愛郷 一
寄せ返す波浪は、やがて、岩をも打ち砕く。
そうだ。間断なき出発だ! 間断なき前進だ! 連続闘争だ!――そこにこそ、人生と広布の大勝利の道がある。
一九六七年(昭和四十二年)の五月二十九日に、アメリカ、ヨーロッパの旅から帰国した山本伸一は、休む間もなく、大阪や滋賀県の彦根など、国内の同志の激励に奔走した。
そして、六月の二十三日には、長野県の松代に向かった。
松代では、二年ほど前から群発地震が続き、人びとは、不安と恐怖のなかに、日を送ってきたのである。
伸一は、“一日も早く松代に行き、同志を励ましたい”と念願してきたが、日程の調整がつかず、ようやく、この日の訪問となったのだ。
引き続いて、翌二十四日には、松本市で長野総合本部の班長、班担当員との記念撮影を行うことになっていた。
松代は、長野市南東部に位置する、千曲川沿いの町で、真田十万石の城下町として栄え、江戸末期の学者・佐久間象山を生んだ地でもある。
武田信玄と上杉謙信が戦った、川中島の古戦場も近い。
また、第二次大戦の末期には、ここに大本営を移転する計画が極秘裏に進められ、三つの山をくりぬいた、総延長十数キロメートルにわたる、大地下壕が造られたことでも有名である。
その松代で、群発地震が始まったのは、六五年(同四十年)の八月三日のことであった。
夏の太陽が照りつけるなか、人びとは、時折、「ドン」という、爆発音のような音が響くのを耳にした。
その音を、最初は林道工事の発破の音だと思い、誰も取り立てて気にはとめなかった。
しかし、この音と、この日、観測された三回の無感地震こそ、その後、数年にわたって住民を苦しめ続けることになる、松代地震の始まりであったのだ。
震源は松代の東側にある、皆神山を中心とする半径五キロメートル以内の地域とされた。
松代には、大本営に予定していた場所に、戦後、地震観測所が設置されていたのである。
語句の解説
◎佐久間象山
一八一一〜六四年。幕末期に、蘭学や砲術など、西洋の学問と技術導入に尽力。門下の吉田松陰の米国への密航失敗に連座して、松代に九年間蟄居させられる。赦免後も開国のために奔走するが、京都で暗殺された。
◎武田信玄
一五二一〜七三年。甲斐国を本拠に活躍した戦国時代の武将。優れた軍略家として知られ、「信玄家法」を制定。鉱山開発や治水にも業績をあげた。
◎上杉謙信
一五三〇〜七八年。越後を本拠とした戦国時代の武将。春日山城主として越後をまとめ、信濃方面に進出した武田信玄と対決し、数回にわたって川中島付近で合戦した。
◎大本営
明治以降、戦時または事変の際に設置され、天皇に直属した、陸海軍の最高統帥部。第二次大戦後廃止。
愛郷 二
松代地震観測所では、一九六五年(昭和四十年)八月一日に、世界百二十五カ所に設置が進められていた国際標準地震計と、地盤の伸縮を観測する、ひずみ地震計の二台が機能し始めた。
なんと、その二日後から、地震が始まったのである。
八月半ばになると、夜間に空が、蛍光灯のように光る、発光現象が観察されるようになった。
八月二十日、観測所は比較的小さな地震が同一地域に頻発する群発地震が起こっていることを、気象庁に報告した。
二十日までの地震は、二千二百八十八回だが、ほとんどが無感地震で、人が揺れを感じる有感地震は三十八回であった。
しかも、有感地震といっても、屋内でわずかな人が揺れを感じる程度の震度一が三十七回、つり下げられた電灯などが少し揺れる程度の震度二が一回であったことから、地震に気づかない人も多かった。
観測所は、二十四日には町役場等に地震状況を説明。新聞各紙も地震についての報道を行うようになり、住民の地震への関心は、次第に高まっていったのである。
八月の二十八日、学会では、東京・台東体育館で本部幹部会を開催しているが、この席上、長野第二本部に、松代一帯を活動の舞台に含む、川中島支部が誕生した。
メンバーは、支部結成の喜びのなか、地域の安穏と繁栄を願い、はつらつと前進を開始した。
わが地域に、友情と信頼の輪を広げよう! 人間共和の園をつくろう!――それが、同志の誓いであった。
九月二日、松代町では、有線放送を使って、全町民に地震の現況を報告。十日には、「地震情報と災害時の心構え」を印刷し、全戸に配布している。
学校でも、教師の合図で、座布団を頭にのせたり、机の下に潜り込むなど、避難訓練が行われるようになった。
地震活動は、九月に入ると、日ごとに活発化し、この一カ月で、無感地震は八千五百三十九回を、有感地震の震度一が百八十七回、震度二が十八回を数えるに至った。
“これは、大地震の前触れではないか……”
それまで、楽観的であった人たちも、強い不安をいだくようになっていった。
愛郷 三
十月一日、松代地震観測所では、初めて震度三の地震を記録した。
家屋が揺れ、戸や障子がガタガタと鳴動した。
また、この日、有感、無感合わせて、五百七十三回の地震があり、そのうち有感地震は、十八回に及んだ。
六日、長野地方気象台と松代地震観測所は、八月初めからの調査結果を気象庁に報告するとともに、公式の「地震情報第一号」を発表した。
この地震情報では、地震活動の勢力は変化しているが、震源域があまり移動していないことなどから判断して、群発地震は、大地震、または火山の大噴火に、直接、関連はないと考えられるとしていた。
不安にかられていた住民たちは、胸を撫で下ろした。
ところが、その三日後の九日、今度は気象庁が、同じ松代地震観測所のデータをもとに、全く異なる見解の地震情報を発表したのである。
それは、地震活動は、活発になっており、過去の例からみて、局地的な被害を出す地震が起こる心配がある、というものであった。
気象庁のこの地震情報を、新聞各紙は、異例の“地震予報”“地震警告”として、大きく取り上げた。
データは同じだが、地元の発表と正反対とも思える内容に、住民は混乱した。
地元の長野地方気象台長と松代地震観測所の所長は、気象庁に分析の食い違いをただすとともに、異議を申し立てた。
また、松代町では、町長が有線放送で、「デマに惑わされないように」と注意を呼びかけ、「気象庁の発表は納得できない。町として気象庁に抗議する」と訴えた。
安全性を強調するか、それとも危険性を強調するかという、基本的な考え方の違いが、この二つの全く異なる発表となったのである。
人びとの信頼の柱となるべき機関に意思の疎通がなく、ばらばらな見解が出されれば、人心を惑わし、いたずらに混乱を招いてしまう。
それは、防災に対する住民の団結を、揺るがすことにもなりかねない。
連携の悪さ、意思統一の欠如は、時には、大問題につながることを知らねばならない。
愛郷 四
十月十一日には、松代町長が本部長となって、松代町地震対策本部が設置された。
このころから、地震の回数はさらに増え、揺れも大きくなり、住民の緊張感は高まっていった。
“やはり大地震が来るのではないか”という恐怖が、人びとの心に渦巻き始めた。
大きな揺れは、たいてい、深夜から明け方の間に起こった。
まず、「ゴォゴォー」という地鳴りが、布団の下から伝わってくる。
「来るぞ、来るぞ、来るぞ」と身構えていると、グラグラッと揺れるのである。
住民は、枕元に、非常食や貴重品の入った袋と靴を置いて寝た。また、布団に入る時も、すぐに避難できるように、寝間着に着替えることはなくなっていた。
地震活動が活発化するにつれて、さまざまな流言飛語が、人びとの間を駆け巡った。
「この地震は、皆神山が噴火する前兆だ」
「大本営建設時の犠牲者の亡霊が地震を起こしている」
「米ソの核実験の影響によるものだ」
そうしたデマが、ますます住民の不安をつのらせた。
松代町長は、「対策本部の発表以外に耳をかさないように」と、必死になって、呼びかけなければならなかった。
十一月に入ると、四日と五日に、震度四の地震を記録した。
家屋は激しく揺れ、花瓶なども倒れ、棚の上の物も落ちた。
古い家の壁にはヒビが入り、屋根瓦の一部が落ちた家もあった。
この十一月の九日には、公明党の参議院議員二人が、現地調査のために松代町を訪問した。
現場に行かずしては、実態はつかめない。伝聞と推測のみで判断を下せば、誤算も生じるし、有効な対策も生まれることはない。
現場主義こそ、民衆のために戦う、リーダーの鉄則である。
彼らは、県の消防防災課長、松代町長、松代地震観測所の所長、長野地方気象台長などから、住民の状況や地震の現状と今後の見通し、地震対策について話を聞いた。
この現地調査は、国会議員のなかでは、どの党よりも早かった。
愛郷 五
公明党の参議院議員たちは、現地調査を進めるうちに、松代町では食糧や水の補給など、真剣に対策を考えているのに対し、県には地震対策本部さえも設置されていないことを知って、愕然とした。
彼らは、早速、県庁を訪問して副知事と会い、地震対策を立てるよう約束させた。
山本伸一は、松代の地震が新聞に報道されるようになると、長野第二本部長の黒木昭に、全力で松代の同志の激励に回り、毎回、その状況を詳細に報告するように指示した。
地震活動が活発になっていくにつれて、伸一は胸を痛めた。
地元の人たちは、不安で夜も眠れないのではないかと思うと、彼もまた熟睡できないのである。
彼は、松代の人びとのために、題目を送り続けてきた。
十一月十一日にも、黒木は松代の激励に入ることになっていた。伸一は、その直前、学会本部に来た黒木に語った。
「松代といえば、戦争の末期に、軍部政府が大本営にするための地下壕を建設したところだ。
その時、強制連行されてきた朝鮮人労働者のなかから、多くの犠牲を出したといわれる。まさに悲惨な歴史が刻まれた場所といえる。
それから二十年。今度は、地震で人びとが苦しんでいる。
私は、今こそ、松代という国土の、苦悩の歴史を変え、宿命転換をする時が来たと思う。
そのためには、皆が力を合わせて、地域の人たちの団結の要となり、この群発地震を乗り越えることだ。
そして日本国中に幸福を発信する、広宣流布の一大拠点を、松代につくりあげていくことだ。
日蓮大聖人は、正嘉元年(一二五七年)の大地震を機縁として『立正安国論』を認められ、天変地夭、飢饉や疫病に苦しむ民衆の救済に立ち上がられた。
松代の同志も、地域の人びとが不安に苛まれ、苦しんでいる今こそ、安穏な地域の建設に立ち上がらなければならない。それが大聖人門下の戦いです」
黒木は頷いた。
「わかりました。その通りに、松代の同志に、伝えてまいります」
語句の解説
◎立正安国論
文応元年(一二六〇年)七月十六日、日蓮大聖人が、鎌倉幕府の事実上の最高権力者・北条時頼に提出された諫暁の書。表題は「正法を立て国を安んずる論」の意で、正しき法(思想・哲学)の確立こそ、平和な社会、そして平和な世界を築きゆく根本の道であることを示されている。
愛郷 六
黒木昭の言葉を聞くと、山本伸一は厳しい口調で言った。
「私の話を伝えるだけなら、君が足を運ぶ必要はない。手紙か電報で十分だ。
幹部が現地に行き、会合に出たり、メンバーと会うのは、ただ、情報を伝えるためではない。勘違いされては困る。
みんなを触発し、一念を変え、決意を固めさせるために行くんだ。
指導というのは、生命と生命の打ち合いなんです。幹部が生半可な決意で、広宣流布の戦場に行ったのでは、負け戦をしに行くようなものです」
黒木の顔には、緊張と戸惑いがあった。
伸一はそれを見逃さなかった。
「では、どうすれば、みんなの一念を変えることができるのか。これが黒木君の一番知りたいことなんだろう」
「はい」
「それには、まず、中心者である君自身が、自分の手で、この松代に広布の一大拠点を築いてみせると、心の底から決意することだ。
そして、“結果を出すまで俺は帰らぬ!”“ここで倒れても本望だ!”というぐらいの、決定した一念で戦うことだ。
その必死さがなければ、広布の新しい歴史など、開けるわけがないじゃないか。
大阪でも、山口でも、行く先々で、私が勝利の旗を打ち立てることができたのは、いつも、その決意で戦ったからだ。
遊び半分の人間に、何ができるというのだ!
