9月


29日
バイカウント・ホレーショ・ネルソン(Viscount Horatio Nelson)(1758〜1805)イギリス海軍 提督

イングランド東部のノーフォーク州のバーナムソープで牧師の子として生まれました。12歳で海軍に入り、21歳で大佐・艦長に昇進しました。アメリカ独立戦争に際して1780年に西インド諸島への遠征を指揮しましたが、病をえて帰国。

フランス革命政府との戦争がはじまると、1783年に戦艦アガメムノンの艦長として地中海に派遣され、翌年、コルシカ島占領作戦に参加しましたが、この戦いで右目を負傷し視力を失ってしまいます。1797年、テネリフェ島サンタクルーズの侵略を指揮しましたが、大敗。そのとき右腕を負傷し、切断することになってしまいました。

翌1798年、トゥーロンのフランス艦隊の監視を命じられた彼は、嵐にまぎれて出航したフランス艦隊を追ってエジプトまでいき、ナイル河口のアブキール湾でフランス艦隊を発見して壊滅的な打撃をあたえました。これによってエジプト遠征中のナポレオンは孤立し、やがて撤退をよぎなくされたのです。彼はそこからナポリに引き返して、フランス軍によって王位を追われていたナポリ王フェルディナンド1世を復位させました。

1805年ナポレオンは、イギリス本土上陸作戦を計画。これを知った彼は27隻のイギリス地中海艦隊を率いて、百戦錬磨の海将ヴィルヌーヴが統率する33隻のフランス・スペイン連合艦隊と戦闘を開始しました。(トラファルガーの海戦)このとき使われた信号「英国は各自己が義務を果たさんことを期待す」は有名です。

戦闘は正午の約三分前に開始されました、このとき彼は二列縦隊で敵の戦列の中央を突破する作戦を実行。味方艦の損傷や将兵の死傷は多かったのですが、作戦は成功し、旗艦ビクトリー号はヴィルヌーヴのビュサントール号に肉迫していき、敵艦隊の中枢部に致命的な打撃をあたえたのです。

ところが、このときフランスの狙撃兵の撃った弾丸が彼の肺を貫きました。彼は胸に4つの勲章をつけることで有名だっのですが、これが敵の狙撃兵の格好の標的となってしまったのです。

瀕死の彼は3時間後の午後4時30分に「神よ感謝します、私は義務を果たすことができました」という言葉を残して亡くなりました。時を同じくして、イギリス海軍の勝利が確定。33隻のフランス・スペイン連合艦隊のうち、残ったのはわずかに6隻でした。この敗北により、ナポレオンは海上での勢力をうしない、イギリス侵攻作戦を断念せざるをえなくなったのです。

その後、彼の遺体はブランデーに浸されて、ポーツマスに到着。彼は王族以外では初の国葬で野辺送りされ、聖パウロ大聖堂に葬られました。(聖パウロ大聖堂の大理石像)ロンドンのトラファルガー広場にあるネルソンの円柱は、1843年に彼の勝利を記念して建てられたものです。
小さい時から無謀なネルソン
1773年彼は父親への土産にとマスケット銃で白熊を狩ろうとしました。しかしマスケット銃は不発。そのときネルソンは無謀にも台尻で白熊をぶん殴ろうとしたのです。そのとき、近くからカーカス号の艦長が空砲をならして熊を追い払い。事なきを得たのでした。
コペンハーゲンの海戦のとき彼は、上官の出した戦闘中止命令を無視して戦いを続けました。(実際には「撤退しても良い」という許可を示した内容だったと言うことですが)
そのとき彼はなんと、片方の目が見えないので、時には盲になる権利があると言って、命令の信号を見えないふりをしたのです。一説によると見えない方の目に望遠鏡を当てて「本当に信号なんて見えません!」と言ったということですが‥‥
その結果大勝利を収めたのです。

9月


29日
徳川慶喜

(1837〜1913)

第15代将軍(徳川幕府最後の将軍)

水戸藩9代藩主徳川斉昭公と有栖川宮王女登美宮吉子の七男として江戸小石川の水戸藩邸で生まれました。その後、父の教育方針により、水戸で育てられ、5歳の時から弘道館で学問を修め、11歳の時御三卿のひとつである一橋家の養子となりました。

その後、改革派によって14代将軍候補の1人に推されましたが。保守派の井伊直弼らが推す紀州徳川家の慶福(よしとみ 後の家茂)に破れ、将軍職には慶福がつくことになりました。その後、井伊直弼によって行われた安政の大獄によって、条約反対派・一橋派の大名たちとともに慶喜は処分を受け、隠居謹慎の命を受けることになってしまいます。

しかし、井伊直弼が「桜田門外の変」で暗殺されると許されて将軍後見役となり、病弱であった家茂が21歳の若さで大坂城で亡くなると。15代将軍となりました。

将軍に就任してからは、西洋の軍制や政治組織を取り入れ、幕府権力の強化に向かって、討幕派も驚くほどの政治改革を次々と打ち出しましたが、時すでに遅く幕府の権威は失墜し、将軍の権力をもってしても、体制を維持することは困難になっていました。

さらに薩長同盟が公表され、佐幕派であった孝明天皇も死去してしまった状況で、幼帝を擁した薩長に討幕の勅命が下るのは時間の問題となってしまいました。

さまざまな政治的思惑が交錯するなか、彼は困難を乗り越えて1867年に大政奉還を行いました。その後、薩長の挑発に乗った旧幕府側は、慶喜を擁して薩摩・長州軍と戦いましたが敗れ(鳥羽伏見の戦い)、彼はこれ以上の戦いを避けるために、海路江戸に帰還、周囲の再挙の勧めを拒否して謹慎しました。

彼のこの行動は、幕府と薩長同盟軍との全面戦争による内戦を防いだとも言われ、江戸無血開城もこの行動あっての成功とも言えます。

維新後は、写真、製陶、釣、狩猟、囲碁等の趣味の世界に没頭して暮していましたが、勝海舟の尽力もあって、徐々に名誉を回復していきました。そして明治30年には、東京巣鴨に居を移し、翌年には、明治天皇・皇后に謁見しました。

その後、彼は公爵を受爵して新たに一家を成すことを許され名実ともにその名誉を回復し、大正2年11月22日に亡くなりました。77歳でした。
彼は、幼い時、江戸にいると華美な風俗が心にしみつくということで、水戸で厳しく育てられました。
水戸でのしつけは非常に厳しかったそうで、布服や布団は木綿か麻で決して絹は使わず、食事は一汁一菜、魚など動物性蛋白質が付くのは月に3日だけであったそうです。また、いたずらや課業怠慢への処罰では、お灸をすえられ、さらに重くなると、なんと座敷牢に入れられたそうです。
安政の大獄
1858(安政5)〜1859年に江戸幕府が尊王攘夷運動に加えたきびしい弾圧事件のことです。当時、日米修好通商条約の調印と将軍徳川家定の後継者をめぐる尊王攘夷派の反幕府運動に対して、大老の井伊直弼が強権を発動し、公家・大名や志士など100余名を罰したもので、徳川斉昭(なりあき・前水戸藩主)は謹慎させられ、吉田松陰・橋本左内ら8名が死刑となりました。井伊直弼は1860年、この事件で恨みをかい桜田門外の変で殺害されました。


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