8月


20日
高杉 晋作(1839〜1867)江戸幕末の志士

萩の城下菊屋横丁で父小忠太、母道の子として生まれました。高杉家は200石取りで萩藩の重要な役職についていました。幼少時代は剣道に没頭したくましく育ちました。

17歳になると吉田松陰の松下村塾に入門。1歳年下の久坂玄瑞と競って勉強し、「高杉晋作は鼻輪も通さぬ放れ牛(束縛されない人)、久坂玄瑞は“政庁に座らせておけば、堂々たる政治家」とたたえられ、のちに松下村塾の双璧と呼ばれるようになりました。

20歳のとき 江戸から信州を回って旅をし、佐久間象山に会って「外国を見なければならない」と教えられます。そして1862年、藩命により幕府船千歳丸に乗船し上海へ渡航。アヘン戦争に負けた清国の姿を見、太平天国の乱を目撃し、植民地の実情を観察しました。帰国後藩論を尊攘に転換するため努力したがうまくいかず、亡命して尊王攘夷運動に挺身しました。

1863年長州藩の下関における外国船攻撃に際して起用されましたが、報復攻撃にあって敗北。6月藩命により奇兵隊を組織して総監となり馬関総奉行として下関防御の任に当たりました。奇兵隊の[奇」は正規軍の「正」に対する「奇」で、庶民も入隊できる有志隊でした。

同年8月の政変で長州藩が京都から一掃されると、彼は藩内に高まる武力上洛論に反対し、京都進撃を主張する急進派説得の命令をうけましたが失敗、脱藩して上京。この後帰国して野山獄に投ぜられています。

しかし、1864年四国連合艦隊の下関砲撃事件が勃発すると善後処理を命じられ講和条約の正使として活躍し条約を締結します。同年の第一次長州征伐に対しては、主戦論を説きましたが、佐幕派の藩政府にやぶれ、危機を察して九州福岡に脱走し、野村望東(ぼうとう)の平尾山荘に潜伏しました。

やがて機を見て下関に帰り、12月奇兵隊等諸隊の決起を促して挙兵。死を覚悟し「故奇兵隊開闢総督高杉晋作、則ち西海一狂生東行墓」の墓誌を用意しています。そして、ついに佐幕派藩政府を相手に勝利を収め藩論を討幕に統一しました。

1866年には薩摩藩との間に薩長同盟を結び、反幕府の態勢を固め、同年6月の第二次長州征伐には、大島口の戦いで幕府艦隊を奇襲攻撃を行い戦況を有利に導きます。また、小倉口の戦いでは、長州軍(奇兵隊)千の 総指揮をとりました。(幕府軍2万)彼が創設した奇兵隊を指揮したのはこれが最初で最後でした。戦況が長州有利に展開し小倉城が陥落したころには、彼の病状は非常に悪化していました。(この戦争には、坂本竜馬も海援隊と参戦していました。)長州が幕府に勝利することにより、新しい時代が動き始めたのですが、同年10月肺結核を重くして退職、翌年4月討幕を見ずに下関で病死します。

彼が、歴史の表舞台へ登場した期間は、奇兵隊創設から小倉城炎上までの約3年と短く、その期間にすべての力を出し尽くしたといえるでしょう。
松下村塾にて吉田松陰が教えた生死観「生きて大業をなす見込みがあれば、いつまでも生きよ、死んで不朽の価値があると思えば、いつでも死んだらよい」が高杉晋作の行動原理となったといわれています。彼はこの「不朽の価値」が無いと見ればいつでも逃げ、死を覚悟しての行動はただ一度だけでした。 そんな彼を、伊藤博文は「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然として敢えて正視するもの莫し。」と表現しています。
司馬遼太郎は、高杉晋作に以下のような人物評価 を行っています。
「高杉晋作は、革命家としての天才は、おそらく幕末随一であったろう。幕末には、坂本竜馬、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允(桂小五郎)など、雲のごとく人物が出たが、かれらは革命期以外の時代に出ても使いみちのある男どもだが、高杉晋作は、革命期以外には使い道がないほどの天才であった。 もし平和な時代に生まれていれば、飲んだくれの蕩児として近親縁者の厄介物になったまま、世をおえたかもしれない。 政治、軍事の才がある。それも革命期の政治、軍事でそれ以前やそれ以後の日本には、役に立たない。いわば、明治維新をおこすために生まれてきたような男であった。」
彼は大胆な行動ばかりが目立っていますが、父親や毛利藩主に対しての忠誠心は、異常なまでに強く、また四百編の漢詩に代表される数々の詩や和歌、俳句(少しだが)などから彼の神経の繊細さが伺えます。
辞世の句
「おもしろき こともなきよを おもしろく すみなすものは こころなりけり」

8月


20日
尾上柴舟(おのえさいしゅう)

(1876〜1957)

大正・昭和初期の歌人・書家

岡山県で生まれました。東京大学国文科を卒業し、落合直文の浅香社に入って和歌革新運動に参加しましたが、やがて「いかづち会」をおこし、当時全盛をきわめた与謝野寛たち明星派のロマン主義に対して、清新な叙景歌を主張しました。

ついで車前草社(おおばこしゃ)を結成してその門下から若山牧水、前田夕暮などの歌人を輩出し、歌誌「車前草」、さらに「水瓶」を創刊しています。

その間、東京女高師、学習院、早稲田大学などで教え、書道にも力を尽くしました。歌風は温雅で、内省的であり、自然主義的な傾向を歌壇に導きいれたとされています。

主な歌集に「銀鈴」「静夜」「永日」「白き路」「朝ぐもり」などがあります


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