自分の立場の維持しか考えないような幹部では、悪戦苦闘を乗り越えて、勝利を飾ることなど絶対にできない。
君自身が腹を決め、一人立って戦い、懸命に叫び抜いた時に、みんなが立ち上がるだろう。
ゲーテは『本当に君の肺腑から出たものでない以上、心から人を動かすということはできない』(注)と言っているが、それが真実だ。
もし、幹部が、口先だけの演技じみた言動で、同志が動くなどと思っているなら、甚だしい思い上がりだ。
同志を、人間を、軽んじているんだ!」
黒木は、伸一の顔を見すえて、決意のこもった声で言った。
「私自身が、全力で戦い、松代から日本を立て直すつもりで頑張り抜きます!」
引用文献
『新・人間革命』の引用文献
注 ゲーテ著『ファウスト 第一部』相良守峯訳、岩波書店
愛郷 七
山本伸一は立ち上がると、黒木昭の肩に手をかけ、力強い声で言った。
「そうだ。その意気で戦ってくるんだ。
松代の同志には、強い愛郷心と、深く大きな使命がある。必ず、変毒為薬することができる。
一人ひとりが、住民の依怙依託となって、地域を守り抜いていくんだ。 苦難の風が起こった今こそ、大いなる飛翔の時だ。勝負の時だよ。
お土産に袱紗を持って行って、私の代わりに、力の限り、みんなを励ましてほしい」
黒木は、松代の人びとのことを思う伸一の熱い心に触れ、強い感動を覚えた。
十一日、松代に到着した黒木は、松代地区の地区部長の山内丈夫の家で行われた、指導会に出席した。
「山本先生は、松代の皆さんのことを、大変に心配されております。
日々、懸命に題目を送ってくださっています。
また、お一人お一人に差し上げてくださいということで、先生から、千枚の袱紗をお預かりしてまいりました!」
こう黒木が発表しても、歓声も、拍手も起こらなかった。
“山本先生は、面識もない自分たちのことを心配して、黒木本部長を来させ、激励の袱紗まで届けてくれたのだ!”と思うと、皆、申し訳なさに、胸が詰まってしまったからである。
さらに黒木は、今こそ、松代という国土の宿命を転換する時であると、訴えていった。
「皆さん、国土の宿命転換といっても、依正不二の原理に照らしてみるならば、一人ひとりの人間革命による、宿命の転換以外にありません。
それには、この松代に弘教の大波を起こすことです。そして、広宣流布の模範の地域を、ここに建設していこうではありませんか!
皆さん、時は今です。今、立たずして、いつ立つんですか!
私も、皆さんの先頭に立って戦います。やろうではありませんか!」
大きな賛同の歓声があがり、決意の拍手が会場に鳴り響いた。
最後に黒木は、参加者に、預かった袱紗を手渡していった。
皆、伸一の真心に触れた思いがして、目頭を潤ませながら、袱紗を握り締めるのであった。
語句の解説
◎依正不二
依報と正報が二にして不二であること。正報とは、生命活動を営む主体をいい、その身がよりどころとする環境・国土を依報という。この両者が深い次元で関連し合っていることを示した原理。
愛郷 八
同志は語り合った。
「先生に、こんなにご心配をおかけして、本当に申し訳ねえなー」
「そうだな。だから、しっかり題目をあげて、折伏しよう。そして、『こんなに幸せになれました』と言える松代をつくろう」
「御書に『今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なり』(一四五一ページ)と仰せだが、今が正念場だ。頑張ろう」
メンバーは、勇んで弘教に飛び出していった。
一人ひとりの胸に燃え上がる闘魂こそが、未聞の広布の扉を開く力となるのだ。
翌十二日は、朝から、町の随所で仏法対話の花が咲いた。この日、最初に弘教を実らせたのは、七十四歳の婦人部のメンバーであった。
それを聞くと、男子部も、女子部も、勢いづき、老若男女が競い合うようにして、折伏に取り組んでいった。
これまで、松代では、弘教は毎月十五世帯ほどであったが、この十一月には、十三日までに四十五世帯の人が、入会を申し出たのである。
松代は、十月に松代地区、海津地区、東条地区という、三地区の新しい布陣ができあがったが、その三地区とも、意気盛んに弘教のスタートを切ったのである。
それは、松代を断じて“寂光土”に変えようとする、同志の郷土愛の表れであった。
十一月十九日からは、有感地震が百回を超える日が、数日間にわたって続いた。
これは、大地震が来る前兆なのか、それとも、このまま、中程度以下の地震が繰り返すだけなのか、地震学の権威をもってしても、明確な結論は出せなかった。
十一月二十六日付の「朝日新聞」の朝刊には、「長期戦の松代地震」「ほしいのは“学問”」などの見出しが躍り、次のような記事が掲載されている。
松代町長が、国会議員の調査団に、「町としていま一番ほしいものは何か」と聞かれ、「ほしいものだらけだが、何より手に入れたいのは“学問”です」と答えたというのである。
この発言には、先の見えない不安を、なんとかしたいという、祈りにも似た、切実な気持ちが託されていた。
愛郷 九
「朝日新聞」のこの記事には、公明党、創価学会についても触れられていた。
「グラグラッとくると、観測所には電話の問合せが殺到する。
なかでも早いのが公明党関係者の電話だ。国会議員の調査団も公明党、社会党、自民党の順でやってきた。
同党と密接な創価学会の“折伏”活動は日を追って活発になり、近ごろ町内で五十世帯が新たに入信した」
さらに記事では、松代の周辺地域でも、信心を始める住民が続出していることを伝えていた。
メンバーの大奮闘に、マスコミも大きな関心を寄せていたのだ。
松代の同志には、ともかく題目をこの大地にしみこませ、折伏をして、絶対に松代の宿命を転換してみせる、安穏を実現してみせるとの、強く深い決意があった。
山本伸一は、東京からも最高幹部を派遣し、当時、副理事長であった泉田弘が、松代の同志の激励に訪れた。
松代地区部長の山内宅での指導会に出席した泉田は、庭にまであふれたメンバーを見て、その熱気と勢いに驚いた。
彼は、皆の顔がよく見えるように、イスに座って、話を始めた。
「松代の地震、地震とマスコミが騒ぐから、大揺れに揺れていると思っていたが、それほどでもないな。報道が大袈裟なのかね……」
この日は、それまで大きな地震がなかったが、こう言った途端、激しい揺れが起こった。
泉田は、「うわあっ」と言いながら、イスごと倒れてしまった。顔面は蒼白になっていた。
“みんなは、毎日、毎日、こんな思いをしながら頑張っているのか。よし、全力で励ますぞ!”
彼は、地震が収まるのを待って、悠然と立ち上がると言った。
「油断をしてはいけないということだね」
大笑いになった。
泉田は訴えた。
「大聖人は『大悪をこれば大善きたる』(御書一三〇〇ページ)と仰せになっている。
強い祈りと、勇気ある行動があれば、必ず、事態は打開できる。希望を胸に、すべてを大前進のバネにしていこうではありませんか!」
愛郷 十
地震が激しくなるにつれて、松代の同志は、むしろ、ますます元気になっていった。
仏法には、地震は、人びとが正法に背くゆえの災難であるとの、とらえ方がある。
また、釈尊が法華経を説く時、大地が六種に震動したとされていることから、正法興隆の瑞相ともとらえられている。
メンバーは、御書を拝しては語り合った。
「この地震が、正法に背くゆえの災難ならば、果敢に折伏をしていかなければ、根本的な解決はできない。
また、正法興隆の瑞相ならば、広宣流布が自分たちの使命なんだから、力の限り、走り抜かなければならない」
「みんなが幸せになる権利がある。だから、あの人にも、この人にも、声をかけよう!
立っているものは、電信柱以外、みんな仏法対話し抜こう!」
メンバーは、揺れる大地を、さっそうと布教に駆け巡った。
学会の話をすると、ピシャリと玄関の戸を閉められ、追い返されることもあった。しかし、誰も挫けなかった。
動けば動くほど、使命に生きる闘魂と歓喜が、わき上がってくるのだ。
学会歌を歌いながら、田んぼのあぜ道や土手の上を歩いて、意気揚々と布教の駒を進めた。
この学会員のはつらつとした姿と、確信にあふれた明るい笑顔が、地震の不安と恐怖に怯える松代の人びとを、どれほど勇気づけたことか。
不安や恐怖は伝染するが、勇気もまた、伝播するのである。
地震活動は、依然として収まらなかった。
有感地震だけ見ても、十一月には二千七百三十回、十二月には二千八百六十七回、年が明けた一月には二千七百八十八回を記録。しかも、この一月には初めて震度五の地震が起こっている。
地震で屋根瓦がずれた家が目立った。
親は、子どもに注意した。
「地震があったら、急に外に飛び出してはだめだよ。それから、道路の端を歩いてはいけないよ。地震で屋根瓦が落ちてくるからね」
すると、子どもたちは聞き返した。
「でも、道路の真ん中を歩くと、車にひかれちゃうよ。どこを歩けばいいの?」
愛郷 十一
地震のために壁がひび割れたり、崩れたりする家も多くなっていった。
そこから、寒い日は、零下一〇度近い、冷気が入り込んでくるのだ。
しかし、火災を警戒して、石油ストーブで暖をとることはしないようにしていた。
多くの家は、火鉢やこたつを使い、その側に消火用の水を入れたバケツを置いて、寒さをしのぐのである。
地震による物的な被害も大きかったが、それよりも大きいのが、精神的な被害であった。
打ち続く地震に、皆神山が、いつ噴火するかもしれないという恐怖感も増していた。
家は絶えず揺れ続け、厳冬のなかで、暖も十分にとれない生活。
そして、非常持ち出し用のリュックサックを枕元において、すぐに避難できる服装で、戦々恐々としながら眠りにつかねばならぬ日々――。
それらが、住民の不安やイライラをつのらせ、不眠や体の不調を訴える人、ノイローゼぎみになる人が少なくなかったのである。
地震は、子どもたちの心も苛んだ。
勉強に身が入らなくなった児童や、不眠や不安を訴える子どもが増えていった。
学会の会合でも、ストーブは使えなかった。火鉢を用意している会場もあったが、寒さは防ぎきれず、座談会も、オーバーや綿入りの半纏を着込んで行われた。
だが、学会歌を歌い、体験談や決意などを語り合ううちに、皆の生命は燃え、熱気に満ちあふれてくるのである。
同志の団結の絆も強くなっていった。
震度四以上の揺れのあとは、警察がパトカーを出し、被害状況を見て回ったが、学会の地区幹部や班長たちも、大きな地震のあとには、自主的に会員の家を回った。
自分の目で、同志の安否を確認するまでは、決して安心はできないという気持ちであった。
真夜中の地震でも、無事を祈りながら、ある人はバイクで、ある人は徒歩で、懐中電灯を手に、一軒一軒、同志の家々を回るのであった。
行動だ。行動こそが、創価の大道である。
何事もなかったように寝ている家は無理に起こさず、周囲を一回りし、安全を確かめると、次の家を訪ねた。
愛郷 十二
行った先の家が、電気がついているのが見えれば、「無事ですか」と声をかけた。
そして、「お年寄りや子どもさんは大丈夫ですか。火事を出さないように気をつけてください。題目をしっかりあげて乗り越えていこうね」と、励ますのであった。
この励ましのネットワークは、やがて会員だけでなく、自然に地域の友へと広がっていったのである。
民衆の中へ、人間の中へ――その一歩一歩が、未来を開く力となる。
一九六六年(昭和四十一年)の四月十七日、なんと二十四時間で六千七百八十回の地震が記録された。
このうち有感地震は六百六十一回で、しかも、震度五の強震が三回もあった。
これによって、ほとんどの家の壁に亀裂が入り、屋根瓦も次々と落ちていった。
この夜は、家屋の倒壊を恐れて、ビニールハウスに布団を持ち込み、一夜を明かす家族もいた。
また、倒壊を防ぐために、どの家も、鉄の棒や木材で補強され、外から見ると、窓という窓が、すべて×印で覆われた家もあった。瓦をおろし、屋根をトタンに替える家も出てきた。
住民のなかには、親戚の家などに“疎開”した人もいた。
だが、いつまで我慢すればいいのか、先行きもわからないために、結局、一カ月ほどで、ほとんどの人が住み慣れた家に戻ってきた。
山本伸一のもとには、地震という最悪な状況のなかで、懸命に活動に励むメンバーの様子が、つぶさに報告されていた。
伸一は、松代の同志のために、最大の応援をしようと思った。執行部が集った会議の折に、彼は提案した。
「みんな、本当に大変ななかで、よく頑張っている。メンバーを応援していく意味からも、松代に会館を設置してはどうだろうか」
皆、大賛成であった。
この会館設置の知らせは、電話で地元の幹部に伝えられるとともに、六月十日付の聖教新聞に発表された。
思いもかけなかった吉報である。同志の喜びが弾けた。地元では、会館にふさわしい建物を探すとともに、弘教に一段と拍車がかかった。
愛郷 十三
ある婦人は、未入会の夫に、ぜひ信心をさせようと決意した。
地震が激しくなっているだけに、夫が怪我をしたりすることのないように、信心を教えたかったのである。
高校二年の娘も、中学三年の息子も、真剣に信心に励んでおり、母子して入会を願っていった。
しかし、人生の幸・不幸は、すべて信念と努力で決まるものであるというのが持論の夫は、いっさい、仏法の話には耳を傾けなかった。
