっていきます。東京以外にも学校を建てるつもりです」
 それから、伸一は、二十一世紀に思いを馳せながら語った。
 「牧口先生の残された創価教育は、人類の偉大なる精神遺産だ。日本だけでなく、世界の人びとのためのものです。
 いつになるかわからないが、私は、アメリカにも、必ず創価大学を建設する決意なんです。
 その大学で、世界平和のために、人間主義の大指導者を、本格的に育成していきます。
 いずれにしても、教育は、私の最後の事業であると思っています」
 伸一の構想は、限りなく広大であった。
 最終的に、設立審議会等の結論として、創価高校に中学を併設することが決定し、聖教新聞に発表されたのは、十一月十三日のことであった。
 そして、五日後の十八日には、創価中学・高校の起工式が、晴れやかに行われたのである。


栄光 十五

 創価学園の起工式が挙行された十一月十八日は、初代 会長 牧口常三郎の祥月命日であった。
 また、この日は、一九三〇年(昭和五年)に、牧口常三郎の『創価教育学体系』の第一巻が発刊され、後に、学会の創立記念日に定められた日である。
 雲一つない、美しい秋晴れであった。
 陽光に映えた、木々の深緑が微風に揺れ、祝福の喝采を送っていた。
 山本伸一は、工事が無事に終了し、明後年の四月に、開校を迎えられるように真剣に祈念した。
 彼は、戸田城聖亡きあと、牧口の創価教育学を実践する学校を建設する必要性を、痛切に感じてきた。
 戦後教育の行き詰まりが、あらゆる面で露呈していったからである。
 機会均等を基本原理とする戦後の民主主義教育は、財力や身分による教育の差別をなくすことには大きな成果を示した。
 六・三制の義務教育の実施は、国民共通の基礎教養を高め、高校への進学率も上がり、一九六五年(昭和四十年)には、全国平均で七割を超えるに至っていた。
 しかし、残念なことには、その教育の普及が、「人間をつくる」という教育本来の目的に、つながっていないのが実情であった。
 教育の普及は、一方で学歴偏重主義を招き、受験競争は異様なまでに過熱化し、友達を敵と考える高校生も少なくないという事態を、もたらしていたのである。
 また、経済的には豊かさが増すなかで、青少年の非行化も深刻になり、少年犯罪は増加の一途をたどっていた。
 さらに、拝金主義の傾向も顕著になり、精神の荒廃を実感させた。
 戦後、日本は、飛躍的な経済発展を遂げたが、そのなかで、教育の目的も、経済発展に寄与する人間の育成が掲げられていった。
 その結果、経済優先の価値観に基づく教育が大手を振り、「人生の目的とは何か」「何が善で、何が悪か」「真実の価値とは何か」といった問題の探究は、教育の場から切り捨てられてきたといってよい。
 それは、根本的な教育理念の欠如であり、人格の陶冶を忘れた教育の姿にほかならなかった。


栄光 十六

 山本伸一は、もし、このまま、確固たる教育理念もなく、青少年の心の荒廃が続けば、どうなるのかと考えると、暗澹たる思いにかられた。
 そのたびに伸一は、人生の根本目的を教え、強く豊かな心を、人間性を培う教育が行われなければならないと、痛感してきた。
 そして、“牧口先生の創価教育学を実践する学校を、一日も早く建設しよう”と、心に誓ってきたのである。
 牧口常三郎の創価教育学とは、一言でいえば、「人生の目的たる価値を創造し得る人材を養成する」知識体系といえる。
 牧口は、教育の目的は子ども自身の幸福にあると主張し、社会人として幸福生活を営めるようにしていくことに、教育の役割があるとしている。
 富国強兵策のもと、国家のための教育が行われてきた時代にあって、それは、まさに革命的な提唱であった。
 そして、真の幸福生活を実現するには、自他ともの幸福を築くことが不可欠であり、いわば、個人の幸福と社会の繁栄が一致する社会の在り方をめざすものが、教育であるとしている。
 また、幸福生活とは、価値を獲得、実現した生活であり、価値創造の能力、すなわち「人格の価値」を高めることを、創価教育学の目的と定めているのである。
 さらに牧口は、『創価教育学体系』の巻を重ねるなかで、「半日学校制度」など、教育制度や教育方法の具体的な改革案を打ち出していった。
 創価教育学は、彼の三十余年にわたる学校教育の実践のなかで培われ、実証に裏付けられた教育法であった。つまり、それまでの、観念的哲学理論で構成され、実証性に乏しい教育学とは、一線を画した、独創的な教育学説であった。
 当時と時代状況が異なる現代では、具体的な改革案はそのまま採用できない面もあろうが、牧口の学説には、未来を照らす、人間教育の光彩があった。
 『創価教育学体系』の第一巻には、当時の日本を代表する三人の学識者が序文を寄せている。
 そのなかで、国際連盟事務局次長を務めた新渡戸稲造は、「現代人が其の誕生を久しく待望せし名著」と賛嘆している。

語句の解説
 ◎半日学校制度
 『創価教育学体系』第三巻「教育改造論」の中で記されている教育制度の改革案の一つ。
 小学校から大学まで、すべての学校の学習時間を半日とし、残りの時間は生産的な実業生活に従事させようという構想。心身ともにバランスのとれた成長を図るために、学習と社会での実体験を同時に経験させることをめざした。また、学校の授業を午前と午後、夜間に分けることで、多数の生徒を収容し、当時の校舎不足を補い、入学難を解消するための対策でもあった。
 ◎新渡戸稲造
 一八六二〜一九三三年。盛岡生まれの教育者。札幌農学校卒業後、東大に入学。「太平洋の橋」になると大志を抱いてアメリカ、ドイツに留学した。京大教授、一高校長、東大教授、東京女子大初代学長などを経て、国際連盟事務局次長として活躍した。牧口初代会長が参加していた郷土会のメンバーでもあった。英文で執筆した『武士道』は世界的に有名。


栄光 十七

 『創価教育学体系』を民俗学者の柳田国男は、こう賞讃している。
 「他には容易に得難き独創の価値は、或は此の行詰まった現代教育界を打開するに足ると信じ、改めて之を推奨するに躊躇しないものである」
 また、フランス社会学の研究家である田辺寿利は絶讃する。
 「一言もってこれを約すれば、鞏固なる理論と長年月の実験とを基礎として創始されたる『創価教育学』は、現代の日本が最も要求するところの教育学である」
 そして、こう記す。
 「一小学校長たるファブルは、昆虫研究のために黙々としてその一生をささげた。学問の国フランスは、彼をフランスの誇りであるとし、親しく文部大臣をして駕を枉げしめ、フランスの名に於いて懇篤なる感謝の意を表せしめた。
 一小学校長たる牧口常三郎氏は、あらゆる迫害あらゆる苦難と闘ひつつ、その貴重なる全生涯を費して、終に画期的なる『創価教育学』を完成した。
 文化の国日本は、如何なる方法によって、国の誇りなるこの偉大なる教育者を遇せんとするか」
 ところが、仏法正義の旗を掲げ、人類の幸福と平和の実現に生き抜いた牧口は、国家神道を精神の支柱に、戦争を遂行する軍部政府によって、投獄される。
 そして、一九四四年(昭和十九年)十一月十八日、彼は獄死したのである。それは『創価教育学体系』第一巻の発刊から、ちょうど十四年後にあたっていた。
 「軍国日本」は、この偉大なる教育者にして、偉大なる仏法指導者を、“国賊”とし、「獄死」をもって遇したのだ。それは、未来永劫に消えぬ、日本国家の最大の汚点であろう。
 
 創価学園の建設は、山本伸一にとって、先師・牧口常三郎の教育思想と正義を宣揚する、第三代会長としての戦いであった。また、世界平和を築きゆく遠大な構想の、第一歩でもあった。
 起工式がすむと、ほどなく建設工事が始まり、武蔵野の大地に希望の建設の槌音がこだました。
 翌六七年(同四十二年)の三月には学校法人創価学園の設立を、四月には創価中学・創価高校の設置を、東京都に申請した。

語句の解説
 ◎柳田国男など
 柳田国男(一八七五〜一九六二年)は、兵庫県出身の民俗学者。牧口初代会長が参加した郷土会のほか、民間伝承の会、日本民俗学会を設立し、日本民俗学の創始者と称される。『遠野物語』『海上の道』など、多数の著作がある。
 田辺寿利(一八九四〜一九六二年)は、北海道出身の社会学者。フランス社会学の成立と発展を中心に研究。日本社会学会、日仏社会学協会などの設立に尽力。東洋大、東北大、金沢大の教授を歴任した。


栄光 十八

 申請書類には、創価学園の教育方針として、山本伸一が提唱した、「健康な英才主義」「人間性豊かな実力主義」が掲げられていた。
 「健康な英才主義」とは、いわゆる“青白きインテリ”を育てるための教育ではない。ただ有名大学をめざしたり、単に知能指数の高い子どもを育てるといった偏頗な教育とは、本質的に異なっている。
 体も、心も、ともに磨き、鍛えながら、一人ひとりに内在している優れた能力を引き出し、育て上げて、それぞれの生徒が自信をもって、社会の指導者に成長していけるようにする教育であるといってよい。
 また、「人間性豊かな実力主義」とは、生命尊重の理念に立脚し、限りなく豊かな人間性の開発を行いつつ、社会の指導者にふさわしい実力を身につけていくことを意味している。
 以来、全人的な、新しい人間主義の教育を掲げる学校の設立へ、動きはいよいよ本格化していったのである。
 この年の春には、校章や校旗、制服、制帽も決定した。
 校章は、中央にペンがあり、その左右に鳳雛の羽が図案化されていた。
 制服は、通学服と校内服が作製された。
 通学服は、上下ともに濃紺で、上着は詰め襟になっており、黒い縁取りがほどこされ、ホックでとめる型であった。
 一方、校内服は、動きやすさを考慮し、紺地に白い線を入れたカーディガン風の上着と、白のトレーニングパンツに決定した。
 スクールカラーについても、「英知」「栄光」「情熱」を表す、「青」「黄」「赤」の三色に決まった。
 建設工事は、中学の併設にともない、校舎を三階建てから四階建てにするなどの、設計の変更はあったものの、順調に進んでいった。
 建設は希望であった。伸一の胸は躍った。
 五月には、彼も、工事現場に足を運んだ。
 自分の目で進行状況を確認するとともに、工事関係者の労をねぎらいたかったからである。
 そして、六月十九日には、東京都に申請していた、学校法人の設立と中学・高校の設置の認可が下りた。
 開校への歩みは、大きく加速された。


