9月


5日
利根川 進(1939〜)分子生物学者、免疫学者。

名古屋市で生まれました。富山県・大沢野町立大沢野小を卒業し、東京の大田区立雪谷中から都立日比谷高へと進学しました。その後、京都大学理学部化学科を卒業し、分子生物学というその当時では最新の学問に取り組むために米国に渡り、米カリフォルニア大(サンジエゴ校)生物学系大学院に入学。1968年6月、バクテリオファージ(バクテリアに感染するウイルス)の研究で博士号を取得しました。

その後、ソーク研究所研究員。スイス,バーゼル免疫学研究所研究員。マサチューセッツ工科大学ハワード・ヒューズ医学研究所教授となっています。

1974年〜76年、病原体を生体が撃退する免疫システムに関する謎に取り組み、遺伝子工学を駆使して免疫グロブリン(抗体タンパク質)をつくる遺伝子の構造を世界で初めて解明。高等動物の細胞遺伝子が発生分化の過程で組み替えられる仕組みを明らかにしました。

これは、遺伝子組換え機序に基づいて新しい機能遺伝子が体細胞レベルで組立てられることであり、それまでの生物学の常識をくつがえす、生物学上20世紀最大の発見と高く評価されています。

この業績により1987年、日本人として初めてノーベル生理学・医学賞を受賞しました。また、1984年には文化勲章を受章しています。

その後も、1992年にはマウス実験で人間の学習能力に不可欠な脳内のタンパク質をつくりだす遺伝子を突き止め、脳の機能解明の手掛かりともなる研究論文を発表したほか、民間企業の後天性免疫不全症候群(AIDS)の医薬品研究への協力など幅広い分野で活動しています。
彼は、ウイルスやバクテリアなど病原体からわれわれのからだを守っている「抗体」の遺伝子の研究に遺伝子工学の方法を導入し、それまでナゾに包まれていた抗体分子がつくられる仕組みを明らかにしたのですが。また、この研究の過程で、生命の単なる青写真と考えられていた遺伝子が、個体の成熟に伴ってダイナミックに動くという驚くべき現象を発見したのです。
彼の研究などを契機にして、それまでバクテリアなどを相手にしていた分子生物学は、人間を含めた高等動物へ向かうこととなり、分子生物学は新時代を迎えたと言われています。

9月


5日
棟方 志功(むなかた しこう)

(1903〜1975)

「力とか慾とかがいらない世界 本当に他愛ない世界から生まれる仕事
 願うことではなく、願われる仕事 そんな慾でない慾を持ちたいものです」

版画家

青森県青森市に、父棟方幸吉・母さだの三男として生まれました。小学校卒業後は父の鍛冶職を手伝い、17歳の時に青森地方裁判所の給仕となっています。そして18歳の時に青森在住の洋画家・小野忠明からゴッホの「ひまわり」の複製画を見せられて感激し「わだばゴッホになる」と決意したといわれています。

そして、友人たちと洋画団体「青光画社」を作り、活動を始めました。21歳の時画家として身を立てるべく上京して帝展に出品し続けますが、落選が続きましたが、靴直しや納豆売りなどをして苦労しながら絵の勉強を続けました。そして、上京して5年目の第9回帝展に「雑園」(油絵)を出品し、見事入選することができました。

その後、川上澄夫氏の「初夏の風」という版画を見て感激し、版画家の平塚運一氏を訪れ、版画の道に入りました。昭和4年に春陽会に版画4点が入選し、翌5年にも、国画会に出品した版画4点が全て入選し、この頃から「版画」一筋に行くことを決心しました。

昭和11年、国画会展に出品した 「大和し美し版画巻(やまとしうるわしはんがかん)」 という作品が柳宗悦や浜田庄司、河井寛次郎らの目に止まり、 開館を控えた日本民藝館買い上げとなりました。 これを契機に、彼は民藝運動に加わり、その背後にある 仏教の思想を学んでゆくようになります。

戦後、疎開先から帰京してからも、精力的に活動し、昭和27年スイスのルガーノで開かれた第2回国際版画展で優秀賞を受賞し、サンパウロ・ビエンナーレに「釈迦十大弟子」などを出品し、版画部門の最高賞を受賞しました。

さらに、昭和31年には、ベニス・ビエンナーレに「柳緑花紅頌」などを出品し、国際版画大賞を受賞し、世界の棟方として確固たる地位を築きました。その後も、アメリカの諸都市の大学で講演をしたり、ヨーロッパにも行ってゴッホの墓を訪ねたりもしています。

しかし、昭和35年ごろから眼病が悪化し、失明後も制作を続けられるように目隠しで版画制作を試みたりもしています。

69歳の時に草野心平とともにインドを旅行し、更には70歳の時には奥の細道の蹟をたどっています。晩年も精力的に活動を続けましたが、昭和49年アメリカ・カナダの講演旅行中に倒れ、帰国後入院。翌年4月退院して自宅療養を続けますが、9月13日に亡くなりました。72歳でした。
板画
普通は「版画」といいますが、彼は、昭和17年以来一貫して「板画」と言い続けました。西欧から移入された版画が主に銅版画と石版画であったのに対し、自分が日本における木版画の伝統につながることを意識し、「板」のいのちを彫りおこすことを使命と感じて、「板画」と呼んだそうです。
彼のお墓は、青森市三内霊園にゴッホの墓と同じ形につくられているそうです。

 棟方志功記念館HP
    http://www.lantecweb.com/shikokan/index.html


   トップページに     今日生まれの偉人伝に