クレオパトラとシーザーの暦

前田稔(Maeda Minoru)の超初心者のプログラム入門

どうして、31日間の大の月と30日間の小の月があるのか? また、閏年はどのように決められているのか? これらの秘密は、古代ローマにまでさかのぼります。

農耕を生活の中心としていた古代の人々にとって、季節の周期を知ることはとても重要なことでした。
そして自然界には、時の流れを測る単位として、昼夜がめぐる1日、月の満ち欠けが一巡するひと月、 季節がひと回りする1年があることに気づきます。
このうち、1日とひと月の組み合わせを基本とする暦が太陰暦、1日と1年の組み合わせを基本とする暦が 太陽歴と呼ばれているものです。

古代ローマでは、ひと月と1年の組み合わせにこだわった、1年が355日の太陰太陽暦(ローマ暦)が使われていました。
つまり、季節が一巡りするには、月の満ち欠け(新月~満月~新月)の周期29.53日を12回繰り返すと、 ほぼもとの季節に戻るため、これを1年としていたのです。
29.53日×12カ月=354.36日(切り上げて355日で1年)
このため、実際の1年とでは10日あまりのズレが生じてしまいます。
そこで、暦と季節の移り変わりを一致させようと努力しましたが、だれも妙案を考えることができませんでした。

この難問を解決したのが、ジュリアス・シーザー(ユリウス・カエサル)です。
そしてそのヒントはエジプトにありました。
エジプトでは、ナイル川が氾濫する時期を知るために、長年にわたり天体の観測がおこなわれてきました。
その結果、明け方太陽が昇る直前、東の空にシリウス星が輝きだす頃、きまってナイル川が増水することを見つけます。
そして、このシリウス星が姿をあらわす周期が365.25日だということから、1年を365日とする暦が使われていたのです。

エジプトへ遠征したシーザーは、クレオパトラと恋をし、彼女を王位に復帰させるべくエジプトに長く滞在することになります。
おそらく、この時にエジプトの優れた文明に触れ、エジプト暦の存在も知ったのではないでしょうか。
ローマに帰国したシーザーは、エジプトから天文学者のソシゲネスを招いて改暦を行います。
その内容は「1年を12カ月365日とし、余りについては、4年ごとに1日の閏日を挿入する」というものでした。

旧来のローマ暦では、年始(お正月)は3月で、2月が年末でした。
シーザーはこのローマ暦の月の順番だけは尊重し、3月から順に31日,30日,31日,・・・と交互に繰り返していき、 最後の2月を29日、閏年の時は30日にすると決めます。
そして、年始を1月にするとともに、自分の誕生月の7月をユリウス(英語でジュライ)と改名しました。
ローマ歴とエジプト歴がひとつになり、世界で初めて法令で閏年を規定したユリウス歴の誕生です。紀元前45年のことでした。

このユリウス歴に手を加えたのが、シーザー暗殺後にローマ帝国初代皇帝となったアウグストウス(オクタヴィアヌス)です。
「7月がシーザーの月なら、8月は私の月だ」と、8月をアウグストゥス(英語でオーガスト)に改めます。
そして、自分の月が「小の月」なのを嫌い、8月を31日にして、その分2月を1日減らして28日としました。
この結果、7月・8月と「大の月」が続くので、9月から12月までの大・小の順番を入れ替え、現在のような月々の日数に なったのです。
以来、ユリウス歴は1600年以上も使われてきました。

ところが1600年の間に、実際の季節と暦が徐々にズレていき、16世紀末にはその差が10日あまりにも達してしまいました。
そこで1582年、時のローマ教皇・グレゴリウス13世によって改暦が行われます。
それは「西暦年が4で割り切れる年を閏年とする。ただし、西暦年が100で割り切れる年の中で、400で割り切れない年は平年とする」と決めたのです。
つまり、西暦1600年(西暦2000年)は閏年でしたが、1700年,1800年,1900年は閏年ではありませんでした。
これが、現在私たちが使っているグレゴリオ歴です。

日本での採用は、1873年(明治6年)のことでした。
「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、世界の歴史は変わっていた」と、パスカルは言いました。
実際に、クレオパトラがシーザーの心をひきつけるほど魅力的でなかったら、エジプトの文明に対するシーザーの興味も薄かったことでしょう。
そして「1年12カ月」というローマ歴と、「1年365日」というエジプト歴がひとつになることもなかったかもしれません。
しかし、偶然か運命か。今日、ほぼ世界中の国で「時の道標」となっているのは、魅力あふれるクレオパトラと、良いものは迷わず導入する 先見性を持ったシーザーが出逢って生まれた暦なのです。