栄光 十九

 一九六七年(昭和四十二年)の七月十四日、創価中学・高校の募集要項が、いよいよ聖教新聞に発表された。
 明年度に、中学・高校に進む児童、生徒、そして、両親、家族はもとより、全学会員が、希望に胸を弾ませながら、この募集要項に見入った。
 初年度の募集は、中学二百人、高校三百人である。創価中学・高校の建設を聞いて以来、受験を希望してきた児童、生徒の学習に、一段と熱がこもった。
 学園としても、「学校案内」「入学案内」などのパンフレットを作製・配布し、生徒の募集が推進されていった。
 教職員の選考は、高校専門委員会によって、起工式の前から進められてきたが、このころには最終段階を迎えていた。
 生徒にとって、最も重要な教育環境は、建物でも、自然環境でもない。教師である。
 ゆえに、教師の選考には、特に力が入れられ、厳選されたのである。
 選考に当たるメンバーに、山本伸一は訴え続けてきた。
 「建物を立派にすることも必要だが、それよりも、よい先生に来ていただくために、最も力を注いでいくことです。
 そして、教職員を大事にすることを、創価学園の伝統にしていってもらいたい。
 教育といっても、結局は、教育者によって、決まってしまうからです」
 
 この年の十二月末には、二十四人の教員が決定をみた。
 明けて、六八年(同四十三年)は、開校の年である。
 山本伸一は、一月の六日には、教職員の代表を招いて食事をしながら、懇談の機会をもった。
 伸一は訴えた。
 「いよいよ学園の草創期が始まります。
 どんな事業でも、基礎をつくり上げるという作業は、苦労も多く、大変なものです。しかし、それが一番大事なんです。
 今、頑張れば、永遠に崩れぬ、学園発展の堅固な大基盤をつくることができます。
 皆さんが苦労した分だけ、創価学園は栄えていきます。また、その苦労が、教師として、人間として、自分を磨き上げていくことになる。
 今の苦労は、皆さんの生涯の誇りとなり、黄金の思い出となります」


栄光 二十

 山本伸一は、祈るような思いで語っていった。
 「苦労して、経験から学んだことは、人間の最高の財産になります。
 皆さんの後にも、若い優秀な教師がたくさん入ってくると思いますが、その時に、何を伝えていけるかです。
 今、うんと苦労して、自身の敢闘の歴史をつくっておかなければ、何も後輩に触発を与えることができない、不甲斐ない先輩になってしまう。
 今こそ、大情熱をもって立ち上がってください。教育の源泉とは、教師である皆さんの、人間としての情熱です。
 みんなで力を合わせ、日本一の学校をつくろうじゃありませんか!
 二十一世紀のために、人間教育の最高の学園を建設しましょう。
 皆さんは、そのパイオニアです。そして、一人ひとりが、創立者であると思ってください」
 教職員は、この言葉を魂に刻み、学園の建設に取り組んだのである。
 一月の十九日からは、中学校の願書の受け付けが開始され、二月の一日からは、高校の願書の受け付けも始まった。
 その間に、一月の二十九日には、校舎の落成式が行われた。
 伸一も、この落成式に駆けつけ、式典の前に、講堂、体育館等の諸施設を見て回った。
 体育館は一階が、バスケットコート二面分の広さがあり、地下には、柔道場、剣道場などがつくられている。
 体育館の横には、二十五メートルのプール、テニスコート、バレーコートがある。
 また、LL教室(視聴覚機器を備えた語学演習室)や、テレビカメラ、受像器が設置された生物教室など、あらゆるところに、最新の設備が導入されていた。
 また、アトリエを思わせる美術教室や、小さなステージが設けられた音楽教室等には、情操教育に力を入れ、豊かな人間性を培おうとする、創価学園の教育方針がよく表れていた。
 伸一は、校舎を見て回りながら、新世紀に羽ばたく、鳳雛を育むにふさわしい、思い通りの建物が完成したことが嬉しかった。
 “牧口先生も戸田先生も、きっと、お喜びくださるにちがいない”
 彼は、熱い感慨が、胸に込み上げてくるのを覚えた。


栄光 二十一

 落成式の終了後、山本伸一は、体育館の前にイチョウの苗木を記念植樹した。
 空を仰ぎながら、彼は思った。
 “あとは生徒だ。私の理想に賛同し、どんな生徒が集って来てくれるのか。すべての勝負は、そこにかかっている”
 
 中学の願書の受け付けは、一月の三十日に締め切られた。二百人の募集に対して志願者は、八百人近くに達した。
 中学の学科試験は、二月一日に実施された。
 合格発表は五日に行われ、二百二十人の合格者が決まった。
 このうち、東京は八十六人で、あとの百三十四人は、全国各地からの受験者であった。
 一方、高校は、二月の一日から願書の受け付けが始まり、十三日に締め切られた。こちらは、三百人の募集に対して、千五百人近くが出願した。
 高校の学科試験は、十五日に行われたが、この日は、十七年ぶりの大雪となった。
 特に、夜には、交通機関がストップしたり、高速道路が閉鎖されるなどの事態も生じた。
 山本伸一は、全国から集った受験生が、無事に試験を終え、帰宅できるように、寸暇を惜しんで唱題を重ねた。
 高校の合格発表は十九日に行われ、三百三十二人が合格となった。
 そのうち、東京は百七十九人で、その他の地域が百五十三人であった。
 中学、高校を合わせると、自宅通学が困難な地域からの合格者は、予想をはるかに超え、二百五十人近かった。
 寮に入ることができる生徒の数は、百七十人ほどであるため、八十人ほどの下宿先を探して、斡旋しなければならなかった。
 山本伸一は、学園の理事長の森川一正と校長の小山田隆から、その報告を聞くと言った。
 「入学式まで、あと一カ月半です。時間は差し迫っています。みんなで手分けをして、全力で下宿を探しましょう。私も探します。
 住むところが、なかなか決まらなければ、ご家族も心配されるでしょうし、生徒に対しても、申し訳ない限りです。
 希望に燃えて入学してくる生徒が、なんの憂いもなく、勉学に励めるようにすることが、私たちの責務ではないですか」


栄光 二十二

 下宿探しが始まった。
 山本伸一も、創価学園の近くに住む、学会の幹部などに、声をかけていった。
 学園としては、体育科の主任教諭である小森道也を中心に、教員たちが下宿を探し歩いた。
 既に学生を下宿させている家や、大きくて部屋数の多そうな家を探しては飛び込み、地方から来る生徒を下宿させてほしいと、頼んでいった。
 だが、生徒を快く引き受けてくれる家は少なかった。
 なかには、学会への偏見と誤解から、「創価学園」と聞いただけで、拒否反応を露にする家もあった。
 また、「創価学園というのは、学会の幹部の養成学校ですか」と尋ねる人もいた。
 そんな時には、ここが勝負とばかりに、創価学園の設立の目的や教育方針などを、諄々と訴えるのであった。
 何度も訪問しては、粘り強く、説得を繰り返すこともあった。
 こうして一軒、また一軒と下宿先を開拓していった。
 “親元を離れて、東京の学園に来る生徒たちに、住まいのことで、不安な思いなどさせてなるものか!”
 それが教師たちの思いであった。
 ともかく、三月上旬には、上京する生徒の受け入れ先を、すべて確保することができたのである。
 
 ――そして、この四月八日、待望の入学の日を迎えたのである。
 入学式を終えた新入生と父母たちは、続々と創価学園の正面ロータリーに集まって来た。
 創立者の山本伸一を、ここで迎えようというのである。
 伸一に会うのは、初めてという人も多く、皆、胸をわくわくさせながら待っていた。
 午前十一時五十分、伸一の乗った車が到着すると、歓声と拍手がわき起こった。
 車を降りた伸一は、会釈をし、居並ぶ新入生と握手を交わしながら、弾んだ声で語りかけた。
 「おめでとう! みんなの新しい出発だね。
 本当におめでとう。しっかり頑張りなさい」
 「はい!」
 初々しい、元気な声が響いた。


栄光 二十三

 山本伸一の到着を待って、ロータリー中央の植え込みの一角に立つモットーの碑の、除幕が行われた。
 少年部を代表して、伸一の三男で小学校四年生の弘高が紐を引いた。
 この日、伸一は、弘高だけでなく、妻の峯子、長男の正弘も同行させていたが、それは、次代の世界の平和のために、学園を守り続ける精神を、家族に植え付けておきたかったからである。
 紅白の布が除かれると、幅三メートル、高さ一メートルほどの黒御影石に、伸一の「英知 栄光 情熱」の文字が刻まれた碑が現れた。
 校長の小山田隆が、伸一に言った。
 「生徒たちが歌う校歌を聴いてください」
 「聴かせてください」
 伸一は、碑の前に用意されたイスに腰をかけ、鳳雛たちの、はつらつとした歌声に耳を傾けた。
 「ああ遥かなり 野はあけて……」
 皆、誇らかに胸を張って、体中で決意を表現するかのように、頬を紅潮させながらの熱唱である。
 伸一は、一人ひとりの生徒に視線を注ぎ、心のなかで語りかけていた。
 “ありがとう。ようこそ私の創立した学園へ。私は、諸君のために、命をかけて道を開きます”
 校歌の合唱が終わると、彼は言った。
 「すばらしい歌声でした。希望があり、未来への無限の夢があります。
 今日は、諸君の入学式を、人生の新しい出発を記念して、一緒に写真を撮りましょう」
 生徒は歓声をあげた。
 伸一は、体育館の横にある、橋の階段を指さして言った。
 「撮影の前に、みんなであの橋を渡ろう。見晴らしがいいから」
 玉川上水に架かる橋である。
 彼の後に、中学生たちが続いた。
 橋の階段にはテープが渡されていた。
 「橋の渡り初めのテープカットをしますので、よろしくお願いします」
 小山田に言われ、伸一がテープをカットすると、拍手が起こった。
 「さあ、上ろうよ!」
 階段を上って橋の上に出た。
 周囲には武蔵野の雑木林が広がり、彼方には、山々が連なっていた。
 そして、その山の向こうに、希望の富士の雄姿があった。


栄光 二十四

 山本伸一は、取り囲んだ中学生に語った。
 「この橋を、私は『栄光橋』と名づけました」
 彼は、学園の建設工事の模様を視察した折、開校の準備にあたっていた関係者の要請を受けて、こう命名したのである。
 その名には、“人類の栄光を担い立つ、人材に育ってほしい”との、伸一の熱い期待が込められていた。
 彼は、言葉をついだ。
 「みんな、周りの景色を見てごらん。創価学園は、周囲を、山、川、武蔵野の平野、木々の緑に囲まれている。
 山は王者、川は純粋な精神です。
 そして、武蔵野の平野は諸君の限りない希望であり、緑は潤いのある人生を表しています。
 どうか、この栄光橋を渡る時には、自分も栄光の人生を渡っているのだと確信し、何があっても負けないで、頑張り抜いていってほしいんです」
 学園の建設は、すべてがゼロからのスタートである。
 だから、伸一は、一つの橋にも明確な意義づけをし、誉れ高き伝統を築き上げていきたかったのである。
 彼の言葉に、生徒たちは、瞳を輝かせ、大きく頷いていた。
 牧口常三郎と戸田城聖も、戸田と山本伸一の間にも、二十八歳ほどの年齢の隔たりがある。
 今、伸一は、四十歳であり、この生徒たちとは、ちょうど同じくらいの年の差がある。
 彼は、世界の平和の実現のために、自分の後に続いてくれるであろう一期生との年齢差に、不思議な感慨を覚えた。
 また、歴史を振り返れば、かのプラトンが、師のソクラテスの志を受け継ぎ、学園アカデメイアを創立したのも、四十歳といわれる。
 伸一は、人生の最後の事業と定めた教育への挑戦を、今、この一期生とともに始めたことを思うと、闘志が沸々と込み上げてくるのであった。
 彼は言った。
 「じゃあ、万歳を三唱しよう。
 諸君の将来に対する栄光を祝い、この栄光橋の完成を祝い、創価学園の第一回入学式を祝っての万歳だ!」
 小山田校長が万歳の音頭をとると、若々しい元気な声が続き、武蔵野の空に響き渡った。