この家は、山の近くにあり、ある時の地震で、直径一メートルほどもある大きな石が、転がり落ちて来た。
大石は、家屋をかすめ、庭に落ちたが、崩れた土砂が、座敷の壁を押し破った。
しかし、不幸中の幸いというべきか、誰にも怪我はなかった。
妻と子は、“守られた!”と感じ、手を取り合って喜んだ。
夫は、突然、襲いかかって来た大石に驚き、呆然としていた。この大石が、夫の頑な心を打ち砕いたようであった。
それから間もなく、壮年部員が訪ねて来ると、素直に信心の話を聞き、入会したのである。
すべてを広布の前進のバネに――それが同志の心意気であった。
地元の幹部を中心に、会館設置のための建物を探していると、折よく、転居を希望しているという家が見つかった。
松代町の南側で、近くには武家屋敷が残る閑静な住宅地に立つ、木造二階建ての民家である。
学会本部として、七月の二十一日にその家を購入した。
この七月、地震活動に大きな変化が見られた。
四月には地震総回数は十一万九千を超え、有感地震も一万二千余を記録したが、以後、地震は減少傾向を示し、七月には総回数三万四千四百四、うち有感地震二千七百五十六へと激減したのである。
メンバーの喜びは増し、ますます祈りと弘教に力がこもった。
購入した建物は、八月一日から改築工事に取りかかった。
地震の続くなかでの工事であり、メンバーは、その建物の一室を使い、無事に工事が終わるように、唱題会を開いた。
愛郷 十四
地震の回数は、四月をピークに、七月まで減少を続けてきたが、八月に入ると、また増え始めていった。
メンバーは、依正不二の原理を、立正安国の法理を確信し、“負けるものか!”と、布教に歩き抜いた。
常に希望の炎を燃やし、一歩、また一歩と、不屈の歩みを運び続ける人こそが、まことの信仰者である。
会館の増改築工事は、順調に進んでいった。
会館の名前も、正式に「松代会館」と決まり、八月の二十四日には開館式が行われた。長野県下で五番目の会館の誕生である。
開館式に集ったメンバーは、皆、愛する郷土に幸福の城を築こうと、新たなる誓いに燃え輝いていた。
八月に八世帯の弘教を成し遂げ、意気揚々と参加した男子部員もいた。
この日は、山本伸一の入会記念日であった。
彼は、東京にあって、いよいよ意気盛んに、広宣流布の指揮をとる決意を固めるとともに、松代の繁栄と、一日も早い地震の終息を祈り念じて、懸命に題目を送るのであった。
会館の誕生は、メンバーの闘魂を爆発させ、弘教は、さらに勢いを増していった。
ところで、この開館式当日、群発地震は発生以来、遂に地震総回数五十万回を突破し、有感地震も四万八千回を超えた。
九月には、松代町牧内で地滑りが起き、民家など十一棟が全壊した。
一方、地震によるわき水の被害も、大きくなっていた。
また、秋になると、地震活動は、松代から、更埴市、上山田町など、周辺地域へと広がっていった。
翌一九六七年(昭和四十二年)一月の本部幹部会で、念願の松代支部が結成された。皆の闘志はますます燃え上がった。
「伝統の二月」の活動として、学会本部では、「班一世帯の折伏」を掲げていたが、新設の松代支部は、どこよりも早く目標を達成しようと、大奮闘した。
二月二十七日付の聖教新聞に、班一世帯の弘教を成し遂げた支部が紹介された。
そのなかに、見事に初陣を飾った松代支部の名も掲載されている。
愛郷 十五
松代支部の結成以来、同志の願いの一つは、会長である山本伸一を、松代の地に迎えることであった。
“群発地震のなかでも、ますます元気な私たちを見ていただきたい”というのが、皆の率直な思いであった。
そして、支部の結成から約五カ月が過ぎた、この一九六七年(昭和四十二年)の六月二十三日、遂に伸一の松代訪問が、実現したのである。
列車で上野駅を発った伸一は、昼過ぎに小諸駅に着いた。
彼は、駅に出迎えてくれた長野総合本部長の赤石雪夫の勧めに従い、小諸城址にある公園の懐古園に立ち寄った。
赤石は、伸一が青年時代から激励してきた、四十過ぎの温厚な壮年であった。
十四年ほど前、彼は、伸一が部隊長であった、男子部の第一部隊の幹部と、支部の班長を兼任していたことがあった。
仕事、そして、男子部の幹部と、支部の班長としての活動を成し遂げていくことに、赤石は行き詰まってしまった。すべてをやりきることなど、とても自分にはできないと思った。
悩み抜いた末に、男子部の幹部の方を辞めようと、辞表を書き、ある会合の終了後、伸一に提出したのである。
赤石の性格をよく知る伸一は思った。
“彼は真面目ではあるが、すぐに弱気になり、全力で立ち向かっていく前に、自分でだめだと思い込んでしまう。
その心のなかにある壁を、今、打ち破っておかなければ、常に戦わずして敗れ、敗北の人生を歩むことになるだろう”
勝利者とは、心の壁を破った人の異名である。
伸一は、赤石の目を、じっと見すえて言った。
「逃げるんですか!」
赤石は緊張で体が震えた。自分の心の暗部を、光の矢で射貫かれたような思いがした。
それから伸一は、優しく諭すように語った。
「心配しなくても大丈夫だよ。しっかり題目を唱えて、一つ一つあきらめずに、力の限り挑戦していけば、すべてに勝利することができるものだ。私が応援するよ」
そして、辞表を破り捨てた。
「これでいいね!」
温かい微笑を残して、伸一は去って行った。
愛郷 十六
山本伸一は、赤石雪夫の気持ちも、苦しさも、痛いほどよくわかった。
「男子部と支部の役職の兼任は、忙しくて大変だろう。少しゆっくりしなさい」と言って、辞表を受け取ってあげることもできた。
しかし、もしも、そうしてしまえば、壁に突き当たればすぐに回避しようとする、彼の生来の弱さを、助長させることになってしまう。
人間の成長は、“もうこれ以上はだめだ”という、自分の限界を超えて、突き進んでいくところにあるのだ。
その時に、初めて自己の殻を打ち破り、力をつけ、境涯を開き、人間革命が可能となる。
また、そこにこそ、仏道修行がある。
だから伸一は、あえて赤石を突き放したのだ。
一方、赤石は、しばらく呆然としていた。
伸一の「逃げるんですか!」の一言で、辞めるべきではないとは思ったが、では、どうすればよいのかとなると、全くわからなかった。
また、すべてやり抜いていく自信もなかった。
赤石は、もう一度、伸一に指導を受けたかった。だが、躊躇した。
伸一に会えば、「まだ心が決まらないのか!」と、叱られそうに思えたからだ。
しかし、勇気を奮い起こして、大田区の山王にある、伸一のアパートに向かった。
ドアをノックすると、伸一の妻の峯子が顔を出した。
「夜分、すいません。どうしても指導をお受けしたくて、お訪ねいたしました」
赤石が言うと、奥から伸一の声が響いた。
「必ず来ると思って、待っていたんだよ。一緒に銭湯に行こう!」
峯子が、すぐに二人分のタオルや石鹸を用意して渡した。
伸一は、タオルを首にかけ、口笛を吹きながら悠々と歩いていった。
赤石は、黙って後に続いた。月が冴え、星の美しい夜であった。
赤石は、伸一が戸田城聖の会社で営業部長を務めるとともに、男子部の部隊長や教育担当の幹部、さらに文京支部長代理など、幾つもの役職を兼務していることを、よく知っていた。
その激務のなかで、伸一が、いつも悠然としていられることが不思議でならなかった。
愛郷 十七
時間が遅いせいか、銭湯は空いていた。
赤石雪夫は、湯につかりながら、山本伸一に尋ねた。
「たくさんの役職をもち、私なんかより、はるかに多忙なのに、どうして、そんなに悠然としていられるんでしょうか」
「そう見えるかい」
赤石は頷いた。
「もし、みんなの目にそう映るとしたなら、それは、私が腹を決めているからだよ。
一瞬たりとも、気を抜くことはできないというのが、今の私の立場だ。
戸田先生のご存命中に広宣流布の永遠の流れを開いていただかなくてはならない。そのためには、学会は、失敗も、負けることも、決して許されない。私は、その責任を担っている。
もし、負けるようなことがあれば、先生の広宣流布の構想が崩れてしまうことになる。
師匠の構想を破綻させるような弟子には、私は絶対になってはならないと心に決めている。そんな弟子では、結果的にみれば、獅子身中の虫と変わらないじゃないか。
だから、負けられないんだ。勝つことが宿命づけられているんだ。
私は断じて勝つ――そう心を定めて、祈り抜いていけば、勇気もわく。知恵もわく。力もわいてくる」
赤石は、何度も頷きながら、伸一の話を聞いていた。
「何事も受け身で、人に言われて動いていれば、つまらないし、勢いも出ない。その精神は奴隷のようなものだ。
しかし、自ら勇んで挑戦していくならば、王者の活動だ。
生命は燃え上がり、歓喜もみなぎる。
同じ動きをしているように見えても、能動か、受動かによって、心の燃焼度、充実度は、全く異なる。
それは、当然、結果となって表れてくる。
どうせ活動するなら、君も、常に自分らしく、勇んで行動する主体者になることだよ」
伸一は、赤石を見て、微笑みながら、湯船のなかで手足を伸ばした。
「ああ、気持ちがいいな……」
赤石も思いっきり、手足を伸ばしてみた。
こうして話していると、萎縮していた心が解きほぐされ、体中の血管に、生気がみなぎってくるような気がした。
愛郷 十八
アパートに戻ってからも、山本伸一は、赤石雪夫を励まし続けた。
「広宣流布は青年部の手で、必ず成し遂げていかなくてはならない。
まず、青年部員として自分を磨き、見事に責任を果たし、生涯、青年の気概で生き抜いていくことだよ。
青年は挑戦だ。何があっても逃げずに、すべてをやり切っていくんだ。
それによって自分を磨き、力をつけ、福運をつけ、大成長していくことができる。
だから、広宣流布のために、うんと苦労をしようよ。うんと悩もうよ。うんと汗を流そうよ。
自分の苦労なんて、誰もわからなくてもいいじゃないか。御本尊様は、すべてご存じだもの」
それから伸一は、「音楽を聴こう」と言って、レコードをかけた。
軽快な調べが部屋中に広がった。
スッペ作曲の「軽騎兵」序曲であった。
「心も軽やかになるだろ。忙しくとも、音楽を聴くぐらいの、心の余裕はなくてはならない。信心をしているからといって、世界を狭くしてはいけないよ。
本来、広宣流布というのは、人間文化の創造の運動なんだからね」
次に伸一がかけたのは、ベートーベンの“運命”であった。
力強い音律が、赤石の胸に響いた。赤石は、その調べに合わせ、心の奥から、勇気がわいてくるような気がした。
レコードを聴き終わった時、赤石は言った。
「ありがとうございました。頑張ります!」
伸一は、ニッコリと微笑み、頷いた。
「悔しくとも、悲しくとも、また、どんなに大変でも、前へ、前へと進むんだ。
ベートーベンは、苦悩を突き抜けて歓喜へ――と記しているが、苦悩を突き抜けた時には、勝利と歓喜の青空が広がっている。
そう思えば、苦悩もまた楽しいじゃないか!」
「はい!」
屈託のない、さわやかな声であった。
伸一のアパートを後にした赤石の足取りは、軽かった。“やるぞ!”という息吹が、胸の中から突き上げてくるのだ。
気がつくと、月を仰ぎながら、学会歌を口ずさんでいた。
これが、赤石の大きな転機となったのである。
語句の解説
◎スッペなど
スッペ(一八一九〜九五年)は、オーストリアの作曲家。十六歳よりウィーンに出て、音楽を学ぶ。一八四〇年以後、いくつかの劇場に迎えられ、指揮者兼作曲家を務めた。作品には、よく知られた「軽騎兵」序曲のほか、喜歌劇「ボッカッチョ」「詩人と農夫」などがある。
ベートーベン(一七七〇〜一八二七年)は、ドイツの作曲家。二十代後半から難聴が悪化し、音楽家として絶望的な状況に陥るが、その苦悩に立ち向かいながら、交響曲第五番“運命”や“歓喜の歌”で知られる第九番など、幾つもの不滅の名曲を残した。
愛郷 十九
赤石雪夫は、男子部の中核に育ち、やがて壮年幹部として、長野を担当するようになった。
その時、山本伸一は、「君も又 学会支える 丈夫と 大きく育ちて 広布に散りゆけ」との和歌を詠み、書籍に認めて贈った。
今、赤石は、長野総合本部長として、同志と共に、この信州の山紫水明の山河を、所狭しと駆け巡っていた。
懐古園の敷地のなかには、島崎藤村の作品や遺品、資料などを展示した藤村記念館をはじめ、動物園などもあった。
園内を歩きながら、伸一を長野に迎えることができた赤石たちは、嬉しくて仕方なかった。
特に松代の同志が、どんなに喜ぶかと思うと、胸に熱いものが込み上げてくるのであった。
彼らも、松代の地震のことでは、心を砕き続け、メンバーの激励に奔走してきたのである。
案内についてくれた懐古園の職員が言った。
「今日は、鳥がよく鳴くんですよ」
確かに木々の上から、明るく、高く、時にけたたましいような鳴き声が園内に響いていた。
さらに歩いていくと、孔雀の檻があり、伸一が近づくと、その中の二羽の孔雀が、美しく、大きな羽を広げた。
赤石たちには、こうした鳥たちの一つ一つの動作までが、伸一を歓迎しているように感じられるのであった。
一行は、懐古園の見学を早々に切り上げ、車で小諸会館に行き、代表のメンバーと勤行したあと、松代に向かった。
伸一は、一人でも多くの人と会い、生涯の発心の種子を植えたかった。
“今日という日は、再び来ない。今日、何人の人を励ませるのか!”
