9月


2日
伊藤博文(1841〜1909)明治期の政治家。初代の内閣総理大臣。近代日本における立憲政治実現の功労者。

周防国(すおうのくに。山口県)熊毛郡束荷(つかり)村字(あざ)野尻に生れました。幼名は利助(りすけ。または利介)といい、「利助のひょうたん、青びょうたん、酒飲んで赤くなあれ」といわれるほど顔色が悪かったそうです。

父は農民で、畔頭(くろがしら)の役をつとめた父十蔵は、家産を傾け萩に出て、長州藩の蔵元付中間(ちゅうげん)の水井武兵衛(のちに本姓にもどり伊藤直右衛門)の傭人(ようにん)となり、その信用を得て、安政元(1854)年、家族ともども伊藤家の養子となって軽格の卒(下級武士)の身分を得ました。

安政3(1856)年藩命で相州浦賀警衛に出役した際、来原良蔵に見出され、その紹介で松下村塾に入り大いに学びました。そして長州藩の伝習生として長崎に行き、そこで洋式の兵学や英語を学び、23歳の時イギリスに渡り、外国の新しい文明に触れています。日本に帰ってからは、土佐藩の坂本龍馬の助けを得て薩摩藩と長州藩の連合を成立させて王政復古をむかえ、名を博文と改めて新政府の兵庫知事となりました。

明治四(1871)年欧米使節団として外国をまわり、先進国の様子を詳しく見聞し、西郷隆盛や大久保利通の死後は、政府の中心的存在となり、明治18(1885)年太政官制をやめて内閣制度をつくり、日本で最初の総理大臣となり、近代的な君主国家の体制を整え、憲法を制定し、皇室典範を定めました。

露戦争後大使として韓国に赴き、第2次日韓協約を結び、韓国統監府を設置して初代韓国統監となって、韓国の国内改革と保護国化を推進し、ハーグ密使事件を利用して韓国皇帝を譲位させ、第3次日韓協約を結んで内政を掌握した。

彼は日本政府のなかでは対韓慎重派でしたが、韓国民族運動の矢面に立たされ、満州視察と日露関係調整のため渡満した折、ハルピン駅頭で韓国の民族運動家安重根(あんじゅんくん)に射殺されました。

彼は下手人が韓国人だと知ると、嘆息して「馬鹿な奴ぢゃ」と呟いて事切れたといわれています。
伊藤は勲章や制服が大好きで、韓国統監時代には統監旗をつくったことをはじめ、新調の統監服に勲章をぶらぶらとぶら下げて大威張りでいろいろの式に出席していたそうです。

しかし、虚飾を好み、稚気愛すべき伊藤には欲はなく、彼の政敵であった尾崎行雄なども「伊藤のしたことに過失はあっても悪意はなく、あれくらい公平に国家のためを思えば、まず立派な政治家といってよかろう。」と評していたそうです。

9月


2日
酒井田 喜三右衛門(柿右衛門 かきえもん)

(1596〜1666)

江戸時代初期の陶工

肥前の国(佐賀県)で生まれました。酒井田喜三右衛門といい、父の業を次いで陶工となり、28才のとき、白手焼や純白ではなくて温かみのある乳白色の柔らかい濁手(にごしで)焼(乳白手焼)に成功しました。

伝説によれば、彼は、タ日を浴びた真っ赤な柿の色の美しさに感動し、どうしたらあのような美しい色が白磁の焼物に表現できるかと苦労に苦労を重ね、ついには窯を焚く薪も底をついた頃、突如ひらめきを得て、家中の燃えそうな物を手当たり次第に窯に放り込んで、柱までも燃やして、ついに「柿右衛門焼き」を完成させたという逸話が残っています。その後、この名場面が歌舞伎で演じられて評判になり、また昔の教科書にも掲載されたため、柿右衛門の名は全国的に有名になりました。

ただ、実際はこのような物語は無く、焼物を扱う豪商の一人が、長崎で中国人から赤絵付けの調合法を大金を出して買い、これを喜三右衛門に見せ、これでなんとか赤い色がだせないかと持ち掛けたということだそうです。

しかし、完成するための努力は並大抵でなかったのは事実で、彼の功績が色あせることはありません。この努力の結果、彼は48歳の時に日本で初めて見事な赤色の彩色と赤絵窯焼成法を完成したのです。

その後この赤の色を使った柿の実の蓋物を佐賀藩主鍋島勝茂に献上したところ絶賛され、この時より柿右衛門を名乗るようになったということです。

その後も、彼は続けて金銀の焼成法を完成させ、その技術は代を重ねるごとに工夫が加えられて行き、作品は、海外でも高い評価を受け輸出されていきました。現在もその技術は、受け継がれ守り続けられています。


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