語句の解説
 ◎プラトンなど
 プラトン(前四二七年頃〜前三四七年)は、普遍的な真の実在として「イデア」を説いた、古代ギリシャの哲学者。法廷での師の弁論を綴った『ソクラテスの弁明』のほか、対話形式による多数の哲学的・政治的著作を残した。前三八七年頃、アテナイ(アテネ)郊外に設立した学園アカデメイアは、約九百年にわたって存続した。
 ソクラテス(前四七〇年頃〜前三九九年)は古代ギリシャの哲学者。対話により人々に自らの無知を自覚させ、“汝自身を知る”こと、自らの魂を大切にすることを教えた。
 彼を敵視する勢力から告発され、冤罪によって死刑となった。


栄光 二十五

 皆で万歳をしたあと、山本伸一は、栄光橋の階段で、何回かに分かれて、記念撮影をした。
 階段に並んだ中学の新入生を見ながら、伸一は言った。
 「みんな背が高いな」
 生徒の間から、すかさず声が返って来た。
 「普通です。先生が小さいんですよ!」
 副校長の諸谷文孝は、慌てて、その生徒に険しい視線を注いだが、どっと笑いが起こった。
 それが、生徒や父母たちの緊張を和らげた。
 記念撮影は、伸一の提案で、生徒だけでなく、父母とも行われた。
 彼は、ユーモアを交えて語った。
 「どのお子さんも、大変に立派です。
 “トンビが鷹を生んだようだ”なんて、失礼なことを言っていた人もいたんです。でも、私は、そんなことは思っていませんからね」
 笑いが広がった。
 それから伸一は、襟を正して言った。
 「ご子息を創価学園に進学させていただき、まことにありがとうございます。
 皆さんの大切な息子さんは、私が責任をもってお預かりします。
 決して心配することなく、わが子の成長を楽しみにしていてください。一年たったら見違えるようになりますよ」
 やがて、昼食となり、生徒たちは、食堂で祝いの赤飯に舌鼓を打った。
 午後も、伸一は、体育館の横に設置された「青年と鷲」の像の除幕式に臨んだ。
 これは、彼が寄贈したもので、高さは四メートルほどのブロンズ像である。
 紅白の布が取り除かれ、岩の上で大きく羽を広げた鷲と、青年の姿が現れた。気迫にあふれた作品であった。
 好奇心に富んだ目で、像を眺める生徒たちに、伸一は語った。
 「私は、この鷲は“情熱”を表し、若者は“英知”を表しているように思えてならない。
 鷲は、どこまでも力強く、飛んでいく。空飛ぶ者の王です。皆さんも、鷲のように強く、野性的であってください。
 そして、英知を磨き、たくましい信念をもって、理想に向かって飛翔し、日本の、いな、世界の平和のために、尽くしていただきたいんです」


栄光 二十六

 山本伸一の声に、次第に熱がこもっていった。
 「青春時代を生きるうえで大事なことは、自分の弱さに負けたり、引きずられたりしないで、自分に挑戦していくことなんです。
 自分を制し、自分に打ち勝つことが、いっさいに勝利していく要諦であることを、忘れないでください」
 若き純粋なる魂に、真実の人間の道を伝え抜かんと、彼は、自らの生命を燃え上がらせ、真剣勝負で臨んでいた。
 伸一は校長に言った。
 「次は、寮に行きましょう。親元を離れて暮らす寮生を、励ましたいんです」
 寮は、「栄光寮」と名づけられ、西武国分寺線の鷹の台駅に近い、学園のグラウンドの一角にあった。
 寮生は、中学生八十五人、高校生七十七人の合計百六十二人である。
 出身地はさまざまで、南は奄美大島、北は北海道の知床半島など、日本全国から集っていた。
 寮長は、国語科主任の永峰保夫であった。
 彼は東京教育大学を卒業し、熊本の県立高校で教鞭をとってきた、三十代半ばの教師である。
 小柄だが、眉の濃い、凛々しい顔立ちで、人間味にあふれていた。
 寮に着くと、伸一は、永峰の案内で、部屋などを見て回った。
 伸一は、寮担当の教師たちに言った。
 「寮というのは、人間を育み、友情を深めるうえで、非常に大事な環境です。
 先生方は、何かと大変だろうと思いますが、みんな、大切な私の子どもです。
 私に代わって、生活の面も、学習の面も、よく面倒をみてください。お願いします」
 それから彼は、寮の一室で、十人ほどの寮生の代表と懇談した。
 生徒たちは、最初、緊張した顔をしていた。
 伸一は、笑顔で語りかけた。
 「イギリスには、イートン校とか、ラグビー校とか、パブリックスクールと呼ばれる、私立の中等学校がある。
 イギリスの有能な指導者を輩出し続けてきた学校だが、これらは、寄宿制なんです。
 つまり、寮生活を通して、人間を育んできたんです」


栄光 二十七

 山本伸一は、言葉をついだ。
 「今、親元を離れ、寮生活をするのは、寂しいかもしれないけど、そこには、すごい重要な意味がある。
 みんなは、寮生活というのは、自由が少なくていやだなと、感じているかもしれない。
 しかし、自分を鍛え、人間として自立していくうえでも、深い友情を育んでいくうえでも、極めて大事なんだよ。
 創価学園の寮は、伝統あるパブリックスクールの寄宿舎とは違い、今、始まったばかりだ。
 だから、これから、君たちが開拓者となって、伝統をつくり、誉れの歴史をつくるんだ。
 君たちの手で、力を合わせて、この栄光寮を、日本一、世界一の寮にしていってほしい。
 そのためには、まず、先輩は、後輩をかわいがり、後輩は、先輩を尊敬して、仲良くやっていくことです。
 大変だなと思うこともあるかもしれないが、この三年間、あるいは六年間は、将来、黄金のように光り輝く、人生の最高の思い出となる。
 どんなことがあったとしても、歯を食いしばって頑張るんだよ」
 彼は、一人ひとりに視線を注いだ。
 まだ、あどけなさの残る顔をした生徒もいた。いかにも純朴そうな、坊主頭もいた。
 皆、創価学園の創立を聞き、情熱を胸にたぎらせ、故郷を後にして、全国各地から、勇んで集ってくれたのだ。
 そう思うと、伸一は、寮生たちを、力の限り、抱き締めたい思いにかられた。
 彼は、最愛の情を込めて言った。
 「これからは私が、君たちの親代わりだ。みんな、宝のように大事な、私の子どもだよ」
 彼らの頬が紅潮し、目が輝いた。
 ――この日、新しい歴史の扉が開かれ、創価学園の建設の歩みが、晴れやかに開始されたのだ。
 それは、山本伸一にとっても、生涯の事業となる教育という大山への、本格的な登攀の開始であった。
 以来、創価学園のことが、伸一の頭から離れることはなかった。
 折に触れ、さまざまなかたちで、学園生への励ましが続けられた。


栄光 二十八

 山本伸一は、毎月、入学式が行われた八日になると、寮にダンゴやタイ焼きなどを届けた。
 そこには、入学の日の決意を忘れずに、頑張り通してほしいとの願いが込められていた。
 伸一は、入学式から二カ月余が過ぎた六月十四日には、テニスコート開きに出席。
 さらに、三十日にも、プール開きのために、再び学園を訪問した。
 この日は、日曜日であったために、生徒の代表が参加してのプール開きとなった。
 伸一は、ポロシャツ姿で、テープカットをすませた。そして、プールサイドに行き、生徒の輪の中に入っていった。
 競泳が始まると、彼はスタートを告げるピストルの引き金を引いた。
 「ドン!」
 青い水面に、一斉に銀波が躍り、プールサイドに歓声があがった。
 「みんな、頑張れ!」
 伸一も声援を送りながら、若鮎のような生徒の姿を見守っていた。
 さらに彼は、テニスコートで、中学生と汗まみれになってテニスなどに興じた。
 伸一は、生徒たちに、楽しい思い出をつくらせたかった。
 また、一人ひとりのことを、よく知っておきたかった。競技をしながらも、皆に声をかけ、生徒の顔と名前、出身地などを、心に刻みつけるようにして覚えていった。
 顔と名前を知ることこそ、人間と人間の絆を結び、深めていく、第一歩であるからだ。
 体育館の卓球場でも、生徒と試合をした。
 彼は、敏捷な動きで得点を重ねていった。
 伸一のスマッシュが決まるたびに、大きな拍手が起こった。
 「どう、先生のこと、強いと思う?」
 「はい!」
 生徒たちが頷いた。
 「みんなも、勉強でもいいし、スポーツでもいいから、何か一つ、“これは大好きだ”“これだけは誰にも負けない”というものをもつんだよ。それが自信につながっていくからね。
 そして、一つのことで勝てるということは、頑張れば、ほかのことでも強くなれるということなんだ。強くなるには、練習だよ」
 さらに、彼は、「青年と鷲」の像の前で、皆と一緒に記念のカメラに納まった。


栄光 二十九

 写真を撮り終えると、一人の生徒が、意を決したような口調で、山本伸一に言った。
 「先生、ぜひ、また寮に来てください!」
 寮生をまとめる執行部の部長をしている、福岡県出身の田所康之という高校生であった。
 彼は、入学式のあとに伸一が寮に行った時は、十人ほどの代表との懇談となったことから、寮生全員と懇談の機会をもってほしいと、希望し続けていたのである。
 伸一には、この生徒の気持ちがよくわかった。寮の仲間や、後輩たちのことを思う、その心が嬉しかった。
 「今日は、時間がないが、必ず、次回は寮に行きます。約束するよ。
 君たちとは、創価学園で三年間、あるいは六年間、いや、卒業してからも、ずっと一緒だ。だから焦る必要はないよ」
 その言葉に、皆、創立者と自分たちとの、深い絆を感じた。
 このあと伸一は、教師、生徒と一緒に、栄光橋に上った。
 校長の小山田隆が、橋の向こうに広がる、茶畑が残る空き地を指さして言った。
 「ここも整地を進め、来年には、グラウンドとして、使用できるように考えております」
 「来年ですか。生徒たちのために、早く工事をして、二学期に間に合わせることはできないでしょうか」
 「可能だと思います」
 「ぜひ、お願いします。
 常に、どうすれば生徒が、楽しく、明るく、希望に燃えて頑張れるかを考えていくことが、人間教育の源泉なんです。
 また、今日は、生徒たちは本当に嬉しそうだったが、たまには、お祭りのようなことも大事ではないかと思います。
 特に寮生、下宿生たちには、楽しい思い出となる機会を、つくってあげることが必要です。
 そこで、皆が帰省する夏休み前に、寮祭のようなことをやってみてはどうでしょうか」
 「すばらしいですね」
 「では、校長先生の了承をいただいたので、私から発表しますよ」
 「はい」
 伸一は、皆に伝えた。
 「今、校長先生とも話していたのですが、君たちは、毎日、勉強で忙しいだろうから、夏休み前の一日、君たちのお祭りをしよう。寮祭だよ」
 歓声があがった。