そう考えると、彼は、少しでも時間が欲しかったのである。
今、何をするか。今日、何をなしたか――広宣流布とは、限りある時間との戦いであるといってよい。
伸一が松代会館に到着したのは、午後三時半であった。会館には廊下まで人があふれていた。
彼は、玄関には向かわず、縁側で靴を脱ぎ、中に入った。一瞬でも早く、メンバーの輪のなかに飛び込み、力の限り励ましたかったのだ。
「こんにちは! 遂に来ることができました」
伸一の声が響いた。
語句の解説
◎島崎藤村
一八七二〜一九四三年。長野出身の詩人・小説家。一八九七年に『若菜集』を発表。小諸には、一八九九年から一九〇五年まで、小諸義塾の教師として赴任。この間、『千曲川のスケッチ』『破戒』などの原稿を執筆。晩年の大作に『夜明け前』がある。
愛郷 二十
山本伸一の声がすると、参加者の顔に光が差し、大歓声と拍手が起こった。
すぐに、喜びの勤行が始まった。
その時、地鳴りに続いて、ドーンと突き上げるような、大きな衝撃があり、地震が起こった。
一瞬、緊張が走ったが、皆、懸命に、朗々と祈り続けた。
勤行が終わると、伸一は、最前列の人たちに語りかけた。
「私は会長に就任して以来、地震がないように、豊作であるようにと祈り続けてきました。
これからも、祈り抜いていきます。
強き一念と祈りで、いかなる災害も乗り越えようじゃありませんか」
ここで、同行の清原かつ、泉田弘らがあいさつに立ち、最後に、伸一の指導となった。
「本日は、大変にお元気な皆さんとお会いできて、心から嬉しく思っております。
さて、私どもの使命とは何か。それは、立正安国の実現であり、正法を根底として、災害や戦争のない、安穏な社会を築くことであります。
では、正法とは何を指すのか――。
大聖人は『立正安国論』のなかで、“実乗の一善”すなわち、法華経に帰依すべきであると訴えられております。
法華経とは、大宇宙を貫く生命の根本法則を説いた教えであり、また、生命の尊厳の思想、慈悲の哲理です。
そして、この正法を生き方の根本とし、自身の一念を、生命を変革していくならば、いかなる環境をも変え、崩れざる幸福を築き上げることができると、大聖人は宣言されています。
なぜなら、主体である自身と、人間を取り巻く環境とは、本来、不二の関係にあるからです。それが、『依正不二』ということです。
つまり、すべては、人間の己心に収まるとともに、人間の一念は大宇宙に遍満していく。
ゆえに、私どもの信心で、必死の行動で、いかなる事態も、必ず打開していくことができる。それが仏法の原理です。
だから、何があっても挫けてはならない。弱気になり、勢いを失えば負けです。
どうか、勇気をもって行動してください。勇気は力です。勇気は知恵です。勝利の原動力です」
愛郷 二十一
山本伸一は、言葉をついだ。
「日蓮大聖人は、『天下万民・諸乗一仏乗と成って妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず……』(御書五〇二ページ)と仰せであります。
万人が生命の根本法たる正法を信じ、題目を唱えてゆくならば、大風や豪雨など、あらゆる災難を払っていくことができるとの御文です。
私たちは、この御本仏の仰せを確信していきたい。
ゆえに、めざすべきは、広宣流布です。
広く人びとが正法を信受して、生命の尊厳の思想、慈悲の哲理が、社会の根底に打ち立てられれば、人間や、すべての生あるものを守ることが、何にも増して最優先されていくでしょう。
そうなれば、地震という問題に対しても、予知の技術開発や回避の研究、また、防災対策などに徹底して力が注がれ、やがて、安全な社会の建設も可能となるにちがいありません。
そのためには、政治の在り方もまた、極めて重要になります。
ともあれ、人びとの苦悩の解決を図ることこそ、仏法者の使命です。
松代の地は、太平洋戦争の時は、本土決戦に備え、大本営を移そうとした地であり、今は、住民の方々が、群発地震で苦しんでおられます。
信心の眼で見れば、だからこそ皆さんが、松代の宿命を打破し、法華経の寿量品に説かれた『我此土安穏』(我が此の土は安穏)にしていくために、仏の使いとして、この地に集って来られたんです。
つまり、この松代こそが、皆さんの使命の大舞台なんです。大奮闘をお願いします。
実は、苦しい時、大変な時こそ、大成長できるし、大福運を積めるチャンスなんです。
その時に立ち上がれば、永遠に自身を荘厳していくことができる。しかし、臆病であれば、生涯、悔いを残します。
松代の皆さん! 戦おうではありませんか。
そして、『松代に続け!』と言われるような、模範の組織をつくり、広宣流布の第二ラウンドを飾っていってください」
誓いのこもった、大きな拍手がこだました。
愛郷 二十二
ここで山本伸一は、人生を強く、正しく生き抜き、幸福を築いていくには、何が必要かに言及していった。
「それは、生涯、御本尊を離さないことです。そして、学会という、真実の“和合僧”のなかで、生き抜いていくことです。
人間は、一人では生きられない。また、個人というのは、どうしても弱くなってしまう。
だから、崩れざる幸福を築いていくためには、信心を切磋琢磨していくよき同志が、組織が、必要なんです。
そう考えるならば、学会という、大聖人の御精神を受け継ぐ組織のなかで、信心に励めることがいかにすばらしいか、よくわかると思います。
ところが、活動が大変だとか、あの人が気にくわないとか、何かあると、すぐに愚痴をこぼし、文句や不平不満をいう人がいる。
もちろん、松代の皆さんのなかには、そんな方は、一人もいないと思います」
笑いが広がった。
「実は、その愚痴と文句が、信心に邁進してきた功徳、福運を、消すことになるんです。
また、それは、歓喜を奪い去り、心をすさんだものにし、自分で自分を不幸にしていく。
反対に、『ありがたいな』という感謝の思いは、歓喜を燃え上がらせていきます。
そして、歓喜は自らの心を豊かにし、幸福にします。
歓喜あるところ、力は倍加し、勢いが増します。歓喜ある前進のなかにこそ、人生と広布の勝利があるんです。
つまり、同じ御本尊に題目を唱え、同じように学会活動に励んでいたとしても、愚痴と文句の一念なのか、感謝の一念なのかによって、結果は全く違ってしまう。
どうか、皆さんは、これから、ますます福運をつけていくためにも、感謝の心で、喜びをもって信心に励んでいただきたいのであります」
「はい!」という元気な声と、拍手が響いた。
最後に、伸一は、「私は、長野の皆さんの応援に、何度もまいります。戦いましょう!」と言って話を終えた。
さわやかな涼風が、参加者の胸に吹き渡り、勇気を呼び覚ました。
愛郷 二十三
松代会館を後にした山本伸一は、地元のメンバーの案内で、川中島の古戦場に向かった。
川中島とは、善光寺平の、千曲川と犀川に挟まれた犀川扇状地一帯をいい、甲斐の武田軍と越後の上杉軍の、合戦の主戦場となったことで知られている。
地元の男子部が、川中島の地形や陣立てを描いた模造紙を広げ、合戦の模様を説明してくれた。
川中島の主な合戦は五回とされるが、そのうち四度目の戦いとなる永禄四年(一五六一年)九月の合戦では、武田信玄と上杉謙信が、直接、刃を交わしたといわれる。
川中島の八幡原には、信玄と謙信の戦いの像が立っていた。
伸一は、壮絶な竜虎の激戦に思いを馳せた。
将と将との気迫の対決は、両軍の兵士の士気を、どれほど鼓舞したことであろうか。
御聖訓には、「軍には大将軍を魂とす大将軍をく(臆)しぬれば歩兵臆病なり」(御書一二一九ページ)と仰せである。
勝敗は指導者の一念に、勇気のいかんに、かかっている。
伸一は、川中島の合戦を詠った「霧の川中島」(作詞・野村俊夫)の歌を、戸田城聖の前で歌った日のことが、昨日のことのように思い出された。
それは、夕張炭鉱の労働組合が創価学会員の締め出しを画策した、夕張炭労事件が一応の収束を見たものの、まだ余燼がくすぶる一九五七年(昭和三十二年)八月のことであった。
夕張に新寺院が完成した祝賀会の折、伸一は戸田の前で、この「霧の川中島」を歌ったのだ。
人馬声なく草も伏す
川中島に霧ふかし……
戸田は、伸一に、何度もこの歌を歌わせ、涙して聴いた。そして、身を震わせて叫んだ。
「炭労は卑怯だ! 戸田がいないのをいいことに、私の大事な弟子を苛める。私が来ると、出てこようともしない。
どんないいがかりでも、戸田に言ってくればよいのだ。私は、絶対に逃げ隠れはせぬ。会員は私の大切な命だ」
悪は断じて許さぬ。命ある限り、自分が先頭に立って、どこまでも戦い抜く――というのが、民衆を守り抜かんとする戸田の決意であった。
愛郷 二十四
この一九五七年(昭和三十二年)の八月といえば、戸田城聖が他界する七カ月半ほど前である。
既に、戸田の体は、著しく衰弱していた。
しかし、炭労の関係者と会って、いっさいの決着をつけ、夕張の会員を守ろうと、ここまで来たのである。
まさに戸田は、勇猛果敢なる不惜身命の大将軍であった。
その闘将を恐れてか、当初、学会との「対決」を打ち出していた炭労の幹部たちは、戸田が夕張に来ていることを知りながら、姿さえも見せなかったのである。
「霧の川中島」(作詞・野村俊夫)の三番には、「車がかりの奇襲戦 無念や逃す敵の将」とある。
武田信玄を討ち逃した上杉謙信の無念の情を詠った個所であるが、それはまた、戸田の思いでもあったにちがいない。
だから戸田は、あの火を吐くような叫びの矢を放ったのだ。
その声は、今なお、伸一の耳朶に響いていた。
広布の法戦には、楽な戦いなど、断じてない。中途半端な一念や行動は、無残な敗北を招く。
戸田は、徹して悪を打ち砕かんとする敢闘と執念のなかにのみ、正義と人道の勝利があることを、弟子たちに教えたかったのである。
松代を訪問した夜、山本伸一は宿舎の旅館で、群発地震が収まるように懸命に唱題した。
壁に亀裂の走った家で、不安にかられながら暮らす人びとを思うと、彼の胸は激しく痛んだ。
伸一は、祈らずにはいられなかった。
このころ、松代の地震活動は峠を越したといわれていた。だが、周辺地区の活動は変わらず、そのまま地震が収まるという保証はなかった。
人びとの不安は続いたが、その後、地震活動は弱まり、翌七月の七日には、一年十カ月ぶりに有感地震ゼロを記録。
このあと、地震の回数は次第に減少し、やがて終息に向かっていったのである。
群発地震を乗り越えるなかで、松代の同志は、自分たちこそ、地域の守り手であるとの自覚を深めていった。
そして、人びとを励まし、勇気づけるメンバーの献身的な行動は、地域に信頼の柱を打ち立て、地域広布を加速させていったのである。
愛郷 二十五
翌二十四日、山本伸一は、松本市で行われた、長野総合本部の記念撮影に臨んだ。
松本は、伸一が会長就任の年の十一月、松本支部の結成大会のために訪れて以来、七年ぶりの訪問である。
七年前の訪問では、伸一は、翌日には長野市で行われた長野支部の結成大会にも出席している。
この二つの支部の結成大会が、伸一と長野県の同志との、広宣流布という長征への旅立ちとなったのである。
あれから七年、広布の第二ラウンドの開幕にあたり、再び山本会長とともに新しい出発ができるのだと思うと、長野の同志は、小躍りしたいような気持ちであった。
しかも、今度は、一緒に記念撮影をし、旅立ちの誓いを、永遠にとどめることになるのだ。
会場の講堂に集って来た班長、班担当員ら四千人の顔は、喜びと誇りに輝いていた。
彼方には、乗鞍や穂高など、北アルプスの連山が、晴れ渡った空にそそり立っていた。
記念撮影は、午後二時過ぎから、十五グループに分かれて行われた。
伸一は、撮影台に並んだ一人ひとりに視線を注ぎ、言葉をかけ続けた。
「お体を大切に。頑張り抜くには、健康への注意を怠らないことです」
「日々、悔いなき戦いを! 悔恨は不幸です」
「さあ、広布の正念場です。執念の闘争なくして勝利はありません!」
この魂の励ましを胸に、長野の同志は、新出発の燃え上がらんばかりの決意を、山本会長とともにカメラに収めた。
そして、その写真の仕上がりを、一日千秋の思いで待っていた。
“しまった!”
