9月


11日
エドムント・ナウマン(Edmund Naumann)(1854〜1927)ドイツの地質学者

父ハインリッヒと母ヴィルヘルミーネの間に、姉1人,妹5人のきょうだいの長男としてザクセン王国マイセンに生まれました。ドレスデンのチョッヘ学校で初等教育を受け、ドレスデン工業高等学校入学1873年ミュンヘン大学へ入学しました、卒業後、バイエルン王国高等鉱山局助手となりましたが、1875年日本政府に東京開成学校鉱山学科の教授として招かれ、ドイツを出発しましたが、渡航中、東京開成学校鉱山学科が廃止され、文部省金石取引所(鉱物博物館)に勤務し、翌年、なんと22才の若さで東京大学地質学教室の初代教授となりました。

彼の日本での業績は、東京大学地質学教室の初代教授として地質家を養成したこと、また、現在、茨城県つくば市にある国の調査機関、地質調査所の設立に尽力し、設立後は、調査責任者として、日本列島の地質調査に従事し、日本初の本格的な地質図を完成させたことです。

近代地質学を伝えたことと地質図をつくったことは、明治の殖産興業に大いに貢献したにちがいありません。調査は北海道を除く地域で行われ、調査距離は1万kmにもおよびました。当時は、等高線のある地形図はなく、あったのは伊能図の海岸線の輪郭図のみでしたから、地形図をつくりながら(測量しながら)、地質調査をするといった大変な仕事だったようです。

特に日本の地質構造をまとめ、中央構造線とこれによる外帯と内帯の区分、フォッサ・マグナとこれによる西南日本と東北日本の区分など、現在も用いられている地質構造区分をしたことは有名です。また、ゾウの化石を発見し、それはのちにナウマンゾウと命名されています。

その後、1885年ドイツへ帰国し、ミュンヘン大学の私講師やフランクフルトの鉱山会社に勤務し、72歳で亡くなりました。
ナウマン象
地質時代の日本列島には,多くの種類のゾウがいたそうです。とりわけナウマンゾウは北海道から九州まで,全国的に化石が見つかっており、千葉県では,1971年に下総町猿山からオスの成体の完全な頭骨が発見されました。復元されたナウマン象は、牙の先から後ろ足のかかとまでの長さが2メートル、肩までの高さが2.7メートルの大きさで、現生の雄のインドゾウに比べても小柄な体格をしています。
日本列島で最も繁栄しましたが、約2万年前に絶滅してしまいました。森林に生息し。旧石器人と新石器人の獲物になったであろうと考えられています。
フォッサマグナ(Fossa Magna)
ラテン語で、「大きな溝」という意味です。古い地層(主に中生代、古生代の地層)でできたU字溝のような溝に、新しい地層(新生代の地層)が積もったものです。溝の真ん中には、大きな割れ目があって、それを通ってマグマが上昇し、南北の火山列ができたと考えられています。ナウマン博士は、フォッサマグナの西縁を糸魚川-静岡構造線、東縁を直江津-平塚を結ぶ線と考えました。
(このようにフォッサマグナは領域を示す言葉ですから、「フォッサマグナ=糸魚川-静岡構造線」と覚えるのは正しくありません。)

9月


11日
O・ヘンリー(本名 ウィリアム・シドニー・ポーター)

(1862〜1910)

「好きなことを書きなさい。これ以外にルールなどない。」

作家

アメリカ合衆国ノースカロライナ州グリーンズボロで医者の息子として生まれました。彼が3歳の時に母が亡くなり、彼は父の妹である未婚の叔母に育てられます。しかし、父は「永久運動」の研究に熱中酒浸りとなり、彼は、高等教育を受けることはできませんでした。

学校を卒業後は、ドラッグストアで働き、その後、テキサス州のオースティンに引越し、色々な仕事につきました。24歳のときに18歳のアソル・エスティスと知り合い、愛し合いましたが、貧乏な彼との交際が彼女の両親に反対され、二人は駈け落ち同然で結婚することになります。

貧しくても2人は幸せに暮らしていました。しかし、長男は生まれてすぐ亡くなってしまい、長女のマーガレットは、何とか元気に育ちましたが、元々病弱だった妻の体調も悪くなっていきました。

そんな中で彼は、銀行に勤めるかたわら、短編を書くようになり、また自分の雑誌を刊行するようにもなりました。しかし、そんなとき公金横領の嫌疑をかけられてしまったのです。一度は友人達の援助や銀行側の好意で一応無罪放免となったのですが、その後、再び逮捕され服役することになってしまいます。

その後、保釈中に失踪し、中米に逃亡を図ったのですが、翌年、妻が重態になったという知らせを受けて帰国し自首しています。その年の7月に妻は8歳のマーガレットを残して亡くなりました。

彼は、3年3ヵ月の間服役し。その間、獄中で娘の養育費のために短編を書いて名声を得るようになりました。出所後は、ニューヨークを本拠に執筆活動に入り、雑誌などに寄稿、平明な文体と、彼独特のユーモアや、皮肉,巧みな筋立てと意外な結末が人気を呼び、流行作家の一員として認められるようになっていきました。

彼は、その後、数年間は流行作家として華々しく活躍し、300余編の物語を遺しましたが、過労と深酒がたたって、1910年6月5日ニューヨーク市の病院で肝硬変と心臓病でなくなりました。47歳でした。
O・ヘンリーという筆名は、可愛がっていたヘンリーという名前の猫が、感嘆詞「Oh」をつけて呼ばないと反応してくれなかったことからきているという説があります。
彼の作品のいくつかは、インターネットで読むことができます。

読書の秋というわけではないのですが、今日は彼の作品を堪能しました(といっても短編ばかりですが)。どれも味わい深い、すばらしい作品でした。「最後の一葉」や「賢者の贈り物」も良かったのですが、なぜか、今回は「警官と賛美歌」がつぼにはまってしまいました。

   最後の一葉(The Last Leaf)
   賢者の贈り物(The Gift of the Magi)
   二十年後(After Twenty Years)
   警官と讃美歌(The Cop and the Anthem)
   心と手(Hearts and Hands)
   シャムロック・ジョーンズの冒険(The Adventure of Shamrock Jolnes)
   ハーレムの悲劇(A Harlem Tragedy)

プロジェクト杉田玄白の詳細は、 http://www.genpaku.org/ をご参照ください。


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