9月


16日
渡辺崋山(1793〜1841)江戸時代末期の蘭学者,画家

江戸麹町田原藩邸で、父定通29歳、母栄22才の長男として生まれました。8才で若君のお伽役となり、後に藩主より登の名を賜わりました。11名の家族で貧しい渡辺家は幼い弟妹たちを奉公に出さなければなりませんでした。このため崋山も貧しさを救うため、絵を描く内職をしながら学問に励みました。

12歳のとき徂徠学派の儒学者である鷹見星皐や佐藤一斎、松崎慊堂らに学び、朱子学や、陽明学をきわめました。

また、彼の絵は家計を助けるものでしたが、天性の才能と努力によって26才頃には画家としても有名になりました。西洋画の立体、質、遠近などの面による構成を、線を主体とした東洋画に取り入れた功績は非常に大きく、その作品には、国宝「鷹見泉石像」をはじめ、多くの重要文化財、重要美術品が残っています。

37才の時三宅氏の家譜編集を藩主より命ぜられ、続いて江戸では藩邸学問所の総世話役となり、儒者伊藤鳳山を招いて藩校成章館の興隆を計りました。晩年には貧しい中で集めた書籍などを、後輩のため藩へ献上しました。

40歳で藩の家老職に就いてからは、田原藩の繁栄に貢献。紀州藩破船流木掠取事件、幕命の新田干拓計画、助郷免除などの難かしい事件を解決しました。また、田原藩は救民のための義倉「報民倉」を建設し、天保7、8年の大飢饉では、一人の餓死流亡者も出しませんでした。このため、翌9年幕府は全国で唯一田原藩を表彰しました。これらは、崋山の指導による功績でした。

また一方では、高野長英らと西洋事情を研究し、鎖国の非を「慎機論」で記しましたが、幕府の批判とされ田原で蟄居を命ぜられてしまいました。

蟄居中の崋山一家の生活を助けるため、門人らは崋山の絵を売る義会を始めました。彼は作画に専念し、「于公高門図」「千山万水図」「月下鳴機図」「虫魚帖」「黄粱一炊図」など次々と名作を描きました。

しかし、その活動により、「罪人身を慎まず」と悪評が起こり、藩主に災いの及ぶ事をおそれた崋山は死を決意しまし「不忠不孝渡邉登」と大書し、長男へ「餓死るとも二君に仕ふべからず」と遺書して切腹し、49年の多彩な生涯を終えました。
絵の弟子「福田半香」が江戸で行った崋山絵展覧が旧体制派の怒りを買い、天保12年、1841年10月11日に屋敷隣にある機織小屋で自刃したのですが。福田半香は自らの行いにより師を自害に追いやった事を自責し、自分の死後に墓碑を立てるな、と遺言しています。
蛮社の獄
弾圧されたのは渡辺崋山とその仲間たちで、1838年、イギリスの船モリソン号がやってくるという風説をきいた渡辺崋山は『慎機論』を書き、高野長英は『夢物語』を書いて、予想される幕府の攘夷政策に反対した。渡辺崋山らの言動は、幕府の文教を司る林家一門、特に林述斎の次男鳥居耀蔵の恨みをかった。鳥居の企みによって、渡辺崋山と高野長英は投獄され、幕政批判の罪で処罰された。

9月


16日
竹久 夢二(茂次郎)

(1884〜1934)

  まてどくらせどこぬひとを
    宵待草(よいまちぐさ)のやるせなさ
      こよいは月もでぬそうな。        (宵待草)

画家、詩人。

岡山県邑久町で造り酒屋の息子として生まれました。幼い時から絵が好きだった彼は、14歳で名門神戸中学に進みましたが、父親の放蕩のせいで、わずか八カ月で退学することになってしまいます。父の菊蔵は、村会議員でありながら放蕩がやめられず生活に行き詰まり、結局親戚を頼ってはるばる福岡の八幡村枝光へと移住せざるを得なくなったのです。

彼は八幡製鉄所で製図工の見習いのような仕事をすることになりましたが。岡山とも神戸とも違う新しい環境の荒々しさになじめず、一年後の明治35年には家出して上京しています。このときも彼を優しく見守り旅立ちに協力してくれた母と姉には感謝していますが、身勝手な行いから家族に苦労をさせたうえに、絵の道具を捨ててしまうような父とは、終生打ち解けることはありませんでした。

翌年、早稲田実業学校へ入学した彼は苦学しながらも勉強を続け、早稲田実業学校本科を卒業し、専攻科へ進みます。そして「中学世界」に投書したコマ絵「筒井筒」が第一賞に入選したのでした。このときから「夢二」の名が初めて用いられ、画家としてスタートすることになったのです。

そして、明治42年、彼の最初の著作「夢二画集 春の巻」刊行され、ベストセラーとなりました。彼の抒情画は人気を博し、大きな瞳に憂いをふくんだ独特の表情をした女性「夢二式美人」を描く画家として知られるようになり、「山へよする」「女十題」「長崎十二景」など数々の傑作を残しています。また絵画だけでなく感傷的な詩文でも知られ、「宵待草」の作詩者としても有名です。

大正3年には、絵はがきや小物を売る絵草紙店「港屋」を開店し、 グラフィックアートの先駆者としても業績を残しました。そして。昭和6年には、アメリカへ行き、翌年はヨーロッパへ渡りドイツ、オーストリア、フランスなど各地を訪れ、2年4ヶ月の外遊を終え帰国しましたが、過労のため結核にかかり、昭和9年9月1日長野県の富士見高原の療養所で亡くなりました49歳でした。
宵待草は、彼が、大正2年に処女詩集の絵入り小唄集「どんたく」で発表したものです。その詩集の中の「宵待草」を読んで感激した宮内省雅楽部のヴァイオリニストだった多忠亮が、この詩に曲をつけ大正6年の第2回芸術座音楽会で発表し、楽譜が出版されて大流行しました。


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