聖教新聞の写真部の部長である矢車武史は、本社の暗室で声をあげた。
松本の記念撮影のフィルムを現像液に漬け、指が触れた瞬間であった。液の温度が高すぎたのである。液温を上げるための湯が出しっぱなしになっていたのだ。
慌てて、現像液からフィルムを引き上げた。
現像液の適温は摂氏二〇度とされている。温度が高いと、フィルムの乳剤膜が膨張して軟らかくなり、皺ができるなど、現像の失敗の原因となるのである。
愛郷 二十六
山本伸一と各地のメンバーとの記念撮影を収めたフィルムは、東京の聖教本社に運ばれ、そこでフィルム現像されることになっていた。
矢車武史は、二年前から始まった、各地の会員と伸一の記念撮影の、写真についてのいっさいの責任を担ってきた。
時には、一会場で五十回にわたって、計二万四千人の記念撮影を行ったこともあった。
しかし、これまでに一度として、そんな失敗などなかった。
矢車は、いつも自分に言い聞かせてきた。
“この一枚一枚の写真は、同志にとって生涯の思い出であり、かけがえのない財産なんだ。絶対に失敗は許されない”
そして、日々、新たな気持ちで、一つ一つの作業に取り組んできたつもりであった。
ところが、仕事に慣れることによって、いつの間にか、惰性に陥ってしまっていたのだ。
惰性は油断を生む。
矢車は、現像液にフィルムを入れる前に、温度を確認するという、基本中の基本の作業を怠ってしまったのである。
まさに、一瞬の油断が招いた失敗であった。
人生も、広布も、自己の心に宿る惰性と油断との戦いといえるかもしれない。
“敵”は外にいるのではない。己心に潜むものだ。ゆえに、勝利を手にするには、心中の賊を討つことだ。
矢車は、現像液が入った水盤の周囲に流れている湯を止め、冷水を流していった。
今度は、指先で液温を確認し、心で唱題しながら、慎重に現像作業を進めた。
暗室用の緑色のランプに照らされた彼の顔は、緊張のためにこわばり、眉間には、深い皺が刻まれていた。
現像が終わり、ネガをチェックしてみた。
最初に、高温の現像液に漬けた部分は、やはり変質していた。
紙焼きにすると、乳剤膜に皺ができたためか、顔がぼやけていた。
全身から血の気が引いていく思いがした。その場に座り込みたかった。
しかし、力を振り絞るようにして、暗室を出ると、蒼白な顔で、写真部員に告げた。
「大変なことをしてしまったよ……」
話を聞いたメンバーは、言葉を失った。
愛郷 二十七
写真部員たちは、山本会長が日程をこじ開け、最前線で活躍する会員のために、記念撮影の時間をつくっていることを、よく知っていた。
また、各地の同志も、記念撮影を最大の喜びとし、仕事などを懸命にやりくりして、集って来ているのだ。
それだけに、皆、「失敗しました」と言ってすむ問題ではないことは、重々わかっていた。
彼らは、知恵を絞り、どうすれば写真が再現できるのか、検討した。
最良の案と思われたのは、新聞一ページほどの紙焼きを作り、ぼやけた部分を細い筆で描くなどして修整し、それを複写して、ネガにするという方法であった。
矢車は、総局長の青田進に経緯を説明し、善後策を相談した。事の重大さに青田の顔にも汗が滲んだ。
協議の結果、ともかく修整に全力を注ぐことになり、修整技術に優れた印刷会社の担当者に、写真を見てもらった。
「これなら、なんとかなるかもしれません」
その言葉に、一縷の望みを託し、修整を依頼した。
作業が終わったのは、約一カ月後であった。
だが、修整した顔は、やはり不自然さが目立った。目や眉が飛び出しているように見える人や、別人のような顔になってしまった人もいた。
矢車は、一瞬であっても油断し、なすべき時に、なすべきことを怠れば、いかに厳しい結果を招くかを、痛感し抜いていた。
しかし、どんなに悔やんでも、「後悔先に立たず」である。時は決して戻らないのだ。
矢車は、でき上がった写真を見せるために、総本山での夏季講習会に出席している、山本伸一のもとに向かった。
大客殿前に設けられた、テントの中にいた伸一のところに、写真を持参した。
「長野総合本部の記念撮影の写真です……」
恐る恐る、写真を差し出した。
伸一は、その写真に視線を注いだ。次の瞬間、彼の目が光った。険しい声が響いた。
「どうしたんだ、この写真は!」
「はい、大変に申し訳ございません!」
矢車は、深々と頭を下げ、現像で失敗したことを告げた。
愛郷 二十八
山本伸一は、矢車武史をはじめ、各地の記念撮影に携わってきた聖教新聞社の写真部員が、これまで涙ぐましいまでの奮闘を重ねていることに感謝していた。
それだけに、残念で仕方なかった。
事情を聞けば、一瞬の気の緩みから発した失敗である。
しかし、それが取り返しのつかない事態を引き起こしてしまう。そこに現実というものの、生きるということの、厳しさがあるといってよい。
「千日の功名一時に亡ぶ」との格言がある。
千日もの間、努力に努力を重ね、手柄を立て、名をあげたとしても、わずかな失敗から、あっけなく身を滅ぼしてしまうことをいう。
それまで、いかに頑張り抜いてきても、ちょっとした油断から、すべてが水の泡となった例は、枚挙にいとまがない。
何事においても、最後の最後まで気を緩めることなく、日々、自らを厳しく戒め、挑戦し続けていく人こそが、真の勝利者となるのだ。
伸一は、厳しい口調で語り始めた。
「失敗の原因は、いろいろあるだろうが、その本質は、慢心なんだ。
会員の皆さんは、この写真を生涯の宝にしようと思っている。それが台無しになれば、どれほど皆が悲しむか。
しかし、最初はそう思っていても、惰性化していくと、そうしたことを、真剣に受け止められなくなってしまう。
そして、“これまで失敗がないから、大丈夫なんだ”と高を括り、手抜きをするようになる。つまり、そこには、慢心が潜んでいるんだ。
その慢心が自分を滅ぼし、学会を滅ぼしていくんだ。
私は真剣勝負で戦っている。いい加減な者がいれば、足手まといになるだけで、迷惑なんだ!」
矢車もまた、伸一にとっては、大切な、愛すべき弟子である。
だから、失敗を重ね、人生の敗者になるようなことは、絶対にさせたくはなかった。それゆえに、伸一の言葉は、どこまでも厳しかった。
矢車は、自分が不甲斐なく、情けなさに涙が込み上げてきた。
この指導は、彼の肺腑を抉っただけでなく、記念撮影を担当する写真部員の心を、峻厳に目覚めさせたのである。
愛郷 二十九
矢車武史は、数日後、山本伸一が、「もう一度、時機をみて長野へ行き、記念撮影をしよう」と語っていたという話を耳にした。
矢車は安堵するとともに、緊張した。
伸一が、再び長野県を訪問したのは、松代訪問から四カ月後の十月のことであった。
今回は塩尻市(七日)と長野市(八日)で、二日間にわたって記念撮影を行うことになった。
この時、伸一は、十二日に正本堂建立の発願式を控え、役員会や発誓願文の原稿の作成などで、身をすり減らすような激闘が続いていた。
そのなかで記念撮影を断行したのだ。
七日午前、記念撮影の前に諏訪会館に立ち寄った彼は、疲労が重なり、同行の幹部に支えられるようにして、歩かねばならない状態であった。
だが、ここまで来て、引き返すわけにはいかなかった。
もう一歩、もう一歩と、力を振り絞り、死力を尽くして前進の歩みを運んでこそ、栄光の歴史が築かれるのだ。
会館で伸一は、同行のメンバーと勤行し、懸命に祈りを捧げた。「大生命力を授け給え」と。
この同行者のなかに、矢車の姿もあった。
彼は自分のせいで、二度も記念撮影を行う結果になってしまったことが、心苦しくてならなかった。
ところが、撮影会場に来てみると、メンバーは、また山本会長に会えると、大喜びであった。
皆の前に姿を現した伸一は、実に、威風堂々としていた。
「ご苦労さまです!
前回、撮った写真が失敗したもので、また、お集まりいただきました。本当に申し訳ありません。今度は大丈夫ですから」
そして、ファインダーをのぞく矢車を指さして言った。
「彼が失敗しちゃったんです。今度、だめだったら、クビにしますからいいでしょ」
笑いが広がった。再会の喜びにあふれた、温かい笑いであった。
その声を聞いて、矢車は、肩に覆い被さっていた重苦しさが、スーッと消えていくのを感じた。
ファインダーには、仏子たちのまばゆい笑顔が光っていた。次の瞬間、その映像が涙で曇った。
矢車は、夢中でシャッターを押した。
愛郷 三十
撮影の入れ替えの合間、山本伸一は、皆に気づかれないように、会場の体育館横の出入り口から、一人で外へ出た。
息苦しさを覚え、外の空気を吸って、休みたかったのである。
伸一が外に出ると、注意深く彼の行動に目を光らせていた、聖教新聞のカメラマンが追いかけてきた。
伸一の周りには、常に感動のドラマがあった。だから、聖教新聞のカメラマンや記者は、彼の動きから、一瞬たりとも目を離すわけにはいかなかったのである。
カメラマンが後についていくと、伸一は、表のコンクリートの階段に、一人で座っていた。
疲れきっているのが、よくわかった。積み重なった疲労が、伸一を押しつぶそうとしているかのようにも思えた。
人の気配を感じた伸一は、カメラマンの方に視線を向けた。そして、微笑を浮かべて言った。
「見られてしまったか……。ぼくが、こんなに疲れた姿を見せてはいけないよね」
それから彼は、深呼吸をし、自分を鼓舞するように、「さあ、行くぞ!」と言って、さっそうと、会場に入っていった。
伸一の姿を見ると、撮影台に並んだメンバーから、嵐のような拍手が起こった。
「ありがとう!
