8月


23日
三好達治(みよしたつじ)(1900〜1964)詩人

大阪市に生まれました。5歳のとき養子に出ますが、病弱のため祖母の元に引き取られています。15歳のとき大阪陸軍幼年学校に入学し、卒業して、東京陸軍中央幼年学校本科に進学し士官学校へと進学しますが、大正10年(1921)21歳のとき、実家が倒産し、陸軍士官学校を中退。京都第三高等学校から東京帝国大学文学部仏文科に入学します。

小林秀雄、中島健蔵、今日出海(ひでみ)、淀野隆三、堀辰雄らと親しみ。梶井らの同人雑誌「青空」、安西冬衛、北川冬彦らの「亜」、百田宗治の「椎の木」などに参加し。室生犀星、萩原朔太郎にあこがれていました。

卒業後、29歳のとき、新潮社でゾラの「ナナ」翻訳発刊、30歳で雑誌「作品」同人となり、井伏鱒二、川上徹太郎と親交を結び、処女詩集「測量船」を発表。またフアーブルの昆虫記を翻訳しています。

昭和8(1933)年、堀辰雄、丸山薫と共同編集で「四季」を創刊。昭和10年代中心的な存在となりました。

彼は、古典的な感情と清新な表現を組み合わせた独自の境地を打ちたてました、その後は口語詩から文語詩にかわり、「艸(くさ)千里」や「一点鐘」などの詩集を出しました。詩集「故郷の花」「砂の砦」「駱駝の瘤にまたがって」のほか、吉川幸次郎と共著の「新唐詩選」があります。

昭和28(1953)年芸術員賞を受賞。昭和39(1964)年64歳のとき、狭心症で田園調布中央病院へ入院、死去。
彼は、萩原朔太郎の妹「アイ」に逢って、ひとたまりもなく恋をし、東大仏文科を卒業し、さっそく「アイ」に結婚を申し込みます。ところが、朔太郎の母は
「(生活の安定しない)文士は朔太郎一人でたくさん、就職を・・・」
との意向が強く、彼は就職先として「アルス」書店に就職します。ところが、アルス社が倒産してしまい、アイとの結婚を断念することになってしまいました。しかし、このことによって、彼は文筆生活を目指す決心がついたといわれています。
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ
そして旅に出れば、知らない人ばかりを見、知らない海の音を聞くだろう。

(三好達治「測量船」より)

8月


23日
遠山 景元(金四郎)

(1793〜1855)

江戸町奉行

長崎奉行 遠山景晋(かげくに)の子として生まれました。名は景元。通称が金四郎。若い頃は、後継ぎ問題をめぐる複雑な家庭環境により、遊里に入り浸ったりと、無頼の連中と付き合い放蕩を繰り返していました。

しかし、家督を継いでからは、才覚を表し、将軍のおそば近くに仕える小納戸役を皮切りに、普請奉行、作事奉行、勘定奉行と順調に出世し、1840年には、天保の改革を推し進める老中水野忠邦の抜擢で、江戸北町奉行に就任しました。

その時の、南町奉行は鳥居甲斐守忠耀で、倹約令など法令を守らない者を厳しく取り締まり、庶民の娯楽である歌舞伎や花火、将棋までも制限を加えたのです。もちろん政策を批判する者を徹底的に弾圧していました。

しかし、彼はそれを緩和して庶民の暮らしを守ろうとし、両者は常に緊張関係にあったといわれています。

彼は、十年余の放蕩生活で世情にもくわしく、庶民の気持ちを理解し粋な裁きを行い、名奉行として市井に知られたばかりでなく、奉行所内でも大岡越前守忠相以来の名裁判と評価されたのです。

何かと対立していた二人ですが、1843年、鳥居の策略により閑職の大目付に左遷(形式上は昇進)させてしまいます。しかし、彼も反撃し、鳥居は違法行為が暴かれて失職し、四国丸亀藩お預けとなりました。

そして、忠邦失脚後の1845年に、鳥居の後任として南町奉行に再度任命されたのです。1852年には引退し、晩年は帰雲という号で俳句を書いたりして悠々自適の余生を送り、静かに暮らしたそうです。

1855年2月9日に亡くなりました。61歳でした。
時代劇においては、遠山桜の刺青が有名ですが、実際はどうだったのでしょうか。

彼は放蕩していた頃に入れ墨を入れていたとされます。その模様は一般に時代劇では桜吹雪とされていますが、一説には女の生首であったともいいます。また実は入れ墨はしていないという説もあります。しかしいづれにせよ彼はどんなに暑い日でも人前では決して肌を見せなかったそうです。
彼は、株仲間解散令では、混乱を生じるとして通達を引き延ばして謹慎処分を受けたり、また鳥居がある時、風紀上よくないとして江戸中の舞台小屋を全て廃止しようとしたときには、これに反対し「芝居小屋を取り潰して、反感を買うより一カ所に集めて監視した方がよい」と水野忠邦を説得し、芝居小屋をを浅草に移転させるという処置でおさめたりしました。
遠山家は実子に恵まれない家系であったため、養子問題がからんで、複雑に人間模様が絡み合い、景元が生まれた時、彼の出生届を1年遅らせて、義弟の景善を先に自分の養子にしたりもしています。このため彼の生れは本来は寛政5年8月23日でしたが公式記録では、寛政6年9月23日となっているということです。
当時江戸の人々は、鳥居を名前に引っかけてキツネと呼び、対して遠山をその更に上手のタヌキと呼んでいたということです。


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