8月


16日
山鹿 素行(やまが そこう)(1622〜1685)江戸時代初期の古学派の儒学者、兵学者

伊勢亀山藩出身の浪人の子として陸奥国会津若松で生れました。(父親が故あって、会津藩の町野氏宅に居候していたためです)。6歳で江戸に出て、9歳のとき幕府大学頭の林羅山の門下として朱子学を学び、15歳から当時最高の兵学者である小幡景慶・北条氏長について兵学を学びました。さらに神道、歌学、老荘、諸子百家、仏教学などの師について学んでいます。

1652年赤穂藩主浅野長直に禄高一千石で仕えました。1660年(万治3)赤穂藩を致仕して江戸に帰りましたが。1665年(寛文5)幕府官学である朱子学の観念論化を批判して「聖教要録」を著し、原典復古主義と実践主義とを唱導。伊藤仁斎と並んで古学派の祖と称されます。

彼は、「専(もっぱ)ら見聞を博(ひろ)く勉強して学問するも、亦(また)思(し)その極(きょく)を得ざれば、則(すなわ)ちただ博く識(し)って取り用ふる所なし。」(多くを見聞きして知識を得るような勉強をしても、物事の究極をきわめなければ、博識であるだけで、実行に移すことはできないし、自分を救うこともできない。)と、単に知識のみの教育を批判したのです。

このため幕府に忌まれ、翌年再び赤穂藩に配流され、赤穂の浅野家に幽閉されてしまいました。もっとも幽閉とはいっても、赤穂浅野家では藩主以下が入門し、師として厚遇したと伝えられています。彼は、山鹿流の兵学を赤穂藩士に説いて、後の赤穂四十七士、大石良雄らに感化を与えました。(忠臣蔵討ち入りで大石内蔵助が叩いたのは山鹿流の陣太鼓です。)

1675年(延宝3)許されて江戸に帰り、山鹿流兵学の祖として武家主義の立場をとり、武士階級を擁護。『中朝事実』において独特の日本主義思想を展開しました。
素行によれば、学問は「天子より庶人に至るまで、一にこれ皆身を修むるをもって本となす」というもので。こうした前提から、学校が必要だと説き。「学校と云うは民人に道徳を教えて、その風俗を正すの所を定むる事也。学も校もともにおしうるの字心にて、則ち学校の名也。‥‥学校のもうけは、上代の聖主もっぱら是れをもって天下の治道第一とする也」と、学校は、単に「学問を教え、ものを読み習わせる所」ではなく、「道徳を教える」所であり、つまり、人間を作るものが、学校であると説いています。
松下村塾の吉田松陰は、叔父の養子としてではあったが長州藩山鹿流兵学師範吉田家を継いでいました。


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