栄光 三十

 生徒たちの歓声が静まるのを待って、山本伸一は話を続けた。
 「この寮祭の日は、全員が家に手紙を出すようにしよう。普段、書いていない人も、この日だけは必ず書くんだよ。
 そうすれば、お父さんも、お母さんも、安心するから。それが親孝行になる。
 それから、二学期までには、向こうの土地も整地してグラウンドにします。これが完成すると、グラウンドは、寮の前と二つになります。
 そのグラウンド開きの時には、私も必ずまいります。そこで、また、お会いしましょう」
 
 伸一の提案を受け、一学期の期末試験が終わった翌日の七月十四日夜、寮祭として、寮の前のグラウンドで、ファイアーストームが行われることになった。
 この寮祭は「栄光祭」と名づけられた。
 伸一は、寮祭の一環として、この日、寮生、下宿生を、信濃町の創価文化会館に招き、映画観賞会を開いた。
 久しぶりに映画を見た生徒たちは、ジュースやタオル、消しゴムなど、伸一の心づくしの土産を手に、大喜びで帰っていった。
 夜は、栄光祭のメーンイベントとなるファイアーストームである。
 組み上げた古木に火がつけられると、炎がゴーゴーと天を焦がした。
 歌あり、踊りあり、寸劇あり、仮装ありの、交歓の集いが始まった。
 校長も、寮長も、慣れぬ踊りを披露した。
 皆、生徒のためなら、なんでもしようという気概に燃えていたのだ。それが、学園の教師の伝統となりつつあった。
 理学博士である小山田校長の珍妙な踊りは、生徒たちの爆笑を誘った。
 入学以来、三カ月余。生徒たちはホームシックにかかり、布団をかぶって泣いたこともあった。喧嘩もした。
 しかし、今、ファイアーを囲み、肩組み、声を限りに歌うなかで、誰もが「友」を感じた。「青春」を感じた。そして、学園生であることへの、「歓び」と「誇り」を感じていた。
 
 玉川上水に架かる栄光橋の向こうに、グラウンドが完成したのは、夏休みの終わりであった。


栄光 三十一

 グラウンド開きが行われたのは、九月六日のことであった。
 この日、山本伸一は、風邪をひき、体調を崩していた。発熱し、顔も赤かった。
 しかし、学園生が、自分に会うことを楽しみにし、一生懸命に準備をしてくれていることを思うと、なんとしても、出席しないわけにはいかなかった。
 伸一は、注射を打ってもらい、創価学園に向かったのである。
 彼は、グラウンド開きに先立って、まず、栄光寮を訪問した。プール開きの日に、寮生の代表と交わした約束を、果たすためであった。
 伸一は、寮生たちに言葉をかけながら、一人ひとりの様子に、細心の注意を払っていった。
 そして、少しでも顔色が優れない生徒がいると、「体の調子はどうだい」「夜は、よく眠れているかい」などと、優しく尋ねるのであった。
 彼は、それから、校長たちに、寮の勉強部屋などを案内してもらい、午後三時半からグラウンド開きに臨んだ。
 栄光橋を渡って階段を下りると、「Congratulations」(コングラチュレイションズ=おめでとう)と書かれたゲートが設けられていた。
 伸一は、ゲートに張られたテープに、ハサミを入れた。同時に、栄光橋の上にいたブラスバンドのメンバーが、ファンファーレを奏で、ゲートのくす玉が割れた。
 グラウンド開きが始まった。第一部は、騎馬戦や棒倒しなどの競技大会であった。
 伸一の鳴らすピストルを合図に、元気いっぱいに競技が開始された。
 彼は、競技を観戦している時も、沖縄など、遠方から学園に来た生徒と語り合い、交流に努めた。
 また、この夏、父親を炭鉱の事故で亡くした中学生がいることを聞くと、彼はすぐに、その生徒を呼んでもらった。
 「辛いだろうが、決して負けちゃいけないよ。私が、君のお父さんになってあげるから、安心して勉強しなさい。
 校長にも、君のことは頼んでおくから、困ったことがあれば、校長を通して、私のところに、なんでも言ってきなさい」
 伸一は、懸命に励ましを送った。一瞬一瞬が真剣勝負であった。


栄光 三十二

 競技に続き、ブラスバンドの演奏が終わると、グラウンドの中央に積まれた木材に、火がともされた。
 第二部の、フェスティバルの開幕である。
 合唱に続いて、現代社会の歪みを風刺した寸劇と、学園での教師と生徒の日常を再現した寸劇が上演された。
 劇と劇の間には、数人の生徒が、二十一世紀への決意をうたった詩を発表した。
 フィナーレは、学園寮歌の合唱であった。
 皆が歌い始めた。
 
 一、草木は萌ゆる
    武蔵野の
  花の香かぎし
    鳳雛の
  英知をみがくは
    何のため
  次代の世界を
    担わんと
  未来に羽ばたけ
   たくましく
 
 生徒たちは、頬を紅潮させ、真剣な眼差しで、自身の誓いを託すかのように熱唱していった。
 荘重な調べである。
 山本伸一は、身を乗り出し、目を輝かせて聴き入っていた。
 寮生が、自分たちの手で作詞した歌である。
 彼らが寮歌の制作に着手したのは、四月の下旬のことであった。
 寮生に誇りをもってもらいたいと考えた、寮長の永峰保夫が、寮歌の作成を提案したのだ。
 永峰は、まず寮歌の説明から始めなければならなかった。
 「かつての旧制高等学校には、みんな寮歌があったんだ。
 たとえば一高だ。ここは、後に新制の東大教養学部に合併されるが、この一高には『嗚呼玉杯に花うけて』という、有名な寮歌があった。
 また、京大に併合される三高には、『紅萌ゆる丘の花』という名曲があった。
 どの高等学校の寮歌にも、自分たちが、やがて国を背負い、新しい社会を担っていこうとの意気があふれていた。
 そこで、私たちも、世界の指導者に育つ、鳳雛の心意気を託した寮歌をつくりたいと思うが、どうだろうか」
 寮生たちは頷いた。
 「よし、決まった!
 どの寮歌よりも立派な歌をつくろう。みんな、歌詞を考えて、持ってらっしゃい」


栄光 三十三

 作詞を手がけたことのある生徒など、ほとんどいなかった。
 それでも、旧制高等学校の寮歌を聴いたり、詩集を読みあさったりしながら歌詞を考え、寮長の永峰保夫に提出した。
 全部で、六十編ほどが集まった。
 永峰を中心に、検討会が開かれた。どれも、なかなかの力作である。
 そのなかでも、ひときわ光彩を放つ秀作があった。大倉裕也という大阪出身の高校生の作品であった。
 歌詞は四番からなり、「草木は萌ゆる 武蔵野の……」から始まって、武蔵野の春夏秋冬と、創価の学舎で青春を過ごす意味を、問いと答えによって詠いあげていた。
 一番では「英知をみがくは 何のため」と問い、「次代の世界を 担わんと」と答えが示されている。
 二番には「情熱燃やすは 何のため」「社会の繁栄 つくらんと」、三番には「人を愛すは 何のため」「民に幸せ おくらんと」、四番には「栄光めざすは 何のため」「世界に平和を 築かんと」とある。
 それは、自身の生き方を問い、崇高な目的を確認し、勇んで進みゆかんとする、壮大な気概の歌であった。
 歌詞をつくった大倉裕也は、祖母と兄が熱心な学会員であり、よく聖教新聞に目を通していた。
 そして、創価高校の開校の記事や写真を見て、自分もこの学校で学びたいと、受験を決意し、入学した生徒である。
 ところが、慣れない寮生活で、ホームシックにかかったり、孤独に陥りもした。また、勉強も大変であった。
 そのなかで彼は、自分はなんのために創価高校に進み、なんのために学ぼうとしているのかを、自身に問いかけ続けてきたのだ。
 彼は、その答えを求めて、創立者である山本伸一の指導が載った聖教新聞や、伸一の著作を、むさぼるように読んだ。
 そうして紡ぎ出された自分なりの結論を、寮歌の歌詞に、書きつづっていったのである。
 それは、青春をかけた思索の結晶であった。
 寮歌の検討会では、皆が大倉の歌詞を推した。
 作曲は、学園の音楽の教師である、杉田泰之に頼むことになった。


栄光 三十四

 杉田泰之が、寮長の永峰保夫から寮歌の作曲の依頼を受けたのは、六月半ばのことであった。
 彼は、すぐに作曲に取りかかった。
 鳳雛たちが舞い飛ぶ、二十一世紀の大空に思いを馳せ、学会歌の「世界広布の歌」のような、明るく軽快で、格調の高い歌にしようと、曲づくりを始めた。
 できあがった寮歌の曲を、彼は、ピアノで演奏して生徒たちに聴かせ、感想を求めた。
 自信作であったが、意外なことに、生徒たちには不評であった。
 「歌っていて、力が入らない気がするんです」
 「やっぱり寮歌は、旧制高等学校の寮歌のような感じがいいですよ」
 生徒たちは、曲調は短調の日本的なリズムで、一人で歌っても自分を鼓舞できる、孤高の志を歌うようなイメージの曲を求めているのだと、杉田は思った。
 彼は、再び、全魂を傾けて作曲に挑戦した。
 できた曲をピアノで弾き、テープに吹き込み、寮に持って行った。
 「君たちの要望通りの曲をつくったよ」
 今度は、寮生の評価は高かった。
 「先生、こんな歌がほしかったんですわ」
 「イメージ通りです」
 皆、大喜びである。
 こうして、寮歌「草木は萌ゆる」が完成したのである。
 七月十四日に行われた第一回「栄光祭」では、この歌を皆で合唱した。
 また、寮歌はテープに吹き込まれ、歌詞とともに、山本伸一のもとにも届けられた。
 伸一は、それを、妻の峯子とともに聴いた。
 「いい歌だね。さわやかで、すがすがしい。そして、力強い。二十一世紀に羽ばたかんとする、学園生の心意気がみなぎっている。名曲が完成したね」
 彼は、毎日、このテープを聴き、学園生の未来に思いをめぐらせ、成長を祈念した。
 八月、各部の夏季講習会が行われたが、高等部の講習会の折、創価高校の高等部員たちが、この寮歌を、伸一の前で熱唱した。
 彼は、傍らにいた青年部の幹部に言った。
 「すばらしい歌だろう。作詞をしたのは、学園生なんだよ。私は、この歌が大好きなんだ」


