9月


20日
王陽明(おうようめい)(1472〜1529)中国明代の儒学者、政治家

中国浙江省、上海の南の招興酒で有名な招興という町の近くの余姚という所で生まれています。父は身分の高い役人で代々学者の家柄でした。彼は父と同じく会試の合格を目指しますが幾度か落第します。しかし、世の中の人々は落第することを恥とするが、落第のために心を動揺させることの方が恥であると堂々としていました。二十八歳で合格するまでは多岐に渡る学問を修得し、兵学についてもかなり修めています。

試験に合格してからは役人となり、兵法や詩文や禅宗を学びながら遠く戦線に出かけ、各地で流賊の反乱を平らげて功を立てました。後、新健伯(大臣)となります。

晩年、王陽明は持病の肺の調子が思わしくなかったのですが、朝廷に再び流賊の討伐を命じられます。病を理由に断ったのですが許されず、仕方なく出陣することになります。討伐は成功し一万七千人が降伏しますが、寛大な措置をとったために彼らは感涙したといいます。しかしこの出征は王陽明の身体には致命的であり、ついに期間中の軍中で没します。

学者として優れ、当時国家の学問としてもてはやされた朱子学に反対して、「大学古本」「伝習録」などの本を著し「知行合一」「致良知」という学説をとなえて陽明学派を打ち立てました。この「良知を致す」こそが王陽明の思想の最後に到達した境地で、彼自身がこの良知説は百死千難の中から得たものと述べています。

知ることと行うことは1つで、行動の中に知識を深め、聖人も凡人も良知を認めて知と行の合一をはかるというのが、その学説でした。日本では中江藤樹や熊沢蕃山や大塩平八郎らが陽明学を信奉しました。

「致良知」
良知とは孟子にある言葉で、天賦自然に備わった道徳的な善を知る能力であり、人間の本能的な善は良知という語に集約されると考えました。そして良知が人の心にあるということは聖人・愚人の別なく、天下古今に共通し、ただ心の良知を発揮すればよいとまとめています。
徳川幕府は明朝と同じように朱子学を擁護していました。朱子学では理は太極という人知を超越した外在するものから与えられている、という思想が権威主義や保守主義につながりやすかったためです。しかし、大塩平八郎や吉田松陰は、そのような消極的で抑圧的な考えでは世の中が変わるはずがないと考え、理は人の心にあり、信ずるがままに行動する陽明学の思想を支持したのです。そして、陽明学は明治維新を輩出する思想の底流として多大な影響を与えたと言えるのではないでしょうか。
孝宗が崩御し、代わって少年の武宗が即位すると、宦官の劉瑾の一派が専横をきわめることになります。これを諫めようと武宗に上疏する者がいたのですが、かえって劉瑾によって投獄されることになります。王陽明は彼らの弁護しようと上奏しますが、劉瑾によって投獄され、笞打ち四十に加え、僻地に左遷されることとなります。
彼の落胆は大きく、日夜煩悶とする日が続きますが、劉瑾が朝廷を牛耳っている間は中央へ還ることは到底かなわない、もう出世のことなどどうでもいい、と割り切ってしまえばそんなことは超越することができました。しかし生死の一念だけは脱却することができないわけです。そこで石の囲いの中で日夜端座し、ただ天命を待つのみ、と心を澄ませていました。これを続けることによって胸中はさっぱりとしたそうです。
また王族である寧王が起兵するという大きな叛乱が起きたとき、王陽明は起兵より十四日でこれを鎮圧します。しかし武宗自ら軍を編成し、側近連中が討伐に向かい、しかしながら乱はすでに鎮圧されていたのです。もしこのまま戦果のないまま戻っては不興を買うと怖れた側近連中は、王陽明にいったん捕虜を解放させ、それをあらためて自分たちが捕まえなおすことにしたいと言ってきます。あまりに馬鹿馬鹿しい提案だったので王陽明は断固拒否し、側近連中は王陽明を憎んで謀反の疑いがあると讒言します。窮地に陥ることになりますが、劉瑾一派に左遷されていた時に、辛苦に耐えることを学んだ王陽明は決して諦めることなく、ほどなくして王陽明の才能を惜しんだ人間が彼を弁護するようになり、一応の決着をむかえます。


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