本当にご苦労様です。今日は、ゆっくり休んでください!」
力強い声であった。
「皆様方の敢闘、そして大勝利の様子は、全部、報告を受けており、よく存じ上げております。
広宣流布は、永遠の闘争です。ゆえに、何があっても、戦い続けていくことです。
昨日、しくじったならば、今日、勝てばよい。今日、負けたなら、明日は必ず勝つ。そして、昨日も勝ち、今日も勝ったならば、勝ち続けていくことです。
人びとの幸福のために、戦い抜いていくなかにこそ、仏の生命の脈動があるんです。そこにこそ、大歓喜があり、崩れざる幸福の大道が開かれていくんです。
さあ、また今日から、戦いを起こしましょう! 新しい希望の前進を開始しましょう!」
獅子吼を思わせる指導であった。
伸一の指導旅は、自己自身との壮絶な闘争であったといってよい。
愛郷 三十一
山本伸一は、常に望んでいた。
“最も大変な環境のなかで、苦労を重ねながら黙々と奮闘している同志を、草の根をかき分けるようにして見つけだし、讃え励ましたい”と。
だから彼は、大都市だけでなく、小さな町や村も訪問したかった。
だが、限られた日程のなかで、多くの会員と会い、激励しなければならないことから、なかなか思うに任せなかった。
それでもスケジュールを調整しては、可能な限り、中小都市にも足を運んだ。
六月二十三日の、長野県の小諸や松代の訪問も、そうして実現したものであったし、その九日前には、滋賀県の彦根を訪問している。
伸一は、七月には、九州、中部、東北を回り、二十四日からは伝統の夏季講習会に出席した。
八月の十一日に講習会が終わるや、十二日からは兵庫、福井、富山を回って、終戦記念日にあたる十五日には、岐阜の高山会館を訪問するため、高山市を訪れたのである。
高山は、緑の山々に囲まれた、美しく静かな街であった。
伸一が、高山訪問を決意したのは、前年の二月のことであった。
岐阜会館での記念撮影の折、高山から参加した一人の婦人が言った。
「先生! ぜひ、高山に来てください!」
その声には、胸に秘めた思いを凝結させたかのような、必死な響きがあった。
「わかりました。必ず伺います!」
そして、幹部に、高山方面の人びとの暮らしなどについて尋ねた。
「高山のある飛騨地方は、風光明媚なところです。しかし、交通の便は、いいとはいえません。
木工業や林業などが主な産業ですが、経済的に厳しい状態のなかで、苦闘しているメンバーが多いんです」
すると、伸一は、即座に決断した。
「そうですか。それなら、皆さんが活動しやすいように、高山に会館を設置しましょう。
飛騨の同志は、宿命転換の模範となって、全国に幸福の風を送ってもらいたいんです」
リーダーが人びとの声に素早く反応するところには、喜びと希望の前進がある。
愛郷 三十二
山本伸一は、なかなか高山に行く時間はとれなかったが、同志のことを思っては、題目を送り続けてきた。
一方、高山では、会館設置の準備が始まり、既存の二階建ての民家を購入し、改築工事が進められていった。
そして、前年の十月、飛騨地方の中心都市として栄えてきた高山市に、飛騨広布の牙城・高山会館が誕生した。
伸一は、この日、高山駅から、青年部員が運転してくれる車で会館へ向かった。
薄雲のなかに、乗鞍、穂高など、北アルプスの秀峰が浮かんでいた。
この高山市と吉城、大野、益田の三郡を擁する飛騨地方は山間の地であり、冬は深雪に覆われ、かつては“陸の孤島”といわれてきた。
人びとの気質は、素朴にして従順で、黙々と働くが、困窮生活を強いられてきた地域であるといわれている。
この飛騨には、民衆の辛酸と闘争、そして、勝利と栄光の歴史がある。
江戸時代の元禄年間、森林資源や鉱山資源が豊富であった飛騨は、幕府直轄の領地である天領となった。以来、人びとは、貧しいなかにも、天領民の誇りをもって暮らしてきた。
その飛騨で、明和八年(一七七一年)から、寛政元年(八九年)にかけて、明和、安永、天明と、悪政を糾弾する三回の騒動が起こっているのである。
この悪政の元凶である代官・郡代が、大原彦四郎紹正・亀五郎正純の父子であったことから、三回の騒動を総称して「大原騒動」といわれる。
大原彦四郎が飛騨の代官として着任したのは、明和三年(六六年)のことであった。
大原代官は、米の代わりに金納していた年貢の納期を、それまでより二カ月も繰り上げた。
また、山林の乱伐を防ぐ幕府の方針に則り、伐採を五年間休止することを通達した。それは、伐採の手当として米を支給され、生活していた山村民にとっては死活問題であった。
さらに、年貢の金納分の価格は、近隣諸国の米の時価から計算される変動値段制であったが、代官は、豊作・凶作による米価の変動を無視して、値段を定めようとしたのである。
愛郷 三十三
代官の大原彦四郎は、そのうえ、年貢の金納分を定値段制に改定するための、幕府への運動資金として、農民たちに三千両を要求してきた。
さらに、新しい夫役(強制的な労働)を課すことを申し渡した。
農民たちの怒りは、頂点に達した。
明和八年(一七七一年)十二月、対策を協議する集会が開かれた折、遂に農民の一部が暴徒化し、代官と結託していた商家を打ち壊すという、騒動が起こった。
また、飛騨の四十六カ村の名主・百姓代九十数人は、年貢の金納分の定値段制、新しい労役の拒否を申し合わせた連判状を作成した。
この連判状は、傘連判状といわれ、傘を開いたように、円形に、署名、捺印が並んでいる。
これは、誰から署名したのかわからないようにして、首謀者の特定を防ぐとともに、皆が平等の立場に立って団結するためであった。農民たちの知恵といえよう。
騒動に続いて、代官所への嘆願が行われると、代官は躍起になって弾圧を開始した。騒動に参加した者を次々と捕らえ、凄惨な拷問を行っていったのである。
やがて、安永三年(七四年)に、この騒動の判決が下るが、農民たちの一人が死罪、三人が遠島に処せられたほか、四十人以上が過失の償いとして金銭を出させる、過料などの罰を科せられることになる。
まだ、この処罰も決まらぬ安永二年(七三年)、幕命によって検地が行われることになった。
検地は年貢の徴収等のために実施される土地の測量調査である。
飛騨国は、八十年前の元禄時代の検地で四万四千石となっていたが、再検地によって石高を増やし、増税することが、その狙いであった。
当初、代官は、検地は新しく開墾した田畑だけであると明言していた。
ところが、実際に測量が始まると、古い田畑もすべて厳格に検地が行われていった。
“ただでさえ、食うや食わずの生活である。そのうえ、情け容赦のない検地で、年貢を増加されれば、死ぬしかない”
名主、百姓代らは、古い田畑の検地を取り止めるよう、願い出ることを決議した。
愛郷 三十四
農民たちは、約束を違えて、古い田畑まで測量するのは不当であると、代官所に申し出た。
だが、代官は、「うそは世の宝」と平然と答え、取り合おうとはしなかった。
“なんとしても、新田だけの検地にしてもらわねばならぬ!”
それが飛騨の農民たちの悲願であり、また、誓いであった。
悪辣なる権力への怒りこそが、民衆運動の原動力となる。
皆、藁をもつかむ思いで、必死になって対策を講じた。
検地に来た検地奉行に願い出るなど、あらゆるつてを使って、検地の中止を幕府に嘆願しようとした。だが、いずれも失敗に終わった。
しかも、その動きを知った代官は幕府に報告。関与した者は勘定奉行所に召喚され、徒党強訴として、拷問にかけられたのである。
このころ、幕藩体制の政治、経済面などの矛盾が露呈し、各地で百姓一揆などが頻発したことから、幕府は、徒党強訴を厳禁し、取り締まりを強化していた。
また、直訴を行った場合は、死罪などの厳罰に処していたのである。
しかし、飛騨の農民たちの、幕府への嘆願は続けられた。
江戸にも、飛騨三郡の村々の総代として、二十余人を潜行させていた。幕府の要人に、検地の取りやめを直訴するためである。
村人たちは、彼らに、残した家族の面倒をみることを約束した。
また、いかなる事態になっても、「決して犬死にはさせない」と固く誓って、彼らを送り出したのである。
江戸に潜んでいた農民は、嘆願の機会を狙っていた。
安永二年(一七七三年)七月、牧ケ洞村の善十郎ら六人は、登城途中の老中筆頭である松平右近将監武元の行列の駕篭に、嘆願の書状を渡すことに成功した。
彼らは、その場で逮捕された。
一方、前原村の藤右衛門らも、勘定奉行・松平対馬守忠郷の屋敷に、嘆願書を持って駆け込み、捕らえられたのである。
それでも、農民たちは、訴えが、ともかく幕府に届いたことに、一縷の希望をいだいた。
愛郷 三十五
江戸での出来事を知った代官の大原彦四郎は、駕籠訴の六人を出した村々の名主、組頭、百姓代の三役、さらに、飛騨の三郡二百八十三カ村の三役を呼び出した。
そして、江戸で直訴した者は、飛騨の村々の総代ではなく、また、検地は妥当な処置で苦情は申し立てない旨の文書を作らせ、捺印させたのである。
農民が皆、検地に反対となれば、代官の責任が問われることになる。それを恐れてのことにちがいない。
各村の三役も、自分たちがどんな咎めを受けるかと思うと、恐れが先に立ち、代官に屈してしまったのである。
地位ある者たちの、わが身かわいさの卑劣な裏切りであった。
いつの世も、保身に汲々とする臆病者の姑息さこそ、悪を肥大させていくのである。
だが、この裏切りに 憤り、敢然と捺印を拒否した人びとがいた。
その中心人物の一人が、本郷村の青年・善九郎であった。
「決して、犬死にはさせないと言っておきながら、なんだ!」
善九郎の若々しい五体には、煮えたぎるような義憤が脈打っていた。
善九郎は、決然と立ち上がった。
村で集会が開かれた。一人の青年の勇気が、正義の炎の叫びが、村人の心を燃え上がらせた。
九月下旬から、大野郡宮村に、各村の農民が合流し、大集会を開き、ここを根城として、気勢をあげた。
夜には随所に篝火が焚かれ、皆の怒りを表すかのように、紅蓮の炎が空を焦がした。
宮村には、時には、数千人とも、一万人ともいわれる人びとが集った。
彼らは、徹底して団結を呼びかけた。
団結こそが、権力に抗し得る、民衆の唯一の力であることを知っていたからだ。
農民たちは、暴力に訴えようとはしなかった。
代官側に立つ高山の町民に対しても、米や炭、野菜など、生活必需品等をいっさい売らないという不売同盟を結び、経済封鎖をもって戦った。
また、協議の末に、三千人が代官のもとに行き、年貢の延納や拷問の中止などを嘆願したのである。
愛郷 三十六
大原代官は、農民の数に圧倒されてか、事を荒立てまいと、まことに色好い返事をした。
農民たちは、あまりにも純朴であった。願いは叶えられたと思い、「ありがたい」「ありがたい」と、声をあげて喜び合ったのである。
だが、代官は、近隣諸藩に出兵を要請し、請願運動の大弾圧に踏み切ったのであった。
悪に騙されてはならない。奸智を見抜けぬ人のよさは、正義の無残な敗北の原因となる。
十一月半ば、武装した数百人の武士が、農民たちが集っている宮村を急襲した。
宮村の水無神社にいた農民は、ここは聖域であり、役人といえども、踏み込むことはないと信じていたが、武士たちは容赦なく襲いかかった。
武器も持たず、逃げ惑う農民に、鉄砲が乱射され、槍が唸り、剣が振り下ろされた。境内は血に染まり、阿鼻叫喚の地獄絵図が現出した。
結局、死者、そして、数多くの負傷者を出し、数百人が捕らえられた。若きリーダーの善九郎も逮捕された。
これが世に言う「安永騒動」である。
逮捕者の多さから、牢屋を新築しなければならないほどであった。
取り調べは、過酷を極め、前にも増して激しい拷問が繰り返された。
鎮圧から約一カ月後の十二月十八日、江戸で駕篭訴や駆込願をした村人が処刑された。
その首は塩漬けにされ、年の瀬も押し詰まった二十七日、高山に送られて来た。
首は、刑場の桐生川原にさらされた。
数日前から降り続いていた雪は、この夜、一段と激しさを増したが、人びとは続々と、弔いのために刑場を訪れた。
自分たちのために殺された、無残な同胞の姿を目にした村人の胸には、悲しみと、怒りと、絶望が交錯していた。
雪で凍てた目から、熱い、悔し涙があふれた。
年が明けた、安永三年(一七七四年)二月、中断されていた検地が再開された。
この検地によって飛騨は五万五千余石となり、約一万一千石が増石された。さらに重い年貢が、農民の暮らしを圧迫することになった。
農民の悲痛な訴えは、何も聞き入れられなかったのだ。
愛郷 三十七
騒動で逮捕された村人の処罰が行われたのは、安永三年(一七七四年)の十二月のことである。
磔 が四人、獄門七人、死罪(打首)二人、そのほか、遠島、追放に処せられた人もあり、過料は九千人を超えている。
若き指導者として勇敢に戦った、十八歳の善九郎も獄門と決まった。
彼には、十六歳の若妻がいた。
できることなら、生きて妻のもとへ帰りたいとの思いはあった。だが、その望みは絶たれた。
しかし、彼は泰然としていた。もとより死を覚悟のうえで臨んだ戦いであった。
だからこそ、何ものも恐れなかった。
“覚悟の人”は強い。
人びとは、年は若くとも、その決定した生き方に、指導者として信頼を寄せ、敬服してきたのであろう。
獄門を言い渡された者は、牢屋の前で、次々と首を斬られていった。
いよいよ、善九郎の番である。彼は名前を呼ばれると、役人に辞世の言葉を書き留めてほしいと、丁重に頼んだ。
「寒紅は 無常の風に さそはれて 莟みし花の 今ぞちり行く」
「常盤木と 思ふて居たに 落葉かな」
彼は、役人に一礼すると、自ら太刀取りに、合図の会釈をした。
いさぎよい最期と、称えぬ者はなかったと、史書は伝えている。
一方、代官の大原彦四郎は、検地を行って増石した功績によって郡代へと昇格した。
また、代官側についた者には、名字帯刀が許されるなど、論功行賞があったのである。
民衆の決起を何よりも恐れる権力は、巧みにアメとムチを使い分ける。そして、決起の芽を徹底して摘み取るために、弾圧は、執拗、凄惨を極めるのだ。
だが、飛騨の人びとの、権力の横暴と戦わんとする、魂の火は消えなかった。
苦渋の灰のなかで、抵抗の埋み火は燃え続けていったのである。
大原彦四郎が亡くなると、天明元年(八一年)に、子の亀五郎正純が郡代となった。
その翌年ごろから、大凶作による深刻な飢饉が始まった。「天明の大飢饉」である。
草の根や木の皮まで食わねばならぬような、悲惨なありさまであった。
愛郷 三十八
大飢饉による苦悩に追い打ちをかけるように、天明四年(一七八四年)の三月に、高山で大火が起こった。被災者は六千数百人に及んだ。
人びとが窮乏のどん底であえいでいる、このさなかに、郡代の大原亀五郎は、本来、返すべき年貢の過納金を献納するように申し渡すなど、無理難題を押しつけてきたのである。
民衆は、三たび立ち上がった。
郡代の不正を明らかにするために、代表が江戸に赴き、天明八年(八八年)、老中となっていた松平定信の屋敷などに、たびたび訴状を張りつけ、直訴することに成功したのだ。いわゆる「張訴」である。
また、領内を監察する幕府の巡見使が飛騨を訪れた折にも、飛騨の窮状と郡代の不正を訴えることができた。
さらに、江戸では、松平定信に駕籠訴もするなど、直訴が繰り返されたのである。
この命がけの訴えが、遂に幕府を動かした。
郡代の大原亀五郎正純が江戸に召喚された。
そして、寛政元年(八九年)十二月、取り調べの末に、とうとう判決が下ったのだ。
不正を働き、農民を苦しめた大原亀五郎は、八丈島に送られることになったのである。
ほかの役人たちも、二人が死罪になったほか、遠島、追放など、厳しく処罰された。
一方、農民の側は、一人が死罪になりはしたが、全体的には、至って軽い裁きとなった。
悪名高い田沼時代が終わり、松平定信による綱紀粛正が行われていた時とはいえ、農民側の訴えが、ほぼ全面的に受け入れられ、処置も寛大であったのは、異例のことといってよい。
大原父子の二代にわたる暴政に、遂に民衆が勝利したのである。
文豪・魯迅は言った。
「歴史に記録されている改革事業の多くは、倒れては立ち、また倒れては立ちして、来者(後進の徒=編集部注)に引きつがれる」(注)
この飛騨の民衆の凱歌も、数多の犠牲者の屍を乗り越えて、闘魂が受け継がれ、成し遂げられた壮挙であった。
敗れても、敗れても、また立ち上がる、怒濤のごとき不屈の闘争のなかにのみ、民衆の勝利の栄光は輝くのだ。
語句の解説
◎松平定信など
松平定信(一七五八〜一八二九年)は、江戸後期の老中。田沼時代の悪政を正す寛政の改革を断行。倹約を奨励して、社会の気風を引き締め、幕府の財政難を救い、農村の復興をはかるための諸政策を推進した。
田沼時代は、田沼意次(一七一九〜八八年)が、側用人、さらに老中として幕政を握り、約二十年間にわたって、権勢をほしいままにした期間(老中の時代に限定したものなど諸説ある)。賄賂政治を横行させるなど社会の腐敗を招いた。
引用文献
注『魯迅文集3』竹内好訳、筑摩書房
愛郷 三十九
近代になっても、飛騨地方の民衆は、貧苦を強いられてきた。
この地方の、多くの乙女たちが、野麦峠を越え、諏訪地方などの製糸工場に働きに行き、過酷な労働条件のなかで“女工哀史”を綴ったことはよく知られている。
飛騨に鉄道が通り、ようやく岐阜・富山間の全線が開通したのは、一九三四年(昭和九年)のことであった。
この山深い飛騨の地に住む人びとにとっては、互いに結束を固め、自分たちの身は自分たちで守り合うことが、生きるための知恵であった。
しかし、それが閉鎖性となり、旧習の根深さともなっていた。
飛騨地方に初めて妙法の火がともったのは、五八年(同三十三年)のことである。
六〇年(同三十五年)には、飛騨地方初の地区として高山地区が誕生し、六四年(同三十九年)には、飛騨支部が結成されている。
だが、自分たちの伝統を守り抜こうとする意識が強い土地柄だけに、弘教を進めることは容易ではなかった。
入会して、村八分にされ、水道を止められてしまった人もいれば、親から勘当された人もいた。
それでも、同志は負けなかった。
“飛騨の宿命を転換し、幸福の花咲く里にしていくのが、私たちの使命だ。だから、何があっても挫けるわけにはいかない!”