栄光 三十五

 山本伸一は、夏季講習会で創価高校の高等部員が歌う学園寮歌を聴きながら、彼らの一途な開道の心意気に、なんとしても応えたいと思った。
 そのために伸一は、寮歌の五番の歌詞をつくって、贈ろうと考えた。
 八月は夏季講習会が二十三日まで行われ、陣頭指揮をとっていた伸一は多忙を極めていたが、寮歌の五番の作詞に取りかかった。
 四番までの歌詞を何度も読み返しては思索し、五番では友情をうたおうと思った。
 ペンを手にすると、伸一の頭には、泉のように言葉が浮かんだ。
 それを吟味するかのように、推敲を重ね、歌詞を書き記していった。
 
 五、富士が見えるぞ
    武蔵野の
  渓流清き 鳳雛の
  平和をめざすは
    何のため
  輝く友の 道拓く
  未来に羽ばたけ
    君と僕
 
 「輝く友の 道拓く」の個所には、学園生のために命がけで道を開こうと決めた、伸一自身の決意も込められていた。
 この五番の歌詞が、生徒に伝えられたのは、二学期の始業式が行われた九月二日の月曜日のことであった。
 歌詞を聞くと、皆、歓声をあげて喜び合った。
 そして、九月六日のグラウンド開きで、全員で大合唱することになったのである。
 
 グラウンドに組み上げられた古木は、音を立てて燃え盛っていた。
 寮歌を熱唱する生徒たちの顔は紅潮し、その炎よりも赤かった。
 歌は五番に入ると、一段と力強さを増した。
 
 ………… …………
 輝く友の 道拓く
 未来に羽ばたけ
   君と僕
 
 学園生は、「君と僕」の歌詞に、二つの意味を感じ取っていた。
 一つは、「君」は「友」であり、「僕」は「自分」である。そして、もう一つは、「君」が「自分」であり、「僕」は、創立者である「山本伸一」である。
 歌いながら、生徒たちは、伸一が極めて身近な存在に思えた。そして、ともに未来に向かって前進する、共戦の父子の絆を感じるのであった。


栄光 三十六

 学園寮歌の合唱が終わると、山本伸一は、生徒たちに、自分の前に来るように言った。
 そして、喜びにあふれた声で語り始めた。
 「私は、これまで、数多くの会合に出てまいりましたが、これほど気持ちのよい、清らかな集いはありません」
 彼は、こう感想を述べたあと、将来、創価女子中学・高校、創価女子短期大学も開校するが、それら創価の学舎の軸となり、出発点となるのは、どこまでも創価中学・高校であると訴えた。
 「『源遠ければ流れ長し』という哲人の言葉がありますが、ここに集った皆さんの存在こそが、根本であり、源です。
 諸君は、五百人余であり、小さな源かもしれない。しかし、源がすばらしければ、その流れは、永遠に続いていきます。
 私は、創立者として、皆さんのことは、一生涯忘れません。胸の中に叩き込んでおきます。
 このなかから、世界の平和を実現する偉大な指導者が、必ず出ると信じております。
 かつては、旧制高校の寮歌を歌った人たちが、日本の社会をリードしてきました。
 今度は、創価学園の寮歌を歌った人が、次代の指導者に、また二十一世紀のリーダーになっていくことは間違いない。
 学園寮歌が、日本中、世界中の人から愛唱される日も、さほど遠くないと確信しております」
 この寮歌「草木は萌ゆる」は、後年、創価中学・高校の校歌となるのである。
 伸一は、鳳雛たちに、魂を注ぎ込む思いで、話を結んだ。
 「私は諸君がかわいくて仕方ない。
 諸君のためには犠牲にもなる。それが私の根本精神です。
 どうか体を大切にし、うんと鍛えて、人間性豊かな実力主義、健康な英才主義を、さらに証明していく一人ひとりになっていただきたいことをお願いし、今日は、これで失礼します」
 一心に創立者を見つめる生徒たちの目に、涙が光っていた。
 深い決意を胸に、唇を固く結ぶ生徒もいた。
 それは、「平和」と「正義」の理想に生きる、父と子の、師と弟子の、生命と生命の交流のドラマであった。


栄光 三十七

 一学期の終わるころから、教師たちの間では、下宿生への生活面での指導を、どう行うかが課題となっていた。
 教員の目も、各下宿生の生活の詳細にまでは、行き届かなかった。
 下宿生活は、寮生活とは違って自由が多いところから、誘惑もあった。同じ下宿の大学生に、麻雀などによく誘われるという下宿生もいた。
 教師たちは、こうした問題を深刻に受け止めていた。
 しかし、ただ、「あれをするな」「これもするな」というのでは、問題の解決にはならない。
 大事なことは、下宿生一人ひとりが、創価学園生としての自覚を新たにし、自らを律していく強さをもつことである。
 ――そう考えた教師たちは、日常的に、生徒同士が切磋琢磨していくように、下宿生の生徒組織をつくることにした。
 その報告を受けると、山本伸一は言った。
 「大事なことですね。教育の本義は、人間の自立にあると思う。
 したがって、生徒が自分たちで考え、話し合って、自らを律しようという方向にもっていくことこそ、本当の教育といえるでしょう」
 そして、伸一は、栄光の青春を送ってほしいとの願いを込め、この下宿生の組織に、「栄光会」という名を贈った。
 それを聞いた下宿生の心に、誇りが芽生えた。
 九月十五日、寮の集会室で、「栄光会」の結成式が行われた。
 中心者となる執行部の部長には、矢吹好成という、温和だが、芯の強そうな感じの、長身の高校生が就いた。
 彼は、都立高校に一年間通学したあと、学園に入学したため、同級生より一歳年上であった。
 自宅は東京の下町であったが、通学にかなり時間がかかることもあり、一学期の途中から、下宿をしたのである。
 矢吹は、部長就任の抱負を語った。
 「これからは、私たち下宿生は互いに連携を取り合い、交流と友情を深め、成長を競い合っていきたいと思います。
 そして、栄光会の誇りと自覚を胸に、後に続く後輩たちのために、下宿生のよき伝統をつくり上げていく決意ですので、どうか、よろしくお願いします」


栄光 三十八

 矢吹好成のあいさつには、強い決意が込められていた。
 その矢吹の顔を、驚いたように、まじまじと見る生徒もいた。入学当初の彼の姿からは、想像もできなかったからだ。
 矢吹の創価高校への進学は、父親の薫の深い祈りから始まった。
 薫は、学会の理事をしており、創価高校が開校した暁には、ぜひ息子を入学させたいと念願していた。
 創価学園は、山本会長が、世界の平和を願って、全精力を注いで開校する、人間教育の学舎であることを、よく知っていたからだ。
 また、創価学園こそ、創価教育の道を開いた牧口初代会長、戸田第二代会長の遺志の結実であり、三代にわたる師弟の教育の城であることを、痛感していた。
 だが、息子の好成は、既に高校一年であり、学校生活を、楽しみきっている様子である。
 今の学校をやめて、新たに受験して創価高校に入り、自分より一歳下の生徒と机を並べることには、好成は抵抗を感じるにちがいないと思った。
 しかし、薫は、それでも息子を、創価高校に入れたかった。
 第一期生として、学園の建設に生きることは、最高の栄誉であり、かけがえのない青春の思い出になると、薫は確信していたのだ。
 彼は、好成が都立高校に入った時から、翌年の創価高校入学を、懸命に祈り始めた。
 そして、折に触れて、創価高校のすばらしさを語ってきたが、受験せよとは言わなかった。
 自分が言えば、かえって反発するだろうと思えたからだ。
 また、あくまでも、本人の意志で決断させたかったのである。
 だが、夏が過ぎ、秋になり、冬が来ても、好成は、創価高校を受験するとは言わなかった。全く考えたことさえないといった様子であった。
 薫は一計を案じた。好成の家庭教師をしている山原祐介という学生部員から、創価高校に行くように、説得してもらうことにした。
 山原は、家が貧しいなかで、必死に勉強して、東大に合格した勤勉な青年であり、好成も、彼のことを尊敬していたのである。


栄光 三十九

 家庭教師の山原祐介は、矢吹好成に、創価高校の受験を勧めた。
 しかし、好成は、「いまさら、いやですよ」と、一笑に付した。
 父親の薫は、好成の創価高校入学を祈念して、毎日、丑寅勤行をするようになった。
 好成は、なぜ父親が、急に丑寅勤行を始めたのか、わからなかった。
 彼は、父の仕事が行き詰まってしまったのかもしれないと、不安にかられて、母親に事情を聞いてみた。
 「お父さんはね、あなたが創価高校を受験するように、真剣に祈っているのよ」
 好成は、愕然とした。余計なことを考える父にうっとうしさを覚えた。
 家庭教師の山原は、一日置きに家に来て、二階の好成の部屋で勉強を教えながら、創価高校に行くことを、熱心に勧め続けた。
 しかし、好成には、全くその気はなかった。
 出願締め切り日の前日のことであった。
 勉強が終わって、山原が階下に下りていくと、父親の薫が待っていた。
 薫は、心配そうな顔で尋ねた。
 「山原さん、好成は、受験する気になったんだろうか」
 すると、山原は、深々と頭を下げた。
 「すいません。説得できませんでした。本当に申し訳ありません」
 少し遅れて、階下に下りていった好成は、そのやりとりを目にした。
 “どうして、ぼくのことで、あの山原さんが、父に謝らなければならないんだ……”
 好成は、腹立たしかった。また、自分に責任があるような気がして、山原に申し訳なく思った。
 彼は、とっさに、こんな言葉を口にしていた。
 「父さん、ぼくが受験すればいいんだろ! 受けるだけなら受けてもいいよ」
 「そうか!」
 父の顔が輝いた。
 薫は、願書も取り寄せ、すべて周到に準備していた。
 翌日、好成は願書を提出しに行った。創価高校に着いたのは、締め切りの午後四時近かった。
 窓口に出すと、担当者が言った。
 「間に合ってよかったですね。あなたが、最後ですよ」
 窓が閉められた。


栄光 四十

 入学試験の日が来た。
 受験生は、必死になって、答案用紙に鉛筆を走らせていたが、矢吹好成は、あくびを噛み殺しながら、周囲の様子を観察していた。
 彼は、白紙で答案を出すつもりであった。
 “受験したことで、親父との約束は果たしたんだから、何も文句を言われる筋合いはない……”
 そう思いながら、何気なく、試験問題に視線を落とした。
 好成は驚いた。かなりの難問であったからだ。高校生の自分でも、解けるかどうかわからない問題ばかりであった。
 ところが、周りの受験生は、すらすらと、問題を解いているようだ。
 “中三で、こんな問題が解けるなんて、どんなやつらなんだ!”
 彼の胸に、むらむらと闘志が燃え上がった。中三になんか、負けたくないと思った。
 気がついた時には、一心不乱に、問題に取り組んでいた。
 合格発表の日が来た。
 好成は、入学する気はなかったが、結果が知りたくて、発表を見に行くと、合格していた。
 家に帰ると、父の薫は尋ねた。
 「どうだった」
 「受かっていたよ」
 「それじゃあ、創価高校にいくんだろう」
 当然のことのように考えている父親に、好成は反発を感じた。
 「ぼくは、いきませんよ。ただ受けるだけの約束でしたから」
 その言葉を聞いて、父親の顔色が変わった。
 「それはないだろう。お前が受かったために、誰か一人の人が、落ちてしまったんだ。
 その人は、一生懸命に勉強して、題目をあげ、山本先生のつくった学校に入ろうと、夢を抱いて受験したんだ。
 それで、お前が入学しないというのは、その人の人生を、弄んだことになる。お前はその責任を感じるべきだ」
 薫は真剣であった。
 好成は、変な理屈だと思ったが、話を聞いているうちに、入学しないのは、すごく悪いことであるような気がしてきた。
 どこか騙されているような感じもしたが、悩んだ末に、創価高校に入学することにした。
 しかし、彼は、なかなか、学園の雰囲気になじめなかった。