曜日のいわれと星の名前


Q 一週間の曜日の名前は、
太陽系の星の名前に由来した物なのですか(大阪市・吉村照子)
A 大阪市立科学館の嘉数次人学芸員に聞きました。
曜日の考えが日本に入ったのは古く、9世紀の初めに弘法大師(空海)が中国から伝えたとされ、 それ以来現在まで使われています。
7つの曜日のうち、日曜と月曜は西洋のsunday、Mondayと共通で、それぞれ太陽と月からきているのです。
残りの火曜から土曜の名前は、紀元前4世紀ごろに中国で生まれた「五行説」という思想から来ています。
 五行説とは、この世の万物は「木、火、土、金、水」から成り立ち、それらが結びつきあらゆる現象が生じるという考えです。
これに基づき、中国ではあらゆるものに五行が割り振られました。
一週間のうち、日曜と月曜を除く5日分にも五行が割り振られたのですが、その順番がなぜ今のようになったのかはわかっていません。
 ちなみに太陽系にある5つの惑星(水星、金星、火星、木星、土星)の名前も五行説に基づき、中国でつけられたものです。
最初はこれらの惑星には別の名前があったのですが、五行思想が広まるとそれぞれに五行が割り振られ、水星、金星などといった名前がつけられ、 それが日本にも広まりました。
つまり、曜日と太陽系の星は両方とも五行思想による命名であり、同じ由来を持つといって良いようです。

曜日の順番はどう決めた 2006/6/25 朝日新聞


西暦とは?

「西暦とはそもそもどういうものなのだろう」ということを整理しておこう。
それには「復活節」というキリスト教の祝日の話からはじめなければならない。

復活節というのはキリスト教の三大祝祭のひとつで、十字架で殺されたイエスが三日目に復活したことを記念する日だ。
(ちなみにあとの二つは「降誕節(クリスマス)」と「聖霊降臨節(ペンテコステ)」)。
この復活節は、西暦325年に開かれたニケア会議というキリスト教の会議で、「春分の日から数えて初めての満月のあとに来る日曜日」と決められた。
つまり太陰暦なわけだけど、太陰暦というのは365日で数えるとだんだんズレが出てくる。
そして6世紀に、復活節が計算上途絶えてしまうことになったらしい。
そこで525年に考案されたのが「復活祭の書:復活祭表」で、考案したのはディオニューシウス・エクシグウスという修道士だった。
この暦法は西暦664年にノーサンブリアのウィットビ宗教会議で採用され、イングランドの教会で使われ出し、10世紀後半には それまで教皇在位年を使用していた教皇庁文書にもキリスト紀元が登場するようになった。

さて、前述のとおりエクシグウスはローマ建国紀元754年をキリスト降誕の年(西暦元年)と定めたのだけど、なぜそう算出したかがはっきりしない。
イエスが三日目に復活したのが日曜日なので(正確には、イエスが復活した日を記念して、弟子たちが仕事を休んで集まり礼拝するようになった) 「復活祭が日曜日にあたる日」を年代的に探し、キリストの年齢の定説を差し引いて定めたらしい。
しかしエクシグウスの計算の過程も根拠も明らかになっていない。
歴史的考古学的裏づけによるというより、キリスト教界で言い伝えられていたキリストの復活年や年齢を根拠にしたんじゃないかと思われる。
少なくとも、現在わかっている学問的成果を、エクシグウスは知らなかった。

たとえばマタイ福音書2章によれば、イエス生誕年(エクシグウスが西暦1年とした年)には、ヘロデ大王がユダヤを治めていたことが記録されている。
ところが、ヘロデ大王の没年は紀元前4年であることが現在はわかっている。つまりエクシグウスの計算は少なくとも4年も間違っている!
他にもいろいろな根拠が提示されていて、現在はイエスの生誕年は紀元前7~4年のどこかだということになっている。
世間がノストラダムスの大予言で騒いでいた1999年には、世紀末はとっくに過ぎていたわけだ。
仮にイエス生誕年が紀元前4年なら、今年2004年は2008年になる。

しかしこれらのことを、エクシグウスは知らなかった。
そしてこれらのことがわかってきた頃には、エクシグウスの紀年法は普及してしまっていて訂正しようがなかった。
それでやむなく、エクシグウスが「abu incarnatione Domini(主の体現より)」という意味で紀元後を表していた「AD」を、 「Anno Domini(主の年に)」に変更してお茶を濁したわけだ。
(ちなみに紀元前を表す「BC」は、「Before Christ(キリスト以前)」の意味だ。覚えておこう)

どうだろう。けっこうテキトーだと思わないか?西暦は「キリスト紀元」といいながら、実はキリストを起源とする紀元になっていない。
むしろ、紀元前4年以前に世に降臨したキリストを、今さら訂正できないという理由で西暦1年に生まれたことにしてしまっているというのは、 「宗教的にそれでいいの?」という気さえする。

ただし、便利かどうかというのは、宗教的にどうだというのは関係ない。
紀年法というのは、ある年を基準としていればそれでいいのだから。