9月


7日
エリザベス1世(1533〜1603)イギリス女王

母は、父ヘンリ8世の2番目の妃となったアン・ブーリンです。その母は、男子を生まなかったため、夫の不興をかい、又、女官ジェーン・シーモアと再婚したいが為に不貞の罪で処刑されてしまいましたた。

2歳で母を失った彼女は、私生児とされ、父の死後11年間を統治した異母弟エドワード6世と異母姉メアリ1世の時代に、彼女は数度にわたって君主への謀反を疑われ、ロンドン塔の逆賊門をくぐり幽閉されています。

しかし、姉メアリ1世が病死すると、彼女がイングランド女王に即位することになったのです。25歳の時でした。ルネサンス的教養に富み、フランス語、イタリア語、ラテン語、ギリシア語を自在に話せる才媛であった彼女は、英国民から 敬愛され、国中が歓喜して新しい女王の戴冠式を祝いました。 彼女はまず宗教改革を行い、ヘンリー8世が国教会を成立させて以来争ってきたカトリックとプロテスタントをまとめていきます。1559年には統一令を発布して、イギリスの教会を独立させ、王が教会の首長となり、国教会制度を確立させるとともに、急進的な清教徒と旧教徒を抑圧していきました。

また、外交においては国際間の対立に巻込まれるのを警戒していましたが、オランダ,フランスの新教徒をひそかに援助し、スペイン船略奪を奨励しました。海賊ドレークが世界一周を成し遂げたあと、海賊たちをうまく海軍として編成、スペインとの開戦後の1588年には、国家の統制下に置いたこの海賊集団によりドーバ海峡でスペインの無敵艦隊を破ります。当時としては小国イギリスが大国スペインに大勝利したことになり、これによって海外への進出が容易になり英国経済は大いに発展していきます。その後東インド会社が設立され、「日の沈まぬ帝国」が作られる基礎ができたのです。

イングランドの栄光時代を築いた“良き女王ベス”は、後継者には処刑されたメアリの子(ジェームズ1世)を指名して息を引き取りました。70歳でした。
エリザベス1世の父はヘンリー8世ですが、この人は、はっきりいってとんでもない人でした。

最初1509年6月にイスパニア王女カザリン結婚し、二人の間にはメアリー王女が生まれますが、王はそのカザリンの侍女アン・ブーリンと恋に落ち、彼女と結婚するためローマ法王クレメンス7世に離婚の許可を求めますが法王はこれを不道徳なこととみなして拒否しました。

するとヘンリー8世はこれを不服として、イギリスの教会のカトリックからの独立を宣言。1533年自分の意志通りにカザリンを離婚してアン・ブーリンと結婚し、翌年、英国国教会を設立しました。

そしてこのアン・ブーリンとの間に生まれたのがエリザベス王女です。しかし王は1536年今度はジェーン・シームアという女性を好きになり、これと結婚するため、邪魔になったアン・ブーリンを姦通したという名目で処刑してしまい、そのシームアと結婚。二人の間には翌年1537年エドワード王子が生まれました。しかし、彼女はこのお産で亡くなってしまいました。

その3年後、1540年王は。画家ホルバインが描いた絵の中の女性アンを見初め、4番目の妻を娶りました。しかし彼女には絵で恋しただけで、実際に会って結婚してみると、すぐに飽きてほんの数ヶ月で離婚してしまいます。

その次の妻は最初の妻と同じ名前のカザリンと言いましたが、この人はすぐに処刑されてしまいました。

そして1543年、とうとうヘンリー8世は6番目の妻と結婚しますが、彼女もまたまたカザリンという名前でした。しかしこの3人目のカザリン、ことカザリン・パーという女性はヘンリー8世と対等に渡り合える強い女性彼女はヘンリー8世が亡くなるまでその妻の座を守り通します。
エリザベス自身は数ある結婚話を全て断り、生涯独身を貫いてバージン・クイーンと 呼ばれましたが、本当にバージンだとは誰も信じていないと思います。エリザベス女王 は結婚して父の世代のように政治抗争を引き起こすよりも、結婚話をちらつかせて外国との外交をうまく進める方を選んだという見方もあります。


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