こう自らに言い聞かせながら、メンバーは、粘り強く、勇んで広宣流布の道に邁進してきたのである。
そして、山本伸一が高山を訪問する、六カ月前の六七年(同四十二年)の二月には、飛騨に念願の総支部が誕生したのだ。
総支部長を務める土畑良蔵は、四十一歳の純朴そうな、やや小柄の壮年であった。
土畑は飛騨の農家の生まれで、生後十カ月で父親を亡くしていた。
以来、母親が懸命に四人の子どもを育てた。
幼心に、彼は思った。
“母ちゃんに少しでも楽をさせたい!”
母親の手助けをしようと、七歳になったころから、朝早く起きて、草刈りをした。
慣れぬ野良仕事に、鎌で手に傷をつけることも、しばしばあった。
愛郷 四十
土畑良蔵は十八歳になると、陸軍を志願した。
彼の兄は、少年航空兵となり、戦死していた。その敵を討ってやりたいとの思いから、志願したのである。
しかし、翌年には終戦となった。
やむなく、松根油製造の会社に勤務した。松根油とは、松の木からつくった油のことで、溶剤や防腐剤、自動車の燃料などに使われていた。
その会社の経営は、至って苦しかった。松根油の需要は減り続ける一方であったからだ。
土畑は低賃金に甘んじてきたが、やがて、友人と薪製造の工場を共同で経営することにした。
そして、結婚すると、自分で薪製造の会社を始めた。
数年は、会社は順調であったが、薪も、石油やプロパンガス、電気などのエネルギーに取って代わられ、次第に経営は行き詰まっていった。
土畑は、努力をすれば幸せになるとの信念で、人一倍働いてきた。
しかし、時代の大きな波の前には、自分の努力は、あまりにも無力なものに感じられた。
毎日、必死で金策に走り回ったが、そんな自分が、沈没する船のなかを駆けずり回る、ネズミのように思えた。
もともと大好きだった酒の量が一段と増え、収入の大半は酒代に消えた。夫婦仲も険悪になっていった。
飛騨の山々が新緑に染まり始めても、彼の胸には、吹雪が吹き荒れ続けていた。
そんな土畑の一家を見るに見かねて、学会員であった親戚が、折伏にやって来た。
彼は、「神の国」とされてきた日本が、戦争で負けて以来、“宗教はまやかしだ。神も仏もあるものか。騙されてたまるか!”と思ってきた。
だから、信心の話が始まると、すさまじい勢いで怒鳴りつけた。
「俺は宗教なんか大嫌いだ。二度と来るな!」
だが、それでも、親戚の学会員は、何回も通って来た。そして、真心を尽くして、人間の宿命や、仏法とは何かを、諄々と語っていった。
理路整然とした話であった。また、何よりも確信にあふれていた。
土畑の宗教観が、揺らぎ始めた。
「誠実さ」と「粘り強さ」が、人の心を動かしていくのだ。
愛郷 四十一
土畑良蔵が妻の康子とともに、入会に踏み切ったのは、一九五八年(昭和三十三年)の十一月のことであった。
学会員の語る「人間革命」という話に、共感したのである。
入会前、夫婦の争いの種は、たいてい良蔵の飲酒であった。
乏しい収入を酒につぎ込むことが、康子は我慢できなかったのだ。
良蔵も、内心は酒をやめようかと思ってはいたが、飲まずにはいられなかった。いつも彼の傍らには、一升瓶が置かれていた。
ところが、信心を始めて四日目、酒を口にすると、妙な苦味を感じた。昨日も飲んでいた、同じ酒である。
どこか、体が悪いのではないかと考えたが、体調は至ってよかった。
以来、酒はほとんど飲めなくなり、結局、やめてしまった。
あれほど手放せなかった酒を断てたことに、土畑夫妻は信心の功徳を実感した。
また、勤行・唱題し、学会活動に励むと、生命力が体中にみなぎり、歓喜が込み上げてくるのを感じた。
しかし、仕事の方は、なかなか上向きにならなかった。
やむなく、薪の製造工場を閉め、証券や保険の営業の仕事をして、どうにか食べていった。
康子も保険の集金の仕事を始めたが、それでも子どもの学校の給食費さえ、満足に払えないようなありさまだった。借金もかさんでいった。
しかし、土畑良蔵の胸には、既に仏法への確信と、広宣流布への使命感が芽生えていた。
“俺は負けんぞ。この信心で貧乏の宿命を乗り越えてみせる。そして、自分が幸せになるだけでなく、この飛騨を、幸福の里にしていくんだ!”
彼は、弘教に、同志の激励にと、全力で走り抜いた。
六一年(同三十六年)には、土畑は地区部長になったが、このころが、最も生活が厳しい時であった。
広布の活動のために、自宅に引いた電話であったが、その電話料金も払えず、止められてしまうことも多かった。
同志から、いつかけてもつながらないと苦情が出ると、土畑は、こう笑顔で答えるのであった。
「すいませんね。故障しているもので……」
愛郷 四十二
土畑良蔵の家に借金の取り立てに来る人は、座談会が開かれている時間を狙ってやって来た。
この時ならば、逃げ隠れしないだろうと計算したようだ。
座談会の最中に、土畑は、何度も座を外して、返済の延期を頼み込まなければならなかった。
経済苦の宿命は、容易には転換できなかった。
だが、彼は、黙々と、懸命に働き続けた。譲り受けたトラックを使って、屑鉄の運搬の仕事にも携わった。
トラックといっても、左のドアが閉まらず、ドアをサイドブレーキに縄で縛りつけねばならないような、壊れかけた車である。
もちろん、スピードも出なかった。
ある時、名神高速を走行中、「スピード違反」で捕まってしまった。時速五十キロメートル以上で走行しなければならないのに、三十五キロメートルで、のろのろ運転していたからだ。
屑鉄を積むと、それしかスピードが出ないのである。
土畑は、そのオンボロ車で、意気軒昂に、飛騨の山道を駆け巡った。
そして、支部長、さらに総支部長として活躍するようになり、この一九六七年(昭和四十二年)八月十五日、山本会長を高山に迎えたのである。
だが、まだ土畑は、苦境からは脱しきれず、必死に試行錯誤を繰り返していた時であった。
山本伸一は、飛騨の人びとが、長い間、いかに苦悩の辛酸をなめてきたかを、よく知っていた。
また、飛騨の同志が、大変な環境のなかで、郷土の人びとの幸福を願い、いかに黙々と奮闘し続けてきたかも、よくわかっていた。
だからこそ、その同志を、生命の限り、励ましたかった。その胸中に、勇気と希望の火をともしたかった。
伸一は、飛騨の安穏と繁栄を祈り念じて、緑深き山々に題目を染み込ませる思いで、車中、懸命に唱題を重ねた。
彼が高山会館に到着したのは、午前十一時過ぎであった。会館は人で埋まり、路上にまで、メンバーがあふれていた。
伸一の姿を見ると、歓声があがった。
彼は、語りかけた。
「お世話になります。
飛騨は、美しい、いいところだね。
さあ、飛騨の夜明けを開きましょう!」
愛郷 四十三
やがて、厳粛に勤行が始まった。
この部屋にはクーラーはなく、扇風機が回っていたが、会場を埋め尽くした参加者の熱気で、温度は急上昇し、うだるように暑かった。
伸一も体中に汗をかきながらの勤行であった。
勤行、同行の幹部らのあいさつなどのあと、伸一は、懇談的に話を進めた。
「遂に、念願の飛騨にやって来ました。
皆さんとお会いできて、大変に嬉しい」
またしても歓声があがり、大きな拍手が鳴り響いた。
「ところで、今日、八月十五日は、あの悲惨な戦争にピリオドが打たれた、終戦の記念日です。
日本は、その敗戦のなかから立ち上がり、今日の繁栄を築いてきた。
一国の歴史を見ても、さまざまなことがある。個人の一生のうちにも、いろいろなことがあるでしょう。幾多の苦難にも遭遇するでしょう。
それが人生であり、生きるということです。
だから信心をしたからといって、悩みや苦しみがなくなるということではありません。
要は、その苦難に負けずに、悠々と乗り越えていけるのかどうかです。それによって、人生の勝敗も、幸・不幸も決まってしまう。
人間としての偉大さや強さと、社会的な地位や立場とは、別問題です。
どんなに大変な状況や最悪な事態になっても、挫けることなく、希望をもち、勇気をもって前進できる人こそが、真の勇者です。
そして、いかなる苦難に直面しようが、いかに宿命の嵐が吹き荒れようが、それらを全部、打開し、転換していく力の源泉が信仰なんです。
また、そのための御本尊なんです。
したがって何があろうが、生涯、御本尊を持ち続け、学会から離れず、粘り強い信心を貫き通していってください。
そうすれば、必ず功徳の花が咲きます。何ものにも負けぬ自己をつくり上げ、崩れざる幸福を築くことができます」
伸一の顔にも、参加者の顔にも、大粒の汗が光っていた。
だが、メンバーは、暑さなど忘れたように、瞳を輝かせながら、真剣に伸一の話を聞いていた。
愛郷 四十四
山本伸一は、言葉をついだ。
「御書には『人の心かたければ神のまほり必ずつよし』(一二二〇ページ)とあります。
信心の心が強ければ強いほど、諸天善神の守りも強くなるんです。
御本尊には、無限の仏力、法力が具わっています。その大功徳を引き出していくのが、大聖人の仰せ通りの信心と実践、つまり、信力、行力なんです。
ところが、唱題に励んでいても、『こんなに大きな願いは、叶いっこないだろう』などと、御本尊の力を疑っている人が、よくおります。
だめだと思いながら祈っているんですから、これでは願いが叶うわけがありません。
皆さんだって、『どうせ、あなたに頼んでもむだでしょうが、力を貸してください』なんて言われたら、絶対に協力するものかと、思ってしまうでしょう。
ですから、御本尊への純粋にして強き信の一念が、また、感謝の祈りが、功徳を引き出していく要諦になるんです。
御本尊の偉大な功徳力からすれば、皆さんの願いなど、まだまだ、小さなものです。
どうか、もっともっと強い信心に立って、もっともっと大きな功徳を受けてください。
今度、私が来る時は、女性はすばらしい着物を着て、男性は超高級の背広を着て、ピカピカの新車に乗って、『こんなに幸せになれました』と言って、駆けつけていただきたいんです」
このころ、飛騨のメンバーのなかで、車を持っている人は、極めて少なかったし、多くの会員が経済苦と戦っていた。
だから、皆には、夢のような話に思えた。しかし、それが、希望の光源となっていったのだ。
伸一は、話が一段落すると、言った。
「今日は、外にもたくさん人があふれていますので、今、この部屋にいる方は、外に出て、入れ替わっていただきたいんですが、よろしいでしょうか」
皆が、笑顔で頷いた。
彼は、会場に入れないでいるメンバーのことが、ずっと気になっていたのだ。
「では、大変に申し訳ありませんが、静かに立ち上がってください」
伸一は、整理役員に早変わりした。
愛郷 四十五
会館の中にいたメンバーが退場すると、山本伸一は、縁側まで出て、外にいた人たちに、手招きして言った。
「どうぞ、中にお入りください」
「ワーッ」という歓声があがった。
場内は、たちまち、新しい笑顔で埋まった。
伸一は、このメンバーとともに、二度目の勤行をした。
その伸一の後ろで、歓喜に頬を紅潮させて、懸命に唱題する、一人の子どもがいた。丸山圭子という、十歳になる少女であった。
