8月


22日
クロード・アシル・ドビュッシー(Claude Achille Debussy)(1862〜1918)フランスの作曲家

パリ近郊のサンジェルマン・アン・レイのパン通りで生まれました。彼は生まれた時から、ひたいに骨が浮き出て、こぶのように盛り上がっている一種の骨腫瘍のため、いつも前髪で額を隠していました。そのため、外へ出るのを嫌がり、一日中家にいることが多いくらい性格の子供でした。

また、父親の仕事がうまくいかず、各地を転々としたことも手伝って、彼は親戚をたらいまわしにされて育ちました、そのため、彼は6歳になるまで陰気で反抗的な子になっていきました。

しかし、6歳の時父親の姉にあたるルスタン夫人にあずけられたとき、彼のピアノの才能に気づいた夫人がピアノ教師を彼のために雇ってくれたのです。幸運はさらにかさなり、彼の父がパリの革命運動に加わり捕らえられていた牢の中で、ショパンの弟子でもあるモーテ夫人(詩人ヴェルレーヌの義理の母親でもあった)の息子と知り合い、9歳になっていた彼はモーテ夫人の下で1日8時間のピアノの練習を行い、なんと10歳でパリ音楽院に入学したのです。

パリ音楽院で、彼は多くの教師のもとで多くの知識を吸収し、結局11年間もこの音楽院にい続けました。しかし、家が経済的に貧しかったため、自分で学費を稼がなくてはなりませんでしたが、多くのパトロンに恵まれ、恵まれた学生生活を送ることができました。中でもヴァニエ家には、多くの本があり、小学校も出ていなかった彼は、詩や文学の本を読み漁り教養を深めていきました、また、ヴァニエ夫妻の励ましもあり、1884年ローマ大賞を受賞しています。

その後、彼は印象派の絵画やマラルメなどの象徴詩に心を動かされ、1894年「牧神の午後への前奏曲」を発表、国民音楽協会で演奏され、彼の名前は一躍有名になりました。1902年メーテルリンクの戯曲をもとに作曲した「ペレアスとメリザンド」初演は20世紀前半の歌劇を代表する作品と絶賛され、この成功によって第一線の作曲家に与えられる勲章、レジオン・ドヌールがおくられたのでした。

作品はほかに付随音楽「聖セバスチアンの殉教」、管弦楽曲「ノクチュルヌ」「海」、ピアノ曲「版画」「子供の領分」、ピアノ曲集「亜麻色の髪の乙女」など。
彼以前の古典派やロマン派といった音楽は、ハ長調やト長調など七つの音による音階をもとにしていました。もちろん和音の使い方にも共通の決まりのようなものがあったのですが、彼はこのような作曲の規則にとらわれずに、これまでの音階のほかに五音音階や全音ばかりの全音音階などを使い、和音も今まで見られなかった自由で斬新な使い方をして、まったく新しい音楽を生み出したのです。


   トップページに     今日生まれの偉人伝に