9月


9日
レフ・ニコラエビチ・トルストイ(1828〜1910)ロシアの小説家、思想家

伯爵家の四男としてして生まれましたが、2歳で母、8歳で父を失い、親戚によって育てられました。カザン大学で学びましたが中退して故郷で農民生活の改善を志しましたが失敗しています。

その後、1851年志願して軍隊に入りクリミア戦争に参加しました。幼い時代のことを1853年から1856年にかけて発表した「幼年時代」「少年時代」「青年時代」にまとめ、新進作家の地位を確立しました。

1855年軍隊を退き文学に専念し小説「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」などでロシア貴族の生活を描くと共に、愛と理性による無抵抗主義的な宗教観を抱き、1882年、大衆、農民のために理想の社会を作ろうと財産を捨てて農耕生活に入りました。

そして、1899年の「復活」はこうした彼の政治・宗教・芸術に対する思想を統一した傑作となりました。

しかし、1910年10月の末、自分の信念と実生活の矛盾に悩み、82歳の彼は、医師のマコヴィツキイを 伴い家出をしました。あてどもない旅の途中、急性肺炎にかかり、ヤースナヤから200キロほど離れた小駅アスターポヴォの駅長官舎へかつぎこまれ、11月7日、最後の息を引きとったのです。

彼の他の作品は、小説「クロイツェル・ソナタ」、民話「イワンの馬鹿」、戯曲「闇の力」、評論には「人生論」があります。彼は、人種、国籍、身分を越えて、全ての人間を平等とし、愛しあい助け合うことを主張した人道主義者であり、日本の白樺派の文学者達に大きな感化を与えました。
トルストイは、59歳のときに肉食をやめ、菜食主義者となったのですが、ある日、妻の留守に肉が大好きな義妹が訪ねてきました。彼が夕食を作ることになり、料理ができたというので 食堂に入った人々の目に映ったのは、イスの脚に結わえ付けられ、もがいている一羽のひな鳥でした。そして、義妹用のナイフとフォークの横に、大きな肉切り包丁が置いてありました。
「きみは生き物を食べるのが好きだそうだからこの鶏を用意したのだが、 僕は殺したくない。この包丁で自分で殺してください。」トルストイは言ったそうです。 義妹はすぐにひな鳥を放し、皆で肉のない夕食を楽しんだということです。

「かりに肉食をするすべての人が、自分でそれらの動物を殺すことになったら、彼らの大部分は肉食を敬遠するようになるであろう。」ということなんですね。

けれども、昔は狩猟が大好きで、何頭もの猟犬を従えては 馬で森を駆け回っていました。ある時、狩猟から戻って獲物を袋から取り出すと、 一羽のヤマシギがまだ生きていたので、羽を一本抜いて鳥の頭に突き刺して 殺してしまったというようなこともあったそうです。
1857年、トルストイはツルゲーネフとパリを訪れています。当時ギロチンでの公開処刑は観光になるほど人気があり、トルストイも見物に出かけました。そして、その感想を友人への手紙に書いています。
 「今朝、処刑を見に行ったなんて、私は全く愚かで無神経でした。ここ2週間、こちらはずっと天気が悪く、私も気分が優れなかったうえ、ひどい神経過敏症になっていたというのに、あまりに凄惨な光景を見てしまったため、当分は立ち直れそうにありません。私は戦争やカフカズ地方で幾度も恐ろしいものを見てきました。でも、もし目の前で人間が切り刻まれるのを見たとしても、この巧妙でエレガントな機械ほどの不快感は覚えなかったでしょう。」
アンナ・カレーニナ
夫カレーニンの俗物さにうんざりしていたアンナは、青年士官ヴロンスキーと恋に落ちる。不倫したアンナの物語の一方で、信仰心の篤いキチイと地主貴族リョービンとの幸せな家庭生活が描かれている。

戦争と平和
ナポレオン戦争時代のロシアで、アンドレイ公爵に恋するナターシャ、彼女に恋するピエール。砲弾に倒れたアンドレイの死の後、ナターシャはピエールと結婚する。長い戦争の中で様様な人間が登場する巨編。