彼女は、今、自分がここにいることが、夢のように思われた。
――圭子は、物心ついた時から、信心に励む両親の唱題の声を聞きながら育った。
彼女が、自ら題目を唱えるようになったのは、“いじめ”を苦にしてのことであった。
赤ん坊の時に、棚の上から落ちてきた植木鉢が左手の中指にぶつかり、怪我をした。
それがもとで指が不自由になったことから、幼稚園に入ると、“いじめ”にあったのである。
周りの子どもたちから、好奇の目で見られ、日々、心ない言葉を浴びせられ続けた。仲間外れにもされた。
圭子は、自分の左手が呪わしかった。
だんだん引っ込み思案になっていき、小学校では、授業中に発言することもなくなっていった。
そんな圭子を、両親は、こう言って励ました。
「人を差別したり、いじめたりする子は、心の貧しい子なのよ。
しっかり、お題目を唱えなさい。そうすれば、そんなことで挫けない、強い子になれるわよ」
また、女子部の先輩も激励を重ねてくれた。
「山本先生は、学会っ子は“獅子の子”だって言われているのよ。
“獅子の子”は、何があっても泣いたりしちゃいけないわ。圭子ちゃんも、絶対に負けないで頑張ってね」
その励ましが、圭子に希望を与えた。
彼女は真剣に祈った。すると、勇気がわいてくるのを感じた。もう泣くまいと思った。
唱題を続けるなかで、次第に明るさを取り戻していった。授業中も、進んで手をあげるようになった。
愛郷 四十六
丸山圭子にとって、左手の中指が不自由であることは、やがて、何も苦にならなくなった。
圭子は、女子部の先輩から、よく山本会長の話を聞かされた。
「山本先生は、社会の平和と人びとの幸福のために、世界を駆け巡っていらっしゃるのよ。
先生は、私にとって人生の師匠なのよ」
先輩から話を聞くうちに、圭子は、ぜひ、自分も山本会長に会いたいと思った。
「どうすれば、山本先生にお会いすることができるんですか」
「そうねー。祈りとして叶わざるはなしの御本尊なんだから、しっかりお題目を唱えれば、必ずお会いできるわよ」
以来、圭子は、山本先生とお会いできますようにと、真剣に唱題を始めたのである。
そして、数日前、支部長、支部婦人部長をしている両親の語らいから、八月の十五日に、山本会長が高山に来ることを知ったのである。
彼女の唱題は、ちょうど、百五十万遍になんなんとしていた。
「ねえ、私もその会合に行っていい?」
両親に尋ねると、母親が答えた。
「だめよ。この日は、子どもは参加できないことになっているの。
あなたは、おうちで妹と留守番をしていてね」
十五日の当日、両親は朝から、会館に出かけていった。
圭子は、家で題目を唱えていると、どうしても山本会長に会いたくてたまらなくなった。
“一目だけでも、山本先生にお会いしたい。
そうだ。会館に行く国道に立っていれば、先生の乗った車を見ることができるかもしれない。行ってみよう!”
彼女は家を出た。
三十分ほどで、ようやく国道に着いた。
もう少し、会館の近くに行ってみようと、国道を歩いていった。
途中のグラウンドに、大勢の人が並んでいた。
皆、学会員のようだ。
ここは、高山会館に行くメンバーの、待機場所になっていたのである。
圭子は、母親との約束を思い出し、両親に会わないように、木陰に身を潜めていた。ところが、整理役員の青年に見つかってしまった。
「あなたも、ちゃんと列に入って、並んでいてください」
愛郷 四十七
しばらくすると、待機していたメンバーは、高山会館に移動することになった。
丸山圭子は、留守番をしないで、ここに来てしまっただけに、気がとがめた。
でも、皆が動き始めると、自分だけ列から抜け出し、家に帰るわけにはいかない気がして、一緒に歩いていった。
両親に会ってしまうのではないかと思うと、胸がドキドキした。
会館に着くと、しばらく庭で待機したあと、入れ替えとなり、会場に誘導された。
彼女は後ろから押され、いつの間にか、最前列になっていた。
その目の前に、会いたいと祈り念じてきた山本会長の姿があったのだ。
伸一の真後ろで勤行をしながら、圭子は、信じられない気持ちだった。
“御本尊様はすごい!
願いが本当に叶ってしまった!”
唱題しながら、感激で胸がいっぱいになった。
伸一は、勤行が終わり、皆の方を振り向くと、最前列に、かしこまるようにして座っている圭子に声をかけた。
「私の横にいらっしゃい!」
ところが、圭子は、緊張して、その言葉も耳に入らなかった。
伸一に同行してきた清原かつが、圭子に向かって手招きした。
それに気づいた彼女は、清原の方に歩み出て行った。
「あら、私の方じゃないわよ。山本先生が横にいらっしゃいと言ってくださっているのよ」
その声に、場内には、明るい笑いが広がった。
圭子が、ようやく伸一の横にやって来た。
「何年生?」
「五年生です」
「そうか。お父さん、お母さんを大切に。また、しっかり、勉強するんだよ」
伸一は、未来を担うのはこの子たちだと思うと、声をかけずにはいられなかったのである。
彼は、記念として少女に何か贈りたいと思ったが、あいにく何も用意していなかった。
そこで、宝前に供えられていた、菓子を取ると圭子に渡した。
「さあ、お土産だよ」
圭子は、菓子をもらうと、嬉しさと恥ずかしさに顔を赤らめ、礼を言うのも忘れて、元の位置に戻った。
愛郷 四十八
束の間の出会いであったが、山本伸一の励ましは、丸山圭子という一少女の幼い胸に、使命の光を注いだ。
彼女は、山本会長の期待を感じ、“頑張ろう。勉強にも挑戦しよう”と、心に誓いながら、家路を急いだ。
それから十一年後の、一九七八年(昭和五十三年)七月、圭子は、名古屋の中部文化会館で行われた中部の記念の幹部会で、再び、伸一の激励を受けることになる。
伸一は、この時、地元の幹部から、高山訪問の折に励ました少女が、高山の女子部本部長として、幹部会に集って来るという報告を聞(き)いた。
彼は、飛騨の地に植えた種子が、花開いたような喜びを覚えた。
そして、すぐに句を認め、会合の席上、担当の幹部から、手渡してもらうことにしたのである。
あな嬉し
花の広布の
君が舞
幹部会で名前を呼ばれ、壇上に立った圭子に、伸一は懐かしそうに語りかけた。
「高山に行った時には、あなたは小学校の五年生だったね。よく覚えているよ。
私はこれからも、ずっと見守っていきます」
伸一は、彼女の成長と幸福を、心から願った。
自分に負けないで、生涯、広布の道に邁進してほしいと思った。
皆のために、黙々と、謙虚に、誠実に働き、誰からも信頼されるリーダーに育ってほしかった。
信頼こそが、地域広布を推進する力となるからである。
高山会館で伸一は、魂をとどめる思いで、メンバーに声をかけながら、指導を重ねていった。
冷房のない、人でぎっしりと埋まった部屋は、窓を開け放ってはいても、蒸し風呂のようであった。
同志を激励し続ける伸一の体は、びっしょりと汗に濡れ、何度か、軽いめまいを覚えた。
だが、彼は、力を振り絞るように、皆に語りかけた。
「皆さんの手で、必ず飛騨に、『幸福の花園』を、『人間共和の故郷』を築いていってください。これだけの同志が本気になって立ち上がれば、絶対にできます。断言しておきます」
愛郷 四十九
最後に、山本伸一は、こう語って話を結んだ。
「私は、皆さんのことは、永遠に忘れません。
飛騨には、なかなか来ることはできませんが、皆さんのご健康とご長寿を、また、ご一家と飛騨の地域の繁栄を祈っております。お題目を送り続けます。お元気で!」
伸一が高山会館を後にしたのは、午後二時過ぎであった。
空には、夏の太陽が燃え、うだるような暑さであったが、メンバーは、シャワーを浴びたような爽快さを感じていた。
涼風が生気を蘇らせるように、伸一との出会いが、新しい活力を呼び覚ましたのである。
ところで、飛騨は、このころから観光の名所として人気を集め、飛躍的な発展の軌跡を描いていくことになる。
行政も本格的に観光に力を注ぎ始め、この年には、高山市の観光用の映画も作られた。
さらに翌年には、高山地区が中部圏都市開発区域の指定を受け、国の補助が出され、道路整備など、開発が進められることになった。
そして、江戸時代の郡代・代官所の高山陣屋をはじめ、数々の文化遺産をもつ高山市や、合掌造りで知られる白川郷などが、“心のふるさと”として、脚光を浴びるようになっていった。
また、何よりも、飛騨地方の風光明媚な大自然が、多くの人びとを魅了していったのである。
高山市を見ても、伸一が訪問する前年の一九六六年(昭和四十一年)には、観光客は年間約十九万人にすぎなかったが、六八年(同四十三年)には二倍の約三十八万人に増加。
七四年(同四十九年)には約二百万人となり、以来、今日に至るまで、日本有数の観光地として人気を博している。
こうした繁栄の陰には、地域の発展を祈り、わが使命としてきた、多くの同志の知恵と献身が光っている。
昔から村に受け継がれてきた伝統文化を復興させようと、塾を発足させた婦人もいる。
村の旅館組合の組合長や連合町内会の会長、村の社会教育委員会の委員などとして、地域の振興に尽力してきた学会員も少なくない。
愛郷 五十
やがて、飛騨の山河には、功徳の花々が咲き薫っていった。
総支部長だった土畑良蔵も、後年、新たに始めた運送関係の仕事が軌道に乗り、生活も安定。後継者にも恵まれ、意気揚々と、飛騨の広布に走り続けた。
旅館業で成功を収めた人もいる。家庭不和や病を乗り越えた人もいる。それぞれが見事な幸福の花園を築き上げていったのである。
村(町)おこしや地域の活性化は、どこでも切実な問題であるが、特に過疎の村や山間の地などにとっては、存亡をかけた大テーマであろう。
だが、住民が、その地に失望し、あきらめをいだいている限り、地域の繁栄はありえない。
地域を活性化する源泉は、住民一人ひとりの愛郷の心であり、自らが地域建設の主体者であるとの自覚にある。いわば、住民の心の活性化にこそ鍵がある。
大聖人は仰せである。
「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処は山谷曠野皆寂光土なり」(御書七八一ページ)
いかなるところであろうが、私たちが信心に励むその場所が、仏のいる寂光土となる。
ゆえに創価の同志は、現実を離れて、彼方に理想や幸福を追い求めるのではなく、自分のいるその地こそ、本来、宝土であるとの信念に生き抜いてきた。
そして、いかなる逆境のなかでも、わが地域を誇らかな理想郷に変え、「幸福の旗」「勝利の旗」を打ち立てることを人生哲学とし、自己の使命としてきた。
地域の繁栄は、人びとの一念を転換し、心という土壌を耕すことから始まる。
そこに、強き郷土愛の根が育まれ、向上の樹木が繁茂し、知恵の花が咲き、地域は美しき幸の沃野となるからだ。
また、そのための創価の運動なのである。
今、高山市内には、二〇〇二年(平成十四年)の完成をめざして、「二十一世紀研修道場」の建設が進んでいる。敷地内には、高山文化会館も誕生する。
それは、飛騨の新しき栄光の未来を築く、光源となるにちがいない。
(この章終わり)