9月


18日
藤島 武二(ふじしま たけじ)(1867〜1943)明治・大正・昭和前期の洋画家

鹿児島市に生れる。幼名猶熊。幼年時代から画才を発揮。北斎漫画や油絵を模写する。僅か10才で家督を継ぎ、苦しい生活の中で鹿児島中学に進むが、その間四条派の絵師平山東岳に日本画を学ぶ。

限られた画題を制限の多い技法で描かねばならないこの世界に嫌気がさして、明治22(1889)年、曽山幸彦の塾に移り、洋画家を志しました。明治29(1896)年、白馬会が創立され、会員となった彼は、三重県にて教師として奉職中、東京美術学校の西洋画科新設に際し、黒田清輝の推薦で同科のの助教授に任命されました。

明治38(1905)年文部省から絵画研究のため4年間のフランス、イタリア留学を命じられ、年末に渡欧しました。パリに住みついた彼は、私立アカデミー・グランド・ショーミエールと国立美術学校の専科に学び、国立美術学校ではフェルナン・コルモンの指導を受けています。その後、ベルギー、オランダ、ドイツ、イギリスを巡り、各美術館を訪れ、明治41(1908)年、イタリアに移り、ローマでフランス・アカデミー院長のエミール・オーギュスト・カロリス=デゥランの指導を受けました。しかし、スイス旅行中、ローマに残しておいた作品の大半が盗難にあうという事件もありました。

明治43(1910)年に、帰国し、清新で気品の高い滞欧作品を発表し、洋画界の中心人物となりました。東京美術学校教授として指導につとめ、門下から小磯良平、猪熊弦一郎などをだしました。彼は、文展のリーダー的立場でありながら実質的は二科展の創立にも大きく関与し、(結局は黒田の強要で文展に踏みとどまったのですが、)日本近代油彩画のもっとも正統的で、暢達な筆触で明るい色調の作風を展開させました。

大正13(1924)年帝国美術院会員、昭和9(1934)年帝室技芸員、同12(1937)年文化勲章を受章しています。代表作は、初期の「芳恵」「天平の面影」「蝶」や、晩期の「耕到天」「東海旭光」が名高く、晩年まで筆力が衰えなかった偉大な巨匠です。昭和18(1943)年3月19日、脳溢血のため本郷の自宅にて亡くなりました。75歳でした。

9月


18日
土屋文明

(1890〜1990)

歌人

群馬県西群馬郡上郊村保渡田に生まれました。父の保太郎は農業のかたわら、生糸・繭の仲買業を営んでいましたが、彼は幼少期は伯父の家で育てられ、伯父に俳句の手ほどきを受けています。

高崎中学校に入学した彼は、「ホトトギス」・「アカネ」などを購読し、俳句をつくりはじめ、蛇床子の筆名で短歌を投稿していました。そんな時、千葉県から転任してきた中学の国漢教師村上成之が根岸派の歌人、俳人であることを知り、成之に師事するようになりました。

中学を卒業後、村上成之の紹介で上京し、伊藤左千夫の家に寄宿しながら短歌の指導を受け、「アララギ」に参加しています。伊藤左千夫の尽力で寺田憲から学資の援助を得て第一高等学校、東京大学哲学科に進みました。

当時の学友には、山本有三、近衛文麿、芥川龍之介、久米正雄達がおり、東京大学在学中には芥川龍之介・菊池寛らと第三次「新思潮」を創刊、劇曲や小説を発表したりもしています。

東京大学卒業後は、長野県の諏訪高等女学校や、松本高等女学校の校長を歴任し、大正13年に職を辞して上京、法政大学の予科教授となりました。大正14年には、第一歌集「ふゆくさ」を出版、歌壇の絶賛をあび、以後多くの歌集を出版するとともに万葉集の研究にも打ち込み万葉学者としての地位を確立しました。

昭和5年からは、斎藤茂吉から「アララギ」の編集発行人を引き継ぎ、指導的存在となって「アララギ」短歌の現代化に貢献しました。昭和27年には明治大学教授となり、昭和37年には芸術院会員となっています。

彼は、その後も活躍を続け、昭和59年に文化功労者、昭和61年には、文化勲章を受章しています。平成2年、肺炎及び心不全により亡くなりました。100歳でした。


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