8月


24日
滝廉太郎(たきれんたろう)(1879〜1903)明治時代の作曲家

東京で8人兄弟の長男として生まれました。滝家は九州日出藩の家老の家柄で、父は大蔵省や内務省に勤めており、伊藤博文の秘書をつとめたこともありました。その後、父が役所を辞めて故郷の大分に移り住み、彼も大分師範(今の大分大学)付属小学校に入学、さらに直入郡高等小学校に転校、竹田に引っ越しました。竹田は阿曽火山のすぐ東の高原の町で岡城の城跡がありました。(岡城は荒城の月のモデルといわれています)

少年のころから音楽が好きで音楽家を目指そうとしましたが、父の反対に会います。しかし優れた西洋建築家のいとこ、滝大吉が父を説得し、16歳の時東京へ出て小山作之助の芝唱歌会にはいり、小山作之助の熱心な指導もあって、東京音楽学校に進むことができました(35人の合格者のうちの最年少でした)。18歳のときピアノ独奏の初演奏をし、卒業してからピアノと作曲に励みました。

そのころ、文部省では3人の音楽家をドイツに留学させることになり、小山作之助、島崎作之助、そして滝廉太郎が選ばれましたが、諸般の事情で留学の人数が1人になってしまいました。そのとき小山作之助が、自分を後にしても良いから滝を先に行かせてやってくれと言ったといわれています。

小山作之助の恩に報いようと、彼はドイツ出発までの1年間に「花」をはじめ「箱根八里」や日本を代表する名曲「荒城の月」等、今にも残る名歌曲を次々に作曲しています。また、この間に「お正月」「桃太郎」「鳩ぽっぽ」「雪やこんこ」などの幼稚園唱歌も次々と作曲しました。

そして、1901年ドイツに留学し、ライプチヒ音楽学校に入学しましたが、まもなく結核にかかり、帰国し父母のいる大分に帰りましたが、病状は日一日と悪化し、まだ24歳にも満たない若さで、母に手をとられながらこの世を去りました。

彼の最後の作曲は病床で書いたピアノ曲「うらみ」でした

8月


24日
若山牧水

(1885〜1928)

白鳥は かなしからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよふ

歌人

宮崎県東郷町坪谷に生まれました。その後、延岡中学を卒業したあと、早稲田大学に入学。明治38年尾上柴舟門下に入り、車前草社(おおばこしゃ)をつくり「新声」誌に歌を発表し、まもなく処女歌集「海の声」を出版、ついで「独り歌へる」「別離」を刊行します。

これらの歌集は、自然主義の思想を盛り込んだ歌として、当時の歌壇に新風を吹き込みました。その後も、「死か芸術か」「秋風の歌」「くろ土」「黒松」等を発表し、明治43年には新しい詩歌雑誌「創作」を発刊し、その主催する創作社の機関紙としました。

彼は、旅と酒をこよなく愛し、清貧の中で淡々と歌作りにはげみ、数多くの短歌と詩情豊かな紀行文を残しています。

大正9年の夏には、一家をあげて沼津に移住し、大正14年には千本松原の近くに約500坪の土地を購入して住宅兼事務所を新築し移住しました。彼が沼津でもっとも愛したのは千本松原で、最後までその朝夕の散歩を楽しみ、沼津周辺の風物を歌い続けたということです。

昭和3年の9月頃から病床に臥し、13日には急性腸胃炎兼肝臓硬変症で医師から重体の宣言を受け、17日、沼津の自宅で亡くなりました。43歳でした。彼が亡くなった後は妻の喜志子が「創作」を主宰し発行を続けました。
早稲田大学では、詩人の北原白秋と同期で二回同じ下宿で勉強した親しい間柄であったそうです。当時、白秋は射水と号し、他に歌の友に中林蘇水がおり、牧水、射水、蘇水が早稲田の三水と呼ばれました。
彼が生まれた時、丁度旧暦お盆の十五日の朝で座敷に寝ていた母を縁側に移して座敷の掃除をし、そのまま台所で炊事をしていたら母は産気づいて縁側で生れたということです。
幾山河 越えさりゆかば 寂しさの はてなむ国ぞ けふも旅ゆく

白鳥は かなしからずや 空の青 海の青にも 染まずただよふ

白玉の 歯にしみとほる 秋の夜の 酒は静かに 飲むべかりけり

うす紅に 葉はいちはやく 萌えいでて 咲かむとすなり 山ざくら花

浪、浪、浪、 沖に居る浪 岸の浪 やよ待てわれも 山降りて行かむ

雨、雨、雨、 まこと思ひに 労れゐき よくぞ降り来し あはれ闇を打つ

清らけき 浅瀬ながらに 波をあげて 杉山の根を 流れたるかな

手を洗ふに ほどよきほどの ほそき滝 きよらにかかる 道の傍に


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