8月


27日
宮沢賢治(1896〜1933)詩人・児童文学者

花巻でも指折りの資産家の家の長男として生まれました。盛岡高等農林学校研究科を卒業し、家業に従事中、日蓮宗の熱心な信者となり、布教のため上京しました。妹の病気のために帰郷し、農学校の先生となって、貧しい東北地方の農村の農業改良問題に情熱を傾けました。しかし、賢治はこの頃より健康を害し、1933年、37歳の短い生涯をとじます。法華経信者として一生独身でした。

彼は一方で、詩や劇作に打ち込み、大正13(1924)年、詩集「春と修羅」、童話集「注文の多い料理店」を自費出版しましたが、世間からは認められませんでした。しかし、神秘壮大な宇宙観と農民への深い愛情に貫かれた彼の作品は、彼の死後、横光利一や草野心平らによって発掘され、高く評価されるようになりました。

作品には「雨ニモマケズ」「永訣の朝」の詩や「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」「セロ弾きのゴーシュ」などの童話があり、多くの人に読まれています。他に論文「農民芸術概論」があります。
実は、今日8月27日はマザーテレサの誕生日でもあるのです。共に他の人のために自分の生涯をついやした2人の偉人が同じ誕生日ということに、不思議さを感じます
〔雨ニモマケズ〕

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニソウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイゝトイヒ
北ニケンクワヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
  南無無邊行菩薩
  南無上行菩薩
 南無多寳如来
南 無 妙 法 蓮 華 経
 南無釈迦牟尼佛
  南無浄行菩薩
  南無安立行菩薩

8月


27日
マザー・テレサ本名アグネス・ゴンジャ・ポワジュ)

(1910〜1999)

「富の中から分かち合うのではなく、ないものを分かち合うのです。」

カトリック修道女

ユーゴスラビアの古都スコピエの商人の家に生まれました。12歳には神に捧げて生きることを考え、18歳になったとき、アイルランドにあるロレット修道会が修道女をインドに派遣していることを聞き、インドへ渡る決意をし家を離れ洗礼を受けました。洗礼名を「テレサ」といいます。

彼女はインドのベンガル区にあるロレット修道会の経営する学校で教師を始め、この学校の校長までなりました。そして、1946年の9月10日、その日ヒマラヤにあるダージリンに向かう列車の中で彼女は、イエスの「貧しい人の中で一番貧しい人の間で神に仕えるように」と内なる声を聞いたのです。

彼女は、ロレット修道会を出て貧しい人々の中にはいることを決意して、カルカッタ大司教とローマ法王に修道会の外に出て活動する許可を求めましたが、修道女が修道会の外に出ることは原則として許されませんでした。

けれども彼女の熱心な願いは、ついに聞き届けられ、2年後、例外的な許可がおりたのです。彼女は、学校のすぐ隣にあるカルカッタのスラム街に入っていきました。その時ポケットには5ルピーがあるだけだったといわれています。たった1人スラム街に入った彼女は地面に棒で文字を書いて字を教える青空教室から始めました。

初めは5人から始まった教室も毎日のように新しい子どもが顔を見せ、人数もどんどん増えていきました。かつてのロレット修道院時代の教え子も仕事を手伝い、また、家を提供してくれる人やお金を寄付してくれる人も現れ始め、1950年彼女の生活共同体は、ローマ法王から、修道会「神の愛の宣教者会」として認可され、このときから、彼女は「マザー・テレサ」と呼ばれるようになったのです。

そして、1952年、路上で死にそうになっている人を連れてきて、最期をみとるための施設「死を待つ人々の家」を開設しましたが、ヒンズー教徒である地元住民の強い反対がおこりましたが、ある日、彼女がコレラで死にそうなヒンズー教徒の僧を引き取り、死をみとったことをきっかけに、住民の彼女を見る目が変わっていったのでした。

1979年、ノーベル平和賞を受賞しましたが、「私は受賞に値しないが、世界の最も貧しい人々に代わって賞を受けました。」と受賞後も、朝4時に起床、シスター達と一緒に、路上生活者やごみ捨て場に捨てられた幼児を施設に連れてくるといった生活をほとんど変えずに行い続けていました。

1996年頃から、持病のマラリアが再発し、心肺疾患などで入退院を繰り返す中、1999年9月5日午後9時半、心臓発作のため、カルカッタ市内の「神の愛の宣教者会」本部で亡くなりました。87歳でした。葬儀はインド政府による国葬として行われました。


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