9月


3日
名取洋之助(1910〜1962)写真家

東京の高輪で生まれました。昭和3(1928)年に母とともに渡独。ミュンヘンの美術工芸学校で商業美術、グラフィックデザインなどを学ぶ。昭和6(1931)年、ユダヤ人写真家ランズホーフから写真の手ほどきを受けています。また、この頃ミュンヘン市立博物館の火災現場跡を写した写真が「ミュンヘナーイルストリールテ・プレッセ」誌に掲載されれ、写真家としてデビューします。そして、ドイツ最大の新聞雑誌出版社ウルシュタイ社の契約写真家となりました。

昭和7(1932)年に帰国し、その翌年木村伊兵衛らと日本工房を結成しました。昭和9(1934)年、海外向けの広報誌「NIPPON」を創刊しました。彼は常々「日本がゲイシャやフジヤマだけでない近代国家であることを紹介する」対外雑誌を作りたいと考えていました。

彼は財界に資金援助を求め、賛同した鐘紡が創刊号に出資し、外務省の外郭財団法人・国際文化振興会も援助を決定。こうして、四六四倍判・総アート紙・64ページからなる豪華グラフ誌が創刊されたのです。文章は英・仏・独・スペイン語併用。ドイツのグラフ誌を参考にした「NIPPON」は、わが国の出版史上、もっとも洗練された雑誌とされています。「NIPPON」は年4回の季刊誌として、敗戦までに計36冊発行されました。

昭和11(1936)年にはベルリン・オリンピックを取材し、,『ライフ』『フォーチュン』誌に日本人として初めて作品を発表。第2次世界大戦中は上海で印刷工場を経営しました。戦後は昭和25(1950)年に「岩波写真文庫」を創刊し、企画、編集、撮影に参加して以後286冊を刊行しています。その後も、「ロマネスク」ほか多数の写真集を発表しました。主著に「写真の読みかた」などがあります。
ところで、なぜ1雑誌にこれほどの援助がなされたのでしょうか。実は、この前年、日本は満州問題を契機に国際連盟を脱会していたため、国際的な孤立を深めるなかで、官民ともに危機意識が強かったのです。けれども、対外宣伝を担うメディアとして国家から援助を受ける以上、この雑誌が国策宣伝誌となるのはやむを得ず、「真実を伝える」報道雑誌をめざした名取洋之助の夢は、こうして戦争に翻弄されていったのです。


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