復活
裁判に陪審員として出席したネフリュードフ公爵の目の前に、かつて自分が愛し、犯して捨てた娘カチューシャが立っていた。彼女は捨てられてから堕落した生活を送り、無実の罪でシベリアへ送られようとしていることがわかり、罪の意識から何とか救い出そうとする。

9月


9日
ハーランド・サンダース(カーネル・サンダース)

(1890〜1980)

「決して引退を考えるな。できるだけ働き続けろ」

アメリカのインディアナ州南部にあるヘンリービルという町で3人兄弟の長男として生まれました。彼が6才のとき、父親が亡くなり、 彼の母は働きに出るようになり、長男である彼は3人の弟と妹の世話をし、そのおかげで彼は多くの料理を学び7才になったときには、この地方の料理はほとんど作れるようになっていたそうです。

彼は10歳になると家族を助けるため、学業の傍ら農場で働きました。その後14歳のとき、学校をやめて農場の手伝い、その後、市電の車掌となります。16歳で、陸軍に入隊し、ハバナ(キューバ)へ従軍し、翌年除隊した後は、鉄道の機関車修理工、ボイラー係、機関助手、保線区員、保険外交員などを転々とし、その数は40種に及びました。

その後、ガソリンスタンドを始め、ついに独立した彼は、窓拭きサービスやラジエータの水やタイヤの点検、車の掃除等をガソリンを購入する人だけでなく、道を尋ねる人にも丁寧に提供し、大いに繁盛しましたが、不幸にも、大恐慌の影響でスタンドはつぶれてしまいます。

しかし、彼の力量を認めた多くの人の援助を受け、新しい場所で、彼はガソリンスタンドを経営しながら、さらにサービスの向上を図りました。お腹を空かせて来るお客さんが多いことに気づいた彼は、ガソリンスタンドの隅に建てられていた小さい物置に、テーブルと6つの椅子を持ってきて、「サンダース・カフェ」をスタートさせました。

このお店も、非常に繁盛し、やがて彼はガソリンスタンドの向かいに142席のレストランを作り、ほんの数年の内に州内でも評判の店になり、州知事からも表彰され「カーネル」の名誉称号を与えられるほどになりました。

しかし、1950年代の初め、高速道路が作られてから、彼の店が面している道路の交通量が激減し、レストランを閉鎖することになってしまいました。

このとき彼は65歳になっていましたが、あてにしていた年金も月に105ドルしかもらえないことを知り、新しい商売を考えはじめました。そして、彼は自分のレストランで一番評判の良かった「フライド・チキン」の製法を教えるかわりに、チキン1本に付き5セントのマージンをもらう契約をするという商売を始め、アメリカ中を回ったのです。

最初は苦労の連続でしたが、徐々に商売は軌道に乗り、約10年の間に全米で600ものレストランと契約を結ぶことに成功したのです。

彼は74歳の時、商売の権利を売却し、自らは一線から退きましたが、役員としてその後も精力的に働き続けました。そうして、彼は味の親善大使として世界中を巡り、3回も来日しましたが、ちょうど3度目の来日を果たした年の1980年12月16日、ケンタッキー州ルイビルで亡くなりました。90歳でした。
日本では、「カーネル・サンダース」として有名ですが、この「カーネル」は1890年にケンタッキー州知事から授与された名誉称号で、「大佐」のことだそうです、つまり日本語に訳すと「サンダース大佐」ということになるのでしょうか。
彼が、若くして家を出たのは、母親が再婚した相手との仲が非常に悪かったのだといわれています。その後、彼は職を点々とするわけなのですが、それは、彼は、正義感が強く、その正義感から上司や会社とよく喧嘩をして辞めてしまうことが多かったと言われています。
彼が、「フライド・チキン」を売り出そうとした時のこと、ある人に、自分のフライドチキンを試食してもらったところ、その人がこのチキンの味は、「サザン・ホスピタリティ」(アメリカ南部特有の人をもてなす心)のイメージそのものだと感じて、「このフライド・チキンの名前は「ケンタッキーフライドチキン」がいい」と言ったそうです。その結果、彼の「フライド・チキン」は「ケンタッキー・フライド・チキン」と命名されたということです。

ケンタッキーフライドチキンのHP
http://japan.kfc.co.jp/


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