9月


19日
沢田 美喜(さわだ みき)(1901〜1980)混血児二千人の母、エリザベスサンダーホーム創設者

三菱財閥の創立者岩崎弥太郎の孫娘としてこの世に生を受けました。生家は真言宗の信仰を持っていましたが、聖書に出会ったことで彼女の一生は一変します。

適齢期になって華族との見合いの話を次々と断って周囲を困らせますが、最終的に承諾したのは、クリスチャンで外交官であるという理由で選んだ沢田廉三氏でした。

何年かして赴任先のイギリスにいた時、ある日礼拝の後にドライブに誘われるまゝにある孤児院を訪れました、それは以前日本で見たものとは全く異なり、子どもたちはみな生き生きと輝いた目をしていました。そして教育も、信仰も、温かい愛のうちにしっかり受け継がれているのでした。

その様子を見た彼女はその日心に誓いました。「若し、許されるならば日本にこのような孤児院を作ろう」と。彼女はそこで毎週奉仕をする機会が与えられます。次に転勤したパリでは貧民窟の救世主といわれていたジョセフィン・ベーカーに出会って、無私の奉仕のあり方を体験します。

やがて帰国した彼女には、3人の息子の徴兵(1人は戦死)と、自らも鳥取に疎開し配給と畑作りの厳しい自給自足の生活が待っていました。戦後の混乱期に彼女は、いくつもの混血児の死体を目撃したそうです。ある時、汽車の網棚から包みに入った生後間もない赤ちゃんの死体が落ちてきます。その時、彼女は「日本全国の私を必要としている子供たちのために親になってやりたい」と決心しました。

しかし、それは困難な道のりの始まりでもありました。私財のすべてをなげうち、ホーム建設に精魂を傾ける夫妻。だが、世間はそれを歓迎しませんでした。こういった子供たちの存在を政治家や官僚たちは米軍による日本占領の暗部と考え、アメリカ政府も日本政府この問題には敢えてふれたがらなかったのです。そして、世間の人たちからも援助どころか、「財閥娘の道楽」と嘲られ「生涯、苦しむのを知って、生かしておくのは無慈悲だ」とも言われたのです。

しかし、夫妻は戦後の財閥解体で政府に接収されていた岩崎家の別荘地を苦労のすえに買い戻し、そこに混血遺児の養育施設であるエリザベスサンダースホームを設立しました。彼女はそれ以後、彼女は子どもたちといっしょに寝起きし、母親がわりに面倒をみるなど、情熱をささげ、心ない人々の中傷や人種差別と戦い続けました。心細く、情けない思いをすることは毎夜のことだったそうです。

そしてついに1965年に、彼女はブラジルに孤児たちの働く農園を建設し、多くの孤児たちの養子縁組を成し遂げました。その後1960年 女性人権貢献賞「エリザベス・ブラックウェル賞」を受賞。1972年には勲二等瑞宝章を受章しています。

1980年旅先のスペイン・マヨルカ島の病院で死去。78歳でした。
ご主人の沢田廉三氏は戦後の日本の国連加盟に尽力した人です。子供たちは親に捨てられたということと、肌の色が違うということで世間から二重の不当な差別を受けていました。そのため彼らは例えばホームのある大磯の海岸で海水浴を楽しむことさえもできず、ご主人の故郷の鳥取県岩美町の海岸でやっと受け入れてもらえたのです。地元のひとたちも、あたたかく迎えました。ここはホームの第二のふるさとであり、沢田夫妻の墓もここにあります。
クリスチャンのご主人と結婚した彼女は、これで誰はばかることなく教会に行くことが出来、新しい命が与えられたような喜びであったと彼女は書いています。
ねむの木学園で子供達を救った宮城まり子さんは、彼女のことを「彼女はライオンのように困難に立ち向かい、ヒツジのように子供たちに接した」と評したそうです。
妹の由紀さおりさんと姉妹デュオを組み、”童謡界のきんさん・ぎんさん”を目指すと語る安田祥子さん。じつは、彼女の夫、久雄さんのご両親は、沢田廉三、美喜夫妻だったのです。
沢田が子供達に言い続けた言葉は、「いつも上を向いて歩け、顔を上に向けて歩け」といわれています。


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