8月


18日
最澄(さいちょう)(768〜822)日本天台宗の開祖。

中国・後漢 応神帝のころに帰化した人の子孫といわれ、比叡山山麓の古市郷(現滋賀県大津市坂本本町)に生まれました。幼名を広野といい、780年に近江国・国分寺の行表を師として出家し、783年に奈良の東大寺の戒壇院で受戒しましたが、腐敗した奈良仏教に絶望して比叡山に登りました。

比叡山に一乗止観院(後の延暦寺の前身)を建立し、そこにこもり、多くの経論を読み、世の無常さと、自身の未熟さを嘆きました。そして、「人を本当に救える人間になるため、修行を積み、三千世界(全宇宙)を認識し、仏をこの身に感じるときまで世間とは交わるまい。」と仏道修行を実現するために5つの誓願(願文)をたて、それが成就するまで下山しないと誓ったのです。彼が開眼し下山するまで12年かかったことから「12年籠山」という後の僧の修行規則として制度化され現在に至っています。

その後、804年に中国に渡って天台山にて道邃、行満から天台の法を学びました。翌年に帰国し「妙法蓮華教」七巻等を天皇に献上しました。806年に天台宗を開いて布教につとめ、比叡山に延暦寺を立てました。

朝廷からも深く信仰され、死後の866年に日本で初めて大師号を贈られ伝教大師といわれています。

死の数ヶ月前、最澄は「我が為に仏を作ることなかれ、我が為に経を写すことなかれ、我が志を述べよ。」と弟子達に言い残したといいます。

彼が息を引き取った時、「比叡山に暗雲が垂れこみ、怪光が谷を照らし出し、動物達は悲しみの声を上げ、草木がことごとく枯れた。」と、言い伝えられています。
天台宗
仏教の日本八宗・中国十三宗の一つ。法華経を根本とする宗派。日本には奈良時代の天平勝宝六年に唐の僧鑑真(がんじん)が初めて伝え、後、平安初期の延暦二三年に僧最澄が唐へ渡り、翌年帰朝して、比叡山に延暦寺を建てて日本天台宗を開創。朝廷の保護の下に隆盛をきわめた。後、分かれて山門派・寺門派・真盛派となった。比叡山延暦寺をはじめ、園城寺(三井寺)・日光輪王寺・上野寛永寺・中尊寺・妙法院(三十三間堂)・善光寺などが著名。
最澄の遺言の一つに「今より我が同法よ、童子を打たずんば、我がための大恩なり。努めよ、努めよ」というものがあるそうです。これは、すなわち、わたしの教えに報いようとする者は「童子を打たないことだ」それがわたしにたいする恩返しであるということです。「童子」(小僧)とは20歳以下の青少年のことで、当時小僧への体罰が横行して、最澄の力をもっても、僧侶たちに、童子への体罰禁止を徹底することができなかった。その心残りがこのような遺言となったといわれています。
最澄は天台宗の布教に努める一方、比叡山を聖地とする僧侶の養成機関を作り上げていきました。やがて比叡山は仏教の総合教育機関として発展し、最澄の弟子達によって、天台密教、浄土宗、浄土真宗、臨済宗、日蓮宗、曹洞宗、時宗という新しい宗派が誕生していったのです。
最澄は空海より七歳年長であり、先に社会的地位を得ていましたが、空海が唐からもたらした密教に関する「請来目録[しょうらいもくろく]」を見るに及んで空海の存在に驚きます。そしてみずからの密教の所伝に欠けるところを自覚し、一世の師長たる身分にもこだわらず、一介の青年僧空海に教えを乞い、かれを戒師と仰ぎ灌頂を受けます。

空海も最澄に対し、先輩として平安仏教界の代表者としての礼を尽くし、親しく交際を始めます。

最澄は空海に教えを乞いつつ、書物を借覧し、文通をし、この報恩として空海を和気真綱に引き合わせ高雄山寺を斡旋したといわれています。空海が平安仏教界の双璧の一人になれたのは、前後三回のこの高雄山寺の灌頂によるもので、最澄よりすぐれた密教の阿闍梨であることを証明できたことによります。

仏教界最高峰で名実ともに指導者である最澄が空海に教えを乞うことは、一般社会にはかりしれない衝撃を与えました。

たちまち朝野の名士が空海の仏弟子となり、東大寺を中心とした南都諸大寺の名だたる学匠までが空海の下に参じます。これはひとえに最澄の影響だったということができます。こうして空海の位置は不動となり、高雄山寺の真言教団を中心にはなばなしい活動の基礎ができ上がります。最澄はなおも仏典の借覧、教えを受けつつ阿闍梨灌頂の伝授を申し出ますが、密教の深秘[じんぴ]に参入するには更に実修が必要であるといわれ、高弟の泰範[たいはん]を残し比叡山へ帰ります。そして最後に「理趣釈経」の借用を申し出ます。

空海はこれをきっぱり拒絶します。これは仏教の根本理念に対する基本的態度、すなわち教法は文字、文献上で理解するか、たんにそれだけにとどまらず実修、実践することによっても体得しなければならない、とする両者の性格の違い−典型的な求道者タイプと、たんに宗教者に収まりきれない多次元的タイプ−が表面化したことによります。この「理趣釈経」借覧の空海の拒絶は厳めて手きびしく、また最澄の愛弟子泰範の比叡山への帰還拒否は空海が泰範に代って筆をとるというすさまじいもので、ここで最澄との関係は決定的に終止符を打つことになります。

8月


18日
伊藤左千夫

(1864〜1913)

「牛飼が歌よむ時に世のなかの新しき歌大いに起る」

明治・大正時代の歌人・小説家

今の千葉県山武郡成東町殿台で農家の4男として生まれました。本名は幸次郎といいます。17歳の時、明治法律学校(現・明治大学)に入学しましたが、眼疾のため中途退学し帰郷し、家で農業を手伝っていましたが22歳で再び上京して、京浜間の牛乳店で働き、25才のとき本所区茅場町で独立して牛乳搾取業を開きました。屋号は「乳牛改良社」と称し、「芽の舎」とも「デボン社」ともいったそうです。

彼は牛乳業を営むかたわら、和歌を好んで作り、明治33年より正岡子規に師事し、その門下生の中心となって作歌活動を続けました。子規が亡くなってのちは、雑誌、「馬酔木」を創刊し、「馬酔木」廃刊の41年には「アララギ」を創刊し、多くの短歌、歌論を発表し、後進の育成に努めました。

彼は、虚飾や形式をしりぞけて万葉調の歌風を尊重し、声調が豊かで主観のひびきの強い短歌を作りました。その門下からは島木赤彦、中村憲吉、斎藤茂吉、土屋文明らの多くの歌人が出ています。

また、子規の写生文から進んで、出身である成東を中心に、比較的豊かな農民の家族制度や風習にからんでの悲恋や、男女関係のもつれをテーマにした「野菊の墓」「分家」などの特色のある小説を書いています。

大正2年7月30日、脳出血で亡くなりました。50歳でした。

明治39年1月「ホトトギス」に発表した「野菊の墓」は夏目漱石などの激賞を受け、漱石は左千夫宛に書いた書簡のなかで「野菊の墓は名品です。自然で可哀想で、美しくて結構です。あんな小説なら何百遍読んでもよろしい」と言っているそうです。


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