9月


12日
イレーヌ・ジョリオ・キュリー(1897〜1956)フランスの原子物理学者

父ピエール、母マリーのキュリー夫妻の長女で、パリで生まれました。パリ大学で母の講義を聴いて放射能研究を志し、1918年ラジウム研究所の助手となって、ポロニウムのα線に関する研究で学位を取得しました。

その後、キュリー財団の奨学金でキュリー研究所の助手になり、1926年、母の助手のフレデリックと結婚し、姓をキュリーの名を残し、ジョリオ・キュリーとしました。

以後夫と協力して研究を進めて、α線を衝突させることにより、安定した元素を人工的に放射性元素に変換できることを発見し、窒素、リン、アルミニウムの放射性同位元素の生成に成功ました。1935年、この業績により夫とともにノーベル化学賞を受賞しました。

キュリー夫人は、娘夫婦の輝かしい功績を大変喜んでいました。しかし、その年の春、母マリー・キュリーは娘夫婦のノーベル賞受賞を知ることなく、長い間取り扱ってきた放射線による障害を受けて、68歳で白血病によりスイスの療養所で死去し、パリ郊外のソーにあるピエールの墓に葬られます。

彼女は母のあとを継いでラジウム研究所を主宰し、1936年ブルム内閣の科学担当国務次官として入閣し、また母の後任として同年秋にパリ大学教授となちました。第二次世界大戦後には原子力委員会委員をつとめました。

長年にわたった放射能研究が原因で、1956年白血病により59歳で亡くなりました。

キュリー夫人のもう一人の娘、7つ違いの妹エーブは音楽家・劇作家となり、母の伝記「キュリー夫人」(1937年)を著しています。
ノーベル物理学賞受賞式の席上、
ピエール・キュリーは受賞講演のなかで、「ラジウムは、犯罪者の手にわたればきわめて危険になります。・・・わたしは、人類が、この新しい発見から害よりもいっそう多くの善を導きだすであろうことを信じる者の一人です。・・・」と述べている。
キュリー夫人は2度のノーベル賞を受けましたが、キュリー夫妻とその家族は、 3度のノーベル賞を受けたことになります。

ジョリオ・キュリー夫妻の娘で夫妻と同じ原子核物理学者でもあるエレーヌ・ランジュバン・ジョリオさんが来日したとき、両親について「私たちには自分の好きな道に進みなさいと言っていましたが、楽しそうに研究をする両親の姿を見て私も科学者になったのです」と思い出を語っています。

また、講演後、若い人にどのように学んでほしいかという質問に「興味を持つときに本質的なものを見て基本的な状況をつかむことが大切。論理的に考えるだけではなく、壁を乗り越えたときに発見がある。百年前に分からなかったこともいまは分かるように、百年後には分かる事もある。そのことを考えてやってほしい」と話しておられます。
ランジュバンさんは「ピエールとマリー・キュリーとラジウム」と題して、科学の発展に尽くした夫妻がラジウムを発見するまでの過程など、放射能の影響で白血病でなくなるまでの生涯についてスライドを使いながら解説しました。実は危険性が知られていなかった発見当時、ラジウムは闇の中で青白く光る物質として化粧品や強壮剤として使われました。レントゲンとして使われているX線も、発見当時は「下着が透けて見える」と一大センセーションを巻き起こしたそうです。百年経ち、放射線はその有益性も有害性も分かり、ガンの治療や害虫駆除など様々な用途に使われています。   
マリー・キュリーの発見した放射性原子ポロニウムからは高速のα線が飛びだしてきます。1931年、ジョリオ=キュリー夫妻はこのα線をジリリウムという物質にあてる実験をしていました。すると驚いたことに、横においてあったパラフィンという物質から陽子が飛びだしてきたのです。夫妻は、きっとベリリウムにα線が当たったとき、高エネルギーのγ線が出てパラフィンに当り陽子をたたき出したのだ、と考えました。
このニュースを聞いたチャドウィックは、ベリリウムから出てきたものこそ、ラザフォードが言っていた粒子にちがいない、と思いました。すぐにジョリオ・キュリー夫妻の実験をやり直し、ベリリウムから出てきたのはγ線ではなく、陽子とほとんど同じ重さをもった、電気的に中性な粒子「中性子」だということを見つけました。
中性子の発見はほとんどジョリオ・キュリー夫妻が行った実験の中でなされていたのですが、夫妻は中性子のような粒子が世の中にあるなどとは、夢にも思わなかったのです。ところがチャドウィックの方は、いつもラザフォードと議論をしていたので、原子核の秘密をもっと深く知っていたのです。このちょっとの違いで、チャドウィックが中性子の発見者として歴史に名を残すことになったのです。


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