栄光 四十一

 入学式の前々日には、新入生が登校したが、その折、入学式のリハーサルも行われた。
 生徒たちの大多数は、栄えある創価学園の一期生の誇りをもち、自分たちの手で、歴史的な第一回の入学式を荘厳なものにしようと、真剣に取り組んでいた。
 校歌はもとより、全員がそろうようにと、起立したり、着席する練習も繰り返された。
 矢吹好成が通っていた都立高校では、生徒の大半は、入学式をしらけた思いで受け止めていた。
 そうした環境のなかで過ごしてきた矢吹は、むしろ、創価学園に違和感を覚え、隣の生徒に、つぶやくように言った。
 「この学校、ちょっと変だよな」
 すると、その生徒は、驚いた顔で、睨みつけるように矢吹を見た。
 “ついていけないな”と、彼は思った。
 自分たちこそ、二十一世紀を担う、創価学園建設のパイオニアであるとの使命に燃える生徒と、矢吹とは、自覚が全く異なっていた。
 それが、入学式に取り組む、“心の温度差”となり、情熱の違いとなって表れていたのだ。
 学校が始まると、矢吹の違和感は、ますますつのっていった。
 多くの生徒が、希望に燃えてスタートした黄金の学園生活も、彼には色あせて感じられた。
 父親の薫は、そんな好成の心を感じ取り、不安を覚えた。
 通学時間もかかるし、学校をやめると言い出すのではないかとハラハラしていた。
 ――進学など、人生の進路の決定は、当然、本人の意志を最重要視すべきである。本人にその気がないのに、親の意見を押しつければ、早晩、破綻してしまうことになりかねない。
 薫も、そのことは、よくわかっていた。
 だから、好成の創価高校への進学については、本人の考えを尊重しながら、説得にあたってきたつもりであった。
 そして、最終的には、本人が決断したことであり、好成の意志によるものであると思っていた。
 だが、日ごとに元気がなくなっていく息子を見ると、胸が痛んだ。
 薫は、自分にできるのは、題目を送ることしかないと思った。


栄光 四十二

 入学して、二カ月が過ぎたころ、矢吹薫は、息子の好成に尋ねた。
 「家から通学するのは大変かね」
 「うん、結局、片道二時間近くかかるからね」
 「それなら、学校の近くに下宿しなさい。大事な勉強時間が、そんなに取られてしまうのはもったいない」
 薫は、好成が学校の近くに住めば、学校に行かなくなったりすることはないだろうと、考えたのである。
 矢吹好成は下宿生活を始めたが、このころ、彼は学園で、幾つかの“発見”をした。
 それは、教師たちが生徒に、常に情熱をもって「人びとのため」「社会のため」「世界の平和のため」に勉強し、成長していきなさいと、訴えていることであった。
 前の高校では、決して耳にしたことのない言葉であった。
 教師の口から出る言葉は、いつも、「受験」や「偏差値」であった。東大に何人合格させるかだけを、至上目的としているようであった。
 「授業についてこられない者は定時制に行け!」と、定時制を差別するような発言をする教師もいた。
 彼は、そんな教師に反発を覚えた。
 それだけに、創価高校の教師たちに、人間としての誠実さを感じた。
 また、矢吹の下宿の近くに、鹿児島県出身の中学生の下宿生がいた。彼は、その生徒の存在は知っていたが、積極的には関わろうとしなかった。
 ある日、下宿生を担当している教師に、矢吹は、こう指摘された。
 「なぜ君は、中学一年生で親元を離れて生活している彼を、励まそうとしないんだ。
 先輩として、冷たいじゃないか。君のように、後輩の面倒もみようとしない生き方は、人間として恥ではないか!」
 中学でも優等生として過ごしてきた彼は、いつの間にか、成績の向上にばかり夢中になり、他人を思いやる心を忘れていたのだ。
 自分の利己主義的な面に、初めて気づかされた出来事であった。
 彼は、叱られながら、教師の言っていることは正しいと思った。また、そこまで言ってくれる教師のいる学校は、すばらしいと思った。


栄光 四十三

 もう一つ、矢吹好成の心を大きく変えていったのは、必死になって学園生を激励する、創立者の山本伸一の姿に触れたことであった。
 彼は父親から、創価学会の会長である伸一が、いかに多忙を極めているかを聞かされてきた。
 その山本会長が、寸暇を見つけて、学園に来ては、生徒の輪のなかに入り、直接、声をかける。時には、生徒とテニスや卓球をしながら……。
 球を打ち損なうと、おどけたり、地団駄を踏んだりする。決して偉ぶることなく、生徒と同じことをし、生徒の目線で話しかけてくる。
 また、一人ひとりの健康や生活を心配し、悩みを聞き、生命を振り絞るようにして、激励を重ねている。
 さらに、矢吹は、伸一の周到な気遣いにも、感嘆した。
 下宿先の主人に、担当の教師を通し、「生徒がお世話になります」という伝言とともに、心づくしの品が届けられていることを知ったからだ。
 彼は、伸一の慈愛ともいうべき思いと、生徒への期待を実感した。
 人間として、それに応えたいと考えるようになっていった。
 いつしか彼は、学園が好きになっていた。学園のために、何かしたいと思った。
 そして、矢吹は、下宿生の生徒組織である栄光会の発足にあたり、執行部の部長を引き受けたのである。
 
 栄光会の結成式で、矢吹は、「生涯精進、生涯勉強、生涯努力、生涯建設」という、下宿生のモットーを発表した。
 これは、伸一の「若き日の日記」の一節からとったもので、提案者は矢吹であった。
 そこには、若き日の伸一が、下宿生活をしながら栄光の青春を生きたように、自分たちも人生の飛翔のために悔いなき青春を送ろうという、誓いが込められていた。
 執行部の部長となった矢吹は、率先して、自ら皆の下宿を回り始めた。
 互いに励まし合い、固い友情に結ばれた、下宿生の連帯を築こうと必死であった。
 やがて、下宿生の団結も生まれ、皆の心に、栄光会のメンバーとしての誇りと自覚が、育まれていったのである。


栄光 四十四

 山本伸一は、成績が伸び悩んでいる生徒のことも、気がかりでならなかった。
 教師たちは、次代のリーダーにふさわしい力をつけさせようと真剣であり、授業の速度も速く、学習量も多かった。
 それだけに、授業についていけずに、悩んでいる生徒がいるのではないかと、伸一は心配した。
 そして、校長の小山田隆と相談し、二学年への進級が危ぶまれる、三十人ほどの高校生と会って、励ますことにした。
 二学期の期末試験を終えた十二月下旬、彼は学園を訪問し、学園の理事長の森川一正と一緒に、生徒と面談した。
 生徒たちは、教師から「山本先生が、成績不振者に会われる」と聞かされていたせいか、ばつが悪そうな顔で、部屋に入って来た。
 伸一は、生徒を、笑顔で迎えた。
 「緊張する必要はないよ。叱るために会ったんじゃないからね。ぼくは、君たちを勇気づけたいだけなんだ」
 そして、それぞれの生徒に、悩んでいることはないか、体調はどうか、通学時間はどのぐらいかかるのか、家庭の状況はどうかなどを、丹念に尋ねていった。
 伸一は、何か問題があれば、相談にのり、助言し、できる限りの応援をしたかった。
 また、勉強以外にも、生徒一人ひとりがもっている、さまざまな可能性を引き出す機会にしたかったのである。
 語らいのなかで、多くの生徒たちは、その伸一の心を感じ取っていったようだ。
 「先生。勉強、頑張ります!」と、自ら誓う生徒もいた。
 それを聞いた伸一は、にっこりと頷き、包み込むように言った。
 「そうだ。そうだよ。頑張るんだ。一ミリでも、二ミリでもいい。決してあきらめずに努力して、前進していくことが大事だよ」
 また、「成績が悪かったからといって、卑屈になってはいけない。今度こそ、今度こそと、挑戦していくんだよ」「得意科目をつくろう」「自分に負けてはいけない」など、一人ひとりに、渾身の激励を重ねた。
 来た時は、暗い顔をしていた生徒たちが、帰りには、風呂上がりのように、さっぱりと、紅潮した顔をしていた。


栄光 四十五

 生徒を激励する山本伸一の姿を見て、最も驚いたのは、教師たちであった。
 “山本先生は、成績の良い生徒にではなく、成績の悪い生徒と会って、激励してくださった。
 どんなに成績の悪い子も優秀にしてみせる――というのが、創価教育の精神ではないか。私たちこそ、頑張ろう”
 伸一の面談は、生徒にとっても、教師にとっても、大いなる発奮の起爆剤となった。
 後年、その生徒たちのなかから、大学教授も出ることになる。
 伸一は、この日も寮を訪問し、寮生と会食。皆の近況を聞きながら、激励を続けた。
 さらに、外に出て、星を仰ぎながら、寮生の歌う寮歌に耳を傾け、交流のひと時をもった。
 
 二学期の終業式の前夜、寮生の帰省を前に、寮では“お別れ会”が開かれた。
 二週間足らずの冬休みだが、寮生の多くは、別れを惜しんで涙ぐんだ。
 固い、固い友情に結ばれた彼らは、仲間と別れて、帰省するのが寂しいのである。
 また、一人の寮生は、寮担当の教師に、こう語るのであった。
 「ぼくは、最初はホームシックにかかり、家に帰りたくて泣いてばかりいましたが、今は最高の青春を送っていると思っています。
 郷里に帰ったら、後輩たちに、創価学園で体験した感動を語り、ぼくよりも、何倍も優秀な受験生を、たくさん連れて来ます。
 だから、ぼくは“帰る”のではなく、学園生として“派遣される”と思っているんです」
 まさに、学園建設のパイオニアとしての自覚と責任が、皆の胸に、しっかりと培われていたのである。
 
 第二期生の入学試験が実施されたのは、翌年の二月であった。
 試験当日の役員を募ると、寮の高校生全員が、異口同音に「やらせてください」と、強く希望したのである。
 駅から学校までの道案内をはじめ、連絡係や救護係など、生徒たちは大奮闘した。
 そのさわやかな、はつらつとした姿に接した受験生たちは、合格したいとの思いを、ますます強くするのであった。


