9月


8日
アントニン・ドボルザーク(ドボルジャーク)(1841〜1904)チェコスロバキアの作曲家

7人兄弟の長男として生まれました。彼の父親は、肉屋と宿屋を営んでおり、小さい時から肉屋の跡取となるべく修行をさせていました。8歳のとき学校に入りますが、小さな村なので教会のオルガン奏者が先生を兼ねており、彼に様々な楽器の弾き方を教えました。そして、10歳のころには父親と共に村の楽団でヴァイオリンを演奏するほど上達していました。

その後、多くの人が彼の音楽の才能を見抜き、彼に音楽を教えましたが、彼の父親は肉屋を継ぐことが彼のためだと信じ、彼を音楽から遠ざけてしまいます。彼は内気でおとなしい子で父親の言うことには、一度も逆らいませんでした。

しかし、その父も、自分からは何も言わず、だまって肉屋の仕事を続ける息子がかわいそうになり、1857年、彼は父の許しを得て、叔父の援助で、プラハのオルガン学校に入学、18歳で学校を2番の成績で卒業、カレル・コムザーク楽団にヴィオラ走者として入り、演奏活動を続けました。

当時のボヘミアは、独立運動が盛り上がり、その音楽面の指導者であるスメタナと出会い、彼も、チェコの人々の誇りとなるような音楽をつくろうと決意します。ちょうどそのころ、彼の作品が、ブラームスの目にとまり、奨学金を得て、3年後「スラブ舞曲」8曲を出版、大ヒットとなります。彼はこの民族色豊かな「スラブ舞曲」によって、チェコ民族の独立の意思を表したのです。

こうして、スメタナとともに、ボヘミアを代表する作家になった彼は、1892年にアメリカに渡り、ニューヨーク国民音楽院長をつとめ、帰国後プラハ音楽院長になります。彼には9つの交響曲をはじめ多くの作品がありますが、アメリカ滞在中に黒人霊歌の旋律に刺激を受けて作曲した交響曲第5番「新世界」は特に有名です。

彼は、その後もボヘミアで故郷の自然とチェコ民族の魂を称える音楽を書き続け、数々の栄誉を受け国民的英雄として、その生涯を閉じました。65歳でした。

その死後15年目にボヘミアは独立しチェコスロバキアとなったのです。
ボヘミアの首都プラハから、北へ30キロメートルほど離れた小さな農村ネラホゼヴェス村。この小さな町に男の子が生まれました。その子が眠る部屋に、天から3人の女神がおりてきました。3人の女神はこの子に順々に口づけをしました・・・。そして、この子供の偉大な将来を予言したのです。
これは、この小さな村に伝えられているおとぎ話です。

その子の名前は、もちろんアントニン・ドヴォルザークです。


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