9月


13日
杉田玄白(1733〜1817)江戸時代中期の蘭医で蘭学(オランダの学問)の開拓者。

若狭国小浜藩の、江戸の屋敷で生まれました。杉田家は、古くから小浜藩の医者をつとめる家がらで、玄白の父の甫仙も、藩医として藩主のそばにつかえる身分でした。母は、玄白の難産がもとで、早くに亡くなってしまいました。難産だったせいか、母がいなかったせいか、幼いころの玄白は体が弱く、病気にかかりやすい子どもでした。

やがて、父が、ふたたび藩から江戸づとめを命じられると、彼も、小浜に別れをつげました。そして、17歳になったある日、彼は、自分も医学の道へ進みたい気持を、父に伝え、外科医として有名な幕府の医官の西玄哲に医学を学びました。

そして、1771年、杉田玄白・前野良沢らが千住の小塚原で行われた死刑囚の腑分け(解剖)を見学しました。

彼らはその少し前にオランダからもたらされた医学書「ターヘル・アナトミア」(クルムス著)を入手していましたが、その中に描かれている人間の体の構造が、当時の医者の間で説かれていた五臓六腑の説と全く異なるため非常に当惑していました。

そこで奉行所に、医学の研究のために死刑囚の解剖をしたいと申し出、それが認可されてこの日の腑分け見学になったものです。そして見学の結果、杉田らはオランダの医学書の正確さを認識して感動し、ぜひともこの本を翻訳して多くの医師に読んでもらおうと決意したのです。

オランダ語の辞書も無く、分からない部分は文脈などから判断しましたが、どうしても分からないところは○に十の字を書いて、先を読み進みました。良沢の指導で苦心の末、ようやく4年後に完成し「解体新書」と名づけたのです。これが日本で最初の西洋医学書の翻訳書で、玄白はそれからも蘭医として診療に勤め、患者を診療するかたわら、学塾天真楼を開き大槻玄沢、杉田伯元ら多数の門人を育成し、蘭学の発達に貢献しました。
玄白は、もし「解体新書」をいきなり出版すれば、体のなかを見たこともない人びとのおどろきがあまりにも大きすぎて、世の中をさわがせ、幕府に、出版をとりおさえられてしまうかもしれないと思い、考えたすえに、「解体新書」を世に出すまえに、予告編として、かんたんな『解体約図』を出版しました。そして、それをおおくの医者に送るいっぽう、やがてできあがった『解体新書』を、まず、将軍に献上し、幕府の有力者たちにも贈りとどけました。
その後出版された「解体新書」は、なんのさわぎも起こさないばかりか、予告編をだしたこともてつだって大評判になり、玄白、淳庵、良沢らの苦労は、みごとに実をむすびました。
ところで『解体新書』のなかには、良沢の名が見当たりません。それは「わたしは名声を高めるために学問をするのではないから、翻訳者にわたしの名はあげないでほし」と、良沢がいったためといわれています。
彼は、日本の医学の発達に大きな功績を残して、84歳で亡くなりました。晩年になってからも、医者として、どんなに貧しい患者の家へも往診に行ったとつたえられています。あるとき弟子のひとりが、貧しい家への往診を、みっともないのでやめるようにいうと、彼は「貧しい人の治療は少しもはずかしいことではない。医者としてほんとうにはずかしいことは、治療をまちがえたときだ」と、さとしたということです。             


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