栄光 四十六

 二期生の入試では、こんなこともあった。
 整理役員となった寮生の一人が、寮の黒板に、受験生の姿を見た心境を和歌にして書いた。
 「ひととせを 胸に刻みし 新たなる 二期生ならん 子等をみつめて」
 翌日、中学の第一次の合格発表が行われ、合格した受験生の母親が、寮の見学に来て、この黒板の和歌を見た。
 その母親は、合格した息子に代わって返歌を詠み、黒板に記した。
 「縁ありて 兄弟の契り 結ばんに 導き給え いたらぬわれを」
 寮生たちは、返歌を認めたのが母親であることを知ると、息子を送り出す親にとっては、先輩となる自分たちが、最大の頼りなのだと思った。
 そして、先輩としての責任の重さを感じ、自覚と決意を新たにするのであった。
 この入学試験で、中学二百五人、高校三百十五人が難関を突破した。
 
 山本伸一は、開校二年目もまた、足繁く、学園を訪問した。
 四月の二日には、創価大学の起工式が、東京・八王子の建設予定地で行われたが、式典が終了するや、直ちに学園を訪れたのである。大学の建設を、学園生とともに喜び合いたかったからだ。
 二期生の入学式が行われた四月八日にも、彼は学園を訪問した。
 式典を終えた新入生と記念撮影したあと、体操着に着替えて、体育館での、一期生の進級祝いの球技大会に参加。
 終了後には、伸一が、手ずから汁粉をよそって、生徒たちに振る舞う光景も見られた。
 また、この日、開校一年の学園の歩みを後世に残すために、校史を発刊することを提案した。
 その四日後、彼は、生徒と教師の代表二十人ほどを、都内のホテルに招き、中華料理をご馳走しながら、校史の打ち合わせを行った。
 伸一が生徒たちとホテルで食事をしたのは、やがて世界の指導者に育つ鳳雛たちに、食事のマナーを教えておきたかったからである。
 メンバーのなかに、五カ月前に癌で母親を亡くした、加賀雄輔という中学二年生の生徒がいた。
 校長から、その報告を聞いた伸一は思った。
 “十三歳の少年にとって、母親の死ほど、大きな悲しみはあるまい”


栄光 四十七

 山本伸一は、加賀雄輔を傍らに呼んだ。
 「お母さんを亡くされたんだね」
 「はい……」
 そう答えると、加賀の瞳は、見る見る涙で潤んでいった。
 「山本先生のもとに行きなさい」と、創価中学の受験を勧めてくれ、入学式の時には、目頭を拭いながら、満面に笑みを浮かべていた母である。
 「お母さん」という言葉を聞くだけで、少年は涙が込み上げてくるのである。
 伸一は言った。
 「お母さんが亡くなっても、悲しまないで、学校がお母さんなんだと思って頑張りなさい。
 人生には、必ず、越えなければならない山がある。それが、早いか、遅いかだけなんだ。
 深い悲しみをかかえ、大きな悩みに苦しみながら、それに打ち勝ってこそ、偉大な人になれるんだ。偉人は、みんな、そうだ。
 だから、君も、絶対に負けずに頑張るんだ。
 学園建設の一年の記録は、君の人生の記録でもある。お母さんへの感謝と誓いを込めて、一緒に本をつくろうよ」
 頷く少年の瞳が、決意に光った。それは凛々しい若武者の顔であった。
 
 五月十一日には、伸一が出席して、校史の第一回の編集会議が開かれた。二十人ほどの会議であった。
 青年時代に、戸田城聖の経営する出版社で、少年雑誌の編集長を務めた彼は、この機会に、編集の在り方や醍醐味を教えたかったのである。
 語らいは弾んだ。生徒の質問を受けながら、伸一の話は、文学や読書にも及んだ。それは、創立者の楽しき“特別講座”の観を呈していた。
 校史には、伸一も「発刊によせる」を寄稿することになった。
 六月十五日に行われた編集会議にも、伸一は顔を出した。
 この時、校史のタイトルが『創価学園 建設の一年』と、決定したのである。
 それから六日後の二十一日にも、突然、伸一は学園を訪れた。
 そして、校史の校正作業にあたるメンバーの作業室をのぞき、ともにゲラを見ながら、校正の力を培うことの大切さを語ったのである。


栄光 四十八

 山本伸一が創価学園への訪問を重ねていた、ある日の朝、彼に、妻の峯子が言った。
 「あなた、今日は、学園に行かれるんですね」
 この日、峯子には、まだ、その予定を伝えていないはずであった。
 「どうして、わかったんだい」
 「そりゃあ、わかりますよ。学園に行かれる日は、朝から楽しそうにしていらして、いつもと違いますもの」
 伸一は、確かに、そうかもしれないと思った。
 学園生は、彼が、その成長を最大の生きがいとし、人生のすべてを注いで、慈しみ、育てようとしている人たちである。
 学園生と会えると思うと、楽しみで、喜びが込み上げてくるからだ。
 
 一学期の期末試験を終えた七月十七日、第二回の栄光祭が開催された。
 前年に、寮祭として始まった栄光祭であったが、この年から、全校生徒が参加する学校行事として、行われることになったのである。
 この前日には、アメリカの宇宙船「アポロ11号」が、人類初の月面着陸をめざして、宇宙に飛び立っていた。
 伸一は鳳雛たちの未来に思いを馳せながら、午後五時前、学園に到着した。
 「遂に、できました」
 出迎えた教師の一人が、彼に数冊の本を差し出した。校史『創価学園 建設の一年』である。
 伸一は、本を手にとって、ページをめくると、笑みを浮かべた。
 「立派な本ができたね」
 それから彼は、会場のグラウンドに向かった。
 栄光祭のテーマは「栄光の青春」であった。
 十二年前の七月、伸一は、創価学会という民衆勢力の台頭を恐れた国家権力によって、不当逮捕され、投獄された。
 そして、獄中闘争を続け、生涯、権力の魔性と戦い抜き、民衆の勝利のために挺身し抜くことを誓った彼が、出獄した日が、この七月の十七日であった。
 伸一は、ここに集った学園生が、自分の志を受け継ぎ、民衆の勝利のために戦う指導者に育ってほしかった。いな、そうなってくれることを、確信していた。
 グラウンドの中央には、舞台が特設され、その後ろのパネルには、力強く羽ばたく鷲が描かれていた。


栄光 四十九

 山本伸一がグラウンドの席に着くと、栄光祭は開幕となった。
 第一部は、民謡大会である。
 学園には、全国各地の出身者がいることから、「阿波踊り」に始まり、「北海盆唄」「ちゃっきり節」「鹿児島おはら節」などの歌や踊りが次々と披露された。
 第二部では、フォークソングの演奏、パントマイム、創作劇などが、参加者を沸かせた。
 フィナーレでは、この日のためにつくられた、「栄光祭音頭」を生徒全員で踊り、学園寮歌「草木は萌ゆる」の合唱となった。
 どの演目にも、工夫が凝らされていた。英知があふれていた。力強さがあり、青春の情熱がみなぎっていた。
 開校から一年三カ月余り――生徒たちが、たくましく大きな成長を遂げていることが、伸一は何よりも嬉しかった。
 寮歌を歌い終わると、生徒たちは、伸一の周りに集まってきた。
 彼は語り始めた。
 「どうもありがとう!
 私の本命は、つまり人生の根本の総仕上げは、二十一世紀に誇る指導者をつくることです。
 その方法は、教育しかありません。その教育に全魂を打ち込んでいくことが、私のこれからの最大の仕事となります。
 したがって、私は、学園の創立者として、諸君が偉大な大樹になってもらいたいと、常に、心から念願しております。
 どうか、しっかり、頑張っていただきたい」
 「はい!」
 元気な鳳雛の声が、こだました。
 武蔵野の空を、夕闇が包み始めていた。
 千人を超す生徒が皆、瞳を輝かせ、真剣な顔で、伸一の話に、一心に耳を傾けていた。
 「諸君こそ、二十一世紀の人生を生きる、二十一世紀の指導者です。
 二十一世紀まで約三十年、諸君はその時、四十代です。私は、今四十一歳になりました。これからの十年間、また、十五年間が働き盛りです。
 諸君は、今の私と、ほぼ同じ年代に、二十一世紀を迎えることになる。まさに、働き盛りで、新世紀を迎えることになるんです」
 伸一は、未来を仰ぎ見るように、空の彼方に視線を向けた。


栄光 五十

 山本伸一は、言葉をついだ。
 「二十一世紀の初めには、この一期生、二期生から、社長や重役、ジャーナリスト、あるいは、科学者、芸術家、医師など、あらゆる世界で、立派に活躍する人がたくさん出ていると、私は信じます。
 また、ある人は、庶民の指導者として、地味ではあるが、輝く人生を生きているかもしれない。
 その二十一世紀に入った二〇〇一年の七月十七日に、ここにいる先生方と、千人の先駆の創価学園生全員が、集い合おうではないか」
 「はい!」
 誓いのこもった声が、夕空に舞った。
 伸一は、さらに、人生には、さまざまな試練や苦労があるだろうが、すべて、指導者としての訓練と受け止めて克服してほしいと訴え、再び、呼びかけた。
 「その一つの決勝点として、西暦二〇〇一年をめざそう。一人も負けてはいけないよ。健康で、世界に輝く存在として集まっていただきたい。
 獅子から育った子は、全部、獅子です。
 この創価学園から育った人は、皆、栄光輝く使命を担った存在です。
 人生の栄光とは、どんな立場であれ、わが使命に生き抜くなかにある。
 根本的には、社会的な地位や役職が高いとか低いとか、富貴であるかないかなどは、問題ではない。人間として、どう輝くかです。
 私も、二〇〇一年を楽しみにして、諸君のために道を開き、陰ながら諸君を見守っていきます。
 それが、私の最大の喜びであるし、私の人生です。
 そういうつもりでおりますから、どうか思う存分に、それぞれの人生を、堂々と闊歩していっていただきたい」
 伸一は、この日、生徒たちが退場するまで、手を振って見送った。
 彼らは二〇〇一年に集おうと言われても、実感はわかなかった。
 ただ、二十一世紀の世界平和を担う人材を、命がけで育てようとする、創立者の心は、痛いほどわかった。その心に、なんとしても応えようと思った。
 栄光祭は、鳳雛たちの二十一世紀への旅立ちの舞台となり、人生の誓いの場となったのである。


栄光 五十一

 山本伸一は、学園生の未来の大成のために、全魂を傾け続けた。
 この年の夏休みには、教師、生徒の代表に、アメリカ旅行を体験させている。生徒の世界性を育む道を開こうとしていたのである。
 彼は、その後も、幾たびとなく、学園への訪問を重ねた。“ヨーロッパ統合の父”クーデンホーフ・カレルギー伯爵をはじめ、世界の識者を案内することもあった。
 句会を提案し、生徒たちと、句を詠んだこともあった。
 臨海学校や林間学校の折には、ともに泳ぎ、一緒に魚を追ったこともあった。
 自ら湯加減を調整し、生徒たちを風呂に入れたり、夜、生徒の部屋を見て回り、風邪をひかないように、そっと布団をかけたこともあった。
 伸一は、固く心に決めていた。
 たとえ、学園生が人生につまずくことがあったとしても、自分は、生涯、励まし、見守り続けていこう――と。
 創価学園の三十余年の歴史のなかには、問題を起こして、やむなく退学となった生徒もいた。
 そんな時、伸一は、その生徒のために、深い祈りを捧げ続けた。
 ある年の秋、学園を訪問した伸一は、中学三年生の寮生の二人が、不祥事を起こして退学処分となり、郷里の大阪に帰るとの報告を聞いた。
 彼は、早速、二階の寮生の部屋を借りて、彼らに会うことにした。
 部屋に来た二人は、伸一の前に、かしこまって座った。膝が触れ合うぐらいの距離である。
 伸一は、できることなら、退学という事態は回避したかったが、規則は規則である。
 また、既に学校が決定したことを、覆すわけにはいかなかった。
 伸一は二人を見た。
 彼らは、きまり悪そうに目を伏せた。
 入学した時は、瞳を輝かせ、希望に胸を膨らませていたはずである。しかし、今、学業半ばで学園を去っていくのだと思うと、残念で、かわいそうで仕方なかった。
 また、親の悲しみは、どれほど深いかを考えると、胸が張り裂けるような思いがした。
 “この二人を、不幸にはしたくない。生涯、私は見守っていこう”


