8月


25日
榎本武揚(えのもとたけあき)(1836〜1908) 江戸時代末期の幕臣。明治新政府の閣僚

江戸下谷御徒町の直参旗本の家の次男として生まれました。通称は釜次郎。 父、円兵衛は旧姓箱田良助と言い、備後(今の広島県)の国の箱田村の出身でした。

彼は頭が良かったため、江戸に出て天文学を学びました。当時天文学は、正確な暦を作る上で重要で、正確な暦は農作物に重要な影響を与えるものでした。その後、日本測量で有名な伊能忠敬に師事し、彼の死後、その志を受け継いで日本地図完成に尽力した。その後幕臣の榎本家の株を買い、榎本円兵衛武規となりました。

その後、彼は昌平坂学問所で儒学を学び、江川太郎左衛門からオランダ語、アメリカ帰りの中浜万次郎から英語を学ぶという英才教育を受けて育ちました。しかし、昌平坂学問所の卒業試験に落ち、当時の箱館奉行堀織部正の小姓として、蝦夷の箱館(後の函館)に渡りました。当時の箱館は、ペリーの黒船来航に始まる日米通商条約で外国に開港されている港で、彼はここで堀織部正とともにまだ未開だった蝦夷の大地を探検し、蝦夷の地の地理や星、気候などを学んだと言われています。

幕府が新しい長崎海軍伝習所を開くと、箱館から戻った釜次郎もはいり、造船・測量・航法・機関などの新しい学問を学んだ。はじめに釜次郎は、第一期生の矢田堀景蔵の従者として講義を聴いていました。

帰東してから、海軍操練所教授、1862年オランダに留学生として派遣され、帰国後海軍奉行となりまし。戊辰戦争のとき、「開陽丸」ほか旧幕艦数隻を率いて箱館に入り、五稜郭に拠って官軍に抗戦しました。ロシアとの提携をはかり、北海道に工務授産計画を立てるなど、同地領有の意図をいだいたのですが、1869(明治2)年5月、官軍指揮官・K田清隆のすすめで官軍に降伏し、投獄されました。

K田らの尽力で釈放され、開拓副使となったK田の元で北海道開拓使となります。1874年には海軍中将。ロシア駐在公使となって樺太=千島交換条約を締結。1880年海軍卿。その後、清駐在公使を経て、1885年初代逓信相となった。以後、文相、農商務相、外相を歴任。旧幕臣のなかでは,例のない高い地位を明治政府で占めました。


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