9月


15日
岩倉 具視(いわくら ともみ)(1825〜1883)明治維新の元勲

文政八年九月十五日、前権中納言、堀河康親の次男として京都に生まれました。 幼名を周丸といい。その後、岩倉具慶の養子となり、十四才で具視と名のるようになりました。しかし、岩倉家は家禄百五十石の貧乏公卿で、生活は困窮を極め、自宅を博奕場に貸したこともあるそうです。

その後、関白鷹司政通に接近し、孝明天皇の近習となり、政治家として活動を始め、1858年日米修好通商条約の勅許を願い老中堀田正睦が上洛すると、反対派公家88人で勅許阻止のため列参して、朝廷での地位を築きました。

しかし和宮降下の件で、朝廷の権力回復の為にと、幕府と通じ、孝明天皇を動かし、強引に実現させましたことが尊攘派を激怒させることとなり、過激な分子につけ狙われ、孝明天皇の進言により、辞官・剃髪のうえ蟄居と云う形で落ち着き、幽棲生活を送りました。

その間にも密かに政治活動を起こし、特に薩摩の急進派と接するようになり、倒幕思想を固めていきました。いった。孝明天皇が没し、明治天皇が即位すると復職。慶応三年、大久保利通らと王政復古のクーデターを決行し、十二月九日成立。

岩倉は維新政権の中心人物となる。新政府では、議定、副総裁、大納言などを歴任し、廃藩置県を断行しました。

明治四年から岩倉は、特命全権として、総勢四十六名の使節団を率い、米欧十二カ国を歴訪、条約改正は不首尾に終わったが、富国強兵策の必要を痛感し、西郷らの征韓論には強く反対し、外国に兵を送るより国内の政治がまず大事であることを説きました。

その後、伊藤博文をプロシアに派遣するなど、立憲天皇制の確立のために尽力しましたが。明治十六年七月二十日、胃ガンのために五十九才で死去しました。

明治の功臣として、亡くなってから最高の位である、太政大臣、正一位を贈られました。

9月


15日
アガサ・クリスティー(Agatha・Christie)

(1890〜1976)

推理小説作家

イギリスのデヴォンシャー州トーキーで3人兄弟の末っ子、次女として生まれました。父はアメリカ人、母はイギリス人で、幼少の頃父を亡くし、学校へも行かず母親の手ひとつで教育をうけていました。

12歳ころから短編小説や詩を書き始め、母の勧めで雑誌に投稿しています。16歳の時にはオペラ歌手を目指してパリの音楽学校に入学しましたが、すぐに退学しまた小説を書き始めています。

第一次世界大戦が始まった1914年に軍人のアーチー・クリスティーと結婚し、戦争中は夫が従軍したこともあり篤志看護隊に志願して、看護助手・薬剤師とし
てトルコに派遣されました。この時の知識が後に推理小説で毒薬を扱う時に非常に役に立ったとのことです。

そんな薬局勤めの傍ら「スタイルズ荘の怪事件」書き上げて出版社へ送りましたが、残念ながら全て没になってしまいました。しかし、1920年になって「スタイルズ荘の怪事件」が、出版され好評を博します。このころから「ポワロ登場」など、多くのミステリーを出版するようになり。彼女の名声も徐々に高まっていったのです。1926年に出版された「アクロイド殺し」はそのトリックが大反響を呼びました。

しかし、母の死や、夫の浮気問題問題で心労が重なり「謎の失踪事件」をおこし、2年後に2人は正式に離婚しています。

その後、1930年に14歳年下の考古学者マックス・マローワンと再婚し、幸せな結婚生活の中で「オリエント急行殺人事件」、や「そして誰もいなくなった」等の名作を次々に発表していきました。

彼女の小説は、聖書、シェクスピアに次いで広く読まれているともいわれるようになり、1956年には、CBE叙勲。1971年には、DBEというイギリス人女性として最高の名誉を得ました。

1975年戦争中に書かれていたポアロ最後の事件「カーテン」が出版された翌年の1月12日の昼過ぎオックスフォードシャー州ウォリングフォ−ドの自宅で亡くなりました85歳でした。
謎の失踪事件

1926年12月3日、彼女は突然自宅から失踪しました。翌日車が発見されますが、警察の捜査にも関わらず行方は分かりませんでした。

その年の春には、彼女の母クララが亡くなっており、精神的動揺が大きかったなかで、こんどは、8月に夫アーチーが、他の女性と結婚したいと離婚を迫るなど、精神的に追いつめられていたのです。

そのため、自殺の恐れもあるとして周囲も警察も必死で創作を行いましたが、彼女を見つけることはなかなかできませんでした。結局11日後の12月4日、ヨークシャーの保養地ハロゲイトにあるハイドロパシック・ホテルに夫の愛人の名前で宿泊しているのを発見されたのです。

彼女はその11日間のことを全く覚えていないと語り、記憶喪失として片づけられましたが、真相はわかっていません。
ミステリーの女王
彼女が書いた探偵小説の数は80冊以上(そのうちの半数はポアロのもの)にのぼり、その作品は世界103ヶ国で翻訳され、発行部数は実に5億冊を突破するという記録的なものだそうです。

しかし、彼女が推理小説を書き始めたきっかけというのは、姉から「あなたには探偵小説を書けない」と言われたことで、それに反発して探偵小説を書き始めるようになったということです。
英国の勲章と「デイム」

英国の受勲者は新年と6月の2回ずつリストが発表され、毎年約1500人が対象となるそうです。

勲章の種類はOrder of the Garter(ガーター勲章)やOrder of the Thistle(あざみ勲章)などですが、中でも受勲者の大部分を占め最も一般的と言えるのがOrder of the British Empire(大英帝国勲章)になります。

彼女が授与された「デイム」の称号の正式名称はDame Commander of the Order of the British Empire(DBE)といってこの大英帝国勲章にあたります。

またCBEの正式名称はCommander of the British Empireで、サーに続くものとされているそうです。


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