9月


25日
魯迅(ろじん、本名は周樹人)(1881〜1936)中国の小説家・思想家

浙江省紹興に生まれました。父が死んだため小さいころから苦労をしました。1902年、20歳で日本へ留学、留学生のための予備校・弘文学院を二年後に卒業して仙台医学専門学校に入学しました。

あるとき彼は教室で、日露戦争中に中国人のスパイが処刑される光景のスライドを見ました。歓呼する同級生の姿と、また、処刑を見物しているスライドの中の中国人群衆の笑い顔は、彼に強い衝撃をあたえたのです。

1906年春、「私は医学など肝要でない、と考えるようになった。愚弱な国民は、たとい体格がよく、どんなに頑強であっても、せいぜいくだらぬ見せしめの材料と、その見物人になるだけだ。」このように考えた彼は、医学を断念し、国民の精神を変えなければ、不幸は無くならないと、国民性を改造するため文学を志したのです。

1909年帰国し、郷里で教員となり、後招かれて役人となりましたが、1918年「狂人日記」を発表して文学革命に火をつけました。

1921年、北京の新聞「晨報(しんぽう)」の付録版に連載された代表作「阿Q正伝」は特に有名で、世界文学の列に加わる名作です。この作品は、阿Qという日雇い労務者を主人公にして封建的な中国社会が生み出した民族的マイナスの面を風刺し典型化したもので、読者は自分自身のなかにひそむ「阿Q」性にショックを受け、この作品はたちまち国民的な声価を博しました。彼の文学は反封建・反帝国主義で、未来は人民の側にあることを主張しました。

小説の他社会短評も書き、蒋介石の反動政権による弾圧にも屈せず、その戦いの中で軍閥政府から逮捕例を出され、密偵に追われ、生涯その逃亡生活を免れることは出来ませんでした。時には「筆を執る手よりも、逃げ回る足の方が忙しい」という生活を続けねばならなかったのであす。そして、1930年には左翼作家連盟の指導者となり、その組織を護りました。

彼の文学精神は毛沢東によって称えられ、紹興、北京、上海に魯迅記念館が立てられています。そして、上海にある魯迅記念公園の墓碑に刻まれた「魯迅先生之墓」の文字は毛沢東の筆によるもの、また記念館の館名は周恩来の筆によるものだそうです。
彼は幼い頃、父親の病気のために質屋と薬屋にほとんど毎日通いました。
彼は、質屋で金を受け取り、医者の処方するクスリの材料を探して奔走します。
しかし、その処方はいいかげんなもので「つがいのままのコウロギ」や「三年霜にあたった甘藷」、「冬の蘆の根」などが必要だというのです。手に入りにくいものばかりの材料です。それでも魯迅は一生懸命探しましたが、父親の病気はだんだん重くなり、ついに亡くなってしまうのでした。

彼は後になって悟りました、「今でも中国では私と私の父、そしてあの医者のように、無知のために騙し騙され苦しんでいる人がいる。」と
彼の不屈の精神は晩年病床で書いた「死」の中によく表れている。
 「ヨーロッパ人は臨終の際によく儀式のようなことをして他人の許しを求め、自分も他人を許す、という話を思い出した。私の敵はかなり多い。若し新しがりの男が尋ねたら、なんと答えよう。私は考えて、そして決めた。彼らには恨ませておけ。私の方でも一人として許してやらぬ」
彼は「魯迅書簡」の中で次のような手紙を書いている。
 「人生は現在実に苦痛であるが、我々はどうしても光明を戦い取らねばならない。たとえ自分が生涯の内にそれに出会うことが出来なくても、後に続く人達に残してやることが出来る。我々はこのように生きて行こうではないか」

9月


25日
ドミートリィ・ドミートリェヴィチ・ショスタコーヴィチ

(1906〜1975)

ソ連の作曲家

ペテルブルグで、鉱山技師の父とピアニストの母の間に生まれました。グリャッセルの音楽学校を卒業後、1919年ペトログラード音楽院に入り、ピアノをニコラエフに、作曲をシティンベルグに学び、グラズノフの指導も受け、19歳の時の卒業作品交響曲第一番によって鮮烈なデビューを果たしました。

その後1930年代半ばまでは、ヨーロッパ・モダニズムの先端を行く作風を示していましたが、歌劇「ムツェンスクのマクベス夫人」などが共産党に批判されると、「革命」で有名な交響曲第五番で批判をかわし、1948年の「ジダーノフ批判」ではスターリン政策をたたえ、党の植林政策宣伝用のオラトリオ「森の歌」を作曲して名誉を回復しています。更にスターリンの死後にフルシチョフが「スターリン批判」を行うと交響曲第十番でスターリンの肖像を描いて見せています。「権力にすり寄る変節の作曲家」とも言われた時期もありましたが、彼の創作は常に独裁政治との戦いでもあったといえます。

1954年には世界平和協議会より国際平和賞を受けており、彼の作品は、15曲の交響曲、10曲の弦楽四重奏曲、バレエ音楽、オペラや映画音楽なども手がけなど多方面にわたっています。

その後ソ連はブレジネフの時代を迎え、更に自由な雰囲気は失われていきましたが、彼はすでに国際的に大作曲家としての評価を受けており、公的な批判にさらされることは少なかったそうです。しかし、1966年、心臓発作で倒れ入院し、この心臓病は、死ぬまで彼を悩ましつづけます。さらに、神経中枢の病気によって右手の自由がきかなくなり、ピアノ演奏はおろか作曲のペンを握るのにも不自由していましたが、左手でペンを持ち、亡くなるまで創作活動を続けました。1975年8月9日に病院で心臓病で亡くなりました。
ジダーノフ批判
第二次世界大戦後のジダーノフによる文化的引き締め。社会主義の路線から逸脱を批判。共産党中央委員会がイデオロギー闘争を強化するために学問や芸術の全分野に渡って繰り広げました。音楽界では、作曲家のショスタコーヴィチやプロコフェエフ、ハチャトリアン、カバレフスキイ、カレートニコフら国際的にも著名な作曲家全てが名指しで形式主義の名のもとに、不協和音や無調という現代音楽に向けての自由な実験を批判され、メロディやハーモニイの古典的伝統の継承を要求される。そのため、彼も音楽院の教授職を免職され、仕事は激減してしまいました。


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