栄光 五十二

 山本伸一は、退学になって大阪に帰る二人に、全生命を注ぎ込む思いで言った。
 「私は、何があろうが、いつまでも、君たちの味方だよ。
 私が大阪に行った時に、二人そろって、会いにいらっしゃい。何がなんでも、絶対に会いに来るんだよ。いいね」
 伸一は、彼らの成長を真剣に祈り念じながら、見送った。
 それから、二年ほどしたころ、大阪を訪問していた伸一を訪ねて、二人は関西文化会館に来た。
 といっても、伸一との約束を聞いていた家族に促されて、やって来たのである。
 二人とも革のジャンパーを着て、一人は髪をリーゼントにしていた。ロックンローラーのような格好で現れた彼らに、面食らったのは、会館の受付のメンバーであった。
 二人が取り次いでもらうには、詳細に、事情を説明しなければならなかった。
 伸一は、彼らが約束を守り、自分を訪ねて来たことが、何よりも嬉しかった。
 「よく来た。本当に、よく来たね!」
 文化会館の事務所の前で、懇談が始まった。
 二人は、今は地元の大阪の高校に通っているという。
 伸一は、彼らが、どんな進路を選ぶのかが、気がかりでならなかった。
 「大学はどうするの」
 「英語が、わからへんから行けませんわ。働きます」
 「しかし、大阪弁がそれだけしゃべれるんだから、英語だって、やればできるだろう」
 その言葉に、彼らの心も和んだようであった。
 「先生。全然、ちゃいますよ」
 「そうか」
 二人の顔に、屈託のない微笑が浮かんだ。
 「まぁ、大学に行くことだけが、人生ではないからな。自分の決めた道で勝てばいいんだよ」
 そう言うと伸一は、自分の原稿料から、そっと小遣いを渡した。
 「君たちに会えて、よかった。
 また、会おう。必ず会いに来るんだよ。
 それから、お母さん、お父さんを大切にね」
 「はい!」と、笑顔で頷く二人の顔が、伸一には、限りなくかわいらしく感じられた。


栄光 五十三

 中退した二人は、その後も約束を守り、山本伸一が大阪を訪問すると、彼に会いに来た。
 伸一は、そのつど、温かく彼らを迎えた。
 出会いを重ねるにつれて、二人の表情は明るくなり、生き生きとしてくるのが、伸一にもよくわかった。
 高校を卒業した彼らは、やがて、二人とも地下鉄の運転士となる。
 そして、職場に信頼の輪を広げるとともに、地域にあっては、学会の男子部のリーダーとして、活躍していくことになるのである。
 伸一にとっては、退学することになった生徒も、すべてが学園生であった。皆、かわいい、わが子であった。
 伸一の学園生への激励は、在学中はもとより、卒業後も、折に触れて続けられた。
 たとえば、下宿生の中心者となった、あの矢吹好成にも、さまざまな機会に、励ましを送り続けていった。
 矢吹は、その後、創価学園の諸行事の運営に、自ら積極的に携わるようになり、高校卒業後は、その年(一九七一年)に開学した創価大学の経済学部に進学した。
 ここでも、第一期生として大学建設に全力で取り組んだ。
 そして、彼は、七五年(昭和五十年)に創価大学を卒業すると、アメリカのミネソタ州のグスタフ・アドルフ大学に留学した。
 渡米してしばらくは、緊張感もあったが、すべてが珍しく、楽しい留学生活であった。
 また、日本の友人たちからも、近況を伝える便りがたくさん届いた。
 しかし、秋になり、冬が近づくころになると、ほとんど手紙も来なくなった。ミネソタの冬は寒く、真冬には、氷点下二〇度から三〇度にもなる日がある。
 英語は、なかなか上達しなかった。授業も難しかった。
 矢吹は、迫り来る冬に追い詰められるように、焦りに苛まれていった。
 現地には、相談できる先輩もいなかった。孤独がつのった。
 日本にいる友人たちのなかには、社会で目覚ましい活躍をしている人も少なくなかった。
 それを思うと、自分だけが、取り残されたような気がするのである。


栄光 五十四

 寒さは、日ごとに厳しさを増してきた。
 矢吹好成は、いつものように、大学の構内にある自分用のメールボックス(郵便箱)を見た。
 日本からの手紙など、途絶えて久しかったが、授業が終わると、条件反射的に、ほのかな期待を込めて、メールボックスをのぞくのである。
 それは、何もないことを確認し、空しさを噛み締めるための、日課のようでもあった。
 だが、その日は、一通の手紙が届いていた。
 手に取って、差出人を見た。英文タイプで、シンイチ・ヤマモトと、打たれていた。
 “まさか、山本先生から、直接、手紙が来ることはないだろう”
 そう思いながらも、高鳴る胸の鼓動を感じながら、急いで封を切った。
 便箋に、青いインクで書かれた文字が、目に飛び込んできた。
 見覚えのある、山本伸一の字であった。
 夢中で、便箋に目を走らせた。
 「矢吹君に。
 君よ、わが弟子なれば、今日も、三十年先のために、断じて戦い進め。
 君の後にも、多くのわが弟子たちの、陸続と進みゆくことを、忘れないでいてくれ給え。
 君には、多大なる責任と使命があるのだ。その為に犠牲になったとしても、後輩の道だけは、堂々と切り開くことだ。
 祈る、健康と成長。
    伸一」
 涙で文字がかすんだ。
 矢吹は、手紙を手にしたまま、しばらく立ちつくしていた。
 “ぼくは、遠く離れたアメリカで、ひとり取り残されたように感じていた。だが、それは、自分がそう感じていただけだった。
 先生は何も変わっていなかった。いつも、ぼくのことを考えてくださっていたんだ”
 涙を拭うと、矢吹は、再び手紙を読み返した。
 生命に焼き付けるかのように、何度も、何度も、読み返した。
 “そうだ。先生のおっしゃる通り、何千人、何万人と続く、学園生、創大生のために、今、自分はここにいるんだ!
 負けるものか!”
 こう誓った時、彼は、胸に、ふつふつと勇気がたぎり、全身にエネルギーがみなぎってくるのを覚えた。


栄光 五十五

 山本伸一は、その後も矢吹好成が帰国した時や、自身がアメリカを訪問した折などに、彼と会っては激励した。
 「将来は、アメリカに創価大学をつくるから、その時のために、しっかり勉強して、博士号を取るんだよ」
 まだ、日本の創価大学自体が、完全に軌道に乗ったとはいえない時期である。アメリカ創価大学の建設など、誰もが、夢のまた夢と考えていたにちがいない。
 しかし、矢吹は、それを、やがて来る現実であるととらえ、懸命に勉学に励み、九年間の留学生活の末に、ワシントン州立大学で、博士号を取得したのである。
 山本伸一は、生徒の幸福と栄光の未来を考え、一人ひとりを大切にする心こそが、創価教育の原点であり、精神であると考えていた。
 国家のための教育でもない。企業のための教育でもない。教団のための教育でもない。本人自身の、そして社会の、自他ともの幸福と、人類の平和のための教育こそ、創価教育の目的である。
 その精神のもと、一九七一年(昭和四十六年)、東京・八王子市に創価大学が開学したのをはじめ、創価の一貫教育は着々と整えられていった。
 七三年(同四十八年)には、大阪の交野市に創価女子中学・高校が開校。七六年(同五十一年)には、北海道の札幌市に札幌創価幼稚園がオープンした。
 七八年(同五十三年)には、小平市に東京創価小学校が開校となった。
 また、創価中学・高校では、八二年(同五十七年)度から女子生徒を受け入れ、男子校から男女共学に移行している。
 一方、創価女子中学・高校も、この年、男女共学となり、名称も関西創価中学・高校に変更。大阪の枚方市には、関西創価小学校が開校した。
 さらに、八五年(同六十年)には、創価大学構内に創価女子短期大学が開学したのである。
 創価教育の学舎は世界にも広がり、幼児教育では、九二年(平成四年)に香港、翌年はシンガポール、九五年(同七年)にはマレーシアに、創価幼稚園がオープン。
 そして、二〇〇一年(同十三年)には、ブラジルにも創価幼稚園が開園した。


栄光 五十六

 アメリカにあっては、一九八七年二月、アメリカ創価大学のロサンゼルス・キャンパスがオープンし、九四年九月から大学院がスタートした。
 そして、新世紀開幕の二〇〇一年の五月三日には、オレンジ郡キャンパスが開学。
 「生命ルネサンスの哲学者」「平和連帯の世界市民」「地球文明のパイオニア」の育成をめざして、アメリカ創価大学が本格的に始動したのだ。
 この新しい出発に際して、学長に就任したのは創価学園出身の、あの矢吹好成であった。
 創価学園生は、第二回栄光祭(一九六九年)で山本伸一が提案した、“二〇〇一年の再会”を目標に、それぞれの使命の道をひた走って来た。
 そして、二〇〇一年九月十六日、創価学園二十一世紀大会が開催され、一、二期生はもとより、十八期生までの代表約三千二百人が、日本全国、さらに世界十六カ国・地域から母校に帰って来たのである。
 開校から三十三年余。青春の学舎から旅立った学園生たちは、「世界に輝く存在」となり、創価教育原点の地に立った。
 卒業生からは、百四十人の医師が、百十一人の博士が、六十人の弁護士など法曹関係者が、六十人の公認会計士が、四百六十二人の小・中・高の教員が誕生していた。会社社長、ジャーナリスト、政治家もいた。
 伸一は、体育館の壇上から、誓いを果たして栄光の大鵬となって集い来った鳳雛たちに、合掌する思いで視線を注いだ。
 わが後継の大鵬たちの顔 を、心に焼きつけておきたかったのである。
 式典には、サハ共和国の賓客、また創価教育に共鳴してインドに創立された、彼の名を冠する女子大学の一行など、海外の多くの友も祝福に駆けつけ、まさに世界市民の同窓会となった。
 この日、伸一は、創価教育七十五周年にあたる二〇〇五年の再会を約し合いつつ、万感の思いで詠んだ。
 
 偉大なる
 成長歓び
  喝采を
 我も挙げなむ
  君たち勝ちたり
 
(第十二巻終了)