9月


1日
国吉 康雄 (くによし やすお)(1889-1953)アメリカで活躍した洋画家

岡山県で生まれました。父は人力車夫で、ひとりっ子でしたが、日本にいても大した世界が開けるとは思えないと考え、17歳のとき岡山県立工業学校の染織科を1年の1学期で退学、たった一人で横浜からアメリカに船でわたりました。

カナダのバンクーバ−に上陸し、一週間かけて汽車でシアトル到着。金も、知人、友人がいるわけでもなく、日本人経営のホテルの親切なマネージャーの世話で機関車洗いの仕事につき、馬小屋のような宿舎の藁を敷いたベッドに寝て、起きれば無言で水を運び、円形の鉄道車庫で機関車を洗いました。言葉のできない日本人には、そんな仕事しかなかったのです。それが彼のアメリカでの第一歩でした。

こんなことのために遥々アメリカまで来たわけではないと、機関車洗いには早々と見切りをつけ、ビル掃除などをしながらミッション・スクールに通うようになり。少しずつ金を貯めて暖かいロスアンゼルスに移り、雑役をしながら夜間の公立学校へ通いました。

言葉が話せないという苦労のなかで、彼はひとつの表現手段を考えます。「絵なら通じる。万国共通語だ。」ようやくアメリカ人と触れ合う道を見出した彼に、やがて一人の先生がその才能に目をつけ、美術学校へ行くことをすすめました。絵描きになるなど夢にも考えたことはなかった彼は、宇余曲折の末、ロスアンゼルスの美術学校の夜間部で三年間学んだ後、ニューヨークへ出ました。

アカデミーに通ってもう一度基本的な勉強をし直した後、進歩的なことで有名な美術学校インディペンデント・スクール・オブ・アートで二年間学び、その後、アート・ステューデンツ・リーグの夜間部で、二十七歳からの四年間を学ぶのですが、ここで彼は初めて師と呼べる人、ケネス・ヘイス・ミラーにめぐりあいました、自身も若手画家だったケネス・ヘイス・ミラーは、一目で国吉の才能を見抜き、彼の才能を引き出してゆきました。翌年、在学中のまま初めて公募展に出品、ついで反アカデミーのペンギン・クラブにも作品を出し、それが機縁となって、近代絵画のパトロン、ハミルトン・イースター・フィールドとも知り合いました。

その後のフィールドの物心両面にわたる援助のおかげで、彼は制作に打ち込み、渡米二十年たらずでアメリカ現代絵画の旗手の一人となり、「日本生まれのアメリカ人画家」として勢力的に作品を発表、数々の栄誉に輝きました。それは第二次世界大戦の間も変わらず、「敵国人」に最高の賞を与えることにアメリカ各地で異論が出たほどでした。

彼は、終生アメリカ画壇の一人者として活躍し、指導的立場にあって、自身がこの国に助けられたように若い人々を助けてゆきました。

1953年 移民帰化法の改正を受け、待望のアメリカ市民権取得申請の準備を始めましたが、もうそのときには胃ガンの病床にあって書類にサインをする力が残っていなかったといいます。
彼は1948年には「ルック」誌が現代アメリカの10人の画家に選出し。ホイットニー美術館が現存画家としては初めての回顧展を開催したり、シンシナティ美術館の「アン・アメリカン・ショー」に6人のアメリカ人画家の一人として出展、全米各地を巡回。と、日本人でありながら、アメリカ人として栄誉に輝きましたが、アメリカ人の懐の深さにも感嘆します。
キャンバスに向かう時は、妻といえども画室に入れなかったという孤独な営為を終生貫いて、一度見たら忘れられない、マホガニー和音と呼ばれる不安にして郷愁をそそる独特の暗い茶、クニヨシ・ホワイトと呼ばれる暗い眼をした女の肌のくすんだ乳白色、明度の高く乾いたサーカスの朱色を産み出した。


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