9月


17日
正岡子規(まさおかしき)(1867〜1902)明治時代の俳人・歌人

愛媛県松山で、父正岡常尚(35歳)・母八重(大原氏23歳)の長男として生まれました。本名は常規(つねのり)といいます。明治5(1872)年、父が亡くなり、父の兄のもとへ手習いにかようようになります。東京帝国大学国文科に学び、在学中から俳句に専心し、明治25(1892)年日本新聞社に入社し、大学をやめています。

新聞に俳句俳論を発表し、俗化した俳句の革新運動を起こした。明治28(1895)年日清戦争に従軍記者となって海をわたりましたが、喀血して重体となって帰国し、脊椎カリエスを併発して寝たきりの生活を送るようになりました。

明治30(1897)年創刊の雑誌「ホトトギス」で活躍。写実に重きを置く新時代の俳句を完成しました。また、短歌についても改革を唱え、「歌よみに与ふる書」を発表して素朴雄健な万葉にかえるよう主張しました。歌集に「竹の里歌」があります。

さらに散文でも写生文を主張し、文学革新運動につとめましたが、病が重く中途で亡くなりました。その仕事は高浜虚子、伊藤左千夫らに受け継がれ、文学史上に大きな足音を残しました。

著書に「墨汁一滴」「病床六尺」「仰臥漫録」などがあります。
明治35(1902)年9月18日朝から容態が悪化、午前中絶筆三句(「糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな」「をととひのへちまの水も取らざりき」「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」)を詠み、以後、昏睡状態となりました。

翌19日、「あまり蚊帳の中の静かなのを怪しんで居士の名を呼んだ時は、手は已に冷え渡って、僅に額上に微温を存するのみであった。」(『評伝正岡子規』)午前1時頃絶息が確認されています。
正岡子規はなんと、慶応三年(一八六七)生まれで、明治の年号と同じく歳を重ねていたのですが、実は、夏目漱石、宮武外骨、南方熊楠、幸田露伴、正岡子規、尾崎紅葉、斎藤緑雨という七人が全て同じ年に生まれているのです。
子規は同年生まれの露伴に憧れ『風流仏』そっくりの『月の都』を書いて、露伴に批評を乞うたのですがが、箸にも棒にもかからぬと判断した露伴は、そうとはっきりいうことができないので、しかたなく小説中の俳句をほめました。これがヒョウタンから駒を生みます。露伴と出会ったことで、その後の正岡子規の文学者としての歩みは大きく変わり、近代俳句革新者正岡子規が生まれたのです。
漱石と子規このふたりを切り離して考えれば片手落ちになります。なぜならば、ふたりにとって、お互いがほかの誰よりも重要だったからです。漱石にとって、子規はほとんど唯一の親友だったかもしれません。

子規は晩年の最悪のときに、英国留学中の漱石に苦しい心境を手紙で訴えています。そして、漱石はデビュー作「吾輩は猫である」を亡き子規のために書きました。「坊っちゃん」で主人公の親友として登場する山嵐は、明らかに子規をモデルにしています。英国留学中になにもしてやれなかった漱石は、初期の2作品を子規への追悼として書いたといえます。


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